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[[File:Bundesarchiv Bild 146III-373, Modell der Neugestaltung Berlins ("Germania").jpg|thumb|世界首都ゲルマニアの模型<BR><SUB>南の中央駅から北を望む。途中の門が凱旋門で、二本のメインストリート交差地点の北向かいにフォルクスハレが建つ。</SUB>]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 146III-373, Modell der Neugestaltung Berlins ("Germania").jpg|thumb|250px|right|世界首都ゲルマニアの模型<BR><SUB>南の中央駅から北を望む。途中の門が凱旋門で、二本のメインストリート交差地点の北向かいにフォルクスハレが建つ。</SUB>]] |
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[[File:Triumphbogen by Hitler.jpg|thumb|青年画家時代のヒトラーが1925年に描いた巨大凱旋門スケッチ画]] |
[[File:Triumphbogen by Hitler.jpg|thumb|250px|right|青年画家時代のヒトラーが1925年に描いた巨大凱旋門スケッチ画]] |
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'''世界首都ゲルマニア'''(せかいしゅとゲルマニア、{{lang-de|Welthauptstadt Germania}})とは、ドイツ首都[[ベルリン]]が広く国内外で「世界の首都」と讃えられるよう、[[アドルフ・ヒトラー]]がグランド・デザインを考え、建築家[[アルベルト・シュペーア]]が細部デザインを任された都市改造構想である。戦時下であっても土地収用や工事は並行して行われていた。 |
'''世界首都ゲルマニア'''(せかいしゅとゲルマニア、{{lang-de|Welthauptstadt Germania}})とは、ドイツ首都[[ベルリン]]が広く国内外で「世界の首都」と讃えられるよう、[[アドルフ・ヒトラー]]がグランド・デザインを考え、建築家[[アルベルト・シュペーア]]が細部デザインを任された都市改造構想である。戦時下であっても土地収用や工事は並行して行われていた。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-016-31, Albert Speer, Adolf Hitler, Architekt Ruff.jpg|thumb|ゲルマニア計画ジオラマを[[アルベルト・シュペーア]]と共に眺めて細部を見直す[[アドルフ・ヒトラー]]総統]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-016-31, Albert Speer, Adolf Hitler, Architekt Ruff.jpg|thumb|250px|right|ゲルマニア計画ジオラマを[[アルベルト・シュペーア]]と共に眺めて細部を見直す[[アドルフ・ヒトラー]]総統]] |
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小規模で設計・建造を進めながらも後に[[1933年]]に[[アルベルト・シュペーア]]が総合建設計画「ゲルマニア」({{lang|de|Germania}}) 計画として本格的に具体化設計・建設総指揮を担った[[ベルリン]]改造計画の名称。欧州有数の大都会ながら建築の面では地方的であり見劣りのしたベルリンを、[[ロンドン]]や[[パリ]]をしのぐ世界の首都にふさわしい外観と規模のものにしようとした大計画であった。シュペーアの回想録によれば[[独ソ戦]]開始時点のヒトラーの考えでは、[[1945年]]に戦争に勝利した後、[[1950年]]に世界首都ゲルマニアを完成させて自身は引退する予定であったと記述されている。肝心のドイツが敗戦した事もあり、完成を迎える事は無かった。 |
小規模で設計・建造を進めながらも後に[[1933年]]に[[アルベルト・シュペーア]]が総合建設計画「ゲルマニア」({{lang|de|Germania}}) 計画として本格的に具体化設計・建設総指揮を担った[[ベルリン]]改造計画の名称。欧州有数の大都会ながら建築の面では地方的であり見劣りのしたベルリンを、[[ロンドン]]や[[パリ]]をしのぐ世界の首都にふさわしい外観と規模のものにしようとした大計画であった。シュペーアの回想録によれば[[独ソ戦]]開始時点のヒトラーの考えでは、[[1945年]]に戦争に勝利した後、[[1950年]]に世界首都ゲルマニアを完成させて自身は引退する予定であったと記述されている。肝心のドイツが敗戦した事もあり、完成を迎える事は無かった。 |
