迷宮 (同人サークル)

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迷宮(めいきゅう、ラビリンス)は、漫画批評誌『漫画新批評大系』を刊行するとともに、同人誌即売会の『コミックマーケット』、創作同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』創設の母体となったグループ。現在はコミックマーケットからは分離している。ただし、創業者特権でサークル参加での抽選を免除されている(帳簿上は、コミックマーケット創設時に迷宮からの借金でまかない、それが現在でも残っている代償ということになっている)。

概要[編集]

1975年4月創設。亜庭じゅん原田央男(霜月たかなか)、米澤嘉博高宮成河式城京太郎が中心メンバー。関西系の批評集団「構雄会」・同人誌名『漫画ジャーナル』と関東にあった「コミック・プランニング・サービス」・同人誌名『いちゃもん』の中心メンバーが合流して結成された。亜庭、高宮が『漫画ジャーナル』、原田、式城が『いちゃもん』のメンバーであり、米澤は新グループ発足に当たって原田から勧誘されてメンバーとなった。メンバーの大半は大学を卒業し新社会人になっていた。今後もファン活動を続けるかという岐路にあったが、新グループを結成して「延長戦」を戦うことを選択した。「延長戦」は原田がそれまでの活動で培ってきた人脈をフィールドとして始められ、亜庭がゲームを主導する形になっていった。

全員がCOM世代であり、『COM』の自壊を目にしながら不満を口にするだけだった自分たちへの深刻な反省から自らを「運動体」と規定した。[1]まんがファンとしての「自分たちの場所」を作り出すことを目標として、漫画批評誌の発行、新たな形でのイベント創出を2本柱とした。亜庭じゅん が漫画批評誌『漫画新批評大系』の編集責任者、原田央男が同人誌即売会『コミックマーケット』の代表、米澤嘉博は両者のサポートという体制であった。後年原田が代表を辞任した後、米澤がコミックマーケットの二代目代表となり、亜庭は創作同人誌即売会『MGM』を主催した。[2]全活動を一貫していたのは一介のまんがファンでしかないアマチュアに一体何ができるのかという意識だった。[3]

漫画大会批判[編集]

迷宮の活動は先ず言葉を生み出す場所を作ることから始まった。漫画批評誌は亜庭じゅんを主筆とし、山上たつひこの『喜劇新思想大系』に倣い、誌名を『漫画新批評大系』とした。創刊準備号は日本SF大会を模した日本漫画大会に合わせて発行される手はずとなっていた。

ところが、『迷宮』同人の知人が、漫画大会を批判したとの理由で参加を拒否される事件が起こった。批判内容は、漫画大会の警備員に「態度がおーへい」な人物がいたこと、そして「内容がつまらない」と評したことだったが、漫画大会の運営はこの批判に「開催目的にそぐわない意識を持つ者の参加は認められない」「委員の血と汗と涙に対する重大な屈辱」と主張した。

迷宮はこの事件を重く見て、[4]「漫画大会を告発する会」を結成し、[5]大会事務局に説明を求めると共に、漫画大会の内情を告発するレポートを発行した。さらに、抗議に対して黙殺を続ける漫画大会に見切りを付け、主催者を含めた全員が平等であることを原則とする新たなイベントの創出を急務と認識させた。[6][7]

漫画新批評大系の刊行[編集]

『漫画新批評大系』創刊準備号は、自らを「運動体」とする亜庭の『マニア運動体論』をマニフェストとしてメインに据え、原田が萩尾望都研究会『モトのトモ』の主宰であったこともあり、山上と並んで同人に評価の高かった萩尾の『ポーの一族』のパロディ『ポルの一族』も掲載された。それは、パロディもまんがへの有効な批評の一つの形態だとする意識と共に、読者に受け入れられるために内容の硬さを冗談で緩和する目的だったが、「まんがで遊ぶ」ことの提示でもあった。この真面目と冗談の入り交じった誌風は最後まで維持されることになったが、同様の気分はコミックマーケットにも持ち込まれることになった。[8]

青焼きコピーで発行された創刊準備号は漫画大会で約100部が完売し、さらに100人以上の予約購読者を得た。[9]

批評誌を出すに当たって、批評の方法として、先行する世代の批評に見られた既存の価値や概念にまんがを沿わせる手法を排して、「まんがをまんがとして語る」こととし、従来の言葉に頼らない自前の言葉を作っていくことを方針とした。[10]漫画批評誌の主筆として亜庭じゅんは質量ともに並外れた筆力を示すと同時に編集者としての構想力を発揮し『漫画新批評大系』刊行の持続的な原動力となった。夏の創刊準備号に続いて秋の創刊号はほとんど全てのページを一人で埋め、周囲を驚かせたが、グループを結成したその年の冬に第3号まで刊行する爆発的な生産力を示し、更に周囲を驚嘆させた。

亜庭によって書かれた評論自体も他を圧倒した。まんがの歴史的な流れのなかでの作家の意味を示し、その作家の個々のまんがを繊細に読み解きながら作家の作品史を辿ることで浮かび上がる作家の微妙な変化を掬い上げ、作家と作品が身にまとう「スタイル」[11]と、それを読んでいる自分との間で揺れ動くまんがの意識を捉えようとした。意味論にも構造論にも偏らず、まんがの「スタイル」に身をさらす言葉は、読む者にとってまんがを新しく別な目によって再発見する快感を伴った「体験」だった。まんがを読み続けてきた蓄積を基にして日々目の前に現われる「いま」のまんがに寄り添うことで生まれる思考と言葉は、「まんがとはこんな風に読めるのだ」という個人的な切実さを伴ったレポートであり、「まんがとは読むに値するものだ」という読者へのメッセージでもあった。確信を伴ったこのメッセージは、変わっていくまんがを前にして大人の入り口で立ち止まっている読者に強い共感をもって迎えられ、批評誌としての『漫画新批評大系』への支持と信頼に繋がっていった。[12][13][14][15]

亜庭じゅんを中心とした迷宮同人達の言葉は常に「まんがを読む自分とは」という問いを含んでいた。それは後に「ぼくら語り」という揶揄を交えた評語により「世代的自閉」と「他の排除」として批判されることになるが、これらの批判に亜庭じゅんは既に「『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ」[16]と簡潔に答えてしまっている。更には「ニューコミック」を論じて、「戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない」[17]と30年以上の時を隔て、クールジャパンと言われるものを突き抜けてその先にまで届く認識を示している。

亜庭の評論は同人たちに影響を与えるとともに対抗心を抱かせ、米澤は「亜庭じゅん」をもじった「阿島俊」をペンネームとし、原田は後年「アニメ・ジュン」をペンネームとした。[18]亜庭自身もペンネームを使い分け、主に少女まんがを扱う場合は「亜庭じゅん」を、女性の視点から少女マンガを見る場合は「かがみばらひとみ」を、少女まんが以外を批評する場合は「葉月了」を使った。

『漫画新批評大系』の刊行は3期に分かれる。

快調な滑り出しを見せた『漫画新批評大系』の第1期[19]は亜庭の「マニア運動体論」[20]を連載しファン活動の実体を個別に評価・批判しつつ自らの位置の測定と考察を行ない「運動」の今後への展望を探った。並行して萩尾望都を中心とした24年組による少女まんがの変貌を積極的に評価した。第1期の終わりに刊行されたCOM特集号はとりわけ力のこもった号となった。[21][22]

第2期[23]では「戦後少女マ ンガの流れ」[24]を連載し歴史的なパースペクティブのなかで現在の少女まんがを捉えることを試み、個々の作家への評論と合わせて当時少女だけに読まれるものという意識が主流だった少女まんがへの認識を変えることに大きく寄与した。通巻10号では24年組が少女まんがに残した意味とそれを置き去りにしていこうとする少女まんがの現在とを取りあげて衝迫した号となった。[25]少女まんが以外でも「三流エロ劇画」という言葉を最初に使用しその特集を組むことで三流エロ劇画ブームの起点となった。[26]

第3期[27]ではCOM以後のまんがの多様性を「ニューコミック」という概念で提示し、「ニューウェーブ」という言葉の更にその先を見ようとした。[28]他にも当時の新雑誌の刊行ブームのなかで各編集部へのインタビュー特集や、まんがとその映像化との関係について特集を組んだ。

亜庭以外の同人も精力的に評論を掲載し誌面の充実をみたが、同人以外にも外部に寄稿を依頼し、評論では村上知彦有川優中島梓高取英小谷哲川本耕次竹内オサム、コラムでは飯田耕一郎増山法恵、まんが実作では高野文子柴門ふみたむろ未知吉田あかりが寄稿した。編集者の途に進んだ迷宮周辺のサポーターとして佐川俊彦(JUNE)、中原研一(コミックアゲイン)、赤田祐一(QuickJapan)等がいる。大塚英志も大塚エージというペンネームで読者投稿を行なっている。『漫画新批評大系』本誌以外の叢書として『萩尾望都に愛をこめて』、『ときめき』(千明初美作品集)、『シングル・ピジョン』(さべあのま作品集)を刊行した。

『漫画新批評大系』は時々のまんがの情勢をムーブメントとして捉えることを特徴とした。ファン活動も頻繁に紙面に取りあげ、コミックマーケットの開催と絡みながら、COMの総括、同人誌特集や同人誌作家の作品掲載を行いファン活動の活発化と意義の形成に力を尽くした。部数は最盛期は2000部近くに達した。当時としては破格の部数であった。

1981年のvol.15を最後に『漫画新批評大系』の刊行は中断したが、7年間の刊行期間を通じてまんがの「いま」を言葉で提示することにより、読者にとって単なる批評誌であることを越えてまんがのジャーナリズムを形成する拠点であり続けた。[29]

コミックマーケットの開始[編集]

『漫画新批評大系』創刊準備号の漫画大会での成功や、これまでに培った人脈をテコに、迷宮は新たなイベントの実現に動いた。これがコミックマーケットである。同人誌即売を一つのイベントとして開催するのは、初めての試みだった。[30][31]コミックマーケットの主催は参加するサークルが構成する「コミックマーケット準備委員会」ということになってはいたが、実質は迷宮そのものだった。[32][33]

全国の漫画研究会に参加を求めるダイレクトメールを送り、友人知人にも呼びかけ、ようやく32サークルの参加を確保。1975年12月21日、原田央男を代表として第1回のコミックマーケットが開催された。[34][35]原田はささやかに始まったコミックマーケットの継続に意を砕き、1979年のC12までの代表を務めコミックマーケットの基礎固めを行った。原田が代表であった期間は規模が小さいこともあり、マーケットという形はとりながらも一面では高揚するコミューンの気分も溢れていた。[36][37][38]原田はコミックマーケットはあくまでサークルの自由な総意として開催されるという原則を崩さなかった。[39]サークルを「企画参加者」、一般入場者を「一般参加者」と呼び、それにサークルの総意を代表する主催者及びボランティアスタッフを加えて、コミックマーケット全体が立場を超えた平等な「参加者」で構成されるとした、コミックマーケットのデフォルト意識である全てが参加者だとする「総参加者主義」は原田時代に作られた。事前集会を行い、会場の準備や撤収は参加者が自然にボランティア参加し、閉会時にはサークルとともに反省会 を開き、毎回レポートを発行、経費も公開した。自主性を重んじた「自分たちの場所」として参加サークルの一体感の維持を計ったが、次第に二次創作とファンクラブの無際限な増加による規模の拡大に違和感を覚え、周囲からの慰留の声を振り切って代表を辞任するに至った。[40][41]原田時代に固められた、総参加者主義、非営利、ボランティアスタッフ、参加サークルの無選別、事前集会、毎回のレポートといった基本フォーマットはそのまま次代に引き継がれていった。

コミックマーケットとMGM[編集]

