コンテンツにスキップ

藤原光房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Earl of Caningham and Viscount Wotter (会話 | 投稿記録) による 2023年4月24日 (月) 07:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
藤原光房
時代 平安時代後期
生誕 天仁2年(1109年
死没 久寿元年11月11日1154年12月17日
別名 伊豆弁
官位 正四位下権右中弁
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原為隆、母:藤原有佐の娘
兄弟 憲方光房憲隆憲光為国覚隆源顕雅室、平実親室、藤原宗能室、藤原俊経室、藤原親隆室、源俊隆
源有賢の娘、藤原俊忠の娘
藤原為忠の娘、平親宗の娘
信方経房光長隆範定長、行舜、為頼光綱、光慶、光玄、隆遍中山忠親
テンプレートを表示

藤原 光房(ふじわら の みつふさ)は、平安時代後期の貴族藤原北家勧修寺流参議藤原為隆の三男。官位正四位下権右中弁伊豆弁を号す。

経歴

元永3年(1120年)に正六位上大膳亮に任ぜられた後、白河院政期末に摂津守を務める。保延4年(1138年伊賀守の任にあった際、光房が築造した土御門殿崇徳天皇が還御したが、わずか7ヶ月後に土御門殿は焼亡している。

その後、勘解由次官を経て、永治元年(1141年源師能とともに近衛天皇五位蔵人に任ぜられ、久安3年(1147年)には右少弁も兼ねて三事兼帯となったか。久安6年(1150年)従四位上・権右中弁、仁平元年(1151年正四位下と近衛朝後半は弁官を務めながら順調に昇進し、近衛天皇中宮・藤原呈子にも中宮亮として仕えた。

久寿元年(1154年)11月10日に出家し、翌11日卒去。享年46。最終官位は権右中弁正四位下兼中宮亮。

官歴

注記のないものは『弁官補任』による。

系譜

脚注

  1. ^ 『中右記』
  2. ^ a b 『尊卑分脈』
  3. ^ 『国司補任』
  4. ^ a b 『蔵人補任』

参考文献