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== 幻に終わった建造物 == |
== 幻に終わった建造物 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1986-029-02, "Germania", Modell "Große Halle".jpg|thumb|二本の大通りの交差地点北向かいに建つフォルクスハレ<BR><SUB>ヒトラー自身のデザインをもとにしている</SUB>]] |
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1986-029-02, "Germania", Modell "Große Halle".jpg|thumb|250px|right|二本の大通りの交差地点北向かいに建つフォルクスハレ<BR><SUB>ヒトラー自身のデザインをもとにしている</SUB>]] |
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;新南北縦貫メインストリートと飛行場 |
;新南北縦貫メインストリートと飛行場 |
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:それまでのベルリン南北縦貫メインストリートである[[フリードリヒ通り]]に取って代わり、道幅120m <ref group="注釈">参考:[[赤の広場|赤の広場(ロシア連邦モスクワ市)]]広場敷地幅130m、[[大通公園|大通公園(北海道札幌市)]]公園幅および両側道路幅105.45m、通称「[[100m道路]]」(「[[若宮大通]]」および「[[久屋大通]]」([[愛知県]][[名古屋市]])、「[[平和大通り]]」([[広島県]][[広島市]]))道幅100m、[[カール=マルクス=アレー|カール=マルクス=アレー(ドイツ・ベルリン(旧東ベルリン地区))]]道幅90m、[[柳町公園]](北海道[[釧路市]])公園幅および両側道路幅83m</ref>・南北5kmの道路とされた。後述するフォルクス・ハレより南方向に伸びるルートは、現:96号線道路にほぼ近く(但し、無数の細かい蛇行や、途中で接している[[ラントヴェーア運河]]沿いに添って一旦大きく東に迂回する事は無く、幾何学的なまでに直線状の道路として)、旧[[テンペルホーフ空港]]ターミナルビルまで続く。フォルクス・ハレ以北部分については、北方向ではなく北西方向に折れる形で伸び、長方形型の巨大人工池を間に挟む形で(反対側である南端に配置されるテンペルホーフ空港に匹敵する巨大規模の)空港ビルまで続く<ref>[http://www.flickr.com/photos/cyberenvironmentalism/5890851721/in/photostream/ ゲルマニア計画完成後のベルリンおよび現ベルリン比較地図]</ref>。両空港飛行場を取り巻くように環状道路が6本、放射状道路が17本作られる様になっていた。 |
:それまでのベルリン南北縦貫メインストリートである[[フリードリヒ通り]]に取って代わり、道幅120m <ref group="注釈">参考:[[赤の広場|赤の広場(ロシア連邦モスクワ市)]]広場敷地幅130m、[[大通公園|大通公園(北海道札幌市)]]公園幅および両側道路幅105.45m、通称「[[100m道路]]」(「[[若宮大通]]」および「[[久屋大通]]」([[愛知県]][[名古屋市]])、「[[平和大通り]]」([[広島県]][[広島市]]))道幅100m、[[カール=マルクス=アレー|カール=マルクス=アレー(ドイツ・ベルリン(旧東ベルリン地区))]]道幅90m、[[柳町公園]](北海道[[釧路市]])公園幅および両側道路幅83m</ref>・南北5kmの道路とされた。後述するフォルクス・ハレより南方向に伸びるルートは、現:96号線道路にほぼ近く(但し、無数の細かい蛇行や、途中で接している[[ラントヴェーア運河]]沿いに添って一旦大きく東に迂回する事は無く、幾何学的なまでに直線状の道路として)、旧[[テンペルホーフ空港]]ターミナルビルまで続く。フォルクス・ハレ以北部分については、北方向ではなく北西方向に折れる形で伸び、長方形型の巨大人工池を間に挟む形で(反対側である南端に配置されるテンペルホーフ空港に匹敵する巨大規模の)空港ビルまで続く<ref>[http://www.flickr.com/photos/cyberenvironmentalism/5890851721/in/photostream/ ゲルマニア計画完成後のベルリンおよび現ベルリン比較地図]</ref>。両空港飛行場を取り巻くように環状道路が6本、放射状道路が17本作られる様になっていた。 |
