與那原大剛
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読売ジャイアンツ #046 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 沖縄県北谷町 |
生年月日 | 1998年3月9日(23歳) |
身長 体重 |
189 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2015年 ドラフト3位 |
年俸 | 380万円(2021年)[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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與那原 大剛(よなはら ひろたか、1998年3月9日 - )は、沖縄県出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
小学3年生で野球を始め、6年生の時には県大会ベスト8進出、学童軟式野球全国大会優勝を果たす[2]。桑江中学校では日隈ジュリアスと同級生だった[3]。高校進学を控え複数の高校から勧誘を受けたものの、小学校時からバッテリーを組んでいたチームメイトと同じ高校に入ることを希望し、沖縄県立普天間高等学校に進学した[2]。高校では3年夏の全国高等学校野球選手権大会で県予選ベスト8に進出したのが最高成績で、甲子園出場は果たせなかったものの、身長190cm、体重89kgの体格と、最高球速148km/hの速球で注目され、県予選ではプロ11球団のスカウトが視察に訪れていた[2][4]。
2015年ドラフト会議において読売ジャイアンツに3位指名され、11月9日に契約金は5,000万円、年俸は600万円(推定)で仮契約を交わした[5]。背番号は46に決まった。
プロ入り後[編集]
2017年9月、三軍戦での登板時に右肘に痛みを覚え、病院で「右肘内惻側副靱帯の損傷」と診断され、保存療法での治療を選択[6]。
2018年に入っても右肘の状態が良くならず春季キャンプ前にはPRP療法を選択し完治を目指すも、6月にトミー・ジョン手術を受けた[6]。10月2日、自由契約を通知された[7]。11月19日、育成選手として再契約した[8]。
2019年は8月6日に行われたファーム紅白戦で1年11か月ぶりに実戦復帰し、その試合で自己最速の150km/hを計測した[9]。
2020年は6月に右肘の肉離れで戦線離脱。イースタン・リーグでも登板機会なしに終わった[10]。
詳細情報[編集]
背番号[編集]
- 46 (2016年 - 2017年)
- 91 (2018年)
- 023 (2019年 - 2020年)
- 046 (2021年 - )
登場曲[編集]
- 「Brave」ナオト・インティライミ(2016年 - 2018年3月)
- 「海の声」BENI(2018年4月 - 2019年7月)
- 「OKINAWA CALLING」MONGOL800(2019年8月 - )
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ 巨人 - 契約更改 - プロ野球 日刊スポーツ 2020年12月8日閲覧。
- ^ a b c “県立普天間高等学校 與那原 大剛投手「目指すは日本を代表するエース!」”. ベースボールドットコム. WoodStock (2015年10月8日). 2015年11月14日閲覧。
- ^ 日隈、ヤクルトと仮契約 背番号48「早く1軍に」 沖縄タイムス 2015年11月28日
- ^ “地方予選敗退組が上位候補? 今秋ドラフトで注目の“隠し球”高校球児は普天間から八戸まで!”. 週プレNEWS. 集英社 (2015年9月1日). 2015年11月14日閲覧。
- ^ “普天間高校・與那原選手がジャイアンツと仮契約”. 琉球放送. (2015年11月9日) 2015年11月14日閲覧。
- ^ a b トミー・ジョン手術からの復帰目指す育成・与那原、大きな決断と心の支えとなった存在 サンケイスポーツ 2019年6月26日
- ^ 巨人が育成契約の成瀬に戦力外通告 與那原は自由契約に Full-Count 2018年10月2日
- ^ 巨人与那原、自由契約→育成で再出発「恩返せれば」 日刊スポーツ 2018年11月19日
- ^ “【巨人】与那原、復活の150キロ…昨年6月に右肘手術、6日のファーム紅白戦で好投”. スポーツ報知 (2019年8月13日). 2021年3月17日閲覧。
- ^ “巨人与那原40万減「1軍の戦力になれるように”. 日刊スポーツ (2020年12月8日). 2021年3月17日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 與那原大剛 - NPB.jp 日本野球機構
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