コンテンツにスキップ

代明親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
代明親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜4年(904年
薨去 承平7年3月29日937年5月12日
改名 将観 → 代明
官位 四品[1]または三品[2]中務卿
父母 父:醍醐天皇、母:藤原鮮子
兄弟 勧子内親王宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王都子内親王重明親王常明親王修子内親王敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王普子内親王時明親王長明親王源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
藤原定方
源重光源保光源延光恵子女王荘子女王厳子女王、ほか
テンプレートを表示

代明親王(よしあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は将観(まさみ)。醍醐天皇の第三皇子。官位四品または三品・中務卿

経歴

[編集]

延喜11年(911年)将観から代明に改名し、延喜19年(919年元服した。醍醐朝末から朱雀朝前期にかけて、弾正尹中務卿を務めた。

右大臣藤原定方の娘と結婚して多くの子に恵まれたが、承平6年(936年)妻に先立たれる[3]。妻の死後しばらく子供達とともに定方邸に住み、忌明けして妻の妹・九の君へ求婚。しかし、九の君が年若い藤原師尹と文を交わしている事を聞き、落胆して子供達を定方邸に置いたまま自邸に戻ったという(『大和物語』)[4]。妻の後を追うように翌承平7年(937年)3月29日に薨去享年34。最終官位は中務卿四品。

代明親王の邸宅は桃園親王と呼ばれた貞純親王の邸宅で、後に源保光(桃園中納言)、藤原師氏(桃園大納言)、藤原近信藤原伊尹家へ渡る。その後、藤原行成(親王の曾孫にあたる)の邸宅となり、行成はその邸内に寺を建立した。これが世尊寺である。

官歴

[編集]

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『日本紀略』
  2. ^ 『本朝皇胤紹運録』
  3. ^ 『日本紀略』承平6年3月18日条
  4. ^ 『大和物語』第九十四段
  5. ^ 『貞信公記』
  6. ^ 『御産部類記』1-11
  7. ^ 『政事要略』巻69
  8. ^ 『政事要略』巻28
  9. ^ 『貞信公記』承平7年4月3日条

関連項目

[編集]