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== 経歴 ==
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1911年[[東京市]]本郷駒込千駄木21番地に文豪[[森鴎外]]の三男として生まれる。母方の祖父[[荒木博臣]]は[[大審院]]判事。[[1923年]]3月、[[文京区立誠之小学校|誠之尋常小学校]]卒業。成績不良のため「頭に病気がある子が二人いますが、病気がない子では類さんが一番できません」と教師に言われ、母が絶望のあまり「頭に病気があったらどんなに肩身が広いだろう」「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」と言った<ref>森類『鴎外の子供たち』p.31(ちくま文庫、1995年)</ref>。中学入試に失敗し、同年4月、[[筑波大学附属小学校|高等師範学校属小学校]]高等科に入学し、補習を受ける。[[1924年]]4月、旧制[[国士舘中学校・高等学校|国士舘中学]]に入学するも、兄姉らに比べ学業では振るわず、[[1926年]]、国士舘中学2年修了時に中途退学。同年から絵画を学び始め、画家[[長原孝太郎]]に師事。[[1927年]]から[[川端画学校]]に学ぶ。[[1931年]]には次姉の[[小堀杏奴]]と共に[[藤島武二]]に師事。同年11月、杏奴と共に[[パリ]]へ遊学。[[1934年]]1月に日本へ帰国。[[1936年]]から長姉茉莉と二人で生活([[1941年]]3月の類の結婚まで)。その後も絵画修業を続ける。
1911年[[東京市]]本郷駒込千駄木21番地に文豪[[森鴎外]]の三男として生まれる。母方の祖父[[荒木博臣]]は[[大審院]]判事。[[1923年]]3月、[[文京区立誠之小学校|誠之尋常小学校]]卒業。成績不良のため「頭に病気がある子が二人いますが、病気がない子では類さんが一番できません」と教師に言われ、母が絶望のあまり「頭に病気があったらどんなに肩身が広いだろう」「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」と言った<ref>森類『鴎外の子供たち』p.31(ちくま文庫、1995年)</ref>。中学入試に失敗し、同年4月、[[師範学校|高等師範学校]]附属小学校高等科(現・[[筑波大学附属小学校]])に入学し、補習を受ける。
[[1924年]]4月、旧制[[国士舘中学校・高等学校|国士舘中学]]に入学するも、兄姉らに比べ学業では振るわず、[[1926年]]、国士舘中学2年修了時に中途退学。同年から絵画を学び始め、画家[[長原孝太郎]]に師事。[[1927年]]から[[川端画学校]]に学ぶ。[[1931年]]には次姉の[[小堀杏奴]]と共に[[藤島武二]]に師事。同年11月、杏奴と共に[[パリ]]へ遊学。[[1934年]]1月に日本へ帰国。[[1936年]]から長姉茉莉と二人で生活([[1941年]]3月の類の結婚まで)。その後も絵画修業を続ける。


[[1941年]]3月、[[安宅安五郎]]画伯の長女美穂と結婚。仲人は[[木下杢太郎]]夫妻。[[1942年]]に長女が、[[1944年]]に次女が誕生。1944年から一家で[[福島県]][[喜多方市|喜多方町]]に疎開。ここで敗戦を迎える。[[1946年]]、三女が誕生。[[1947年]]12月、[[川崎市]]西生田に転居。同年、長男が誕生。
[[1941年]]3月、[[安宅安五郎]]画伯の長女美穂と結婚。仲人は[[木下杢太郎]]夫妻。[[1942年]]に長女が、[[1944年]]に次女が誕生。1944年から一家で[[福島県]][[喜多方市|喜多方町]]に疎開。ここで敗戦を迎える。[[1946年]]、三女が誕生。[[1947年]]12月、[[川崎市]]西生田に転居。同年、長男が誕生。

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森 類(もり るい、1911年明治44年)2月11日 - 1991年(平成3年)3月7日)は、日本随筆家

経歴

1911年東京市本郷駒込千駄木21番地に文豪森鴎外の三男として生まれる。母方の祖父荒木博臣大審院判事。1923年3月、誠之尋常小学校卒業。成績不良のため「頭に病気がある子が二人いますが、病気がない子では類さんが一番できません」と教師に言われ、母が絶望のあまり「頭に病気があったらどんなに肩身が広いだろう」「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」と言った[1]。中学入試に失敗し、同年4月、高等師範学校附属小学校高等科(現・筑波大学附属小学校)に入学し、補習を受ける。

1924年4月、旧制国士舘中学に入学するも、兄姉らに比べ学業では振るわず、1926年、国士舘中学2年修了時に中途退学。同年から絵画を学び始め、画家長原孝太郎に師事。1927年から川端画学校に学ぶ。1931年には次姉の小堀杏奴と共に藤島武二に師事。同年11月、杏奴と共にパリへ遊学。1934年1月に日本へ帰国。1936年から長姉茉莉と二人で生活(1941年3月の類の結婚まで)。その後も絵画修業を続ける。

1941年3月、安宅安五郎画伯の長女美穂と結婚。仲人は木下杢太郎夫妻。1942年に長女が、1944年に次女が誕生。1944年から一家で福島県喜多方町に疎開。ここで敗戦を迎える。1946年、三女が誕生。1947年12月、川崎市西生田に転居。同年、長男が誕生。

1949年5月、評論社に入社するも12月に退社(事実上の罷免)。同年10月、文化学院の美術科講師となる。1951年東京都文京区千駄木町19の鴎外邸観潮楼跡の一角に本屋「千朶書房」(齋藤茂吉の命名)を開店。このころから絵筆を取る余裕がなくなり、やがて画業を断念。1956年、森家の様子を赤裸々に描いた「鴎外の子供たち」を『群像』6月号に発表、同年12月に光文社から単行本として刊行。これが2人の姉の怒りを買い、長姉の森茉莉とは後に和解するが、杏奴とは最後まで絶交状態だった。

1961年、鴎外記念図書館建設計画の進展に伴って千朶書房を閉店して同書房の跡地を文京区に売却し、東京都杉並区今川の都営住宅に転居。同年、恵比寿駅の近くにアパートを建て、その経営の傍ら、小説の執筆に力を入れた。1963年、同人誌『小説と詩と評論』に木々高太郎童門冬二柴田錬三郎たちと共に参加し、同誌創刊号の巻頭に『驟雨』を、第6号に『市街八分』を、第7号に『百舌鳥』を発表。1966年に同誌第30号に発表した『柿・栗・筍』は直木賞作家榛葉英治によって芥川賞予選作品に推されたが、芥川賞候補にはならなかった。1969年、木々の死去に伴って同人を脱退するまで同誌に小説を発表。

1976年、美穂死去。1979年、68歳にして55歳のクリスチャンの女性と再婚し、『週刊新潮11月15日号で取り上げられる。

1989年千葉県夷隅郡大原町に転居。同年「硝子の水槽の中の茉莉」(『新潮』10月号)がベストエッセイ集『誕生日のアップルパイ』(日本エッセイストクラブ編、文芸春秋)に選ばれ転載される。

1991年、心臓発作で死去。

血縁者

主な著書

評伝

脚注

  1. ^ 森類『鴎外の子供たち』p.31(ちくま文庫、1995年)