極東映画

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極東映畫株式會社(きょくとうえいが-、1935年2月 設立 - 1941年 合併)は、かつて西宮、のちに大阪に存在した映画会社である。設立2年後に改組・改称し、極東キネマ株式會社となった。若年層向けの剣戟映画を量産したことで知られる。

略歴・概要[編集]

1935年(昭和10年)2月に設立された。「エトナ映画社」が稼動していた京都の「御室撮影所」を仮撮影所として製作を開始した。設立第1作は、同社の監督部長に就任した仁科熊彦が監督、直木三十五の原作を西条栄こと西條照太郎が脚色、撮影部長に就任した小柳京之介がカメラを回した羅門光三郎の主演作『益満休之助 比叡の巻』[1]で、同年3月20日に公開された。

同年4月29日[1]、仮撮影所を離れて兵庫県西宮市甲陽園にある「甲陽撮影所」に移る。翌1936年(昭和11年)、撮影所を甲陽園から、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の羽曳野市翠鳥園)へと移転、新設の撮影所を「極東キネマ古市白鳥園撮影所」とした[1]。このとき、スター俳優羅門光三郎、市川寿三郎綾小路絃三郎ら、監督の下村健二、園池成男こと古海卓二、児井秀男(のちの児井英生)が甲陽園に残留、「甲陽映画」を設立した(1937年解散)。

1937年(昭和12年)、改組して極東キネマ株式会社となった[1]

1940年(昭和15年)、同社は大阪の「梅田劇場」(現在のHEPTOHOシネマズ梅田)に合併され、大宝映画株式会社となるが、大宝映画は1作も製作せず、翌1941年(昭和16年)2月13日に公開された『燃ゆる魂』が最終作品となった[1]

1935年に28本、1936年に35本、1937年に43本、1938年に26本、1939年に36本、1940年に36本、1941年に4本の作品を残した。大手のほとんどがトーキーに完全に移行した時代にあって、サイレント映画を製作し続けたが、1940年には多くの極東作品もトーキーに移行した[2]。「古市撮影所」の跡地には現在、イズミヤ古市店が建っている。

おもなフィルモグラフィ[編集]

御室仮撮影所
甲陽撮影所
極東キネマ古市白鳥園撮影所

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 『チャンバラ王国極東』の記述を参照。
  2. ^ 日本映画データベースの該当各年の記述を参照。

参考文献[編集]

関連事項[編集]

外部リンク[編集]