コンテンツにスキップ

プラハ城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プラハ城
Pražský hrad
プラハ
プラハ城とカレル橋
プラハ城の位置(プラハ城内)
プラハ城
プラハ市内のプラハ城の位置
プラハ城の位置(プラハ中心部内)
プラハ城
プラハ城 (プラハ中心部)
プラハ城の位置(プラハ内)
プラハ城
プラハ城 (プラハ)
座標北緯50度05分23秒 東経14度23分54秒 / 北緯50.08975度 東経14.3984度 / 50.08975; 14.3984
種類宮殿
施設情報
一般公開博物館・美術館等は一般公開
現況チェコ共和国大統領府および博物館・美術館
歴史
建設870年
建設者ボジヴォイ1世
主な出来事プラハ窓外投擲事件
プラハ城の入り口

プラハ城(プラハじょう、チェコ語:Pražský hrad)はプラハにある。かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所である。ボヘミア国王の宝冠はここで保管されている。プラハ城は世界でも最も大きい城の一つであり(「ギネスブック」によると、最も古くて大きい城である)、敷地の広さは東西430メートル、南北70~140メートルで細長い形をしており、長さは約570m、平均の幅は約130mである。10世紀には既にこの大きさであったと考えられている。

城はフラチャヌィの丘の頂にある。その麓にマラー・ストラナという城下町がある。城と麓の高低差は80メートルもある。城まで続く坂道がネルドヴァ通りで、土産物店やレストランが並び市電も走っており賑やかである。上り詰めると城の正門に突き当たり、石畳のフランチャヌィ広場がある。この広場は、「アマデウス」や「レ・ミゼラブル」などの映画に登場している。

歴史

[編集]

築城については史実と伝説(リブシェ伝説など)が混在している。プラハ城の歴史は9世紀(870年)にさかのぼる。考古学の発掘調査ではボジヴォイ1世(在位870-894?)によって創建された。 壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会英語版であった。聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖イジー教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カール4世(=ボヘミア国王カレル1世)の支配の下、王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。聖ヴィートのロトンドとバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されたが、完成までにはほぼ6世紀かかった。

ボヘミアの宗教改革者とされ、ローマ教会によって火刑に処せられたヤン・フスの一派によるフス戦争の間とその後の10年、城は空位のままであった。1485年ウラースロー2世(ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)が城の再建に着手した。広々としたヴラジスラフ・ホールがベネディクト・レジェによって王宮に建設された。その後、城の北側には新しく防御の塔も建設された。1541年の大火で城は甚大な被害を受け、ハプスブルク家の支配下では、いくつか新しくルネサンス様式の建物が建設された。フェルディナント1世はベルヴェデーレを妻アンナのために夏の離宮として建設した。

ルドルフ2世はプラハ城を主たる居城とした。ルドルフは宮殿の北翼を建設し、そこにスペイン・ホールを作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。1618年に起きた2度目のプラハ窓外投擲事件白山の戦いの契機となり、戦闘の間にプラハ城は荒れ果てた。三十年戦争の過程で1648年、ルドルフ2世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った。

プラハ城の再建としては、18世紀後半に女帝マリア・テレジア(ボヘミア女王)が行ったものが最後となる。オーストリア皇帝フェルディナント1世(=ボヘミア王フェルディナント5世)は1848年の退位後、プラハ城を居城とした。1918年チェコスロバキア共和国の成立とともに、プラハ城には大統領府が置かれた。新王宮と庭園はスロベニアの建築家ジョゼ・プレクニク(Jože Plečnik)により修復された。

第二次世界大戦のさなか、ナチスによるチェコスロバキア占有中、プラハ城はラインハルト・ハイドリヒの本拠地となり、「ボヘミアとモラヴィアのライヒ公安」の本拠地となった。ラインハルトはボヘミアの王冠を頭上に載せたといわれ、彼自身も王のように振舞った。ボヘミアの王冠には、それを頭上に載せた簒奪者には1年以内に死が訪れるという伝説があったが[1] 、権力を握って1年も経たぬうちにハイドリヒは暗殺された。

チェコスロバキア解放の後は、プラハ城はチェコスロバキア社会主義共和国の共産主義政府が置かれた。ビロード革命の際、「プラハの春」の指導者だったアレクサンデル・ドゥプチェクヴァーツラフ広場に面したバルコニーに現れ、「ドゥプチェクを城へ!」と叫ぶ民主化デモの群衆の声を聞いた。彼らの声が、プラハ城にある国家指導者への椅子へとドゥプチェクを導き、彼は民衆にとって民主主義と自由のシンボルとなった。

チェコスロバキアがチェコ共和国スロバキア共和国に別れた後、プラハ城には新しくチェコ共和国の大統領府が置かれている。初代大統領トマーシュ・マサリクがプレクニクに依頼したのと同様、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領はポスト共産主義建築家としてプラハ城の改修に取り組むようボジェク・シーペク(Bořek Šípek)に委託、城のギャラリーの絵も修繕された。

2012年9月、トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた[2]

プラハ城の遠景とヴルタヴァ川にかかるカレル橋

プラハ城の建築

[編集]

プラハ城には、ゴシック様式の聖ヴィート大聖堂、ロマネスク様式の聖イジー教会のバシリカと修道院、そして宮殿、庭園、尖塔が含まれており、先の千年間のあらゆる建築様式を実態的にあらわしている。

城内の大部分は観光客に開かれており、現在、城の建物には国立美術館ボヘミアバロック部門、国立美術館ヨーロッパ絵画・中世部門、チェコの歴史について展示する国立歴史博物館、おもちゃ博物館、ルドルフ2世の収蔵品をもとにしたプラハ城絵画美術館といったいくつかの博物館が存在する。

また、夏のシェイクスピア演劇祭がプラハ城の中庭で定期的に開催されている。

プラハ城のある周辺はフラッチャニ(城の丘)と呼ばれている。プラハ全市の主な観光名所は深夜0時までライトアップされるが、フラッチャニに浮かぶライトアップされたプラハ城の姿は美しい。しかし、プラハの夏至前後はサマータイムの影響もあり、夜の22時近くにならないと完全に暗くならない。夜の治安も比較的安定しているプラハ市は、夜に名所を巡って歩く観光客も多い。プラハの他の名所のライトアップも見たいのなら、早く夜がやってくる秋こそ観光にふさわしい。

ライトアップされたプラハ城のファサード

教会

[編集]

修道院

[編集]

宮殿

[編集]

ホール

[編集]

[編集]

他の建築物

[編集]

[編集]

井戸と噴水

[編集]

階段

[編集]

庭園

[編集]

周辺

[編集]

付記

[編集]
  1. ^ Mirna Solic, 「ボヘミアのクラウン・ジュエルへの扉」The gate open to the Bohemian crown jewels at Radio Prague.
  2. ^ 死ぬまでに行きたい世界の名城25
  3. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年5月5日閲覧。
  4. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年5月5日閲覧。
  5. ^ 沖島博美『プラハ迷宮の散歩道 百塔の都をさまよう愉しみ』ダイヤモンド・ビッグ社、2016年、32頁。ISBN 978-4-478-04850-4 

外部リンク

[編集]