プロジェクト‐ノート:紀年法/ガイドライン

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本ノートページは、「ガイドライン」についての検討・議論の場です。「ガイドライン」の改正を議題に含まない個別の紀年、紀年法についてのコメントはWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 紀年法にお寄せください。

元号記事の書式を定めた元号記事フォーマットについての検討は、Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 紀年法/元号記事フォーマットで行っています。

その他関連記事についてはページ最下部のカテゴリ「ウィキプロジェクト 紀年法」を参照してください。

過去ログとその要約[編集]

これまでの過去ログと主な論点を示します。--Novo 2007年6月2日 (土) 14:38 (UTC)[返信]

  • 正式リリース(2007年6月2日)まで
    • 元号記事
      • 記事構造(レイアウト):現在Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 紀年法/元号記事フォーマットで検討中。
      • プロジェクトへのリンク:冒頭部末尾に{{ウィキプロジェクトリンク|紀年法}}を張る。次節と重なる場合間に2行の間を空ける。
      • カテゴリ:中国の分裂時代の元号については記事数が増えるまで各王朝ごとのカテゴリは設けないことで合意。「隋の元号」に隋末唐初の私年号を含めることで合意。
      • 「中国周辺」カテゴリ:「中国周辺」カテゴリの設置について合意。その範囲について一部合意。
    • 西暦年記事
      • 全般的なこと:書式について。前近代と近代とを分けることの是非。
      • プロジェクトへのリンク:節からのリンクと凡例の設置のためTemplate:他の紀年法を作成。
      • 「五胡十六国」・「十国」の分類:分類項を設けず、全て平等に扱う。私年号のみを一段右寄せする。
      • 共和暦:「フランス革命暦」への名称変更で合意。
      • 月日:暦日の記入は暦法の専門家による典拠の提示をまって行う。
      • 国王・天皇即位紀年:在位紀年の記入は元号のない場合の代用と位置づける意見と、在位紀年をより積極的に記入すべきとする意見が出る。クビライ即位以前のモンゴル帝国ハーン在位紀年、遼太祖在位紀年の記入で合意。
      • 他の紀年法の範囲:1581年以前の西暦年記事はユリウス暦基準であることの確認。
      • 基準想定外紀年の対処:Wikipedia他言語版からの孫引き排除、出典明示義務の確認。
    • 私年号について:カテゴリ「私年号」「日本の私年号」「中国の私年号」作成で合意。私年号記事のモデル指定。出典提示義務の確認。
    • 正式リリースのスケジュールについて:西暦年記事モデル、中国・朝鮮分類の下限についての検討。仏滅紀元をタイ基準にすることで合意。

正式リリースに当たって[編集]

プロジェクトの正式リリースを実行し、本ガイドラインは発効しました。参加者のみなさまからは、これまで長期間にわたる検討に多くのご意見とご協力をいただき、ありがとうございました。特に私の進行の不手際によって、中国元号の記事をこれまで最も多く投稿してこられたYonoemonさんの脱退を招くご迷惑をおかけしたことを改めておわび申し上げるとともに、議事進行を適正な軌道に戻すべくご助力をくださった参加者のみなさまに厚くお礼申し上げます。

また、Yonoemonさんのご希望に従い、参照者の少ない本ページでの議論をより開かれたものとするために、すでにYonoemonさんが問題提起をされたノート:遼のほか、ノート:金 (王朝)ノート:西夏ノート:モンゴル帝国ノート:後金ノート:清Wikipedia:コメント依頼に議論への参加を呼びかける投稿を行いました。結論を保留する妥結が成立しており、呼びかけが遅きに失したことを後悔しておりますが、これまでより専門的なコメントが寄せられ、最終結論が出る日の来ることを願っております。

なお、Yonoemonさんは脱退に当たって本ページでその理由と所信を明らかにはされませんでしたが、ご自身の決断に基づく行動であり、尊重すべきものと考えます。しかしこの結果についての本プロジェクトに対する責任は私にもあると考えており、正式リリースにこぎつけた今、私が立ち上げ人として引き続き議事進行を務めることは、プロジェクトの運営にとって好ましくない影響をもたらすのではないかと憂慮しております。ここに参加者のみなさまに対し、進行役の辞意を表明いたします。今後は一参加者として、ガイドラインに従い、紀年法関連記事の充実に専念する所存であり、プロジェクトの方針策定やプロジェクト外との折衝・調整については、これまでより一歩下がって、他の参加者のみなさまとより平等な立場から、最低限の関与をするにとどめたいと希望しております。

この機会にひとつ申し送りたい事項がございます。#分類問題(その2)節において地域分類設置の是非を議論した際に、私は分類反対の理由として鄭氏政権や台湾民主国など台湾関係の私年号の分類が難しいことを挙げましたが、Yonoemonさんから「中国」分類で問題ないとのコメントを受け、話を前に進めた経緯があります。元号記事の方は記述を工夫できると思いますが、保証を出したYonoemonさんが去られた今、「他の紀年法」節における分類にクレームがついた場合の対応について深刻に懸念しております。個人的にはプロジェクト参加者から積極的に記入はせず、したい人に任せる方がいいのではないかと考えますが、プロジェクト範囲内事項への対処法としては無責任かもしれず、苦慮しております。参加者のみなさまもご留意いただければ幸いです。

長い間ご協力をいただきましたことに、いま一度お礼を申し上げます。今後とも共同作業は続けていきたく存じますので、よろしくお願いいたします。--Novo 2007年6月2日 (土) 14:38 (UTC)[返信]

元号記事[編集]

西暦・干支との対照表[編集]

西暦・干支との対照表の書式について、明の年号についてはすべて変更済みなのですが、例えば永楽 (明)のような表の書き方がおすすめです。tableタグのborder属性、cellspacing属性は、XHTML 1.0では「使わないほうがよい属性」なんだそうです。ソースもちょっとすっきりしますし。あと、二段以上になる場合は、右下にできる余った部分についても、空白のセルを入れてあります。--oxhop 2007年3月26日 (月) 13:48 (UTC)[返信]

永楽 (明)拝見しました。整ってて見やすいですね。新羅年号の記事に参考にさせていただきます。--田英 2007年3月26日 (月) 14:08 (UTC)[返信]

以下の記述は、話題の明確化のために上記「#記事構造(レイアウト)」の節にあったものをこちらに移動しました。--田英 2007年4月22日 (日) 07:12 (UTC)[返信]

元号記事への他の元号の併記については、対照の範囲(三国、南北朝、五胡十六国、宋遼金元、辺りは群として分かりやすいのですが)をどこまでとするのかという点で慎重を期すべきですが、敢えて反対はしないつもりです。また、世紀記事・10年紀記事はともかくとして、元号記事と西暦記事への掲載は択一のものではなく、どちらもあってよいものだと思いますので、着手の優先付けで良いかと考えます。--田英 2007年3月11日 (日) 12:51 (UTC)[返信]
フォーマットについて、今まで既存の記事を示していましたが、いろいろなバリエーションがあって特定の年代の記事では当てはまらないことが多いので、元号記事フォーマットを作成してみました。「他の元号との対照表」も入れてあります。--Novo 2007年3月22日 (木) 00:29 (UTC)[返信]
「他元号との対照表」ですが、対照元号が数件の場合は元号記事フォーマットのものが閲覧に最も適していると考えますが。、一番複雑になると思われる隋末唐初のものとして永隆 (梁師都)を作成してみました。元号対照が必要な閲覧者には便利と思われますが、いまいち冗長の感が否めなくもありません。より簡潔な表記法のアイデアがあればよろしくお願いします。--Yonoemon 2007年4月4日 (水) 23:53 (UTC)[返信]
大作拝見しました。気になった点として手を入れさせてもらったのですが、[[○○|○○x]]年というリンクではなく、[[○○]]x年としておくべきではないでしょうか。あと、やはり同じ表の中に西暦年は欲しいと感じました。そして、新羅と高昌には少し違和感を覚えました。
それぞれの政権が滅んだ後の2段目が、また寂しい感じがしますね。私からは簡潔な表のアイデアを出すこともできませんので、表にするよりも同年代元号の列挙(zh:黄初のような)との選択性にしてはどうでしょうか。並列元号が数件の場合は元号記事フォーマットで問題ないということには同意です。--田英 2007年4月5日 (木) 12:18 (UTC)[返信]
訂正ありがとうございます。[[○○|○○x]]年というリンクは、[[○○]]x年の件了解しました。何故そのようなリンクにしたのか自分でも理解できなく、何か勘違いしていたようです。
また西暦を入れる点も同感です。並列元号が多い場合は適宜西暦を追加しましょう!
表以外の並列元号の列挙という方法も考えたのですが、多数の元号が入り乱れ複雑だからころそ一覧表の価値があるように思えてなりません。逆に並列元号は少ない場合は列記方式でもいいのではとも感じています。
元号の2段目はちょいと寂しい気がするので、横軸を12年まで延ばしてみました。また新羅と高昌に関しては違和感があるので、セルに着色してみましたが余計違和感が際立ったような気がします。さてどうしたものでしょうか…--Yonoemon 2007年4月7日 (土) 09:27 (UTC)[返信]
使用期間が10年前後までの元号であれば対照表は気にならないですが、20年を超えるとなると元号記事のなかに西暦対照と多元号対照の2種の表が存在するのはやはり冗長だと思います。これについては、早い段階でoxhopさんが指摘されていることですが、西暦干支対照と多元号対照とを一本化するほうがよいのではないでしょうか。◆新羅・高昌の違和感について。中国地域の元号記事には中国周辺地域(朝鮮・ベトナム含む)の元号を対照させるニーズは薄いのではないでしょうか。逆に中国周辺地域の元号記事には中国地域の主たる元号の対照が欲しい、と感じました。例えば、新羅元号には隋唐のそれが欲しいが高昌までは要らないだろう、隋唐の元号には新羅や高昌の元号は要らないだろう、高昌元号には隋唐のそれは欲しいけれども新羅は要らないだろう、ということです。中国王朝中心主義的かもしれませんが。◆先に西暦年記事のほうを固めたいこともありますので、こちらはちょっとゆっくり考えることにしたいです。--田英 2007年4月8日 (日) 12:43 (UTC)[返信]
至元 (元世祖)をYonoemonさんに倣って編集してみたのですが、恐らくYonoemonさんも編集を躊躇されていたのではないかと思いました。対照元号が南宋だけだと、非常に情けない表になってしまいました。これは西暦・干支・他の元号との対照を一表にしてしまったほうがいいケースもある、ということになるでしょうか?(それはさておき作業の大変さを実感。ここまで黙々と元号記事の表の入れ替え・対照表の作成を進めてこられたYonoemonさんの労に頭が下がります。)--田英 2007年4月13日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
宋、金、遼、元あたりは西暦・干支・他の元号をひとつの表にまとめた方が見た目はいいと感じています。至元のような表記になるとそのしょぼさは覆い隠しようがないですもんね…対照元号が極めて限定される場合は、個別対応でまとめる方向で合意を探ってはいかがでしょう--Yonoemon 2007年4月16日 (月) 03:18 (UTC)[返信]
ひとまず南宋の元号(建炎祥興)について、金、西夏、元の元号対照をひとまとめにする整形を終えています。紹定から開慶まで、モンゴル帝国のハーン在位は元号ではないので、表には組まずに==その他の王朝==として外出ししたままです。--田英 2007年4月22日 (日) 07:12 (UTC)[返信]

これまで合意のないままにすすめてしまいましたが、宋(北宋・南宋)に遼・金・元・西夏の元号を対照させています。また渤海に唐を対照させました(元号を用いていない新羅王を列挙したのは余計だったかもしれませんが)。遼・金・元や唐のほうでどうするか、渤海には日本を対照させたほうが良かったかもしれない(渤海使の交流という視点から)、とも思うのですが、やはり王朝・政権ごとの対照先は緩やかにでも合意形成しておいたほうがよいと感じました。もう一点、宋の元号に西夏を対照させる際に、二次資料によって西暦年比定の異なるケースがあって、いったんは依拠資料を明示する対処としましたが、明示の仕方などについても検討しておきたいと感じました。経緯は熙寧と、ノート:天賜礼盛国慶に記しています。--田英 2007年5月8日 (火) 14:05 (UTC)[返信]

対照の範囲については議論の進行にお任せいたしますが、西暦年比定のずれについては「他の紀年法」での記述にも影響しますね。多分書いていくうちにほかにも発見されると思いますので、ある程度のところで依拠資料の決め方など、まとめて検討する必要がありますね。--Novo 2007年5月8日 (火) 16:10 (UTC)[返信]
一番面倒な元号対照の作業に着手された田英さんにまずは尊敬の念です。どこまで対照に組み入れるかですが、渤海などは日本との交流及び、新羅との対立もあるので、対照表の形で整備したほうが親切かもしれません(あくまでも便宜ですので新羅の場合は王位で◎でしょう)。『渤海簡史』や『渤海史稿』などでも唐以外に日本、新羅ともに記載があります。
隣接する政権で、ある程度の交流が認められる場合は柔軟に対応でいかがでしょうか?
西夏に関しては西暦比定に諸説あり、またどれも同様に有力な定説になっていないという現状です。ただし『東方年表』は初版が古いので、新しい研究成果を反映させた方が無難な内容になるのではと個人的には考えています。新しいもので一致しているものを優先させ、『東方年表』が異なる記述をする場合、それを別記という案はいかがでしょうか?--Yonoemon 2007年5月9日 (水) 00:07 (UTC)[返信]
(対照)ひとまずは「隣接する政権である程度の交流のある場合」というごく緩やかな基準ですね。了解しました。ただしガイドラインとしては、まだ、対照をつけていくことの義務化はせずにおいたほうが良いと思いました。日本の元号記事に唐や渤海を対照させていくことにはすこし不安がありまして、日本史の分野で活動されている方々のご意見を伺っておきたい、と感じたのと、西暦年記事の整備と曖昧さ回避対策とを優先で処理していこうと考えた次第です。
(西夏)異同のある場合は新しい研究成果を採る(具体的には李崇智《中國歷代年號考》、鄧洪波《東亞歴史年表》)で了解しました。ひと段落したところでまとめて再確認を行いたいと思います。
--田英 2007年5月10日 (木) 12:35 (UTC)[返信]

カテゴリ[編集]

「中国周辺」元号記事のテンプレートについて再提案[編集]

上節の議論をうけて、再提案させていただきます。

最初の提案の書き方がまずかったのですが、テンプレートについては、カテゴリ設定との連動の問題はむしろ副次的なもので、私が申し上げたかったのは、「中国周辺」に分類された王朝の元号記事に「中国の元号」テンプレートを貼ることそのものへの違和感でした。そこで改めて以下のように提案させていただきますので、ご検討をいただければ幸いです。

  • 「中国周辺」分類が確定した王朝及び現在分類について検討中の王朝の中で、「中国」王朝との連続性がある王朝(西遼、北元、初期の契丹及び遼、初期の金、後金、初期の清、つまり分類検討中の王朝のほぼすべて)についてはTemplate:中国の元号を用いる。ただし契丹、遼、西遼については遼の分類についての議論の結果に応じて決める。
  • 「中国周辺」分類が確定した王朝のうち、「中国」王朝との連続性がない王朝(柔然、高昌、渤海、南詔、吐蕃、于闐、大理、西夏)については、
    1. Template:中国の元号を用いないで、簡略なテンプレートを用い、元号一覧 (中国)は関連項目に挙げる。
    2. または新しいテンプレートを作成して用いる。

「他の紀年法」節と少し異なる対応になるのは、このテンプレートがもともと「先代次代系テンプレート」であり、連続性の提示を目的として作られたものであるからです。--Novo 2007年4月25日 (水) 23:47 (UTC) 分かりにくいので書き換え--Novo 2007年4月26日 (木) 01:41 (UTC)[返信]

書き忘れましたが、上記提案はTemplate:中国の元号に埋め込まれたカテゴリ設定の無効化を行わないことを前提にしています。--Novo 2007年4月26日 (木) 01:41 (UTC)[返信]

また書き忘れましたが、第2点に示した2案のうち、私個人は第1案を推します。適用される記事数がそれほど多くないこと(遼を入れるかどうかにもよりますが)、「中国周辺の元号」という名前はテンプレート名として少し不思議かなと思うことが理由です。あわせてご意見お聞かせください。--Novo 2007年4月26日 (木) 21:44 (UTC)[返信]

大理や西夏の元号を検索する場合、一般には中国の元号として検索するケースが多いと思われます。また渤海などは南北国論争を引き起こしそうなので、中国及び朝鮮の元号というカテゴリー分けが無難な選択と思われます。元号は所詮中華文明の所産なので、中国の元号のカテゴリーを使用し、必要において中国周辺の元号というカテゴリーを追加すれば問題なかろうと考えます。--Yonoemon 2007年4月27日 (金) 00:18 (UTC)[返信]
実は渤海の元号記事にTemplate:中国の元号が用いられていることに、論争を呼ばないかという懸念があります。いくら下段のカテゴリ欄に朝鮮の元号、渤海の元号、と並んでいても、記事本文内でボックス型表記で「中国の元号」と優先明記されていては具合が悪いと思うのです。その意味で、Novoさんのご提案は無難なところとして支持したいです。中国・日本以外の共通元号テンプレートの作成ですが、「中国周辺の元号」といった固定的な名称ではなく、地域名をも引数で指定できるようにしておきたいと考えます(朝鮮の元号も再度テンプレートに戻したいと考えていますので)。--田英 2007年4月27日 (金) 09:35 (UTC)[返信]
田英さんの「引数設定」というのは名案ですね。うまく考えられれば第2案修正案としてそちらを支持します。ひとつ確認したいのですが、引数に特定のページへの内部リンクは埋め込めるのでしょうか。これができれば技術的にはクリア可能だと思います。
カテゴリとテンプレートと分けて考えますが、渤海については、今あがっている選択肢は
  1. カテゴリは「中国の元号」「朝鮮の元号」を設定、テンプレートで「中国の元号」を用いる(現状)
  2. カテゴリは「中国周辺の元号」「朝鮮の元号」を設定、テンプレートで「中国の元号」を用いない
ですね。この場合、1.すなわち現状のほうが中国よりで、朝鮮史・韓国史の側からクレーム(「南北国論争」)がつく可能性が高いのではないでしょうか。元号が中華文明の所産であることと、「中国」王朝との連続性がない王権が自主的に建てた元号であることとのバランスを考えた上で、Yonoemonさんが「中国周辺」概念を提唱され、合意が形成されたものと理解しております。
検索のルートはいろいろでしょうけれども、大理の元号や西夏の元号をCategory:中国の元号から探そうとする人は少なく(現状でも設定数が800を超えていて、実用に耐えないでしょう)、むしろ元号一覧 (中国)西夏に載っている元号一覧を経由する可能性のほうが高いと思います。必要であれば、Category:中国周辺の元号Category:元号Category:中国の元号双方のサブカテゴリにすればすむことでしょう。
私の懸念はカテゴリの処理よりもテンプレートのレイアウトそのもの(「中国」と明示されていること)にあります。結局のところ、問題は地域分類の妥当性に帰着すると思います。分類問題については下の節へのコメントをよろしくお願いいたします。--Novo 2007年4月28日 (土) 00:32 (UTC) 一部訂正--Novo 2007年4月28日 (土) 02:12 (UTC) 勘違い(見せ消ち部分)を削除。--Novo 2007年4月28日 (土) 12:00 (UTC)[返信]
「引数指定」の追加によって、テンプレート「中国の元号」をもとに新しい汎用テンプレートを作るとすると、その対象は、朝鮮、ベトナム及び中国周辺の元号になると思います。この場合、「朝鮮」、「ベトナム」については、「中国」をそのまま「朝鮮」「ベトナム」に置き換えるよう数箇所に引数ひとつを設定すればいいと思いますが、「中国周辺」の場合、「中国周辺」ということばをそのまま埋め込むのか、各王朝名だけを引数にして「渤海の元号」「大理の元号」となるようにするのか、どちらにしても構造を変える必要がありますね。前者だと「元号一覧 (中国周辺)」という記事はありませんから、そこだけ「元号一覧 (中国)」になるように調整する必要があり、後者ではそのほか、「中国の元号」で「中国の元号一覧」という行の下に出てくる王朝名のところは不要になります。あるいは「朝鮮」「ベトナム」と「中国周辺」とで別のテンプレートにしてしまうか、何かお知恵があればご教示ください。--Novo 2007年4月28日 (土) 12:00 (UTC)[返信]
単純なもので利用者:田英/Template:○○の元号のように考えていました。(利用者サブページに作ったのでサンプルが表示されずガッカリですが) テンプレート名は「○○の元号」としておき、○○部分を引数で指定することでひとまず「渤海の元号」という表示になり、中国の元号・朝鮮の元号・渤海の元号・中国周辺の元号といったカテゴリは手で加える、という考え方です。カテゴリなどの入力負荷軽減には役立たず、たんにボックス表記のhtmlタグを入力せずに済むだけのものですが。元号一覧 (中国)などへの誘導は、== 関連項目 ==の節に載せればよいのではないでしょうか。結局のところはこのテンプレートを用いたとしても「中国の元号記事」と「中国周辺の元号記事」とが見た目に似通うだけなのかももしれません。もう少し検討したほうがよさそうですね。--田英 2007年4月28日 (土) 12:30 (UTC)--下線部追記--田英 2007年4月28日 (土) 12:48 (UTC)[返信]

tableの部分だけで、カテゴリが何も入っていない汎用タイプの「Template:元号」を作成すればよいのではないでしょうか。そして、Template:中国の元号Template:日本の元号においても、Template:元号を呼び出す方法をとれば、大元を修正すればすべて同じ形に更新されるようになります。また、「Template:元号」に、{{DEFAULTSORT:引数}}を入れておくと、その下に置かれる個々のカテゴリにソートキーを付記する手間が省けますので、これを導入したら便利になると思います。--oxhop 2007年4月28日 (土) 13:13 (UTC)[返信]

田英さんの試作を見てこれでいいと思い、勝手に少し手を入れてしまいました(すみません)が、oxhopさんのご提案は斬新なものですね。仕組みがわかっていないのでトンチンカンな質問かもしれませんが、たとえば「日本の元号」にはなく、「中国の元号」にある王朝名の引数を処理するにはどうデザインすればいいでしょうか。--Novo 2007年4月28日 (土) 14:11 (UTC)[返信]

「Template:元号」の中身は、要点部分だけを書くと以下のようになります。

{{{1}}}
前の元号:
{{{2}}}
次の元号:
{{{3}}}
{{DEFAULTSORT:{{{4}}}}}

「Template:元号」を直接使用する場合は、以下のようになります。

{{元号|[[柔然]]の元号|[[永康 (柔然)|]]|[[太安 (柔然)|]]|たいへい}}

そして「Template:日本の元号」の中身は以下のようになります。

{{元号|[[元号一覧 (日本)|日本の元号]]|{{{1}}}|{{{2}}}|{{{3}}}}}
[[Category:日本の元号]]

使い方は変更ありません。

{{日本の元号|[[大正]]|[[平成]]|しようわ}}

とすると、「大正」は、「Template:日本の元号」の{{{1}}}を経て、「Template:元号」の{{{2}}}に代入されます。また、「Template:元号」の{{{1}}}には「[[元号一覧 (日本)|日本の元号]]」が入ります。

また「Template:中国の元号」の中身は以下のようになります。

{{元号|[[元号一覧 (中国)|中国の元号]]<br />{{{1}}}|{{{2}}}|{{{3}}}|{{{4}}}}}
[[Category:中国の元号]]

こちらも使い方は変わりません。 「Template:元号」の{{{1}}}に「[[元号一覧 (中国)|中国の元号]]<br />{{{1}}}」が入ります。

こんな感じのものを考えているのですが、どうでしょうか。--oxhop 2007年4月29日 (日) 06:12 (UTC)[返信]

ご教示ありがとうございます。よくわかりました。ご教示に沿って田英さんの試作(利用者:田英/Template:○○の元号)をまた勝手に書き換えてみましたが、直接使用については見た目は問題ないようでした。これでだいじょうぶかどうかご確認いただけないでしょうか。--Novo 2007年4月29日 (日) 07:10 (UTC)[返信]
詳しい解説ありがとうございます(oxhopさん)。またそれを受けての手直しをしていただいてありがとうございます(Novoさん)。試作のものをそのまま[[Template:元号]]に移動しようかと思ったんですが、中国の元号テンプレートから丸パクリだったことを書き上げていなかったんで、GFDL対策のために、要約欄の記入をして新規立ち上げしておきます(試作版は削除依頼かなぁ)。--田英 2007年5月1日 (火) 11:35 (UTC)[返信]
Template:元号の作成を確認しました。田英さんありがとうございます。特にご異議ないようですので、この件は原案第2案修正案(上掲テンプレートを使用し、元号一覧 (中国)は関連項目として表示)で合意が形成されたと判断します。--Novo 2007年5月2日 (水) 06:14 (UTC)[返信]
今更何なんですがテンプレートの中国の歴史西夏が含まれています。そちらとの整合性はいかがいたしますか?--Yonoemon 2007年5月2日 (水) 08:25 (UTC)[返信]
玉虫色にしたままで、「中国周辺」は「中国」に含まれるとも、含まれないとも解釈できる余地を残しておけばいいと思います。西夏を中国史から見る解釈は中国はもちろん、日本にも伝統的に存在しますし、それ自体を否定する意図はありません。--Novo 2007年5月2日 (水) 08:35 (UTC)[返信]

事後報告となりますが、Template:ベトナムの元号を作成しました。また、Template:元号の下に置いたカテゴリは、ソートキーを省略可能ですのでお試し下さい。ただ、編集画面を開いてカテゴリにソートキーがついていないのを見て不備だと誤解される方もでてくるかもしれませんね。この点についてもガイドラインに注記が必要かもしれません。--oxhop 2007年5月3日 (木) 13:08 (UTC)[返信]