原田が代表を辞任した直後のC13は代表不在のまま開催された[42][43]。C14から二代目の代表には米澤嘉博が就任し2006年に死没するまで一貫して代表を務めた。米澤が新代表に就任する前後から拡大する規模に対して運営の改善が追いつかず、同人誌の即売会という機能そのものが危うくなっていた。[44]これに対応するために規制を強化して運営の効率化を図るべきだという意見と、現状の自由なやりとりを残しながら運営の改善を行おうという 意見が対立し、表面化するようになった。亜庭じゅんは対立が決定的になる前に方針を示すことを米澤に促していたが、米澤は積極的な収拾を行わず曖昧な態度に終始した。[45][46]運営の限界と内部対立を抱えながらコミックマーケットは何時崩壊してもおかしくないバランスのなかでかろうじて維持されていた。[47]1980年には、亜庭じゅんが「代表」という開催者を置かない形で、創作漫画専門の同人誌即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完を目的として開催を始めたが、[48][49][50]コミックマーケットとまんが・ミニ・マーケットとが補完関係を保っていた時期は短かった。それはコミックマーケットが川崎市民プラザで開催されていた1980年春から1981年春にかけての一年間にすぎなかった。1981年夏から秋にかけて に規制強化派によるクーデター騒動が起った。米澤は一時は引退まで考えたが代表の継続を選択した。[51]結局コミックマーケットは二つに分裂し、規制強化派はコミックマーケットから分かれることになった。亜庭じゅんは、以前から準備会内部で顕在化していた不満を放置することで分裂騒動を起こし、結果的にせよ「昨日までの仲間を切り捨てる」ことになった米澤の行動を厳しく批判した。[52]米澤からの反論は遂になかった。

会場を晴海に移した米澤は1982年夏のC21で「コミケットマニュアル」を作り、「準備会」を運営組織としてサークルから分離し独立した主催主体とした。原田時代の総参加者主義を「理念」として掲げ、サークルから切り離された主催主体として参加者の一員となった「準備会」は、開催の責任は負いつつコミケットの生み出すものについては関知しない立場を明確にした。それは迷宮が掲げた「運動体」であることの放棄でもあった[53]。この時点で米澤の迷宮の一員としての立場とコミケット代表という立場も分離され、迷宮はコミケットの運営から消えることになった。[54]晴海に落ち着いてからの米澤コミケットは、まんが以外の表現に関わるものも全てを受け入れながら急激に膨張を重ね、次第に「おたくの祭り」の色を濃くしていった[55][56][57]

さらに1984年には法人組織の「株式会社コミケット」(のちに有限会社特例有限会社に)を設立し、「準備会」とは別に法人組織を設立することで原田時代の「非営利」もまた曖昧なものになった[58][59][60][61]

まんが・ミニ・マーケットは1981年MGMと改称、82年春のMGM8からコミックマーケットと入れ替わるように都内の産業会館から川崎市民プラザに会場を移した。[62]晴海でのコミックマーケットのなし崩しの変質に対応し、補完の立場を離れた一個の独立した即売会として迷宮主催で開催を続けた。原田時代の「運動体としての迷宮」はコミケットから消え、MGMが単独で引き受ける形になった[63][64][53]。膨張し続けるコミックマーケットは「マーケット」であることに重点を置かざるを得なくなり、フラットな市場を維持し続けることが至上課題になっていった。参加の希望をすべて受け入れることの結果として、現状を追認しながら市場としてどこまで拡大していけるかというコミックマーケットの路線に対して、MGMは即売会の主体が「創作同人誌」であることに重点を置き、代表という立場の主催者を置かず、「即売会は単なるイベントではなく、作品が生まれる場であり、共に伸びていく場だ」という認識を基本とした。そのための「お祭り」ではない創作のための「日常的」な場所として隔月の開催を実践した。コミックマーケットの「プロもアマも」という姿勢に対して、「プロでもなくアマでもなく」第三の場としての即売会を目標とした[65][66]。亜庭じゅんも「MGMスタッフ」を名のり、スタッフの一員である立場をとり続けた。[67][68]

MGM開催毎に発行するMGM新聞[69]とともに、お茶の水駅前の喫茶『丘』で定期的に開くMGM集会を、スタッフ、サークル間のコミュニケーションの場とした。当時各地に生まれていた即売会とも連絡を取り合い、特に名古屋の『グループ・ドガ[70]』が主宰する『コミック・カーニバル(略称コミカ)』、松山の『まんがせえる(略称せえる)[71]』との連携を重視した。[72][73][74]『コミカ』はMGMよりもなお厳密に「創作」にこだわり、『まんがせえる』はコミケットやMGMから既に失われてしまった「みんなで作る即売会」を実践していた。お互いの即売会に自分の即売会に参加した同人誌を持ち込み紹介しあうことで即売会と同人誌の濃度と質の向上を目指した。[75][76]それらの即売会が相次いで終了した後も、[77][78]規模の拡大に足をとられることを拒否し、単純に市場であることよりも同人誌がやりとりされる場としてのありかたを模索しつつ開催を続けた。即売会と同人誌のメディアとしての可能性とコミュニケーションの方法を様々な試みで実験し、「フォー・レディース」(運営・参加サークル女性限定)、「アダルト・オンリー」(一定年齢以上のサークルのみ)、「イン・パーソン」(個人誌・二人誌限定)、「ザ・ギャラリー」(原画展示併設が必要)、「オフセット・オフ」(オフセット印刷の参加不可)、「ア・ロング・ロング・ストーリー」(50枚以上の長編限定)、「とんでもねえ本大会」(形態や内容がとんでもない本)を、通常のMGM開催の間を縫って特別版として企画・開催し、主催する側とサークルとの間に信頼さえあれば、即売会の形はどのようにでも変化できることをアピールしながら参加サークルに刺激を与え続けた。

80年代後半から90年代にかけて、コミックマーケットが晴海で起こした同人誌バブル[79]にMGMも無縁ではなかった。会場の容量を超えた参加希望を捌ききれず、長机一つに3サークルを割り当てる荒技を使っても会場から溢れるサークルの参加を断るケースが相次ぐ事態を迎えたが、規模を拡大することで起こる即売会の変質を拒み、MGMは会場を移そうとはせず頑強にそこに留まり続けた。[80]会場を移しながら膨張を続ける米澤コミケットに対して、頑なに一点に留まろうとした亜庭MGMは鮮やかな対照を見せたが、それは同人誌バブルに押し流されない「定点」であろうとする強い意志だった。[81]

MGMから溢れるサークルを吸収しつつ徐々に参加サークルを増やし、MGMの模倣から始まったと自称するコミティアが 「日本最大の創作同人誌即売会」を標榜しコミケットの後を追って規模を拡大していく路線を鮮明にしたが、[82]それに対してもMGMは動くことのない定点に留まることを選んだ。

やがて同人誌バブルは抵抗し続けるMGMだけをその場に残して他に移り、MGMは同人誌の波と無縁の場所として存続した。波が去ったあとのMGMには固いコアだけが残り自律的な変化を起こす芽の多くは波とともに流されていった。バブルは常態となり、常態となることによる同人誌そのものの変容と即売会への意識が溶解していく過程のなかで、[83]次第にMGMは縮小の道を辿った。縮小の道を辿りつつも参加サークルとともに粘り強く開催を続けた。その後、即売会自体が全体としてゆるやかな創作サークルであるような形態を取るに至り、即売会のありかたの一方の典型を示すことになった。コミックマーケットに次ぐ歴史を持ち、その歴史を通じて創作系同人誌にとって、コミックマーケットの喧噪とは違った穏やかな「顔の見える」即売会として長く貴重な存在だった。[84]会場としていた川崎市中小企業婦人会館が閉館となり、開催は2007年3月の97回を最後に中断した。[85]

一方のコミックマーケットは規模の拡大の限界に行き着き、身動きできない状態の中で、参加希望するサークルを抽選で振り分け、更には表現の自主規制を行なわざるを得ない事態を迎えている。両方の実験はそれぞれ明快な答えが出せるものではないが、同人誌即売会のあり方をそれぞれの方法で模索することは「運動体」としての迷宮の必然だった。

原田コミケットから米澤コミケットへと連続してコミケットは続いたように見えるが、実際は代表の交替による断絶があった。原田の辞任後に開かれたC13の代表不在はその断絶を示している。この断絶を経て原田コミケットは米澤コミケットと亜庭MGMの二つの即売会に枝分かれした。それは枝分かれすることによって原田の時代に胚胎した矛盾を分解し、それぞれが一方を引き受けるための「迷宮のケジメ」[86]としての結果だった。米澤コミケットは1980年から2006年、亜庭MGMは1980年から2007年、誤差はあるもののほとんどピタリと重なるこの期間の間、グループとしての実体を失った『迷宮』は二つの即売会が作り出す距離の間を浮遊する見えない「潜在意識」として存在し続けた。この潜在意識は同人誌即売会の意味を問い続け、結果として二つの即売会は、二十数年の間お互いの周囲を巡る連星軌道を描き続けることになった。[87]

その後[編集]

迷宮のグループとしての実質的な活動は『漫画新批評大系』の発行とコミックマーケットの開催が両輪として噛み合っていた1975年から1980年までの期間と見ることができる。その6年間の活動で、まんがを語る言葉を作り出しながらCOM以後のまんがの流れを集約し、同人誌即売会というまんがファンのメディアを生み出すことにより「COM後」のファン活動の内容を決定的に変え、それを80年代以後に繋いだ。全員が全速力で走り続けた「奇跡の6年間」だった。

原田央男はコミックマーケット初代代表の辞任後、アニメ評論家に転身しまんがとの関わりを絶ち、亜庭じゅんは『漫画新批評大系』の休刊後、コミックマーケットと距離を置きながらMGMの開催を続けた。高宮成河は関西の同人グループ・チャンネルゼロから村上知彦、峯正澄らと『漫金超・まんがゴールデンスーパーデラックス』を5号まで刊行し以後沈黙を守った。米澤嘉博は漫画評論家としての活動とともに、コミックマーケットの代表を死の直前まで務めた。コミックマーケットの開催ごとに用意される『迷宮』のスペースは、若くて貧乏で無名だった彼らの「運動」の小さな記念碑でもある。

2006年10月に米澤嘉博が死去し、通夜には原田央男が駆けつけた。四半世紀を越す時間を隔てた無言の再会となった。翌日の葬儀では亜庭じゅんが米澤の棺を担いだ。既に予定されていた5ヶ月後のMGM97以後、亜庭じゅんによってMGMが開催されることはなかった。そして、コミックマーケットは市川孝一筆谷芳行安田かほるによる共同代表制に移行した。

2008年12月霜月たかなか(原田央男)による『コミックマーケット創世記』が上梓された。米澤没後に無責任な放言が跋扈することに危惧を持ち正確な記録を残すことを目的とした。記録の正確を期すために当時の関係者一同を招いた「記録集会」を2007年から2008年にかけて本郷の更新館にて4回に渡って開いた。4回ともに徹夜の集会となった。「記録集会」にはオブザーバーとしてCOMの元編集者も招かれた。

米澤の没後4年を経た2010年10月23日に、米澤嘉博記念図書館にて「コミックマーケットの源流」展の関連イベントとして行われたトークショー「コミケ誕生打ち明け話」に亜庭じゅん、原田央男、高宮成河の三人が出席した。[88][89]迷宮として公開の場に顔を揃えるのは30年ぶりのことだった。会場には三人に並んで米澤の席も設けられていた。世話人を務めた森川嘉一郎Twitterで「ほとんど宿命のようなトークショー」と記した。[90][91][92][93]

トークショーから三ヶ月後の2011年1月21日には亜庭じゅんが鬼籍に入った。没後三ヶ月経った4月24日、亜庭じゅんを偲ぶ会が、迷宮'11と亜庭夫人との共催で、東京・山の上ホテルで開かれ、多くの友人知己が集まって故人を偲んだ。会の前半の受付は米澤英子と安田かほるが務めた。

2012年1月22日に、板橋産業連合会館[94]に会場を移し、亜庭じゅんと共にMGMを支えてきた長谷川秀樹と往時のスタッフによってMGM98が開催された。[95]

亜庭じゅん没後一周忌を期して高宮成河・原田央男編集による亜庭じゅん遺稿集・『亜庭じゅん大全』が、30年ぶりの『漫画新批評大系』vol.16として刊行された。表紙カバーを亜庭が「一番好きなまんが家」と言っていた樹村みのりのイラストが飾り、村上知彦と原田央男がそれぞれに亜庭じゅんの「言葉」と「同人誌即売会」への評言を寄せた遺稿集はA5判2段組み・800ページを越える大冊となった。2011年冬のコミケットで部数限定で先行発売したが、2012年1月22日、一周忌の翌日のMGM98が正式の発売日とされた。[96][97]

