「伊達稙宗」の版間の差分
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{{基礎情報 武士 |
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| 氏名 = 伊達稙宗 |
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| 霊名 = |
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| 官位 = [[従四位下]]、[[左京大夫]] |
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| 父母 = 父:[[伊達尚宗]]、母:[[積翠院]]<ref>[[仙台藩]]の史料では定実を積翠院の父とするが、年代的には全く整合性がとれないため、実際には、積翠院は定実の実姉(15歳以上年長か)と考えられている。(長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」『地方史研究』254、1994)</ref>([[上杉房実]]の娘) |
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| 兄弟 = '''稙宗'''、[[留守景宗]]、女子([[最上義定]]室) |
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| 妻 = 正室:[[泰心院]]([[蘆名盛高]]の娘)<br />[[側室]]:[[中条定資]]の娘、[[亘理宗隆]]の娘、ほか |
| 妻 = 正室:[[泰心院]]([[蘆名盛高]]の娘)<br />[[側室]]:[[中条定資]]の娘、[[亘理宗隆]]の娘、ほか |
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| 子 = '''[[伊達晴宗|晴宗]]'''、[[大崎義宣]]、[[伊達実元|実元]]、玄蕃丸、[[伊達宗澄|宗澄]]、[[桑折宗貞]]、[[葛西晴清]]、[[梁川宗清]]、[[村田宗殖]]、[[極楽院宗栄]]、[[亘理綱宗]]、[[亘理元宗]]、[[大有康甫]]、七郎 |
| 子 = '''[[伊達晴宗|晴宗]]'''、[[大崎義宣]]、[[伊達実元|実元]]、玄蕃丸、[[伊達宗澄|宗澄]]、[[桑折宗貞]]、[[葛西晴清]]、[[梁川宗清]]、[[村田宗殖]]、[[極楽院宗栄]]、[[亘理綱宗]]、[[亘理元宗]]、[[大有康甫]]、七郎 |
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[[長享]]2年([[1488年]])、第13代当主・[[伊達尚宗]]の嫡男として生まれる。当初は'''高宗'''と名乗った。 |
[[長享]]2年([[1488年]])、第13代当主・[[伊達尚宗]]の嫡男として生まれる。当初は'''高宗'''と名乗った。 |
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[[永正]]11年([[1514年]])、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。同年、[[羽州探題]]・[[最上義定]]を[[長谷堂城]]にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に[[最上氏]]を支配下に置く。永正14年([[1517年]])、第11代将軍・[[足利義稙]]の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、[[管領]]・[[細川高国]]を通じて一字拝領を願い出て許され、[[偏諱]]を受けて名を'''稙宗'''に改めるとともに、[[左京大夫]]に任官された。左京大夫は、元来[[奥州探題]][[大崎氏]]が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、[[葛西氏]]・[[岩城氏]]などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功し、[[大永]]2年([[1522年]])には陸奥守護に補任された。 |
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[[永正]]11年([[1514年]])、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となると、[[最上氏]]・[[葛西氏]]・[[岩城氏]]などと抗争を繰り返したが、軍事力と婚姻外交を取り混ぜ、伊達氏の勢力を急激に拡大した。 |
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[[天文 (日本)|天文]]元年([[1532年]])に居城を[[梁川城]]から[[西山城]]に移すと体制の強化に努め、天文2年([[1533年]])に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年([[1533年]])の『棟役日記』、天文7年([[1538年]])の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年([[1536年]])には171条に及ぶ[[分国法]]・『[[塵芥集]]』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、[[大崎義直]]の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として二男・[[大崎義宣|義宣]]を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。 |
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永正14年([[1517年]])、第11代将軍・[[足利義稙]]の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、[[管領]]・[[細川高国]]を通じて[[左京大夫]]任官 |
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<ref>左京大夫は、元来[[奥州探題]][[大崎氏]]が世襲する官位であった。この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用した(小林宏『伊達家塵芥集の研究』創文社、1970)</ref>と一字拝領とを願い出て許され、[[偏諱]]を受けて名を'''稙宗'''に改めた。 |
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⚫ | ところが、三男・[[伊達実元|実元]]の[[越後国|越後]][[守護]]・[[上杉定実]]への入嗣や、婿の[[相馬顕胤]]への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・[[伊達晴宗|晴宗]]や[[桑折景長]]・[[中野宗時]]ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年([[1542年]])6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして[[小梁川宗朝]]により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で[[天文の乱]]が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年([[1547年]])に味方であった[[蘆名盛氏]]が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年([[1548年]])9月、将軍・[[足利義輝]]の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って[[丸森城]]に[[隠居]]することを余儀なくされた。 |
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永正17年([[1520年]])には出羽の[[最上義定]]と長谷堂で戦って勝利し、急死した義定の後継に幼少の[[最上義守]]を擁立し、妹である義定未亡人を通して実質的に最上家を支配下においた。[[大永]]2年([[1522年]])には陸奥守護に補任された。 |
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[[天文 (日本)|天文]]元年([[1532年]])には居城を[[梁川城]]から[[西山城]]に移した。 |
