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'''サームプラヤー王'''は[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]の王の一人。父である[[ナカリンタラーティラート]]王が崩御した時、兄であり[[スパンブリー]]の国主であった[[アイプラヤー]]と同じく兄であり[[プレークシーラーチャー]]の国主であった[[イープラヤー]]と王位を争ったが、上の兄二人が相討ちして死亡したのでサームプラヤーが王位に就くことになった。
'''サームプラヤー王'''(? - [[1448年]])は[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]の王の一人。父である[[ナカリンタラーティラート]]王が崩御した時、兄であり[[スパンブリー]]の国主であった[[アイプラヤー]]と同じく兄であり[[プレークシーラーチャー]]の国主であった[[イープラヤー]]と王位を争ったが、上の兄二人が相討ちして死亡したのでサームプラヤーが王位に就くことになった。


後に、[[アンコール・トム]]を攻略し、[[クメール王朝|クメール]]からクメール官吏を捕虜として連れて来た。それにより、[[バラモン教]]の文化面がアユタヤ王朝に入り込み、[[サックディナー制度]]と呼ばれる[[封建制度]]に似たシステムを導入したり、親である王が、子である国民と友好的な国作りをするという''[[ポークン]]思想''に代わって、王は神であるとするバラモン的な'''[[デーヴァラージャ|神王思想]]'''を導入したり、宮中儀式をバラモン風に改めたりした。後に、この神王思想は[[ラーチャサップ|王語]]を生み出したりもした。特にサックディナー制度はこれ以降、[[タイの王朝]]の基本的体制となる。この王の時代に[[スコータイ王朝]]は完全に、[[アユタヤー王朝]]の支配下に入った。
後に、[[アンコール・トム]]を攻略し、[[クメール王朝|クメール]]からクメール官吏を捕虜として連れて来た。それにより、[[バラモン教]]の文化面がアユタヤ王朝に入り込み、[[サックディナー制度]]と呼ばれる[[封建制度]]に似たシステムを導入したり、親である王が、子である国民と友好的な国作りをするという''[[ポークン]]思想''に代わって、王は神であるとするバラモン的な'''[[デーヴァラージャ|神王思想]]'''を導入したり、宮中儀式をバラモン風に改めたりした。後に、この神王思想は[[ラーチャサップ|王語]]を生み出したりもした。特にサックディナー制度はこれ以降、[[タイの王朝]]の基本的体制となる。この王の時代に[[スコータイ王朝]]は完全に、[[アユタヤー王朝]]の支配下に入った。
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[[Category:1448年没]]

2016年5月30日 (月) 12:01時点における版

サームプラヤー
เจ้าสามพระยา
ボーロマラーチャーティラート2世(สมเด็จเจ้าพระยาบรมราชาธิราชที่ ๒)
在位 1424年 - 1448年
全名 サームプラヤー
王朝 アユタヤ王朝8代目
家系 ロッブリー家
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サームプラヤー王(? - 1448年)はタイアユタヤ王朝の王の一人。父であるナカリンタラーティラート王が崩御した時、兄でありスパンブリーの国主であったアイプラヤーと同じく兄でありプレークシーラーチャーの国主であったイープラヤーと王位を争ったが、上の兄二人が相討ちして死亡したのでサームプラヤーが王位に就くことになった。

後に、アンコール・トムを攻略し、クメールからクメール官吏を捕虜として連れて来た。それにより、バラモン教の文化面がアユタヤ王朝に入り込み、サックディナー制度と呼ばれる封建制度に似たシステムを導入したり、親である王が、子である国民と友好的な国作りをするというポークン思想に代わって、王は神であるとするバラモン的な神王思想を導入したり、宮中儀式をバラモン風に改めたりした。後に、この神王思想は王語を生み出したりもした。特にサックディナー制度はこれ以降、タイの王朝の基本的体制となる。この王の時代にスコータイ王朝は完全に、アユタヤー王朝の支配下に入った。

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