ライモンド・モンテクッコリ (軽巡洋艦)
ライモンド・モンテクッコリ | |
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オーストラリア訪問時(1938年12月) | |
基本情報 | |
建造所 | アンサルド、ジェノバ造船所 |
運用者 | イタリア王立海軍 |
艦種 | 嚮導巡洋艦 (軽巡洋艦) |
級名 | モンテクッコリ型 |
モットー | Con risolutezza, con rapidità |
母港 | ナポリ |
艦歴 | |
発注 | 1930-31年計画 |
起工 | 1930年10月1日 |
進水 | 1934年8月2日 |
就役 | 1935年6月30日 |
除籍 | 1964年5月31日 |
その後 | 1972年に解体 |
要目 | |
基準排水量 | 7,405英トン |
常備排水量 | 8,875トン |
満載排水量 | 8,994トン |
全長 | 182.20m |
最大幅 | 16.60m |
吃水 | 6.0m |
ボイラー | ヤーロー-アンサルド水管缶6基 |
主機 | ベッルッツォ式タービン2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 計画 106,000hp |
速力 | 計画 37ノット |
航続距離 | 計画 4,122海里 / 18ノット |
乗員 | 551名および司令部27名[注釈 1] |
兵装 |
アンサルド1929年式152/53砲 4基8門 OTO/アンサルド100/47砲3基6門 ブレダ1932年式37mm機銃連装4基(竣工時) エリコン1S 20mm機関砲連装4基(改装後) 533mm連装発射管2基4門 |
装甲 |
機関部舷側 60mm、甲板 30mm ターレット70mm、甲板30mm 司令塔 100mm |
搭載機 | 水偵2機 |
レーダー | グフォレーダー(1943年搭載) |
ライモンド・モンテクッコリ (イタリア語: Raimondo Montecuccoli) は、イタリア海軍の軽巡洋艦[2]。ライモンド・モンテクッコリ級の1番艦(ネームシップ)[3]。艦名は17世紀にオーストリアで転戦したイタリア人の将軍ライモンド・モンテクッコリにちなむ。前級と異なり二重円筒構造の塔型艦橋をもち、航空兵装を艦中央部に移している[4]。第二次世界大戦終結後の講和条約でも、保有を許され[5]、練習艦としても運用された。1964年まで在籍していた[6]。
艦歴
イタリア参戦まで
イタリア王国の王立海軍が建造したライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦の1番艦で、コンドッチェリ型(傭兵隊長型)[7]の第3グループである[8]。姉妹艦はムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) [9]。ライモンド・モンテクッコリは1930年計画で建造が承認され、1931年(昭和6年)10月1日にアンサルドジェノバ造船所で起工した。1934年(昭和9年)8月2日に進水する[注釈 2]。1935年(昭和10年)6月30日に就役した[11]。
イタリア王国は中華民国の数か所に租界をもうけており、天津市のイタリア租界や上海共同租界 (Concessione internazionale di Shanghai) などを防衛するためにサンマルコ海兵隊が配備され、またイタリア海軍の艦艇も配置していた(中国におけるイタリア租界、租借地)。 1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変が発生した。中華民国空軍の上海爆撃では、上海共同租界でも民間人に多数の死者が出る[12]。北支事変は全面戦争に発展した。伊太利政府は、イタリアの権益保護のため、中国大陸に巡洋艦を派遣する[注釈 3]。「ライモンド・モンテクッコリ」は陸戦隊をのせ[14]、同年8月27日にナポリを発し、9月10日にシンガポール寄港[注釈 3]、9月15日になり上海に到着した[15][16]。亀井文夫が監督した記録映画『上海 -支那事変後方記録-』には、上海に停泊する「ライモンド・モンテクッコリ」やアメリカ重巡「オーガスタ」(合衆国アジア艦隊)の艦影が収められている。上海をめぐる戦闘では、碇泊中の本艦が至近弾を浴びることもあった[17]。
1938年(昭和13年)3月、イタリアは日伊友好のため軍艦を派遣することにした[18]。 4月[注釈 4]、「ライモンド・モンテクッコリ」(イタリア極東艦隊旗艦)は日本への親善航海をおこなう[注釈 5]。 4月2日、長崎港に到着した[注釈 6][注釈 7]。 その後、別府港、神戸港に寄港[24][注釈 8]。 18日、ラインモンド・モンテクッコリ(艦長アルベルト・ダ・ザラ大佐)は[26]、儀礼艦の敷設艦「厳島」に出迎えられ[注釈 9]、横浜港に入港した[注釈 10]。 19日、モンテクッコリ艦長や副長は皇居を訪問し、昭和天皇に拝謁した[注釈 11][注釈 12]。 4月29日、本艦は横浜を出発した[注釈 13]
