「黄不動」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Foldingfan (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{密教}} |
{{密教}} |
||
'''黄不動'''(きふどう)は、[[滋賀県]][[大津市]]の[[園城寺]]、通称三井寺に[[秘仏]]として伝わる、全身が黄色の不動明王立像の[[仏画]]である。[[平安時代]] |
'''黄不動'''(きふどう)は、[[滋賀県]][[大津市]]の[[園城寺]]、通称三井寺に[[秘仏]]として伝わる、全身が黄色の[[不動明王]]立像の[[仏画]]である。[[平安時代]]初期9世紀の作で、[[国宝]]に指定されている。[[円珍]]が感得した像を描いたものとされる。'''三不動'''の一であり、別名、'''金色不動明王'''。 |
||
京都・[[曼殊院#国宝|曼殊院]]等に伝わる多くの模写像は、磐座上に立つが、本像は、円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている。また、背景も虚空の状景を表すため、何も描かれていない。 |
京都・[[曼殊院#国宝|曼殊院]]等に伝わる多くの模写像は、磐座上に立つが、本像は、円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている。また、背景も虚空の状景を表すため、何も描かれていない。不動明王を単独で描いた仏画としては現存最古の遺品である。天台宗[[寺門派]]最高の厳儀とされる[[伝法灌頂]]の受者しか拝することが許されない秘仏とされる。 |
||
円珍は、[[比叡山]]や渡[[唐]]上でこの黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされと種々の伝承に伝わるが、その根幹になったのは、円珍没して11年後の[[延喜]]2年([[902年]])[[文章博士]][[三善清行]]が撰述した『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』にある一文である。[[承和]]5年([[838年]])冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている答えた。その姿は「魁偉奇妙」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画稿に銘じて写させたという。この伝承通り承和5年頃の制作と見られていたが、同じ図様は[[空海]]が請来した図像に既に見られ、細部は円珍請来本の中で初めて見られることから、円珍が帰朝した後描かれたとする説が有力である。 |
|||
円珍は、[[比叡山]]や渡[[唐]]上で、この黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされる。 |
|||
本像はその聖性や神秘性から、後世しばしば模作された。現在、絵画作品がおよそ20件、彫刻は6件ほど知られている。 |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[円珍]] |
|||
* [[園城寺]] |
|||
== 参考資料 == |
|||
* [[大阪市立美術館]] [[サントリー美術館]] [[福岡市博物館]]など編集 『<small>智証大師帰朝1150年 特別展</small> 国宝 三井寺展』図録、NHK大阪放送局 NHKプラネット近畿 毎日新聞社発行、2008年 |
|||
{{DEFAULTSORT:きふとう}} |
{{DEFAULTSORT:きふとう}} |
2011年12月26日 (月) 07:18時点における版
密教 [このテンプレートは廃止されています] |
---|
仏教 |
金剛乗仏教 |
時代・地域 |
初期 中期 後期 インド チベット 中国 日本 |
主な宗派(日本) |
東密 ※は、「真言宗各山会」加入 - 古義真言宗系 - ※高野山真言宗 ※東寺真言宗 ※真言宗善通寺派 ※真言宗醍醐派 ※真言宗御室派 ※真言宗大覚寺派 ※真言宗泉涌寺派 ※真言宗山階派 ※信貴山真言宗 ※真言宗中山寺派 ※真言三宝宗 ※真言宗須磨寺派 真言宗東寺派 - 新義真言宗系 - ※真言宗智山派 ※真言宗豊山派 ※新義真言宗 真言宗室生寺派 - 真言律 - ※真言律宗 台密 (〈日本〉天台宗) |
信仰対象 |
如来 菩薩 明王 天 |
経典 |
大日経 金剛頂経 蘇悉地経 理趣経 |
思想 基本教義 |
即身成仏 三密 入我我入 曼荼羅 護摩 東密 古義(広沢流 小野流) 新義 |
関連人物 |
東密 金剛薩埵 龍樹 龍智 金剛智 不空 恵果 空海 真言律 叡尊 忍性 信空 台密 最澄 順暁 円仁 円珍 |
ウィキポータル 仏教 |
黄不動(きふどう)は、滋賀県大津市の園城寺、通称三井寺に秘仏として伝わる、全身が黄色の不動明王立像の仏画である。平安時代初期9世紀の作で、国宝に指定されている。円珍が感得した像を描いたものとされる。三不動の一であり、別名、金色不動明王。
京都・曼殊院等に伝わる多くの模写像は、磐座上に立つが、本像は、円珍が実際に感得した際のさまを表現しているため、虚空上に立つ姿を本紙いっぱいに描いている。また、背景も虚空の状景を表すため、何も描かれていない。不動明王を単独で描いた仏画としては現存最古の遺品である。天台宗寺門派最高の厳儀とされる伝法灌頂の受者しか拝することが許されない秘仏とされる。
円珍は、比叡山や渡唐上でこの黄不動に再三感得し、身の危険を救われたとされと種々の伝承に伝わるが、その根幹になったのは、円珍没して11年後の延喜2年(902年)文章博士三善清行が撰述した『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』にある一文である。承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っている答えた。その姿は「魁偉奇妙」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画稿に銘じて写させたという。この伝承通り承和5年頃の制作と見られていたが、同じ図様は空海が請来した図像に既に見られ、細部は円珍請来本の中で初めて見られることから、円珍が帰朝した後描かれたとする説が有力である。
本像はその聖性や神秘性から、後世しばしば模作された。現在、絵画作品がおよそ20件、彫刻は6件ほど知られている。