拝見しました。「王朝名を入れてほしい」という私の好みに対応していただいて、ありがとうございます。注記については、Wikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法#テンプレートに書き込んで注意を喚起していただけないでしょうか(審議対象外として処理していいと思います)。また、これで動作確認ができたと思いますので、ご提案の通りTemplate:中国の元号Template:日本の元号も書き換えていいのではないかと思います。--Novo 2007年5月3日 (木) 13:48 (UTC)[返信]
作業完了しました。--oxhop 2007年5月4日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

本節の冒頭の提案のうち、契丹-遼については、#分類問題(その6)で全体を「中国周辺」へ分類する妥結が成立しましたので、これに伴い、テンプレートもTemplate:中国の元号は用いず、Template:元号を用いることになったことを確認いたします。--Novo 2007年5月17日 (木) 14:51 (UTC)[返信]

上記は合意事項なのですか?田英さんも曖昧な表現をしていますし、拙速に合意事項と断定するのはいかがなものかと考えます。こうなりますと北魏なんぞも同様に中国周辺とも主張でき、もはや客観的な基準を失った区分だと苦言を呈させていただきます。ウォッチリストはトラックバックしておきます。--Yonoemon 2007年5月18日 (金) 00:01 (UTC)[返信]
田英です。1週間経過して有意な反対意見が寄せられなかったので、Novoさんの提案内容で合意が得られたとして「妥結」と表現しておりましたが、私の意志表明は曖昧だったでしょうか? ウォッチリストについて戻すだけの編集は控えますが、Yonoemonさんには再考をお願いいたします。--田英 2007年5月18日 (金) 13:05 (UTC)[返信]
遼については、私がこの節の冒頭に条件を明記しており、これまで異議が出たことはないので、自動的に確定したものと考えます。北魏については私も含め現在まで誰からも問題提起がないので、「中国」分類で問題ないものと思います。五胡十六国や五代後唐などについても同様です。共有ウォッチリストはリンク先更新状況の確認のため、作業用に作成されたもので、特に拘束力はないので、各元号記事及びそのノートへのリンクが適切に張られており、作業者間で共通認識が形成されていれば、どのような分類になっていてもさしつかえありません。--Novo 2007年5月18日 (金) 14:45 (UTC)[返信]
遼問題はウィキペディア全体の整合性を保持する観点から、及び中国史テンプレに整合性を有すべくそれら自体の書き換えを行うか、こちらのガイドライン草案を書き換えるかの提案を行いました。--Yonoemon 2007年5月19日 (土) 00:21 (UTC)[返信]
#分類問題(その6)ですでに妥結しましたので、議論が必要と考えられましたら、ガイドライン発効後に新たに問題を提起してください。--Novo 2007年5月19日 (土) 01:02 (UTC)[返信]
ノート:遼及びTemplate‐ノート:中国の歴史に補充説明をいたしました。議論の経過と合意内容を踏まえたコメントをお願いいたします。--Novo 2007年5月19日 (土) 04:56 (UTC)[返信]
中国史でも便宜上その政権を中国に分類しているからこそ成立するものであり、今回の区分と同一のものです。実質数名での議論で決定し、中国史テンプレに矛盾するガイドラインを拙速に決定するより、百科事典としての便宜上の区分を明らかにする必要があります。--Yonoemon 2007年5月19日 (土) 07:14 (UTC)[返信]
元号記事テンプレートだけに限定されたお話ではないようですので、ここではなく#分類問題の検討拡大節へコメントください。--Novo 2007年5月19日 (土) 19:46 (UTC)[返信]

西暦年記事[編集]

日本、中国、朝鮮などの分類[編集]

まず、中国朝鮮は、現在の国ではなく、地域を指しているのだと思っていました。

唐とか明とかは、中国であることを明記しなくても十分理解できますが、南明とか、ベトナムの王朝については、やはり地域名を明記した方が親切だろうと思いました。また、「五胡十六国」とかの例外を認めるのであれば、「中国」というくくりにしてしまった方が統一感はでると思います。厳密に、中国の王朝なのかどうかということは考えなくてもいいのではないかと思うのですが、ダメなのでしょうか。

また、リンク先について、日本にではなく、[[元号一覧 (日本)|日本]]としてはどうでしょう。--oxhop 2007年3月10日 (土) 07:44 (UTC)[返信]

[[日本]]を[[元号一覧 (日本)|日本]]とするのはよいアイデアだと思いますので、変更させていただきたいと思います。ただ現状ではばらばらなので、書き換えに時間がかかりますね。
一方、分類の問題は大変難しくて、私も悩んでいるところです。
私の基本的な発想は、「荒らしや編集合戦を極力起こさない。もめごとを避ける」というところにあります(各年記事は網羅的チェックが難しいので、荒らしがあっても気づかれない可能性があります)。確かに「分類は地域ごとだ」と見ることも可能ですが、紀年法は常に国家権力によって定められるものです(過去の紀年も現在の国家権力によって不断に見直されます)し、特に「中国」は「国」という字が入っていますので、「分類は現在の国ごとだ」という解釈を完全に排除は出来ないと思います。それで、分類を前近代にまで及ぼすと解釈が分かれてもめごとの種にならないかと懸念したわけです。いわゆる「歴史認識」問題のひとつです。
また、「中国の元号」の範囲については、典拠がほぼ中国のものだけになるので、私個人も「中国POV」にならないよう特に配慮する必要があると考えております。
ただし分類を完全に排除すると分かりにくくなるというのはお話の通りなので、これももう少し具体的に検討したいと思います。「分類する」方を基本として、個別に「分類しない」例外を作るという考え方もあるかと思います。
あと、草案に書き忘れたのですが、この「分類」の問題はカテゴリ作成の基準とも関わってくるので、あわせてご意見いただければ幸いです。--Novo 2007年3月10日 (土) 19:50 (UTC)[返信]
中国・朝鮮の分類を省いた場合の例として1209年を、中国・朝鮮の分類を入れた場合の例として1210年を編集してみました。--oxhop 2007年3月26日 (月) 12:47 (UTC)[返信]
分類の入っている1210年のほうがしっくりくると感じました。同じように517年では地域名を記しているのですが、地域名のすぐ後に国名を入れてあり、縦スクロールを減らせる、と考えております。(ベトナムその他は手元に資料がないので書けていませんし、出典の掲示はできておりませんが、並べ方の例として報告です。)--田英 2007年3月26日 (月) 14:08 (UTC)[返信]
モデル記事作成、ありがとうございます。どちらか選ぶ前に、ひとつ感想を言うと、
は、逆にして
または
としたほうがいいのではないかと感じました。これは「国名」をなるべく出さないという個人的考えにもよりますが、それを抜きにしても、元号は王朝の定めるものであって、「地域」ないし「現在の国」ごとに存在するものではないという認識にもよります。
1209年1210年については、少し考えさせてください。--Novo 2007年3月26日 (月) 15:21 (UTC)[返信]

(戻します)私年号との兼ね合いもあるので、政権名と元号とを明確化できる

のほうがよいと思います。例えば、治平龍応5年に李朝大越国領内で私年号("だれそれ"の"ほげほげx年")が用いられたと仮定した場合、

とすれば、正当政権に対する私年号の表現にならないでしょうか?(ただし西暦年記事のフォーマットの見直しは必要になります。)--田英 2007年3月27日 (火) 08:57 (UTC)[返信]

517年のような書式についてですが、Wikipedia:箇条書きのマークアップで「あまり良くない」とされているので、せっかくなら「推奨される」形にした方が良いのではないかと思います。
ベトナムについてですが、確かに1209年の書式なら「ベトナム」はないほうが良かったですね。また、1210年の書式についても「大越」という国号を明記するのなら、「(ベトナム)」は無くてもよさそうですね。陳朝とかも「大越陳朝」みたいな感じにして大丈夫でしょうか?--oxhop 2007年3月27日 (火) 14:43 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。Wikipedia:箇条書きのマークアップを見て、517年を訂正しました。Wikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドライン草案#1872年(日本の太陽暦施行前)までについても、推奨される形式になっていたのをちゃんと読み取れていませんでした。--田英 2007年3月27日 (火) 15:10 (UTC)[返信]
大越陳朝のほうは、[[陳朝|大越陳朝]]でよいのではないでしょうか。「李朝大越国」「陳朝」…「阮朝」はいずれも国号は大越(ですよね?)で記事名の不整合性のほうが問題なようにも思いました。--田英 2007年3月27日 (火) 15:10 (UTC)[返信]
ベトナムの国号は、李朝から後黎朝西山朝までは「大越」なのですが、厳密に言うと胡朝(1400年 - 1407年)だけ「大虞」です。あと阮朝は「越南」及び「大南」です。最初はほかに似た名前の王朝がなければ国号はつけなくていいかと思っていましたが、わかりにくいでしょうか。
「国名」ないし「地域名」で分類するかどうかは、決めかねています(考えれば考えるほどいろんな可能性を思いついてしまって難しくなります)。分類しない場合(1209年方式)の見にくさ、分かりにくさは確かにあると思いますし、私の原案も分類を完全に排除してはいませんから一貫性を欠いています。しかし「国名」ないし「地域名」の範囲、特に「中国」の範囲をどうするかは、コンセンサスを作りにくい難問です。たとえば西遼西夏は「中国」なのかどうか、私の「POV」からすると疑問が残りますし、ガイドライン草案で典拠として認めている書籍でも評価が割れています(西遼は李崇智のみ記載。西夏は『東方年表』と李崇智では「中国」、『コンサイス世界年表』には未記載)。両論併記というわけにいかないのでいっそう悩ましく思います。
私年号の場合には、どの王朝に対抗する「私年号」かで分類していく、上の田英さんの案なら「国名」を書かずにすむのでかなり解決できます。ただ、日本の私年号には「だれそれ」をはっきり特定しにくい例があったように思うことと、あと私年号について知らない閲覧者の便を考えると、もうひと工夫する余地があるかもしれないという印象です(テンプレートに凡例として見方を書き込むという方法もありえますね)。
今の草案では私年号を「日本」と「日本以外」とに分けていますが、分けないで
のように書いていくやり方もあることを思いつきました。--Novo 2007年3月27日 (火) 16:51 (UTC)[返信]
私はやはり1209年方式に傾いているのですが、自分の心配が取り越し苦労に過ぎないのか、自分でもよく分からないでおります。「中国POV」を警戒すること自体が私の「POV」であって、「NPOV」ではないのかもしれません。客観的に見て、1210年方式をとったときにもめごとの起こる可能性、あるいは「NPOVな、もめない分類法」について、率直なご意見をお聞かせいただけないでしょうか。--Novo 2007年3月28日 (水) 14:58 (UTC)[返信]
気になったので日本語版と中文版の西暦年記事を少しのぞいてきましたが、近代以降の日本語版はすでに「国名」やレイアウトが虫食いに編集されてばらばらになっています(つまり人によって感じ方が違い、もめる可能性があるということでしょう)。あまりぎちぎちに決めるのもなんですが、モデル記事の指定が必要かもしれませんね。なお中文版は「現在の国名」による分類をしていません(日本と「越南」(阮朝の一部のみ)だけはありますが、どちらも王朝の国号と同じ扱いです)。また私年号も正統王朝の元号と並べて区別していません。--Novo 2007年3月28日 (水) 17:23 (UTC) 18字追加--Novo 2007年3月28日 (水) 17:45 (UTC)[返信]

まず、もめごとの起こる可能性について、私の考えです。

  • 「可能性」というのであれば、どちらの方式をとったとしても100%無いとは言えないと思います。分類した場合は、その分類が不適切であるとして、他の人の意見に耳を貸さずに強行する人が現れる可能性があります。一方、分類しない場合は、ただ列挙してあるのを見て、グループ分けしたほうが見やすく便利であると考えて、独断で修正を強行して譲らない人が現れる可能性もあります。これは、実際に、これでは絶対にダメなのだと主張する人が登場して、その理由を示してもらって議論してみないことには検討のしようもない部分があるように思うのです。
  • また、元号一覧 (中国)に、渤海、西遼、西夏が追加されたのは、2007年1月31日ですが、いまのところ異論は出ていませんよね。おかしいなと感じている方はいらっしゃるかもしれませんが、「他人がどう思おうがこれは絶対に間違っているから消すのだ!」というような人はいらっしゃらないわけですよね。今後どうなるかは分かりませんが、とりあえずこの現状から考えると、もめごとになる可能性は低いのではないかと思います。中国語版の一覧は、渤海は入っていなくて、西遼、西夏は入っているのですが、もめごとにはなったような形跡は見つけられませんでした。

私も、素直な感想としては、分類されていた方がしっくりくると感じていますが、1209年のような形でも案外といいんじゃないかなと思い始めています。微妙な分類の面倒くささを避けられる点もメリットですが、太陰太陽暦の干支や年号と、太陽暦の皇紀・檀紀とを混在させずにすむのも長所だと思います。特に、月日まで入れることを考えるとこの2つを分けておくと見やすくなるのではないでしょうか。--oxhop 2007年3月29日 (木) 14:36 (UTC)[返信]

なるほど、単なる「可能性」だったらどちらの方式にしてもあるというのはまったくその通りですね。元号一覧 (中国)の構成については、実は私自身が違和感を持っていて、このプロジェクトが一段落したら、あるいは話の流れ次第ではこのプロジェクトで提起しようかとも思っていたのですが、それを今ここでカウントするのはおかしいですから、まあ大丈夫だといえるでしょうね。
ヒントをこちらから出して禍いをわざわざ呼び寄せるのもなんだと思って明言を避けていたのですが、私が一番懸念しているのは台湾がからむ私年号です(元号一覧にはまだ載っていません。それに西暦年記事のほうがリンクするページが圧倒的に多いので、載せれば人の目に留まりやすいと思います)。日本以外の私年号を全部網羅して載せている市販年表は見たことがないので、ここで行われることはWikipedia中文版(これも未完成です)を除けば多分はじめての試みです。それでこれまでにはなかった可能性について考えておくべきではないかと思ったわけです。
一部の問題を基準に全体の方針を決めるのはバランスを欠くかもしれませんが、私年号の書き方を工夫すれば何とかクリアできそうですし、アイデアを出し合ってうまくまとめられたらと思います。
あと、目からうろこが落ちる気持ちがしたのですが、「太陰太陽暦」と「太陽暦」とで分類するというのは非常に合理的でいい考えだと思いました。見出しで明示して分けてはどうでしょうか。--Novo 2007年3月29日 (木) 17:04 (UTC)[返信]

分類問題(その2)[編集]

節を分けました。--Novo 2007年4月2日 (月) 16:18 (UTC)[返信]

しばらく皆様の議論を拝見しておりました。地域名の区分名称ですが、一般的に元号を使用していた中国・日本・朝鮮・べトナムと大まかに区分することが一般的なのではないかと感じています。台湾が絡んだ場合も大まかに「Category:中国の元号」(中国文化圏で日朝越に属さない地域という意味であり、現在の中華人民共和国とは無関係と認識)に分類し、必要であれば「Category:台湾の元号」を下位に設ける対応でいかがでしょうか?
現在の国民国家と歴史上の政権を比定させる作業は歴史学では一般的でなく、例えば渤海なぞは、中国では中国史、韓国や北朝鮮では朝鮮史、ロシアでは独自の極東少数民族史と現政権と密接に関連した解釈を行っています。これらは近年中国と韓国の間で勃発した高句麗問題などでも政治問題化しています。
その意味では「Category:渤海の年号」を中国や日本の年号と同列に位置づけることには強い違和感を覚えます。これらはやはり「Category:中国の年号」や「Category:朝鮮の年号」の下位に位置づけたほうが無難であるような気がします。--Yonoemon 2007年4月1日 (日) 04:32 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。お話の通り、「現在の国民国家と歴史上の政権を比定させる作業は歴史学では一般的ではなく」、むしろそういう「国史」的な歴史叙述への批判の方が強いので、分類はしない、大まかな地域名のつもりでも現在の国民国家だと思って問題にする人もいるかもしれないから避けよう、というのが私の原則論です。つまり1209年方式支持ということです。
ご指摘の通り渤海史は「国史」に組み入れている国が並立している厄介な例として有名です。だから今のところCategory:渤海の元号も親カテゴリがCategory:元号だけで、Category:中国の元号の下には入っていないのだろうと解釈しています。私の原案も現状の追認です。
で、カテゴリの場合は複数の親カテゴリを設定できるので、Category:朝鮮の元号と両方の下位カテゴリにすることもできますが、「他の紀年法」の場合には箇条書き方式ですから、同時に「中国」と「朝鮮」の双方に分類することができない、それをどうしようかというのが現在の議論の焦点です。分類した方が分かりやすいと考え、1210年方式を推したoxhopさんは、今まで問題になっていないのだから大丈夫ではないか、分類してもしなくてももめる可能性がある点では同じだという判断を示されましたが、1209年方式なら暦法による分類が可能になるという新しいメリットを指摘され、私も共感したところです。
台湾の場合は、「中国」に分類しても、「台湾」という分類を作ってももめる可能性がある一番厄介な例です。みなが「中国」と「中華人民共和国」とは違うと思ってくれればいいわけですが、そううまくはいかないだろうというのが私の判断です。「中国」を「中国文化圏で日朝越に属さない地域」と定義すると、なぜ「中国文化圏」から「日朝越」を除外した地域(文化圏)概念が必要なのか、「日朝越」とは「現在の国民国家」にほかならず、地域概念に国家概念を混入させているのではないか、それなら主権国家たる「台湾」をなぜ除外しないのか、というような反論を想定できます。
ご承知の通り台湾関係の元号(私年号)は数えるほどしかない例外的なケースなので、「私年号」という分類をつくってそこに入れれば、地域分類をしてもしなくてもこの問題は何とかクリアできるのではないか、と私は考えています。フォーマットについて、何か具体的なアイデアがあれば、ぜひお寄せください。
元号記事のカテゴリの問題と西暦記事「他の紀年法」での分類の問題と両方を考えないといけないので非常に大変ですが、なんとかまとめたいと思います。よろしくお願いします。--Novo 2007年4月1日 (日) 06:45 (UTC)[返信]
中国文化圏から日朝越を除外した理由は、日本は地政学的に独立しているので理解していただけると存じます。朝越の場合は「現在の国民国家」の概念を適用していますが、長期に亘り中原政権と距離を置いていた事実と、一般認識として中国とは異なる地域という認識があるものと判断しての記載です。しかし渤海を中朝の何れに分類するのか?南漢を中越いずれに分類するのかという問題に関しては政治的な立場からさまざまな主張が行われることは容易に想像が付きます。かといって公平さを追求して1209年方式を採用すると、時空系列を横に検索したい場合に見づらいというのも個人的な考え方としてもあります。
そこで提案ですが、「その他の周辺民族の元号」のという分類を採用しては如何でしょう?分類が困難な場合、また分類によって議論が発生しそうな場合は乱暴ですがこちらのカテゴリーに分類してしまう案です。とりあえず1211年でサンプルを作成してみました。
また提起いただいた台湾は中国に含めて問題がないと思われます。現在は主権国家として独立していますが、わずか数例の私年号のために分類を細分化させる必要はなく、中国文化圏として認識するのが一般的であると考えています。--Yonoemon 2007年4月1日 (日) 09:46 (UTC)[返信]

(インデント戻します)1211年拝見しました。「周辺民族」という分類は検討に値すると思います(ちょうど元号一覧 (中国)ではこの概念を導入してはどうかと考えておりました)。「他の紀年法」節での分類にふさわしいかどうかは、他の方のご意見も伺いたいと思います。

「中国文化圏」(という概念が必要だと仮定して、そ)の定義のしかたですが、日本の除外については同意見です。ここの議論に即して言えば、たとえば「私年号」の性格は「日本」とそれ以外で違いが大きいので、分けないと記述が難しいとも感じておりました。また朝鮮、ベトナムの除外も、そういう一般認識があるのはご指摘の通りですし、異論ありません。

問題は、朝鮮やベトナムと同じように「長期にわたり中原政権と距離を置いていた」王朝(柔然、高昌、南詔大理など)の元号を「中国文化圏」に入れるのかというところです。「周辺民族」分類案はここを処理するための方便になると思いますが、「周辺民族」という概念は「中国文化圏」に含まれると考えるのでしょうか。含まれるとすれば、それも結局「現在の国民国家と歴史上の政権を比定させる」ことにならないでしょうか。朝鮮とベトナムを除外する一般認識も、現在双方とも国民国家をもっているという事実に立脚しているわけですから。

台湾はその極端な例になるわけですが、むろん私の杞憂かもしれませんけれども、すべての閲覧者がYonoemonさんのご見解のように、「中国」は「中国文化圏」で、台湾はそこに含まれると考えるかどうか、その辺のご判断はいかがですか。たとえば、私年号分類を立てず、1895年

と書いてほんとうにだいじょうぶでしょうか。笑えない冗談ですが、西暦年記事に{{観点}}テンプレートが張られたりしないでしょうか。世界中に公開されるわけですし、台湾の方々も大勢見ると思うのですが。--Novo 2007年4月1日 (日) 12:22 (UTC)[返信]

台湾民主国清朝の影響下におかれた行動であることは史学界ではほぼ定説なので、中国に加えて問題ないと判断して問題ないと思います。日本統治以前は間違いなく清という北京政権の一地方機関であったことは間違いありません。これはどこかで便宜上の区分と但し書きを加えれば解決できる問題ではないでしょうか?
周辺民族は現在の中華人民共和国の考える民族ではなく、元号の概念を発案した中原系政権(≒正統王朝)をまねて独自の元号を使用した民族という意味でお考えください。周辺民族以外適当な日本語が思いつかないのでこの単語を使用しました。少なくとも中国王朝を模倣し、また漢字を使用し、記録も中国史書に依拠している以上、歴史的な周辺民族と表記しても大きな論点なるとは考えておりません。--Yonoemon 2007年4月1日 (日) 13:44 (UTC)[返信]
了解しました。西夏は元号を漢字で書いていないとか、西遼の元号の史料は西遼自身のものでないとか、大理と大越李朝には相似性があるとか、細かいことを言い出せばきりがありませんし、来ると決まったわけではない荒らしの心配はしないことにします。話を進めましょう。
あと残されている論点は、
  • 「周辺民族」分類(「中国の周辺王朝」としたらどうでしょう?)を採用するか
    • 採用するとしたらその範囲
  • 「私年号」分類を立てるか
    • 立てるとしたらその範囲(逆に「「正統年号」をどこまで認めるか」とした方が決めやすいでしょうね)と書式
  • 暦法による分類を行うか
ですが、いかがでしょうか。他のみなさまのお考えも伺いたいと思います。--Novo 2007年4月1日 (日) 14:40 (UTC)[返信]
テンプレートに但し書きを加筆しましたので、ご確認ください。
もうひとつ、少し議論の方向がずれますが、「私年号」を記入する場合、古代日本に九州年号という説があります。これをめぐって元号関連の記事が時々荒れますが、どう対応するかを計算に入れて方針を決める必要があると思います。--Novo 2007年4月1日 (日) 17:38 (UTC)[返信]


「中国の周辺王朝」でしたら「中国の周辺地域」という表記のほうが無難な表現かも知れません。この辺は皆様のご意見によりより無難な用語が見つかればと存じます。
もし「周辺王朝または地域」の概念を採用するのであれば、正史に取り上げられた所謂正統王朝に加え、三国時代、五胡十六国、五代十国に内包される王朝あたりを「正統年号」としてそれ以外を「周辺年号」と区分してはいかがでしょう?たとえば元朝でしたら正統年号となりますが、それを継承した北元の場合は、周辺年号と便宜上の区分を加えれば一般認識との乖離は少ないのではないでしょうか?
そして九州年号ですが、これは現在の史学会でほぼ否定されている学説と言えますが、時折議論になるのであれば、「私年号」のサブカテゴリーとして「九州年号」を扱うことで対応することを提案します。--Yonoemon 2007年4月2日 (月) 00:03 (UTC)[返信]
「周辺王朝または地域」の範囲については私もYonoemonさんの示された案に賛成です。用語については、私はどちらでもいいですが、「周辺地域」というと日本や朝鮮と区別しにくくならないかがやや気になります。なるべく地域概念にせず、元号を決める政権(王朝)による区分にしたいという立場からの感想かもしれませんが。
少し話が戻るのですが、近代以降についても地域分類をするのかどうか確認しておらず、関係する問題なので考えておきたいと思います。現在、近代以降の西暦記事では地域分類がある年と国号だけが並んでいる年とが虫食い状態になっています。地域分類がある年(1935年)では「中国・満州」「朝鮮」「チベット」という地域(?)分類があり、一方「モンゴル人民共和国」には地域分類がありません。また1950年から1971年までは「台湾」「韓国・朝鮮」という地域分類の下にそれぞれ中華民国暦檀君紀元主体暦が記載されていますが、1972年以降は地域分類なく正式国号ごとに紀元が記載されています。どうすればよいかご意見お聞かせください。私は、分類すると「政治的意味はない」といってもいいぬけが難しいので、分類しない方がよいという考えです。近代以降であればもう「分かりにくい」こともほとんどないでしょうし。
「九州年号」については、肯定する人と否定する人がときどき記述をいじりあうという現象がおきています。史学界で否定されているのであれば、特に詳しい方が出てこない限りこちらからは何もしないでいた方がいいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。元号記事の方は作りたい人がいればつくり、編集合戦があってもそこに局限されますが、「他の紀年法」への記載がされる可能性もあり、その場合には対象記事が多く、編集合戦が起こったときの影響も広範囲にわたります。詳しい方同士ここへ来ていただいて議論してもらった方がいいと思います。--Novo 2007年4月2日 (月) 04:05 (UTC)[返信]
インデント戻します。
近代以降の地域区分ですが、それを行う意味があるのかという疑問はあります。宗教紀元法以外に政治的な紀元法を採用しているのは現在日本(元号)、台湾(民国)、韓国(檀紀)、北朝鮮(太陽)くらいなもんでして、過去に遡及しても清(元号)、ベトナム(元号)、満洲国(元号)くらいなもんです。時期はあいまいになりますが、冊封体制が崩壊し、外交という国際秩序が成立した時点(アヘン戦争以降あたりが目安?)以降は国家名で分類するのが一般常識に近いと感じています。
したがって1935年のケースでしたら中華民国、満洲国と国号で分類し、チベットに関しては宗教紀元法なので「チベット暦」と改称するのが統一感を得られるのではと考えています。分断国家の朝鮮半島も現在独自の紀元法は非常に限定的な存在であれば、1972年の書き方でもよろしいのではないでしょうか?もちろん1949年以前は「朝鮮」や「大韓帝国」と記載して統一感を出したいと思います。
九州元号に関しては項目立てが事実上行われていないので、項目立てが行われて編集合戦が始まりそうな場合にあらためて議論としましょう。わざわざ問題提起する必要はないでもんね--Yonoemon 2007年4月2日 (月) 05:16 (UTC)[返信]
九州年号について同意します。他の方からもご異議ないようであればそうしましょう。他の私年号は独自に箇条を立てますか、それとも地域分類の中に組み入れますか。
近代以降は地域分類をしないという合意が得られるとすれば、その下限は地域ごとに異なるでしょう。原案では仮に1873年に境界を置いてありますが、個別に検討すると、
  • 日本 : すべて
  • 中国 : 1年(前漢平帝元始元年) - 1911年(清滅亡まで)
  • 中国の周辺 : 464年(柔然永康元年) - (高昌、渤海など、南詔、吐蕃、于闐、大理、西夏、西遼、北元)- 1387年(北元天元9年)
  • 朝鮮 : すべて、または1年新羅赫居世居西干58年など) - 1948年(大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立まで)、または1年 - 935年(新羅滅亡まで、それ以降は実質1王朝しかなく、分かりにくいこともないので強いて分類しなくてもいいのでは?)
  • ベトナム : 544年(李南帝天徳元年) - 548年(同4年)、970年(丁先皇太平元年) - 1945年(阮朝滅亡まで)
ということになりますか。ちなみに「満州」などほかの「地域分類」は設けないということでいいですね。「中国の周辺」に入れるべき王朝は他にありますか(分類が「独自調査」だとかつっこまれたら面倒ですけれど)。--Novo 2007年4月2日 (月) 16:18 (UTC)[返信]
中国周辺に入れるべき王朝を定義するより、中国に分類すべき王朝を定義したほうが容易な作業だと思います。原則として正統王朝(二十五正史記載)されたものに五胡十六国、五代十国の王朝を分類し、それ以外はすべて「中国周辺」という分類を提案します。乱暴なようですが、最も単純な方法と考えます。--Yonoemon 2007年4月2日 (月) 23:55 (UTC)[返信]

