「観賢」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
「高野山に宝亀院を建立するなどし」の文章を追加。
2行目: 2行目:


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[貞観 (日本)|貞観]]14年([[872年]])[[真雅]]について[[出家]]・受戒し、[[聖宝]]より[[三論宗|三論]]・[[真言密教]]の教学を学んで、[[寛平]]7年([[895年]])に[[灌頂]]を受けた。[[昌泰]]3年([[900年]])に[[仁和寺]][[別当]]となり、その後は[[川原寺|弘福寺]]別当・権律師・[[東寺]]長者・[[醍醐寺]]座主・[[金剛峯寺]]検校を歴任し、延長元年([[923年]])には権僧正に任じられた。この間、[[般若寺]]を創建し、また奏請して[[空海]]に'''弘法大師'''の号を賜ったほか、空海が[[唐]]から請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めて以後代々の真言宗[[長者]]の相承とするなど、東寺を中心として真言宗の再編を行った。
[[貞観 (日本)|貞観]]14年([[872年]])[[真雅]]について[[出家]]・受戒し、[[聖宝]]より[[三論宗|三論]]・[[真言密教]]の教学を学んで、[[寛平]]7年([[895年]])に[[灌頂]]を受けた。[[昌泰]]3年([[900年]])に[[仁和寺]][[別当]]となり、その後は[[川原寺|弘福寺]]別当・権律師・[[東寺]]長者・[[醍醐寺]]座主・[[金剛峯寺]]検校を歴任し、延長元年([[923年]])には権僧正に任じられた。この間、[[般若寺]]を創建し、また奏請して[[空海]]に'''弘法大師'''の号を賜ったほか、[[高野山]]に[[宝亀院]]を建立するなどし、空海が[[唐]]から請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めて以後代々の真言宗[[長者]]の相承とするなど、東寺を中心として真言宗の再編を行った。


{{reli-bio-stub}}
{{reli-bio-stub}}

2017年10月5日 (木) 16:13時点における版

観賢(かんげん、斉衡元年(854年)- 延長3年6月11日925年7月4日))は、平安時代中期の真言宗。俗姓は秦氏とも伴氏ともされ、出自については不詳である。讃岐国の出身。般若寺僧正とも称される。

略歴

貞観14年(872年真雅について出家・受戒し、聖宝より三論真言密教の教学を学んで、寛平7年(895年)に灌頂を受けた。昌泰3年(900年)に仁和寺別当となり、その後は弘福寺別当・権律師・東寺長者・醍醐寺座主・金剛峯寺検校を歴任し、延長元年(923年)には権僧正に任じられた。この間、般若寺を創建し、また奏請して空海弘法大師の号を賜ったほか、高野山宝亀院を建立するなどし、空海がから請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めて以後代々の真言宗長者の相承とするなど、東寺を中心として真言宗の再編を行った。