お田鶴の方

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おたづのかた
お田鶴の方
生誕 不明(天文19年?(1550年?))[注釈 1]
死没 永禄11年12月(1568年12月)
記念碑 椿姫観音
別名 椿姫、亀姫(幼名[1]
配偶者 飯尾連龍
子供 辰之助[2]、辰三郎[3]、義廣
父:鵜殿長持小原鎮実[注釈 2]?)
母:今川氏親
親戚 今川義元(伯父)、瑞渓院北条氏康室)(伯母)、今川氏真(従兄妹)、北条氏政(従兄妹)、早川殿(従姉妹(異説あり))、築山殿(母同士が義理の姉妹)など
家族 鵜殿長照(兄)[4]西郡局?(姉妹?)(養女とも。蓮葉院、徳川家康側室)、松平伊忠室(姉妹)

お田鶴の方(おたづのかた)は、戦国時代の女性、飯尾連龍の妻。椿姫とも呼ばれる。曳馬城城主だった夫の死後、第5代曳馬城城主になったという伝説が残っている[5]。お田鶴の方という名前は『蛇塚由来記:落城秘怨史』のみで、『徳川伝記』では飯尾氏の後室ではなく井伊氏の後室と、それ以外の他の史料では飯尾豊前守後室または妻と記されている。父は鵜殿長持[6](『蛇塚由来記:落城秘怨史』では父は小笠原鎮実とも)、母は今川氏親の娘で今川義元の妹[7]または義妹である[1]。母方の祖父は今川氏親、母方の祖母は「尼御台」と言われた寿桂尼で、今川義元は伯父、北条氏康の正室である瑞渓院は伯母、徳川家康の正室築山殿とは今川氏の同族で母同士が義理の姉妹にあたる[1]

生涯[編集]

出自[編集]

江戸中期に編纂された「鵜殿家史」の家系図には三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市)主である鵜殿長持の娘が「飯尾豊前守致実室」と記されており、現在の愛知県の蒲郡市で生まれた[8]

連龍の死[編集]

夫の飯尾連龍は、徳川家康への内通を今川氏真に疑われて殺された。連龍の死に関しては諸説存在する。

永禄3年(1560年)義元死後、連龍は今川氏に背き、徳川氏に心を寄せた。永禄7年(1564年)に連龍は病と称して曳馬城に籠った為、氏真は新野親矩に城を攻めさせたが城中は堅固で親矩は討死にした。その後、永禄8年(1565年)12月に連龍も駿河で討たれ討死にした。(『遠江』)

連龍が今川氏に背き家康に内通し、永禄7年(1564年)に氏真一宮に向かうも利あらずして退いた。これが原因で氏真は駿府において逆心を糺明。永禄8年(1565年)12月20日には氏真は連龍を切腹させた。この時連龍は己が屋に立て籠もり兵士を所々に出して大いに力戦、打手の大将の新野親矩をはじめとして多くの兵が戦死。その後連龍は自殺した(『武家事紀』)。 また『国別城郭』には上記と異なる事が記載されており、永禄7年(1564年)に連龍は岡崎に内通して今川に背いた。これによって氏真は大いに怒り永禄7年(1564年)12月20日に連龍を駿州において自害させたとある。

今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、曳馬城の城主であった井伊直平は氏真と共に出陣し白須賀で陣を敷いていたが、南からの強風が原因で軍勢から出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われた。その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので、白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという評価がなされたため、直平を糾明しようという意見が軍議のなかで出された。それに一同も同意。氏真もその意見に賛成した。直平は火事に関して不慮の事故だと説明するも、氏真は過失の埋め合わせとして、直平に今川氏に背き武田方に従った遠州八城山城城主の天野左衛門尉の鎮圧を命じた。直平が出陣の支度をしていると、お田鶴の方、天野左衛門尉、直平の家老だった天野左衛門尉の縁者は連龍へ反逆を勧め、共に直平に反逆した。永禄6年(1563年)9月18日[9]に直平が出陣する際、お田鶴の方が直平に茶を勧めるが、その茶には毒が入っており、直平の先鋒隊が遠江国領の蔵中瀬村まで達した時、有玉旗屋の宿にて落馬し直平は死亡した。しかし『井伊家伝記』の別の章には連龍が直平に毒薬を進め直平はその毒薬が原因で死亡したとも記されている[10](直平の死は謎が多く、意識不明のまま川名に運ばれ、川名の鎧橋で落馬して死んだ[11]、敵の急襲を受け討死したなど[12]、諸説存在する。この時、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した[11])。 その後、直平の家臣全員が曳馬城へ引き返した所に、連龍は味方の家臣を従えて曳馬城の大手門の警護を固め籠城した。この時直平の家来も毒死。生き残った者の多くは連龍達の味方になった。その後も連龍は氏真にも反逆を企み従わず、永禄11年(1568年)に連龍は曳馬城の城主となるが、後に氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連龍に和談を申し入れ酒宴を催すも、連龍は辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられた。(『井伊家伝記』)

