タラワ (空母)
艦歴 | |
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起工 | 1944年3月1日 |
進水 | 1945年5月12日 |
就役 | 1945年12月8日 |
退役 | 1960年5月13日 |
その後 | 1968年10月3日に売却、ボルティモアで廃棄。 |
除籍 | 1967年6月1日 |
性能諸元 | |
排水量 | 27,100 トン |
全長 | 888 ft (270.6m) |
艦幅 | 93 ft (28.4 m) |
全幅 | 147.5 ft (45 m) |
吃水 | 28.7 ft (8.8 m) |
機関 | ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp |
最大速 | 33 ノット (61 km/h) |
乗員 | 士官、兵員3,448名 |
兵装 | 5インチ(127 mm)連装砲4基、5インチ単装砲4基 4連装40mm機銃8基、20mm機銃46基 |
搭載機 | 90 - 100 |
タラワ(USS Tarawa, CV/CVA/CVS-40)は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦。艦名は太平洋戦争の激戦地タラワ環礁(タラワの戦い)に因む。
艦歴[編集]
就役~予備役編入[編集]
タラワは1944年3月1日、バージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所で起工する。1945年5月12日、ジュリアン・C・スミス夫人(タラワの戦いで第2海兵師団を指揮したジュリアン・C・スミス海兵隊中将の妻)によって命名、進水し、1945年12月8日、アルヴィン・インガソル・マルストロム艦長の指揮下就役する[1][2]。
就役後は1946年2月15日までノーフォークに留まった後、キューバのグアンタナモ湾付近で整調航海を行い、4月16日にノーフォークに帰還する。その後ニューヨークを訪れ、4月30日に再びノーフォークに帰還する。
整調航海後のオーバーホールを行い、6月28日にハンプトン・ローズを出港し西海岸に向かう。パナマ運河を7月初めに通過し、15日にカリフォルニア州サンディエゴに到着する[1]。
訓練及び調整後、タラワはサンディエゴを出港、西太平洋へ配備となる。8月7日に真珠湾に到着、その後も西へと向かう。8月20日サイパンに到着し、9月後半までマリアナ諸島近海で活動した後日本へと向かう。9月28日に横須賀に到着、10月3日まで停泊した後佐世保に向かい10月7日から11日まで停泊する。その後中国の北部海岸に向かい15日に青島近海に到着、同水域で30日まで活動した後マリアナ諸島に向かう。11月7日にサイパンに到着、マリアナ海域で作戦行動に従事する。
沖縄へ短期間寄港した後1947年1月には戻り、14日にグアム島を出港し真珠湾へ向かう。1月24日に真珠湾に到着、2月18日までハワイ水域で艦隊訓練に従事した後、クェゼリン環礁へ向かう。タラワは第57任務部隊の1ユニットとなり、3月前半まで第38任務部隊の空母に対する攻撃演習に参加した。3月11日に真珠湾へ帰還し、その後西海岸に向かい4月29日にサンフランシスコに到着する[1]。
サンディエゴ出港以来16ヶ月以上にわたる航空作戦を終えた後、タラワは1948年9月28日にサンディエゴを出港し世界巡航を行う。10月第2週の終わりに真珠湾に寄港、続いて最初の寄港地中国の青島に10月29日到着する。青島では5週間にわたって停泊し、12月の初めに香港およびシンガポールへ向かう。シンガポールを12月23日に出港し、新しい独立国のセイロンへ向かい、首都のコロンボに12月29日到着する。同地を1949年1月2日に出港しペルシャ湾でバーレーンとジェッダを訪問、その後スエズ運河を1月20日~21日にかけて通過する。タラワはギリシア、トルコおよびクレタ島への航海を継続した。2月8日に地中海を横断し、ジブラルタルに12日~13日の間停泊する。続いて大西洋を横断し、2月21日にノーフォークに帰港した。その後、初夏まで東海岸沿いおよびカリブ海の水域で通常任務に従事した。
第二次世界大戦後の海軍の縮小に伴い、この時期までに他の同型艦の多くが予備役となっていた。タラワはやや長く現役にあったものの、不活性化オーバーホールの後1949年6月30日に退役し大西洋予備役艦隊に編入された[1]。
再就役[編集]
タラワの予備役は18ヶ月ほど続いたが、朝鮮戦争が始まると1950年11月30日に再就役の決定がなされる。1951年2月3日にタラワはロードアイランド州ニューポートでJ・H・グリフィン艦長の指揮のもと再就役した。
朝鮮戦争のため再就役したものの、タラワは実戦参加することはなかった。より正確に言うと、第6艦隊および第2艦隊の空母が戦地に派遣されていたため、タラワはその代わりとして用いられた。1952年10月1日に艦種変更がなされ、攻撃空母(CVA-40)となる。1954年春には朝鮮半島水域に到着するが、1953年7月に休戦協定が結ばれていたため実戦を経験することはなかった[1]。
タラワは1954年9月に東海岸へ帰還し、通常任務を再開した。12月に対潜水艦作戦支援空母への転換およびオーバーホールのためボストン海軍造船所に入渠する。転換のための改修作業中の1955年1月10日に艦種変更が行われ、分類番号は CVS-40 となった。転換作業はその夏完了し、整調後にタラワはロードアイランド州クォンセット・ポイントを拠点として作戦活動を行い、対潜水艦戦航空団を指揮しながら訓練を行った。その秋に対潜水艦攻撃第4グループとの演習に参加し、その後クォンセット・ポイントに帰還すると翌年春の演習準備を行った[1]。
1958年8月から9月の間にタラワは海軍第88任務部隊の一部としてアーガス作戦に参加した。同作戦は高高度大気圏での核実験であった[1]。
その後、大西洋艦隊に所属しての活動が続いた。クォンセット・ポイントおよびノーフォークから東海岸で活動し、しばしばカリブ海水域で演習を行った。その後のタラワの任務はおおむね大西洋艦隊のためのパイロット訓練と、ますます増大するソ連潜水艦の脅威に対する偵察任務が占めることとなった。
退役[編集]
エセックス級のうちSCB-27やSCB-125といった近代化改装を受けず、強襲揚陸艦や練習空母といった役割も持たない艦は1960年までに次々と退役していった。タラワも1960年5月13日に退役して予備役に編入され、ペンシルベニア州フィラデルフィアで保管状態が続いた。1961年5月に艦種変更されて航空機輸送艦(AVT-12)となったがこれは形式的なもので、そのまま現役に復帰する事なく1967年6月1日に除籍された。
船体は1968年10月3日にスクラップとしてメリーランド州ボルティモアのボストン・メタルズ株式会社に売却された[1][3][4]。
タラワは竣工が第二次世界大戦に間に合わず、その後もほぼ大西洋での活動に終始したため、結果的にはエセックス級の中で唯一実戦に投入されなかった。
関連項目[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- Silverstone, Paul (2011). The Navy of the Nuclear Age, 1947–2007. Routledge. ISBN 9781135864668
- “Tarawa I (CV-40)”. www.history.navy.mil. 2017年6月5日閲覧。
- “A Brief History of U.S. Navy Aircraft Carriers Part III - Post War (1945-1949)”. www.navy.mil. 2017年6月5日閲覧。
- “A Brief History of U.S. Navy Aircraft Carriers Part V - Space and Vietnam”. www.navy.mil. 2017年6月5日閲覧。