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;東西横断メインストリート |
;東西横断メインストリート |
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[[File:Siegessäule View4.JPG|thumb|ゲルマニア計画では東西横断メインストリートの西半分となる予定であった現在の[[6月17日通り]]。奥に東半分となる予定であった[[ウンター・デン・リンデン]]との境界であるブランデンブルク門が見える。]] |
[[File:Siegessäule View4.JPG|thumb|250px|right|ゲルマニア計画では東西横断メインストリートの西半分となる予定であった現在の[[6月17日通り]]。奥に東半分となる予定であった[[ウンター・デン・リンデン]]との境界であるブランデンブルク門が見える。]] |
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:旧来よりベルリンを東西1.4km・道幅60m <ref group="注釈">参考:[[シャンゼリゼ通り|シャンゼリゼ通り(フランス・パリ)]]道幅70m、[[ヴァーツラフ広場|ヴァーツラフ広場(チェコ・プラハ)]]広場敷地幅および両側道路幅70m、[[新京#大同大街|人民大街(旧「満州国新京市」時代の呼称は「大同大街」。中華人民共和国・吉林省・長春市)]]道幅54m、[[青葉通り|青葉通り(東半分)]]([[宮城県]][[仙台市]])道幅50m、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]道幅44m、[[御堂筋|御堂筋(大阪府大阪市)]]道幅43.6m</ref>に渡り横断していた(間に[[ブランデンブルク門]]を挟み、一直線に繋がっている)二本の東西メインストリート([[ウンター・デン・リンデン]]および([[ティーアガルテン]]公園中央を横切る)[[6月17日通り|シャルロッテンブルガー・ショセー]](現:6月17日通り))を一体化。現在、ティーアガルテン公園中央ロータリーにある[[戦勝記念塔 (ベルリン)|戦勝記念塔]]は、この整備計画の一環として、[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議会(現:国会議事堂)]]前広場より移転された。前述の新南北縦貫メインストリートとは、ブランデンブルク門西手前およびフォルクス・ハレ南手前付近で十字路に交差する。 |
:旧来よりベルリンを東西1.4km・道幅60m <ref group="注釈">参考:[[シャンゼリゼ通り|シャンゼリゼ通り(フランス・パリ)]]道幅70m、[[ヴァーツラフ広場|ヴァーツラフ広場(チェコ・プラハ)]]広場敷地幅および両側道路幅70m、[[新京#大同大街|人民大街(旧「満州国新京市」時代の呼称は「大同大街」。中華人民共和国・吉林省・長春市)]]道幅54m、[[青葉通り|青葉通り(東半分)]]([[宮城県]][[仙台市]])道幅50m、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]道幅44m、[[御堂筋|御堂筋(大阪府大阪市)]]道幅43.6m</ref>に渡り横断していた(間に[[ブランデンブルク門]]を挟み、一直線に繋がっている)二本の東西メインストリート([[ウンター・デン・リンデン]]および([[ティーアガルテン]]公園中央を横切る)[[6月17日通り|シャルロッテンブルガー・ショセー]](現:6月17日通り))を一体化。現在、ティーアガルテン公園中央ロータリーにある[[戦勝記念塔 (ベルリン)|戦勝記念塔]]は、この整備計画の一環として、[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議会(現:国会議事堂)]]前広場より移転された。前述の新南北縦貫メインストリートとは、ブランデンブルク門西手前およびフォルクス・ハレ南手前付近で十字路に交差する。 |
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;[[ベルリン中央駅 (世界首都ゲルマニア構想版)]] |
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;国家中枢区画 |
;国家中枢区画 |
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[[File:Größenvergleich Triumphbogen vs Berliner Schloss.jpg|thumb|サイズ比較:国家中枢区画「凱旋門」と(凱旋門風正面ホールのある)[[ベルリン王宮]]]] |