(インデント戻します)同感です。そうしましょう。他の地域分類も設けないということで。次に私年号ですが、区分を設定するとすれば、「中国周辺」との境界を決める必要がありますね。どうしましょうか。また「他の紀年法」での書式ですが、「私年号」という箇条を立てますか、それとも地域分類の中に組み込みますか。--Novo 2007年4月3日 (火) 03:02 (UTC)[返信]

私年号は正統王朝が使用する元号に対して私に立てた年号を指すので、「私年号」の箇条立てより、地域分類の中に組み込んだほうが閲覧者の便宜に適っていると思われます。更にいえば「中国周辺」での私年号は、独自の政権での元号として扱われる場合が大部分ですので、すべて「中国」に含めても問題がなかろうと感じていますがいかがでしょうか?--Yonoemon 2007年4月3日 (火) 04:01 (UTC)[返信]
先ほど、Category‐ノート:中国の元号‎永康 (柔然)の分類についてさっそく質問がありましたし、見解が分かれることが明らかに予想されるので、すべて「中国」に含める案には反対します。反対理由の一部はすでに「中国文化圏」概念についての議論で述べました。「中国周辺」分類の採用は妥協です。私年号については、地域分類を作ることになるのであれば独自に箇条立てする必要性は薄れます。お話のように箇条立てしないならば、田英さんが上で提案したように、箇条を一段右へ寄せて「正統王朝」の下行に書く書式の有効性が高くなると思います。--Novo 2007年4月3日 (火) 04:20 (UTC) 6字追加、3字削除--Novo 2007年4月3日 (火) 04:26 (UTC)[返信]
言葉が足りませんでしたが、正統王朝の下行への記載を考えていました(つまりは中国の下部という意味です)。もし周辺王朝の内紛で元号が分裂した場合(存在を正確には確認していませんが)は、周辺王朝の年号の下行でいいのではないでしょうか?--Yonoemon 2007年4月3日 (火) 05:48 (UTC)[返信]

(戻します)田英です。整理中の論点について以下のように考えます。

  • 九州年号の扱い : 私年号(異説のほうが相応しいか)として、日本の年号・皇紀の配下に記す(「*」をもうひとつ付ける)、で良いと思います。
  • 私年号の項目を設けるか : 私年号の項目は設けない(下記の#西暦年記事内の扱いの表現はとらない)で良いと思います。
  • 周辺民族/周辺王朝/周辺地域 : 周辺民族のままで良いと思います。ただ、1211年の記事の「その他周辺民族の元号」という表記ではなく「その他周辺民族」だけにしておきたいと思います。これはモンゴル帝国(1211年であれば太祖([[チンギス・ハーン]])6年と書かれることを想定)への対応で、1212年にサンプル化しております。
  • 地域名の分化 : 分化ありとする1210年式をもとに論が進められる状況にあると認識し、これに従います。1210年式の延長に1211年式があり、そのうえで1212年記事をサンプル作成しました。
  • 地域分化の下限 : 朝鮮については新羅滅亡の935年までで、周辺民族も1387年で良いと思います。ベトナムは良くわからないのでご提案に従います。

--田英 2007年4月3日 (火) 09:37 (UTC)[返信]

Yonoemonさん、少し早とちりしたようですみません。田英さんの整理に従って私の考えを述べます。
  • 九州年号 : Yonoemonさんと私で一致したように、書きたいという詳しい人が出るまでは書かず、ガイドラインにも挙げない。日本の私年号はさしあたりガイドライン所掲の出典(『東方年表』でいいと思います)にあるもののみを載せ、あとは詳しい人同士の議論と合意に任せる。
  • 私年号 : 正統王朝の下行にインデントを一段右に寄せて書く。田英さん、Yonoemonさんに同意します。ただし凡例に見方を明記。
  • 地域名の分類 : 分類あり(1210年方式及びその延長)が多数と認識し、受け入れます。ただし「周辺」分類を定義を明確にして立てるのが条件です(1211年1212年)。
  • 周辺民族/周辺王朝/周辺地域 : 名称は「中国の周辺地域」「中国周辺」「中国の周辺王朝」の順で推します。「民族」は支持しません。ほかの分類が地域名称であるなら、人間の集団である「民族」(しかも定義が大変面倒な術語)を使うのはふさわしくないと思います。
    • Yonoemonさんの言う「中国の下部」というのは、「周辺」を「中国」の下位分類とする、という意味ですか。そのように解釈して、「中国」の次に「周辺」をもってきてインデントを一段ずらした例を1213年に作りました。耶律留哥を私年号扱いして載せましたのであわせて書式をご確認ください。インデントを右寄せすれば、「その他周辺○○」でいいと思いますが、こうすると、元号の箇条も「中国」の元号より一段ずれて下がって見えるので、賛成しません。1211年及び1212年のようにほかの地域分類と同段にして、その上で「中国の」を頭につけた方がいいと思います(でないと何の周辺かわからないですから)。
    • モンゴル帝国の在位紀年は「周辺」からはずして独立させた方がいいと思います。最終的には「中国」は支配地域の一部になってしまいますから。
    • 1260年から1368年までの元の元号は「中国」、1387年までの北元は「周辺」ということのようですが、たとえば明が「中国」で南明も「中国」で、鄭氏政権 (台湾)も「中国」でよろしいでしょうか。やはり「周辺」の定義をもう少し煮詰める必要があるように感じます。
  • 地域分類の下限 : 935年を自分で提案しておいて何ですが、ベトナムも2王朝が並立するのはごく一時期だけなので、それでも分類を近代まで立てるとすれば、朝鮮も同じように立てないと見栄えがよくないかもしれませんね。ちょっと考えさせてください。--Novo 2007年4月3日 (火) 19:05 (UTC) 「の元号」は私も外した方がいいと思うので1212年のみにします。--Novo 2007年4月3日 (火) 19:28 (UTC)[返信]
地域名の分類は「中国周辺」で同意いたします(「中国の周辺地域」はちょいと冗長の感あり)。そして記載方法は閲覧の便を考慮して1212年を支持いたします。
その分類ですが、私見ですが下記の考え方でいかがでしょう
  • 南明の正統王朝という立場だったので「中国」。
  • 「北元」は中原地域への支配を放棄し、出身地域に帰還したという現状を踏まえ「周辺地域」。
  • 西遼北遼の関係も北元に同じ。
  • 鄭氏政権も明臣としての立場を表明していたことを考慮し「中国」。
  • 台湾民主国も清朝の影響が強いので鄭氏政権に同じ。
  • 後金の前身ということで「中国」。
モンゴル帝国に関しては判断に苦慮します。であれば「中国」ですが、その前身をどう扱うかに関しては個人的には元の前身ということで後金同様「中国」に分類するべきと考えますが、これに関してはさまざまな意見があると思います。ただ「モンゴル」という分類を作成すると、元や柔然の分類はどうなるんだという議論に発展すると思われます。--Yonoemon 2007年4月4日 (水) 03:55 (UTC)[返信]
田英です。言われてみれば「民族」は分類基準を「地域」としようとすることと合わなくなってしまいますね。私も「中国周辺」に同意します。◆九州年号についてはガイドライン上も書かずにおいて、書こうとする動きが出るまでは静観というNovoさんのご意見に賛成です。(先を見越してコメントアウトで書いておくのもいいかもしれない、その際は私年号ではなく異説として日本の下に……とも考えたのですが、やぶ蛇になりそうなので取り下げます。)◆二十五史(+五胡十六国、五代十国)を基準とするならば、大契丹国・モンゴル帝国・後金は周辺地域、遼・金・元・清は中国、西遼・北元で再び周辺地域、ではないでしょうか。やはりモンゴルを独自地域分類にするのは回避したほうが良いと思います。◆鄭氏政権は中国で、明の下に1字下げですよね。◆さて、摩震・泰封震国・渤海を中国周辺とするか朝鮮とするか、悩ましいところです。私は中国周辺でよいと考えているのですがいかがでしょうか。--田英 2007年4月4日 (水) 13:13 (UTC)5字除去、2字挿入。失礼しました。--田英 2007年4月5日 (木) 00:31 (UTC)[返信]
分類基準を「地域」とするとすれば、個々の王朝の性格から分類先を決定するよりも、「存在した場所」で純粋に振り分けてしまった方が客観的に説明できると思います。そのためには先に「中国周辺」の範囲をうまく決める必要があります。それで考えたのは、
という定義です。これで分けると、だいたい「二十五史本紀+五胡十六国+十国」以外を「中国周辺」に振り分ける一方、南明や鄭氏政権は「中国」になります(上のご提案でいうとYonoemonさんよりも田英さんの案に近くなりますが)。モンゴル帝国も「中国周辺」でよくなります(まだ問題がなくはないのですがとりあえずの落としどころです)。
このような広い地域を「中国周辺」とくくった例はたぶんないと思いますが、Yonoemonさんのご指摘の通り、元号というシステムがもともと「中国」発祥のものであることは事実なので、「元号分類のための便宜的、限定的な地域概念として設定したのであり、重複する他の地域概念を否定するものではない」と言えば何とかぎりぎりクリアできるのではないでしょうか。
非常に面倒な話ですが、「他の紀年法」は元号だけでなく、本来世界中の全ての紀年法を網羅しなければならない節ですから、そこにこのような地域分類を導入するとすれば、元号を使わない漢字文化圏外の地域分類とも整合性を持つように設定しなければならず、定義には慎重を期したほうがいいと思います。
あと、摩震・泰封・渤海のお話が出ましたが、渤海は「中国周辺」としても、摩震・泰封は「朝鮮」でいいのではないでしょうか。詳しくないのですが、領域がまたがるのでしょうか。--Novo 2007年4月4日 (水) 16:45 (UTC)[返信]
失礼しました。震国と摩震との混同、摩震につられて泰封を連ねてました。恥ずかしい。渤海とその前身の震国を「中国周辺」とする意図でした。取り急ぎ訂正のみ。--田英 2007年4月5日 (木) 00:31 (UTC)[返信]

田英さん了解しました。うっかりミスは私もよくやってますので、お互い様です^^;

もし「中国周辺」の定義に賛同いただけるとすれば、実際の分類は、

  • 中国 : 「二十五史本紀(清を含む)+五胡十六国+十国」
  • 中国周辺 : 上記以外の長期間安定的に継続した独立王朝。具体的には柔然、高昌、渤海など、南詔、吐蕃、于闐、大理、西夏、西遼、北元。
  • 私年号 : 上記2分類以外の短期間存在した王権。書式は上記2分類の中に1字下げで組み入れる。

だいたい上記のようになるかと思います。そこで残された課題は、

「中国周辺」にあったが「二十五史本紀」に含まれるものを「中国」と「中国周辺」のどちらに分類するか
契丹-遼、初期の金、初期のモンゴル帝国、後金-北京占領前の清
安定的に継続した王朝と一定の関係があるが短期間しか続かなかった王権についてどこまで連続性を認め、どこから「私年号」にするか
たとえば北遼(短期なので私年号ではないか)、耶律留哥(東遼として「中国周辺」に置くのか)、東丹国後渤海定安興遼大渤海など(全て渤海の後身と認めるか、遼、金の私年号とするか)、鄭氏政権(南明の「永暦」を奉じているから明と同等とみなすのか、私年号とするのか)

なのですが、私の印象ではYonoemonさんはなるべく「中国」へ入れる方向、田英さんは「中国周辺」を活用する方向のように見えます。私は田英さんに近く、かつ「私年号」に入れる範囲を大きくとる(つまり「正統王朝」を狭くとる)解釈ですが、ここまでくるともう客観的な線引きは困難になってくるので、何か出典(私年号については李崇智の本でしょうか)を決めてそれで引いてしまうしかないと思います。ご意見お聞かせください。--Novo 2007年4月5日 (木) 18:20 (UTC)[返信]


「中国」への分類ですが、「二十五史本紀(清を含む)+五胡十六国+十国+」と李自成も加える必要があると思われます。清朝では明を滅ぼしたのは清ではなく、李自成の順であり、清はその順に代わって政権を樹立させたというのが建前になっていまして、が正統王朝なら順も同様に扱うべきでしょう。「モンゴル帝国」と「後金」については正史に従い「中国」への分類が私見です。一般的な認識でもモンゴル帝国と元、後金と清については極めて密接な関連が認められているので、それを追認というのが根拠となります。
「中国周辺」に関しては同意見です。
「私年号」に関してですが、前後の関連性の薄い短命政権での元号は「私年号」の区分に賛成です。
提起された滅亡した王朝の後継国家を自称した場合ですが、ある程度安定した政権を樹立したケースに関しては、滅亡した王朝の元号との連続性を持たせるべきと考えます。つまり北遼東遼東丹国は遼との関連性を、後渤海定安興遼大渤海渤海との関連性を考慮し「私年号」より「中国周辺」と分類した方が一般の理解を得やすいと感じています。鄭成功の場合は自らが明臣を自称し、復明を国是としていますので南明と同様の扱い(おそらく「中国」?)を提案いたします。
また「私年号」と「中国周辺」に区分する際の基準としては下記私案を提示いたします。
  • 前後に「中国」や「中国周辺」などに区分される王朝との強い後継性が認められるものに関しては「私年号」から除外する。(北元後高句麗など)
  • 正史で単なる一時的な簒奪、僭称、反乱と扱われているものに関しては「私年号」。(隋末唐初の各年号)
客観的な基準を作成することはほぼ不可能だと思いますので、上記で大まかに分類してはいかがでしょうか?--Yonoemon 2007年4月6日 (金) 02:56 (UTC)[返信]
拝見しました。うーん、やはり全体的にYonoemonさんの発想は王朝の性格の個別評価を基準に置くわけですね。確かに客観的な基準を作成することは不可能だと私も思いますが、投稿者だけの、または投稿者間の合意だけによる主観的な線引きをすると、「独自調査」になる可能性がありますよね。何か出典を用意しておいた方がいいと思うのですが。
私が同意できる部分を先に述べます。「中国周辺」の定義と最低限の範囲、「私年号」に「前後の関連性の薄い短命政権」を入れることでは同意できたと考えます。
順については事実関係はお話の通りですけれど、これを簒奪としないで正統王朝とみなした二次資料はありますか。正史でも簒奪扱いになると思いますが(無論王莾と矛盾しますが、王莾の元号についてはどの年表でもとりあげられていますよね)。
モンゴル帝国は中国史だけの占有物ではなく、むしろ中央ユーラシア史の中心的な存在ですね。しかも今問題になっているのは元号ではなく在位紀年法ですから、「元号分類だから中国史POVでいい」という言い訳が利かないわけです。厳密に言えば後世のモンゴル語の年代記での紀年法も参照する必要がありますし、元号に準ずる扱いをしていいかは問題が残ります。また後金も、「地域概念」を厳密に解釈すれば「中国周辺」になってしまいます。「地域分類」を建前とする以上、どちらもそこからあまり離れた分類はできないと思います。遼も同様です。前にも申し上げましたが、「中国周辺」として「中国」の名を冠したのは、「中国史POV」にも配慮した苦肉の策です。
今のところ出典として報告されている既刊年表のうち、「地域分類」を導入しているのは『東方年表』だけです。『東方年表』は遼もモンゴル帝国(蒙古)も後金も西夏もすべて「中国」に入れており(横に「東北・朝鮮」という枠があるにもかかわらず)、Yonoemonさんの観点に近い解釈をしています。ただ、『東方』という題名からも分かるとおり、この本は元号しか扱わないという方針でやっていますからまだいいわけですが、われわれが扱っている「他の紀年法」はその範囲外との整合性を考えないわけにいかないと思います。
最後に「私年号」との線引きについてですが、「前後に「中国」や「中国周辺」などに区分される王朝との強い後継性が認められるものに関しては「私年号」から除外する」としても、そのような元号も並立する「正統王朝」から「一時的な簒奪、僭称、反乱と扱われている」点ではだいたい変わらず、つまり「後継性」というのも主観的判断によるわけですよね。そういうことを投稿者がやってもいいのでしょうか。鄭氏政権は明臣を自称していますが、清代の私年号には明臣ないし明の後裔を主張して建てた例がほかにもあります。そういうのとどこで線を引けばいいのでしょうか。
ということで、私は投稿者の個人的な歴史認識とは別に(それを言い出すときりがないので)、何らかの出典を統一的な根拠にするルールを提案します。私年号についてはYonoemonさんから提示いただいた李崇智の本に従うのが一番楽だと思います。--Novo 2007年4月6日 (金) 11:41 (UTC)[返信]

分類問題(その3)[編集]

さらに節を分けました。--田英 2007年4月6日 (金) 13:26 (UTC)[返信]

私は李崇智《中國歷代年號考》(中華書局 2004)を実見できていないのですが、個々の年号について「私年号である」と記述されているものなのでしょうか。だとすれば、少なくとも独自の研究であることからは逃れられるので、これに拠るとするのは落としどころとして妥当だと思います。中国か中国周辺か、の判定に同書を用いるわけではない(中国POVを避けるため)ことを念押しして支持します。
中国か中国周辺かについては「二十五史本紀(清を含む)+五胡十六国+五代十国+順(李自成)」でよいのでしょうね。細かいですが未出のもので先に例外となりそうな案件を洗い出しておくということで。五胡十六国時代の16国外としている仇池・代・冉魏・西燕・翟魏・後蜀・宇文部・段部、五代十国時代の10国外としている桀燕は、それぞれ地域として中国に含めて、私年号とする、ということでよいでしょうか? これらの政権・その年号が李2004でどう扱われているかお教え頂ければ幸いです。
あと、再確認ですが台湾島は地域としての「中国」に含めていますよね? --田英 2007年4月6日 (金) 13:26 (UTC)[返信]

まず私見を申しあげますと李崇智の著作を基準とすることには強く反対します。彼の学説は史学会の有力な学説としても定説ではないというのがその根拠です(史学諸論文で定説化されていないのは明らかです)。
順の正当性に関しては清が入京に入った後に明の宗廟を守ったこと、呉三桂の乱の資料を精査すれば自ずから正統王朝に含まれる事が理解できると思われます(この点に関しては『史学雑誌』の過去記事を精読下さい)
鄭成功のケースですが、その他の復明政権とは明らかに安定性が異なります。たまたま地理的条件に恵まれた結果とも言えますが、現在は明の連続性を史学会で認められている以上は「中国」の分類が一般的と考えます。--Yonoemon 2007年4月6日 (金) 14:54 (UTC)[返信]
うーん、困りましたね。どうも私がひとりでごねてもめごとを起こしているみたいな気がしてきた(汗)。
李崇智の本には私年号かどうかの線引きがあります(この本は年表ではなく年号を王朝ごとに並べた事典のようなものです)。私は五胡十六国についてはまるで素人ですが、西燕は項目として立っています。冉魏は後趙の後身として扱われています。代は北魏と一緒に載っています。他の諸国については、ひょっとすると「私年号」扱いで載っているかもしれませんが私には今ぱっとは分からない(元号を建ててないものもあるかもしれませんね)ので、Yonoemonさんから補足いただければ助かります。ちなみに、東丹国、定安が渤海の後身扱い、北遼が遼の後身扱い、西遼は独立項目、興遼、大渤海が遼の私年号扱い、東遼が金の私年号扱いです。順は明の私年号、鄭氏政権はなぜか載っていません。
なお台湾は地域としての「中国」に含めていますが、この問題の当否について私は判断できませんので、Yonoemonさんの保証にお任せしております。
で、Yonoemonさんにお伺いしたいのですけれども、史学界の有力な定説でない著作を「依拠すべき典拠」に掲げられたのはどういうご判断に基づくものですか。これまで立項された記事にも参考文献として引かれているわけですが、それは「個々の考証はよいが、「正統年号」と「私年号」を区別する上での基準としては使えない」ということでしょうか。
私がガイドライン草案に「典拠」の節を作ったのは、特に「他の紀年法」節の記述について、出典の明らかでない記述を排除するため、「ここに挙がっていないものは載せない」という規範的枠組みを作ろうとした意図によります(各年記事にいちいち明記するわけにはいかないですし、チェックも行き届きにくいからです)。ですからここに「定説でない」本が載っているのはまずいので、他に依拠できる「定説」の典拠があればぜひご教示ください。私は素人ですので、ざっと見て典拠も考証も示されているし、細部はともかく全体としては(見かけ上は)依拠するに足ると判断していました。
私は呉三桂の乱の資料を精読したことはないのですが、清が明の仇を討つ名目で入関し、明(崇禎まで)の継承者を自任することで自らの正統性を主張したことは存じております。だからこそ順は逆賊になり、「正統」でなくなるという論理だと思っていました。清滅亡以後は共和制になり、正閏を論ずること自体が無意味になったので、李自成個人は再評価されていますが、元号を年表に載せるところまでは行っていない(王莽のようになくすと年表に空白が生じて困ることもないですし)のだと思っておりました。ですので、市販の普通の年表で1644年に「永昌元年」と明記されている例をご教示ください。
申し上げるのがとても心苦しいのですが、ずっとお話を伺っていて、Yonoemonさんがしばしばお書きになる「史学界(もしかして史学会というのは学会名の「史学会」ですか?)の定説」「一般的」「史学会で認められている」というおことばが、どうにも素人の私にはぴんとこないときがあるのです。「『史学雑誌』の過去記事」と包括的におっしゃられても「検証可能性」のルールを満たすことができないので、見解が割れたときにはご面倒でも典拠をお示しいただけないでしょうか。どうかよろしくお願いいたします。お気を悪くされたとすればおわびします。妄言なにとぞお許しください。--Novo 2007年4月6日 (金) 17:39 (UTC)[返信]
李崇智の著作に関しては参考文献にはなりますが、基準を定める依拠にはならないという意味での反対です。李崇智の研究は特筆すべき内容であり評価すべき研究成果と認めますが、あくまでも個人的な著作であり、それを基準とすることに関しては強く違和感を覚えます。また鄭氏政権が表記されないあたり、現在の政治情勢を反映しており、不完全な内容の著作を敢えて基準と定める必要性も無いと思われます。
順に関しては市販の年表で「永昌元年」と表記されているものは思い当たりません。というのも当時「後金」の元号も存在しており、新のように敢えて短命政権の順を取り上げなくても年表編集に問題を来たさないというのがその理由だと考えています。問題は年表編集でなく、当時順に対しどのような見解であったかという点です。勿論「逆賊」という考え方も存在しますが、明を滅亡させ、更に清によって滅亡されたという歴史観を以ってすれば、短命ながらも明と清の間に存在した簒奪王朝という考え方もできるわけです(明から清への政権移譲の際に中間に存在した王朝であることは事実ですし)更に順が新並の期間存在していたとすれば、新同様に中国王朝に含まれた可能性が極めて高いことを勘案し、後者の説を取って簒奪した正統王朝という扱いの方が、中国に存在した王朝という同一基準での分類になるり、より単純化されたものと考えています。
。冉魏と後趙、代と北魏に関しては個人的には李崇智同様の見解ですが、一般の閲覧者には同一視する理由を説明する必要があり、また全てに理解を得られないと考え別王朝として項目立てを行いました。この辺に関しては今まで問題になってこなかったので、あえて問題提起をする必要はないと思います。
李崇智のその他の分類、例えば東丹国を渤海の後身と扱う点などは南北国論争(渤海参照)との兼ね合いがあり一概に賛成できるものではありませんが、この辺は問題的された際に個別に議論を行い共通認識を摺り合わせるのが無難かと思います。--Yonoemon 2007年4月7日 (土) 03:25 (UTC)[返信]
なるほど、分かりました。李崇智の線引きの恣意性を問題にされているということですね。それなら要はルール問題に帰着しますね。
ご承知の通り、Wikipediaでは独自研究の書き込みが禁止されていますが、その細則として、「AとBに根拠があっても「AでありBである、ゆえにCである」という論証は書いてはいけない」というルールがあります。ですから、順が仮に正統王朝だという定説が確立しているとしても(私は保留しております、というより今の中国史学で、ある王朝が「正統」かどうかを研究のテーマにしている例を寡聞にして知りません。Yonoemonさんのご見解について論評は差し控えます)、市販の年表に「正統年号」として登載されていない限り、われわれもまた年表に「正統年号」とは書けないのです。鄭氏政権についても同様です。
また「「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」によって記述しなければならない」という決まりもあります。要するに、ここでわれわれが個別に王朝の性格や他王朝との連続性について議論して、その結果合成された結論を書き込むことも認められていません。たとえ問題があるとしても、何らかの典拠に「これは何々の私年号である」と書いてあるものでないと「何々の私年号」とは書けないのです。われわれ投稿者には自分で情報を合成して新しい見解を作り出すことは認められていません。
もうひとつ、歴史学に関係あることで言うと、Wikipedia:Attribution#一次資料と二次資料という区別もあります。上のルールと関係しますが、一次資料を典拠にするときには、誰から見ても明らかに異論が出ないようなことしか書いてはいけない、一次資料を自分で考証、校合してはならず、発表、刊行された二次資料による考証の結果しか書いてはいけない、ということです。
典拠について、李崇智に限る必要は特にないので、複数ある中のどれかに出ているものであればよい、とすればいいのではないでしょうか。典拠によって見解が分かれる場合には両論併記するしかないでしょうね。不完全な研究でも李崇智の不足を補う典拠があれば、ぜひご教示ください。--Novo 2007年4月7日 (土) 03:40 (UTC)[返信]
典拠に関しては李崇智に固執せずに広く求めるという点には大いに賛成します。
李崇智の不足を補う研究とのことですが、ルール策定に使用できるような研究内容は思いつきませんが、個別の元号に言及する論文であれば数多存在しており(天興を参照)、ここに列挙するようなレベルではないと思われます。つまり大まかなルールでは王朝交代を行っている場合は中国に含め、個別ケースについては個別ノートでの議論に任せようという方針では如何でしょうか?市販の年表なるものを基準にするよりより明確なルールだと考えています。(“所謂”正統王朝の定義に関しては論評を差し控えます。)
順に関してですが、更始 (漢)や新と同列に扱うことを提案したのであり、また明を滅亡させた政権ということで「中国」に含めようという意見ですが、もし無理があるという場合は提案を撤回します。
一次史料と二次資料ですが、歴史問題に関する限りは二次史料が典拠とした一次史料を確認するのが原則です(引用は別問題)。さもなければ某近隣国で発生したトンデモ学説までが二次資料になりますので、二次資料を引用して記述した内容に対し議論に発生した場合、元号に限っては絶対に一次史料が存在するはずですので(記録が存在しなければ元号が存在しえない)、その場合は一次史料を明確にするというローカルルールがあっても良いと思われます。これを行うことで九州年号等で予想される存在の有無に関する論争に対しても予防線となるのではと考えています。--Yonoemon 2007年4月7日 (土) 08:01 (UTC)[返信]