2013年1月27日100回目のMGMが開催された。その事後集会で迷宮主催とする即売会はこれを最後とすると宣言され、亜庭じゅんのMGMは完結することになった。続いてMGMの古くからのスタッフである壬生頼之によって新しい同人誌即売会をMGM2.0として起動することが参加サークルの賛同によって決定した。MGM100のカタログには長谷川英樹、亜庭夫人の挨拶と共に、亜庭じゅんのコミケット17での発言の採録、高宮成河と原田央男の原稿も掲載され、亜庭MGMの最後を締めくくるカタログとなった[98][99]。迷宮の手を離れた「MGM2.0」は、初回となるMGM2.01[100]9月8日に開催され、以降も存続している。

補遺[編集]

  • 実際の活動では、同人誌の発行年下2桁をサークル名の末尾に付けている。たとえば、2005年のコミックマーケット68・69に参加した時は「迷宮'05」。しかし、2009年の77では「迷宮109(メイキュウイチマルキュウ)」の誤った名で参加する椿事が有った。
  • 初期のコミックマーケットでは、迷宮で描かれたキャラクターがそのままマスコットの扱いを受けていた。しかし、運営の分離と共に使われなくなったものと思われる。
  • 迷宮の同人は、複数のペンネームを使い分けていた。これは、いかにも大人数が寄稿しているように見せかけるためであったとされる。
  • 「コミックマーケット準備委員会」は即売会の開催ごとに結成・解散されることを前提としていた。これは日本SF大会の採っている方法と同じであるが、実は白土三平の描く忍者組織をイメージしていたらしい。

脚注[編集]