[[File:Größenvergleich Triumphbogen vs Berliner Schloss.jpg|thumb|250px|right|サイズ比較:国家中枢区画「凱旋門」と(凱旋門風正面ホールのある)[[ベルリン王宮]]]] |
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:都市の南の端には総統宮殿と大理石の巨大な[[凱旋門]]がそびえ立つ。新メインストリートは凱旋門から始まる。11の政庁ビルがあり、2万人収容の映画館、1,500のベッド数を持つ21階建てホテルがある。 |
:都市の南の端には総統宮殿と大理石の巨大な[[凱旋門]]がそびえ立つ。新メインストリートは凱旋門から始まる。11の政庁ビルがあり、2万人収容の映画館、1,500のベッド数を持つ21階建てホテルがある。 |
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;フォルクス・ハレ(別名「[[聖杯]]神殿」)([[:de:Große Halle]]) |
;フォルクス・ハレ(別名「[[聖杯]]神殿」)([[:de:Große Halle]]) |
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[[File:Größenvergleich Große Halle - Berliner Schloß (Nordseite).jpg|thumb|サイズ比較:フォルクス・ハレ「大ドーム」とベルリン王宮「大ホール」]] |
[[File:Größenvergleich Große Halle - Berliner Schloß (Nordseite).jpg|thumb|250px|right|サイズ比較:フォルクス・ハレ「大ドーム」とベルリン王宮「大ホール」]] |
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[[File:Berlin Spreepark UAV 04-2017 img5.jpg|thumb|right|戦後、東ドイツにより(フォルクス・ハレ建設予定地であった敷地に)建設・開園、東西ドイツ統一後に民営化するも経営破綻・閉園した旧クルトゥアパーク・プレンターヴァルト(2017年4月)]] |
[[File:Berlin Spreepark UAV 04-2017 img5.jpg|thumb|250px|right|戦後、東ドイツにより(フォルクス・ハレ建設予定地であった敷地に)建設・開園、東西ドイツ統一後に民営化するも経営破綻・閉園した旧クルトゥアパーク・プレンターヴァルト(2017年4月)]] |
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:新南北縦貫メインストリートの端([[シュプレー川]]に[[ノルトハーフェン川]]がT字状に繋がる地点および現:[[シュプレーボーゲン公園]]敷地地点)にはドーム型集会ホール「フォルクス・ハレ(邦訳:国民会議場)」が威容を誇る。1,200人の議席がある国会議事堂(当時の国会は議員席は580席で足りるが、ドイツとは異なる国籍を持ちドイツ国外に居住しているゲルマン系諸民族代表議員達も参加する事を展望していた)なども予定されていた。 |
:新南北縦貫メインストリートの端([[シュプレー川]]に[[ノルトハーフェン川]]がT字状に繋がる地点および現:[[シュプレーボーゲン公園]]敷地地点)にはドーム型集会ホール「フォルクス・ハレ(邦訳:国民会議場)」が威容を誇る。1,200人の議席がある国会議事堂(当時の国会は議員席は580席で足りるが、ドイツとは異なる国籍を持ちドイツ国外に居住しているゲルマン系諸民族代表議員達も参加する事を展望していた)なども予定されていた。 |
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:;クルトゥアパーク・プレンターヴァルト |
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* ヘルマン・ゲーリング街 - 現在の[[ゲルトルート・コルマー街]]。 |
* ヘルマン・ゲーリング街 - 現在の[[ゲルトルート・コルマー街]]。 |
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* [[戦勝記念塔 (ベルリン)|戦勝記念塔]] - [[国会議事堂 (ドイツ)|国会議事堂]]前の広場から[[ティーアガルテン]]中央部へ移転。 |
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[[File:Berlin Tiergarten Siegessaeule.jpg|thumb|right|[[戦勝記念塔 (ベルリン)]]]] |
