バー・ウ
バー・ウ | |
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ဘဦး | |
ビルマ連邦 2代大統領 | |
任期 1952年3月13日 – 1957年3月13日 | |
首相 | ウー・ヌ バー・スエ |
前任者 | サオ・シュエタイッ |
後任者 | ウィン・マウン |
個人情報 | |
生誕 | 1887年5月26日 イギリス領インド帝国ビルマ州下ビルマパテイン |
死没 | 1963年11月9日(76歳没) ビルマ連邦ヤンゴン |
国籍 | ビルマ連邦 |
政党 | 反ファシスト人民自由連盟 |
配偶者 | Daw Nyein Daw Aye |
教育 | MA (Cantab), LLD |
出身校 | ケンブリッジ大学 |
職業 |
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受賞 | Thiri Thudhamma Thingaha |
バー・ウ(Ba U、ビルマ語: ဘဦး、発音 [ba̰ ʔú] バ・ウー、1887年5月16日 - 1963年11月9日)は、ビルマ(ミャンマー)の政治家・弁護士。1948年から1952年までビルマ最高裁の首席判事をつとめ[1]、1952年3月13日から1957年3月13日までビルマ連邦2代大統領に就任した。
経歴
[編集]生い立ちと教育
[編集]1887年5月16日、イラワジ・デルタのパテインで、父ウー・ボーフラ(ဦးဘိုးလှ; U Poe Hla)と母ドー・ニュン(ဒေါ်ညွန့်; Daw Nyunt)の間に生まれた[2]。国立ラングーン高校(Rangoon Government High School)の大学進学クラスを経て、1907年にケンブリッジ大学に留学する。法学を専攻し、1912年に卒業した[3]。1950年代初頭に、ラングーン大学に文学の名誉博士号を授与された[3]。
キャリア
[編集]1913年から1912年まで、ラングーンで弁護士として働いていた。1921年には郡判事(discrict judge)となり、1932年よりラングーン高等法院の判事となる。1948年から1952年までビルマ最高裁の首席判事をつとめた。1947年にはナイトを叙任される。英領ビルマ・日本占領下のビルマ・独立後のビルマのすべてで判事として活動した[2]。また、ビルマ連邦の独立時、憲法起草にかかわった[4]。
反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の党員であり[2]、1952年3月13日、ビルマ連邦初代大統領サオ・シュエタイッに代わり、2代大統領として宣誓をおこなった。1957年3月13日まで、5年間大統領職を務めた[4]。1958年に自伝である Ba, My Burma: The Autobiography of a President を出版した[2]。
参考文献
[編集]- ^ Zan, Myint. “Judicial Independence in Burma: Constitutional History, Actual Practice and Future Prospects”. Southern Cross University Law Review 4: 45 .
- ^ a b c d Ba U (1958). My Burma: The Autobiography of a President. New York: Taplinger Publishing. ISBN 978-1258087005
- ^ a b “Zan, Myint --- "The First and Fiftieth Years of Independent Burma's Law Reports" [2004 VUWLawRw 14; (2004) 35(2) Victoria University of Wellington Law Review 385]”. austlii.edu.au. 2019年8月30日閲覧。
- ^ a b Aung, Wei Yan (2019年3月13日). “On This Day | Post-Independent Myanmar’s Second President Takes Oath of Office” (英語). The Irrawaddy. 2023年11月9日閲覧。
公職 | ||
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先代 サオ・シュエタイッ |
ビルマ連邦大統領 1952年 – 1957年 |
次代 ウィン・マウン |