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2015年7月9日 (木) 07:52時点における版
江梨鈴木氏 | |
---|---|
(家紋) | |
本姓 | 穂積姓藤白鈴木氏支流 |
家祖 | 鈴木繁伴 |
種別 | 武家 |
出身地 | 伊豆国田方郡江梨村 |
主な根拠地 |
伊豆国田方郡江梨村 伊豆国賀茂郡稲取村 陸奥国糠部郡葛巻村 |
著名な人物 |
鈴木繁伴 鈴木繁宗 鈴木繁朝 鈴木繁定 鈴木繁氏 |
支流、分家 | 小屋瀬鈴木家(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
江梨鈴木氏(えなしすずきし)は、日本の武家のひとつ。伊豆鈴木氏とも。本姓は穂積氏。家系は穂積氏の流れを汲む名門・藤白鈴木氏の支流の一族[1]。伊豆国に下向した鈴木繁伴を初代とし、足利氏満に招かれて伊豆・相模国の船大将を務めた。後に後北条氏に属して伊豆の江梨五ヶ村を支配した。通字は「繁(しげ)」。
概要
江梨鈴木氏は、藤白鈴木氏当主・鈴木重実の長男である鈴木繁伴(初め重伴。兵庫助、左京大夫)を初代とし、伊豆国を本拠としたため伊豆鈴木氏とも呼ばれた。藤白鈴木氏は、日本書紀・古事記にも記される穂積氏を本姓とし、藤白神社の社家として続いた名門。平安時代後期の藤白鈴木氏当主で、源義経に最期まで従い衣川館で奮戦した武将・鈴木重家の後裔が鈴木繁伴である。
鎌倉~室町時代
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗を挙げたとき、繁伴は鎌倉幕府14代執権の北条高時の命により熊野に来た護良親王と戦ったが、鎌倉幕府は倒れて窮地に陥り、建武3年、家臣ら30余名を率いて海路で伊豆国に下向し、大瀬崎から上陸して田方郡江梨村に立てこもった。その後、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、本拠の紀伊国藤白に戻った[2]。
しかし観応2年(1351年)、繁伴は足利尊氏と弟の足利直義が争った薩埵峠の戦いで直義派について敗れ、再び伊豆江梨村に逃れて以降、この地に定住し江梨鈴木氏の初代となった。また、繁伴は江梨の大瀬神社で祭祀にいそしんだとされる。繁伴の郎党には、四天王と称された渡邉氏、加藤氏、武氏、秋津氏という豪の者のほか、木島法印(河野氏後裔)という山伏などがいた。
繁伴は元々「鈴木重伴」と名乗っていたが、伊豆江梨に下ると「繁」の字を用いて繁伴と名乗り、藤白鈴木氏の当主は弟の重恒が継いだ。
繁伴はその後鎌倉公方の足利基氏に帰属し、関東管領の上杉憲顕から江梨村の領有権を認められた。『伊豆勝覧』によると、貞治6年(1367年)には足利氏満に招かれて、伊豆・相模国の船大将を命じられ、東国における室町幕府水軍の総大将となった。繁伴は後に足利氏満から鎌倉に呼ばれ、配下の木島氏と追儺の式を行った。また、鎌倉公方に招かれて伊豆江梨村に下ったのは繁伴の子・重行の代とも云われる。
江梨鈴木氏は後に江梨村のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた江梨五ヶ村を支配するようになり、北伊豆随一の有力武門へと成長していった。
菩提寺の航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の三世とされる鈴木繁郷(杉本左京大夫)の開創と伝えられる。
戦国時代
明応2年(1493年)、伊豆に北条早雲が侵攻してくると、当主の鈴木繁宗(兵庫助)は堀越公方から離れていち早く馳せ参じ、堀越公方足利茶々丸攻めに参加した。その後は後北条氏配下の伊豆水軍(北条水軍)を率いる武将のひとりとして、伊豆衆21家のひとつに数えられた。また、江梨鈴木文書に「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」とあり、早雲の伊豆討ち入り前後の忠節により江梨郷が不入の特権を得ている。
鈴木繁宗の次男・鈴木繁時は同じ伊豆国内の賀茂郡稲取村へ移住し、伊豆水軍に加わったとされ、繁時-繁則-元繁-方繁と続いた。
『江梨航浦院開基鈴木氏歴世法名録』によると、明応7年(1498年)に発生した明応地震の際、江梨村にも津波が押し寄せて多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝は家屋とともに流されたと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
鈴木繁朝(兵庫助)は、天文24年(1555年)の第二次川中島の戦いに武田方として参戦しており、武田信玄から感状を賜っている。
小田原衆所領役帳によると、鈴木繁朝が河越衆として江梨村に100貫文の所領を与えられていた。また、鈴木繁定は北条氏政から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど駿河湾沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており、その後も後北条氏の重臣として江梨城(鈴木氏館)を本拠に続いた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏を攻めた小田原征伐で、江梨鈴木氏は後北条氏に従って戦ったが敗退。その後、後北条氏が滅ぶと江梨鈴木氏は北条氏と運命を共にした。江梨城主・鈴木繁脩の弟である鈴木繁氏は陸奥国糠部郡葛巻村小屋瀬(現・岩手県岩手郡葛巻町小屋瀬)に落ち着き、小屋瀬鈴木家の祖となった[3]。
静岡県沼津市西浦江梨には、江梨鈴木氏歴代の居館(居城)跡・鈴木氏館がある。
歴代当主
系譜
- 太字は当主、実線は実子、点線は養子。
鈴木重実 | |||||||||||||||||||
[江梨鈴木氏] 繁伴1 | 重恒 | ||||||||||||||||||
重行2 | 藤白鈴木氏嫡流 | ||||||||||||||||||
重家3 | |||||||||||||||||||
(三代略) | |||||||||||||||||||
繁允7 | |||||||||||||||||||
(一代略) | |||||||||||||||||||
繁郷9 | |||||||||||||||||||
繁用10 | |||||||||||||||||||
繁宗11 | |||||||||||||||||||
繁朝12 | 繁時 | 娘 | |||||||||||||||||
繁定13 | 繁則 | ||||||||||||||||||
繁顕14 | 元繁 | ||||||||||||||||||
繁輔15 | 方繁 | ||||||||||||||||||
繁義16 | |||||||||||||||||||
繁康17 | 繁持 | ||||||||||||||||||
脚注
参考文献
- 静岡県姓氏家系大辞典(静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会∥編著)
- 小和田哲男『後北条氏研究』1983年。
- 江梨鈴木氏由緒書(沼津市立駿河図書館、1980)
- 葛巻町誌一巻(葛巻町誌編纂委員会)
- 紫波六山会編著 『鈴木佐太郎家と蒲田家の家譜』2015年。
- 河岡武春『海の民‐漁村の歴史と民俗』1987年。
- 永岡治『伊豆水軍物語』1982年。
- 藤岡一雄『くずまき歴史散歩』。