5月初旬、青森を出発して中国大陸にむかった[33][注釈 6]。 8月9日、仁川港に入港する[注釈 6]。ザーラ艦長は朝鮮総督府を訪問し、南次郎総督や中村孝太郎陸軍大将(朝鮮軍司令官)と交流した[注釈 14]。8月17日から18日まで、大連に寄港した[35]。 9月29日、修理のため横浜港に入港する[注釈 15]。10月下旬まで横浜に滞在した[注釈 6]。またニューサウスウェールズ入植150周年に際して[要出典]オーストラリアを訪問したこともある(本記事写真)[37]。
「ライモンド・モンテクッコリ」は同年11月1日に上海を離れ、12月7日にナポリに戻った[16]。
第二次世界大戦
1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国はイギリスとフランスに宣戦を布告し[38]、枢軸国側にたって第二次世界大戦に参戦した[39]。開戦と共にフランス海軍はヴァード作戦 (Opération Vado) を発動し、巡洋艦部隊によるイタリア本土の要港に対する艦砲射撃を実施する[40]。トゥーロンを出撃したフランス艦隊は、15日にジェノヴァとサヴォーナを砲撃した[41]。
その頃、イギリス地中海艦隊の根拠地アレクサンドリアを間借りしていたフランス艦隊のうち、重巡トゥールヴィル (Tourville) と重巡デュケーヌ (Duquesne) が同地を出撃してエーゲ海の強行偵察をおこなった[41][42]。イタリア海軍はナポリから軽巡2隻(ライモンド・モンテクッコリ、バルトロメオ・コレオーニ)を出撃させ、仏重巡2隻の退路を断とうとしたという[42]。だが両者とも遭遇せず、海戦にならなかった[42]。
6月22日に独仏休戦協定が、24日にフランスとイタリア間でヴィラ・インチーサ休戦協定が結ばれて[38]、フランスは事実上降伏した[43]。
その後、地中海における枢軸国側の主敵はイギリスとなる。地中海攻防戦において、ライモンド・モンテクッコリはプンタ・スティロ海戦、第1次シルテ湾海戦、ハープーン作戦迎撃(6月中旬の海戦)などに参加した。
1942年(昭和17年)になると、マルタを巡る連合国軍と枢軸国軍の戦闘は激化した[44]。同年6月、イギリス海軍はアレクサンドリアからマルタ島を目指すヴィガラス作戦と、ジブラルタルからマルタ島を目指すハープーン作戦(Operation Harpoon)を実施、二つの増援補給船団を編成した[45]。ヴィガラス船団(地中海艦隊)邀撃にはクレタ島のドイツ空軍やヴィットリオ・ヴェネト級戦艦2隻を基幹とするイタリア海軍主力艦隊が投入され[46]、本艦は僚艦と共にハープーン船団(H部隊)の攻撃にむかった[47][注釈 16]。
イギリス軍のハープーン船団護衛部隊のうち、H部隊 (Force H) の戦艦や航空母艦はチュニジア北東部ボン岬半島で引き返したので、残りの船団は海と空からの枢軸国軍の攻撃に晒された[48]。6月14日、パンテッレリーア島付近において伊軽巡2隻(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、ライモンド・モンテクッコリ)と駆逐艦5隻は、既に枢軸軍空軍機に痛めつけられていた英軍輸送船団を攻撃した[49]。これをパンテリア沖海戦と呼称する[50]。連合国軍と枢軸国軍双方の航空攻撃が入り乱れるなかでの海戦となり、イタリア側は協同で英駆逐艦ベドウィン (HMS Bedouin) と油槽艦ケンタッキー (SS Kentucky) を撃沈、英駆逐艦パートリッジ (HMS Partridge,G30) を撃破した[51]。また本艦の砲撃が英掃海艇ヘーベ (HMS Hebe,J24) に命中したという。イタリア側は伊駆逐艦ビバルディ (Ugolino Vivaldi) が損傷した[51]。ハープーン船団のイギリス軍輸送船6隻のうち、マルタに辿り着いたのは2隻であった[52]。
ヴィガラス作戦とハープーン作戦の双方に失敗したイギリス海軍は、ふたたび大輸送船団を編成した[53]。ハープーン作戦と同様に、ジブラルタル経由でマルタを目指すペデスタル作戦である[54]。イタリア海軍の水上艦隊は、重巡3隻(ゴリツィア、ボルツァーノ、トリエステ)、軽巡3隻(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、ライモンド・モンテクッコリ、ムツィオ・アッテンドーロ)、駆逐艦多数という戦力で出撃した[55]。だが8月13日に英潜水艦アンブロークンに雷撃される[55]。重巡ボルツァーノ (Bolzano) が大破[56]、軽巡ムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) が艦首を失った[11]。連合国軍輸送船団は損害を受けながらもマルタに辿り着き、連合国軍は同島周辺の制空権を盤石なものとした[57]。
