分国法

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分国法(ぶんこくほう)は、戦国時代戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典である。

単行法と並んで戦国法を構成する。分国とは中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、室町時代中期以降に守護大名国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。

分国法には、先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。

また、分国法は、戦国大名の家中を規律する家法(かほう)と守護公権に由来し国内一般を対象とする国法(こくほう)に区別される。

分国法一覧[編集]

分国法 制定者 成立時期 条数 備考
大内家壁書 大内氏が発した単行法令を自ら編纂した法令集 永享11年(1439年) - 享禄2年(1529年)の法令を集成。 11条を収録。 『大内氏掟書』『大内家法』とも。
朝倉孝景条々 朝倉孝景が制定したとされる 文明11年(1479年) - 文明13年(1481年)頃 17ヶ条 『朝倉敏景十七箇条』『朝倉英林壁書』とも。家訓としての性格が強いとされる。
相良氏法度 相良為続 明応2年(1493年)- 天文24年(1555年 41ヶ条 為続が明応2年に7ヶ条を定めた後、追加法が断続的に発布され、最終的に41ヶ条となった。
伊勢宗瑞十七箇条 伊勢宗瑞(北条早雲) 17ヶ条 分国法とすることに異論も出されている。他に宗瑞制定と伝えられる早雲寺殿廿一箇条は家訓。
大友義長条々 大友義長 永正12年(1515年 17条+追加8条の計25条
今川仮名目録 今川氏親および今川義元 氏親が大永6年(1526年)に制定。義元が天文23年(1553年)に追加法を発布。 氏親は33ヶ条制定。義元は21ヶ条を追加。
塵芥集 伊達稙宗が制定。 天文5年(1536年 171ヶ条
甲州法度次第 武田信玄が制定。 信玄が天文16年(1547年)に制定した後、さらに追加法が発布された。 信玄が26ヶ条を制定。その後、29 - 30ヶ条が追加。 今川仮名目録の影響を受けている。
結城氏新法度 結城政勝 弘治2年(1556年 106ヶ条
新加制式 三好長治が制定。 永禄年間または1560年代 22ヶ条 長治が篠原長房に命じて編纂をおこなわせた。
六角氏式目 六角義賢義治父子と有力家臣が制定。 永禄10年(1567年 本文67ヶ条、起請8ヶ条、追加6ヶ条 六角氏父子と有力家臣が相互に誓約し合う形態ととっている。
長宗我部元親百箇条 長宗我部元親盛親父子が制定。 慶長2年(1597年 100ヶ条