連龍が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に三千人の兵を曳馬城へ差し向け、有無を言わさずにいきなり攻撃するも、連龍は防戦し撃退した。氏真はますます怒り、大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちず、連龍は敵陣に対して矢文で起請文を出し、今川方の寄せ手はそれを受け取り引き返した。その後氏真に罪を許された連龍は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺された。(『改正三河後風土記』)

連龍が織田信長と徳川家康に内通していたことを知った氏真は曳馬城を攻め込むも落とせず、後に氏真の調略を以って和談するも、連龍は永禄8年(1565年)12月に駿府の二の丸の飯尾屋敷に押し詰められ謀殺された。(『浜松御在城記』)

『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』では永禄10年(1567年)に連龍が氏真の猜疑によって殺された(『修身事蹟:婦女必読』では、連龍は氏真と戦い討死とも)と記されている。

武徳編年集成』では上記の史料とは異なり、連龍が家康への内通を疑いを何者かに風説されため、永禄8年(1565年)12月20日に氏真は連龍を駿府城内へ召し寄せ兵士100名に襲わせた。連龍の兵も2、30名の兵で防戦したので、氏真の兵も多く戦死、この時お田鶴の方が無双の強力でしばしば出て奮戦した。これを『駿府の小路の戦い』といったという。また八切止夫の『秘聞 柳生石舟斎』によると「『武徳編年集成』には何者かが連龍は今川の裏切り者であるという風評をしきりに撒き散らしたので、氏真は連龍を駿府城内へ呼び、二の丸にある飯尾の館で遠州から来た連龍夫妻が一服していたところを氏真は兵士100名に襲わせた、この時お田鶴の方は手に滑り止めの粉白粉をつけ薙刀を奮って10名余りの今川方の侍を切り伏せたが、衆寡敵せず連龍と共に首を取られ、二の丸大手門に晒された。」と上記と異なることが記されている。

その後[編集]

『井伊家伝記』には連龍の死が原因で遠州引馬の家人は大いに騒動になり、これによって連龍の家老の江間泰顕と弟の江間時成の流浪は目前になった。時成は徳川氏に、泰顕は兄の一徳を頼り武田氏に内通しようとしたが、泰顕が時成を殺害、泰顕は時成の家来の小野田小次郎に殺害された。『遠江』には家老の時成、泰顕が城を守るも徳川派と武田派に分裂したため二人は争い共に討死したと記されている。『浜松御在城記』には連龍の死後、家臣の時成、泰顕が曳馬城を守るも泰顕は秋山信友を頼り武田氏に、時成は徳川家康に内通しようとした。やがて泰顕が時成を殺害、泰顕は時成の家来の小野田彦右衛門に殺害された。『国別城郭』にはお田鶴の方は曳馬城に立て籠もり飯尾別心無き事を駿府に訴えていたが、連龍の家臣の時成、泰顕は猶岡崎に内通していたと記されている。しかし『改正三河後風土記』にはお田鶴の方は夫が氏真によって謀殺された事に対して憤り、堅固に籠城を決意、城兵を指揮して、小国の武藤刑部丞を頼り武田氏に内通したともある。

連龍の死後、お田鶴の方が曳馬城を守っていたとされる。やがて、永禄11年(1568年)12月に徳川家康が城を攻めた。この時の様子に関しては諸説存在する。

お田鶴の方が防戦の指揮をとり、しばしば突出して、ついには侍女郎従も従って奮闘するも討死にした。(『遠江』)

時成、泰顕と共に城を守っていたが、永禄11年(1568年)12月に落城。お田鶴の方は侍女18人と共に出て力戦するも討死にした。(『武家事紀』)