  1. ^ 「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?/答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。/そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんとう皮肉だろう。」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『東京人no.341』(東京出版 2014年7月3日)37P
  2. ^ 「『迷宮』の結成、漫画新批評体系の刊行とコミックマーケットの開催は、COMの崩壊後、自分たちで始めた『ぼくらの延長戦』だったが、亜庭じゅんは、『MGM』で更にその先を一人で戦い続けた。」高宮成河「後記」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)830P
  3. ^ 「正確にいえば僕らが作ったのはサークルでもクラブでもない。そこに集まって運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心になることを目指すことがその活動となる。そこまでいってしまうとさすがに建前になるかもしれないが、とにかく会員制ではなく、そのかわり活動の責任を負う構成員として僕や亜庭じゅん、米やんなどがいたのだということをわかってもらえればと思う。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)117P
  4. ^ 「迷宮が対しようとしていたのは、スポ根や学園ラブコメに堕ちた商業誌マンガであり、旧態依然のマンガ評論であり、BNF(ビッグネームファン)など自閉した遊びに堕ちていったマンガファンダムであり、また『COM』の幻想に引きずられているファンたちであり、何も考えていない新興の若い世代だった。全てを解体した上で、混迷の状況の中に新たなマンガ状況を創り出して行くこと。その中には漫画大会や、コレクターたち中心のマンフェスへの決別の意志も含まれていた。そして、そうした中で、状況に検討を加え、新たな芽を育てていくこと。/そこに持ち込まれた漫画大会拒否事件は、早急に手をつけなければいけない問題でもあったのである。」米澤嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(株式会社コミケット 2005年7月25日)27P
  5. ^ 「『迷宮』の結束がすごく固まったのは共通の敵が生まれたことで、それが漫画大会でした。以前からボランティアの警備係が官僚的というか、虎の威を借る狐というか、サングラスをして威張って非常に感じが悪かった。主催者の側はまあ任せるよって程度だったと思うんですけれど、そいつに象徴されるようなお役人的な雰囲気があって、それに対する反発があったんです。そこにきて参加者を拒否するって事件が起きたんです。石川妙子なんですが、参加申込書の隅にその警備係や漫画大会への批判的なことを書いたんです。そうしたら主催者の側から参加を拒否しますって書状が届いたんですね。それで当時私が恋人だったもんですから、私のところにこんなことされちゃいましたって同封されてきて、それを『迷宮』の集会で見せたんです。そうしたら、みんな盛り上がっちゃって『漫画大会を告発する会』を立ち上げて。」色城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
  6. ^ 「が然、集会は騒がしくなっていった。その頃、迷宮の集会はもっぱら、新宿丸井の屋上のテラスで行われていた。イスと机があり、冷水飲み放題(う〜ん、貧乏)という嬉しさ、そのうえ何時間ねばっても追い出されないというよさがあった。なんと、この『マルイ』テラスの集会は、同年(1975)9月から『コミケット定例企画集会』として毎週日曜開かれるようにさえなっていた。/迷宮から派生する形で『漫画大会を告発する会』が結成されたのは7月のことだ。更にそれは、迷宮の活動の場を再考させることでもあった。/もともと、読者状況の変革を目指していた迷宮の中には、恒常的なマンガフアンのための『場』の構築と発想があった。要するに同人誌のための場であるコミッ クマーケットのことだ。それが、この年の夏から動き出し、12月には第一回という早い実現に至ったのは、対漫大という状況があったからだろう。『漫画新批評大系』『コミックマーケット』『漫画大会を告発する会』は三身一体だったのだ。」米澤嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)143P
  7. ^ 「そして成果の面から見れば『漫画大会を告発する会』の活動は不毛であったとも思われるかもしれないが、実はこの活動を通じて『迷宮』は『漫画大会』に代わるまんがファンみずからの手になるイベントを模索せざるをえなくなり、将来の課題と考えていた『コミックマーケット』の実現に向けて大きく一歩を踏み出すことになるのである。亜庭じゅんの言葉を借りればそれは『反“漫画大会”でコミケットができたわけではない。ただあのころの大手サークルはどこもかしこも(プロ作家、役員、参加者の順に並ぶ)ピラミッドになっていたから、そんなヒエラルキーのできるイベントにはしたくな』かったということになる。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)129P
  8. ^ 「主催の迷宮が購買層の拡大を狙って始めた『ポルの一族』をはじめとするパロディが圧倒的支持を受ける。ここに、ファン、マニア間でのみ成立する、同人誌固有の『表現』としてのパロディが、コミケットの大きな流れのひとつになってしまったのだ。また、七〇年頃の創作マンガの流れが勢いをなくしていたこともあって、青春物や実験マンガといった物が、時代のなかで衰退していきつつあったことも、コミケットが当初描いた未来を大きく変えてしまったのかもしれない。」米澤嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)418P
  9. ^ 「パロディ『ポルの一族』、評論と硬軟から迫った為か一冊作るのに20分もかかるぶ厚い青コピー誌『漫画新批評大系』はかなり売れ、それがコミケットの資金源となった。」米澤嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)144P
  10. ^ 「まんが批評にとって、もっとも問題になるのは、まさしく、まんがをまんがとして論理化していく方法である。それはいいかえればまんがとは何かを常に衝迫する問いとして、まんがと対していくことなのだ。具体的に、それは絵やデティール、スタイルという言葉で語られている。だが、そうしたものは、必ずしもまんが家個人の個性だけによるものではない。まんがというメディアが持つ拡がり、在り方、連載という一事だけでも大きな要因をなしている中で、自身の価値の体系を組み上げていくことになる。他のジャンルで持っている批評の現実的な力を、まんがは一切持っていない。方法も、基準も、論点すらも、まんがにはない。『作品』『作家』という分析概念すら定かではないのだ。そうしたものを語りたい、知りたいとすれば、ゼロからでも無理矢理始めるしかない。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
  11. ^ 「『かく』と『よむ』を介在する『物語』こそ、その超えるための武器となるべきであって、現実への肉迫が『かく』ことの意味ではない。そしてまんがとは、何よりも、『かくこと』自身が『物語』を宿しているといった幸福な様式なのだ。/まんがをかく、とは、作品をかくことに限らない。一つのカット、一つの似顔絵ですら、それはマンガである。それは、そうしたカット、落書きの中にすら、何らかのスタイルは存在するからであり、そうしたスタイルは、現実へかけられた変形の力だからである。絵画がその第一歩から『目に見えるもの』の構成へと向かい、現実を『見えるもの』の断面へと、色、形態、量へと還元しようとするのに対し、マンガは、概念としてのことばから出発する。ことばに変形を加え一つのスタイルに閉じこめて、提出する作業が、マンガをかくということなのだ。」「メッセージの媒体としての辞書的なことばとは、ある意味で、現実を統括する目に見えない網の目である。常識であり、処世術であり、実型化された思考であり、そういうものとして支配する。『物語』とは、この無意識の網の目を打ち破る想像力のくさびなのだ。それはあくまで『語り口』=スタイルであって、語られる話ではない。」亜庭じゅん「結論 チェックメイトCOM―街にチェシャー猫を解き放て―」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
  12. ^ 「発表される作品にぴったり並走しながら、いま、ここで、それが描かれ、読まれる意味を問いかける。それこそが亜庭じゅんの方法だった。」「現在のように、まんがや作家や編集者をめぐる情報や知識が整備されていない時代、客観的資料も少なく、ましてや勝手な読み解きではなく作品や作家にきちんと向き合った信頼に足る評論など、存在しないも同然の時代に、徒手空拳でそれに挑んだ。その意味では、本人の意図したことかどうかはともかく、必ずしも既成の評論や従来の定説を批判しようとしたのではなく、むしろいきなり定説になろうとした、といっていいかもしれない。」「亜庭じゅんの批評に特徴的なのは、『かくこと』と『よむこと』のせめぎあいから、状況と作品を語ろうとすることだ。つまり状況論であっても、状況を外在するものとしてではなく、内在するもの、あるいは読者の内面の外化というふうに捉えているように見える。」「こういうふうに、自己を語るようにまんがを語り得た時代があったのだということ。作品を対象として、突き放して腑分けするのでなく、作品とともに生きること。そのように志したとき、批評というその目は時に、まるで自分自身を問いつめ糾弾するかのように、厳しく、執拗になる。」村上知彦「亜庭じゅん、お前は誰だ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)469P/470P/471P/472P
  13. ^ 「一九六〇〜七〇年代の学生運動時代をリアルタイムで生きてきた私世代にとっては、亜庭さんの文章は、その延長線上にあるように感じられたし……」「まったくもって熱心な読者ではなかった私自身、実は誰にも負けないぐらいに、『漫画新批評大系』主筆の亜庭じゅんさんを意識してたってこと。『漫画大会』へのアンチとして『漫画新批評大系』と『コミックマーケット』が産まれたように、私の中ではアンチ『漫画新批評大系』、アンチ『亜庭じゅん』がエネルギー源になってきたんですよね。ずっと。だって『造反有理』世代なんだもん。」「これから読みますよ亜庭さん。さあ、二千円持って『亜庭じゅん大全』買いにいくぞー!!!」藤本孝人「37年後の言い訳。または、当時何故私は亜庭じゅん氏の評論を読まなかったのか。」『漫画の手帖B録04』(漫画の手帖事務局 2012年1月22日)
  14. ^ 「私の理解では、亜庭さんの魅力は文章。運動系にありがちといわれればそういう文体なんですが、煽る文章でとにかくカッコイイ。亜庭さんについて知らない人に対して「当時のおたく界一のモテ(特に批評系男子)」と私は説明しています。私はほぼ接点がないにも関わらず2回ほどお目にかかる機会を得ました。なんとも魅力的な雰囲気の方で、自分の説明がまちがっていなかったと確信がもてました。/亜庭さんの影響は1970年代末以降のまんが批評のいたるところに認められます。けれども今となってはそれを追うことはほとんどできません。ここからは私の妄想も入ってくるのだけど、私が仮に1980年代前半にまんが批評の単行本の企画を持っている編集者だったら、亜庭さんにほぼ1番に依頼したと思います。1980年代前半までにコミケット参加世代が主体となったまんが批評本が何冊か刊行されました。まだ数人しかまんが批評の本を出していない時代です。亜庭さんはその数人に入ってもおかしくないどころか当然の存在だったと思います。」白峰彩子「亜庭じゅんさんについて」『備忘録』閲覧日2014年4月7日
  15. ^ 「それにしても今回ようやくわかってきたというか、色んな方に昔の話を聞いていると、迷宮の漫画批評家の論客といえば断トツで亜庭さんなんですよね。みんな絶対口にする」ばるぼら「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
  16. ^ 「村上知彦のいう『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ。それはまんがにどれだけの夢を背負わせ得るかを自問する意志の共有であり、世代とは無縁のことだ。『黄昏通信』は、そうした意志がそれだけで自立し得た時代の終わりを告げると同時に、それでもなお、その意志を生き延びさせようとする現実的な態度表明なのである。村上知彦は、世代の共有世界の崩壊を知った上で、たとえ一人きりでも『ぼくら』を背負う気でいる。その回路こそ、まんがを読むことだ。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
  17. ^ 「あえて『思想』という。それは彼らの価値体系の用語だからだ。ぼくらの『思想』としてのまんがを突き出す時、ぼくらは、初めてぼくら自身を取り巻く日常と正面から向き合う場にたつ。/では、まんがの思想とはなにか? 『少年』『少女』であることの全面肯定である。現実を知る以前にまんがが示した世界との全的関わりの断固たる希求である。実際のガキ時代がどうあったかは全くどうでもいい。一旦、現実を知った上で、価値として対象化された『少年・少女』をまんがは肯定し抜くのである。幼児退行症、ガキ願望等の矮小化に耳を貸す必要はない。それあればこそ、ぼくらは日常を常に越えようとしてきたのだからだ。一瞬とはいえ、ぼくらはまんがによって全世界の存在を知ったのであり、変容し操作し得るものとして、それを自己のものにしたのだ。この体験こそ、文学、映画を知っても、ぼくらがなおまんがと結びつこうとした理由である。正義感や、感傷的なやさしさ、そして、残酷なまでの世界のもてあそび、/――かつてまんがにかかれたことのすべてを、ぼくらは今、思想の名において受けとめ、精錬すべき時にいる。戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない。/70年代、まんがは日常化の底で、思想として徐々に目覚めてきたのだ。自己肯定に達した少年、世界を遊び場としてかしづかせた少女、それらが世代の枠をこえて得た数百万の読者こそ、その証左となるだろう。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)328P
  18. ^ 「評論において当時の亜庭じゅんのそれは周囲への圧倒的な影響力を持っていたし、『迷宮』がまんが批評集団であることへの信頼は、彼が一身に背負っていたといってもいい。だからこそ亜庭じゅん調の評論を自分にも書けると僕や米やんが言い張った時に、米やんは『阿島俊』を名乗り、僕は『アニメ・ジュン』を名乗るということもあったくらいで、3人それぞれの対抗意識のバランスがうまくとれていたからこそ、『迷宮』の維持存続が可能であったのだろう。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)152P
  19. ^ 『漫画新批評大系』第1期 通巻1号「特集・萩尾望都プチ ア・ラ・カルト」(1975年7月26日) 通巻2号「特集・水野英子NO RETURN?」(1975年11月28日) 通巻3号「特集・パロディの地平から」(1975年12月20日) 通巻4号「特集・少年マンガエレジー」(1976年7月25日) 通巻5号「特集・少女マンガの光と影」(1976年12月19日) 通巻6号「特集・チェックメイトCOM」(1977年4月10日)
  20. ^ 「『マニア運動体論』六回の連載はコミックマーケットの開始と並行していた。『序説』と『第一回』が書かれた時点ではコミックマーケットは構想のみ存在し、姿を見せておらず、続く四回の連載はようやくコミケットが安定していく過程に重なる。『マニア運動体論』は暗中模索で走りだしたコミケットの初期、迷宮=コミケットの共通認識として機能した。亜庭じゅんは殆んど徒手空拳の状況でこの連載を書いた」「マニア運動体論 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)477P
