飯尾連竜

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飯尾連竜/飯尾致実
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄8年12月20日1566年1月11日
別名 善四郎
官位 豊前
主君 今川義元氏真
氏族 漢族系三善朝臣飯尾氏
父母 父:飯尾乗連
兄弟 松井宗親室、連竜
お田鶴の方
義広?

飯尾 連竜(いいお つらたつ)/ 飯尾 致実(いいお のりざね)は、戦国時代武将今川氏の家臣。遠江国曳馬城主。

駿河飯尾氏の出自は三善氏といわれる。元々室町幕府奉行衆であり、飯尾長連の代に駿河国に下向、以来代々今川氏家臣として仕えた。

永禄3年(1560年桶狭間の戦いにおいて、今川方は遠江国人領主など数多の戦死者を出し支配力を低下させたため、遠江国は混乱状態になった。

永禄5年(1562年)に連竜が織田・徳川方に通じたことを知った今川氏真は曳馬城を攻めた。[1]この時氏真が大いに怒り糾明するために曳馬城を攻めたが利あらずして退いた。[2]改正三河後風土記』では連竜が家康に内通し、病と称して、曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに大いに憤った今川氏真はその真偽を問いただす為に新野親矩とその弟式部之規を大将とした三千人の兵を曳馬城へ差し向けいきなり攻撃したと記されている。[3]しかし城を落すことができず連竜と和睦し一旦退いた。またこの戦いで氏真方の大将の新野親矩や飯尾氏の重臣等が戦死した。[4]『改正三河後風土記』ではその時連竜は少しも恐れず矢炮を飛ばし防戦し新野親矩達を撃退することに成功したが、氏真はますます怒り、朝比奈泰能瀬名親隆とその子瀬名氏範朝比奈秀盛等大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちず、その時連竜は矢文を射出し「某讒者の為に無実の罪を蒙ったために遺恨はなく、一時の急難をのぞかんがために防戦したためまったく異心はなく早く讒者の虚実と糾明して恩免を蒙りすみずみまで二心なく忠勤する」という起請文を出した。寄せ手はそれを受け取り引き返した。

しかし連竜に対する疑念をぬぐいさることができなかった氏真は連竜を駿府に呼び寄せ、永禄8年(1565年)12月、連竜はわずかな供を連れて駿府に入ったため城内の一角で氏真によってあえなく謀殺された。[5]『改正三河後風土記』ではその後氏真に罪を許された連竜は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺されたと記されている。また『武家事紀』では氏真は駿府で連竜に逆心を糺明し、永禄8年(1565年)12月20日に氏真は駿府で連竜を切腹させたとある。(しかし『武家事紀』では連竜の死に関しては複数記されている。)この時連竜は己が屋に立て籠もり兵士を所々に出して力戦、打手の大将の新野親矩をはじめとして多く戦死した。その後連竜は自殺した。また永禄7年(1564年)12月20日に自害したとも記されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 出典:『細江町史』より
  2. ^ 『遠江』『武家事紀』より
  3. ^ 『改正三河後風土記』より
  4. ^ 出典:『細江町史』より
  5. ^ 出典:『細江町史』より

関連項目[編集]