出家とその弟子

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出家とその弟子
初版本表紙(函)
初版本表紙(函)
作者 倉田百三
日本
言語 日本語
ジャンル 戯曲
幕数 序曲と6幕(13場)
初出 『生命の川』 1916年大正5年)11月
刊行 1917年(大正6年)6月 岩波書店
初演 1919年(大正8年)5月 京都大丸ホール
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出家とその弟子』(しゅっけとそのでし)は、倉田百三による戯曲である[1][2][3][4]序曲と6幕13場からなり[1][3][5]鎌倉時代親鸞とその弟子唯円を中心に[5][6]、人間の、愛欲などを描く[6][7]1916年大正5年)から翌1917年(大正6年)にかけて同人誌『生命の川』で第4幕第1場までが連載され、同年に岩波書店から全編が出版された[4][6][7][8]1919年(大正8年)にエラン・ヴィタール小劇場によって[9][10][11][12]京都大丸ホールで初演された[9]

歎異抄をベースにしつつ、一燈園キリスト教の思想の影響も強く受けているとされる[13][14]。発表直後から史実の親鸞を歪曲しているなどとして批判も受けたが[15][16]、当時の青年からは熱狂的に支持されて大ベストセラーとなり[1][6][8]、大正後期の日本の文芸界に、宗教文学、とりわけ親鸞を扱った文芸作品が相次いで出版される「親鸞ブーム」を引き起こした[6][17]。世界各国で翻訳され[2][3][18]ロマン・ロランが絶賛したことでも知られる[2][3][18][19]

あらすじ[編集]

序曲 「死ぬるもの-ある日のまぼろし-」
に執着しを直視できずに苦悩する「人間」の前に、「死なざるものに事える臣」[注釈 1]であるという「顔蔽いせる者」が現れる[5][20][21]。「顔蔽いせる者」は「人間」に、「死ぬのはがあるからじゃ。罪のないものはとこしえに生きるのじゃ。『死ぬる者』は罪人と同じことじゃ」と言い[20]、死は人間の罪に対する刑罰だと説く[20]。そして、「私は共喰い[注釈 2]しなくては生きることは出来ず、姦淫しなくては産むことが出来ぬようにつくられているのです」と哀れみを乞う「人間」に対して[23][24][25]、「それがモータルの分限なのだ」「同情するのはわしの役目ではない」「刑罰だ!」と言い放って姿を消す[23]
「顔蔽いせる者」の力によって地に倒された「人間」は、やがて、天から聞こえる童子の「すべての創られたるものに恵みあれ。死なざるもののいとし子に幸いあれ」という歌声を聞いて立ち上がり、空を見上げてこう言う[26]

人間(起き上り天を仰ぐ)遠い遠い空の色だな。(中略)この世界が善いものでなくてはならぬという気が本当にしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力にさだめられている。けれど恵みにさだめられているような気がする。それをうけとることが、すなわち福いであるように。行こう。(二、三歩前にあゆむ)向うの空まで。私の魂が挙げられるまで。

第一幕
雪の夜、常陸国浪人日野左衛門の家で、左衛門の妻のお兼が左衛門と息子松若の帰りを待っていた[27][28]。先に帰宅した松若は百姓の子から「松若の父さんは渡り者の癖に、百姓を虐めたり、殺生をしたりする悪い奴だ」といって虐められたと話し[28]、お兼は左衛門が村人にきつく当たっていることの仕返しであることを知って胸を痛める[27]。やがて左衛門が帰宅し、酒を飲みながら強引に借金の取り立てをしてきた様子を話す[27]。「あなたは昔はそんな人ではなかった」というお兼に対して、左衛門は「今までは人が良すぎて騙された。今度は悪人になってしたたかに生きるのだ」と言う[27]。そこへ親鸞と弟子の慈円良寛が訪れて一夜の宿を請う[5][17][27][29]。しかし左衛門は「あいにく私は坊さんが嫌いでしてな」と冷たく断り[27]、親鸞を杖で打ち追い出す[30]。やむなく親鸞らは戸外で野宿する[5][17][27]
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その夜中、左衛門は悪夢にうなされて目を覚ます[5][27][29][30]。すでに酔いも醒めた左衛門は親鸞らへの仕打ちを恥じて後悔し[27]、吹雪のなか家の軒先で石を枕に寝ていた親鸞たちを見つけると家に迎え入れて詫びる[5][17][27][30]。そして、左衛門は親鸞に、自らが悪人だとして罪悪感にさいなまれる苦しい胸の内を明かす[5][31]。親鸞は浄土教の教えを説き、左衛門の苦悩を癒す[5][30][31]