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天文5年([[1536年]])には169条に及ぶ[[分国法]]・『[[塵芥集]]』を制定するなど、体制の強化に努めた。 |
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この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年([[1547年]])に味方であった[[蘆名盛氏]]が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年([[1548年]])9月、晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って[[丸森城]]に[[隠居]]することを余儀なくされた。 |
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永禄8年([[1565年]])6月19日、丸森城にて死去。享年78。遺骸は自らが開基となった[[陽林寺]]に葬られた。小梁川宗朝が墓前で殉死している。 |
永禄8年([[1565年]])6月19日、丸森城にて死去。享年78。遺骸は自らが開基となった[[陽林寺]]に葬られた。小梁川宗朝が墓前で殉死している。 |
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== 系譜 == |
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*正室:泰心院([[蘆名盛高]]の娘<ref> |
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**女子([[蘆名盛氏]]室) |
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**女子 |
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*側室:某氏 |
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**[[桑折宗貞]]([[桑折景長]]養子) |
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**葛西牛猿丸<ref>牛猿丸は[[盛岡藩]]系の系譜では[[葛西晴清]]、[[仙台藩]]系の系譜では[[葛西晴胤]]を指すとしている。</ref>([[葛西晴重]] |
**葛西牛猿丸<ref>牛猿丸は[[盛岡藩]]系の系譜では[[葛西晴清]]、[[仙台藩]]系の系譜では[[葛西晴胤]]を指すとしている。</ref>([[葛西晴重]]または[[葛西稙清]]養子) |
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**[[村田宗殖]]([[村田近重]]養子) |
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**[[極楽院宗栄]]([[極楽院善栄]]養子) |
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**越河御前([[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]室) |
**越河御前([[相馬義胤 (十六代当主)|相馬義胤]]室) |
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== 参考文献 == |
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*小林宏『伊達家塵芥集の研究』(創文社、1970) |
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<references/> |
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== 脚注 == |
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*歴史群像編集部編『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009年) ISBN 4054042902 |
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{{伊達氏宗家歴代当主}} |
{{伊達氏宗家歴代当主}} |
2011年2月8日 (火) 14:36時点における版
伊達稙宗像(仙台市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 長享2年(1488年) |
死没 | 永禄8年6月19日(1565年7月16日) |
改名 | 高宗→稙宗 |
別名 |
仮名:次郎 号:受天 |
戒名 | 智松院殿直山円入大居士 |
墓所 | 陽林寺(福島県福島市) |
官位 | 従四位下、左京大夫 |
幕府 | 室町幕府:陸奥守護 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達尚宗、母:積翠院[1](上杉房実の娘) |
兄弟 | 稙宗、留守景宗、女子(最上義定室) |
妻 |
正室:泰心院(蘆名盛高の娘) 側室:中条定資の娘、亘理宗隆の娘、ほか |
子 | 晴宗、大崎義宣、実元、玄蕃丸、宗澄、桑折宗貞、葛西晴清、梁川宗清、村田宗殖、極楽院宗栄、亘理綱宗、亘理元宗、大有康甫、七郎 |
伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国の戦国大名。伊達氏の第14代当主。
生涯
長享2年(1488年)、第13代当主・伊達尚宗の嫡男として生まれる。当初は高宗と名乗った。
永正11年(1514年)、父の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。同年、羽州探題・最上義定を長谷堂城にて破り、妹を義定の室として送り込み、実質的に最上氏を支配下に置く。永正14年(1517年)、第11代将軍・足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領・細川高国を通じて一字拝領を願い出て許され、偏諱を受けて名を稙宗に改めるとともに、左京大夫に任官された。左京大夫は、元来奥州探題大崎氏が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは、大崎氏に名実共に取って代わったと認めさせたことを示している。稙宗はこのようにして中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、葛西氏・岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功し、大永2年(1522年)には陸奥守護に補任された。
天文元年(1532年)に居城を梁川城から西山城に移すと体制の強化に努め、天文2年(1533年)に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年(1533年)の『棟役日記』、天文7年(1538年)の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年(1536年)には171条に及ぶ分国法・『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として二男・義宣を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。
ところが、三男・実元の越後守護・上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・晴宗や桑折景長・中野宗時ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年(1542年)6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして小梁川宗朝により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年(1547年)に味方であった蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年(1548年)9月、将軍・足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。
永禄8年(1565年)6月19日、丸森城にて死去。享年78。遺骸は自らが開基となった陽林寺に葬られた。小梁川宗朝が墓前で殉死している。
系譜
参考文献
- 小林宏『伊達家塵芥集の研究』(創文社、1970)
- 『戦国時代人物事典』(学習研究社、2009) - 「伊達稙宗」「伊達晴宗」の項(伊達宗弘執筆)