同年12月4日、米軍機のナポリ空襲によってライモンド・モンテクッコリは大破し、死者は44人にのぼった[注釈 17]。ライモンド・モンテクッコリは修理のためパレルモに回航された。その後、対空火器の強化がおこなわれた[11]。
第二次世界大戦後
1943年(昭和18年)9月、イタリア王国は降伏した。イタリア海軍の大型艦の大部分は、連合国に引き渡される。イタリア軍の武装解除の後、イタリア艦籍に復帰する[11]。第二世界大戦終結後、王政が廃止されてイタリア共和国が樹立した。パリ条約(講和条約)によりイタリア艦艇の何隻かは賠償艦として連合国陣営に引き渡されたが[58]、本艦はイタリアに残された[注釈 18]。その後、訓練艦として1964年まで在籍した。その後1972年に解体されたが、その一部が主砲等と共にペルージャ郊外のチッタ・デッラ・ドメニカに保存された。
出典
注
- ^ 1938年4月18日の日本訪問時は、艦長、副官、士官30、下士官88名、水兵454名[1]。
- ^ 時速三八浬の新鋭巡洋艦 伊太利で進水[10](二日ゼノア發)伊太利が建造中の六千噸級輕巡洋艦ライモンド、モンテクコリ號は進水した、本艦は百五二砲八門を装備し最急時速三十八海里を有する優秀なものである(記事おわり)
- ^ a b 伊艦本日入港[13] 上海在留伊太利人保護の爲 本日伊太利巡洋艦ライモンド・モンテチューコリ號(七千噸)が入港、燃料補給の上午後三時 上海に向かつた、同艦は速力四〇ノツトを誇る精鋭で艦載機二機を有し高角砲二十二門、六吋砲八門を 装備してゐる/なほ明日はマカオに向ふ葡萄牙砲艦ゴンカロ・ベルホ號(千二百噸)も入港する(記事おわり)
- ^ 海軍公報 第3297号 昭和13年3月28日(月)[19]〔 ○伊國巡洋艦「モンテクコツリー」來航豫定 地名 着 發/長崎 四月二日 四月五日/別府 七日 九日/神戸 十日 十七日/横濱 十八日 二十九日 〕、〔 海軍公報 第3299号 昭和13年3月30日(水) p.7/○正誤 三月二十八日本欄伊國巡洋艦來航豫定中艦名「モンテクコツリー」ハ「モンテクツコリー」ノ誤 〕
- ^ 伊太利極東艦隊旗艦 帝都を公式訪問 十一日間日伊の交驩[20](東京十一日同盟)イタリー極東艦隊旗艦 公式訪問の重き使命をおびて海の訪日使節として。去る二日長崎に入港した新鋭巡洋艦ライモンド・モンテクツコリ號は來る十八日横濱港に入港、ダザーラ艦長以下帝都を訪問し十一日間に亘つて各方面の招待をうけ日支交驩を行ふこととなつたが、そのうち十九日は海相官邸で歡迎晩餐會 二十二日は水交社で伏見軍令部總長宮殿下の午餐會が催させられる。なほ我が海軍からは十七日より三日間横濱に儀禮艦一隻が派遣される筈だ。(記事おわり)
- ^ a b c d 9.外國艦船本邦沿岸出入一覧 昭和13年[21]〔 國名:伊國|艦名:巡洋艦モンテクツコリー|期間:(昭和13年)4-2 4-6|寄港地名|長崎 / 伊國|〃(巡洋艦モンテクッコリー)|4-7 4-9|別府 / 伊國|〃|4-10 4-17|神戸 / 伊國|〃|4-18 4-29|横濱 / 伊國|〃|5-1 5-2|青森 / 軍艦レパント|8-2 8-7|大連 〕〔 伊國|軍艦レパント|13-10-2|横濱|巡洋艦モンテクツコリー|13-8-9 8-15|仁川 / 伊國|〃(巡洋艦モンテクッコリー)|8-17 8-18|大連 / 伊國|〃|9-29 10-22|横濱 〕(以下略)
- ^ 当時の三菱重工業長崎造船所では[22]、利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)を建造していた[23]。
- ^ 伊國極東艦隊 旗艦神戸へ入港[25]【大阪十日特報】去る二日朝帝國公式訪問の途長崎へ寄港した伊太利極東艦隊旗艦ライモンド、モンテクコリー號は途中別府訪問の後十日朝神戸に入港我が官民の熱烈なる歓迎を受けたが、なほパウリツチ侯以下親善使節團一行も大阪より來神して落ち合ひ久潤を叙した(記事おわり)
- ^ 伊國極東艦隊旗艦 けさ横濱入港 日本朝野の大歡迎[27]【横濱十八日同盟】(中略)十八日午前九時横濱港外に颯爽と勇姿を現はし、わが海軍の儀禮艦嚴島と禮砲を交換しつゝ大歡迎の裡に岸壁に横着けとなつた(以下略)
- ^ 当日の横浜港には、重巡洋艦高雄などが停泊していた[28]。高雄は浅野造船所に入渠しており、ライモンド・モンテクッコリの入港を見届けた[29]。また、本艦の横浜港到着と歓迎する民衆の映像が残っている。