[[File:Berlin Tiergarten Siegessaeule.jpg|thumb|250px|right|[[戦勝記念塔 (ベルリン)]]]] |
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*[[在ドイツ日本国大使館|在ドイツ日本大使館]]([[1942年]]完成) - 戦後は[[西ドイツ]]の[[首都]]が[[ボン]]になったこともあり、長い間使用されずに放置されていた。[[1985年]]より壁面保存の形で修復されて[[ベルリン日独センター]]として使用後、首都機能のベルリンへの復帰に伴い、再度増改築の上で[[2001年]]より再び日本大使館として使用されている。 |
*[[在ドイツ日本国大使館|在ドイツ日本大使館]]([[1942年]]完成) - 戦後は[[西ドイツ]]の[[首都]]が[[ボン]]になったこともあり、長い間使用されずに放置されていた。[[1985年]]より壁面保存の形で修復されて[[ベルリン日独センター]]として使用後、首都機能のベルリンへの復帰に伴い、再度増改築の上で[[2001年]]より再び日本大使館として使用されている。 |
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* 旧[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港]] - 本館ターミナル部分はゲルマニア計画に基づき設計・建築され、戦後から[[2008年]][[10月31日]]の閉鎖までそのまま活用された。 |
* 旧[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港]] - 本館ターミナル部分はゲルマニア計画に基づき設計・建築され、戦後から[[2008年]][[10月31日]]の閉鎖までそのまま活用された。 |
2020年6月28日 (日) 10:03時点における版
世界首都ゲルマニア(せかいしゅとゲルマニア、ドイツ語: Welthauptstadt Germania)とは、ドイツ首都ベルリンが広く国内外で「世界の首都」と讃えられるよう、アドルフ・ヒトラーがグランド・デザインを考え、建築家アルベルト・シュペーアが細部デザインを任された都市改造構想である。戦時下であっても土地収用や工事は並行して行われていた。
概要
小規模で設計・建造を進めながらも後に1933年にアルベルト・シュペーアが総合建設計画「ゲルマニア」(Germania) 計画として本格的に具体化設計・建設総指揮を担ったベルリン改造計画の名称。欧州有数の大都会ながら建築の面では地方的であり見劣りのしたベルリンを、ロンドンやパリをしのぐ世界の首都にふさわしい外観と規模のものにしようとした大計画であった。シュペーアの回想録によれば独ソ戦開始時点のヒトラーの考えでは、1945年に戦争に勝利した後、1950年に世界首都ゲルマニアを完成させて自身は引退する予定であったと記述されている。肝心のドイツが敗戦した事もあり、完成を迎える事は無かった。
建設予算
計画初年である1939年より完成予定年である1950年までの11年間にて、年に国家予算の約4%にあたる5億マルク(即ち総額55億マルク)を拠出・資金投入する見積もりが立てられていたとされる[1]。
膨大な支出に対する批判について、ベルリン市関係者に対しては既存首都再開発案とは別案(メクレンブルク遷都計画案)の存在も示唆して牽制を行なったり、或いは部分的に別名目化可能な工事には個別の財源から支出させる(例えばベルリン鉄道網再編成に関する工事はドイツ帝国鉄道予算から、交通整備に関する工事はベルリン市予算から)事で国家財源支出負担額を減らす等、問題化を避ける方策を実行している。フリードリヒ通りに取って代わる新たな南北縦貫メインストリートについても建設予定地の大半は比較的地価が低く、沿道に社屋建設を望んでいた企業からも支持された[1]。
それでも閣内不一致覚悟で反対の姿勢を崩さないルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク蔵相に対しては、「大蔵大臣には、この建築が(将来のドイツ)国家にとってどんなに凄い(観光収入)財源になるか分からないのだ。ルートヴィヒ2世はどうだ。城(ノイシュヴァンシュタイン城)の建設費で常識はずれの浪費家と言われた(詳細は「ルートヴィヒ2世の精神病について」参照の事)が、外国人の大部分はそれがあるからバヴァリア(バイエルン州)に来るではないか」とヒトラーが反論し、一蹴されている[1]。
幻に終わった建造物
- 新南北縦貫メインストリートと飛行場
