女教皇ヨハンナ

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1493年に描かれた女教皇ヨハンナ

女教皇ヨハンナ(おんなきょうこうヨハンナ、: Ioanna Papissa, Ioannes Anglicus)は、中世伝説855年から858年まで在位したとされる女性ローマ教皇である。

歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、その物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れられたと考えられる。

伝説[編集]

13世紀の記述[編集]

女教皇ヨハンナの話は13世紀ポーランドの年代記作家オパヴァのマルティン(ドイツではトロッパウのマルティン、マルティン・ポルヌスすなわち「ポーランドのマルティン」としても知られる)から主に知られている。彼はChronicon Pontificum et Imperatumの中でこう記述している。

レオ……の後、マインツ生まれのヨハン・アングリクスが2年と7カ月4日の間教皇位につき、ローマで死んだ。その後一カ月の間教皇位は空位となった。このヨハンは女性であったと言われている。ヨハンは愛人の男の衣服を纏ってアテネに連れてこられた少女で、彼女は様々の学識に熟達していき、同等の者がいなくなった。その後ローマに行き自由七科を教え、学生と聴衆の間の偉大な師匠となった。彼女の生活ぶりと学芸の高さは市中で評判になり、彼女は万民にとってローマ教皇として選ばれるべき人となった。しかし、教皇位にある間に彼女は愛人の子を身籠った。正確な出産予定日時への無知から、サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう途中の、聖クレメント教会からコロッセオに向かう細い路地で彼女は出産した。死後、彼女は同じ場所に埋葬された。教皇は常にこの通りを避け、そうするのはこの出来事を嫌悪するからである。彼女が聖なる教皇の一覧に加えられることもないのは、女性であるためと、彼女にまつわることの汚らわしさの故である。

つまり、この出来事はレオ4世からベネディクトゥス3世の間の850年代に起きたとされている[1]

この話の別のバージョンがより古い時代のテキストにも登場する。

もっとも引用されるのは『教皇の書』(Liber Pontificalis)の写本のうちバチカンでみつかったものの中のアナスタシウス3世ビブオテカリウスについての記述部分であり、彼は女教皇と同時代人の筈である。

しかし、この記述は明らかにマルティンの後の時代の書体で、文脈とは全く関係のない位置に脚注として挿入されている。つまりこれはマルティンの記述を元に挿入されたものであり、論拠とはなりえない。また、Liber Pontificalisの他の写本には彼女の記述は見うけられない。

マリアヌス・スコトゥス (Marianus Scotus) が11世紀に執筆した「教皇についての年代記」(Chronicle of the Popes) についても同様である。彼女の名前について触れるもっと古いテキストである写本ではヨハンナという女教皇について触れているが、これら全ての写本はマルティンの時代よりも新しい。もっと古い時代の写本はこの伝説について全く触れていない。

女教皇の記述の見られる、マルティン以前のテキストは、ジャン・ド・マイイ (Jean de Mailly) が13世紀にマルティンよりわずかに早く執筆した年代記Chronica Universalis Mettensisだけである。彼は女教皇の時代を850年代ではなく1099年に設定し、こう書いている。

彼女は人格と才能によって重要な秘書となり、やがて枢機卿となり最終的に教皇となったが実は男に変装した女性であったために教皇やローマ司教の中には数えられていない。ある日、騎乗している時に、彼女は子を産み落とした。即座に、ローマの正義により馬の尻尾に足をくくりつけられ半リーグひきずられ人々から石を投げつけられた。彼女は死んだ場所で埋葬され、その場所には"Petre, Pater Patrum, Papisse Prodito Partum"(おおペトロ、父達の父よ、女性ローマ教皇の出産を裏切ってください)という文が刻まれた。同時に「女教皇の断食」と呼ばれる4日間の断食がはじめて行なわれた。

14世紀以降の記述[編集]

De Claris Mulieribusにある女教皇ヨハンナが出産する場面

13世紀の中頃以降、中世およびルネサンスを通じて、この伝説は広く伝えられ信じられていった。

14世紀の作家ジョヴァンニ・ボッカッチョDe Claris Mulieribusの中で彼女について述べた。

アスクのアダム(1404年)による「年代記」は彼女の名前をアグネスであるとし、さらにローマに彼女のものとされている像があることを述べた。しかし、それ以前には像の記述はない点からすると、おそらくそれは別の人物の像であり、後に彼女のものとされたにすぎないのであろう。