「浜松合戦、井伊後室敗死」という題で飯尾豊前守後室ではなく井伊豊前守後室となっており(しかし『井伊家伝記』では、これは井伊直平が年老いていたため、出陣の際に連竜が代理人として出陣していたので、井伊豊前守と聞き伝えられていたのだと記されていている)、永禄10年(1567年)に家康が松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、城を明け渡せば妻子共々面倒を見ると言ったが、お田鶴の方は「女性と雖(いえど)も弓馬の家の者」と城を明け渡すのを拒否したため、家康は12月24日に城を攻めたが城兵が突出したため家康軍は敗北、翌未明に家康軍は再度攻め二、三の丸を破るも、家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死した。最期は緋威の鎧を着て長髪が乱れたお田鶴の方と長刀を持った侍女17人が左右に並び門を開けて突戦するも全員討死した。(『徳川伝記』)

家老の泰顕と時成が討たれても次男・辰三郎を介抱していたお田鶴の方は降参する様子を見せなかったため、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り「おとなしく城を明け渡せば給与の扶持米も合力米も渡し妻子共々面倒を見る上に領地も保障する。」と降伏を勧めたが、お田鶴の方は辰三郎を大切に思いなかなか承引せず、城兵300人余りで城の守りを固め、そればかりか過言な返事を返した。そのため家康は城を攻めたが城兵はこれを防ぎ、厳しい鉄砲の打ち掛けあいになった。家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死するも、家康の軍は大軍だったため崩れず、家康の兵は二、三の丸を攻め入った時、お田鶴の方と次男・辰三郎と侍女18人左右に随え城外へ討って出て粉骨を尽くすも全員討死した。(『井伊家伝記』)

飯尾が家臣・時成、泰顕両人の内意で家康が家臣・松下常慶、後藤太郎左衛門両人を使者として派遣し、城を明け渡せば妻子だけでなく家人共々面倒を見ると言って諫めようしたが、お田鶴の方がどうしても応じなかったため、家康が曳馬城を乗っ取る為に酒井忠次石川数正に攻め込ませるが、お田鶴の方が防戦の指揮をして城兵はしばしば突き出て激しく戦い、酒井・石川は大いに敗走、その翌日また酒井・石川が激しく攻め立て、遂に外郭に乗り込まれると、お田鶴の方が緋威の鎧と同じ毛の兜を着て薙刀をふるって敵中に切って入り、また侍女7、8人(『概説静岡県史』では侍女18人)も同じ装いで出て立ち、城兵5、60人と同じく勇戦し男女一人も残らず討死にした。(『改正三河後風土記』『武家名目抄』『東海道五十三次:附・名数雑談』『概説静岡県史』)

緋威の鎧と同色の兜を着て長刀を持って侍女7、8人と同じく出て左右に立った。(『古事類苑』)

永禄11年(1568年)にお田鶴の方が曳馬城に籠もってたので、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、「城を渡されよ、さらは扶持しまいらせ、家の子もすへてよきにはからいなむ」と説得したが、お田鶴の方が応じなかったので家康は曳馬城を攻め込んだ。やがて12月24日の夜、塩市口より切り出て戦ったが家康は数多の軍兵だったため、翌日二、三の丸を破った。しかし家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死、お田鶴の方は侍女18人引き連れ切って出るも一ヶ所で全員討死したと板倉家の記に記されている。しかし、これは時代の違う大河内兵庫助の合戦の事で、実際はお田鶴の方が今川氏の出身なので、二股左衛門の計らいで人質として駿河に行ったのではないかとも記されている。(『遠江国風土記伝』『卑馬拾遺』『浜松御在城記』)

家康が使者を送り「城を致さしめ其邑を全からしめんとす[13]」と城を渡せば亡き夫の領地をそのまま渡すと説得した。しかしお田鶴の方は「妾(わらわ)婦女と雖(いえど)も己に武夫(もののふ)の家に生(はべ)るものなり、おめおめ城を開きて降参するは妾(わらわ)の志にあらず。[14]」と申したため(『修身事蹟 : 婦女必読』ではこのお田鶴の方の申しに対して家康は怒ったとも記されている)、家康は兵を使って城を攻めた。だが城兵は大いに戦い家康の兵は300人討死、城兵も200余り討死した[15]。やがて外郭を破る時、お田鶴の方は鎧を着て髪を垂れ薙刀をふるい侍女17人と共に左右に並び門を開けて突戦するも全員討死した。また『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』で少し異なり髪を被り甲を擐き眉尖刀をふるい縦横に突戦し、向かう所披き靡いたが皆戦死したと記されている。(『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』『修身事蹟 : 婦女必読』)(『修身事蹟 : 婦女必読』では、後に家康は大いにこの事を惜しんだという。)