左衛門:それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強います。私は善い人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷けられました。それでとても渡世の出来ない事を知りました。(中略)私は悪人になるより外に道がありません。けれどそれがまた嫌なのです。私の心はいつも責められます。
親鸞:あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善くなろうとする願いを抱いて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのが本当です。私はあなたの苦しみを尊いと思います。(中略)私は信じます。人間は善くなり切ることは出来ません。絶対に他の生命を損じない事は出来ません。そのようなものとしてつくられているのです。
(中略)
親鸞:これまでの出家は善行で極楽参りが出来ると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けて下さいます。罪を赦して下さいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません。
(中略)
左衛門(真青な、緊張した顔をして沈黙。やがて異常の感動のために、調子の外れた、物の言い方をする)私は変な気がします。私は急に不思議な、大きな鐘の声を聴いたような気がします。その声は私の魂の底まで冴え渡って響きました。私の長く待っていたものが遂に来たような、親しい、しっくりとした気持ちがします。私は有難い気がします。私は直にその救いが信じられます。そのはずです。それは嘘ではありません。本当でなければなりません。私は気が付きました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。有り難い、泣きたいような気がして来ました。

第二幕
15年後、京都にある西の洞院御坊[5][29][32]。松若は唯円と名を改めて親鸞の弟子となっていた[5][29][32][33]法然忌の日、唯円と他のたちの間で、義絶された親鸞の子善鸞のことが話題に上る[34]。僧たちは、自らの子を罰し続ける親鸞を心配しつつも、父に背いて放蕩を尽くす善鸞を「浅ましい」と言い、勘当が解けなくて当然だと主張する[35]。僧たちが去った後、唯円が人々の往来を眺めているところに親鸞が現れる[32][33]。親鸞と唯円は、人生の淋しさや偽善の罪深さ、そして恋について話し込む[29][32]。親鸞は「私の淋しさはもう何物でも癒されない淋しさだ」と語り[5]、恋については「恋は信心に入る通路だよ」と説く[5]。そこに、関東から上京してきた門徒たちが往生の要義を聞かせて欲しいと親鸞に面会を求めてくる[29][32]。親鸞は「念仏申して助かるべしと善き師の仰せを承って、信ずる外には別の仔細はないのです」と言って諭す[24]

親鸞:名々に念仏の心持を味わう事を心掛けなさるがよい。人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生の様々の事象を見る目が濡れて来ます。仏様のお慈悲が有り難く心に泌むようになります。
(中略)
同行一:ただ一つ私にお聴かせ下さい。その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。
親鸞:信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません。(中略)たとい法然聖人に騙されて地獄に堕ちようとも私は怨みる気はありません。私は弥陀本願がないならば、どうせ地獄の外に行く所はない身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。そうです。私の心を著しく表現するなら、念仏は本当に極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬといってもよい。私は何もかもお任せするじのじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。何処へなとつれて行って下さるでしょうよ。

第三幕
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三条木屋町[29][36]鴨川沿いの遊女屋「松の家」で遊女浅香を相手に放蕩三昧にふける善鸞の下を唯円が訪ねる[29][32]。善鸞は唯円に、自らの境遇と苦しい心の内を明かす[1][32]。かつて、恋人と別れさせられたが人妻となってもその恋人のことが忘れられずに不義の恋に陥り、そのために他人を傷つけてしまったこと[32][37]、その罪悪感と悲しみや憤りの中で[5][32][38]、仏が信じられず酒と女に溺れるようになったこと[1][32]。唯円は同情し[32]、慰め、親鸞と会って和解することを勧める[36]。しかし、善鸞は「有り難う御座いますが、ほって置いて下さい。とても逢ってはくれませんから」と言う[38]
寺に戻った唯円は、親鸞に善鸞と会ってほしいと訴える[32][36]。親鸞もまた善鸞に会いたい気持ちを吐露するが[32]、他の弟子たちの手前会うことはできないと唯円の申し出を断る[17][32][39]