- ^ ◎謁見[30] 伊國軍艦「ライモンド、モンテクッコリ」艦長海軍大佐アルベルト、ダ、ツァラ今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦副長海軍中佐サンテ、ボンディ ヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全權大使ジァチント、アウリチ同伴同大使館附海軍武官 海軍大佐アルベルト、ゲー ト共ニ昨十九日午前十時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ
- ^ ザール艦長に賜=謁 宮中に召され[31](東京十九日同盟)畏くも天皇陛下には十八日晴れ帝都を訪問した伊國極東艦隊モンテクツコリ號艦長ザール大佐、副長バンデイ中佐に對し十九日午前十時半宮中鳳凰の間において謁見仰せつけられた(記事おわり)
- ^ 伊太利軍艦 横濱出港 青森へ向ふ[32](横濱二十九日同盟)去る十八日横濱入港、各方面と交歡を遂げた盟邦イタリー海の親善使クツコリー號は二十九日午後零時半抜錨次の寄港地青森に向つた(記事おわり)
- ^ 伊太利軍艦ク號 仁川港に投錨 ザール司令官、南總督を訪問[34](京城十日同盟)イタリー極東艦隊モンテ・クツコリー號(一万トン)は九日夕刻仁川港に投錨したが、司令官アルベルト・ザール大佐は十日午前入港後総督府を正式訪問し南總督とい堅握手を交したのち更に軍司令部に中村軍司令官を訪問挨拶を交した、同大佐はそれより總督府官邸における南總督主催の午餐會に、夜は偕行社における中村軍司令官主催の晩餐會に臨み(記事おわり)
- ^ 伊太利極東艦隊旗艦 ラ號横濱へ[36]【横濱二十九日同盟】友邦イタリー極東艦隊旗艦ライモンド・モンテクツコリー號(六九四一トン)は二十九日午後六時上海から横濱へ来訪した、乗組員は艦長ザーラ大佐以下四百三十名何れも去る四月中旬櫻の日本を訪れたばかりのことゝて『コンバンは』などと未だ忘れぬ日本語で愛嬌を振りまいて居た、今回の來訪では艦隊の修理のためその間乗組員は東京を中心に秋の日本をゆっくり觀光する(記事おわり)
- ^ 別働隊の指揮官は第七巡洋戦隊を率いるアルベルト・ダ・ザラ提督で、軽巡エウジェニオ・ディ・サヴォイア (Eugenio di Savoia) に将旗を掲げていた。
- ^ 同4日、ナポリにいた姉妹艦のムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) は空襲で撃沈された[11]。僚艦のエウジェニオ・ディ・サヴォイアは本艦と同様に大破した。
- ^ イタリア共和国が保有を許された巡洋艦は4隻(ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥカ・デリ・アブルッツィ、ジュゼッペ・ガリバルディ、ライモンド・モンテクッコリ、ルイージ・カドルナ)であった[5]。
脚注
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1938.04.23 Edition 02、p.2、2023年5月21日閲覧 防共親善のイタリー巡洋艦 モンテクツコリ號 五月廿七・八日頃大連訪問
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 100「ライモンド・モンテクッコリ」Raimondo Montecuccoli
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 111a-112(イタリア海軍)ライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦(コンドッチェリ級第3群)/艦容を一新した新時代のイタリア軽巡洋艦
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 124(ライモンド・モンテクッコリ解説)
- ^ a b イタリア平和条約 1947, pp. 195–195イタリア國によつて保持される海軍艦船の表
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 120aイタリア/軽巡洋艦「ライモンド・モンテクッコリ」級 RAIMONDO MONTECUCCOLI CLASS D'AOSTA CLASS
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 118イタリア/軽巡洋艦「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」級 ALBERTO DI GIUSSANO CLASS
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 120b.