(戻します)一部かみ合っていないのではないかと思い、確認のためしつこく書き出します。(私の理解が追いついていないだけ、ということでありましたらご指導お願いします。)順を中国「地域」とすることには異論はなさそうです。ここで1644年崇禎#他年号との対照表から抽出です。)に、順を正統とする(*で下げずに崇禎(明)17年、永昌(順)2年、順治元年(清)を並べる)のか、非正統・私年号扱いとする(崇禎17年、順治元年は並べて永昌を一字下げる)のか、が論点であり、正統と扱っている例が市販年表などには見受けられない。なので前提としていた二十五史+五胡16国+五代10国を正統とするという基準によって、その基準に当てはまらない順は非正統としておくべきであり、正統とするのであれば何らかの出版物を典拠として示すべき、ということをNovoさんは指摘されているのだと思います。すくなくとも「投稿者の判断で正統と記した」というのではなく、「○○に拠って正統と記した」という状態に保っておけば、いったんは記事として安定できるように考えます。「正統ではない」という記述に改めようとする方が現われたならば、それを記すに足る典拠を出していただくことを求め、典拠が追記されれば両論併記という好ましい状態になると思います。これらのことから、Yonoemonさんには、順を正統と記述するための具体的な出典を示していただければよいのではないでしょうか?市販の年表でなくても、研究書/論文でも結構だと思います(その研究書なり論文についての評価が共有できればいいのですが、これには自信はありません。ごめんなさい。また、総論として最終的にはそれぞれの年号記事の個別議論に委ねられる、ということには反対はありません。)--田英 2007年4月7日 (土) 13:57 (UTC)[返信]

議論の筋は田英さんの整理の通りです。ありがとうございます。で、Yonoemonさんは順を正統王朝と見なすことについては無理があれば撤回する、とおっしゃっているところです。
個別元号についての個別研究を典拠にすることには私もむろん賛成です。またその元号について問題提起があればそこのノートで個別に議論するのも自然なことと思います。しかし、個別の研究論文が書かれるような元号というのは、存在したかどうか、あるいはいつ使われていたかがはっきりしない一部の例に限られますから、以下に述べる全体の基準の問題とはあまり関わらないと思います。
私が市販年表を持ち出しているのは、私年号を正統年号と区別するという全体の方針があるため、その基準とするためであり、まさに「大まかなルール」を定めるためです。個別元号についての専門研究はその元号が私年号か正統年号かなどという歴史認識(いわゆる「正閏論」)を取り扱いませんから、「他の紀年法」節でどれを正統年号とし、どれを私年号とするかの参考にはなりません。歴史認識を客観的に判定するには、歴史教科書や一般向けの市販年表に出ているかどうかぐらいしか基準がありません。「正統王朝」による「正統年号」の定義を避けたのでは記述ができないので、問題にしているわけです。順を「正統王朝」と見なし、王莽や劉玄と並べるかどうか、遼の周辺にあった「渤海人」の国家を「渤海国」の後継国家とみなすのかどうか、鄭氏政権をどう考えるかは、みなこの「正閏論」の問題であり、李崇智の本のような全体を網羅した典拠が求められているのも、一貫した判断基準のひとつとするためです。何かほかに、これなら自分は納得できるといういい本をご存知ありませんか。さもなければ、私年号をまったく区別しないWikipedia中文版の方針を採用するか、どちらかであると思います(個人的には反対ですが)。
Wikipediaにおける一次資料と二次資料の関係については、学者が専門研究をしていくときの手順とは逆転しているので、確かに分かりにくいところもあると思います。ルールでは記事を書くときに一次資料を参照するなとも、一次資料を引用してはいけないとも言っているわけではありません。二次資料に基づく記述が優先されるのは、投稿者がみな匿名なので、ボランティアのアマチュアだと見なすWikipediaの前提があるからです。アマチュアがへたに一次資料を扱うとかえってトンデモ学説が生まれる危険性があることは、専門的訓練を受けられたYonoemonさんであればお分かりいただけることと思います。リンクを張ったページをご覧になれば書いてありますが、もしトンデモ学説がしかるべき査読やチェックを経たメディアに掲載されているのなら、それをそのまま書いた上で、それがトンデモ学説だと批判している別の二次資料に基づいて、「それがトンデモだという批判がある」と書けばよいのです。--Novo 2007年4月7日 (土) 16:27 (UTC) 下線追加--Novo 2007年4月7日 (土) 18:17 (UTC)[返信]
くどいようですが、上記コメントで「典拠(下線追加)」と申し上げたのは、「その元号の存在、年代などについての客観的考証の典拠」という意味であり、今検討されている「その元号がどこの地域分類に属するか、及びその元号が「私年号」か「正統年号」かを確定するための典拠」という意味ではありません(そういう主張が個別研究に入っていることはあまり考えられないので)。--Novo 2007年4月7日 (土) 18:17 (UTC)[返信]
順に関しては明と清の間に存在した政権との立場の学術論文は数多く存在していますが、正閏論を正面から取り上げていないので(私も所謂正統王朝とし正閏論まで議論していません)、一般の方の理解を得られない(評価の共有ができない)と思われますので敢えて掲載はいたしません。よってこの問題は撤回とお考え下さい。
ウィキペディアにおける一次資料と二次資料の取り扱いは存じていますが、一次史料と一次資料はその意味するところが異なります。私とて一次資料をアマチュアが扱う危険性は承知していますが、史学の場合一次資料というのは学術論文を指すのではないでしょうか?普通は一次史料を用いて論文を発表し、定説化した内容がその他一般著作に用いられるものと理解していますし、現状もこのよういなっています。
元号、特に私年号の場合は典拠を求められた場合は学術論文を典拠とするのもいいのですが、その著作がロクに史料を引用していに可能性もあるわけで、学術論に引用されている一次史料も掲載すべきとの考え方です。逆に言えば史料出典が明記されていない論文ならば典拠にするに根拠が乏しいともいえます。史学研究の世界では常識とも言える手法でして、百科事典として信用できる内容とするならば史料批判を行う必要はないですが、史料引用はきわめて有用な手段と思いますがいかがでしょうか?--Yonoemon 2007年4月8日 (日) 01:29 (UTC) 改行ひとつ削除--Novo 2007年4月8日 (日) 07:49 (UTC)[返信]
史料(史書名と原文と)を引用するのは構わないし、推奨されると思います。ただ、記事への記入が史料の独自解釈によるものではないということを示すためにも、研究書なり概説書なりを挙げた上で史料引用とするほうがより好ましいと考えております。尤も、元号が使用されたことを示す史料としては「改元○○」「号○○」のように簡略に記されていて、ほかに解釈のしようがないものであれば、研究書なり概説書なりを示す必要は省けるかもしれませんね。--田英 2007年4月8日 (日) 06:36 (UTC)[返信]
そうですね。大体同意見ですが、ただ原則論を言えば、一次史料は史料批判しないと使えませんし、後述のように投稿者自身の史料批判は独自研究になりますから、二次資料を直接の典拠とする原則は変えない方がいいと思います。--Novo 2007年4月8日 (日) 07:49 (UTC)[返信]
話が史学方法論にそれてますが、まあこの際ですからお答えします。お互いディスコミュニケーションがあるようです。その代わり、他の参加者の方々を長くお待たせしていますので、私年号区別の典拠について合意に進めるよう、具体的なご提案を心からお待ちしています(まだ片付けるべき論点はたくさんありますから)。また、順の話もやめますが、どうも双方の食い違いは、Yonoemonさんが「歴史学が事実関係を詳細に分析していけば何が正統王朝かは客観的に区別できる」という前提をお持ちなのに対し、私は「正統王朝かどうかの区分は最終的には主観的なイデオロギー(正閏論、名分論)の問題だ」と考えているところにあるように思います。
Yonoemonさんのおっしゃる「一次史料」は同時代の原史料で、Wikipediaで言っている「一次資料(primary source)」(定義はここにあります)の一部ですよね(まったく重ならないということであれば具体的にご指摘ください)。このほかに歴史学では二次史料(後世の著作や史料集など)を区別しており、これも学術論文の典拠となる「史料」なので、Wikipediaが言っている「二次資料(secondary source)」(一次資料を使った学術論文)とはずれることがある、ということでよろしいですね。そうすると「一次資料が学術論文を指す」というところが分からなくなるのですが、これは資料#図書館の資料で言われている区分ですか。「一次資料をアマチュアが使う危険性」とおっしゃっているのは、投稿者は学術論文も出典に使ってはいけないという意味ですか。
すでに申し上げたとおり、また田英さんも認めておられるように、ルールでも「一次資料(一次史料を含む)を引用してはいけない」とはもともと言っていないので、一次史料引用を認める点でははじめから一致しているのです。そこに争点はありません。ポイントはWikipediaでは投稿者が自分で研究者になって一次史料を分析・総合したり、史料批判をしたりしてはいけない、だから元号についても二次資料(学術論文)や三次資料(レファレンスブック、ここでは年表)にないものは載せてはいけないというところです。それがなぜかは私もすでに述べましたし、ルールにも書いてあります(要するにWikipediaは歴史学の研究発表の場ではないので、歴史学の作法とはルールが異なる、専門家にもアマチュアと同様の制約が課せられるということです)ので改めてご参照ください。なお「史料出典が明記されていない論文」の評価が劣るのは当然なことで、それははじめから使わなければよいのではないでしょうか。
なお、史学方法論やWikipediaのルールの話はガイドライン草案の議論と直接の関係がないので、もしご意見があれば利用者‐会話:Novoで承ります。ここでは話を前に進めましょう。--Novo 2007年4月8日 (日) 07:49 (UTC)[返信]
元号という一次史料に依拠すべき問題に関し、原則論を徹底適用という考え方を適用との事、どうやら史料と資料の定義から解説が必要なようですので、煩雑なので小生の意見はすべて撤回という方針でお願いします。史学と歴史の永遠の差になりますので、原則論を適用するようり、個別項目で学術論文を併記しながら、問題点を個別議論したほうが建設的と強く感じました。ここで史学概論を教授しても無意味でしょう。
現在議論している内容は今後共通認識を得るものでなく、かつ大勢に影響を与えるものではありませんので、今後は個別項目を立項し、その中で個別議論に任せたほうが無難そうです。このルール作りに関しては歴史観の議論を避けるためにも、共通認識を策定しない、問題点はかく項目のノートで議論という方針を提案したします(差別するわけではないですが、史学未研究者のNovoさんと史学概論を論争しても平行線でしょうので、議論は回避したほうが無難そうです)。--Yonoemon 2007年4月8日 (日) 15:10 (UTC)[返信]
はい、了解しました。どうにもやりとりがかみ合いませんし、プロジェクトと関係の薄い議論をしてもお互い疲れますのでやめましょう。
その上でまず、今議論しているのは「他の紀年法」節への登載基準であって、「元号記事の立項基準」ではないということを確認させてください。上のコメントを見て、もしかして食い違っているのではないかと感じました。この節自体が「西暦年記事」節の中にあることにご留意ください。
(そもそも個別元号の記事についてなら、こんなに根を詰めて考え、共通認識・共通基準を策定する必要はなく、立てたい人が立て、問題があればそこで議論すればよいことに全く同感ですので、Yonoemonさんが特にこれまでのご意見、ご提案を撤回される必要はありません。先にお示しいただいた天興の記事も、拝見して、史学方法論にも、Wikipediaのルールにも則った大変堅実な記事だと敬服しているところです。しかし「他の紀年法」節は2000もの記事にまたがるので、個別議論を個別年記事のノートでやるというわけにいきませんし、このプロジェクトで採否について統一的な典拠を定めておく必要があるということです)
そして「原則論徹底適用」といってもまだ何を原則とするかが決まっていないので、代案をお示しいただけないでしょうか。Yonoemonさんは私年号区分に関する李崇智基準を否定されました。このままでは「他の紀年法」に何をどのような形式で載せるのかが決められませんし、たとえば紀年に異説がある場合にどちらを取るのかも決められません。私年号を一切排除するか、別の本を基準とするか、李崇智の本と複数併用するのか、いくつかの選択肢が考えられます。それでくりかえし、「これなら納得できるという本はないか」とお伺いしてきたわけです。
私の方から一つ提案させていただきますが、私の手元に柏杨《中国历史年表》(海口: 海南出版社, 2006年11月 ISBN 7-5443-1865-6という本があります。ほかにも類似の年表はいくつかあるようですが、私は見ていないのでこれを挙げました。私年号を区別しています。李崇智ほど全体を網羅していません(渤海系は載っていません)が、桀燕を正統年号として、鄭氏政権(明延平郡王)を私年号として載せている点で李崇智の本を補う内容です。これを基準に含めてはいかがでしょうか(ただし私のもっている本は簡体字版であり、台湾の遠流出版社版『柏楊全集』にも収められているようなので、指定するならそちらの方がいいかと思います)。--Novo 2007年4月8日 (日) 17:23 (UTC) 一部修正--Novo 2007年4月8日 (日) 20:04 (UTC)[返信]

(戻します)柏杨《中国历史年表》・李崇智《中國歷代年號考》のいずれも見れていない私には手が出せなくなってしまいますが、例えば1644年記事では、

  • 中国
    • 明 : 崇禎17年
      • 順 : 永昌2年
    • 清 : 順治元年
  • 朝鮮


※.柏杨《中国历史年表》に拠って本記事においては私年号と位置づけた。同政権の正閏論については順または永昌の記事を参照。

としておけばいいのではないでしょうか?言葉がおかしかったり指している書籍が適切でないかもしれませんが、あくまで表現方法としてイメージするところです。Yonoemonさんが仰るように、個別問題点は各項目(この例であれば、順や永昌の記事)で、学術論文を引いてきての議論を煮詰めて、その項目の記事を充実させるのが好ましいと思います。そして、西暦年記事という、多々ある元号・紀年法の一覧対照を目的とした記事においては、個別議論があることを知らせるだけでいいのではないでしょうか。Novoさんの仰るのは、全ての西暦年記事に一つ一つこうした注釈をつけていくのも大変なので、ガイドライン上で私年号定義の拠り所として○○本を用いているという宣言をしておきたい、と私は捉えているのですが、ガイドライン規定だけでなくケースバイケースでこうした個別記事への明示的な誘導を注釈付けする、という手法はどうでしょうか?--田英 2007年4月9日 (月) 14:20 (UTC)[返信]

※については、西暦年記事においてはあまり必要な情報とは思えないです。プロジェクトのページに、どれをアスタリスク2つ、どれをアスタリスク3つにするかを列記しておけばよいのではないでしょうか。また、編集合戦防止目的なら、ノートを利用してはどうでしょう。--oxhop 2007年4月9日 (月) 14:32 (UTC)[返信]
わかりやすく例示していただき助かります。私の意図は要約していただいたとおりです。個別元号記事との記述内容の分け方、役割分担についての新しいご提案も妥当だと思いました。同意します。「他の紀年法」節での典拠等の注記については、Template:他の紀年法Wikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法へのリンクを張ってありますので、興味ある閲覧者に対してはそこから誘導してガイドラインを見ていただければ、お示しいただいたように個別に注記する煩を避けられると思っていましたが、テンプレート凡例の文面をもう少し工夫する必要がありますね。
過去ログを読み返してみて私のことばが足りなかったと思うのですが、私年号の典拠の限定は、中国・中国周辺の私年号にご関心をお持ちの参加者が多いように感じたので、その方々にあらかじめ書誌情報を明らかにしていただきたい、でないと根拠のはっきりしない記入があったとき対応に困る、という趣旨のつもりでした。「規範的枠組み」ということばはちょっと強すぎました。ですのでこの2冊だけということではなく、それぞれの執筆者のお手元にある典拠(「他の紀年法」記述において個別元号ごとで全部異なる典拠に拠るということはおそらくないと考えましたので)で書いていただければよいので、プロジェクト参加者全員がその典拠を確認・共有する必要はないと思います。それに大多数の年号はすでにあがっている市販の年表を用いれば記述可能であり、私年号は全体から言えばごく一部です。ただ、年表や網羅的な研究(Wikipediaでいう二次資料)の中には、典拠とするにふさわしくない水準の低いものも存在しますから、それはあらかじめ排除する意図もありました。また、用字、私年号かどうかの区分や紀年で見解が割れる可能性が高いので、個別元号記事ではともかく、一覧対照のための「年表」である「他の紀年法」節では、ある程度特定の典拠を決めてしまった方が簡便であり、あとあとのクレーム等にも対応しやすいのではないかと考え、限定することを強調する言い方をしてきました。
最後になりますが、ここ数日の議論の中で、Yonoemonさんのお気持ちと名誉を害するように受け取られるかもしれない表現をいくつかしてしまったことについて、Yonoemonさんにおわび申し上げます。プロジェクトを立ち上げ、ご協力をお願いした側としてはより言動を慎むべきであったと思います。申し訳ございません。--Novo 2007年4月9日 (月) 15:54 (UTC)[返信]

分類問題(その4)[編集]

節を分けます。しばらくクールダウンの時間をとり、謹慎しておりました。

議論が長期化しておりますので、ここまでの結果を私の方で整理させていただきたいと思います。

これまでの合意点は、

  • 前近代の元号について、「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」の地域分類を設ける。ただし分類は便宜上行うもので、異なる考え方による分類や歴史観を否定するものではない。
    • 「中国」に入れる王朝は、原則「二十五史本紀(清を含む)+五胡十六国+十国」とする。
    • 「中国周辺」の定義は「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域」とする。ここに分類する王朝は、柔然、高昌、渤海、南詔、吐蕃、于闐、大理、西夏、西遼、北元とする。
    • 地域分類には下限を設ける。
  • 各地域の元号について、「正統元号」と「私年号」を分ける。「私年号」には「前後に連続性を持つ王朝がない短期間の王権の元号」を分類する。
    • 書式上、「私年号」は「正統元号」より一字下げる。
    • 日本の「九州年号」には言及しない。

以上であったと思います。その上で、検討中の課題については、

  1. 「中国周辺」にあったが「二十五史本紀」に含まれるもの(契丹-遼、初期の金、初期のモンゴル帝国、後金-北京占領前の清)を「中国」と「中国周辺」のどちらに分類するか。
    1. 連続性を重視して全て「中国」に入れる。
    2. 契丹、初期のモンゴル帝国、後金を「中国周辺」に、遼、金、清を「中国」に入れる。
    3. 存在した地域に機械的に分類する。全てを「中国周辺」に分類する。
  2. 地域分類の下限をどこにするか。
    1. アヘン戦争前後をめやすとする。
    2. 日本の太陽暦採用をめやすとする。
    3. 各分類ごとに決める。(「中国」は1911年、「中国周辺」は1387年、「朝鮮」935年、1948年または現在、「ベトナム」は1945年)
  3. 「私年号」区分の基準をどうするか。特に安定的に継続した王朝と一定の関係があるが短期間しか続かなかった王権についてどこまで連続性を認め、どこから「私年号」にするか。
    1. 連続性を重視して全て「正統元号」とする。
    2. 全て個別元号ごとにその記事のノートで検討することとし、統一的基準を定めない。
    3. 何らかの統一的典拠を定める。(具体的候補として李崇智、柏楊の年表)
  4. 暦法(太陰暦、太陰太陽暦、太陽暦)による分類を取り入れるか。
    1. (未検討)

現在までに以上のような提案があったと思います。

改めて、個別論点ごとにご意見をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。--Novo 2007年4月14日 (土) 18:05 (UTC)[返信]

まず、上記合意点については、私も賛同します。次に検討課題について。

  1. 出来事の欄には華北侵入事件には必ず触れざるを得ないので、他の紀年法の欄でもそれと連動する形で、はじめ「中国周辺」にあったのが途中から「中国」になっているというのは、1年ごとに順に見ていった場合などを想定すると面白そうだと思いました。ちょっと作業は面倒になるかもしれませんが。
  2. 3の地域毎にというのが良いと思います。
  3. 標準的な位置づけにあって、誰もが閲覧できる資料があればそれに依拠するのが手っ取り早いのですが、個別検討の2がいいかな、と思います。各種資料がどのように扱っているかを検討するということで、多くの資料で共通するものをサブページにまとめていただけると助かります。
  4. 暦法による分類と地域による分類を階層的に組み合わせると、かなり煩雑になりませんか? 地域分類をするのであれば、なくてもいいように思います。
  5. 暦法に関連してちょっと疑問に思っていることですが、干支はどのように扱ったらよいでしょうか? (1)全て旧暦(太陽太陰暦)で通す、(2)すべて新暦(太陽暦)で通す、(3)日本が太陽暦に移行した1873年を境に切り替える、(4)中国が太陽暦に移行した1912年を境に切り替える、という方法が考えられますが。--oxhop 2007年4月16日 (月) 12:04 (UTC)[返信]
田英です。合意点について、異存ありません。検討課題については、立ち位置表明として、
  1. -2で、合意点に基づく正統王朝の間のみ中国、前後は周辺とする。合意点と矛盾を生じないのは2になると思いますし、oxhopさんのご指摘(年の変わり目で、ある政権の表示位置が変わる)を活かせるとさらに良いと思います。
  2. -3で問題ないと考えています。
  3. -2で個別議論への誘導(テンプレート記述するか、「その他の紀年法」末尾に添える)としたいです。合意したものと早合点してました。
  4. (意見表明できかねます)解らない分野ですので…すみません。
  5. (意見表明できかねます)解らない分野ですので…すみません。
としております。--田英 2007年4月16日 (月) 13:23 (UTC)[返信]
oxhopさん、田英さん、コメントありがとうございます。私の個人的な考えは、すでに上で書いていますが、
  1. 3
  2. 3
  3. 3(ただし2と組み合わせる)
  4. 採用
です。なるべく相違点にしぼって私見を述べます。
  1. 田英さんのご指摘の通り、確かに合意点の「中国」の定義を外れることになるのですが、「地域分類」という建前を崩すとほかのあちこちに影響が出るので、なるべく厳密に考えて、王朝の束による定義は建前には出さない方がいいと判断しています。「中国」の定義についての合意も、私個人は「原則」として合意したつもりで、その後に「周辺」との線引きについてコメントをしています。ただ、建国当初の金(1115年 - 1122年燕京占領時?)や北京占領前の清(1636年 - 1643年)など、どこから「中国」になるのかを決めかねるケースもあって確かに第1案、第2案より処理が面倒なのは認めます。
  2. おふたりに同意します。
  3. 確かにセンシティブな問題だなと少し考え直しまして、プロジェクト始動時の第一段階と、その後の長期的段階とを分けることを考えました。oxhopさんのお話の通り、もともと私年号を網羅した二次資料は中国で出版されていて入手も容易ではありません。一次資料に出典を求めるとすれば、その時代について専門的訓練を受けた方にしか書くことができません。個別議論をまっているといつまでも作業が始められないので、最初の記入に当たっては特定の典拠を仮に指定して書いてしまい、それについて異論があれば、田英さんのご提案の通り、各王朝ないし「反乱者」(場合によっては元号)の項目のノートで個別検討する、ということではどうでしょうか。正式リリース前に具体的な分類を見たいというご要望があれば、私の手元にある2冊の情報はまとめてみます。
  4. いくつかハードルはあるのですが、近代以前は暦法の変動はないので、まず暦法で分けて、その中(太陰太陽暦の中だけになると思いますが)で地域分類を並べていき、近代改暦の時に位置を移すようにすれば、それほど煩瑣ではないと思います。むしろ干支や旧暦暦日の処理などはよりスマートにまとめられると考えています。
    • 干支は、完全に陽暦対応に移行しているのは日本だけで、ほかの国では現在でも陰暦(太陰太陽暦)の暦年、暦日を表わすのに使われているのが実情です。むしろ現在、未来まで「太陰太陽暦」に分類した上で、「干支 : 甲子(癸亥年XX月XX日 - 甲子年XX月XX日)」(下線部記入は後回しにしますが)と書いていけば、下の節でoxhopさんが提起された「陰暦暦日表示の整理問題」もほぼ解決できますし、現代日本の実用的見地からいってもそれほど見にくくはならないと思います。
    • 皇紀や檀紀を「地域分類」しない太陽暦に分類できるのも、私個人はメリットだと感じています。
    • 課題となるのは、暦法をどのような順番で並べるかです。今は「干支」「日本」「中国」・・・という順番ですが、暦法分類を採用すると「日本」が上に来なくなる可能性があり、いくら「日本POV排除」といってみても違和感を持つ人がいるかもしれません。この点については考え中です。--Novo 2007年4月16日 (月) 14:14 (UTC)[返信]

