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内藤鳴雪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内藤鳴雪
(ないとう めいせつ)
ペンネーム 南塘・破蕉・鳴雪・老梅居
誕生 助之進
1847年5月29日
江戸
死没 (1926-02-20) 1926年2月20日(78歳没)
現・東京都港区
墓地 青山霊園
職業 俳人、評論家
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1892年 - 1926年
ジャンル 俳句
文学活動 ホトトギス
代表作 鳴雪俳句集・鳴雪自叙伝
配偶者 チカ(旧姓春日)
子供 3男・3女
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内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日弘化4年4月15日) - 1926年大正15年)2月20日)は、幕末伊予松山藩武士明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の『鳴雪』は、『何事も成行きに任す』の、当て字という。

生涯

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伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。8歳のときから父に漢籍を教わり、また、草双紙類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。当時15,6歳)と会っており、遊んで貰った事もあった[1]。1855年(安政2年)に、中屋敷在中に安政の大地震で被災するも、鳴雪を含め屋敷内関係者全員が無事だった[2]。1857年(安政4年)(11歳)、父の転勤で一家の故郷松山に移り、藩校明教館漢学を学び、また、剣術も習ったが、『武』よりは『文』に優れた。翌年房之進が京都留守居役となり、一家が8ヶ月だけ京都に住んだ時期にも、若党に芝居・寄席・義太夫へ連れられた。その後も長く芝居好きだった。

1863年(文久3年)(17歳)、元服して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、大原武右衛門正岡子規の母方の祖父)に漢詩を学んだ。1864年藩主の嗣子松平定昭小姓となり、翌年の第二次長州征伐に従った。1867年(慶応3年)、隠居した前藩主松平勝成の側付となり、(春日)チカを娶った。命じられて京都の水本保太郎の塾に学び、翌年水本の転勤に従って東京の昌平坂学問所へ入寮した。1869年、松山に戻り、翌年から権少参事として明教館の学則改革に携わった。1872年、学区取締となり、小学校・中学校の拡充に努めて、県令岩村高俊に認められた。1877年には、広島・岡山・山口・島根の連合教育会の議長に推された。

1880年(明治13年)(33歳)、文部省へ転じ、累進して1886年、書記官・往復課長となった。旧藩主久松家の諮問員に加わり、常盤会[3]寄宿舎監督を引き受けた。東京に学ぶ松山の子弟の寮である。

1890年明治23年)、参事官兼普通学務局勤務となって、翌年退官し、寄宿舎監督を続けた。寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の河東碧梧桐五百木瓢亭勝田主計らに、漢詩の添削をしてやった。1892年、21歳年下の子規を、俳句の師とした。子規の紹介で、伊藤松宇らの互選句会『椎の友』に加わった。俳風は、人柄そのままに恬淡・洒脱だった。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。

1893年明治26年)、久松家から旧藩事蹟取調を嘱託された。

1897年(明治31年)(50歳)、高浜虚子が東京で続刊したホトトギスの投句を選び、『老梅居雑話』ほかを掲載し、また、万朝報読売新聞中外商業新報日本人日本及日本人太陽などの俳句選者を輪番的に勤めた。

知られていなかった与謝蕪村の句集を探し合い、輪講してホトトギスに掲載。上梓されたのが『蕪村句集講義』である。博覧な人物だが、矢張り資料を揃えて輪講にのぞもうとしたところ、「月並みなことは止めておきましょう」と子規に言われ手ぶらで講義に臨んだ。このため同著について誉められると若干の後悔も残ったとされる。

1907年明治40年)に舎監をやめた後も、寮の世話役でいた。愛媛県教育協会の名誉会員を勤め、また、史談会の中心にもなった。

1917年(大正9年)(70歳)、旧寮生の発議による寿碑[4]、『元日や一系の天子不二の山』が、松山市道後公園に建ち、その除幕式に招かれた。その事の前に、東京では祝賀の演能が催され、『自然居士』のシテを高浜虚子が、ワキを河東碧梧桐が舞った。

1925年大正14年)、肋膜炎を病み、軽い脳溢血で臥床し、翌年、麻布笄町(現在の西麻布四丁目)の自宅で没した。『天真院鳴雪素行居士』。故人が1919年に青山霊園に設けた墓所へ、葬られた。