- ^ 世界の艦船、写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 101「ムツィオ・アッテンドーロ」Muzio Attendolo
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1934.08.07、p.2、2023年5月21日閲覧
- ^ a b c d e イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 112.
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.08.15、新世界朝日新聞/nws_19370815(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022200800 p.1〔 血迷へる支那空軍 爆彈を滅茶苦茶に振落して繁華の市街忽ち阿鼻叫喚 外人を含め死傷千餘 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nan’yō Nichinichi Shinbun, 1937.09.10、p.2、2023年5月21日閲覧
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1937.08.29、新世界朝日新聞/nws_19370829(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022203600 p.2〔 伊國巡洋艦 上海に急行(ゼノア廿六日)イタリー政府では二十六日新鋭七千トン巡洋案レイモンド、モンテキュコロ號に多數の陸戰隊を搭乗させ上海に向はしめた(記事終わり) 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1937.09.15、p.2、2023年5月21日閲覧 伊艦上海着(十五日上海發ルーター)イタリー巡洋艦ライモンド・モンテ・クツコリ號は上海に到着した
- ^ a b Cruisers of World War Two, p. 136
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1937.11.12、p.3、2023年5月21日閲覧 壮烈な殲滅戰展開 租界を背に強がる“救國決死隊” ~~上海最後の南市掃蕩戰(記事中略)この間敵兵は我が軍艦を越へて彼方にあるイタリー軍艦ライモンド・マンテクツコー號の艦尾に彈丸を浴せるといふ盲ら撃振を發揮した(以下略)
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1938.03.22、新世界朝日新聞/nws_19380322(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022243600 p.3〔 伊太利 更に親善の軍艦派遣 強大な日伊兩國の提携こそ世界の秩序を確保! 陸海軍省へメッセーヂ送って伊國いふ 〕
- ^ 「昭和13年 海軍公報 上巻(防衛省防衛研究所)3月(2) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070370300 p.1
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- ^ 海軍省年報、昭和13年 1941, p. 20原本21頁
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- ^ 「昭和13年 海軍公報(部内限)上巻(防衛省防衛研究所)4月(1) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070372500 〔 海軍公報(部内限)第2876号 p.10/艦船所在○四月二日午前十時調(略)【長崎】(利根)▲(筑摩)▲ 〕
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- ^ #重巡高雄(S13.04) p.18(昭和13年4月8日月曜日、横浜淺野第一船渠入渠中)(記事抜粋)〔 0945|商船室蘭丸出港 伊太利軍艦ライモンド・モンテクッコリ號(六,九四一噸)入港 〕
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- ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 65.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–64(1)フランスとの戦争
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 142–144マルタ島に危機迫る
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 154第四期/1942年1月~6月の年表
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 144–146ビガラス船団、西へ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 147a-153ハープーン船団、東へ
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 147b.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 149.
- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 151–153パンテレリア沖海戦
- ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 152.
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- ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 161–167ペデスタル作戦
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参考文献
- 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- 2.マタパン岬の海戦/4.フランス海軍のジェノヴァ砲撃
- 『世界の艦船』 1986年8月増刊 第2次大戦のイタリア軍艦」(海人社)
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『写真シリーズ 軍艦の構造美を探る(3) 巡洋艦 WORLD CRUISERS IN REVIEW』株式会社海人社〈世界の艦船 別冊〉、2007年6月。
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- M.J.ホイットレー、第二次世界大戦の巡洋艦 、 1995年、アーマープレス ISBN 1-86019-874-0
- 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イタリアの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『公文備考 昭和10年D外事 外事 巻2(防衛省防衛研究所)軍第173号11.4.8英国皇太子殿下御来朝当日に於ける諸事項に関する件』。Ref.C05034103100。
- 『「伊国政府派遣訪日親善使節団に関する件(国賓待遇)、永存書類乙集 第1類 昭和13年(防衛省防衛研究所)』。Ref.C01006957000。
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『昭和十三年 海軍省年報 第六十四囘 昭和十六年二月刊行』海軍大臣官房、1941年2月 。
- 外務省条約局 訳編『イタリア平和條約』外務省条約局、1947年6月 。