西山広喜

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西山 広喜(にしやま こうき、1923年 - 2005年2月24日)は、日本の右翼で、政財界をつなぐフィクサーとして知られた。財団法人日本政治文化研究所理事長。西山広喜事務所代表。

人物・来歴[編集]

宮崎県出身。宮崎県立妻中学校(後の宮崎県立妻高等学校)を卒業[1]

部落解放同盟のリーダー松本治一郎の養子・松本英一と親交があった縁で、日本社会党宮崎県委員会青年部長を経て、社会党青年部の本部役員となり上京[1]。松本治一郎秘書となる[2]。その後、治一郎の紹介で大物右翼三浦義一の知遇を受け、三浦の片腕である関山義人大日本義人党で活動。1961年、義人党から独立し昭和維新連盟を結成。初代会長になる[2]

近衛文麿が創設した昭和研究会を前身とする財団法人日本政治文化研究所が、戦後再建されるにあたって三浦が尽力。その人脈が投入され、西山が1967年3月から同研究所理事長に就任した[3]。研究所のオフィスは日比谷公園を望む富国生命ビルにあったことから、以来、西山は陰で「富国の大将」、「日比谷の先生」と呼ばれるようになる[4]

三浦の死後、児玉誉士夫の門下に移り、児玉師団「青年思想研究会」の指導的立場となる[5]。また、1888年の創刊の国粋主義雑誌『日本及日本人』を再建復刊。代表取締役を務めた[5]

1987年9月23日付の朝日新聞が、1982年の中曽根康弘内閣成立の影で西山が暗躍したらしいと報じた。これに関してジャーナリストの猪野健治は、西山が政界を采配して中曽根内閣を作ったなどとは考えられず、何らかのスキャンダルを抑えたという可能性は有りうると指摘している[6]

伊藤忠商事野村證券ヤクルト本社のトラブルに暗躍。総会屋で『現代の眼』主幹だった木島力也とは刎頚の友であり、広域暴力団ともつながりがあった。松本信一(元太陽ファーマーズ社長)は門下生にあたる。このほか、1993年にオープンした宮崎県の大規模リゾート施設シーガイア建設に際し、第一勧業銀行宮崎邦次頭取に働きかけ1000億円の協調融資を引き出したほか、同県に大きな影響力を持っていた[7]

2001年10月、西山と親交のあった大東塾の鈴木正男代表が自殺[8]。また第一勧業銀行三菱グループによる総会屋に対する利益供与事件が発覚後、日本政治文化研究所の会員企業が支払う会費が賛助金と同質と見られる風潮が強まり、会員を辞退する企業が続出した[9]。そうした情況の変化を踏まえ、2002年春、西山が交流のあった関係者に「自由な牢人となります」という引退の意思表示と見られる挨拶状を送付。同年3月末で日本政治文化研究所と西山広喜事務所のオフィスを閉鎖した[4]

2005年2月24日午後0時50分、肝不全のため、東京都中央区の病院で死去。81歳没[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『日本の右翼』p.328
  2. ^ a b 『謀略の昭和裏面史―特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』p.28
  3. ^ 『日本の右翼』p.330 - 331
  4. ^ a b 『日本の右翼』p.324
  5. ^ a b 『AERA』1997年6月30日号
  6. ^ 『謀略の昭和裏面史―特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』p.29
  7. ^ 『AERA』1997年7月14日号
  8. ^ 「右翼 大東塾代表が自殺か」『朝日新聞』夕刊 2001年10月9日
  9. ^ 『日本の右翼』p.327
  10. ^ “西山広喜氏死去 元日本政治文化研究所理事長”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年2月27日). オリジナル2013年5月1日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/Uc9ov 2017年9月6日閲覧。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]