14世紀末の版のローマ巡礼のためのガイドブック、Mirabilia Urbis Romaeにはサン・ピエトロに女教皇の遺骸が葬られたと書いている。

ヤン・フス1415年の裁判に臨んで、「教会は必ずしも教皇を必要としない、なぜなら"アグネス教皇"の在位期間も、物事はうまくいっていたからだ」と主張した。相手方はフスの意見は教会の独立性について何も証明しないと主張はしたが、女教皇の実在については争わなかった[2]

15世紀の学者、バルトロメオ・プラティナはシクストゥス4世の命令で1479年Vitæ Pontificum Platinæ historici liber de vita Christi ac omnium pontificum qui hactenus ducenti fuere et XXを書いた。この本には女教皇について以下のような内容が含まれている。

教皇ヨハネス8世はマインツで生まれ、男装という悪の行為によって教皇の座についたという。───彼女は女性の姿で情夫である学者とともにアテネに赴き、そこで学業において目覚しい成果をあげた。その後ローマにやってくると、彼女と同等の者はほとんどおらず、まして聖書の知識で彼女を越える者はさらに少なかった。学術的で独創的な著作と論争術によって、彼女は大きな尊敬と権威を獲得し、(マルティンの述べるところによると)ローマ教皇レオ6世の死後、次の教皇に選ばれるべきは彼女だということは衆目の一致した見解であった。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂からコロッセオ劇場とに向かう途中、彼女を陣痛が襲った。彼女はそこで死亡した。在位2年1カ月4日であった。そしてそこへ儀礼抜きで埋葬された。───これは民間伝承ではあるが、何者かははっきりしないにしろ作者がいるので、短く述べるにとどめた。これは詳しく述べるとこだわっているかのように思われてしまうからだ。今後は、この話が全くの虚偽と考えられていない事態こそが誤りである、といっていくのが良いだろう。

また、シエナ大聖堂に歴代教皇の胸像が置かれていたが、レオ4世像とベネディクトゥス3世像の間に、「ヨハネス8世、フォエミナ・デ・アングリア」と名前のついた女教皇の像があった。

15世紀中頃にあらわれたタロットは、教皇とともに女教皇を含めている。女教皇のカードは女教皇ヨハンナの伝説を元にしているとしばしば示唆されている[3]

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の椅子[編集]

また、関連する伝説もあった。 1290年代にはドミニコ会士ロベール・デュセは幻視で「教皇が男であると証明したと言う」椅子を見た話を述べている。

14世紀にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にある、座る部分に穴の開いた、二脚の古代の大理石の椅子、sedia stercorariaは教皇の性別を判定する為のものだったと信じられていた。その使い方とは、まず教皇の候補者がで座り、枢機卿の委員会が下から穴を見て"Testiculos habet et bene pendentes"(「彼には、睾丸がある、そして、それはきちんとぶら下がっている」)と宣言する、というものだった。 15世紀の後半になるまで、9世紀の女教皇というスキャンダルに対抗してこの独特の習慣が設けられたと言われていた。

クレメンス8世による否定[編集]

1601年クレメンス8世は女教皇の伝説が事実ではないと宣言し、シエナ大聖堂にあった女教皇の胸像は破壊された。

伝説の分析[編集]

タロットの女教皇はヨハンナがモチーフと云われる

17世紀中ごろのプロテスタントの歴史家、ダヴィッド・ブロンデル (David Blondel) は、女教皇ヨハンナの伝説に疑いを向けた。女教皇ヨハンナの伝説は20代はじめに死んだヨハネス11世への風刺が元になったものではないかと提唱したのである。ブロンデルは女教皇の伝説の主張とそこから推定されうる時期について詳細に分析を行ない、そのような出来事は起こり得なかったと結論づけた。

