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'''あすなろ杯争奪リーグ戦'''(あすなろはいそうだつせん)は、[[全日本プロレス]]が主催するリーグ戦(第4回大会のみワンデイ・トーナメント)。前身に'''ルー・テーズ杯争奪リーグ戦'''がある。ここでは両リーグについて記述する。
'''あすなろ杯争奪リーグ戦'''(あすなろはいそうだつせん)は、[[全日本プロレス]]が主催する同団体の若手[[プロレスラー]]を中心とした[[プロレス]]のリーグ戦(第4回大会のみワンデイ・トーナメント)である。[[新日本プロレス]]における[[ヤングライオン杯争奪リーグ戦|ヤングライオン杯]]に相当する。前身に[[ルー・テーズ]]杯争奪リーグ戦がある。ここでは両リーグについて記述する。


== 歴代優勝者 ==
== 歴代優勝者 ==
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|大森隆男
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|第4回
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|[[丸藤正道]]
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|[[森嶋猛]]、[[橋誠]]この大会のみワンデイ・トーナメント
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== ルー・テーズ杯争奪リーグ戦 ==
== ルー・テーズ杯争奪リーグ戦 ==
[[1983年]]に[[全日本プロレス]]所属の若手選手によるリーグ戦「[[ルー・テーズ]]杯争奪リーグ戦」が開催された。当リーグ開催の2年前に[[国際プロレス]]が主催し団体崩壊のため決勝大会が中止になった[[ルー・テーズ杯争奪戦|同名の大会]]とは一切無関係。[[4月22日]]の[[中島公園|札幌中島体育センター]]大会でリーグ戦上位2名による決勝戦が行われ、[[越中詩郎]]が[[三沢光晴]]を下し優勝した。決勝戦のレフェリーをルー・テーズが務めた。優勝した越中には海外武者修行の権利が与えられた。また決勝戦が好勝負であったため、[[ジャイアント馬場]]の計らいで、準優勝の三沢にも海外へ武者修行に出る権利が与えられた。その後の2人の運命は両者の記事に記されている通りである。
[[1983年]]に若手選手によるリーグ戦「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」が開催された。当リーグ開催の2年前に[[国際プロレス]]が主催し団体崩壊のため決勝大会が中止になった[[ルー・テーズ杯争奪戦|同名の大会]]とは一切無関係。[[4月22日]]の[[中島公園|札幌中島体育センター]]大会でリーグ戦上位2名による決勝戦が行われ、[[越中詩郎]]が[[三沢光晴]]を下し優勝した。決勝戦のレフェリーをルー・テーズが務めた。優勝した越中には海外武者修行の権利が与えられた。また決勝戦が好勝負であったため、[[ジャイアント馬場]]社長の計らいで、準優勝の三沢にも海外へ武者修行に出る権利が与えられた。その後の人の運命は両者の記事に記されている通りである。
; 参加8人
;参加8人
* 越中詩郎 6勝1敗 ※優勝
* 越中詩郎:6勝1敗 ※優勝
* 三沢光晴 5勝1敗1分 ※準優勝
* 三沢光晴:5勝1敗1分 ※準優勝
* [[アポロ菅原|菅原伸義]] 4勝2敗1分
* [[アポロ菅原|菅原伸義]]:4勝2敗1分
* [[百田義浩]] 4勝2敗
* [[百田義浩]]:4勝2敗
* [[百田光雄]] 4勝2敗
* [[百田光雄]]:4勝2敗
* [[ターザン後藤|後藤政二]] 1勝5敗1分
* [[ターザン後藤|後藤政二]]:1勝5敗1分
* [[冬木弘道]] 1勝5敗1分
* 冬木弘道:1勝5敗1分
* [[川田利明]] 7
* 川田利明:7
※百田義浩と百田光雄は対戦しなかった。
※百田義浩と百田光雄は対戦しなかった。


== ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦 ==
== ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦 ==
[[2000年]][[1月22日]]の第4回大会から半年後、大半の選手が[[プロレスリング・ノア]]に移り、選手層が薄くなった全日本だが、その後フリー、他団体の選手の参戦、他団体からの中堅選手の入団、[[2001年]]8月19日の[[宮本和志]]のデビューなどで選手が増え、[[2002年]]1月に若手選手、中堅選手12名によるリーグ戦「ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦」が開催された。[[1月14日]]の[[横浜文化体育館]]大会で各ブロック1位による決勝戦が行われ、[[長井満也]]が[[荒谷望誉|荒谷信孝]]を破り優勝したが同大会はこの1回で消滅した。
[[2000年]][[1月22日]]の第4回大会から半年後、大半の選手が[[プロレスリング・ノア]]に移り、選手層が薄くなった全日本だが、その後フリー選手、他団体の選手の参戦、他団体からの中堅選手の入団、[[2001年]]8月19日の[[宮本和志]]のデビューなどで選手が増え、[[2002年]]1月に若手選手、中堅選手12名によるリーグ戦「ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦」が開催された。[[1月14日]]の[[横浜文化体育館]]大会で各ブロック1位による決勝戦が行われ、[[長井満也]]が[[荒谷望誉|荒谷信孝]]を破り優勝したが同大会はこの1回で消滅した。
; ルール
リーグ戦は20分1本勝負で行われ、4分59秒まで勝利 5点、9分59秒まで勝利 4点、14分59秒まで勝利 3点、19分59秒まで勝利 2点、時間切れ引き分け 1点、あらゆる負け 0点という得点形式が採用された。
; 参加12人
; 参加12人
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
; Aブロック
; Aブロック
* 長井満也 24点 ※優勝
* 長井満也 24点 ※優勝
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* [[保坂秀樹]] 8点
* [[保坂秀樹]] 8点
* [[土方隆司]] 8点
* [[土方隆司]] 8点
* [[HIROKI (プロレスラー)|Hi69]] 0点
* [[HIROKI (プロレスラー)|Hi69]]([[KAIENTAI-DOJO]]) 0点
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
; Bブロック
; Bブロック
* 荒谷信孝 21点 ※準優勝
* 荒谷信孝 21点 ※準優勝
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* 宮本和志 8点
* 宮本和志 8点
* [[愚乱・浪花]] 7点
* [[愚乱・浪花]] 7点
* [[ヤス・ウラノ]] 0点
* [[ヤス・ウラノ]](KAIENTAI-DOJO) 0点
</div><br style="clear: left;" />
リーグ戦は20分1本勝負で行われ、4分59秒まで勝利:5点、9分59秒まで勝利:4点、14分59秒まで勝利:3点、19分59秒まで勝利:2点、時間切れ引き分け:1点、あらゆる負け:0点という得点形式が採用された。


== HOLD OUT CUP ==
== HOLD OUT CUP ==
[[武藤敬司]][[2004年]]、若手、中堅選手6名によるリーグ戦「HOLD OUT CUP」の開催が発表された。優勝選手には[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]への出場権が与えられるというものだったが6名のうち3名が負傷欠場となり、リーグ戦自体が中止となってしまった。
[[武藤敬司]]社長就任後の[[2004年]]、若手選手、中堅選手6名によるリーグ戦「HOLD OUT CUP」の開催が発表された。優勝選手には[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]への出場権が与えられるというものだったが、全6名のうち3名が負傷欠場となり、リーグ戦自体が中止となってしまった。


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2016年4月18日 (月) 17:45時点における版

あすなろ杯争奪リーグ戦(あすなろはいそうだつりーぐせん)は、全日本プロレスが主催する同団体の若手プロレスラーを中心としたプロレスのリーグ戦(第4回大会のみワンデイ・トーナメント)である。新日本プロレスにおけるヤングライオン杯に相当する。前身にルー・テーズ杯争奪リーグ戦がある。ここでは両リーグについて記述する。

歴代優勝者

優勝者 準優勝 開催年 その他の出場者
第1回 川田利明 サムソン冬木高野俊二 1989年 高木功田上明小橋健太
第2回 秋山準 大森隆男 1994年 浅子覚井上雅央泉田竜角本田多聞リチャード・スリンガー
第3回 本田多聞 大森隆男 1996年 浅子、井上雅、泉田、志賀賢太郎マウナケア・モスマン
第4回 金丸義信 丸藤正道 2000年 森嶋猛橋誠(この大会のみワンデイ・トーナメント)

ルー・テーズ杯争奪リーグ戦

1983年に若手選手によるリーグ戦「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」が開催された。当リーグ開催の2年前に国際プロレスが主催し、団体崩壊のため決勝大会が中止になった同名の大会とは一切無関係。4月22日札幌中島体育センター大会でリーグ戦上位2名による決勝戦が行われ、越中詩郎三沢光晴を下し優勝した。決勝戦のレフェリーをルー・テーズが務めた。優勝した越中には海外武者修行の権利が与えられた。また、決勝戦が好勝負であったため、ジャイアント馬場社長の計らいで、準優勝の三沢にも海外へ武者修行に出る権利が与えられた。その後の二人の運命は両者の記事に記されている通りである。

参加8人

※百田義浩と百田光雄は対戦しなかった。

ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦

2000年1月22日の第4回大会から半年後、大半の選手がプロレスリング・ノアに移り、選手層が薄くなった全日本だが、その後、フリー選手、他団体の選手の参戦、他団体からの中堅選手の入団、2001年8月19日の宮本和志のデビューなどで選手が増え、2002年1月に若手選手、中堅選手12名によるリーグ戦「ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦」が開催された。1月14日横浜文化体育館大会で各ブロック1位による決勝戦が行われ、長井満也荒谷信孝を破り優勝したが、同大会はこの1回で消滅した。

参加12人
Aブロック
Bブロック


※リーグ戦は各20分1本勝負で行われ、4分59秒まで勝利:5点、9分59秒まで勝利:4点、14分59秒まで勝利:3点、19分59秒まで勝利:2点、時間切れ引き分け:1点、あらゆる負け:0点という得点形式が採用された。

HOLD OUT CUP

武藤敬司社長就任後の2004年、若手選手、中堅選手6名によるリーグ戦「HOLD OUT CUP」の開催が発表された。優勝選手にはチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられるというものだったが、全6名のうち3名が負傷欠場となり、リーグ戦自体が中止となってしまった。