只たのむ湯婆一つの寒さかな


おもな文業

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単行本

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  • 『俳句独習』大学館 俳句入門叢書(1904)
  • 春夏芭蕉俳句評釈』大学館 俳句入門叢書(1904)
    • 『芭蕉研究資料集成 明治篇 作品研究1』クレス出版(1992)に収録
  • 秋冬芭蕉俳句評釈』大学館 俳句入門叢書(1904)
  • 七部集俳句評釈』大学館 俳句入門叢書(1905)
    • 『芭蕉研究資料集成 明治篇 作品研究4』クレス出版(1992)に収録
  • 春夏蕪村七部集俳句評釈』大学館 初学俳句叢書5(1906)
    • 『蕪村研究資料集成 作品研究3』クレス出版(1993)に収録
  • 『元禄二十家俳句講義』俳書堂(1906)
  • 秋冬蕪村七部集俳句評釈』大学館 初学俳句叢書(1906)
    • 『蕪村研究資料集成 作品研究3』クレス出版(1993)に収録
  • 『老梅居俳句問答』俳書堂(1907)
  • 『老梅居雑著』俳書堂(1907)
  • 『鳴雪俳話』博文館(1907)
  • 『鳴雪句集』俳書堂(1909)
  • 『俳句作法』博文館 通俗作文全書(1909)
  • 『鳴雪俳話と評釈』博文館(1909)
『春之部』『夏之部』『秋之部』『冬之部』の分冊と『春夏秋冬』との5冊
  • 『太祗俳句評釈』大学館 初学俳句叢書(1910)
  • 『中外俳句抄』求光閣書店(1914)
  • 『蕪村句集講義 春之部』籾山書店(1914)
  • 『鳴雪俳句鈔』実業之日本社(1915)
  • 『俳句のちかみち』広文堂(1916)
  • 『秀抜六千句』南北社(1917)
  • 『俳句はいかに作りいかに味ふか』アルス(1920)
  • 『俳句評釈』大日本俳句講習会(1921)
  • 『鳴雪自叙伝 (附録 鳴雪俳句抄録)』岡村書店(1922)、春秋社(1928)、青葉図書(1976)、岩波文庫(2002)
  • 松浦為王編『鳴雪俳句集』春秋社(1926)
  • 『俳話』大東出版社 大東名著選(1942)

共著

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  • 寒川鼠骨共編『春夏 大家規範俳句集』大学館 俳句入門叢書(1905)
  • 寒川鼠骨共編『秋冬 大家規範俳句集』大学館 俳句入門叢書(1905)
  • 子規・虚子碧梧桐との共編著『蕪村句集講義』ホトトギス発行所・俳書堂(全4冊、1900 - 1911)→ 平凡社東洋文庫(全3巻、2010 - 2011)
  • 武田鶯塘共著『句評及俳話』雲泉堂(1916.10)
  • 佐藤紅緑と共著『新しき俳句と其作法』金鈴社(1923)

俳句集を載せた文学全集類

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  • 『現代日本文学全集91 現代俳句集』、筑摩書房(1973)
  • 現代日本文学大系95 現代句集』、筑摩書房(1973)
  • 『日本近代文学大系56 近代俳句集』、角川書店(1974)
  • 『現代俳句集成2』、河出書房新社(1982.8)
  • 『群馬文学全集15』、群馬県立土屋文明記念文学館(2001.3)

脚注

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  1. ^ PHP新書 新選組証言録: 『史談会速記録』が語る真実 著者: 山村竜也106p
  2. ^ 洋泉社『幕末証言「史談会速記録」を読む』 著者:菊池明P15
  3. ^ [1]
  4. ^ [2]

参考文献

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関連文献

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  • 阿部里雪『新編 子規門下の人々』、愛媛タイムス社(1961)→愛媛新聞社(2004)
  • 畠中淳『松山子規会叢書 17 内藤鳴雪』、松山子規会(1985)
  • 稲村徹元『近代作家追悼文集成 20 滝田樗陰 内藤鳴雪』、ゆまに書房(1992)
  • 柴田宵曲『子規居士の周囲』、新版・岩波文庫(2018)

外部リンク

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