  21. ^ 「『迷宮』が次なるステップへと向かうための一つの区切りをつける号であった。だからこそここで、自分たちがまんがファン活動を行う原点となった『COM』を改めて見直しておくことは意味がある。僕などはそう考えたのに違いないのだが、特集巻頭の『朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説』で亜庭じゅんは、『COMを今問題にしなければならないというのも、COMがぼくらのマンガへの関わりの原点などだからではなく、無意識にCOMに原点を求めてしまうぼくら自信の弱さを拒否しなければなにも始められないからである』とそれを一蹴。加えてもう一遍の『結論 チェックメイト!!COM 〜街にチェシャ猫を解き放て〜』において、『COM』をまんがそのものと重ね合わせたうえで、COMを越える可能性に言及している。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)164P
  22. ^ 「COMはその活動の起点である故に一度は正面から総括しておく必要があった。記憶の彼方に消えていこうとするCOMを曖昧なままにしておくことは自己欺瞞でもあった。COMに幻を見ていた自分自身を含む世代の不様を書いた痛切な言葉の連なりは、伝説と化そうとしていたCOMへの単純な懐旧の言や賛辞が多い中で、COMが読者にとって持った意味を率直に伝える数少ない文章でもある。」「朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)546P
  23. ^ 『漫画新批評大系』第2期 通巻7号「特集・SFとマンガと/三流劇画ミニマップ前編」(1977年12月31日) 通巻8号「特集・はみだしっ子in4D/三流劇画ミニマップPart2」(1978年4月1日) 通巻9号「特集・まんが同人誌'78」(1978年7月29日) 通巻10号「特集・花の24年組・午前1時のシンデレラたち」(1978年12月17日) 通巻11号「創作特集・同人誌作家の新地平/小特集・斬る!!」(1979年7月28日)
  24. ^ 「『戦後少女まんがの流れ』は、1期での活動期間中に知遇を得た少女まんが研究者、コレクター等の史料提供と協力を得て連載開始が可能となった。本文は2期を通じた5回連載となり、共同研究が基礎となるため執筆名義は『戦後少女マンガ史研究会』とした。アンカーは相田洋(米澤嘉博)が担当した。連載は完結後大幅な加筆を行い『戦後少女マンガ史』のタイトルに纏められ、米澤嘉博のまんが評論家としてのデビュー作となった。」「戦後少女まんがの流れ 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)186P
  25. ^ 「漫画新批評大系 第2期4号は一旦は78年12月17日に発行されているが、改訂版として翌年の4月に再発行された。この号は「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち」と題して、24年組の特集を行なっている。創刊以来、精力的に取りあげてきた少女まんがの総括としての特集であり、同人以外に外部からも、中島梓、村上知彦、高取英に寄稿を依頼し、増山法恵にインタビューを行なっている。この時点での迷宮の総力を結集した号であったが、発行を優先して不十分な内容、編集となったための改訂版の発行であった。亜庭じゅんは、他の同人に原稿の全面的な手直しを依頼し、記事の入替え、レイアウトの変更を行い、全面的な改訂となった。常に不満を残していた内容の充実と、雑誌としての編集の不備を解消した号を出したいという亜庭じゅんの執念の漂う号となった。無論、自身のこの文章も改稿されている。」「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)254P
  26. ^ 「迷宮の中で三流劇画、エロ劇画に積極的に関わっていたのは川本耕次、青葉伊賀丸、そしてぼくだ。川本がこの年の六月頃には『別冊官能劇画』の編集者となり、業界につながりが出来、迷宮と深い関わりのあった村上が編集に携わる『プレイガイドジャーナル』に企画を立ち上げるなどの動きは重なっていく。」米澤嘉博『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎 2010年4月22日)223P
  27. ^ 『漫画新批評大系』第3期 通巻12号「特集・NEW・COMIC」(1979年12月23日) 通巻13号「特集・パワーストーリー」(1980年5月11日) 通巻14号「ルポ特集・新雑誌は何を考えているのか?/特集・スクリーンへ!」(1980年12月31日) 通巻15号「小特集・気分はもう戦争!」(1981年12月20日)
  28. ^ 「問題は、まんががどう変わるべきか、なのであって、どう変わりつつあるか?ではない。流行の後追いや先取りに精力を浪費している時期はすぎたと知るべきだ。『まんがはどこまで行けるか?』と問いをたてたなら、『まんがはここまで行かなければならない』という、読者の側からの、巨大で豊かな観念世界の答を出すべき時に、ぼくらはいる。実体を持たないものを語るのは虚しい、としたり顔で言ってはならない。そんなことはとっくに知っている。だが、新しいまんがを! と言い切るなら、まんがに求めるものを明らかにすることこそ、批評の責務である。『どこまで行けるか』と問いを立てた時、読み手は無限への扉を押し開けた筈だ。だとすれば、それに耐えるのは、押し開けた者自身の責任である。それを回避するなら、ニュー・ウェーブなり〝新しい流れ〟なりを語る言葉は、また一つファッションの波をたてるに終わる。」「語られねばならないのは、全体である。まんがが、今日まで築き上げた全歴史と、ぼくらの求めるものとしての不在の未来が交錯する一点、そこにこそ、NEW・COMICはたち現われる。〝新しい流れ〟とは、70年代を通して圧殺されてきた、この不在の未来が、とりあえず放った否定の声である。それは兆しではない。〝新しい流れ〟を、否定媒介とし、のり超えた所にこそ、NEW・COMICは明らかになる。〝新しい流れ〟の鋭さは全否定の鋭さであり、それは、70年代まんがの総状況を切り裂く。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)309P
  29. ^ 「このユニークな批評集団を僕は七七年冬、第七回目のコミックマーケットに参加して知ることになりました。当時、彼らは『迷宮'77』と名乗っていて、第二期に突入した時期の『大系』を購入、『COM』亡きあと、つまり七〇年代から八〇年頃にかけてのマンガ・シーンの波頭で、『迷宮』は批評とパロディを勇猛果敢に発表していました。『大系』を読んでいれば、マンガの『今』が見えたのです。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)147P
  30. ^ 「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ--」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
  31. ^ 「偶然にもこの時“迷宮”は、マニア運動体論で希求した開かれた自由な場を、マーケットという形で手に入れようとしていた。思想的な出自や『COM』体験からすれば、皮肉な結果ではあるとしても。では、その場に僕らは何を望んだのか。“自由な場を与えられた描き手に、なお信頼をつなぎ止めていた”と、今はいうに留めよう。たとえそれが自己投影だとしても、相当の可能性を見ていたのは間違いない。/そしてマーケットという言葉にはいま一つ、広場としての含意もあることにも僕らは気付いていた。人が出会い、交わり、新たな関わりが生まれる解放された空間。空間自体が何かを生み出すようなエネルギーをはらんだ場。米やんはむしろこちらのほうに惹かれたようだった。“アゴラ”というタームが市民権を得始めた当時、米やんが見ていたのはそうした場であったような気がする。後にコミケットを“ハレの場”と位置づける米やんの認識の萌芽は、もうこの時に胚胎されていた。」「とにかく同人誌の売買の場という単純な発想から、一気にあそこまで構想が展開したことの背景には、マーケットという設定が中途半端なモラリズムという枷を外したためであることは間違いない。」霜月かたなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)133P
  32. ^ 「『コミックマーケット準備会』設立に至った経緯は、亜庭じゅんによれば次のようになる。/『マジに開催のことを考えなければならなくなった時、“迷宮”はちょっとしたジレンマに陥る。コミケットの運営主体をどうするかという問題であった。理論上はコミケットの運営は参加者自身が行なうべきだという点で異論はなかった。だが、数々のイベントを批判的に検討してきた結果から、組織は必ずと言っていい程硬直するという認識も共有されていた。“迷宮”が主催ということで立てばいいという話ではない。理想としていたのはサークルの自由連合による運営だった。だが、運営主体が暴走し始めた時のセーフティネットをどう担保するか。/そこで僕らはある姑息な手を打った。コミケットの運営を“迷宮”とは別組織にして、サークル主体に見せながら、実体として“迷宮”が運営を担うことで当面はそのポリシーは維持する。将来的にこちらが信頼できる人材が出てくれば、そちらに徐々に運営を移行していく。平たくいえば、裏で糸を引こうという発想である。準備会という名前にはそんな隠れた意図もないわけではなかった。“迷宮”はコミケットのさらに先を見ようとしていた。しかしそんなはかりごとはうまくいくわけもなく、ひょっとしたらと期待した準備集会でも、参加者はコミケットのイメージすら判然としない状態、とても運営までは頭が回らない。こちらも海のものとも山のものともつかない状態であってみれば、当然の結果ではあった。』」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)143P
  33. ^ 「表向き、コミケットはサークルのもの、迷宮がそれを主催するのは僭越であるという口実はあった。同時に迷宮以外には、ついにコミケットをその意味づけまでも含めて担いきる存在はないだろうという自負もあった。この二点のせめぎ合いから、出てきたのが『準備会』という聞き慣れぬ名前だったのだ。それは一回ごとのコミケットを運営するという以上に、毎回々々のコミケットの過程の果てに、幻のコミケットをいつか実現させるための捨て石だという自覚の結果であった。」亜庭じゅん「明石さんへ--」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
  34. ^ 「『迷宮』の活動の一環としてコミケット準備会っていう会をでっちあげました。これも『迷宮』だというとうさんくさいと思われると考えて別の名前を作ったんですが、なんのことはない、同じ人達がやってたわけです。原田さんはまだ正式に代表にはなっていなかったんじゃないかな。多分2年目からですね。たしか何かで揉めたんですよ。それであにじゅんがじゃあ今後は役割を決めようと言い出して、その時にじゃあ原田くんがコミケット担当ねと。当のあにじゅんは『新批評大系』の担当を自認して、私は漫画大会告発の担当となりました。別にあにじゅんが無理矢理任命したのではなく、事実上そうなっていたのをはっきりさせたと云う感じです。原田さんは当時から誰よりもマジメにコミケット運営に努力していて、誰が見てもこの人が担当者だよなって感じでした。」色城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
  35. ^ 「なかなかヤバい話にはなるんですけれども、なぜ原田氏が代表になったかということなんですが、見ていただくとわかるとおりに、一番誠実そうに見えるんですよ(笑)。僕はたぶんそれはダメだし、米やんもそういう意味じゃあ当時はまだちょっとピリピリしてたとこがあったし。まあ米やん自身は一番若かったということもあって…それとまあ上に二人年上がいるとなると、なかなかこう前には出られません。でまあ、やっぱりこういうコミケットみたいなイベントの場合、露骨に言います、同情を買うようなタイプが一番いいと(笑)。それは俺と米やんの共通見解よ。原田氏だったらみんなが同情してくれるだろうと。ということで、まあ人格的に原田氏が一番ベストなんじゃないかと。でまあ『いちゃもん』の漫研リストを作ったのも彼ですし、そういうようなことを含めて原田氏が代表には一番ふさわしいだろうということで、代表になったというのが事実関係です。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)738P
  36. ^ 「ちょっと話戻しますけど、先に原田くんのほうが『学生運動が…なんたらかんたら』言ってましたけど、あれは社会性っていうよりも、むしろ当時のものでコミケットに通じるものがあるとしたら、在学当時は多くの大学、あるいは高校でも、机や椅子でバリケード作って、封鎖をしたんです学生が。で、そのなかがなんだったかっていうと実は何もなかったんですけれども、気分だけは『ここはおれたちの空間、おれたちの場所』みたいな、『解放区』という言葉がたぶん一番的確だったんだろうと思います。そこで特に何かをやったわけではないんですけれども、たまたま京都のほうでは、京都大学の西部講堂という…物置の掘っ立て小屋みたいな講堂があって、そこでですね、当時のでいうと『アンディ・ウォホール(の実験映画)』とか『頭脳警察』というバンドとか、あるいは『状況劇場』…赤テントですね、唐十郎の。ああいうものをとにかく手当たり次第にやってたと。なんで、ある種、解放区のなかで自分たちの見たいもの、やりたいものをやるというようなそのような文化が、学生運動のなかで定着していったと。その感覚っていうのはコミケットのなかにも…まあここで話せればと思いますけど、残っていただろうと。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
  37. ^ 「一つの意識として、コミケットは、七十年の敗北の再生という命題を抱えていたし、趣味を基盤とした解放区という位置づけがなされてもいた。自由な表現が許される場とは、おのずから自由に表現できない場と対立していくことになる。拡大していくコミケットは、つまり解放戦線の拡大でもありうるのだ。もちろんそうしたことが語られることはなかったが、マンガは『ぼくら』が手にした最高の娯楽であり、自己表現であり、その無限の力はあらゆることを成し得ると信じていた時代でもあったのだ。」米澤嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)417P
  38. ^ 「あれは私が高校2年生の時だったと思う。当時、漫画ばかりを描いていただけの暇してた高校生にとって24〜25位の兄ちゃんの集まりは「すごく年上の人ばっかり」という印象だった。/その年上の兄ちゃん達が『コミックマーケット』という同人誌を売ったり、買ったりするだけのイベントを開くというのだ。ついてはそこで少女漫画のオークションもやるからお前、売れ。/そう言われて私は当日アラビアンナイトの格好をしたまま古い少女漫画本を次々と売っていった。何が何だかよくわからない状態である。彼らはどこかの漫画大会でなんとかという漫画が10万円で売れたのがおかしい。そんなに高値で売ったら漫画が別のものになるから安値で売ってくれとも言った。/子供だった私はそんな兄ちゃんたちが漫画という世界に生きてる人達なんだと思って、尊敬をしたものである。私もこの人達のように漫画にポリシーをもって生きなきゃあかんぜと燃えたものだ。/しかし、その後芝居の世界に入ってしまったのでコミケのことはそこまでしか知らない。当時、尊敬していた兄ちゃん達の大半はどこかへ行ってしまい、何人か残った人は物書きになっている。そしてコミケは私がかかわった初期のわずかな間を過ぎると巨大化していき社会現象にまでなっていた。/私にとってはまるで文化祭の延長のような会場で、反骨精神の旗の元に集まったバカの集団というイメージしかない。儲けることなんか何にも考えていなかったあの人達。今のコミケで一攫千金を企む若造を見て『まったく今の若いものは。』とため息をついているのだろうか。/いわゆる60年代の若者だった彼らに影響を受けた私は今でも少し理屈っぽいままだ。彼らはコミケを抱えてどこまでいくのだろう。妹分の自覚がある身としては気になるところだ。」わかぎえふ「作家アンケート」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)411P