家康が永禄11年(1568年)12月24日に使者を使って「先さに吾に降り今又今川に属す故に攻むと云へとも城を致さは飯尾豊前守の後室を扶助すへし」と城を渡せばお田鶴の方を扶助するといったが、お田鶴の方が承引しなかったため、12月25日に家康は城を攻めた。この時お田鶴の方は甲冑を着て300人余り従えていたがお田鶴の方含む皆戦死、家康の兵も300人死傷した。(『尾参宝鑑』)

伝説[編集]

椿姫観音に関する伝説ではこうも書かれている。

  • 『家康の愉快な伝説』では、永禄11年(1568年)12月、これまで岡崎城にいた家康は、信長との盟約によって、家康は三州から中山峠を経て遠江に入り、後藤太郎左衛門と松下与右衛門の両人を曳馬城に派遣した。この時、曳馬城の城主である連竜が今川氏の為に謀殺された為、その妻のお田鶴の方が城を守っていた。家康は曳馬城を明け渡すなら一族共々面倒を見ると言ったがお田鶴の方が拒否したため、交渉は不調に終わり、徳川の兵が城を攻めた。この時、気丈夫なお田鶴の方は、緋縅の鎧に同色の兜を被り、長刀を振って城門に立つと、続いて赤い襷に白の鉢巻をし、薙刀を持った侍女18人と勇んだ意気軒昂な数百の城兵達と共に押しよせる徳川の兵に向って打って出て2、3日は敵を追い払ったが、12月24日、城兵は討死し、お田鶴の方も18人の侍女達と共に枕を並べて戦死した。その後、お田鶴の方含む戦死者の遺骸を埋め一杯に椿(つばき)の木を植えた塚を作り、その場所は『椿塚』または『椿屋敷』と言った。それから何年か経った後に椿塚には一面に赤い椿の花が咲いた。椿塚の跡と思われる元浜町にお田鶴の方を祀った『椿姫観音大菩薩』の小祠があり、徳川家を憚ってか祠は大きくはしなかった。また薄命の佳人への惻隠の情か、節操高く生きた憧憬の念か、今も昔も変わらずこの辺りの女性の参拝客が多いという。[16]
  • 『浜松の伝説 上』では、連竜の死後、曳馬城はお田鶴の方が守っていた。お田鶴の方は美しく優しく男勝りの気性だったので、城の侍も町民たちもよく言い付けに従っていた。 その頃、三河には徳川家康がおり、家康は何回も使者を出し、家康は「城を明け渡し、徳川方にしたがってはどうか。もし言う事を聞いたら、たくさんの褒美をとらせよう。」と言って誘ったが、「女と思いあなどりおる。」ときっぱり撥ね付け、聞き入れなかった。やがて、痺れを切らした家康は曳馬城を取り囲んだが。この時、お田鶴の方は甲斐甲斐しく城兵を指揮して戦った。だが家康の大軍相手に、城を支えることができなかった。やがて、覚悟を決めたお田鶴の方は緋縅の鎧に身を固め、薙刀を抱えながら、侍女を引き連れ、敵陣に切り込み攻めよせる敵兵を切り倒し進んだが、多勢に無勢だったため討死した。家康は惜しい女性を殺したと、その後、元浜町にその墓を建てた。後に椿姫観音が建立されその場所はお田鶴の方が住まわれたという椿屋敷の跡だという。[17]

その他[編集]

