藤原永頼

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藤原永頼
時代 平安時代中期
生誕 承平2年(932年
死没 寛弘7年2月27日1010年4月14日
別名 正字:永賴、号:山井三位
官位 従三位皇太后宮権大夫
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原南家貞嗣
父母 父:藤原尹文、母:藤原定方
兄弟 永保、永年、永頼、永平、永令、慶円?、藤原斉敏
藤原宣雅娘
能通、信通、保相、永信、
藤原道頼正室、藤原頼通側室、
藤原中清室、藤原通任
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藤原 永頼(ふじわら の ながより)は、平安時代中期の公卿藤原南家貞嗣流、播磨守藤原尹文の子。官位従三位皇太后宮権大夫山井三位と号す。

経歴[編集]

応和2年(962年)、村上天皇蔵人に補され、木工助に任ぜられる。応和3年(963年近江掾に転じるが再度木工助を務め、その後従五位下叙爵

美作介を経て、天延2年(974年尾張国の百姓の訴えにより尾張守藤原連真が解任されると、永頼が守に任ぜられた[1]。この当時、散位であった。その後も美作・伊勢国讃岐国大和国丹波国[2]・近江と計七国の受領を歴任。中宮権亮や木工頭も務めた。近江守在任中[3]長保6年(1004年仁寿殿の造宮の功[3]従三位に叙される[4]。また、皇太后宮権大夫も務めた。

寛弘2年(1005年)3月、藤原実資を訪ねて出家の意を漏らした後[5]、寛弘3年(1006年)10月に出家する。寛弘7年(1010年)閏2月薨去。享年79。岳父・藤原定方より伝領した山井の邸宅に住んでいたため山井三位と号した。この山井第は後に娘婿の道頼が所有した。

永頼の子孫は院政期藤原信西藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。

人物[編集]

応和3年(963年)8月15日夜に行われた内裏歌合に参加するなど、少しばかり和歌を詠んだ。

官歴[編集]

※任官時期が不明なものは『尊卑分脈』の記載による。

  • 時期不詳:
    • 木工頭に任ず。
    • 東宮昇殿を聴す。
    • 中宮権亮に任ず。
    • 美作守に任ず。
    • 伊勢守に任ず。
    • 讃岐守に任ず。
    • 大和守に任ず。
    • 丹波守に任ず[2]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 日本紀略天延2年5月23日条
  2. ^ a b または、丹後守尊卑分脈)。
  3. ^ a b 権記長保6年正月7日条
  4. ^ 公卿に列したものの、『公卿補任』には記載されていない。
  5. ^ 小右記寛弘2年3月17日条
  6. ^ 西宮記応和2年正月17日条
  7. ^ 延喜天暦御記抄応和2年8月10日条
  8. ^ 親信公記天延2年5月23日条
  9. ^ a b c 一代要記藤原永頼