  39. ^ 「サークルの総意などというものは実際にはありはしないということは最初から分かってはいたが少なくともその方向に努力するという姿勢を示すことで、その大義名分は維持し続けた。そのために事前集会、拡大集会、反省会はコミケットにとって重要な位置を占めた。全ての参加者が平等であり、仲間が作り上げるアマチュアの自由な場で、その場だからこその新しいまんがが生まれる。そこでは単なる読者でさえ創作への積極的な協力者となるだろう。」「子供っぽい理想論、きれいごとだという向きもあるだろうが、理想論を掲げないで誰が時間を使い神経と労力を刷り減すだけのことを好き好んでやるものか。」「ぼくらはそういうことをやっているという自覚は共有していた。大人の現実論を子供の理想論で跳ね返す場所がいまここにあり、回を重ねる毎に参加者は増え続けていった高揚感もあったのだと思う。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)25P
  40. ^ 「コミックマーケットは準備会が作るものではなく、参加サークルと一般参加者がみずから作り上げるものだからだ。そんな大原則に忠実にやってきたつもりの僕としては、目の前にあるコミックマーケットがみずからの望むものでないのなら、自分が身を引くしか方法がない。そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、『迷宮』を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。」霜月かたなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)183P
  41. ^ 「(第1回) 当時ね、今(質問者のコミティア代表・中村公彦氏が)『創作サークル』って言いましたけど、だいたい創作サークルっていう分別さえしてなかったっていう話なんで、だから原田くんが『こんな状態では僕は…意図と違う』って言ったのは、創作サークルってけっこうあるんですよ、確かに。ただ一番面白かったのが(当時『宇宙戦艦ヤマト』のパロディまんがを描いていた) 水谷潤だったりするんで。で、彼(原田) が言ってるのは、僕らは『ぐら・こん』なりCOMの延長上に位置付けられるような作品が思ったほどには出てこなかったからだな、というふうには納得してます。(参加してほしくないサークルとして) 個人的に「あんなヤツらは…」というのはあったけれども(笑)。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)740P
  42. ^ C13のメッセージは準備会スタッフとして米澤嘉博が「YY」のペンネームで書いているが、メッセージには「長い間スタッフとしてやってきた原田央男氏がコミケット12をもちまして、準備会から離れることになりました。」と簡単に記され、「代表」については全く触れられていない。『コミックマーケット30'sファイル』(株式会社コミケット 2005年7月25日)76P
  43. ^ C84以降の『サークル参加申込書』「コミックマーケット年表(抜粋版)」では1979年のC13より「代表に就任」と記載されている。しかし、『コミックマーケット30'sファイル』では1980年就任とあり、矛盾する。また、C13時点で米澤が代表になったことを示す記録は公表されていない。
  44. ^ 「問題は二つ。一つ目は『お遊び』の場に変質しつつあったコミケットをどう考えるか。二つ目は数の増加に追いつかなくなり破綻しかかっている運営をどうするかだった。コミケットは決してお遊びの場を作るために始めたわけではなかった。遊びは否定されるものではないが、あくまでサブの位置にあるべきものだった。コミケットの全体が『まんがで遊ぶ』ことに覆われてしまう危惧とともに、他方ではそれが何故悪いという気分も強まりつつあった。早急に改めて方向を確認し、体制を組み直す必要があったが、しかし、米やんは何の手も打とうとはしなかった。このときコミックマーケットは前に行くことも後ろに退くこともできず、流されるままに開催を続け、立ち竦んだまま、遂には沈没してしまうことも危惧される状態だった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
  45. ^ 「米やんが二代目になったのは他に適当な人間が居なかったということが理由だったが、受けた米やんは決してそれを歓迎したわけではなかった。原田の辞任は唐突なものだったし、困惑しながらの就任だったことは傍目にも分かった。」「あの時期の米やんには酷な言い方になるけれど、それでも少なくとも準備会の内部では危機感を共有し意思統一を計ることだけはしておかねばならなかったが、その部分でも米やんはネグった。亜庭じゅんの言葉で言えば『米澤は半分投げていた』ということになる。米やんのこの無責任にも見える姿勢が、遂にはクーデター騒動を引き起こすことになる。クーデター派から見れば米やんは何も決められない独裁者に見えていたのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
  46. ^ 「当初のスタッフ(ロートル)と若いスタッフ(主に警備)の間で、運営に関して対立が起きるようになり出していた。きっちり警備し、管理するべきだという派と、自主性に任せるべきだという派で、それはマンガとアニメ系の対立も内包していたのかもしれない。/言ってしまうなら、そこで代表は、若いスタッフから、自分たちをとるか古いスタッフをとるかと、決断を迫られたわけで、どちらもキルなどということのできない性格上、ウヤムヤにしていたところ『クーデター』を名乗って、事務や送り先の変更を秘密裏に行ない出したのがきっかけとなって、緊急アピールの発行となった。」米澤嘉博「分裂騒動の真相」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)145P
  47. ^ 「その頃は米沢さんはコミケにそれほど深く関わってる印象はなかったですけどね。米沢さんは当時、まだ明治大学に籍を残しながら、すでにフリーの編集者兼ライターとして活躍されていて、『SFファンタジア』という学研のムックや、『朝日新聞』の漫画時評などの仕事に取り組んでいました。それは無記名でしたが、ですからコミケというとむしろ、亜庭さんや、当時米沢さんと共に行動していた橋本高明さん、ベルさん、迷宮の他のメンバーの方々が頑張ってる印象があります。霜月さんは、すでに準備会は離れていました。」赤田祐一「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
  48. ^ 「コミック・マーケットはまんがの幻影を売り物に肥大化し、何も為さないまま妙な権威をすら帯び始めている。だが、我々が望んだコミック・マーケットとはそんなものではなかった筈だ。それはサークル同士のまんがへの志によって有機的に結合した、もう一つのまんが状況=展開の契機を備えたメディアになるべきものであった。/我々はそうしたものとしてのコミック・マーケットを、もう一度結成しようと思う。コミック・マーケットがメディアとして機能しないなら、我々の手で創るだけの話だ。」「やることは大して変わりはしない。だが、我々の求めるのはお祭り騒ぎではないのである。作品へと昇華されたまんがであり、行動に結集されたまんがの意志なのだ。」亜庭じゅん「夢の明日・明日の夢 迷宮緊急アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
  49. ^ 「この頃、創作系の漫研の連中も新しいのが出てきたし、そういう流れの中で本来の同人誌、創作系だけで、もう少し小さくこぢんまりやっていこうじゃないかみたいな話も出始めて、じゃあその大コミケと小コミケをやって、定期的に、まあ2ヶ月に1回小コミケとして、年2回くらい大コミケをするのはどうだろうとか、コミケットをどうしていくかってことでいろんな方向性が語り合われた時期でもある。/結局コミケットていうのは大きくする。来る人間を全て受け入れていく。という話になる。耐えられるまで耐えようと。/そのかわりパロディもエロチックなものも、アニメもその他も全部なんでも来れる場所にしていこうと。そうすると、本来の同人誌とか創作マンガにとってはこれじゃいかんという話で、じゃあ小コミケをMGMという形にしようかと……。」米澤嘉博「代表インタビュー2」『コミックマーケット30'sファイル』(株式会社コミケット 2005年7月25日)95P
  50. ^ 「少なくともコミケットが仮に潰れたとしても、別に創作同人誌即売会が存続していれば、その部分だけでも救い出せることになる筈だった。あの時期のあにじゅんの取れる方法としては率直で妥当なものだったし、MGMの意図するところは米やんも理解していた。『米やんはMGMはコミケットの保険だと言ってたよ』これは米やんの死後に、米やんの言葉としてベルから聞いた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
  51. ^ 「その後両者間での話し合いは、連絡ミス等で遅れたが、スタッフのほとんどを集めて開かれ、コミケット19を開くことが急務である旨米澤氏から提案される。川崎市民プラザの使用について、その為の条件をクーデター派が出し、それを飲まない場合、川崎市民プラザは使用できない。こちらは別会場を借りている事が示される。/米澤氏の19回めでの引退、17・18回めの会計公開をTELで条件として提示し、それに対し会計公開は新聞で行なう予定であり、20回めでの引退を考えている旨の答えがある。クーデター派はそれで考慮してみると返事をした。が、その前日に、川崎市民プラザでコミックマーケットを開催する旨の申し込み書がコミケット準備会名でサークルあてに発送されていたのだ。」コミケット新聞2号「コミックマーケットに内紛か!!」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)147P
  52. ^ 「このアピールの中で米澤君は、それまで一部の人間にしか知られていなかったクーデター騒動を、自分の手で公開すると同時に、クーデター派の人間を名指しで非難しました。名目は、サークルの混乱を防ぐため、ですが、アピールの内容を見る限り、その実質は、クーデター派への不信をサークルに植えつけ、彼らの動きを圧殺しようとしたものです。これまで、スタッフとして扱ってきた人間をスタッフでないと言い、自ら責任をとるべきであった警備の問題をホッかむりして『自称』警備隊長におっかぶせています。このアピールによって、コミケット・クーデター事件は力対力の争いになってしまいました。」「米澤君は緊急アピール送付以前二週間以上に渡って、自らは積極的にクーデター派と会おうとしなかったばかりか、コミケット準備会の他のスタッフを集めての話し合いの場すら設けませんでした。それを怠った上で、非常・緊急の手段としてアピールを出したといわれても釈然としないのは当然でしょう。それどころか、二人の人間の社会的生命さえ葬りかねない文章を、誰に相談するでもなく、独断で六〇〇以上のサークルに向けて出したのです。/こうした行為は、いかなる意味でもコミケット理念である自由・信頼に反するものです。迷宮がファン活動に対して言ってきたこと、述べてきた事は、まるっきり違います。権力を権力として行使することに対して、自由な個人の連合体である迷宮は、はっきりとその途はとらないとくり返してきた筈です。また、米澤君が出した第二のアピール中、コミケット・スタッフも私生活があり、そのためにコミケット運営に多少ルーズな面も出ても仕方がない。むしろそこにこそアマチュアとしての本意がある旨の記述がありましたが、このような泣き言を迷宮は漫画大会を批判する中で、否定しています。アマチュアであろうとなかろうと、、一端、公的な立場を選んだ以上そんな事は理由になりません。作品の評価にプロ・アマを問う必要がないように、コミケットの運営もアマチュアだからといって、いい加減であっていい訳がないのです。そこの甘えを、少なくとも意識の上で切り捨てた所に迷宮の出発点の一つはあったのです。」亜庭じゅん「コミケット・クーデター事件について・アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)599P
  53. ^ a b とは言え、コミケットを「ムーブメント(運動)」とする自己規定はその後も残り、2012年12月開催のC83までは「元々、ムーブメント、趣味の活動として始まったコミックマーケット」(各回ごとの『カタログ』「準備会スタッフについて」)、「一つのムーブメントとして自らを規定します。」(各回ごとの『サークル参加申込書セット』「コミケットの理念と目的」)といった言及があった。しかし、2013年8月開催のC84からは「ムーブメント」の文言が全く消え、理念として「(自由な表現の)場」「ハレの日」としての機能がより強調されるようになった。
  54. ^ 「米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化したMGMが引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。」「コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、『同人誌即売会とは何か』そして『自分は何故即売会を開くのか』ということだった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)27P
  55. ^ 「単なる売買だけではなく、同人誌を通じたコミュニケーション、出会いはもちろんのこと人と人との出会いも場の機能に含まれています。このことが、コミケットを、マンガ、アニメファンの社交場にしているのかもしれません。/お祭りとしての性格もそこから生まれて来るでしょう。「祭り」とは日常の中に一日現われてくる『ハレ』の日のことです。祭りに参加する者達は、その祭りをより面白く、よりすばらしい物にするために、祭りと祭りの間の日常を準備期間にしなければならないと思います。云うまでもなく、それはサークル活動であり、個々の創作活動のことです。祭りをいかにすばらしい物にするのかは、参加するサークル、個々人の問題でもあるのです。」米澤嘉博「コミック・マーケット設立主旨 コミケットマニュアル」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)317P
  56. ^ 「コスプレやパロディといった手段を通して彼らは(全員ではないにせよ) つかのまフィクションの世界の住人となり、祝祭のなかで自己は忘れ去られる。しかしそれは迷宮が『マニア運動体論』の『序説』において、『僕等は僕等の内側にマンガを一つの別な空間=世界として持っているが故に『マンガ世代』なのであ』ると規定したこととは、似ているようで天と地ほどの開きがある。『僕等』のなかの『マンガ』世界は自己と対峙するものとして存在し、それを楽しむ客体とするため『言葉』をもって捉えることが『僕等』の採った方法だったからだ。身も蓋もない自己の没入など、自己放棄となんら変わりがない。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
  57. ^ 「(ぼくは)創作まんがを中心に小さなマーケット(MGM)を開きました。これが非常に空いています。だから?というような世界です。そこではこういうコミケット的な環境というか熱気というか、そういうものは、生まれ得ませんでした。別なものはあるとは思います。自画自賛になるかもしれませんけれども。ただ、それはあくまでコミケットが持っている、もの凄くなにもかも溶かし込んでしまうみたいな、ま、コミュニケーションの非常に大きな力、それはどこまで真摯なコミュニケーションであるかは、ぼくは疑問に思っていますけれども、確かにそこでもの凄く仲間意識ができるということ、その力はなかったです。つまりコミケットが今持っているジレンマというのは、一つには、数が今のコミケットの楽しさというか面白さというものを保証している、そこの部分をどうくぐり抜けていくかが準備会にとっても、おそらく参加者にとっても一番大きな問題だろうと思います。」亜庭じゅん「亜庭じゅんの発言 1981春・コミックマーケット反省会」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)22P