  • 椿姫という名はその死を哀れんだ築山殿が植えた100本余りの椿の花に由来している[18]
  • このお田鶴の方の戦いを「彼妻去就の是非は論ずるにたらざれども、其志操の節烈は丈夫にもまさりたりと感ぜぬ者なし」とその志操の節烈は丈夫にも勝りたりと感じない者はいなかったと『改正三河後風土記』では記している。大正時代に発行された芳賀矢一の『東海道五十三次:附・名数雑談』でもこのことに関して「天晴(あっぱれ)武士道の意気地(いきじ)。武勇は板額にも劣らず、節操は細川氏夫人にも優(まさ)って居る。」と、『民政史稿.風尚民俗篇』では「巾幗の身を以って、奮戦、節に死したる、飯尾豊前が妻の如きは、最も美とすべきものあり。」とお田鶴の方の武勇と節操の高さを讃えている。
  • 1983年に発行された『浜松凧・屋台:凧の生みの親椿姫観音』という本の「椿姫観音由来記」によると、お田鶴の方は「今川の恩義に最後まで生き、あわれその落城を彩った華麗な若き美丈夫で、侍女18名の方々とともに卑馬野の露に果てた」と最後まで今川の恩義に生きたと記されている。連龍の死後、氏真が「飯尾は度々当家に対し忠節したる者。その家断絶せんは不憫のこと、其の妻に本領安堵せしむ、引間の城に居住すべし。其老臣安藝守同加賀守後見すべし。」と下知したとも記されている。
  • 御台塚、椿姫塚、蛇塚と呼ぶ塚があり、最近観音堂が成立された。永禄11年(1568年)12月、お田鶴の方が徳川家康と戦って、この地で悲壮な最後をとげた。築山殿は「あわれなことよ。」と声をあげて泣き、侍女達と共に西来院の儀翁祐和尚を連れてお田鶴の方の戦死の場所に行き讀経供養を営んでから、塚の周囲に百十株の椿を植え、「この椿ながく年ごとに咲いてたも、願わくばお田鶴どのの未來に榮えあらせ給え、護りませ給え。」と念じた。不思議にも数日後に椿は、紅いゆかりの色と香をこめて微笑むように咲きほころびたという。その後も築山殿は足繁くこの塚に詣でた。ある日、築山殿が塚の前に額づいて、いつまでも泣いているのを付き添っていた松平信康が「泣かで、とく歸らせ給え。」と言った。すると築山殿は「ひとの末路の哀れさを泣く、わらわも和子も、やがて又ひとに哀れを語られる身となるやも知れぬ。さだめがたき人の世ぞ、ひとごとではない、みなわが身の上のことじや。」と諭したというのが元浜町の椿屋敷の由来だという。しかし、『曳馬拾遺』は「この塚かの後室の塚にやあるらん。されど或る記には、これ大河内兵庫の助勢の合戰の事にして、時代も違いたる事なり。殊に味方の手負、死人300もあらば、名ある將の十餘も討死あるべく侍るなり。又乗龍の北の方は今川家のやからなれば、二股左衛門の計らいにて、事濟みにしあれば、人質として駿河にこそあるべく侍れ、若しくは江間安藝の妻などにやあらん。さればこの塚の主誰なりけん。といっている」とこの塚はお田鶴の方の塚ではなく、板倉家記に記された戦いのことは大河内兵庫の助勢の合戰の事で時代も違い、味方の死者が300もあれば名のある将も討死してるだろう、それにお田鶴の方は今川家の一門なれば、二股左衛門の計らいにて、人質として駿河に行ったのではないか、それとも江間泰顕の妻であろうか。この塚の主は誰なのか?といっていると記されている。(『浜松風土記』)
  • 徳川家康が駿府で人質時代の時に一目ぼれした初恋の人とも伝わっており[19]真山青果の「浜松城炎上」では吉良義安の娘で家康の初恋の人として椿の方という名で登場しており、山岡荘八の「徳川家康」では「浜松城炎上」とほぼ同様の設定だが名前は亀姫として登場している。
  • 少年時代の豊臣秀吉の利発さに驚き、自分の養子にしたいと言った[20]
  • 二股左衛門という者の仲立ちによって連龍と結婚した[21]
  • お田鶴の方と連龍の嫡男である義廣の誕生を城主をはじめ城下の人々は一同に祝って、入野村の佐橋甚五郎が連竜の嫡男の名前である義廣と書いた大凧を揚げ、奉祝した。これが基となり、家で嫡男が誕生すると、大凧を揚げ、町をあげてお祝いする風習が生まれたのが浜松祭りの起源であると言われているが、近年では創作であると研究が進んでいる。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 『蛇塚由来記 : 落城秘怨史』には1550年生まれだと記されている。
  2. ^ 『蛇塚由来記:落城秘怨史』では父は小笠原鎮実(小原鎮実)と記されている。

