台南神社
臺南神社 | |
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日本統治時代の台南神社 | |
所在地 | 台湾台南市南門町二丁目 |
位置 | 北緯22度59分22.7秒 東経120度12分9.7秒 / 北緯22.989639度 東経120.202694度座標: 北緯22度59分22.7秒 東経120度12分9.7秒 / 北緯22.989639度 東経120.202694度 |
主祭神 | 北白川宮能久親王 |
社格等 | 官幣中社 |
創建 | 1923年(大正12年) |
例祭 | 10月28日 |
地図 |
台南神社(臺南神社、たいなんじんじゃ)は、日本統治時代の台湾台南州台南市南門町二丁目(現在の中西区)にあった神社。 北白川宮能久親王を祭神としていた。第二次世界大戦の日本の敗戦後、廃社された。
祭神
[編集]歴史
[編集]台南神社境内は北白川宮能久親王の終焉の地である。能久親王は1895年(明治28年)10月28日に台南の豪族呉汝祥の家で薨去した。当初は、台湾の神社の中心となる台湾神社(のち台湾神宮)の候補地として挙がったが、同社は台北に創建された。その後、当地は台湾神社遥拝所となり、台湾神社が管理した。1920年(大正9年)、台湾総督府はここに工を起し、1923年(大正12年)10月27日社殿が設けられ、鎮祭し、無格社に列せられた。無格社時代には台湾神社の所管に属し、台湾神社から職員が派されてこれを守った。
1925年(大正14年)10月31日に官幣中社に昇格した[1][2]。例祭は台湾神社と同じく、能久親王の命日である10月28日[3]。
1926年(大正15年)10月30日、能久親王の未亡人である北白川宮大妃富子が台南神社を参拝した[4][注釈 1]。
台湾への中華民国軍進駐後は、台南市忠烈祠となった。さらに1972年(昭和47年)に日本と台湾が断交した際に、民国政府は「日本統治時代の日本の帝国主義的なものは全て取り除く」との命令を発し、それ以前から各地で跡地境内が改変されていたが、より本格的に多数で跡地が改変され、台南神社は体育場になった。
現状
[編集]かつての事務所が市定古跡に指定されている。旧址は体育場転移の後、台南市11号公園と小学校(忠義国民小学)になった。2005年(平成17年)に隣接地に小学校の校舎が新築され、跡地の地下30cmに神社の橋(戦後は「成功橋」と命名)が発見された。今は修復工事が完了した。
2019年1月27日、旧址である11号公園に台南市美術館2館が開館した[5]。
皇族の参拝
[編集]前後の日程で台湾神宮(台湾神社)を参拝している事例が多い。
北白川宮御遺跡所時代
[編集]- 1901年(明治34年)11月4日 - 北白川宮大妃富子[6]
- 1908年(明治41年)10月25日 - 閑院宮載仁親王[6]
- 1910年(明治43年)6月17日 - 北白川宮家の輝久王[6]
- 1917年(大正6年)10月26日 - 北白川宮成久王、同妃房子内親王[6]
- 1920年(大正9年)10月25日 - 久邇宮邦彦王、同妃俔子[7]
- 1923年(大正12年)4月20日 - 皇太子裕仁親王[7]
- 1925年(大正14年)6月2日 - 秩父宮雍仁親王[7]
台南神社時代
[編集]参考文献
[編集]台南神社社務所 編『台南神社誌』台南神社社務所、1928年3月。全国書誌番号:88090397。(NDLJP:1907486)
- 『臺灣鐡道旅行案内』(昭和十五年版)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 大正14年内閣府告示第11号(『官報』号外、大正14年10月31日)(NDLJP:2956106)
- ^ a b 大正14年台湾総督府布告第149号(『官報』第3974号、大正14年11月21日)(NDLJP:2956124/2)
- ^ 大正14年台湾総督府布告第150号(『官報』第3974号、大正14年11月21日)(NDLJP:2956124/2)
- ^ a b c 台南神社社務所 1928, p. 30(NDLJP:1907486/33)
- ^ 台南美術館あす開館 日本時代庁舎再利用の1号館、2号館は坂氏設計/台湾 2019-01-26,フォーカス台湾
- ^ a b c d 台南神社社務所 1928, p. 41(NDLJP:1907486/47)
- ^ a b c 台南神社社務所 1928, p. 42(NDLJP:1907486/48)
- ^ 台南神社社務所 1928, p. 29(NDLJP:1907486/32)