  58. ^ 「基本的に会社は『コミックマーケット』という集会に事務所、機材、倉庫、連絡機関などのサービスを行い、コミケットは会社に対してカタログ制作の為の情報を整理し、与えているという関係だと考えて下さい。ただ、この会社はあまり営利を目的としていない性格があるため、様々な問題をはらんでいます。」米澤嘉博「即売会と会社と準備会と経費について」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)329P
  59. ^ 「なぜこの会社ができたかっていうと、それまで一般参加者に向けて配置図とサークルが入ったやつをただで配っていたんだけれども、コミケが大きくなって、かなり小さい字でA3版の両面にしても入りきらなくなったんで、どうするかって話したときにカタログにしようって。」「しかもこれが8000とか1万部近く売れるから、売上が200万で、印刷原価引いても何十万か残っちゃう。そうすると税金の申告がまずいだろう、どうするかって話になって、これは会社にして申告するしかないと、あともうひとつはコミケットへの問い合わせが非常に多かったんだけど、電話で問い合わせを受けられる場所が無かったんですよ。その頃は一般からの問い合わせも含めて全部個人で受けてた。しかもアパートの共用電話だから非常に問題が多い。これはいかんということでじゃあ会社にしてそういう窓口を設けようと。」米澤嘉博「代表インタ ビュー3」『コミックマーケット30'sファイル』(株式会社コミケット 2005年7月25日)125P
  60. ^ 「コミケットはアマチュアの『ボランティア』がやるものではなくなってしまった。もちろん、準備会の方では、コミケットを主催・開催する準備会と会社は別ものと言っているが、同じ人間がやっている以上、それは、口実ととるしかないだろう。はたで見ている限り、コミケットは明確に企業として歩み出したと言うしかない。」「企業化のメリットというものは確かにある。少なくとも、対外的な折衝では、通りはよくなるだろう。だが、伝えきく企業化の理由というのが、〝税金対策〟だというのなら、それは、ちょっとおかしい。〝税金対策〟が必要なほどにコミケットが利潤をあげているのなら、まず第一の対策は、利潤減らしである筈だ。それをせずに会社化へ走るのは何かが間違っているというしかないだろう。」「大局的に見れば、コミケットの方向は、企業化へと向かっていくものであることはわかる。」「だが、問題は、このプロセスが殆んど秘密裏にと言うか、オープンな形で展開されて来なかったことにある。コミケットの上の方で何やら、いつの間にか、決まり、動き出してしまったというのが実情である」「二言目にはサークルが、参加者が、というコミケットの甘いせりふと、実行段階での、独裁的な突発性、もっとロコツに言えば、下のことを無視した、二枚舌的やり方が、昨年問題になった、コミケットの退廃と密接にかかわっているのではないか?」「少なくともコミケットの会社化という今回の一事は、たとえば、このことによって公然とコミケットで食っていく人間が登場し得るという余地を与えたことだけでも、コミケットが掲げて来た理念の再検討を迫られる質のものである筈だ。」「即売会で食っていこうなどと考えるヤカラは甘えているという以上に、意図していようと、いまいと、奉仕者ヅラをする限り、詐欺を働いているのと同じだと、ここではっきりと断言しておこう。」亜庭 じゅん「SHASETSU 即売会のまわりが、どーにも生グサくなってきた…」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)669P
  61. ^ コミケットは3共同代表制に移行した後の2013年8月C84より、理念から「非営利」を削除した。
  62. ^ 川崎市民プラザでの開催は83年秋までの一年半だった。MGMは以後会場を川崎市中小企業婦人会館に移しそこに定着するが、「通常」のMGMと並行して、テーマを設定した「特別版」MGMを不定期に都内の産業会館で開いた。
  63. ^ 「ミニ・マーケット・プログラム1号で、ぼくは、この運動の最終的な目標を、全国的な同人誌メディアの設立におくと書いた。それ自身、特にMGMに固有のものではない。迷宮が、コミック・マーケットを開始した時点で、即売会のはるか彼方に展望していた目標である。むしろ、コミック・マーケットが、自らカオスとしての『場』に居直り、そこに自足し始めたからこそ、ミニ・マーケットという形で同人誌メディアへのベクトルを引き受けざるを得なかったと言える。」亜庭じゅん「あの亜庭じゅんがMGMを語る」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)591P
  64. ^ 「現在『マンガ世代』とはそのような自己を没入しうる者であり、オタクとも呼ばれる彼らが主役として迎えられる状況をコミケが作り出してしまった。だが『そういう場を最初に作り出したのはおまえたちではないか』と言われれば、全面降伏はしないまでも迷宮に立つ瀬はない。/しかし亜庭じゅんであれば、話は別だ。迷宮の名前でMGMを主催し、『これこそが迷宮のやろうとしていることだ』と言えば、数のうえではどうであれ、迷宮=MGMとして『迷宮がやろうとしたのはコミケではない』と言い切ることができる。つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ。もちろんそれを言うために亜庭じゅんがMGMを始めたわけではないし、MGM自体コミケを批判こそすれ、敵対するものではなかったが、迷宮の始めた運動を具現するものとして、MGMが存在した意味は少なくない。実体に即してみても、初期のMGMは亜庭じゅんみずからによる『マニア運動体論』の実践であったし、MGMの活動とはまさしく迷宮の活動であった。困難を抱えた小さな運動であっても、その意味においてMGMは、コミックマーケットに対して互角に屹立する即売会であったということが可能なのである。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
  65. ^ 「コミケットはもはや趣味でやれる範囲をこえている。しかもなお、『趣味』でやらねばコミケットではないだろう。アマチュアでもプロでもない第三の場を創ること。『同人誌』でも『商業誌』でもない既成概念の転倒。人が人と作品を通して媒介される場――コミケットの道は本来ここにあった。スタンスは、『創る』の一点を軸にしていた。プロもアマもでは決してない。プロでもない、アマでもない、否定形を通しての未来。それがコミケットの視線の行く先、見すえた焦点であった。それを見つづけるのは、『趣味』かもしれない。そして、この視線を、『プロもアマも』に移行させるのは、はっきり言って悪い趣味である。その『趣味』の悪さが、コミケットをダメにしたのだ。」亜庭じゅん「コミケットは趣味が不自由なのである」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)634P
  66. ^ 「そしてコミケの誕生以後、同人誌即売会の普及によって創作同人を取り巻く環境は一変。作家と読者をつなぐ出版社と取次会社のシステムとは別に、即売会(や同人誌専門店)が作り手と受け手とをつなぐようになり、まがりなりにも創作同人が作家(プロとかアマとかではなく)になりうるサイクルが成立する。しかしファンクラブから二次創作サークル、コスプレイヤーまでもが押しかける同人誌即売会の盛況のなかで、そのような創作同人はむしろ少数派にとどまり、同人誌即売会の創出を画策した『迷宮』の目論見は、肝心要の部分においてはぐらかされることになった。」原田央男「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)32P
  67. ^ 「私が同人誌活動をはじめたのは70年代の末から。いまでこそ漫画ファン以外にも知られ新聞、テレビなどでも報道される同人誌即売会だが、当時はごくわずかの知るべき者たちのみが知るイベントだった。/なかでもMGMは創作漫画の同人誌だけの即売会で、規模は200サークルちょっとと小さかったものの会場の熱気がどんなものであったか伝えるだけの文章力がないのがもどかしい。その代表者が亜庭さんだった。コミティア創立時にカタログ担当のスタッフだったとき、インタビュー記事のために江古田の喫茶店で2時間ほどお話を伺ったことが忘れられない。」山川直人「亜庭さん」『地球の生活』閲覧日2014年5月2日
  68. ^ 「古山が一番のってた時期ってのは、MGMを川崎市民プラザでやってたときじゃないかな。彼の『ヤッターペンギン』をはじめ『ジュリーがライバル』『御遊戯』『USHI』とか、あの辺の本がボコボコ出てきて、何かおかしなことが起こるんじゃないかって気がしたでしょ。即売会のたびに挑発的な本が出てね。」「あの頃が一番面白かったね。ただ、残念だったのは、あれらが芽で終わってしまったこと。ちゃんとした形になる前に終わってしまったことだ。あれらがうまく育っていたら、今の同人誌はもうちょっと違うものになっていただろうと思うよ。連中が年齢的に横並び一線で、大学卒業と同時に分散してしまったのが不幸だった。あの頃はつっぱってたよ。俺たちの漫画が一番だって。」亜庭じゅん「敏感な読者を集め 挑発的な即売会を」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)684P
  69. ^ 同人誌即売会で一般にカタログと呼ぶものはMGMではMGM新聞と呼ばれ、活発に各種記事が掲載されたが、90年代に入ってから徐々にサークルカット中心のカタログになっていった。「実はカタログの記事に力をいれるというのは、MGMが始めたことなんです。昔から参加されている方はお分かりかと思いますが、当初からMGMはPRカットと記事の双方に重点をおいて作ってきたつもりです。それが今のようになったのは、単に回数が多くなってきたんでやってられなくなったということと、企画のアイデアが出なくなったとそれだけのことなのです。ただ、MGMの場合、カタログは読者にサークル情報をできるだけ提供するものだと考えています。もちろんスタッフ側からの主張も言いたい時には言いますが、基本的にカタログはサークルと読者の間の交換器のような役割を果たすものと位置づけています。ですから、カットのテーマにしてもなるべくサークルの傾向や力量がわかるもの、サークルと読者の対話のきっかけになるようなものを選んでいるつもりです。」亜庭じゅん「MGM62『60メモリー』より」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)816P
  70. ^ 堀田清成ほったゆみの夫)と、名古屋大学で漫画研究会を立ち上げた森博嗣らが中心のサークル。1978年から1982年まで名古屋で10回の『コミカ』を主催した。1980年にサークルは解散し『世紀末出版』、『同人とぐる』、ささきすばるが主催する『JET PROPOST』に分かれたが、解散以後もコミカの主催は堀田清成を中心として『グループ・ドガ』名義で続けられた。
  71. ^ 『せえる』は1980年から1986年まで四国・松山で10回開催された。『せえる』には主催者は存在せずスタッフのみが機能的に存在するという形をとり、即売会を参加サークルを含めた全参加者が主体的に作るものとした。「'79年に始まった漫研『まんがせい』は『まんがせえる1』を主催した後、スタッフはそのまま据置き、同人の交流、向上の目的を包括するものとしてサークルから即売会へと発展解消した。」「せえる1から 少なくともせえる10の10日前まで」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)62P
  72. ^ 「――本を売る、買う…という行為自体が同人会と読者、同人会と同人会のコミュニケーションであると思います。その日、1日ちょっとお話ができるというだけのコミュニケーションは第二の事に思えます。本を買い、手紙を出す、その返事を出す、こういった努力を読者も同人会もしなければ、本当のコミュニケーションにはならないと考えます。即売会当日のあいさつを僕は信じることができません。また…即売会がどんな場を作ろうとしても、同人誌や漫画のレベルは高くならないと思います。同人誌のレベルを高めるのは同人誌であり、漫画を高めるのは漫画です――こういうむなしさが即売会にはあるのです。/MGMがコミケットからおまつりさわぎをケズリ取ったのは正解ですが、そのため本が売れなくなったとしたら、即売会として、いえ、コミュニケーションの場として失敗だと思います。/入場者をへらし、静かにして、しかも本は同じだけ売れる……これは不可能なことではないはずです。/とにかく、MGMスタッフを遠くから応援したいと思います。」森博嗣・JET PROPOST「MGMへの投書」『MGM新聞4号』(MGM 1981年9月20日)2P
  73. ^ 時は昭和51年夏--それは勿論、松山にはな〜んにも無かった頃で、しかも、今や30回目にして3400ものサークルを内包する東京のコミックマーケットが、まだ2回目、わずか50数サークルの時代であった。--東京へおのぼりさんをした我々は漫画大会なるものの片隅で『同人誌即売会』なるものと遭遇する!!」「2年後自分達も『まんがせい』という漫研をつくりつつ他の同人誌を求めてやまず、東京の片隅の古本屋さんに同人誌が置いてあると聞き、夜中に電車を乗り継いで駆け込んだのもこの頃である。」「とにかく同人誌に、仲間に飢えていた。大阪コミール、コミックフェア等、若さにまかせて、金をつぎ込み各地の即売会に東奔西走しながら、松山にもいるはずの漫画同人と一緒に、自分達が見てきたような交流の場をこの地元に作りたいと強く思うようになる。そして、それは自分達もサークルであり、描き手である以上、上から与えられるものではなく、共につくる即売会でなければならないとも思った。『参加サークル』という名の“客”には、自分達も他のサークルもしたくなかったし、何よりも自分がサークルとして参加したいと思えるような即売会でなきゃ嫌だった。」「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)60P
  74. ^ 「せえるにとって仲間が、共に進んでいく仲間が必要であるなら、そのための共通基盤は、一回ごとのせえるだけではなく、せえるのプロセスこそ重要な拠り所であるでしょう。なんのことはない、ぼくがせえるに魅かれる半分は、このプロセス=ドラマへの期待である訳です。」「せえるが生成し、息づき、一回ごとに前へ進んでいくベクトルを持っていることを明確に打ち出すこと、一回一回のせえるが何をつかみ、何を失い(時にはです)、どこにいるか検証し、実感させること、――ちょっと宗教めきますが、せえるの流れのなかに、参加者をまきこんでいくこと、それが、何よりもせえるに求めたいのです。/抽象的にしか言えないことは、こちらの力不足です。要は、あなた方も相対的な高みにとどまっているものではないと、あなた自身、せえると共に歩んでいるんだというそのことを、示すことではないかと思います。」亜庭じゅん「書簡 亜庭じゅんからまんがせえるへ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)648P
  75. ^ 「手前ミソでいうのではない。少なくとも、相当年のいった人間にとって、MGM程安心できる場所はないのではないだろうか。何よりそこに集まる本のレベルが、MGM程の水準に達している所は少ない。考えれば、当然の話である。東京という、ともかくやたら同人誌がウジャウジャいる地方の中で、それなりに意欲的なサークルが集まっているのだから、レベルは高くならない方がおかしい。確かにコミケットには質の高い本も出る。だが、数の比率から言えば、おそらくMGMの方が高い。まして、そこに名古屋からセレクトされた部分が加わってくるのだ。マジに買っていけば、出ている本の半分は買うしかないかもしれない。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――⁉」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)625P
  76. ^ 「最初は創作同人誌即売会というコンセプトが奇異に感じられたのか「人の来ない即売会」と言われたが、徐々に参加サークルも増え、良質の同人誌が高い密度で集まる場を誇るまでになり、MGMにしか参加しないというサークルも現われてきた。名古屋のコミカの主催サークルだったJET・PROPOSTは参加サークルカットに『ぼくらの本はMGMでしか売らない』と書いていた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