出典[編集]

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  1. ^ a b c 『浜松凧・屋台:凧の生みの親椿姫観音』
  2. ^ 『井伊家伝記』
  3. ^ 『井伊家伝記』
  4. ^ 中日新聞2017年2月19日西三河版より
  5. ^ http://www.ieyasu-net.com/shiseki/detail.html?eid=137198
  6. ^ 中日新聞2017年2月19日西三河版より
  7. ^ 中日新聞2017年2月19日西三河版より
  8. ^ 中日新聞2017年2月19日西三河版より
  9. ^ 『井伊直平公御一代記』
  10. ^ 『井伊家伝記』「8.井保十三代、井伊信濃守直平、遠州引馬の城主に成る事」
  11. ^ a b 出典:戦国未来著『井伊家傳記』より
  12. ^ 『細江町史』
  13. ^ 『民政史稿. 風尙民俗篇』
  14. ^ 『修身事蹟 : 婦女必読』『皇朝金鑑』『風尚民俗篇』
  15. ^ 『民政史稿. 風尙民俗篇』『皇朝金鑑』
  16. ^ http://www.legend-ieyasu.info/detail.php?ID=S109
  17. ^ http://www.legend-ieyasu.info/detail.php?ID=S014
  18. ^ http://www.tabi2ikitai.com/japan/j2202a/a01013.html
  19. ^ https://hellonavi.jp/pamphlet/documents/ieyasu.pdf
  20. ^ 『豊臣秀吉99の謎』
  21. ^ 『戦国美麗姫図鑑』

参考文献[編集]

  1. 山鹿素行著『武家事紀』山鹿素行先生全集刊行会 1673年※国立国会図書館デジタルコレクション ※国立国会図書館デジタルコレクション
  2. 『井伊家伝記』※国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館国文学研究資料館
  3. 『武徳編年集成』 1740年※国文学研究資料館
  4. 『徳川伝記』※国文学研究資料館国文学研究資料館
  5. 内山真竜著『遠江国風土記伝』郁文舎 1799年※国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 成島司直著『改正三河後風土記』(上巻) 金松堂 1886年※国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館デジタルコレクション
  7. 保田安政著『修身事蹟:婦女必読』目黒書店 1891年※国立国会図書館デジタルコレクション
  8. 青山延寿著『皇朝金鑑 巻之53』松陽家塾 1895年※国立国会図書館デジタルコレクション
  9. 『古事類苑』神宮司庁 1896年-1914年※国立国会図書館デジタルコレクション
  10. 『尾参宝鑑』東壁堂ほか 1897年※国立国会図書館デジタルコレクション
  11. 芳賀矢一著『東海道五十三次:附・名数雑談』冨山房 1912年※国立国会図書館デジタルコレクション
  12. 『民政史稿.風尚民俗篇』内務省地方局 1914年※国立国会図書館デジタルコレクション
  13. 会田文彬著『蛇塚由来記:落城秘怨史』中部日本出版社 1926年※国立国会図書館デジタルコレクション
  14. 太田亮著『遠江』磯部甲陽堂 1927年※国立国会図書館デジタルコレクション
  15. 塙保己一著『武家名目抄:甲冑、刀剱、旗幟部 第7巻』 吉川弘文館ほか 1930年
  16. 間処武夫著『概説静岡県史』谷島屋書店 1935年※国立国会図書館デジタルコレクション
  17. 会田文彬著『浜松風土記』浜松出版社 1953年
  18. 『井伊直平公御一代記:三方原戦記:中井家文書』 1971年
  19. 渥美実著『浜松の伝説 上』ひくまの出版 1981年 ※[1]
  20. 山崎源一著『浜松凧・屋台:凧の生みの親椿姫観音』浜松凧揚げ祭保存会 1983年
  21. 御手洗清著『家康の愉快な伝説』遠州伝説研究協会 1983年 ※[2]
  22. 『細江町史 通史編 中』細江町 2000年
  23. 橋場日月著『戦国美麗姫図鑑』 PHP文庫 2009年
  24. 楠戸義昭著『豊臣秀吉99の謎 PHP文庫 2013年
  25. 戦国未来著『井伊家傳記』戦国未来 2016年

外部リンク[編集]