唯円:あなたは本当にお遇いなさらぬおつもりですか。
親鸞:うむ。周囲の人々の平和が乱れるでな。
唯円:では善鸞様はどうなるのでしょう。どんなにか失望なさいましょう。それよりもあの方の迷っている魂はどうなるのでしょう。
親鸞:私が一番気に懸けたのは其処なのだ。もし私でなくては善鸞の魂を救う事が出来ず、また私に救い得る力があるなら、私は他の一切の感情に瞑目しても彼の子に遇って説教するだろう。だが私には彼の子を摂取する力はない。助けるも助けぬも仏様の聖旨(みむね)に在る事だ。私の計らいで自由に出来る事ではない。(中略)私に許される事はただ祈りばかりだ。私は遇わずに朝夕彼の子のために祈りましょう。おお仏さま、どうぞ彼の子を助けてやって下さいませと。(中略)彼の子がいとしい時には、私は手を合わせて南無阿弥陀仏を唱えようと思うのだ。お前もあの不幸な子のために祈ってやってくれ。
唯円:私も祈らせてもらいます。ああ、しかし、何という淋しいお心で御座いましょう。
親鸞:これが人間の恩愛の限りなのだ。
唯円:私は堪らなくなります。人生はあまりに淋し過ぎます。

第四幕
1年後、唯円は、善鸞を通じて知り合った遊女かえでと恋に落ちていた[1][36][39]。二人は密かに逢い引きを重ね、将来を誓いあう[40]
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しかし「松の家」に帰ったかえでは女将に手ひどく叱られ折檻される[39]。女将は唯円のことについても金を払わず遊ぶ盗人・泥棒猫と口汚く罵る[40]。遊女仲間からも思い上がっていると嫌われるかえでであったが、浅香だけはかえでに理解を示す[40]。善鸞と別れたさみしさを抱えつつも諦めきった浅香に対して、かえでは不安を抱えつつも恋の喜びと将来への一縷の望みを語る[39]
第五幕
唯円はかえでとの恋で勤めも怠りがちになり[17][40]、ついに他の僧の知るところとなる[1][41]。僧たちは、遊女を相手にするなど浅ましい非難し[41][42]、唯円にかえでと別れるよう迫る[43]
僧たちは親鸞に訴え、唯円の処分を求める[1][39][40]。親鸞は、僧たちに対しては「私たちは悪しき人間である」ことと「他人を裁かぬ」ことを説き[40][43]、「仏様のお慈悲は罪人としての私たちの上に雨とふるのだ」として[39]「裁かずに赦さねばいけない」と諭す[39][40][41][43]。僧たちは自らが愛と慈悲の心に欠けていたことを悟って涙を流し、親鸞の言葉を受け入れる[40]。一方、唯円に対しては、恋もまた仏に「ゆるされた恋のみが成就する」のであり[39]、「恋を仏の御心に適うように浄めなくてはならない」と説く[40]。そして、ただ「仏様み心ならば二人を結び給え」と祈れと言い[41][43]、「これ以上のことは人間の領分を越えるのだ」と諭す[44]

親鸞:恋が互いの運命を傷けないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。慈悲で憐れまねばならない。仏様が衆生を見給うような眼で恋人に対せねばならない。自分のものと思わずに、一人の仏の子として、赤の他人として――
唯円(叫ぶ)出来ません。とても私にはできません。
親鸞:そうだ。できないのだ。けれどしなくてはならないのだ!
唯円(眩暈を感ずる)ああ、(額に手をあてる)互いに傷け合いながらも、慕わずにはいられないとは!
親鸞:それが人間の恋なのだ。
唯円(独白の如く)ああ、一体どうすればいいのだ。
親鸞(しずかに)南無阿弥陀仏だよ。(目をつむる)やはり祈るほかはないのだよ、おお仏さま、私があの女を傷けませんように。彼の女を愛するが故にとて、他の人々を損いませんように。わたし自らを乱しませんように――
唯円(手を合わせる)縁あらば二人を結びたまえ。
親鸞:おお。そのように祈ってくれ。そして心をつくしてその祈りを践み行おうと心がけよ。出来るだけ――後は仏さまが助けて下さるだろう。

第六幕
15年後[41][43][44][45]、善法院御坊[40][44]。かえでは勝信尼と名乗り、唯円の妻となって2人の娘を儲けていた[40][42][44]。90歳になった親鸞は死の床に就いており、明日をも知れぬ状態であった[17]
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親鸞は生への執着や死の恐怖と戦いながらも最終的に打ち克ち[41][46]、穏やかな心で臨終を迎えようとしていた[46]。そして、唯円の言葉に従って[44]、勘当したままの息子善鸞を許す[45]
臨終の間際、続々と弟子たちが馳せ参じる中、最後に善鸞が駆けつける[17]
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弟子たちに最後の説法を終え[44]今際の際の親鸞の枕元に善鸞が駆け寄り[47]、父子はついに対面を果たす[43][45]。自らの不孝を詫びる善鸞に対して[40]、親鸞は「ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない」と阿弥陀仏の赦しを説き[41][44]、最後に善鸞に仏を信じるかと問う[44]。自分を偽ることのできない善鸞は[44]、迷い続けて[43]「わかりません」と答える[40][44]。親鸞は、「それでよいのじゃ」とつぶやいて息を引き取る[43][44][47]