3については、Novoさんの二段階案で良いと思います。干支については、なるほど良い案だと思いました。また、暦法での分類は魅力的ではあります。その場合、干支は暦法分類の下には置かないということでよろしいでしょうか? 例えば、こんな感じでしょうか↓

--oxhop 2007年4月17日 (火) 16:03 (UTC)[返信]

個人的な意見を表明いたします

  1. 1-1(2が面白いとは思いますが、それを採用するとその転換点をどこに求めるかが困難)
  2. 2-3
  3. 3-2
  4. 4-不採用

太陽暦、太陽太陰暦、太陰暦に区分する着眼点は面白みはありますが、基本的に地域区分した方が見やすい一覧になります。また学術的にも彝族太陽暦なぞはインド太陽太陰暦の影響を受けているといわれるケースもあり、将来マイナーな暦法を加筆した場合のカテゴリー区分できない可能性も出てきます。--Yonoemon 2007年4月18日 (水) 00:29 (UTC)[返信]

あらためて、3(私年号)は、断り書き(ノート等への誘導)がなければ、本プロジェクトで掲げてある書籍に拠ったものであるということになって「3」であり、断り書きのある場合は「2」なので、実質的にはNovoさんの「3(ただし2と組み合わせる)」で表されているところだと思います(合意できたのではないでしょうか? ) 1(地域分類)についてはもう少し考えたいと思います。--田英 2007年4月18日 (水) 13:01 (UTC)[返信]
oxhopさんの例示に大体同意します。分類には「太陰暦」(イスラム暦)「その他」(目下のところUnix Time、修正ユリウス日、リリウス日)も設けて網羅的にすれば、Yonoemonさんの指摘された分類不能の可能性はなくなるものと思います。oxhop原案でも、暦法分類は網羅的ではなく、干支やイスラム暦は外に出していますから、分類不能のものはそこに併記するということでいいと思いますが。
気づいた点は、
  • 干支の置き場所(暦法分類からはずすと後の暦日注記がどの暦法に属するのか分かりにくい。ただし分類に組み入れると別の問題が生じる。これについては後日コメントします)
  • 「太陰太陽暦」の項への暦日の記入(太陰太陽暦にも複数の暦法があるのでひとつで代表させられない)
  • 「太陽暦」の項への「(月日は一致)」の記入(ユリウス暦を記入するので削除した方がよい)
の3つです。ただし暦日注記は長期的課題なので今細部までつめなくてもいいかと思います。
私年号についてはYonoemonさんが「第一段階における特定の複数の典拠による仮の書き込み」にも反対されているのかどうかを確認させていただいた上で方向を検討したいと思います。また地域分類については、Yonoemonさんの挙げられた「転換点」確定の問題が生ずるのは第3案だけで、第1案及び第2案にはその問題はない(第2案は国号変更を基準としており客観的に確定できる)ことを確認しておきます。--Novo 2007年4月18日 (水) 17:04 (UTC)[返信]
私年号は典拠(一次史料)が提示可能なものであれば仮の書き込みも容認していますし、私も仮の書き込みを実際に行っています。ただしあまりにも独創的と感じるものに関しては{{修正2|3}}を付与し、特定の研究者による主張という点を強調するようにしています。史料検証が不十分であると思われる内容に関してはこれらのマーキングが必要と思われます。
地域区分を国号の変更に基準を置き客観的に確定という点には強い違和感を覚えます。たとえばの場合は1636年に建国されましたが、所謂中国の統治開始年は1644年でして、この場合はどのように扱うのかに対して一切説明がなされる内容ではありません。国号は所詮国号であり、中国支配との関連性は存在しているにせよ、密接なものでなく客観的な基準には成りえないという指摘がなされた場合いかがなものでしょうか?この点は強く反対します。--Yonoemon 2007年4月19日 (木) 00:02 (UTC)[返信]
私年号については、田英さんが確認されたとおり、私が上で提示した二段階案(つまり3の「3(ただし2を組み合わせる)」)で同意されるということでよろしいようですね。マーキングが必要になるようなケースについては、第一段階ではむしろ記入しない方がいいかと思いますが、さしつかえないでしょうか。あと、一次史料の定義について念のため確認させてください。二十五史は一次史料ですか。
地域分類について、第2案に強い反対を示されましたが、ご趣旨は私の第2案に対する見方とほぼ同じ(私はそれほど強い反対ではありませんけれども)なので、賛同します。それでは第3案をとって地域分類を徹底する方向をとられない(私は清を中国に分類するのは1644年からがよいと考えて第3案を提案しました)のはなぜでしょうか。あわせてご教示ください。また暦法分類についても検討中ですので、ご意見お聞かせください。--Novo 2007年4月19日 (木) 11:59 (UTC)[返信]
マーキングが必要な私年号は専門教育を受けた執筆者に限定される項目になるので、執筆者の判断にまかせてもよろしいかと思います。
地域区分で第3案を採用しない理由は、機械的に区分するという点にあります。その地域がどこに存在するかについては時代ごとにことなります。時代背景を無視した機械的な区分といのはYesかNoかという一見客観的に見えながらも、その時代の社会経済情勢による実質的な区分を排除した方法であり違和感を感じているだけです。連続性を重視するので清に対しては後金時代より中国に分類というのが小生の意見です。
暦法分類は素人が手を出せる分野ではないと思われます。同じ太陽太陰暦でも増減法を採用しているものとしていないものもあり、またイスラム暦の影響を受けた中国の暦法もあるので、一概に分類するよりは単純に列記した方が無難でしょう。
一次史料の件ですが二十五史は立派な一次史料です。--Yonoemon 2007年4月20日 (金) 02:14 (UTC)[返信]
ああ、ユリウス暦だったことを、すっかり忘れてました。申し訳ありませんでした。暦法分類は単純化できなさそうなので、ここではやめておいた方が無難だと思います。--oxhop 2007年4月20日 (金) 15:57 (UTC)[返信]
Yonoemonさん、全ての論点につきコメントいただき、ありがとうございます。私年号記入については合意が形成されたと判断します。また暦法分類を提案されたoxhopさんから「やめるのが無難」というご意見がありましたので、私もやめることに同意します。
のこる地域分類について、Yonoemonさんの「個別の社会経済情勢を見るべきだ」というご意見には耳を傾けるべきところがあると感じました。今論じられているのはそれほど多くない個別の例ですので、事例ごとに個別のご見解をお示しいただければ幸いです。
「地域」が時代によって代わりうる可変的なものだというご見解には確かに同感です。ただ、もともと「地域分類」を導入するに際して、最初反対していた私が「これが現在の国家(国史)を単位とするのではないことを明確にする」との前提で多数案を受け入れたことをご想起いただければと存じます。仮に「王朝の連続性」だけを理由にすべてを「中国」に組み入れると、その王朝が「中国王朝」として、現在の国家につながる「中国史」の中での連続性をもつことを認めることになり、「中国」地域の定義に「国家分類」の観点を混入する余地を残す結果を生じます。ですから、「地域」が可変的なものだというお考えから出発されるのであれば、すでに設定そのものについては合意が成立している「中国周辺」との境界がその時代においてどこに存在するのかを、その時代の社会経済情勢に即して割り出す手順をとることを提案します。ご教示いただければ幸いです。--Novo 2007年4月20日 (金) 17:38 (UTC)[返信]
言い落としましたが、Wikipediaの出典主義方針からいえば、単純に議論してここで結論めいたものを出すのはまずいので、「この本、この論文にこう書いてある」という基準で決めておいたほうがいいでしょうね。--Novo 2007年4月20日 (金) 18:54 (UTC)[返信]

分類問題(その5)[編集]

節を分けます。以下は上記の「分類問題その4」の論点1(連続性の認められる政権について中国周辺と中国とどちらに括るか)についての調整検討が中心になります。--田英 2007年5月3日 (木) 13:44 (UTC)[返信]

しばらくコメントがとだえていますが、最後に残った大きな問題ですので、まとめたいと思います。事例ごとに検討しようという提案を出したのは私なので、少し勉強をしました(素人談義を超えません)が、多くの方が興味を持って読んで下さるほど面白いとも思えないので、まず結論だけ申し上げます。

個人的には第3案を維持しており、その線で勉強をしましたが、第2案が大勢を占めれば改めて考えます。第2案については、その発想の問題点についてすでにYonoemonさんに同意しておりますが、第2案と第3案で大きく分類が異なるのは遼だけで、あとはそれぞれ10年程度(初期の金、入関前の清)の違いがあるだけです。実質的に大きな違いがあるわけではないので、第1案に比べれば検討の余地はあると考えております。

なお、第3案で一番むずかしい初期の金については、燕京占領ではなく靖康の変をとり、1125年までを「中国周辺」、1126年以降を「中国」に分類しようと判断しました。

必要であれば詳論を準備し、投稿しますのでお知らせください。大きなご異議がない場合、1週間ほどの時間を見て、合意が形成されたと判断させていただきます。よろしくお願いいたします。--Novo 2007年5月2日 (水) 07:33 (UTC)[返信]

靖康の変によるの区分ですが、金の社会がこの事件を境界に大きく変質したか否かを確認したいと思います。領域の変化のみで、著しい社会改変がなければ区分点に設定することには無理を感じます。合意形成の期間の延長をお願いします。--Yonoemon 2007年5月2日 (水) 08:36 (UTC)[返信]
ご異議があれば検討は続けますのでぜひコメントをお寄せください。なおご指摘の「金の社会」とは現在の地理的区分でいうとどのあたりにある、どのような集団によって構成される「社会」を指すのでしょうか。--Novo 2007年5月2日 (水) 08:46 (UTC)[返信]
コメントしておいて申し訳ないのですが、このまま各論にばらばらに入るとまたかみ合わなくなるのではないかと恐れますので、やはり私の見解をまとめて示すことにし、「金の社会」の定義についての質問はひとまず取り下げます。すでに1ヶ月以上検討が続いておりますし、私の最後の提案からも10日以上たっておりますし、みなさまご専門で私よりもずっとお詳しいと存じますので、早期の妥結にご協力いただければ幸いです。
これから文章化しますので後ほど投稿いたしますが、私の手法だけ先に述べると、「史学界の定説」として主に「岩波講座世界歴史(新版)」及び「山川世界各国史(新版)」に依拠し、そこでどのような史的叙述と地域区分がされているかを基準にする、というものです。具体的には「中央ユーラシア史」と「中国史」をどう分けるかが焦点になります。むろん必要に応じてそのほかの研究も援用してかまわないと思いますが、ここで解決すべき問題は、個別の王朝史そのものの解明ではなく、紀年法の分類のために最低限必要な地域区分の設定にすぎないことにご留意ください。
議論に際しては、参加者は先行するコメントの一部ではなく、必ず全ての論点について同意を明示するか具体的な反論を行うこと、自分の個人的な歴史認識を語るのではなく、典拠を明示すること、全ての参加者が明示的に合意を表明していなくても、最後のコメントから1週間異議がない論点については合意が形成されたとみなすこと、以上3点をルールとしたいと思います(だいたいWikipediaのルールに即していると思いますが、念のため)。
Yonoemonさんの推す第1案については、一般論として、
  1. 4例すべての根拠とされている「連続性」とは何がどう連続していることを指しているのか。
  2. 「連続性」と地域区分とは常に連動するものなのか(何らかの連続性をもった王権が異なる地域間を移動したり、地域を越えて膨張、縮小することもあるのではないか)。両者に必然的な因果関係があるのか。
  3. 「連続性」を基準にすると現在の国家との連続性をも認めることにつながり、地域分類でなく「国家分類」になるのではないか。
以上3点をあらかじめ質問させていただきます。--Novo 2007年5月2日 (水) 13:47 (UTC)[返信]
これは史学概論から話を始めないといけないようですな。おそらく社会制度史や経済史からの連続性を指摘したところで、それを地域区分に直結させる考え方とは相容れない世界だと感じます。こちらが指摘したのは金王朝としての連続性であり、靖康の変によりその社会が変化しないにもかかわらず、中国周辺から中国に区分変更する違和感に意義を唱えたまでです。現在の国家との連続性には一切言及しておりません。
事実、漆侠、喬幼梅氏による『遼夏金経済史』(河北大学出版社)や張博泉氏などによる『金史論稿』(吉林文史出版社だったかな?)などによれば事件による区分変更の意義は見出せないでいます。
金朝の場合長い時間をかけ中国王朝としての体裁を整えたと考えるべきであり(もちろん靖康の変も転換点の一つでしょうが)、事件を区切りとして中国周辺から中国へ移管したというのは乱暴すぎるものではないでしょうか?中国や韓国ではこのような乱暴な区分を行う傾向があり、それが渤海における南北国論争などという議論に発展している現状を考え、正史記載の王朝+分裂期の一般に中国と区分される王朝はは中国、それ以外は中国の周辺という合意に達したと考えていたのですが異なるのでしょうか?--Yonoemon 2007年5月3日 (木) 07:44 (UTC)[返信]
もう一度整理(太字を中国、通常字を中国周辺とする)します。間違っていたら修正します。
  • Novoさん : 3案 : ・西遼、金初期(靖康の変以前)・、モンゴル・・北元、後金・
  • Yonoemonさん : 1案 : 遼・西遼、金、モンゴル・元・北元、後金・清(これらはすべて中国扱い)
とするお考えとですね? 金の初期の区切りについては、地域区分とする建前からは「靖康の変」よりは「燕京入り」のほうが明確になると思いますし、社会の質の転換の有無という学術レベルの厳密さは解かり難く、安定した解が一般にはなじみの薄いものだと思われますから、一まとめに金で中国とすることに違和感を覚えません(高校世界史レベルの認識ですが、『金史』もあることですし)。西遼・モンゴル・北元についてはやっぱり「華外」「中原を逐われた」のイメージがあるので、学術的に正統継承であろうともこれらは周辺と感じます。モンゴル帝国では元号は用いられていないですしね。後金と清では、もとは国号を重視して大清国と称した1636年がしっくりくる(崇徳元号から中国)と感じていましたが、金に準じて1616年当初から中国でもいいかな、とも思うようになりました。「現代の国家の枠組みを考慮してモンゴルは周辺、中国東北地方は中国としたのではないか」と受け取られる弱さはあるのですが、2案からすこし3案に寄った感じで、
  • 田英 : 2-3折衷案 : ・西遼、、モンゴル・・北元、後金・清
こんなところでどうかな、と思います。連続性が現在の国家に連なるのではないか、とのNovoさんのご指摘については、君主の血縁の途切れで回避できるのではないでしょうか。(脇の甘い考え方かもしれませんが、「元と北元とはつながるけれど、明ともモンゴル国ともつながらない。後金と清とはつながるけれど、中華民国とはつながらない」くらいの認識です。)--田英 2007年5月3日 (木) 13:44 (UTC)[返信]
Yonoemonさん、田英さん、コメントありがとうございます。いつもながら田英さんから的確な論点整理をいただき、大変助かります。ただ、私の第3案は遼を全部「中国周辺」としています。Yonoemonさんは西遼と北元を「中国周辺」とすることに同意されています。
Yonoemonさんの書き込みを私なりに解釈すると、
  1. 「連続性」は世襲王権が連続していること、及び社会経済史的観点から見て変化がないことを指す。
  2. 「連続性」と地域区分とは連動しないし、させるべきではない。
  3. 現在の「国家」との連続性には言及していない。
ということでよろしいでしょうか。
お答えはまとめて下に示した見解の中に書き込みましたので、ご覧下さい。なお、今田英さんの2-3折衷案を拝見しましたが、すでに長い文章を書いてしまいましたので、とりあえず第3案を維持することにします。議論の成り行きを見て改めて検討させていただきます。
なお、これまでの議論の経過についてですが、
  1. Yonoemonさんが2007年4月2日 (月) 00:03 (UTC) に「「周辺王朝または地域」の概念を採用するのであれば、正史に取り上げられた所謂正統王朝に加え、三国時代、五胡十六国、五代十国に内包される王朝あたりを「正統年号」としてそれ以外を「周辺年号」と区分してはいかがでしょう?(下線Novo)」と提案され、
  2. 私が2007年4月2日 (月) 04:05 (UTC) に同意のコメントをつけた後、
  3. 「分類基準を「地域」とするとすれば、個々の王朝の性格から分類先を決定するよりも、「存在した場所」で純粋に振り分けてしまった方が客観的に説明できる」という考えから、2007年4月4日 (水) 16:45 (UTC) のコメントで私が「中国周辺」を「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域」と客観的に定義する案を提示したところ、これまでに異論はなく、ガイドライン草案にもすでに書き加えられており、
  4. さらに2007年4月5日 (木) 18:20 (UTC)のコメントで、私が「中国」分類を「だいたい「二十五史+五胡十六国+十国」とする(下線Novo)」と再確認した上で、今検討されている4例について問題提起したところ、
  5. Yonoemonさんから2007年4月6日 (金) 02:56 (UTC) にモンゴル帝国と後金について「中国」分類を推すコメントがあり、
  6. 以後他の2例も含め議論が続いている。
以上のように確認します。私の問題提起はすでに述べた「中央ユーラシア史」と「中国史」との区分を考慮したものです。なお「中央ユーラシア史」という観点は中国の歴史研究にはなく、おそらく受け入れにくい発想なので、もしそのようなご見解を共有されているのであればあらかじめお知らせください。--Novo 2007年5月3日 (木) 15:21 (UTC) 一部加筆--Novo 2007年5月3日 (木) 18:51 (UTC)[返信]

以下に私の見解をまとめて述べます。コメントは全体の後ろにお願いします。ご反論、ご質問にはお答えいたしますが、議論を効率的に進めるため、論点をばらばらに提示されるのではなく、上の田英さんの2-3折衷案のように、それぞれの案を推す理由について私と同様パッケージにまとめた見解をお寄せいただければ幸いです。--Novo 2007年5月3日 (木) 15:21 (UTC)[返信]

第3案(すべて「中国周辺」に分類する)の根拠
一部加筆、訂正--Novo 2007年5月3日 (木) 18:51 (UTC) (UTC)[返信]

前提1:「グレーゾーン」

ここで検討される4例はいずれも「グレーゾーン」であり、「中国」に含める方に有利な史実と含めない方に有利な史実とがともに存在する。しかし、そもそも「中国周辺」という概念を設定し、これにほぼ「中央ユーラシア」に相当する内包を与えたこと自体が「グレーゾーン」を処理するための方便だった経緯から考えれば、すべてを「中国」に分類するより「中国周辺」に分類するほうが妥当である。また「中国周辺」の定義の中に「中国の一部地域」が含まれているのだから、「中国周辺」に分類したからといって「中国」でないというわけではなく、また「中国」に含める方に有利な史実が直ちに「中国周辺」への分類に対する反対理由になることもない。

前提2:「中国」の定義

これまであえて厳密な定義に踏み込まないでおいたが、山川新版世界各国史『中国史』(第3巻)の序章「「中国」とは何か」(岸本美緒)に依拠する。「中国」の多義性について簡便に整理した分かりやすい行論である。ここでは「中国」のもつ多文化的特徴が、対立概念である「夷狄」を排除し、かつ包摂する正反対の方向性の行き来によって可能になったことを述べている点だけを指摘しておく。

前提3:「連続性」と地域分類

地域分類は文化的、社会的要因をも考慮に入れるものであるが、定義上はあくまで地理的な空間として客観的に設定すべきものであり、任意の王権が「連続性」をもちながら地域を越えて空間的に移動、膨張、縮小することを否定するものではない(モンゴル帝国の支配空間が全て一「地域」になるわけではないことを想起せよ)。したがって地域分類の変更によってその王朝の性格に変化があったと直ちに考える必要はない。

前提4:「他の紀年法」節の「デジタル性」

西暦年記事は1年ごとの「断代」であり、社会経済情勢のアナログでゆるやかな変化を逐一反映するにはもともと向いていない(そのような記述はそれぞれの王朝史記事で触れればすむことである)。したがって、地域分類を変更する場合、変化の過程の中からエポックメイキングとなる1年を便宜的に選んで行うほかはない。

個別検討1:契丹・遼

山川新版世界各国史では、『中国史』の第4章「東アジア世界の変容」(宮澤知之・杉山正明)4「北方民族の台頭 -遼と西夏」で遼と西夏の歴史を取り上げており、『中央ユーラシア史』(第4巻)では天山ウイグル王国の記述の中に周辺的に登場するだけである。しかし、『中国史』の該当部分の冒頭には、「中国社会が中唐以後宋初にかけて大きく揺れ動いたころ、中国周辺の諸民族・諸国家は強大な唐帝国の影響下から脱して、あらたな動きをみせ、中国とこれら諸民族・諸国家との関係は、それまでとは異なるかたちをとるようになる。ここでは宋朝ととくに関係の深い遼と西夏について述べよう(200-201ページ)」とあり、その後も一貫して両王朝を「中国」たる宋朝との対立関係の中で、その「周辺」として扱う叙述を行っている。また「遼は、内に異質の社会を含んだため、国制のうえでも中国的官僚制を導入した二元制をとったが、漢文化に対抗して契丹文字を制定したように民族的意識は高かった」(204ページ)と述べ、「漢文化」への対抗意識の存在を指摘しており、地域区分としても「中国」と一線を画していると考えるべきである。ただしその直後の「しかし農耕社会が次第にはいりこみ、結局は民族存立の基盤を弱めたのである」(204ページ)という指摘は、「二元的な国制」とともに「中国」化の例と見なすこともできる。しかし「中国的官僚制の導入」は「中国」に限らない東アジア諸王権全体の特徴であり、また「農耕社会」化の進行は遼の衰退の要因として指摘されているのであって、遼の性格・本質として指摘されているのではない。

杉山正明「中央ユーラシアの歴史構図」(新版岩波講座世界歴史11『中央ユーラシアの統合』)はより大胆に中央ユーラシア史を眺望しているが、ここでは「遼」という国号を用いず、「キタイ国家」と呼び、西遼を「第二次キタイ国家」と呼んでその「非中国的」連続性を強調している(57-61ページ)。また「キタイ国家」の性格を「牧農複合国家」(54ページ)と規定している点は政治制度としての「二元制」を社会経済的な観点から把握したものと見なせる。なお杉山論文はほかにも五代後唐、後晋、後漢を「テュルク系の中華王朝」として後梁、後周と区別する(50-51ページ)など「中国王朝史」の枠組みを解体する議論を展開しているが、ここでは問題にしない。

個別検討2:初期の金

山川『中国史』第4章5「南宋と金の抗争」では、初期の金を「中国周辺」と明記してはいないが、「遼帝国の東北には狩猟・農耕を生業とするツングース系の女真族(女直ともいう)が住んでいた」(206ページ)という記述から始まっており、さらに完顔阿骨打以降の勢力の伸張を、主として遼への対抗史として記述している。したがって、遼を「中国周辺」とする規定から考えても、「中国周辺」とする解釈が前提になっていると読むのが自然である。叙述は北宋の滅亡を経て、「再興された宋が確実に華中南の地を占めると、中国には南宋と金と西夏の三国が鼎立した」(207ページ)とし、この時点にいたって西夏とともに「中国」の内部に含めている。

ここでは靖康の変以後金がいったん軍を引き、間接支配をしいたこと、1142年の和約によって始めて宋金の関係と金の華北支配が安定したことにも触れている。また金の国制の整備、特に中国支配のための海陵王の改革については219-222ページに触れられている。このように、「金が長い時間をかけ中国王朝としての体裁を整えた」という史実を重視するならば、「中国」分類への移行を靖康の変よりもさらに遅らせる解釈も可能である。しかし、元号の分類という趣旨から言えば、社会経済情勢の変化をそこまで厳密に検討して決めるよりは、より常識に即して、一般に北宋の滅亡として知られる靖康の変を移行年とすることが妥当であろう。また、技術的問題として、仮に靖康の変以降も「中国周辺」分類に置くと、華北に置かれた「斉」の元号を金の私年号として記述することが困難になることもあげておく。

なお、燕京占領は確かに地理的な「中国」の一部地域の占領とも見なせるが、この地が長く遼に割譲された地であり、金が宋の要請を受けて遼から奪ったという歴史的経緯を重視するならば、いまだ「中国」に移行したと見なさないこともできる(どちらでもよいと思う)。

個別検討3:初期のモンゴル帝国

山川世界各国史新版では『中央ユーラシア史』第4章「モンゴル帝国とティムール帝国」(堀川徹)でモンゴル帝国史全体を扱い、元についてはその第2節「クビライ政権」でクビライ時代について触れているだけであるのに対し、『中国史』の前掲「東アジア世界の変容」では第6節から第8節がクビライ以降の元史にあてられており、それ以前のモンゴル帝国史にはまったく言及がない。この点から言って、クビライ即位以前の「モンゴル帝国」在位紀年を「中国」に分類するのは無理である。