- それまでのベルリン南北縦貫メインストリートであるフリードリヒ通りに取って代わり、道幅120m [注釈 1]・南北5kmの道路とされた。後述するフォルクス・ハレより南方向に伸びるルートは、現:96号線道路にほぼ近く(但し、無数の細かい蛇行や、途中で接しているラントヴェーア運河沿いに添って一旦大きく東に迂回する事は無く、幾何学的なまでに直線状の道路として)、旧テンペルホーフ空港ターミナルビルまで続く。フォルクス・ハレ以北部分については、北方向ではなく北西方向に折れる形で伸び、長方形型の巨大人工池を間に挟む形で(反対側である南端に配置されるテンペルホーフ空港に匹敵する巨大規模の)空港ビルまで続く[2]。両空港飛行場を取り巻くように環状道路が6本、放射状道路が17本作られる様になっていた。
- 東西横断メインストリート
- 旧来よりベルリンを東西1.4km・道幅60m [注釈 2]に渡り横断していた(間にブランデンブルク門を挟み、一直線に繋がっている)二本の東西メインストリート(ウンター・デン・リンデンおよび(ティーアガルテン公園中央を横切る)シャルロッテンブルガー・ショセー(現:6月17日通り))を一体化。現在、ティーアガルテン公園中央ロータリーにある戦勝記念塔は、この整備計画の一環として、帝国議会(現:国会議事堂)前広場より移転された。前述の新南北縦貫メインストリートとは、ブランデンブルク門西手前およびフォルクス・ハレ南手前付近で十字路に交差する。
- ベルリン中央駅 (世界首都ゲルマニア構想版)
- 新南北縦貫メインストリートの出発点。後述している「ベルリン・テンペルホーフ国際空港」本館ターミナル建物の北方向向かいに立地(東西ドイツ統合後に造られた現ベルリン中央駅、および旧東ドイツ末期に「ベルリン中央駅」を名乗っていたベルリン東駅とは、立地場所など全く異なる)。プラットホームは上下4層あり、エレベーターとエスカレータで行き来可能とした。
- 国家中枢区画
- 都市の南の端には総統宮殿と大理石の巨大な凱旋門がそびえ立つ。新メインストリートは凱旋門から始まる。11の政庁ビルがあり、2万人収容の映画館、1,500のベッド数を持つ21階建てホテルがある。
- フォルクス・ハレ(別名「聖杯神殿」)(de:Große Halle)
- 新南北縦貫メインストリートの端(シュプレー川にノルトハーフェン川がT字状に繋がる地点および現:シュプレーボーゲン公園敷地地点)にはドーム型集会ホール「フォルクス・ハレ(邦訳:国民会議場)」が威容を誇る。1,200人の議席がある国会議事堂(当時の国会は議員席は580席で足りるが、ドイツとは異なる国籍を持ちドイツ国外に居住しているゲルマン系諸民族代表議員達も参加する事を展望していた)なども予定されていた。
完成部分
現存する建物(現在、閉鎖中の建物も含む)
- ベルリン・オリンピアシュタディオン(1936年完成)
- 航空省庁舎(de:Detlev-Rohwedder-Haus) - 途中から、ゲルマニア計画の一部に組み込まれる。現在は、連邦財務省ビル。
- 国民啓蒙・宣伝省庁舎 - 戦後は東ドイツ政府庁舎を経て、現在は連邦労働社会省が入居。
- ライヒスバンクビル - 東ドイツ時代は支配政党の社会主義統一党本部。現在は外務省の一部庁舎。
- ヘルマン・ゲーリング街 - 現在のゲルトルート・コルマー街。
- 戦勝記念塔 - 国会議事堂前の広場からティーアガルテン中央部へ移転。
- 在ドイツ日本大使館(1942年完成) - 戦後は西ドイツの首都がボンになったこともあり、長い間使用されずに放置されていた。1985年より壁面保存の形で修復されてベルリン日独センターとして使用後、首都機能のベルリンへの復帰に伴い、再度増改築の上で2001年より再び日本大使館として使用されている。
- 旧ベルリン・テンペルホーフ国際空港 - 本館ターミナル部分はゲルマニア計画に基づき設計・建築され、戦後から2008年10月31日の閉鎖までそのまま活用された。
- 在ドイツイタリア大使館(1930年完成) - 1943年に閉鎖された後に長らく放置されていたが、修復を加えて2003年に再開。
- フェーアベリナー広場周辺のビル - オフィスビルに活用。
-
ベルリン・オリンピアシュタディオン
-
ドイツ航空省庁舎
-
ライヒスバンク
-
旧ベルリン・テンペルホーフ国際空港
-
フェーアベリナー広場近くのビル
現存しない建物
ゲルマニアを扱った作品
- 小説・映画『ファーザーランド』 - 原作:ロバート・ハリス、映画作品名は『ファーザーランド~生きていたヒトラー~』(1994年)。ナチス関連の記録ドキュメンタリーや伝記作品の映像中で、縮尺ジオラマ模型のゲルマニアを眺めるヒトラーの様子が数多く登場しているが、本作ではドイツが第二次世界大戦で勝利した後の並行世界(1960年代後半)が舞台である為、特撮技術「マットペインティング」を駆使してそこに実在する実物都市としてのゲルマニアの景観を随所で映像化している。
- 小説『ヒトラーの建築家』 - 原作:東秀紀、NHK出版。
- ドキュメンタリー『失われた世界の謎』シリーズ 第6回『ヒトラーの巨大都市』(ヒストリーチャンネル)