現代の歴史家も同様の意見である。彼女の存在を示す資料は、彼女がいたとされる時代より400年ほど後の時代のものしかない。教皇が突然群衆の前で出産し石を投げつけられて死んだなどという事件を同時代人の誰も記録しないとは信じ難い。

レオ4世とベネディクトゥス3世の間に女教皇が存在したか[編集]

時間的な問題[編集]

850年代の教皇位の記録は不完全だが、それでもレオ4世とベネディクトゥス3世の間に、「ヨハン・アングリクス」なる人物がいたという説には説得力がない。

レオ4世が855年7月17日に死去し、アナスタシウス・ビブリオテカリウス教皇就任を宣言したが僅か2週間で支持を失い、855年9月29日にベネディクトゥス3世が教皇となった、ということは複数の歴史書で一致している。つまりトロッパウのマルティンのいう「ヨハン・アングリクス」が教皇となりうる期間は存在せず、まして2年間も教皇位につくことはありえないのである。

ベネディクトゥス3世が855年の末に教皇になったことは歴史書以外の証拠でも確かである。例えば、855年に鋳造された硬貨に、ベネディクトゥスが教皇として、ロタール1世が皇帝として表裏に描かれている。ロタールはベネディクトゥスが教皇に就任する前である855年9月29日に死んだが、ロタールがローマに居なかったため数か月間そのことはローマに伝わらず、このような貨幣が鋳造された。このことから、ベネディクトゥス3世の即位は855年9月近辺であると推定できる。 また、ランスのヒンクマルによる手紙には、ベネディクトゥス3世がレオ4世の死後すぐに教皇となったとある。ベネディクトゥス3世の次に教皇となったニコラウス1世の手紙でも確認できる。

867年から872年の間にウィーン司教のアド (Ado) によって書かれた年代記には、継承についてこのように簡単に記している:

ローマ教皇グレゴリウスが死ぬと、セルギウスが教皇に任じられた。そしてその死後はレオが継承した。さらに彼が死ぬとベネディクトゥスが使徒座についた。

9世紀において教皇制と敵対した者達が女教皇について何も語っていないことも注記に値する。例えばコンスタンティノポリスフォティオスは、858年に世俗の官僚からコンスタンティノポリス総主教となり、863年にローマ教皇ニコラウス1世によって廃位を宣言された人物であり、当然のことながら教皇とは敵対した。フォティオスはローマ教皇に対する自身の総主教としての権威を激しく主張しており、その時代の教皇制にどんなスキャンダルがあったとしても糾弾したはずである。しかし、彼の遺した多量の文書に女教皇の話はない。それどころか、彼は「レオとベネディクトゥス、ローマの教会で連続した偉大な司祭たち」と述べている。

17世紀にクレメンス8世が女教皇ヨハンナの不在を宣言した時に資料が改竄されたのだ、という主張もあったが、ヨーロッパの全ての修道院と図書館の文書から彼女の名前を取り除くのはほぼ不可能である。また、文書から文章を消したり偽造文書にすりかえたとしても、現代では文章の書かれた年代を文書の素材や書式などによってきわめて正確に判定できるから、改竄は容易に検出される。そして、13世紀以前の本から女教皇ヨハンナの記録が取り除かれたという証拠はない。逆に女教皇ヨハンナの記録が挿入されたことが示されている。

対立教皇として存在したか?[編集]

前述した対立教皇アナスタシウス・ビブリオテカリウスが女教皇ヨハンナの伝説のモデルになったと主張する向きもあるかもしれない。しかし、そうだとすると彼はその後の教会でのキャリアを失うはずである。しかしアナスタシウスは対立教皇として廃位された後、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会の修道院の大修道院長になり、その後枢機卿と教皇の司書となっている。もし彼が女性だと暴かれたならば、彼は決して枢機卿や司書とはなれなかったであろう。

彼とは別に僅か数週間教皇位にあった女性対立教皇アナスタシウスが存在したという証拠はないし、それが女教皇ヨハンナと同一人物であるとする理由はない。

1099年に女教皇が存在したか[編集]