親鸞:わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。
善鸞:…………
親鸞:お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に帰る日に安心を与えてくれ……
善鸞(魂の苦悶のために真青になる)
親鸞:ただ受取りさえすればよいのじゃ。

一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火の如くにして善鸞を見ている。

善鸞(唇の筋が苦しげに痙攣する。何かいいかけてためらう。遂に絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる)
(中略)
親鸞(かすかに唇を動かす。苦悶の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、終にひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さいけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世界じゃ。

登場人物[編集]

親鸞
親鸞役を演じる佐々木積
浄土真宗開祖[48][49][50][51]。左衛門や唯円善鸞など、苦悩する人々の苦しみに理解を示し、浄土教の教えを説いて導く師である[52][53][54]。一方で、自らも迷い、淋しいと語り、過去の恋の経験を語るなど人間的な面も見せる[8]
歴史上の親鸞は、京都で一寺を構えたことはないなど[55][56]、必ずしも史実を忠実に再現したものではない[55]
一燈園西田天香がモデルとされる[53][57][58]
唯円(松若)
常陸国浪人・日野左衛門の子[5][29][30][59]。親鸞の弟子となり唯円を名乗る[5][29][33][59]遊女のかえでと恋に落ち、のちに妻とする[40][60][61][62]
史実の唯円は、親鸞の弟子であり、『歎異鈔』の作者とされている[63][64][65][66]
恋と信仰を両立しようと苦悩する純情な唯円と、同じく恋に苦悶しながらも放蕩にふけり最後まで信仰を拒否する善鸞とは、作者である倉田百三自身の2つの姿を表しているとされる[67][68][69]
善鸞
勘当された親鸞の実子[32][35]。以前から恋人であった人妻との道ならぬ恋から、仏を信じられなくなって、悲しみや憤り、悩みを酒と女で癒す放蕩三昧にふけっている[32]。親鸞の臨終に駆けつけ、親鸞から仏を信じると言ってくれと懇願されても、最後まで拒否する態度を崩さない[52][70][71]
史実の善鸞も親鸞から義絶されているが、その原因は関東他力本願を否定する虚言を吹聴して信徒を惑わしたためだとされており[47][56][72]、親鸞と善鸞の対立は、教義の根本に関わる、本作で描かれている以上に厳しいものであった[72]
かえで(勝信尼)
「松の家」の遊女[36][40]。はじめて「娘として取り扱ってくれた」唯円と恋に落ち[39]、女将に折檻されても愛を貫く[40][60]。のちに出家して親鸞に仕え[41][62]、唯円の妻となって二人の娘を儲ける[40][45][60]
浅香
「松の家」の遊女[40]。善鸞の苦悩を理解し、かえでの苦しみにも唯一人理解を示す[40]
日野左衛門
常陸の国の浪人[29][30]。村ではよそ者であり、村人たちから疎外され[73]、狩猟と[5]金貸しをして生活している[73]。家族を守るために悪人として生きることを是とし[43][59]、表面上善人として振る舞う村人たちを偽善者と嫌悪するが[59]、根は善良な人間で[43]悪人として生きることの罪悪感にさいなまれてもいる[74]。親鸞の他力の教えに感動してその教えを受け入れ[43][59]、悪人であろうとすることをやめる[32]
お兼
日野左衛門の妻[27][30]。村人につらく当たるなど心が荒んでいく左衛門のことを心配している[27]
慈円良寛
第一幕で親鸞とともに行脚する弟子[75]
実在の人物としての慈円は、親鸞の得度を行ったとされ、のちに天台座主を務めた平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧[75]。良寛は、歌人として知られる江戸時代禅宗の僧である[75]。宗派も時代も異なる二人の高僧が親鸞の弟子として作品冒頭に登場していることについて、大島丈志は、この作品がフィクションであることと、親鸞が二人より優れた人物であることを示そうとしているのではないかと考察している[75]

作品テーマ[編集]

浄土真宗開祖親鸞と愛弟子唯円、親鸞の息子善鸞を主要登場人物として[65][76][77]、親鸞・善鸞親子の葛藤と、唯円の恋愛と信仰の摩擦を軸に物語は展開する[47]