なお、元のはじまりについて、上掲第6節「大元ウルスの出現」では「どこからが「元代史」なのかは、はっきりとは決めることができない」(225ページ)と断り、金の中都陥落(1215年)から南宋の降伏(1276年)にいたる約60年の移行期間があったことを指摘した上で、「画期性の高いクビライ政権の誕生からを中国史上のひとつの「時代」だとみなして扱いたい」(225ページ)と述べ、1271年の国号変更(「元」ではなく「大元大モンゴル国(ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス)」「大元ウルス」としている)を「元朝」成立と見なす見解を否定している。クビライ政権の成立した1260年は「中統」建元と同一年であり、「中国」分類への移行年としても都合がいいであろう。

個別検討4:後金-入関前の清

山川『中国史』第5章「中華帝国の繁栄」(岸本美緒)3「明から清へ」では、「金の支配民族の後裔である女真(中略)のなかの大小の部族集団は、明の軍制である衛所制のもとに編成され明と個別に交易を行っていた」(286ページ)と述べ、明代の女真が明との交易を媒介としてその政治的・経済的な支配下にあったことを指摘しており、同書265ページ所収の地図「明代のアジア(15世紀頃)」でも明の版図は女真を含んでいる。これを額面どおりとれば、「女真」が「中国」地域に含まれるという解釈も不可能ではない。

しかし、明の支配が覊縻政策であって直接支配ではないこと、遼東邊墻を設けて往来を制限していたこと(《满族简史》北京:中华书局,1979年)を想起すれば、「中国」とは一線を画する地域であったと考えることも不可能ではない。(「中国」とは一線を画する地域であったと断定する二次研究は確認していない)

この点はおくとしても、このあとのヌルハチの台頭から入関に至るまでの経過と清朝の二面的性格について、『中国史』が286-289ページ、295-299ページの実質6ページを割いて説明しているのに対し、『中央ユーラシア史』第6章「中央ユーラシアの周縁化」(中見立夫・濱田正美・小松久男)1「モンゴル、チベット」は277-284ページの実質7ページを割いて、ヌルハチがマンジュ国の首長となり、全女真族を統一して後金国を称し、さらにホンタイジが配下の内モンゴル諸公と漢人から推戴されて清朝を建国し、順治帝(ないしドルゴン)が李自成を破って「中国」の皇帝を兼ね、康熙帝がガルダン・ハーンの撃破によって外ハルハ四部をも版図に組み入れるに至った過程と、清朝皇帝がそれぞれ異なる名分に基づいて各民族に相対していたことを詳述している。つまり清朝皇帝にとって、「中国」皇帝としての顔はその一部に過ぎないのであり、その資格を獲得したのは1644年の入関時のことである。したがって、紀年法分類についても、1644年から「中国」に移行させるのが妥当である。

石橋崇雄「清朝国家論」(新版岩波講座世界歴史13『東アジア・東南アジア伝統社会の形成』)は、入関前後の「連続性」を強調し、ホンタイジによる清朝建国が単なる「中国化」とは見なせないこと(183ページ)、清朝が入関後も旗(清朝建国時の満・蒙・漢)、漢(中国内地)、藩(モンゴル・東トルキスタン・チベット)の三地域に対して、それぞれ盛京(瀋陽)の奉天行宮及び盛京宮闕、北京紫禁城、熱河避暑山荘を象徴とする異なる支配構造を築いていること(187ページ)を指摘している。その上で、「改めていうまでもなく清朝は、いわゆる「中国」の領域概念に一大変化をもたらした統一王朝である。この清朝が、中国に君臨した王朝の中で初めて、モンゴル高原、東トルキスタン、チベットを含む史上最大の領域を形成・支配した結果は、中国東北部・中国内地・内モンゴル地域・新疆ウイグル地域・チベット地域からなる現代の中国に繋がっているのである。従って、現代の中国に見られる多民族性は、清朝における多民族国家形成の延長線上にあるということになろう。(中略)現代の中国における政治構造を考察する上で、清朝における支配構造の変遷には看過できないものがあることを示しているといえよう」(188ページ)と述べ、現在のわれわれが考える「中国」概念の形成に清朝が決定的なインパクトを与えていること、清朝の入関前後の「連続性」が、現在の中国の多民族政策とも「連続」しているという見解を示している。この点から見て、後金-清朝における「連続性」の指摘は、地域分類とは別次元の問題として的確であるが、その考えの上にたって後金-清朝を一律に「中国」と見なすことは、実は論者の「中国」概念が現在の「国家概念」としての「中国」とつながっていることを、はしなくも認めることになる点には留意すべきである。


上記内容への反論点は満載なのですが、個別に論争を加える場ではないので割愛させていただきます。そして区分に関しては第1案とも多少異なりますので下記に提示しておきます。
  • Yonoemon案 : 遼、金、モンゴル・元、後金・清(これらはすべて中国扱い)
山川や岩波の記述を列記されているようですが、それはあくまでも一学説に過ぎず、一部学説に依拠した区分を行うことに反対しているだけです。概説的なお話以前に、学術論文で金朝で中国周辺から中国に区分されるべき紀年論拠を具体的に示されているものがあればご提示願います。
また元朝についてもですが、当然のことながら中国の史学会では全体を中国史に含ませる傾向が強いなど現代の国際情勢に左右された見解が存在することを考慮すれば、二十五正史に記載された王朝は中国という反論の余地の無い機械的な区分を行うことが不可欠だと思います。
少なくとも金朝に関しては、中原政権として中国を統一はしていないわけですから区分を加える必要性はないでしょう。--Yonoemon 2007年5月4日 (金) 01:18 (UTC)[返信]
こちらから個別に検討するという提案をし、Yonoemonさんも合意形成の時間の延長を求められたわけですから、個別に検討をする段階にすでに入っています。現に第3案の一番の弱点である金については個別検討がすでに始まっています。反論点があればご面倒でもぜひご教示ください。包括案を提案するならば、なぜそのような分類が妥当なのか、王朝ごとに個別に根拠をお示しください。
山川世界各国史や岩波講座世界歴史を「一部学説」と断定される一方、Yonoemonさんはしばしば「定説」の存在に言及しておられます。とすれば、日本の歴史学界で「定説」とされているのが何なのか、具体的な研究を挙げてご教示ください。
ただ、ご見解の中で「中国の史学会」をあげておられますが、やはり中国の歴史研究の動向を意識し、基準にすえるということですか。すでにお伺いしておりますが、「中央ユーラシア史」の存在意義をお認めにならないということなのか、ご見解をお示しくださるよう特にお願いいたします。どうもそこが鍵ではないかと判断しております。「二十五正史に記載された王朝は中国という反論の余地の無い機械的な区分」がもし普遍的な、世界史的な地域区分として構想されているならば、たぶん「中央ユーラシア史学界」からはこてんぱんにされると思います。
それから、この点もすでに言及済みですが、「学術論文で金朝で中国周辺から中国に区分されるべき紀年論拠を具体的に示されているもの」、私なりに言い換えれば、「初期の金を「中国周辺」に分類し、途中から「中国」に分類した紀年表」は言うまでもなく存在しません。なぜなら、これまで東アジアの元号を地域分類した世界全体の年表の存在は確認されておらず、それはこのWikipediaではじめて試みられることだからです。これまで典拠として挙げられている元号関連の年表はほとんどが「東アジア」に限定した年表で(『コンサイス世界年表』は世界全体ですが、地域分類をしていません)、地域分類はだいたい「日本」「朝鮮」、後は全部「中国」です。もっとも詳細な鄧洪波は「日本」「琉球」「朝鮮」「越南」を別にしている一方、その他はひとからげで「中国」に入れるという不思議な、しかし「中国POV」としてはよく理解できる分類をしています。今議論しているのは「世界全体の紀年法」の節なのですから、「東アジア」以外の地域との整合性にも配慮した分類をしておかないと、全体のバランスに齟齬が生じます。それでここまで慎重に検討してきたわけです。ぜひともご理解たまわりますようお願い申し上げます。--Novo 2007年5月4日 (金) 04:25 (UTC)[返信]
すみません。今気がつきましたが、新しいご提案は第1案と異なると書いておいでですが、どこが異なるのか分かりません。変更点を具体的にお知らせください。--Novo 2007年5月4日 (金) 05:18 (UTC)[返信]
どうも全く意見が平行線のようです。このような区分の定説なぞ存在しないので、冒険的な王朝途中での地域区分を行うのは好ましくないという意見です。これまで誰も行っていない区分をWikipediaで行うのもいいですが、それは専門教育を受けた研究者が行うべき内容であり、素人が手出しできる分野ではないのではないでしょうか?
ユーラシア史という存在は肯定しますが、それに引っ張られて恣意的な時代区分(今回の金朝が顕著な例)を行うことに強い違和感を覚えると共に、便宜上の区分であるとすれば「二十五史は中国」という便宜上の区分に何故にそれまで強い反応を示すのか、いささか理解に苦しみます。
ここは紀年法に関するノートであり、歴史の地域区分や時代区分を議論する場ではないはずです。東アジア以外との整合性とおっしゃいますが、無用な区分を行うことのデメリットの方が大きいとしか考えられません(高句麗論争や渤海論争は政治問題化していまして、区分を行ったばかりに歴史と乖離した方向に発展した例があります)。
ここまで話がこじれる金朝の時代区分に拘るようでしたら、元号は中華文明の所産であるとすれば、「日本」「朝鮮」、後は全部「中国」という区分法(これまた定説とも言えます)を採用したほうが問題が少ないかもしれません。--Yonoemon 2007年5月4日 (金) 05:18 (UTC)[返信]
私も特に「絶対第3案だ」と申し上げているわけではないので、話がこじれているとは考えておりません(金を「中国」とする第2案でも妥協は考慮するとすでに申し上げています)が、Yonoemonさんが具体的な典拠をなかなかお挙げにならず、検証ができないので、こちらからご教示をお願いしているだけです。「ここは紀年法に関するノートであり、歴史の地域区分や時代区分を議論する場ではない」ことも、私はすでに2007年5月2日 (水) 13:47 (UTC) のコメントで指摘しており、上に書いた見解も定評ある概説書の記述を整理しただけです。結局のところ、何を採用するにしても便宜的なものです。金以外については何に基づいてどうお考えなのでしょうか。モンゴル帝国については以前「苦慮する」とも発言されていますが、今はお考えを改められたのでしょうか。モンゴル帝国(元号ではなく在位紀年です)も全部「中国」にすれば、杉山正明説にまっこうからはむかうことになり、かえって問題が大きくなってしまうように思いますが。--Novo 2007年5月4日 (金) 05:37 (UTC)[返信]
「これまで誰も行っていない区分をWikipediaで行うのもいいですが、それは専門教育を受けた研究者が行うべき内容であり、素人が手出しできる分野ではないのではないでしょうか?」「東アジア以外との整合性とおっしゃいますが、無用な区分を行うことのデメリットの方が大きいとしか考えられません」ということであれば、投稿者に「専門家」と「非専門家」の違いを認めないWikipediaではそもそも地域分類はやめたほうがいいのではないでしょうか。私はきっとこういう論争が、今でなくともいずれ起こるに違いないと思って地域分類にずっと反対してきましたので。そこまで話を戻しますか。--Novo 2007年5月4日 (金) 05:59 (UTC) 加筆--Novo 2007年5月4日 (金) 06:40 (UTC)[返信]
今回は金朝を区分するという点で問題提起をしたのですが、何時の間にやらモンゴル帝国の話に派生しているようですね。先ずは金朝の件について、その恣意的とも言える区分をあやうく合意事項とした件についてご回答お願いします。こちらは論拠を挙げて金朝の社会に大きな変化がなく、単に靖端の変を以って区分しようとした件についての反論です。同一王朝内で区分を行おうとする場合にはより慎重な姿勢が必要なはずです。
またモンゴル帝国に関してもこちらも全てが中国であるとは考えていません。杉山説に非常に近い考えを持っていますが、残念ながら中国の史学会ではこれに真っ向から反論する説も出されています(検討に値しない論拠でして私も支持していませんので論拠列挙は割愛)。そのような状態で杉山説のみにもとずいて区分を行うと、時たま主体暦で発生したような無意味な議論が発生するので、それを回避する意味でも正史記載基準という便宜手段を提示したまでであり、だれもモンゴルと元を区分することへの違和感は申し上げていません。--Yonoemon 2007年5月4日 (金) 09:21 (UTC)[返信]

分類問題(その6)[編集]

節を分けます。--田英 2007年5月4日 (金) 15:28 (UTC)[返信]

(インデント戻します)この節の議論を始めるに当たり、「議論に際しては、参加者は先行するコメントの一部ではなく、必ず全ての論点について同意を明示するか具体的な反論を行うこと、…全ての参加者が明示的に合意を表明していなくても、最後のコメントから1週間異議がない論点については合意が形成されたとみなすこと」と2007年5月2日 (水) 13:47 (UTC)のコメントで議論の進め方についてルールを提起し、特に異議がなく、重ねて「議論を効率的に進めるため、論点をばらばらに提示されるのではなく、…それぞれの案を推す理由について…パッケージにまとめた見解をお寄せいただければ幸いです」と2007年5月3日 (木) 15:21 (UTC)にも申し上げています。今検討の対象になっているのは見解が割れている4例全部であり、私も4例すべてについて論拠を明示し、Yonoemonさんもすでに4例すべてについて第1案を維持する旨表明されているわけですから(そうですよね?)、すべてについて一度に論拠をお示しください。早期妥結へのご協力を重ねてお願いいたします。

Yonoemonさんの案が必ずしもYonoemonさんご自身の見解と一致するものではない点は了解いたしました。また「無意味な議論」発生の可能性を懸念されている点は私も同感です。ただし、Yonoemonさんは主に「中国の史学会」からの反応を心配されているのに対し、私は「日本の中央ユーラシア史学界の見解を典拠にする主張」を主として心配しています(日本語版ですからそちらをより心配します)。Wikipedia日本語版の記事も、はクビライ即位以後のみを扱っており、モンゴル帝国は別項になっていますし、元の皇帝(クビライトゴン・テムルなど)はモンゴル語名で立項されているなど、全体として「中国史POV」へのアンチテーゼとなっている記事が多くなっています。どのような分類を選択しても、異論が提起される可能性はゼロではありませんが、バランスを考慮する必要はあると思います。

Yonoemonさんは金の例も含め「王朝内の区分」という表現をしばしばお使いになっていますが、私がはじめに(2007年4月20日 (金) 17:38 (UTC) のコメント)検討の対象として提案したのは「中国周辺」と「中国」という「地域区分」の境界がそれぞれの時代でどこにあるのかを検討しようということであり、「特定の王朝の時代区分」をしようということではありません。すでに「前提3:「連続性」と地域分類」で書いていますので改めてご確認ください。ですから、金に即して言えば、たとえば「勃極烈制」や「猛安・謀克制」をとっている金を、1115年の記事で「中国」に分類して大丈夫なのか、この年の金は「中国」という地域に存在しているのか、というのが私の提起した問題であって、靖康の変で金の社会の性格が変わったとは述べていません(だから移行のポイントは、燕京占領でも靖康の変でもその後でも、解釈次第で可能だろうとすでに申し上げているのであり、Yonoemonさんからコメントをいただいたときにもその趣旨が理解できなかったので、「「金の社会」とは何をさすのですか」といったん質問をお返ししたのです)。しかし、この点を検討するには「「中国」の定義」を決めないといけないので、「前提2:「中国」の定義」で岸本美緒によろう、と提案したわけです。当然これは「国家分類」と「地域分類」を分けない中国の史学界にとって直ちに受け入れられるものではないでしょう。ご承知の通り、これは中国の歴史学の史観と日本の東洋史学の史観との根深い対立の問題です。

で、確認させていただきたいのですが、田英さんの2-3折衷案は、モンゴル帝国と元を除き「王朝内の区分」をしていません。この案にたいするご見解をお聞かせください。「正史掲載基準」は絶対に譲れない線だとお考えなのか、確認させていただきたいと思います。全ての論点につきお答えいただくよう改めてお願いいたします。--Novo 2007年5月4日 (金) 10:30 (UTC) 加筆--Novo 2007年5月4日 (金) 11:44 (UTC)[返信]

あの、田英さんの2-3折衷案を否定した覚えはないのですが…田英さんからの指摘に対し、一部誤解があるようなので訂正をしたまでなのですが、何故にここまで問題を大きく、そして複雑化するのか全く理解できません。
しかし困りましたねぇ…この論点で反論されてもこちらはどうしようも無いです。金朝という同一王朝内での区分は回避すべきという意見をお願いしたのですが、どうやらどうしてもモンゴル帝国と元の連続性を議論したいようですね。う~ん、それは元かモンゴル帝国のページでお願いします。(私も反論する気はありません)。
これだけ金朝の区分変更に意義を唱えても、モンゴル帝国を引き合いに出して云々というのであれば、どうぞご自由にとしかいいようがありません。ただし猛安謀克制云々を提起したからには清における八旗制という問題をどのように扱うのかについてもそれなりの論拠があると思われます。この点に関しても伝統中華王朝との差異点を理由に中国の周辺に区分すべきなのでしょうか?金についての提案とにはご自身が持ち出した「中国」と「その他」という区分法に、曖昧かつ恣意的な判断基準でやっているものとしか思えません(あっ、金についてのみ言っているのでありモンゴル帝国のことではありません、誤解のないようにお願いします)。それとも金朝は絶対に中国周辺から中国への区分変化が行えるほどの転換点が明確に存在しているとでもお考えなのでしょうか???--Yonoemon 2007年5月4日 (金) 15:03 (UTC)[返信]
すみません、上のNovoさんの問いかけは私が応えないといけないところだと思います。まとめている間に編集競合してしまいましたので、いったん節分けだけして後ほど記入します。--田英 2007年5月4日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
田英です。当初の私の考え方は、正史準拠とすることが基準として明解であり、検証性も高いと思われることを理由として、また自身の理解度から中国(遼、金、元、清)、周辺(西遼・北遼、モンゴル帝国・北元、後金)としておりました。金の初期とそれ以降とは区分対象としては認識しておりませんで、総論としては国号を基準として、連続性の高い王朝についてもその中で区分することも想定している意見であったと思います(4月16日の表明)。そして、Yonoemonさんの示された「王朝内で区分するのは不自然」との観点を受けて、金・清についてはその前身部分について分けるか統合するかを考えた際に、どちらも最初から元号を用いているので統合、とする考えに至りました。モンゴル帝国・元については元号の使用開始によって区分した、という感じです(5月3日の表明)。契丹国・遼は916年から遼として扱う(王朝内での区分をしない)認識でおりました。916年段階から神冊元号を用いているので分けずに中国として扱う、ということに(表明内容の根拠としては)矛盾はなかったと思います。
ここでさらにNovoさんから四王朝の各論の詳細提示いただいて、考え込みました。Wikipediaの西暦年記事の扱いとして、詳細根拠の提示があるので特定年を以て「中国周辺」から「中国」に地域区分を変更する、ということは可能になったと思います。ただし、その根拠(杉山正明、岸本美緒など)の評価については、それこそ中国史の立場と中央ユーラシア史の立場とで異なるものであり、もう暫くの間は対立を免れないものだろうとも思いました。
私自身が考えていたところでは、繰り返しになりますが
  • 契丹・遼…本拠地の移転はあるけれども勢力の当初から元号を用いているので、途中で分けずに「中国」。ただし、杉山正明を根拠として明示することで「中国周辺」でも構わない。
  • モンゴル帝国・元…元号を用いていない1259年までは「中国周辺」、元号を用い始めた1260年からは「中国」。
  • 金(初期)・金(初期を除く通期)…本拠地の移転はあるけれども勢力の当初から元号を用いているので、途中で区分せずに「中国」。途中で区分するのであれば、機械的ではありますが北宋が滅んだ=靖康の変とする(先の表明とは変わりました)。
  • 後金・清…本拠地の移転はあるけれども勢力の当初から元号を用いているので、途中で区分せずに「中国」。途中で区分するとすれば、1636年でも1644年でも構わない。
グレー部分の判断において「元号を用いることで中国化したとみなす」というのは、地域区分の本来の考え方とは合致しないかもしれません。ですので、この見解や正史基準絶対視に拘るつもりはありませんことを表明します。--田英 2007年5月4日 (金) 15:43 (UTC)[返信]
あと、Yonoemonさんには金の区分の是非をご説明いただいたのですが、残りの3例についても途中で地域区分を修正することの是非についてのご見解をお願いします。Yonoemonさんの「金の区分への異議」に対して、Novoさんはモンゴル・元に拡大して反論されようとしているのではないようですので。4例の各論の確認を経て、場合によっては地域区分の有無の見直し(1209年記事、1210年記事までさかのぼることにもなる)を図ることになると思います。--田英 2007年5月4日 (金) 15:43 (UTC)[返信]
田英さん、交通整理ありがとうございます。Yonoemonさんの最後のコメントを読んで私もよく分からなくなったので、残りの3例(契丹-遼、モンゴル帝国、後金-入関前の清)について、どうされたいのかを改めて確認したいと思います。
合意形成を急いでいるので誤解を招いたかもしれませんが、問題を大きくしているつもりはまったくなく、合意未形成の部分についてどこで妥結できるかを探るためにご意向とその根拠をうかがっているところです。もしYonoemonさんの強い違和感が金に限られるのならば、金はずっと「中国」でもけっこうです(繰り返しますがはじめからそう述べています。先のコメントで金について細かく述べたことは、その前に「先ずは金朝の件について、その恣意的とも言える区分をあやうく合意事項とした件についてご回答お願いします」とお尋ねがあったことへのお答えです)。
「金朝は絶対に中国周辺から中国への区分変化が行えるほどの転換点が明確に存在しているとでもお考えなのでしょうか???」というご質問については、見解の「前提4:「他の紀年法」節の「デジタル性」」に、清の八旗制をどう考えるか、清朝国家の性格をどう考えるか、地域分類を移行させるとしたら何年にするのかについては、見解の「個別検討4:後金-入関前の清」に石橋崇雄を引いて、それぞれすでに書いてありますのでもう一度ご確認ください。「中国周辺」が曖昧だというのはご指摘の通りで、中国の史学界から日本の中央ユーラシア史学界まで、いろいろな意見を持つ人が自分の都合のいいように考えられるように、クレームがついたときにうまく説明できるように、わざと玉虫色にしてあるのです。西暦年記事は特定の関心を持つ人だけが見る記事ではない、多くの人が参照する、もめごとの起きやすい記事だからです。--Novo 2007年5月4日 (金) 16:41 (UTC)[返信]

最後のコメントから1週間以上が経過しており、全てのコメントについて、具体的根拠に基づく反論のない論点については合意が形成されたと見なす、という条件が満たされていると判断します。その上で、#分類問題(その5)以降の議論の中で、検討課題である「連続性の認められる政権4例について中国周辺と中国とどちらに括るか」に直接関わる経過を以下のように整理します。

  • Novoは#分類問題(その4)での整理で示した「第1案」「第2案」「第3案」のうち、4例全てを「中国周辺」に分類する「第3案」を維持することを再確認し、このうち初期の金について、靖康の変を「中国」分類への移行ポイントとすることを提案した(2007年5月2日 (水) 07:33 (UTC))。これに続き、「第3案」の根拠・出典を説明するために「第3案(すべて「中国周辺」に分類する)の根拠」(以下Novo見解と略す)を投稿した(2007年5月3日 (木) 15:21 (UTC))。(Novo見解の中で具体的根拠に基づく反論がなかった論点についてはNovo見解が認められたと見なす
  • これに対し、Yonoemon氏は出典として「漆侠、喬幼梅氏による『遼夏金経済史』(河北大学出版社)」及び「張博泉氏などによる『金史論稿』(吉林文史出版社?)」の2点を挙げた上で、靖康の変によって金の社会に変化があったことが確認できないことを指摘し、Novoに金の社会変化の根拠の提示を求めるとともに、金の地域分類を途中で変更することに反対した(2007年5月3日 (木) 07:44 (UTC) )。その上で、「第1案とも多少異な」る案として、遼、金、モンゴル・元、後金・清すべてを「中国」に分類する包括案を提案した(2007年5月4日 (金) 01:18 (UTC))。
  • NovoはYonoemon氏の求めに対し、靖康の変を境に「金の社会」が変化した具体的な根拠を示すことによってではなく、地域分類の移行と時代区分ないし王朝内部の社会変化とは次元の異なる問題であり、社会変化のないまま支配地域だけが移動することはありうるという一般論によって回答した(Novo見解「前提3」、2007年5月4日 (金) 10:30 (UTC))。また社会変化の漸進性から考えて、厳密な意味での転換点が特定の1年に決められない以上、エポックメイキングな事件の起こった年を便宜的に選ぶしかなく、燕京占領でも海陵王改革でも解釈次第で地域移行の根拠とすることは可能であるとも主張した(Novo見解「前提4」及び「個別検討2」、2007年5月4日 (金) 11:44 (UTC)、2007年5月4日 (金) 16:41 (UTC))。しかしYonoemon氏は地域分類の移行が王朝史内部の時代区分に当たるという理解を崩さず、この点の議論は平行線をたどった。このため、Novoは「金はずっと「中国」でもよい」旨表明した(2007年5月4日 (金) 16:41 (UTC))。
  • NovoはYonoemon氏の包括案に対し、4例それぞれについての具体的根拠を求めた(2007年5月4日 (金) 04:25 (UTC)、2007年5月4日 (金) 05:37 (UTC))が、Yonoemon氏は、「二十五正史に記載された王朝は中国という反論の余地の無い機械的な区分」が「便宜上の区分」として妥当なのだという包括的な認識を示すにとどまった(2007年5月4日 (金) 01:18 (UTC)、2007年5月4日 (金) 05:18 (UTC))。これに対しNovoがNovo見解で提示したモンゴル帝国と元の評価をとりあげて具体的な見解を求めた(2007年5月4日 (金) 05:37 (UTC))ところ、Yonoemon氏は、モンゴル帝国については必ずしも「中国」とは考えていないが、「中国の史学会ではこれに真っ向から反論する説」もあり、「無意味な議論」が起こることを懸念していると回答した(2007年5月4日 (金) 09:21 (UTC))。Novoは「無意味な議論」回避の必要性について同意したが、4例全てについて、「中国の史学界」より「日本の中央ユーラシア史学界の見解を典拠にする主張」からのクレームの可能性が高いとの現状判断を示した(2007年5月4日 (金) 10:30 (UTC))ところ、Yonoemon氏はこれには特にコメントせず、「モンゴル帝国と元の(非)連続性」について「反論する気は」ないとのみ述べた(2007年5月4日 (金) 15:03 (UTC))。
  • このほか、清についてYonoemon氏は、猛安謀克制をもつ時期の金は「中国周辺」ではないかと指摘したNovo(2007年5月4日 (金) 10:30 (UTC))に対し、清が八旗制をもつから「中国周辺」だといえるかという質問を発した(2007年5月4日 (金) 15:03 (UTC))が、NovoはNovo見解「個別検討4」への注意を促すにとどめた(2007年5月4日 (金) 16:41 (UTC))。また契丹-遼について、Yonoemon氏とNovoとの間に個別のやりとりはなかった。
  • 田英氏は、これまでの「第2案」に加え、遼・金・元・後金・清を「中国」に、西遼・初期のモンゴル帝国・北元を「中国周辺」に分類する「2-3折衷案」を提案し(2007年5月3日 (木) 13:44 (UTC))た。さらにこのうち遼については「(Novo見解で引用された)杉山正明を根拠として明示すること」を条件に、その他(2例)については無条件に、「中国周辺」とすることも容認しうるとする見解を表明した(2007年5月4日 (金) 15:43 (UTC))。

