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'''久我 通言'''(こが みちのぶ、[[長享]]元年([[1487年]]) - [[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])2月)は、[[室町時代]]後期の[[公卿]]。戦乱期の[[後土御門天皇]](103代)・[[後柏原天皇]](104代)・[[後奈良天皇]](105代)の三帝にわたり仕え、官位は[[従一位]][[右大臣]]まで昇る。道号は柏仲。父は右大臣[[久我豊通]]。妻は[[徳大寺実淳]]の娘。子に[[権大納言]][[久我邦通]]、[[徳大寺公維]]、[[西園寺実宣]]室。養権大納言[[久我晴通]][[近衛家]]より)、養女に慶[[近衛稙家]]政所)。
'''久我 通言'''(こが みちのぶ、[[長享]]元年([[1487年]]) - [[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])2月)は、[[室町時代]]後期の[[公卿]]。戦乱期の[[後土御門天皇]](103代)・[[後柏原天皇]](104代)・[[後奈良天皇]](105代)の三帝にわたり仕え、官位は[[従一位]][[右大臣]]まで昇る。道号は柏仲。父は右大臣[[久我豊通]](とよみち)。妻は[[徳大寺実淳]]の娘。子に[[権大納言]][[久我邦通]]、[[徳大寺公維]]、[[西園寺実宣]]室。養慶子([[細川高基]]の娘、[[近衛家]]政所)、養子に権大納言[[久我晴通]](近衛稙家の実弟がいる


長享3年([[1489年]])叙爵して以降累進して、[[侍従]]・左近衛少将・左近衛中将を経て、[[文亀]]2年([[1502年]])[[従三位]]となり[[公卿]]に列する。[[永正]]3年([[1506年]])権[[中納言]]となる。永正11年([[1514年]])に権大納言となる。[[大永]]元年([[1521年]])右近衛大将となる。大永3年([[1523年]])[[内大臣]]に任じられる。大永4年([[1524年]])右近衛大将を辞職。[[享禄]]元年([[1528年]])[[右大臣]]となる。天文4年([[1535年]])[[従一位]]となる。翌年に父豊通が没し、悲観して50歳にして出家して[[朝廷]]を去った。
長享3年([[1489年]])叙爵して以降累進して、[[侍従]]・左近衛少将・左近衛中将を経て、[[文亀]]2年([[1502年]])[[従三位]]となり[[公卿]]に列する。[[永正]]3年([[1506年]])権[[中納言]]となる。永正11年([[1514年]])に権大納言となる。[[大永]]元年([[1521年]])右近衛大将となる。大永3年([[1523年]])[[内大臣]]に任じられる。大永4年([[1524年]])右近衛大将を辞職。[[享禄]]元年([[1528年]])[[右大臣]]となる。天文4年([[1535年]])[[従一位]]となる。翌年に父豊通が没し、悲観して50歳にして出家して[[朝廷]]を去った。


子の邦通が若くして薨去したあとには[[近衛家]]から晴通を[[養子]]として迎え、跡を継がせている。
子の邦通が若くして薨去したあとには[[近衛家]]から[[久我晴通|晴通]]を[[養子]]として迎え、跡を継がせている。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2013年10月11日 (金) 15:03時点における版

久我 通言(こが みちのぶ、長享元年(1487年) - 天文12年(1543年)2月)は、室町時代後期の公卿。戦乱期の後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。道号は柏仲。父は右大臣久我豊通(とよみち)。妻は徳大寺実淳の娘。子に権大納言久我邦通徳大寺公維西園寺実宣室。養女に慶子(細川高基の娘、近衛稙家政所)、養子に権大納言久我晴通(近衛稙家の実弟)がいる。

長享3年(1489年)叙爵して以降累進して、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、文亀2年(1502年従三位となり公卿に列する。永正3年(1506年)権中納言となる。永正11年(1514年)に権大納言となる。大永元年(1521年)右近衛大将となる。大永3年(1523年内大臣に任じられる。大永4年(1524年)右近衛大将を辞職。享禄元年(1528年右大臣となる。天文4年(1535年従一位となる。翌年に父豊通が没し、悲観して50歳にして出家して朝廷を去った。

子の邦通が若くして薨去したあとには近衛家から晴通養子として迎え、跡を継がせている。

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