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澤田敬之助

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さわだ けいのすけ
澤田 敬之助
澤田 敬之助
1920年代の写真。
本名 内山 守 (うちやま まもる)
別名義 小澤 茗一郎 (おざわ みょういちろう)
生年月日 (1904-08-20) 1904年8月20日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市
職業 俳優
ジャンル 新劇劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1923年 - 1938年
主な作品
松平長七郎 道中篇
松平長七郎 長崎篇
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澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。新漢字表記沢田 敬之助[1][3][4][5][6][7]。本名内山 守(うちやま まもる)[1][2][3]。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎[1][3][4][5][6][7]澤田 敬之介沢田 敬之介)、澤田 慶之助沢田 慶之助)といった表記に揺れがある[4][5][6][7]日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである[1][5]

人物・来歴

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1904年明治37年)8月20日鹿児島県鹿児島市に生まれる[1][2][3]

旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする[1][2][3]。同年9月1日に起きた関東大震災の後、舞台協会は関西に移り、澤田は、1926年(大正15年)10月、衣笠貞之助が京都の松竹下加茂撮影所を根城に製作を開始した衣笠映画聯盟に参加、「小澤 茗一郎」の名で映画出演を開始する[1][2][3][4][5]。記録に残るもっとも古い作品は、同年12月11日に公開された『照る日くもる日 第二篇』(監督衣笠貞之助)であり[4][5]、翌1927年(昭和2年)3月19日に公開された林長二郎(のちの長谷川一夫)が主演した『稚児の剣法』にも出演したとされる[1][3]。1928年(昭和3年)1月20日に公開された『道中双六船』(監督衣笠貞之助)では、初主演を務めた[1][4][5]

同年4月、牧野省三が主宰するマキノ・プロダクションに移籍、同時期に入社した俳優には五月信子南光明らがいた[1][3][4][5]。芸名を「澤田 敬之助」と改め、同年7月13日に公開した『鬼神 前篇』(監督押本七之助)に出演したのが、同社での初出演であった[1][2][4][5]。同年10月22日に公開された『孝女よし江』(監督中島宝三)ではマキノ智子を相手に主演[1]、1929年(昭和4年)6月7日公開の『松平長七郎 道中篇』(監督金森萬象)では大林梅子、同年8月15日公開の『松平長七郎 長崎篇』(監督金森萬象)では松浦築枝を相手に主演を務め、ほかにも多くの映画に主演した[1][3][4][5]。同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、澤田は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[8]。この後に四代目澤村國太郎が入社し、その後の澤田は國太郎の脇に回ることが増え、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化していき、1930年(昭和5年)末、澤田は同社を退社した[1][3][4][5]。記録に残る同社での最後の作品は、同年12月19日に公開された『続お洒落狂女』(監督吉野二郎)であった[4][5]

マキノ退社後は小規模プロダクションを転々とし、1932年(昭和7年)には、トキワ映画や金森萬象の協立映画プロダクションの作品に出演している[1][3][4][5]。1933年(昭和8年)には東京に移り、同年5月、河合映画製作社に入社、翌6月、同社を発展的に拡大、解消して創立された大都映画に継続的に入社した[1][3][4][5]。1937年(昭和12年)には大阪に移り、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の同府羽曳野市翠鳥園)に撮影所をもつ極東キネマに移籍、1938年(昭和13年)ころまで、同社の製作するサイレントの剣戟映画に脇役出演をした[1][3][4][5]。以降の消息は伝えられておらず、時代は第二次世界大戦に突入している[1][3]没年不詳

フィルモグラフィ

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十字路』(1928年)の公開時のポスター。

クレジットはすべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

衣笠映画聯盟

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特筆以外すべて製作は「衣笠映画聯盟」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画、すべて「小澤茗一郎」(小沢茗一郎)名義である[4][5]

  • 照る日くもる日 第二篇』 : 監督衣笠貞之助、原作大佛次郎、脚本犬塚稔、1926年12月11日公開 - 息節哉
  • 稚児の剣法』 : 監督・原作・脚本犬塚稔、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年3月19日公開[3]
  • 鬼あざみ』 : 監督衣笠貞之助、原作フレッド・ニブロ、脚本冬島泰三、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年4月29日公開 - 河原の役人
  • 勤王時代』 : 監督衣笠貞之助、原作松本憲逸、脚本冬島泰三、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年5月29日公開 - 安藤鉄馬
  • 御用船』 : 監督衣笠貞之助、原作・脚本冬島泰三、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年7月22日公開
  • 破れ編笠』 : 監督犬塚稔、原作・脚本大須賀満、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年8月12日公開 - 近藤陣之助
  • 暁の勇士』 : 監督衣笠貞之助、脚本冬島泰三、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年9月1日公開 - 魚屋才助
  • 蝙蝠草紙』(『蝙蝠英紙』[5]) : 監督山崎藤江、脚本三村伸太郎、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年10月28日公開 - 番頭久七
  • 天保悲剣録』 : 監督山崎藤江、脚本星哲郎、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1927年12月23日公開 - 猿田の平次
  • 海国記』 : 監督衣笠貞之助、原作大森痴雪、脚本三村伸太郎、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年1月15日公開 - 倅佐十郎
  • 道中双六船』 : 監督衣笠貞之助、原作・脚本冬島泰三、1928年1月20日公開 - 主演
  • 風雲城史』 : 監督山崎藤江、原作・脚本星哲郎、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年2月10日公開 - 城主峰谷輝秋、68分尺で現存(NFC所蔵[7]
  • 長恨夜叉』 : 監督衣笠貞之助、原作・脚本藤原忠、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年3月1日公開 - 笹井利七郎
  • 白井権八』 : 監督山崎藤江、脚本古野英治、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年3月31日公開 - 本荘助七
  • 大瀬半五郎』(『大瀬と半五郎』[5]) : 監督星哲郎、脚本藤原忠、製作衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、配給松竹キネマ、1928年4月28日公開
  • 十字路』 : 監督・脚本衣笠貞之助、製作衣笠映画聯盟・松竹京都撮影所、配給松竹キネマ、1928年5月11日公開 - 喧嘩を売る男、88分尺で現存(NFC所蔵[7]

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画、すべて「澤田敬之助」(沢田敬之助)名義である[4][5]

フリーランス

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すべて「澤田慶之助」(沢田慶之助)名義である[4][5]

大都映画

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すべて製作・配給は「大都映画」、すべてサイレント映画、すべて「澤田敬之助」(沢田敬之助)名義である[4][5]

極東キネマ

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すべて製作・配給は「極東キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画、すべて「澤田敬之助」(沢田敬之助)名義である[4][5]

脚注

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参考文献

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  • 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』、映画世界社、1929年発行
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年発行
  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目

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外部リンク

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