以上にまとめた経過のうち、下線部はその後誰からも明確な反論がなく、合意が形成されたと見なしうる論点です。ここから、以下のような妥結が成立したと判断します。

  1. 契丹-遼(907年 - 1225年)は「中国周辺」(したがって北遼(1122年 - 1123年)も「中国周辺」)
  2. 初期の金(1115年 - )は「中国」
  3. 初期のモンゴル帝国(1206年 - 1259年)は「中国周辺」
  4. 後金及び入関前の清(1616年 - 1643年)は「中国周辺」

なお、ここで「妥結」したのは、ガイドラインの正式リリースの必要条件としてこの問題を議論することはもうやめるという点においてのみで、当然のことながら今後とも議論そのものは継続できます。必要と感じられた場合は、発効したガイドラインの改正を新規に提案する形式によって議論を再開してください。--Novo 2007年5月14日 (月) 14:28 (UTC) 投稿時間の誤りを訂正--Novo 2007年5月14日 (月) 14:36 (UTC)[返信]

なお、上の妥結について一点だけ田英さんに確認したいのですが、遼を「中国周辺」とするためには「杉山正明説による」という文言をガイドラインに入れなければならないとお考えでしょうか。私は個人名を入れることには抵抗があるので、ガイドラインそのものには根拠を書かず、問い合わせがあったときにノートの議論を示せばいいのではないかと考えているのですが、いかがでしょうか。--Novo 2007年5月14日 (月) 14:28 (UTC)[返信]

前段での書き方が不味かったようで、「それまでは私(田英)が十分に理解できていなかったけれども、Novoさんから杉山正明説を根拠として中国周辺(中央ユーラシア領域)とする見解をいただけたので、中国周辺と解することもできるようになった」というくらいに見ていただければ結構です。妥結に至ったので、ガイドライン上に個人名を明記する必要もないと思います。--田英 2007年5月14日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
了解しました。ありがとうございます。その線でガイドラインを書き直します。--Novo 2007年5月14日 (月) 15:05 (UTC)[返信]

分類問題の検討拡大[編集]

ノート:遼Template‐ノート:中国の歴史への議論告知を受けて、節分けしました。--田英 2007年5月19日 (土) 15:28 (UTC)[返信]

ノート:遼からやってきました。今更口を出すのも気が引けるのですが、少々意見をば。
「中国」という言葉が厳密に定義不能である以上、「中国周辺」もまた定義不能ということになります。
伝統的な解釈や征服王朝説などこれらを「中国」と看做す立場ももちろんありますし、杉山先生・岡田先生など「中国ではない」と看做す立場もあります。最近は後者が有力になりつつあるようですが、まだ決着が付いた段階ではないと思います。その論拠として

「その状況は、ウィットフォーゲルが伝統的中国王朝に対し、遼・金・元・清を『征服王朝』なる概念でまとめて捉える見方を発表して以来半世紀以上が経過した今もなお、本質的に変わっていない。」(『中国歴史研究入門』ISBN 481580527X P158、この文章は森安孝夫氏。)

とあるのを挙げておきます。どの時点を持って中国になったかという定義付けもまた研究者のどなたかがなさっているかもしれませんが、これも決着は付いていないでしょう。
ですので、現時点ではどちらとも言えない。であれば両方張るのが良いんじゃないかなぁ。と思います。これまでの議論の流れがつかみきれてないので意味の無い発言になっているかもしれませんが、ご容赦を。らりた 2007年5月19日 (土) 14:30 (UTC)[返信]

カテゴリー問題は双方張るで解決可能ですが、問題は各年記事で「中国の元号」にするのか「中国周辺の元号」にするのかには両論併記が不可能なんですよね…ここが悩ましいところです。
杉山説を取り入れるのもいいのですが、ウィキ全体を俯瞰するに「中国」に便宜上分類したほうが、他の項目との矛盾が少ないという立場です。--Yonoemon 2007年5月19日 (土) 14:55 (UTC)[返信]
単独元号記事ではカテゴリの重複設定で問題ないという認識は共有できているようですので、前に一度書いたことがありますが、西暦年記事では地域分類とする単位を「中国」「中国周辺」とするのではなく「中国・周辺」にまとめてしまう、というのは浅はかでしょうか?(1949年の記事で中国・台湾というくくりになっていることからの安易な発想ですが。。。)「日本」「中国・周辺」「朝鮮」「ベトナム」「仏滅紀元…」となる、ということなんですが、これでも並び順で迷うことになるかもしれません。--田英 2007年5月19日 (土) 15:28 (UTC)[返信]
らりたさん、コメントありがとうございます。私からこれまでの経緯を整理してご説明します。
今の争点は、記事に即して言えば
  • 西暦年記事「他の紀年法」節
  • 元号記事のテンプレート
のふたつをめぐるものです。まずこのふたつについては、記事の性質が違うので、地域分類を多少変える(元号記事テンプレートについては「中国」の範囲を広く取る)ことを上の#「中国周辺」元号記事のテンプレートについて再提案節の冒頭ですでに提案しており、今日まで異議は出ておりません。今回遼について出た異議は、その例外条項について、後述の「妥結」にともなう事務的な確認に対して突如提示されたものです。
それに対し、この節の議論は、元号記事テンプレートではなく、「他の紀年法」節をどうするかというところに焦点を絞って検討してまいりました。すでに上で指摘がありますが、「他の紀年法」節の分類は「両論併記」ができません。「中国」の定義、範囲について「決着はついていない」というらりたさんのご指摘はまさにその通りで、私個人は地域分類をすることに当初は反対していたのですが、分類する方が多数を占めたので従ったという経緯がございます。
いったん分類をすると決めた以上は、学問的にも決着のついていない問題について、中立性をどうやって確保すればいいのか、議論・検討する中でも苦心いたしました。特に西暦年記事は個別事項を扱うのではない、公共性が極めて高い記事ですので、全2000ページもの記事で、あやふやな合意形成だけでうかつなことを書くと編集合戦がおこりかねないと恐れ、相応の準備が必要だと考えました。そこで、他の参加者の方々とのやり取りの中で導き出したのが、
  • 「中国」を定義せず、「中国周辺」を地理的に、客観的に定義する(文化的、歴史的要因を考慮しだすと意見が割れるのでなるべく考慮しない)。
  • 「中国周辺」の定義を「中央ユーラシア」と重ねることによって、名に「中国」を冠する一方、実質的範囲は「中央ユーラシア」とし、どちら側からの解釈も可能になるようにする。
という玉虫色の方便です。これも「便宜的」なもので、「独自研究」ぎりぎりですが、そのようなクレームがあれば、「ほかにどのような処理法があるか」とお知恵を請おうというつもりでおりました。
ごらんの通りこちらの議論も長きに渡りましたが、どのみち黒白がはっきりつくものではないので、期限を切り、ルールを設定した上で議論を行い、私の責任で「妥結」を宣言しました。議論の経過から考えて、今になってなぜまた同じ話が蒸し返されているのか、正直申し上げて理解に苦しんでいるのですが、らりたさんからご提案いただいた「両方張る」という策は、「他の紀年法」節を念頭に置いたものではないでしょうし、元号記事テンプレートの方は現在すべてTemplate:元号を呼び出す形で設計されており、レイアウトはほぼ同じですので、どちらかにしたほうがいいと思います。
これまで田英さんから適切な整理・仲裁をいただいたおかげで何とか妥結宣言にこぎつけたところで、立ち上げ人としては自らの不徳を恥じておりますが、正直なところ疲労困憊しております。これまでの経緯もございますので私の一存で決めるわけには参りませんが、個人的にはあとあとの責任さえ取ってくれればどちらでもいいと思っております。田英さんの「中国・周辺」分類案は新しいですが、これだったら話はまとまるのでしょうか。そもそも今再燃しているのは遼だけなのでしょうか。ほかもでしょうか。
正式リリースを先行させ、必要であればリリース後に議論を再提起していただく(いつでも改正はできますし、また実質的に作業はすすんでおり、リリースは事実上すでにしたようなものです)という方針は現時点では変えません(変えるだけの説得力を持つ新しい具体的根拠が示されていませんので)が、よいお知恵があればぜひご教示ください。よろしくお願いいたします。--Novo 2007年5月19日 (土) 19:24 (UTC)[返信]
正式リリース後に再提起するのではなく、リリース前に解決するのが筋でしょう。あわてて正式リリースを行う必要性がどこにあるのかお話を伺いたいものです。
田英さんの「中国・周辺」という区分は無難な案だと思います。当初は私もそのように認識し、また元号という概念が中華文明の所産であることから、便宜上「中国」という表記を使用していたのですが、Novoさんより「中国」の名称に意見があり、それにより「中国周辺」というカテゴリーが誕生したと認識しています。Novoさんは中国周辺をユーラシア史とかぶせて認識しているようですが、チベットや満洲地方、雲南地方での元号も含まれる事実をお忘れのようですので、その認識は改めて頂く必要があるでしょう。それ以前にあとあとの責任さえ取ってくれればどちらでもいいという記述すするようでしたら、正式リリース前に議論の取りまとめ作業からは離れていただいた方が無難かも知れません。
リリース方針を変更しないというのはあくまでも個人的なご意見として拝聴しておきます。変更するだけの説得力のある具体的根拠と申しますが、変更しないだけの具体的根拠も現状では示されていないという事実(個別学説を長々と引用されていますが、あくまでも一学説です)をご認識下さい。--Yonoemon 2007年5月20日 (日) 01:18 (UTC)[返信]
まず手続き論から回答します。リリースを急いでいるのは、Yonoemonさんをはじめみなさんがすでに仕事を進めておいでになり、形式的には草案のまま実質的に「リリース」した状態になっているので、そのお仕事に正当性と共通認識を持たせる必要があると考えているからです。共通認識がないままにそれぞればらばらに作業を進めていくと、あとで作業のやり直しをしなければならなくなります(現にそのような作業が生じています)。しかし、議論を続けていても、Yonoemonさんはその場を離れてしまわれ、長期間回答を寄せられないことがあるので、期限を切って回答を求めたのです。この節の議論もその継続なので、もし期限を無視して「妥結」をひっくりかえし、議論に戻られたいのならば、 2007年5月4日 (金) 16:41 (UTC)の私のコメントへのご回答(何に基づいて3例をどう分類したいのかの再確認、清朝についての再確認、「中国周辺」が「中国」に含まれる下位概念としても解釈しうるように設計しているという見解への賛否)から始められるのが筋であろうと思います。また、この問題だけ検討課題として切り離し、残りを正式リリースすることも可能です。そのように進めますか。
次に、今回各所に告知された際に示されたTemplate:中国の歴史については、2007年5月2日 (水) 08:25(UTC)に初めてYonoemonさんが西夏について提起されたのに対し、私が2007年5月2日 (水) 08:35(UTC)のコメントで「玉虫色にしたままで、「中国周辺」は「中国」に含まれるとも、含まれないとも解釈できる余地を残しておけばいいと思います。西夏を中国史から見る解釈は中国はもちろん、日本にも伝統的に存在しますし、それ自体を否定する意図はありません」と答え、それに対して返答が寄せられなかったことを再確認します。半月たってから同じご趣旨のことをあちこちへ投稿され、しかも私の上記回答を踏まえていないことについての説明を求めます。
もうひとつ、個別論以前の基本的なルールを確認させていただきます。出典主義を採るWikipediaでは、何にせよ自説を提示するときには何かしらの典拠を提示することが条件です。私が提示した出典(書誌情報も含む具体的根拠)を全て「一学説」と片付けるのなら、それが一学説に過ぎないことを別の具体的な学説を典拠として示すのが最低限のルールです。ご自分で出典を提示されず、一方的に「定説」とだけおっしゃってみたり、「定説」はないとおっしゃってみたり、「定説」は何々だとも言えるとおっしゃってみても、Wikipedia:検証可能性を満たさず、ルール上は無効ですのでご確認ください。また、重ねてお願いしますが、先行するコメントの全ての論点について、賛成なのか反対なのか、論拠とともにお答えください。
続いて個別論ですが、お話の通り、「中国周辺」のカテゴリは私の意見を受けてYonoemonさんが最初に提案され、私がそれを受けたのが端緒です。一度確認してますので経緯の確認はこれ以上しませんが、「チベットや満洲地方、雲南地方」が「中央ユーラシア」に含まれないと断定していらっしゃるのは、少なくともチベットに関しては誤りであり(山川『中央ユーラシア史』)、雲南(Category:中央ユーラシアの歴史的地域)や満州(岩波講座世界歴史所収杉山正明論文)も「含める」とする見解があります。定義に「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域」という列挙の形式をとったのは「雲南や満州が入るのか」という疑問を想定して先回りしたものです。
また「中国・周辺」案を「無難」と評価されていますが、これは1911年(「中国」分類の下限)以前の全ての西暦年記事において「中国・周辺」と書くということでよろしいでしょうか。
なお、疲れてはおりますが、どなたか積極的にとりまとめをお引き受けくださる有能な方が現れるまでは、非力ですが務めさせていただきます。「あとあとの責任さえ取ってくれればどちらでもいい」と申し上げたのは、前段の条件節に重点を置いているのであり、Yonoemonさんのご説をそのまま採用した場合、その後でクレームがついてもおひとりで対応していただく態勢をきちんと整えていただけるのならば、異例ではありますがそれでもよい、その場合はその旨ガイドラインに明記する、という趣旨の提案です。--Novo 2007年5月20日 (日) 03:45 (UTC)[返信]
「中国周辺」の用字を提案しましたが、分類することまで提案した記憶はありません。その証拠に「中国周辺」の元号にも全て「中国の元号」をテンプレを付して作成していました。私が提案をしたような誤解を招く記載はお控え下さい。
ではご要望にお答えしてまずは遼に関する出典を4点列挙いたします。学術論文は山のようにありますが、一般的に入手可能な図書を選びました
  • 森安孝夫『中国歴史研究入門』:未だに征服王朝という概念が定着していないと表明
  • 杉山正明『疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』:中国の歴史シリーズで出版
  • 宮澤知之『中国銅銭の世界』:遼は東アジアの銅銭として章建て、しかし中国経済史の一環として俯瞰
  • 角川文庫『新字源』:中国年号一覧に遼のみならず金・西夏・後金なども含まれる。
  • 瞿林東等編集『中華文明史』:遼以外にも上記政権を中華文明を構成するものとして中国通史と扱う
特に杉山氏が自らの著書で「中国の歴史」を使用しているたりで、所詮は一学説というのがお分かりいただけると思います--Yonoemon 2007年5月20日 (日) 04:57 (UTC)[返信]
くりかえしますが、全ての質問についてお答えください。こちらがWikipediaのルールにのっとって、お答えがないから同意されたのかと思っていると後から蒸し返されるようですので。しつこいようですが、特に
  1. 「中国・周辺」分類案を「無難」と評価しているが、1911年以前を全部「中国・周辺」とする案なら受け入れられるのか
  2. 今「中国」への分類を主張しているのは遼とあとは何と何か。それが全部合意をえられた場合、後の責任をお一人で引き受けられるおつもりがあるのか
についてのお答えを求めます。
ようやくいくつか出典を挙げられたことに謝意を表します。その上でいくつかコメントします。
  • らりたさんのあげた『中国歴史研究入門』は森安孝夫氏一人の著書ではないですが、ご自身で現物を確認されたのですか。らりたさんの引用は「決着はついていない」ということであって、片方を批判するという趣旨ではないのですが。
  • 私の挙げた山川世界各国史でも遼は『中国史』に入っており、その上で叙述が「中国周辺」扱いになっているのですが、「中国の歴史」シリーズである杉山正明『疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』の中にはなんと書いてありますか。「中国の歴史」シリーズが遼、西夏、金、元を包含するのは当たり前であり、ここで問題になるのは「世界史」の中でどこに入るかではないでしょうか。
  • 宮澤知之氏の本については知りませんでしたので、取り寄せて論旨を確かめます。宮澤氏は中央ユーラシア史の史観を批判しているのですね。(管見の限り杉山氏はどの論文でも中国史POVを批判しています)
  • 角川新字源でなくても、既存の中国年表や中国年号一覧に遼、金、西夏、後金が含まれていることは当然です。このプロジェクトで「中国周辺」分類をたてざるを得なくなったのは、通常の年表に載っていない柔然や高昌まで取り上げるからで、その結果として、いったん立てられた「中国周辺」分類と「中国」分類の境界をどうするかが論点に浮上したのです。
  • 瞿林東等編集『中華文明史』は中国の史学界の研究であり、中央ユーラシアという枠組み自体がないのだから、全部を「中華文明」にするのは当たり前です。ここでは「中国史POV」(中国の史学界など)と「中央ユーラシア史POV」との間の中立性をどう確保するのかをはじめから検討しているのです。
それから、「「中国周辺」の用字を提案しましたが、分類することまで提案した記憶はありません」とのことですが、この同じページで2007年4月1日 (日) 09:46(UTC)にお書きになっていることについてご説明をお願いします(この書き込みはのちの「中国周辺」分類案につながる最初のご提案です)。--Novo 2007年5月20日 (日) 06:44 (UTC)[返信]
主張は単純です。中国の歴史テンプレに整合させるというだけです。独自研究に近い内容で分類を行う恣意的な学説引用に反対しているだけです。
また上記参考文献はユーラシア史という分類を否定するものではありません。あくまでもそれらの王朝を中国と便宜上区分しているという例示です。私はもはや歴史観を述べているのではなく、一般的な便宜上の分類を述べているだけにすぎません。今回の最大の問題点は歴史観を押し付けるべく示威的な文献引用を行い、他のページとの整合性を検討もせずに合意内容とした点にあることに自覚はございますか?
また2007年4月1日 (日) 09:46(UTC)については私が自ら問題的した内容でないことは一目瞭然です。通常の年表に載っていないから新たに区分が必要だというお考えでしょうが、私は一般的な日本語話者(≒日本人)の概念を適用し、当初は高昌や柔然も全て中国の元号と扱いました。分類しろと言われ、分類したら何で分類したという言い方は不条理です。この区分については様々意見はありますが、取り合えず中国史テンプレに整合(別に中国史テンプレを修正しても可。ただし大きな論争になるような気がします)
表記は「中国」にしようが、「中国・周辺」にしようがどっちでも構いません。曲学により無用な区分を行うより一本化したほうが見やすいのは確かでしょう。ただしそうなると脚注で「日本・朝鮮・ベトナム以外は便宜上中国に分類した」という記述を行い「中国」で一本化するのも一方法とも感じています。一般の閲覧者は「中国・周辺」とあっても「周辺」とはなんぞや?朝鮮やベトナムは「周辺」に分類されず何を「周辺」とするのかという疑問を与える恐れがあります。
それより合意を得られた場合一人で責任を持つつもりとは如何なご所存でしょうか?中国史テンプレと整合させると小生が責任を有すという考え方がもはや理解不能です。そういった偏ったお考えをお持ちでしたら、中国史のテンプレにあわせるという客観的な方法を採用すればよろしいかと存じます。--Yonoemon 2007年5月20日 (日) 08:31 (UTC)[返信]
そうですか・・。もう「Template:中国の歴史」に立てこもってしまわれたわけですね。中国史の専門家でいらっしゃるわけですし、決然たる重いご決意のようですので、やむをえませんですね。根負けしました。
私は自分の歴史観を押し付けようとしたのではなく、二つの歴史観が対立している(と私には見えます)間で、誰もが「不満だが、受け入れられる」便宜的な枠組みを作ろうとこれまで必死に模索してきたつもりですが、現にプロジェクトの最大の働き手でいらっしゃるYonoemonさんにもご理解いただけなかったわけですし、同じような理解が他から示される可能性ももちろんございます。曲学とまで言われてはかないませんので、もうこだわらないことにしました。後はお任せいたします。
具体的なご意向がはっきりしないのでもう一度うかがいます。これならいいという詳細な包括案をお示しください(「中国」はTemplate:中国の歴史に出ているものだけですか。ほかにもありますか)。ただ、「Template:中国の歴史を基準とする」とはいくらなんでも書けません(お話の通りWikipediaのページは書き換えが可能ですから)ので、出版物で同じ形をしている区分表をお示しください。あと、お示しいただいたお考えの中で、「周辺」を完全に廃止し、すでにYonoemonさんも合意されている部分もふくめて「中国」に一本化するという選択肢については、Category‐ノート:中国の元号で異論もでておりますので、中央ユーラシア史にも配慮したほうがいいかとは思っております。またほかのアクティブな参加者の方々のご意向を確認する必要はございますので、その点は留保させてください。
なお、少し誤解を招いているようですが、私は「「中国周辺」分類することを提案した覚えはない」というおことばに驚いて引用を示しただけで、「分類は私の意見を受けてYonoemonさんが提案した」ともすでに書いておりますし、「分類したら何で分類した」と言ったつもりもありません。出典明示のルールに従って細部を詰めようとしただけですので、なにとぞご理解ください。ご不快に感じられたのであればおわびいたします。
あと、「朝鮮やベトナムは「周辺」に分類されず何を「周辺」とするのかという疑問を与える恐れがあります」という深い洞察をこの局面でうかがえるとは予想していなかったので、感動いたしました。ありがとうございます。--Novo 2007年5月20日 (日) 15:10 (UTC)[返信]
Template:中国の歴史との整合性があれば問題はないと考えています。同一百科事典内で中国の区分を二重基準にすることに意義を唱えたまでです。
ちなみにユーラシア史の概念には反対しておりません。遼でも西夏の元号にでも「ユーラシアの元号」というカテゴリーを設定するのは問題が無かろうと考えています。
末筆ながら中国史POVに関する挑戦は、遼や西夏という個別ページでの議論をお勧めします。--Yonoemon 2007年5月20日 (日) 23:35 (UTC)[返信]
Template:中国の歴史を基準とすると明記するということですね。はい、了解いたしました。向こうでも議論を提起されていらっしゃるわけですし、何かあれば専門家として適切にご対応くださるということですね。
「ユーラシア史の概念には反対しておりません」というご意見をいただきましたが、Template:中国の歴史に書いてないものは「他の紀年法」節で「中国周辺」と分けてもよいということでしょうか。早期妥結をめざしておりますので、何と何をどういう名前の分類にするか、網羅的な具体案ひとつをご提示ください。
それから、ガイドラインの文言は、どう書けばよろしいでしょうか。「中国周辺」も地理的に定義せず、王朝の束として定義すればよろしいのでしょうか。発想の根幹から変えないといけないので、ご高見をお聞かせください。--Novo 2007年5月21日 (月) 03:14 (UTC)[返信]
私が書き換えるとご見解を正しく反映できるかどうか分かりませんので、Yonoemonさんのほうで書き換えていただけませんでしょうか。それを拝見させていただくほうが手間がかからないと存じますので。--Novo 2007年5月21日 (月) 03:29 (UTC)[返信]
Template:他の紀年法の加筆を拝見いたしました。どうもありがとうございます。ただいかんせん長くてテンプレートが下の節にはみだしておりますので、お書きいただいた文面はWikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドライン草案のほうに適当にはめこんでいただけませんでしょうか。Template:他の紀年法にはリンクが張ってありますので、詳細を知りたい人は誘導されるようになっております。お手数をおかけいたしますが、なにとぞよろしくお願いいたします。--Novo 2007年5月21日 (月) 04:44 (UTC)[返信]
あと、テンプレート基準というのは、ベトナムにも朝鮮にも適用するというお考えだったのですね。はじめてうかがいましたが。ベトナムについてはすでにノート:元号一覧 (ベトナム)で曖昧さ回避のための王朝名のつけ方などについての議論が終了しており、ガイドライン草案にも明記してありますので、あたらめてご確認のうえ、整合性についてご配慮いただければ幸いです。渤海(と高句麗?)を除き、両国には中国のような地域区分問題は存在しませんし、テンプレートと連動させる必然性はそんなにないような気もしますが。--Novo 2007年5月21日 (月) 04:56 (UTC)[返信]
あ、そうだ。重大なことを忘れていました。テンプレート基準を前に出すと南越国がベトナムになることになりますが、これは在位紀年を排除しておけばいいのでしょうか。田英さんどうしましょう?--Novo 2007年5月21日 (月) 05:08 (UTC)[返信]
南越国に関しては項目にTemplate:ベトナムの歴史が貼られ、Template:中国の歴史が貼られておらず、またそれが問題になっていない現状からとりあえず「ベトナム」区分で問題は無いでしょう。もし「中国」に区分する場合は、「南越国」のノートをご利用なさってはいかがでしょう?--Yonoemon 2007年5月21日 (月) 05:52 (UTC)[返信]
あ、そうですか。ベトナムではだめだといわれるかと思っていました。わかりました。あとはお任せします。--Novo 2007年5月21日 (月) 07:31 (UTC)[返信]
ご要望どおりTemplate:他の紀年法を各国の歴史テンプレに関連させておきました(西夏を中国に区分するのは疑問がありますがやむを得ません)。各国テンプレとの整合性を持たせることで、当プロジェクトがこの議論に巻き込まれる可能性を未然に排除してあります。まやユーラシア史の立場が強い当プロジェクトの意向を反映させ、とりあえずは「中国周辺」の名称を残してあります。名称についてはすでに合意がなされ、その運用方法に問題があった訳なので、暫定案としては成立するものと考えています。
Template:中国の歴史に書いてないものは「他の紀年法」節で「中国周辺」に分けても良いというのは具体的にはどの王朝を指しているのでしょうか?もっともそれらはここで議論すべき内容ではなく、各王朝のページで問題的をすべきと思われます。それと根本的な発想の転換とはどのような意味でしょうか?先行する「中国」の概念に今回の問題を合わせただけで、その発想になんら変更が加えられたものとは思えないのですが…--Yonoemon 2007年5月21日 (月) 04:52 (UTC)[返信]
Wikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドライン草案に、「中国周辺」に分類する王朝名は今具体的に列挙されていますが、それでだいじょうぶでしょうか。具体的に分類が決まらないと記入が出来ないので、もし問題があるとお考えであれば適宜書き換えていただければ幸いに存じます。--Novo 2007年5月21日 (月) 05:00 (UTC)[返信]
ばらばらとコメントしてしまいすみません。「根本的な発想の転換」とは、
  • 今までは「地域分類」を地理的に定義することにより、現在の国家と結び付けないという建前を実質的なものにし、もめごとを避けるという方針でいました(「中国」だけはそれが面倒なので何も言わないという処理策でした)が、「中国」を王朝の集合として定義するYonoemon案を採用すると「地域分類」という建前が崩れること
  • 「中国周辺」を「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域」とする定義も廃棄すると、実質的に朝鮮、ベトナムもふくめ全てを王朝の集合として定義せざるを得なくなること
  • そうするとどの王朝を一集合とするかについては、結局何がしかの特定の歴史観(中国史、朝鮮史、ベトナム史、中央ユーラシア史)から見て恣意的に決めているのではないかというつっこみからたぶん逃げ切れなくなるであろうこと
  • 今のところ防波堤としては、「便宜的だ」という言い訳と、Template:中国の歴史を不磨の大典とする以外にないこと
大体うえのように整理できます。私にはどうしたらいいか分かりませんので、ご検討よろしくお願いいたします。
なお、どうも誤解が解けないみたいですが、私はずっと「もめごとを避ける」「どの特定の歴史観からも中立になる」事を考えていただけで、中央ユーラシア史だけを優先していたわけではありません。それはこれまでの私の全てのコメントをお読みいただければ、どなたからもご理解いただけると思っております。--Novo 2007年5月21日 (月) 05:33 (UTC) 4字追加--Novo 2007年5月21日 (月) 05:44 (UTC)[返信]
このページでありとあらゆる王朝を定義することは不可能なので、より大きなカテゴリーで策定し、それに機械的に追従するという方法が無難でしょう。不毛な論争及び自説の発表は別のページに移しましょう。ここは紀年法という機械的な作業を必要とするプロジェクトです。しかしTemplate:中国の歴史を不磨の大典とは…これ以上にウィキペディアで客観的な基準になるものがあればご教示頂きたいと思いますし、またご意見があればテンプレを修正すれば良いだけです。そちらで合意がなされ修正が行われば、このプロジェクトもそれに従えば問題はないはずです。--Yonoemon 2007年5月21日 (月) 05:59 (UTC)[返信]
ガイドラインの書き換え拝見しました。
まあこだわりませんが、いくつか確認いたします。
  • カテゴリについてCategory:遼の元号Category:西夏の元号Category:中国周辺の元号からはずしておられますが、「遼でも西夏の元号にでも「ユーラシアの元号」というカテゴリーを設定するのは問題が無かろうと考えています」というおことばは違うご趣旨でしたでしょうか。
  • 「他の紀年法」の区分で「五胡十六国」「十国」を「中国」内部で下位分類するという点については田英さんと#基準想定外紀年の対処のところで一応の合意を得ていますが、ご反対ですか。
他の方々はこれでよろしいでしょうか。他の紀年法のほうは記述が重複しますので適当に刈り込んでもよろしいですね。Yonoemonさんのほうで対応してくださいますか。
複数のテンプレートは、それぞれがお互いのテンプレートを意識してつくったものではないので、それを基準にすると「南越国」のようにバッティングする例が出ますし、ベトナムのものは割と最近つくられた英語版からの翻訳で、来歴もよく分かりませんので、厳密にはそれほど「客観的」な、Wikipedia内でも外でも唯一の基準になるだけのものとは思いません(このテンプレが最高の基準で、何か変えたい人はまずそこで合意を取る、というような合意がどこかにあるのでしょうか。記事と同じように、大体作りたい人が好きに作って、適当に書き換えられているんだと思いますけど)。中国の歴史の区分表でも遼や西夏については入れたりはずしたり、いろいろな「一学説」があります。がまあ、あとは本気の方がいらしたときにテンプレートや各王朝の記事のノートなどで対応いただけるとのことなので、これでけっこうです。不毛な論争はやめましょう。私の考えはもう十分述べましたので、何があっても責任を問われることはないだろうと達観しております。--Novo 2007年5月21日 (月) 07:31 (UTC)[返信]
「ユーラシアの元号」というカテゴリーは自由に設定して構わないと思いますよ(ただし「ユーラシア」という用字が適切かどうかは別問題)。逃げのテンプレ基準に合わせているだけですので、もし「中国の周辺」に分類をしたければそちらで提案して欲しいという意味です(私も西夏を中国に分類するのは反対ですが、ここでその問題を持ち出すと話がややこしくなる)
#基準想定外紀年の対処では区分でなくインデントの問題と認識しています。なんら矛盾するものではありません。
ちなみにテンプレが最高の基準になるとは思っていません。ただしここでの議論を回避する手段であることは間違いありません。もしその区分に変更を加えるのであれば、そちらのページでしかるべき人物により変更が加えられるはずなので(私が参加するとも、対応するとも述べておりません)、静観すれば問題は発生しないでしょう。適当に書き換えられた場合はノートにてその根拠を記述してもらい、それに意義がなければ元号は所詮その下部構造にしか過ぎないので盲従すればいい話です。ベトナムのテンプレを問題にしていますが、将来削除される可能性が高いのは南越国くらいでしょう。その南越国にしても独自の元号を使用していないので、紀年法に影響を与えるものではありません。それにバッティングすれば双方のカテゴリーを併記、分類しようが無い場合は渤海のように柔軟に対応すればよいだけの話です。—以上の署名の無いコメントは、Yonoemon会話履歴)さんが[2007年5月21日 (月) 07:58 (UTC)]に投稿したものです。[返信]
そうですねえ。まあ「Template:中央ユーラシア史」が作成される日の来ないよう祈っております。--Novo 2007年5月21日 (月) 10:16 (UTC)[返信]

