山田隆也
やまだ たかや 山田 隆也 | |
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本名 | 横川 唯治(よこかわ ただはる) |
別名義 | 山田 隆弥 |
生年月日 | 1890年7月31日 |
没年月日 | 1978年6月8日(87歳没) |
出生地 |
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職業 | 俳優 |
ジャンル | 新劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1913年 - 1927年 |
主な作品 | |
舞台 『出家とその弟子』 |
山田 隆也(やまだ たかや、1890年7月31日 - 1978年6月8日[1])は、日本の俳優である。本名は横川 唯治(よこかわ ただはる)、第二次世界大戦前は山田 隆弥(やまだ たかや)と名乗った[1]。
人物・来歴[編集]
1890年(明治23年)7月31日、埼玉県に生まれる[1]。
文芸協会の坪内逍遥に師事し、1909年(明治42年)、坪内が自宅に設立した演劇研究所の第1期生となる[1]。松井須磨子、佐々木積らの同期に当たる。
1913年(大正2年)10月、佐々木積、森英次郎、岡田嘉子らと新劇の劇団「舞台協会」を設立する[1][2]。愛人の岡田と共演した『出家とその弟子』で名声を得る[1]。
1923年(大正12年)、「向島新派」で知られる日活向島撮影所が改革を図り、舞台協会と出演提携する[3]にあたり、3本の提携作のほか、2作に出演する[4]。同撮影所は同年9月1日の関東大震災で崩壊、京都に全面移転した[5]。舞台協会は西宮に移転、東亜キネマ甲陽撮影所製作の映画に出演する[4]。
1928年(昭和3年)には、牧野省三率いるマキノ・プロダクションにおいて、牧野の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が所長を務める名古屋撮影所で、鈴木重吉監督の『田中宰相の少年時代』に出演[4]、同年、同社の御室撮影所が製作した『肉弾決笑記』で初監督を果たす[4]。
松竹家庭劇に参加する[1]。1936年(昭和11年)、京都の宗教団体である一燈園の劇団「すわらじ劇園」に参加する[1]。
1978年(昭和53年)6月8日、死去した[1]。満87歳没。
フィルモグラフィ[編集]
特筆以外はすべて出演、すべて「山田隆弥」名義。
日活向島撮影所[編集]
- 1923年
- 『髑髏の舞』 : 監督・原作・脚本田中栄三 - 「瑞雲寺の若僧今井良禅・のちに旅の僧侶」役
- 『忘れな草』 : 監督田中栄三、原作・脚本伊藤松雄
- 『三つの魂』 : 監督田中栄三、原作・脚本伊藤松雄
- 『血の洗礼』 : 監督若山治、原作・脚本秦哀美
- 『毒塵』 : 監督細山喜代松、脚本平戸延介(山本嘉次郎)
- 『山の悲劇』 : 監督鈴木謙作、原作・脚本田中総一郎
東亜キネマ甲陽撮影所[編集]
- 1925年
東京映画[編集]
- 1927年 [6]
マキノ・プロダクション[編集]
- 1928年
ビブリオグラフィ[編集]
- 『陽は暖かく』、一燈園出版部、1960年
- 『こぼれ話』、一燈園出版部、1965年
- 『内村鑑三記念講演研究』、編著藤田若雄、大河原礼三・キリスト教社会思想研究会、1973年 - 1975年
- 『金沢常雄』『塚本虎二』『黒崎幸吉』『座談会「無教会を語る」』を収録
- 『陽は暖かく』、一燈園出版部、1984年
註[編集]
外部リンク[編集]
- 山田隆弥 - 日本映画データベース
- 山田隆弥 - allcinema
- すわらじ劇園 - 劇団公式ウェブサイト