藤原範永

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藤原範永
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 不明
死没 不明
改名 範永→津入道
官位 正四位下摂津守
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇
氏族 藤原北家長良
父母 父:藤原中清、母:藤原永頼
兄弟 範永、範基、永禅、源頼国
正室:藤原能通
小式部内侍
良綱清家藤原頼宗家女房、永綱
季仲、永賀、藤原知綱母、藤原公基室、藤原忠綱室、女子
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藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族歌人和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭藤原中清(仲清)の子。官位正四位下摂津守

経歴[編集]

長和5年(1016年六位蔵人に任命される。寛仁元年(1017年修理権亮に任ぜられたのち、式部大丞を経て寛仁3年(1019年従五位下に叙爵。伯耆守甲斐権守を務め、治安3年(1023年春宮少進として後朱雀天皇に仕える。長元年間に従四位下まで昇り、尾張守長久4年(1043年)従四位上、寛徳2年(1045年大膳大夫

天喜元年(1053年但馬守に任ぜられ3年後、正四位下に叙される。阿波守・摂津守・紀伊守を務め、藤原頼通の七十賀に参会している。延久頃(1070年頃)に出家。津入道と号す。後代、一子・良綱の子孫が高倉家堀河家樋口家として堂上家に列した。

歌人として[編集]

長久2年(1041年)『弘徽殿女御歌合』、永承5年(1050年)6月の『加賀院歌合』、天喜4年(1056年)『皇后宮寛子春秋歌合』等に参加。康平6年(1063年)、『公基朝臣歌合』では判者を務めた。受領層の歌人集団・和歌六人党では指導的立場にあり、相模能因を始め多くの歌人との交流が知られる。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計30首が入集。家集『範永朝臣集』がある。

系譜[編集]

出典[編集]