1099年に女教皇が存在したとするジャン・ド・マイイの主張も、既知の歴史と噛み合っていない。確かにその頃教皇位には大きな混乱があった。1085年グレゴリウス7世の死後、何人もの候補者が教皇位をめぐって争い、皇帝とローマの人々の支持を受けたものが教皇位を勝ち取る情勢であった。ウルバヌス2世1088年に教皇となったが、ローマには対立教皇クレメンス3世が存在し、ウルバヌスは1097年までローマに居住できなかった。ウルバヌス2世が1099年7月29日に死ぬと、パスカリス2世、クレメンス3世、その他の対立教皇たちが教皇位を争った。この時期になら、女性が教皇あるいは対立教皇の一人となった可能性もあるが、ジャン・ド・マイイの言葉以外には証拠は何もない。現代に残る文書に教皇が出産を行なったという記述はないが、教皇の出産など当時の一大スキャンダルのはずだから、記録に残さないということはありえない。だからそのような出来事はなかったと言えるのである。

関係する事柄[編集]

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の椅子の正体[編集]

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の穴のある聖座は実際に存在し、バチカン美術館に今日もある。穴がある理由については諸説あるが、椅子とその穴は、女教皇ヨハンナの伝説より古いもので、さらにはカトリック教会成立よりも数世紀古いものであることから、教皇の性別判定とは全く関係ないことは明らかである。元はローマ時代ビデローマ皇帝一家の出産用の足のせ台であろうと仮説がたてられている。ローマ帝国あるいはローマ皇帝と関わりがあるものだとされていたため、ラテン語の称号、最高神祇官(Pontifex Maximus)と同様に、ローマ帝国の継承者としての立場を強調する意図をもって教皇たちが儀式に用いたのである。

中世の教皇たちの習慣[編集]

オパヴァのマルティンの言うように、中世13世紀の教皇たちはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂からサン・ピエトロの間の直線ルートを避けていたのは事実である。しかし、この習慣が13世紀より前から行なわれていたとか、ましてそれが9世紀の女教皇を意図的に拒絶するために始まったと言う証拠はない。この習慣の起源は不明であるが、これが女教皇伝説が広まったことから続けられ、女教皇時代まで遡る習慣と思われていたことはきわめてありそうなことである。

ヨハネス8世との関係[編集]

何人かの中世の作家は女教皇のことを「ヨハネス8世」と呼んでいるが、872年から882年の間教皇位にあった本物のヨハネス8世の人生は、女教皇のそれとは全くの別物である。

ヨハネス20世との関係[編集]

女教皇ヨハネスと関連付けられる問題に、ヨハネス20世が公式の教皇一覧に決して登場しないという事実がある。これは、ヨハンナの存在を抹消するために教皇を数え直したからだと言われることがある。実際、ヨハネス21世1276年に教皇になって間もない頃、10世紀ヨハネス14世ヨハネス15世の間に「もう一人の」教皇がいたという伝説が語られるようになっていた。オパヴァのマルティンは自分の年代記でこの教皇について触れている。現実には対立教皇ボニファティウス7世がその時に教皇位を占めていた。しかし、ヨハネス21世は「追加の」ヨハネス教皇の伝説に従って彼自身と14世以降の全ての教皇を数え直したのであり、史実からすれば彼は本来、ヨハネス20世のはずである。ゆえに教皇の数え方の混乱は女教皇の伝説とはまったく関係のないことである。

ヨハンナを扱った書籍[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 藤森緑 (2011). ザ・タロット. 説話社. p. 14. ISBN 9784916217929. https://books.google.co.jp/books?id=PmWJtcsVj7kC&pg=PA14#v=onepage&q&f=false 
  • ジャック・アタリ (2021). メディアの未来. プレジデント社. p. 33. ISBN 9784833424295. https://books.google.co.jp/books?id=wpVCEAAAQBAJ&pg=PT33#v=onepage&q&f=false 
  • ウィンストン・ブラック; 大貫俊夫; 内川勇太; 成川岳大; 仲田公輔; 梶原洋一; 白川太郎; 三浦麻美 et al. (2021). 中世ヨーロッパ. 平凡社. p. 173. ISBN 9784582447132. https://books.google.co.jp/books?id=l8wtEAAAQBAJ&pg=PT173#v=onepage&q&f=false 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]