神奈川金属バット両親殺害事件

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神奈川金属バット殺害事件
場所 日本の旗 日本神奈川県川崎市高津区
日付 1980年昭和55年)11月29日
標的 民間人
攻撃手段 金属バット
死亡者 2人
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神奈川金属バット両親殺害事件(かながわきんぞくバットりょうしんさつがいじけん)は、1980年昭和55年)11月29日神奈川県川崎市高津区南部(現:宮前区の一部)に住む2浪目の浪人予備校生(当時20歳)が、両親を金属バットで殴り殺した殺人事件

エリートの父親と母親を金属バットで殴り殺したという話題性から、ノンフィクションテレビドラマの題材となった[1]。まだ教育虐待という言葉もなかった時代であったが、受験戦争を象徴する事件として話題となった。

概要[編集]

予備校生(事件当時)は、父親の社宅があった東京都生まれで(両親は山口県出身)、渋谷区立渋谷小学校から港区立青南小学校[2]に転校し、都立日比谷高校への登竜門とされる港区立青山中学校を経て、私立海城高校を卒業。高校時代の16歳のとき、神奈川県へ引っ越すことになる[1]

予備校生は野球が得意で、母親からは手間のかからない子供と言われていた。父親は東京大学経済学部卒で旭硝子(2018年にAGCに商号変更)東京支店建材担当支店長、厳格な性格で歌を歌うのが趣味だった。兄も事件の前年に早稲田大学を卒業後に上場企業に入社していた。

予備校生は高校入学時から成績が落ち始め、早稲田大学などの受験に失敗し、予備校へ通うが成績は伸びなかった。結局浪人1年目も受験に失敗。父親に大学受験を諦めることを勧められるが、何とか2浪することを許してもらう。だが精神的負担はますます増大し、レコードを買うために父親のキャッシュカードを無断で使用したり、を飲んだりするようになる。

両親の銀婚式が行われた事件前夜にこの行為が両親に見つかり、父親からは「バカ、一人前に大学にも入れないくせにこのざまは何事か。お前のような泥棒を家に置いておくわけにはいかない。お前はクズだ、出て行け!」と叱責され足蹴にされた。それまで味方だった母親もこのときは「あんたはダメな子だ」と冷たくあしらった。その約3時間後に事件が起きた。父親から「明日中に追い出してやる」と言われ、自分の居場所を失ったと感じた予備校生は翌朝未明、酒を大量に飲んだあと金属バットで両親を撲殺した[3]

予備校生は犯行後、強盗の仕業に見せかけるために金属バットや血の付いた衣服を隠すなどの偽装工作を行った後、夜が明けてから警察に通報し「強盗による殺害」と証言した。犯行の翌日に親類からの追及によって犯行を認め、親類から警察に通報され逮捕された[4]。逮捕後は犯行を素直に認め、自ら詳細を供述した。

裁判では、父親の大学時代の同期生であり親友だった河原勢自が私選弁護人に選任された。

1984年昭和59年)4月25日、第一審の横浜地方裁判所川崎支部は、検察の求刑懲役18年に対し、「親類を通じて警察に通報したのは、自首と同じ」などとする弁護人の主張を退け、両親からの叱責が引き金になったのは基本的には被告人の落ち度であり、両親に落ち度があるとはいえないことを認めながら、前科非行歴がないこと、被告人は心神喪失または少なくとも心神耗弱だったとは言えないまでも、精神鑑定の結果から発達障害があり、飲酒によって事理弁識能力を(「著しく」=耗弱ではないが)相当減弱した中での偶発的な犯行であること、逮捕後は素直に自供していること、真摯な反省と後悔の念があること、更生の可能性などを考慮した上で、懲役13年(未決勾留900日算入)の判決を言い渡した[5]。予備校生はこれを温情判決として控訴せず有罪が確定、千葉刑務所に服役。1994年に刑期満了で出所した。

元獄中仲間である見沢知廉の『囚人狂時代』シリーズによると、服役中は、紅白野球大会での言動をきっかけに、「金属バットをフルスイングするあたり、恐そうに見えるけど、話がつまらない」という理由で、別の獄中仲間からひどいいじめを受けていたらしい。それでも看守たちの心証は良かった方だという。

論争[編集]

  • 受験戦争、父や兄への劣等感(学歴コンプレックス)、家庭内でのコミュニケーション不足が原因との主張がある。犯行の動機を「受験勉強に伴う劣等感・精神的維持の限界がもたらした無気力」と主張し、1981年10月の法廷で証言したのは代々木ゼミナール本校の真向いにあるクリニックの女性院長[6]だった。
  • 上記のような問題は全く関係がなく、その他の深刻な問題が絡んでいるとの説もある。田原総一朗は「新事実 金属バット殺人『母子相姦説』を追う」においてこの事件にエディプスコンプレックス母子相姦が絡んでいると指摘している[7]。ルポライターの溝口敦も同様の指摘をしている。田原のレポートは取材スタッフとの対談形式で「これは推測だけど」「ここからは憶測だけど」との断りが頻出しているものであった[8]柳田邦男は田原の論を辻褄合わせと非難し[9]朝倉喬司はこの説を嘘と断定した[10]

題材とした作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 青木信人『醒めない夢 金属バット事件から女子高生監禁殺人事件へ』p.52
  2. ^ 『潮』1981年6月号、p.92、潮出版社
  3. ^ 『毎日新聞』1980年11月29日夕刊11頁「夫婦、惨殺される 顔などメッタ打ち 川崎の住宅街」
  4. ^ 『毎日新聞』1980年12月1日朝刊23頁「川崎の支店長夫婦惨殺 二年浪人二男の犯行 金引き出し叱られた 強盗に義疏」
  5. ^ 『朝日新聞』1984年4月26日朝刊1頁「金属バット殺人 Xに懲役13年 心神耗弱を認めず」
  6. ^ 「晴れやかな陰に病める新成人」朝日新聞、1982年1月15日付
  7. ^ 田原総一朗「新事実 金属バット殺人母子相姦説を追う」『潮』1981年6月号、pp.86-103
  8. ^ 「コラム'81 『噂』のテロリズムについて」『噂の真相』1981年7月号、p.99
  9. ^ 猪瀬直樹「BOOK & MAGAZINE PREVIEW ノンフィクション」『噂の真相』1983年9月号、p.117
  10. ^ 山崎哲、朝倉喬司『犯罪の向う側へ 80年代を代表する事件を読む』洋泉社、1985年、pp.35-38

関連項目[編集]

本事件前後の家庭内殺人事件