人妻との道ならぬ恋から親鸞に義絶された善鸞は、本心では父と会いたいと願っており、親鸞も我が子を愛しながらもゆすることができずにいる[78]。唯円と遊女かえでとの恋愛は、僧院と遊女屋の双方からの反発を受ける[48]。愛欲を中心とした人間の煩悩や罪業と信仰との相克を描き[29][63]、登場人物たちの抱える「さびしさ」や苦悩に対して、浄土真宗の教義を織り交ぜながら[76]、人間は「罪あるもの」「死ぬるもの」であり、確かなものはただ「祈り」であると説く[29]。唯円とかえでは困難を乗り越えて結ばれ[48]、善鸞も、あるがままにすべてを仏に任せる絶対他力の信仰に包摂され、親鸞の平和な臨終を迎える[6][69]

『歎異鈔』に代表される[49]親鸞の思想を下敷きとした[6]仏教文学の一つとされるが[77]、「祈り」などキリスト教的な要素も見られる[49][76]。「周囲が幸福でなくては、私も幸福になれません。」という倉田百三のキリスト教的なヒューマニズムが現れているとする指摘もある[48]

上演[編集]

『出家とその弟子』は、1919年大正8年)5月にエラン・ヴィタール小劇場によって[9][10][11][12]京都大丸ホールで初演された[9]。同年7月には有楽座創作劇場により上演され[1][58]、11月には一燈園の主催により京都公会堂でも上演された[12]。その後も1921年(大正10年)11月に帝国劇場舞台協会[79]1948年昭和23年)4月には新橋演舞場木の実座が上演するなど、たびたび演じられている[80]。ただし、原作通りでは6時間以上の上演時間を要することから、実際の公演ではかなりの部分が省略されている[81]

倉田に誘われて横浜で観劇した長與善郎は「實は餘り感心したとは言へなかった。祇園茶屋とか、ある場面などでは、全く閉口したことを覚えている」と記し[82]亀井勝一郎は「私はこの戯曲の上演を見たが、舞台の上では必ずしも成功しない」、「これはあくまで読む戯曲だ」と評したが[83]、各公演には多くの観客が押し寄せて興行的には成功した[79][84][85]。特に舞台協会の公演でかえでを演じた岡田嘉子は評判となり、岡田はこれを契機に花形女優となっていった[85]

初期の主要な公演と配役
公演 親鸞 唯円 かえで 出典
1919年大正8年)5月エラン・ヴィタール小劇場
京都大丸ホール
青山杉作 村田実 ? [12]
1919年(大正8年)7月創作劇場
有楽座
林幹 村田実 音羽かね子 [80]
1919年(大正8年)11月一燈園
京都公会堂
青山杉作 村田実 ? [12]
1921年(大正10年)11月舞台協会
帝国劇場・有楽座
佐々木積 山田隆弥 岡田嘉子 [79][80]

刊行情報[編集]

刊行本[編集]

収録[編集]

外国語訳[編集]

英訳
  • グレン・ショー訳 『The priest and his disciples』 北星堂(東京)、1922年
仏訳
  • 松尾邦之助・エミール・スタイニルベル=オーベルラン訳 『Le prêtre et ses disciples』 リエデル社(パリ)、1932年
中国語訳
  • 孫百剛訳 『出家及其弟子』 創造社出版部(上海)、1927年
  • 毛丹青訳 『出家与其弟子』 遼寧教育出版社(瀋陽)、2003年

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 以下、本作からの引用は岩波文庫(緑帯)版(倉田百三 『出家とその弟子』 岩波書店<岩波文庫(緑帯)>、2003年。)による。
  2. ^ ここでは、人間というものが他の動植物を食して生きているということ[22]

出典[編集]

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参考文献[編集]

事典類[編集]

解説[編集]

論文等[編集]

その他[編集]

  • 藤原定編 「倉田百三年譜」『現代日本文学全集』74、筑摩書房1956年、428-431頁。
  • 中西清三 『倉田百三の生涯』、春秋社1977年
  • 辻橋三郎 「倉田百三年譜」『日本現代文学全集』46(増補改訂版)、講談社1980年、437-444頁。
  • 昭和女子大学近代文化研究室編 「倉田百三」『近代文学研究叢書』50、昭和女子大学近代文化研究所、1980年。
  • 村上智雅子 「出家とその弟子」『あらすじで読む日本の名著』2、樂書館、2003年、56-61頁。
  • 風日祈舎編 『もう一度読みたい 涙の百年文学』、太陽出版、2009年、250-262頁。
  • 唐戸民雄 「親鸞を描いた小説ガイド」『大法輪』第77巻11号、大法輪閣2010年、110-114頁。

関連項目[編集]

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