結論保留の提案[編集]

難しい話をされているなぁと思っていたら、急にバタバタっと奇妙な方向へ進んでしまったように感じています。よりよいものが作れるのであれば、作業のやり直しは厭いませんので、この件に関してはいったん保留にして、合意に達した部分だけを先に正式リリースしませんか。一度議論の整理が必要だと思います。時間を置くことで、別の案も浮かぶかもしれませんし、新しい参加者の方も増えると思います。

私自身は、遼・金・西夏が中国に置かれても、中国周辺に置かれてもどちらでもよいのですが、その分類の基準としてTemplate:中国の歴史などのテンプレートに依拠するのは反対です。これらと連携をとることはもちろん大切なことですが、それらのテンプレートは無条件で乗っかってしまえるほどしっかりとした分析および議論を経て作成されたものではありませんよね。中国と中国周辺とを区別することを目的としているわけでもありませんし。例えば、歴史プロジェクトか何かでの合意に基づいて、「他の紀年法」でもその基準を用いるというのであれば理解できますし、読者にとっても納得でしょうけど、どういう意図で作成されたのかよく分からないテンプレートを根拠に出されても、なんじゃそら、という感じです。

正式リリースを急いでいる状況下で、皆が納得する形でこの問題を解決するのはもはや無理だと思います。そこで、結論は先送りとして、争いのあるものは、アスタリスクをつけて以下のように仮配置してはどうでしょうか。他に争点になっているものがあったらご指摘下さい。

  • 遼・金・後金・清初は「中国」
  • モンゴル、西夏は「中国周辺」

また、Template:他の紀年法には、以下のように記述します(ですます調の方がいいかも)。

「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」という分類は、便宜的なものにすぎない。"*"のついたものは仮配置であり解決方法を募集中。詳細はガイドラインを参照。

書式例

以上、ご検討下さい。--oxhop 2007年5月21日 (月) 14:40 (UTC)[返信]

1日で急にバタバタっと進めたのはくたびれはてて独断でイロジカルに全て明け渡した私に全責任がありますので、私から積極的に提案できることはありませんが、結論先送りは昨日だったか一度提案しておりますので、個人的にはそれでも異議ありません(のこった争点はご指摘で間違いないと思います)。ただ、今日の書き換えは、分類の発想の根底から変えてしまったので(前節の「根本的な発想の転換」をご参照ください)、先送りするにしても、ガイドラインの文面そのものをどう記述するか、元の私の原案に戻してもよいのかどうかという問題がのこります。Yonoemonさんのお返事を待ちます。議事進行の不行き届きは深くおわびします。--Novo 2007年5月21日 (月) 15:20 (UTC)[返信]
合意の取れた部分だけでもリリースさせることに賛成します。ガイドラインの書き換えについては、5月20日の状態(「Novoさんの原案」の状態)であれば、Template:中国の歴史に拠ったものではなく、こちらのノートでの議論に基づいて積み上げたものですから、いったんそこまでリバートすることでも大きな支障はないように思います。さらにいえば、こちらでの議論に決着がつけばTemplate:中国の歴史を変更することも考えられる、或いはテンプレートのノートでの議論にあたって、先行議論としてこちらを指し示すことも可能かもしれませんね。積極的に中国の歴史テンプレートを触ろうとは今は考えておりませんが。「あくまでも部分合意によるリリースという条件でガイドラインは5月20日の状態に戻す」という考えを明記しておきます。むろん、Yonoemonさんのご意見もお待ちします。--田英 2007年5月22日 (火) 13:55 (UTC)[返信]
関連部分をいったん5月1日まで戻した上で加筆しましたので、チェックお願いします。--oxhop 2007年5月22日 (火) 15:35 (UTC)[返信]
テンプレート準拠を前提とした条項がひとつのこっていたので、削除しました。
oxhopさんからのコメントは、テンプレート準拠の妥当性、争点部分の棚上げ、いずれについても同感で、全面的に賛成します。私も同様の感想及び提案をすでに述べております。田英さんのコメントにも賛成です。また、2007年5月20日 (日) 15:10 (UTC)に私が行ったYonoemonさんへの妥協では、「ほかのアクティブな参加者の方々のご意向を確認する必要はございますので、その点は留保させてください」と述べており、すでにoxhopさん及び田英さんからのご意見があった以上、私の独断による妥協は無効になったと考えます。今後はその前提に立たせていただきます。--Novo 2007年5月23日 (水) 13:59 (UTC)[返信]
棚上げでも問題はありませんが、Template:中国の歴史との整合性は百科事典としての性格から保持することを希望します。--Yonoemon 2007年5月24日 (木) 23:21 (UTC)[返信]
oxhopさんの仮配置案は、モンゴル帝国については議論の結果のYonoemonさんの合意を、その他についてはすべてYonoemonさんの見解を反映したものになっており、「Template:中国の歴史」との不一致は西夏だけですから、整合性だけを問題にされるのであれば、「Template:中国の歴史」から西夏を削除すればいいのではないでしょうか。すでにTemplate‐ノート:中国の歴史で問題提起もなさっているわけですし。--Novo 2007年5月25日 (金) 16:03 (UTC)[返信]

1850年から遡及して、現在17世紀部分の入力を行っていますが、上の#正式リリースに当たってにも書いた通り、台湾関係の私年号をどうするかに頭を痛めております。特に鄭氏政権 (台湾)永暦 (南明)と、台湾民主国永清は目立つので、その期間は入力していません。 そこで、oxhopさんが提案された「仮配置」の範囲を台湾関係の私年号(ほかに順天 (林爽文)永和 (朱一貴)もあるのですが、目立たないかと思ってすでに入力しています)に拡大し、すべて「中国」(私年号)に分類した上で{{Sup|*}}を貼り付けたいと思います。ガイドラインの改正が必要になりますので、みなさまのご意見をお伺いします。よろしくお願いします。--Novo 2007年6月21日 (木) 17:26 (UTC)[返信]

中国を*1つ、清を*2つ、永暦・永清を*3つで配置して直後に{{Sup|*}}を添えるわけですね。テンプレートに仮配置である旨が記されているので、そうした処理をしておくことで大きな問題にならないと思います。ご提案内容を支持します。--田英 2007年6月23日 (土) 11:19 (UTC)[返信]
田英さんありがとうございます。他の参加者の方のご意見も待ちたいと思いますが、お認めいただいた場合、改正案の文面は、現行のWikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドライン#西暦年記事「他の紀年法」節のフォーマット節にある
  • 「中国」に仮配置 : 遼、1115年から1125年の金、後金、1636年から1643年の清
のあとに「鄭氏政権 (台湾)台湾民主国など清代の台湾における私年号」を書き加える形にしたいと思います。--Novo 2007年6月25日 (月) 10:43 (UTC)[返信]
ご異議ないようですので、上記の通り改正を行いました。--Novo 2007年7月3日 (火) 10:35 (UTC)[返信]

新分類提案[編集]

節分けました。--Novo 2007年6月11日 (月) 15:49 (UTC)[返信]

(コメント インデント戻します)読み洩れがあるかもしれませんが、一言。皇紀檀紀仏滅紀元ユダヤ暦や(干支)のような元年からの年数のみの紀年法(干支は慣例で)と元号を地域で括ろうとするから無理があるのではないでしょうか。1209年の項目なら、西暦(?)に対して干支や皇紀檀紀仏滅紀元ユダヤ暦と元号を同じインデントで、元号の入れ子で「王朝名 : 元号 xx年」としたら見やすいと思いますよ。但し通年の紀年法を上の方に置いて下さい。--2007年6月8日 (金) 18:26 (UTC)

ご提案は改元のない紀年法と改元のある元号とをまず分け、改元のない紀元を上に、元号を下にまとめたほうがよいという趣旨でよろしいでしょうか。であるとすると、これまでの提案の中では#分類問題(その4)に提案のあった暦法分類にやや近いイメージになるかと思いますが、日本の元号の位置が下のほうにいく点が現行と大きく異なると思います。みなさまご意見いかがでしょうか。(私はなるべく「仕切らない」ように努めますが・・・)--Novo 2007年6月11日 (月) 15:49 (UTC)[返信]
そうです。暦法の明示は必要とは思いませんし、ガイドラインの変更を求めているのではありません。紀元紀年法と年号紀年法とそのどちらとも言いがたい干支や在位紀年法とを比較できれば、私が他の紀年法を利用する目的は足りていますので。このプロジェクトの中心ではありますけめど、年記事の記事の中心ではないと思いますし。(日本POVなら干支と皇紀と年号があればいい。)--延喜 2007年6月12日 (火) 02:48 (UTC)[返信]
「ガイドライン」改正の提案ではない個人的コメントというご趣旨のようですので、私の勘違いということで終了いたします。--Novo 2007年6月12日 (火) 16:33 (UTC)[返信]

他の紀年法の範囲[編集]

世界創造紀元[編集]

330年に「世界創造紀元」というものがありました(第n年の記載はなし)。2007-03-03の加筆であり、IPユーザーさん(2007-03-15に同IPでの活動停止)でしたので、いったん除去しておきます。--田英 2007年5月14日 (月) 13:24 (UTC)[返信]

世界創造紀元について加筆が進んでおり、10-15世紀に公用されたことと、現在も特定の団体(東方教会東方正教会)で使用されている、とのことです。その他紀年法の候補として書き出すとともに、加筆された方へちょっとお話伺いにいってきます。--田英 2007年5月26日 (土) 12:54 (UTC)ご指摘に基づき、訂正--田英 2007年5月26日 (土) 13:16 (UTC)[返信]
まず東方正教会であって東方教会ではありません。この二つは範囲が違いますので、誤解のないように注記しておきます。
東方正教会のある神父さん(日本正教会の方)からお話を伺った際には「廃止を決めたわけではないので、いまでも世界創造紀元が教会の公式の紀年法であるといえる。しかし現実には誰も使っていない」ということでした(西暦といいませんが西暦を使っています。「主の降生(前)○○年」と教会内では訳します)。一方英語版の記事によれば「ごく少数の教会(この場合の教会は国別単位と思われます)では使われている」、ということでしたのでそのように加筆しました。個人的にはあってもなくてもいいと思いますが、ビザンチン関係やロシア関係の記事を書く方にはあるいは便利なのかもしれませんので、強く除去を主張することはしません。--Aphaia 2007年5月26日 (土) 13:01 (UTC)[返信]
早速にご意見いただきましてありがとうございます。(会話ページにうかがっている間に入れ違いとなりました)これまでの本プロジェクトの流れが漢字文化圏に寄り過ぎているとの思いもあって、非漢字文化圏の暦法で明確に記述できるものとして認識しておりました。公用されていた「988年 - 1453年についての記述をする」という線でいったん保留とし、プロジェクトの他のメンバーの方と協議していきます。--田英 2007年5月26日 (土) 13:16 (UTC)[返信]
公用が大きな基準のようですね。だとするとむしろ最終年ではロシアで公式に使用されていたとされる1700年までではないでしょうか? また全体にヨーロッパ・中近東の暦法がややカバーされていないように感じます。網羅性を追及するのでしたら、ローマ建国紀元をいれたほうがいいのではないかと。あと、その際には1月1日が区切りでないことの注記も必要かと思います。--Aphaia 2007年5月26日 (土) 13:56 (UTC)[返信]
必ずしも公用を基準としているわけではないですが、使用されていたことが確実であり、その内容が出典によって裏付けられるものであれば、利便性を高めるものですから掲載の方向へもって行きたいのです。ご指摘のように、東洋に偏っていることは自覚していますので、いずれ詳しい方の参入をお待ちすることになるかもしれませんが、とっかかりとして候補出しはしておきたいと考えた次第です。公用期間と掲載する記事の範囲については、例えば檀紀では公用期間を超えて過去へ未来へと拡大記述していますので、世界創造紀元についても公用期間に限定するものではないと考えます。
ローマ建国紀元について追記しておきました。重ねてのご指摘ありがとうございます。あと、日付の問題については認識はしていますが、未だ表記基準は定めていないので、今のところは仏滅紀元のように「西暦○○○年に対して□□暦:▽▽▽年 - ▽▽△年」という記述になるようにしています。--田英 2007年5月26日 (土) 14:14 (UTC)[返信]
Aphaiaさん、貴重なコメントありがとうございます。ご指摘の通り、本プロジェクトは参加者の関心が漢字文化圏に偏っていて、ヨーロッパ・中近東系の紀年法をカバーできていないことが欠点ですので、世界創造紀元もローマ建国紀元も含め、可能な限り情報は増やしていくという田英さんのお考えに賛成です。ただ、誤解による誤った記入を排除するため、遡及、逆算による記入や、Wikipedia他言語版からの孫引きはなるべく避け、記入者に何らかの出典を示していただくことを条件としております。紀年を逐年で示した年表があればいいと思っているのですが、まだ確認できておらず、ゴーサインをなかなか出せないのが現状です。Aphaiaさんのように、暦法一般か、またはその紀年法を使っていた地域・宗教などの歴史に詳しく、Wikipedia日本語版での編集実績を確実にもっておいでになるアカウントユーザからのご意見であれば、尊重させていただきたいと思います。
記入期間については、公用に限定はしておりませんが、現在使用されていないものについては使用されていた期間のみ、という基準を立てております。ただ「何をもって使用されていると見なすか」は難しい問題で、おそらくケースバイケースによる判断が必要になるかと思います。世界創造紀元についてもAphaiaさんのコメントから考えると「現在も使用されている」という見方を完全には排除できないようですので、ひとまず田英さんのご判断(東ローマ帝国における使用)を基準とし、1700年まで書くかどうかについてはロシア史に明るい方からの、東ローマ帝国以前から現在まで書くかどうかについては東方正教会での使用例についてより詳しい方からのコメントをまつということではいかがでしょうか。
ローマ建国紀元は西暦紀元後(紀元前は今のところほとんど記事が立項されていないので考慮しなくてもいいと思います)いつ頃まで使われていたのかが日本語版記事でははっきりしない(英語版では後世、近代の歴史家による使用例のほうが多いとありますが、やはりローマ帝国史に限られるのでしょうか)ので、使用期間が確定できるまでは候補にあげておくにとどめるということではいかがでしょうか。ほかにもいくつか紀年法があるようですが、いずれにしても、私はよく知らない分野ですので、詳しい方からのご教示と出典の提示をまちたいと思います。
特に暦日については、ユリウス暦以前のローマ暦は大変複雑な暦法をもっていたようですし、ガイドライン草案でも「旧暦暦日の記入は後回しにする」と定めておりますので、これを準用して具体的な記入は避け、紀元前の各年記事が立項され、暦年記入が確定した場合でも、ひとまずはTemplate:他の紀年法の凡例に「1月1日年始でない」旨を注記するにとどめたいと考えております。世界創造紀元はユリウス暦と同じで、機械的に9月1日年始と解釈してだいじょうぶでしょうか。--Novo 2007年5月26日 (土) 18:48 (UTC)[返信]

インデント戻します。Novoさん、田英さん、懇切なご説明ありがとうございます。世界創造紀元の扱いについては、様子見ということも兼ね、Novoさんのご提案でいいのではないかと思います。わたしもそれほど詳しくはありませんので、以下あやふやな伝聞として聞いていただけば幸いです。

順序が逆になりますが、世界創造紀元が我々のいう9月始まりであることについて。世界創造紀元の少なくとも公式に採用されていた期間については、9月はじまりとしていいように思います。東方正教会には新年祝賀祈祷というのがあるのですが、これは明治に訳されたときに「本来9月1日であるのだが、日本においては1月1日に行う」と注記がありました。教会の暦が世界創造紀元に影響されている名残は、実はいまでも東方正教会の典礼暦は正式には9月1日であることに見出すことができます。これ、ウィキペディアのような集団編集サイトからの引用で恐縮なのですが、OrthodoxWiki:Indictionによると、9月1日が東ローマ帝国での新年のはじまりになったのは5世紀のことだということです。世界創造紀元の公式採用はもっとずっとあとですので、一律に9月1日としていいのだと思うのです。
テンプレートでの列記については、いらない口出しをしたようで恐縮です。Novoさんのご提案に納得いたしました。
ローマ暦は、ユリウス暦以前はなんかぐちゃぐちゃな世界で、素人は怖くて手をだせないですね。指摘された「かえって後世に使われた」というのは、初耳ですがうなづけるものがあります。いわゆる古典ラテン語、カエサルやキケロの文章、あるいは少しあとのタキトゥスなどで、私は建国紀元をみたことがないように思います。もちろんそれは公式の暦ではあるのですが、ローマ人が普通に年を示す場合には執政官の名前を連記するのが通例だったようです。属州民は「皇帝○○の何年」というような表記も使うようですが、ローマ市民にとってもっとも馴染みぶかい年の表記は、執政官名による提示ではないかと思っています。かえってルネサンス以降などに書かれたローマ史のほうが使われるのではないかと思います。
プロジェクトのますますのご発展をお祈りしております。素人の思いつきのような提案に、丁寧なご検討をいただき、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。--Aphaia 2007年5月28日 (月) 02:00 (UTC)[返信]
世界創造紀元については記述に賛成ですが、出版された出典を確認できていない点にひっかかりを覚え、正式リリース時点ではガイドラインへの正式採用を見送りました。Aphaiaさんからご提示いただいているウェブ上の年表でいいかとも思いますが、一般にウェブを出典として認めると情報の確度は下がりますし、また今後別の紀年法の記入提案があったときとの公平性確保の必要もあるので、慎重を期しました。引き続きご意見いただければ幸いです。--Novo 2007年6月2日 (土) 13:09 (UTC)[返信]

朝鮮内での並び順[編集]

1年から300年まで、朝鮮国王の一覧にしたがって、高句麗新羅百済の順に配置したのですが、これで良いでしょうか? 一覧の方がどういう並びなのかよく分からないので、もし不都合があればやり直しますが。--oxhop 2007年5月21日 (月) 14:16 (UTC)[返信]

301年-365年で、実建国年と目される時期の早い順で高句麗(1世紀:騶)、百済(346年:近肖古王)、新羅(356年:奈勿尼師今)としていました。『三国史記』本紀の並びであれば新羅、高句麗、百済ですね(『東方年表』も『三国史記』準拠)。情報量としては同じなので、特にそのままでも構わないと思います。先に西暦年記事を完了させてから、あとで入れ替えを考える、でもよいのではないでしょうか。(朝鮮国王の一覧は初版から高句麗・新羅・百済の順なのですね、チョット違和感ありますけど、特に拘らなくても良いように思います。)--田英 2007年5月21日 (月) 14:36 (UTC)[返信]
了解しました。--oxhop 2007年5月21日 (月) 14:44 (UTC)[返信]