- ドキュメンタリー『ナチスの素顔』シリーズ 第4回『ヒトラーの建築家』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
- ドキュメンタリー『ヒトラー完全ガイド』シリーズ 第6回『破滅へのカウントダウン』(ディスカバリーチャンネル)
- 漫画『月の海のるあ』 - 原作:野上武志、少年画報社。本作では全世界の1/3を統治する大ドイツ帝国の首都として登場する。ただし総統はヒトラーではなく、SSやナチズムも排斥されている模様。
- 映画『アドルフの画集』 - 若かりし日の画家ヒトラーが、持ち歩いてるスケッチブックに夢想した都市風景・建造物(フォルクスハレの原型など)を描き溜め、友人になっていた富豪ユダヤ人画商に才能を認められる描写が登場する。
- ドキュメンタリー・ネット動画『世界ゆっくり紀行』シリーズ 『世界首都ゲルマニア - YouTube』 ※ 2019年秋季頃より公開停止中。
- ネット動画『【ゆっくり解説】アルベルト・シュペーア - YouTube』(2019年3月19日、作:アルノ)
- ネット動画『ゆめラジオ』シリーズ 第1581回『世界首都ゲルマニア - YouTube』(2019年3月20日、作:ゆめラジオ)
- ネット動画『ヒトラーの夢、世界首都ゲルマニア - ニコニコ動画 』(作:Europa)
- ネット動画『Welthauptstadt Germania - YouTube』(2011年8月11日、作:DrGull1888)
- ネット動画『Germania - Hitlers Neubaupläne für Berlin - YouTube』(2015年10月25日、作:Panorama-b Sightseeing Berlin)
関連項目
- ベルリンの歴史
- アルベルト・シュペーア - ゲルマニア計画の細部デザイン、および建設実行の責任者でもあったヒトラー政権末期の軍需相・新古典主義建築家。
- ミース・ファン・デル・ローエ - ナチスから嫌われたバウハウス出身でありながら、デザイン担当候補に最後まで加えられていた。
- ブライトシュプールバーン - ナチスドイツ版高速鉄道構想。幅6m、15両編成の二階建て巨大列車が下記3路線を時速250kmで運行。
- リンツ計画構想 - 建築家ヘルマン・ギースラー(de:Hermann Giesler)が設計を担当していた。
- プローラ - ナチスがバルト海に面したリューゲン島に建設した歓喜力行団海水浴場保養所施設(長さ4.5km)。一棟500mの長さのビル8棟全てが一直線に内部で連結されており、20,000人の労働者が休暇を過ごすために計画されていた。
- アルベルト・シュペーア・ジュニア - シュペーアの長男で建築家。2008年北京オリンピックのマスタープランを担当した際に父親の世界首都ゲルマニア計画との類似性からドイツ国内外で物議を醸した[6][7]。
脚注
注釈
- ^ 参考:赤の広場(ロシア連邦モスクワ市)広場敷地幅130m、大通公園(北海道札幌市)公園幅および両側道路幅105.45m、通称「100m道路」(「若宮大通」および「久屋大通」(愛知県名古屋市)、「平和大通り」(広島県広島市))道幅100m、カール=マルクス=アレー(ドイツ・ベルリン(旧東ベルリン地区))道幅90m、柳町公園(北海道釧路市)公園幅および両側道路幅83m
- ^ 参考:シャンゼリゼ通り(フランス・パリ)道幅70m、ヴァーツラフ広場(チェコ・プラハ)広場敷地幅および両側道路幅70m、人民大街(旧「満州国新京市」時代の呼称は「大同大街」。中華人民共和国・吉林省・長春市)道幅54m、青葉通り(東半分)(宮城県仙台市)道幅50m、昭和通り道幅44m、御堂筋(大阪府大阪市)道幅43.6m
出典
- ^ a b c 『ナチスの発明 知られざるナチスの真実 -特別編集版-』内『第4章 夢の残骸』内『1 世界首都ゲルマニア構想』内『◆莫大な予算』(著:武田知弘、彩図社 ISBN 978-4-88392-633-6)参考。
- ^ ゲルマニア計画完成後のベルリンおよび現ベルリン比較地図
- ^ “解説HP1”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “解説HP2”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “解説HP3”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “Olympic hubris”. ガーディアン. (2007年8月13日) 2018年7月29日閲覧。
- ^ “The House of Speer: Still Rising on the Skyline”. ニューヨーク・タイムズ. (2003年2月7日) 2018年7月29日閲覧。