平親宗

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平 親宗(たいら の ちかむね、天養元年(1144年) - 正治元年7月17日1199年8月10日))は、平安時代末期の公卿桓武平氏高棟王流左大臣平時信の次男。高倉天皇外叔父官位正二位中納言

経歴[編集]

幼くして父・時信が没したために、異母兄の時忠の庇護下で育ったとみられる。右衛門尉を経て永暦元年(1160年)に六位蔵人となり、翌10月に叙爵された。その後、異母姉の滋子(建春門院)に引き立てられて、実務官僚としての道を歩み、承安3年(1173年)には三事兼帯になっている。また、丹波局(江口の遊女)所生の第十皇子・承仁法親王(第63代天台座主・滋子の猶子)の養育にあたったことで滋子のみならず、後白河法皇の絶大な信頼を得る。平清盛の縁戚につながる1人でありながら、異母兄の時忠と年齢が離れていたこともあり、安元2年(1176年)の建春門院の崩御後も一貫して後白河法皇の側に合った。そのために治承三年の政変で、院の近臣の一人として右中弁官職を解かれている。養和元年(1181年)に清盛が没し、後白河法皇の院政が再開されると、復権して12月には右大弁兼蔵人頭に任ぜられ、寿永2年(1183年)には参議に任ぜられ公卿に列す。

こうした経緯により、寿永2年(1183年)に平氏一門が都落ちした際には随行せず都に止まったが、同年12月の木曾義仲によるクーデターで解官される。翌年には木曾義仲の失脚後に従三位に叙せられ参議にも還任するが、文治元年(1185年)12月には高階泰経平知康らと並んで源義経支持派としての行動を源頼朝に弾劾され、またも解官の憂き目に合っている。文治4年(1188年)6月に大納言源定房出家して源氏長者の象徴である淳和奨学両院別当の職が空席となった。後任には権中納言土御門通親が就任することが有力視されていたが、親宗は参議・左大弁でありながら「平氏も王孫であるから両院別当になる資格がある」と主張して通親を激怒させた[1]正治元年(1199年)に正二位・中納言に叙任されるが、これを極官として同年7月17日薨去享年56。折しも、和泉国にて知行国主である親宗と興福寺領の荘園が対立を起こしている最中の急逝であり、『春日権現験記』には親宗の死を春日大明神の神罰であると記している。

平氏一門の中では平重盛一家に近かったとされ、娘の一人は重盛の長男・維盛側室になっている。その反面、平宗盛とは疎遠で、清盛の没後に法皇の近臣として権勢を振う親宗に対し、宗盛が天下の乱れは親宗ら近臣のせいであると本人に向かって直接非難したという[2]

また別の娘は西園寺公経との間に洞院実雄を産んでいる。

家集として『中納言親宗集』がある。また日記として『親宗卿記』を書き遺している。

官歴[編集]

※日付=旧暦

系譜[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 姉言記
  2. ^ 『玉葉』寿永元年3月12日条
  3. ^ 尊卑分脈』では、藤原道隆流・藤原家範女と藤原基隆女の両項に「美福門院女房少将局平親宗母」の記載がある。これについては、家範(1048年生まれ)の娘が美福門院(1117年生まれ)に女房として仕え、親宗(1144年生まれ)を産んだとするのは年代的に合わないため、藤原基隆(1075年生まれ)の娘とするのが妥当と思われる。

参考文献[編集]

  • 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7、99-119頁