加藤千蔭
加藤 千蔭(かとう ちかげ、享保20年3月9日(1735年4月1日) - 文化5年9月2日(1808年10月21日))は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。通称は又左衛門。字は常世麿。号は芳宜園など。
概略
歌人で江戸町奉行の与力であった父・枝直[1]の後を継ぎ、1763年(天明8年)に吟味役となった[2]。1788年(天明8年)病気を理由に町奉行与力を辞すが、寛政の改革によって在職中の勤務について譴責を受けて閉門を命じされた[2]。以降は学芸に専念した。
若くして諸芸を学んだが、特に国学を賀茂真淵に学び[1]、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した[2]。国学の門人に岡田真澄[3]がいる。
和歌では村田春海とともに歌会・文会を盛んに開き、江戸派の双璧と称された[2]。千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なものだった。家集『うけらが花』初編・2編がある[2]。門人に大石千引や清原雄風、窪田清音[4]がいる。
ま書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなし(千蔭流[2])、仮名書の法帖を数多く出版した。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せており、曲亭馬琴も千蔭から書を学んでいる[5]。千蔭の書を「千蔭焼」と称して陶器に焼いたり、織物にして「千蔭緞子」と称したりして好事家によって収集された[6]。絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた。
東京国立博物館には千蔭の木像(画像)と、肖像画(画像)が残る。上部の自賛から、没する前年の6月に描かれ、長谷川貞忠(詳細不明)と渡辺広輝(阿波藩御用絵師で住吉派の住吉広行の弟子)の作であることがわかる。
1808年(文化5年)、73才で死去。東京都墨田区両国2丁目の回向院に葬られた[6]。墓碑は東京都の旧跡に指定されており[7]、墓石の「橘千蔭之墓」の字は、生前に自ら書いたものと伝えられている[6]。
千蔭流
和様の書の流派として明治期に人気があった。当時、貴族や上流階級の令嬢たちの和歌の師匠として人気のあった中島歌子が千蔭流の書を嗜んだことから、その門下生の樋口一葉も千蔭流の書を学んだ。
代表歌
今昔秀歌百撰 57番
- 照る月はあやしきものかかなしとも面白しとも人に見えつつ,うけらが花。選者:市川静夫(敦敦文化事業株式会社社主)
脚注
参考文献
- 関根正直『史話俗談』誠文堂書店、大正10年。
- 清宮秀堅『古学小伝』。
- 中野虎三・編『国学三遷史』。
- 上田万年、芳賀矢一『国学者伝記集成』。
- 関隆治・編『国学者著述綜覧』。
- 『うけらが花』有朋堂文庫。
- 『伊勢物語古意 宝暦九年加藤千蔭写』和泉書院〈伊勢物語古注釈書コレクション 第5巻〉、2006年10月。
- 影印本シリーズ 影印本 万葉集略解抄 橘 千蔭, 川上 富吉、新典社, 1988.4
- 千早帖―千蔭翁真蹟 橘 千蔭、西東書房, 1974.12
- 『すみだゆかりの人々』墨田区教育委員会、1985年、36-38頁。
関連項目
外部リンク
- 加藤千蔭に関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- 『香とりの日記』千蔭が村田春海と江戸から下総の香取、常陸の鹿島に遊んだときの紀行文(奈良女子大学学術情報センター)
- 1. 国学者 | あの人の直筆 - 国立国会図書館