  77. ^ 「遊び場ばかりを求めてくる人間の不満は、あっさり拒否しよう。しかし、まんがそのものが変わってしまいつつある状況の中で、MGMは、有効な対立軸を見出しているとはいい難い。そして、これらの変化に対して、選択を求められる時期はそう遠くない日にやってくるだろう。/コミカの終了は、これらの変化への拒否も含めた、コミカの選択であったと思う。年寄りめいた言い方だが、即売会一つやるにも、生きてくことのしがらみは、それなりにふりかかってくる。コミカの結論は、中年期へとさしかかろうとする人間には、けっこう魅力的であったりもする。」「創作グループの手で始まり、その同じグループがリードする中から、独特の同人誌状況を作り出し、即売会――コミケットが始まった時、こうあろうとしたコースを、その通りに走って行った。そして、コミカの中から育ったサークルが、それぞれに独り立ちの活動を開始し、各々のカラーを主張し出した、まさにその時に、コミカは終了した。あたかもコミカの役割そのものが終わったとでもいうように、半面の真実でもある、ドガ=コミカの役割は終わったとも言える。」亜庭じゅん「SHASETSU コミカの終了は同人誌即売会への衰退の予兆となるのだろうか?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)611P
  78. ^ 「実は、せえるを10回で終える事は、考えた末の結果だが、いつか無くなるのなら、一番“らしい”時に終えようという打算も少しあった。今ピリオドを打つのと、多分、非難も反応も、たとえば5年後に終えるのと同じだろうし、また残せるものも同じであろう。1回目から10回目まで、せえるのつくりたいものが同じであったように、以後、回数を重ねても変わり得ないだろう事は、せえるのみんなならよく知ってくれていると思う。/終えると伝えた時の、電話や手紙でのたくさんの手厳しい批判や、寄稿いただいた亜庭氏に代表されるような意見が、スタッフには嬉しかった。ファーストフィナーレを一番怒ってくれた人達こそが、実は、せえるが無くなっても無くす事のないものを心の中にしっかり抱いているのに違いない。/せえるがつくりたかったのは、“形”ではなく、“魂”だった。残したかったのも、それだけだ。せえるという動きが行きつく先など誰も考えなくていい。目的は、行きつく事でなく、動かすものだったのだから。」「“好きな即売会”は、求めるものではなく、自分でつくるものだと気付いて、我々が6年前せえるをつくったように、みんなも、そう知ったからだと思う。それは何も、スタッフになって即売会を新しくつくる事ではなく、今あるものへの働きかけ一つで動いていくものだと。」「ファーストフィナーレが最初の、せえるとしての形に別れを告げる幕だとしたら、次の幕開きは、なんらかの形で必ずある。それこそが幕を降ろし、今度はみんなの中のせえるを育てていく為の理由なのだから。」まんがせえるスタッフ一同「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)69P
  79. ^ 「キャプ翼、星矢、トルーパーの三大勢力を中心に女性やおいサークルは、人気作家を生み出し、その魔力を背景に豪華な本作りと大部数発行というバブルに向けて本格的に走りだしていく。」「各地で開かれる即売会はどこも盛況で、中堅、大手イベントも精力的に回を重ねていく。バブルという時代を背景に、自粛ムード、宮崎事件、手塚治虫の死などの負の波を一切寄せつけなかった同人誌業界は、さらなるバブルに向けて走り始めていた。」米澤嘉博『マンガ同人誌エトセトラ'82-'98』(久保書店 2004年9月25日)139P
  80. ^ MGMが拠点としていた川崎市中小企業婦人会館はサークル数100から150程度で最適な会場構成となる広さだった。参加希望が300になろうとする状況をこの会場で捌くことの無理は明らかだったが、規模の拡大はMGMの変質を招くとしてあくまでこの会場に踏みとどまった。「実は(自分は) MGMという即売会やってまして、そこで感じたのは200(サークル) を超えるとちょっともうサークルは、一つ一つは目に入らなくなる。単純に200って、20が10 倍になっただけじゃないんですね。倍々ゲームで負担が増えていくんで、それが(現在のコミケは) 5万(サークル) なんてなんだろうと思うんですけれども。そういう意味ではアンチームな関係をサークルなり参加者なりで作ろうとすると、ある程度の規模の拡大はあきらめざるをえない。規模を大きくするんだったら、ある程度機械的にやる部分がどうしても出てくる。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)739P
  81. ^ 「プロ/アマの二分法をとり払い、プロダムなんか知らないよ! を合言葉に、まんがのオリジナルな流れを作りだそうとしたのがコミケットでした。」「しかし、同人誌から自主出版へと位置づけられる即売会の目論見は、見事に外れました。今や、同人誌という言葉はイメージの内実をこっそり代えて大手をふって飛びまわり、商業誌の一部は、そのうわずみをすくいとって新たなセグメントを考え出してくるといった有様です。そして、その商業誌によって増幅された同人誌・同人誌まんがのイメージが、新しい描き手の腕と頭を縛っていく……。忘れられたのは、裸のまんが表現であり、覆っているのは、同一化の波なのです。/まんがはまんがをマネして作られると言ったのはやまだ紫でした。今、同人誌は同人誌をマネして作られると言いましょう。そして、同人誌とは、『好きなものを好きなように』描くための、錦の御旗であり、唯一絶対の盾、口実なのです。平たく言えば、『自分が楽しんでいるんだから、いーじゃない』!です。即売会を始めとして、同人誌をとりまく環境は、この一言をひたすら保障すべく仕組まれています。あなたは同人誌を楽しくやっている。私は、あなたを楽しませてお金をもらって、また楽しい。だから――いーじゃない!!/まったく!/撃ってみたいのは、この前代未聞の自己肯定。安住しきっている自己満足です。特に80年代に入ってからの風潮とはいえ、これはちょっとあんまりだ。そんなもんじゃないでしょう? 描くってことは」亜庭じゅん「みんなでうまくなろうやんけ!! 1」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)696P
  82. ^ MGM37のMGM新聞に掲載された、1987年11月8日開催のコミティア8の告知広告は「くらべてください COMITIAとMGM」と煽り、続いて、MGM39のMGM新聞に掲載された、1988年3月13日開催のコミティア9の告知広告は「日本最大」を前面に出し「今、日本で一番大きい創作同人誌即売会 COMITIA9 366サークル」と謳っている。『MGM新聞37号』(MGM 1987年10月11日)45P/『MGM新聞39号』(MGM 1988年2月21日)35P
  83. ^ 「商業作品のファンによって構成されるファンクラブや二次創作サークル、コスプレイヤーと同様に、それの展開する作品ジャンルの穴を埋めることで、創作同人は出版社を補完するアマチュア作家として機能することになったとさえいってもいい。なんのことはない、出版社を頂点とする『まんが業界』からの決別を目指したはずの創作同人たちは、みずからしっかりとその業界のなかに取りこまれていたわけだ。『コミックマーケット』にしても『企業ブース』を設けることで逆に『業界』をそのなかに取りこんだように見えるものの、参加サークルの大半が二次創作サークルやファンクラブで占められているということは実質、業界の一部になってしまっているということにほかならないし、『創作』ならぬ『自主制作』のための即売会を謳う『コミティア』も、出張編集部を取り入れるなどして業界との融和のなかに存続の道を探っている。」原田てるお「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)33P
  84. ^ 「20代の頃、特に前半はよく創作漫画即売会のMGMに顔を出していた。私の漫画自体は未熟で手にとってもらうことも少なかったけれど、MGMという場は大好きでした。小さな会場でそこに出展している作家さんの漫画を全部見てまわるとか、そんなことも出来た。/実験的な開催もいろいろあった。MGMレディースをお手伝いしたこともあったっけ。当時、コミケもコミティアも少しだけ参加したことがあるけれど、MGMへの参加回数には及ばない。ヌルいと言われてもやっぱり心地よかった。」「私はコミケを否定する気は全然ないですけれど、MGMは私にとっては故郷のような懐かしさがあります。」なせもえみ「MGM100〜亜庭さんに寄せて〜」『MGM100記念号 亜庭さんありがとう』(木の実荘企画 2013年1月27日)
  85. ^ 「それでもMGMの開催を重ねることで亜庭じゅんは同人誌即売会を『日常』に取りこんでみせ、最後まで添い遂げた。日常をまんがに捧げるのではなく、みずからをまんがと同等の存在として、日常のなかで両立させたのである。確かに日常をまんがに捧げてプロ作家になってしまえば同人作家に追随は出来ないかもしれないが、同人なりに『量』や気迫をフォローしつつ新たな作品世界を開拓する方法があるのではないか。創作の困難さよりも好きな作品に追随する二次創作の道を選んだ多くの同人たちを尻目に、彼はその方法を模索しつつ、まんがと対等に向き合う同人であり続けたといえるだろう。」原田てるお「まんが同人活動と「日常」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)34P
  86. ^ 「MGMは1980年8月、〝まんが・ミニ・マーケット〟の名前で誕生した。開会の直接のきっかけとなったのは、コミケットが肥大化し、コミュニケーションどころか、本の売買すらこころもとなくなるという悲惨な状態におちいり始めたからだ。コミケットの言い出しっぺである迷宮の一つのいわゆるケジメであり、機能マヒしたコミケットへのアンチテーゼとして、MGMは始まった。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――⁉」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)624P
  87. ^ 「あにじゅんの死後、『ぼくは他の何を信じられなくなってもMGMだけは信じられる』と米やんは言ってたよ、とベルから聞いた。ぼくは米やんの孤独をうっすらと感じた。そして米やんはMGMの何を信じようとしていたのかと考えた。コミケットの喧噪のなかに居ながら、米やんが信じたかったのは、迷宮の、そして即売会の始まりのあの時期、あにじゅんや原田央男たちと幾晩も徹夜で話した時間と、自分がコミケットの維持のために失ってしまったもの、あにじゅんがMGMで死守し続けた『子供の理想論』だったのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)28P
  88. ^ 「亜庭じゅんさん。10月の米トのイベントでお会いした時、館用の色紙にサインをお願いしたら『まるでパンダだな〜』っておっしゃるので、『ちがいます!ロックファンにとってのミック・ジャガーが来日したようなものです!』と言うと、はははって笑って、高宮さんといっしょにサインしてくださった。」「ヤマダトモコ[神奈川-神保町近辺]Twitter」閲覧日2014年4月30日
  89. ^ 「亜庭じゅんは年来の病が漸く重篤に至り、入退院を繰り返す中、悪化する体調を押しての出席だった。前日から近隣に夫人と宿をとり、万全を期した。この日は思いの外体調が良く、二次会にも最後まで付き合う元気さを見せたが、三ヶ月後の1月21日永眠。これが多くの友人達への告別の機会となった。」「コミケ誕生打ち明け話 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
  90. ^ 「森川嘉一郎Twitter」閲覧日2014年4月8日
  91. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート1」閲覧日2014年4月13日
  92. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート2」閲覧日2014年4月13日
  93. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート3」閲覧日2014年4月13日
  94. ^ 1980年夏に最初のMGM(まんが・ミニ・マーケット)が開かれた場所であると同時に、1976年4月4日に開催の、第2回コミケットの会場にもなった場所である。第1回が行なわれた日本消防会館が往時の姿を留めない現在、現存する「同人誌即売会」の原点を示す場所をMGM再開に選んだことになった。
  95. ^ 昼間たかし「歴史・人物・雰囲気......同人誌即売会の原点が一挙に集結!『MGM』が5年ぶりに開催」『日刊サイゾー 2012年2月1日』閲覧日2014年4月8日
  96. ^ 「『漫画新批評大系vol.16』として刊行された故・亜庭じゅんの遺稿集。亜庭はコミックマーケットの母体となった漫画批評集団『迷宮』の主要メンバーで、同サークルが発行していた同人誌『漫画批評大系』の主筆を務め、創作漫画専門の同人誌即売会『MGM』の創設者でもあった(『アイデア』348号参照)。亜庭はアマチュアであることを全うしたふしがあり、商業媒体にはほとんど執筆せず、表舞台には名を残していない。しかし本書に収録された主として1970年代に書かれた批評、当時のアマチュアへ大きな影響力を与えたと言われるそれらの、30年以上を経てなお通用する強度は素晴らしい。自己批判も含め変革へ向けた運動体としてのファンダム論は歴史的史料として扱うことになるだろうが、戦後まんが史を『サザエさん』対『鉄腕アトム』の総力戦と捉える視点の新鮮さなどは今でも十分刺激的である。村上知彦自身による『ぼくら語り』と亜庭についての原稿を含め、この本の刊行によって漫画批評史を修正する必要が出てくることは間違いない。」ばるぼら「書評」『アイデア351号』(誠文堂新光社 2012年2月10日)186P
  97. ^ 「『迷宮』の目指していたことは、マンガについての『改革運動』でした。24年組にせよ、三流エロ劇画にせよ、新しいマンガの発生する『現場』をつねにフォローアップする挑戦だったと理解しています。ですから、あにじゅんの遺作集を、故人の追悼刊行だけに留めずにおこうという意図を『迷宮』同人達からのメッセージとして感じます。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)148P
  98. ^ 昼間たかし「コミケがなくなっても、戻れる場はあった──100回を迎えた同人誌即売会・MGMの意義」『日刊サイゾー 2013年2月3日』閲覧日2014年4月8日
  99. ^ MGM100には旧作ではあったが亜庭じゅんとの共作まんがを小冊子にしたものを抱えて、まんがせえるの主要スタッフだった間宮レイもサークルとして参加した。サークル名は「亜庭じゅん未公認F.C」を使った。同人誌即売会への30年近い空白を越えてのサークル参加は、MGMの最後に花を添えるとともに、まんがせえるの終了時に亜庭じゅんから贈られた花束への返礼ともなった。
  100. ^ 2.XXのXXが回次をあらわし、2.02、2.03、2.04…となる。

参考文献[編集]

  • 霜月たかなか(原田央男)『コミックマーケット創世記』(2008年12月30日(発売日は12月12日朝日新聞出版朝日新書、税抜き700円、216頁、ISBN 978-4-02-273250-7
  • 亜庭じゅん遺稿集『亜庭じゅん大全』(2011年12月31日(発売日は2012年1月22日) 迷宮'11、自費出版、税抜き2000円、832頁)
  • 『コミケット20's コミックマーケット20周年記念資料集』(1996年3月17日 20周年資料編集部、コミックマーケット準備会、自費出版、432頁)
  • 『コミックマーケット30'sファイル』(2005年7月25日 コミックマーケット準備会、有限会社コミケット、税抜き2000円、392頁)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • MGM2ページ (MGM終了後、MGM2がMGM参加スタッフ・サークルにより新しく開始された)