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クリストバル・トリエンテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クリストバル・トリエンテ
Cristóbal Torriente
基本情報
国籍  キューバ
出身地 サンタ・クララ州シエンフエーゴス
生年月日 1893年11月16日
没年月日 (1938-04-11) 1938年4月11日(44歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 中堅手
プロ入り 1912年
初出場 NLB / 1913年
最終出場 NLB / 1932年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 2006年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会選出
殿堂表彰者
選出年 1939年

クリストバル・トリエンテCristóbal Torriente , 1893年11月16日 - 1938年4月11日)は、キューバサンタ・クララ州(現:シエンフエーゴス州シエンフエーゴス出身のプロ野球選手中堅手)。左投げ左打ち。

経歴

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1912-1913シーズンにキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のレオネス・デル・ハバナプロ野球選手としてのキャリアを始めた。1913年からアメリカ合衆国ニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (ウェスト)に所属。投手としても15勝5敗の成績を残した。他に左利きにもかかわらず二塁手三塁手までこなした。

革命前のキューバリーグでは最高となる通算打率.352を記録している。1920年メジャーリーグベースボールニューヨーク・ジャイアンツがキューバを訪れ、キューバチームと9試合の親善試合を行ったが、ベーブ・ルース先発した試合で、ルースから2本の本塁打と1本の二塁打を放っている。

ニグロリーグでは1918年から1925年までシカゴ・アメリカン・ジャイアンツ中堅手として活躍。1920年にニグロナショナルリーグが創設されると、当時所属していたジャイアンツのリーグ3連覇(1920年から1922年)に貢献した。1920年と1923年首位打者のタイトルを獲得した。

1926年オフにトリエンテ愛用の紛失したダイヤの指輪を巡ってオーナーと対立し、カンザスシティ・モナークスへ移籍した。

1932年クリーブランド・カブスでプレーしたのを最後に現役を引退した。

アルコール使用障害に長く苦しんだ後、1938年4月11日にアメリカ合衆国のニューヨーク結核のため、死去。44歳没。

死の翌年の1939年キューバ野球殿堂入りを果たした[1]

2006年ニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。

選手としての特徴

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広い守備範囲と素早く正確な送球が出来る強肩を売りにし、40年後のメジャーリーグの選手であるロベルト・クレメンテと比較されるほどの5ツールプレイヤーだった[2]マーティン・ディーゴホセ・メンデスとともに20世紀前半のキューバを代表する偉大な黒人プレイヤーである[3]

バッドボール・ヒッター&プルヒッターとして知られ、400フィートと書かれたセンターフェンスにライナーをしょっちゅうぶつけていた。カンザスシティ・ミュニシパル・スタジアムで行われたある試合では、センター後方にあった球場の時計をライナーで壊してしまったという[4]

詳細情報

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獲得タイトル

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NLB

各国リーグ通算打撃成績

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脚注

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  1. ^ Cuban Baseball Hall of Fame” (英語). Baseball-Almanac.com. 2013年4月21日閲覧。
  2. ^ Torriente compared with Clemente” (英語). MLB.com. 2013年4月21日閲覧。
  3. ^ Torriente admired by Major Leaguers” (英語). MLB.com. 2013年4月21日閲覧。
  4. ^ THE ONE-MAN TEAM -- CRISTOBAL TORRIENTE” (英語). SABR.org. 2013年4月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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