あすなろ杯争奪リーグ戦

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あすなろ杯争奪リーグ戦(あすなろはいそうだつりーぐせん)は、全日本プロレスが主催する同団体の若手プロレスラーを中心としたプロレスのリーグ戦(第4回大会のみワンデイ・トーナメント)である。新日本プロレスにおけるヤングライオン杯に相当する。前身にルー・テーズ杯争奪リーグ戦がある。ここでは両リーグについて記述する。

第1回大会(1989年)[編集]

参加6人
内容
高野が順当に勝ち点を伸ばし優勝に王手をかけるが、最後の公式戦で小橋にリングアウト負けを喫し川田、冬木のフットルースに並ばれる。優勝戦は巴戦で行われ、まず冬木が高野を下し先に王手をかけるが、翌日の2戦目で川田が冬木を丸め込みリーグ戦の雪辱を果たすと、川田は翌日の3戦目でも高野をムーンサルトアタックで下し優勝を決めた。

第2回大会(1994年)[編集]

参加7人
内容
5年ぶりに開催された第2回は、本命と目された「超新星」秋山が期待通り全勝でリーグ戦をトップ通過、2位争いは同期の大森が混戦を抜け出し優勝戦進出。優勝戦は大森が奮戦するも秋山が初披露のエクスプロイダーから北斗原爆固めを決め文句なしの優勝、チャンピオン・カーニバルへの出場権を獲得した。

第3回大会(1996年)[編集]

参加7人
内容
5人による混戦を抜け出した大森と本田が優勝戦に進出。優勝戦は本田がダイビング・ヘッドバットを決めて優勝、大森はまたも優勝戦で涙を呑んだ。

第4回大会(2000年)[編集]

参加4人
内容
この大会のみワンデイ・トーナメントで行われた。1回戦で森嶋を丸め込んだ丸藤と橋を下した金丸が優勝戦に進出。優勝戦は金丸が先輩の貫禄を見せムーンサルトプレスで快勝し優勝したが、出場した4人は5ヶ月後に全員全日本を離脱した。

ルー・テーズ杯争奪リーグ戦[編集]

1983年に若手選手によるリーグ戦「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」が開催された。当リーグ開催の2年前に国際プロレスが主催し、団体崩壊のため決勝大会が中止になった同名の大会とは一切無関係。4月22日札幌中島体育センター大会でリーグ戦上位2名による決勝戦が行われ、越中詩郎三沢光晴を下し優勝した。決勝戦のレフェリーをルー・テーズが務めた。優勝した越中には海外武者修行の権利が与えられた。また、決勝戦が好勝負であったため、ジャイアント馬場社長の計らいで、準優勝の三沢にも海外へ武者修行に出る権利が与えられた。その後の二人の運命は両者の記事に記されている通りである。

参加8人

※百田義浩と百田光雄は対戦しなかった。

ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦[編集]

2000年1月22日の第4回大会から半年後、大半の選手がプロレスリング・ノアに移り、選手層が薄くなった全日本だが、その後、フリー選手、他団体の選手の参戦、他団体からの中堅選手の入団、2001年8月19日の宮本和志のデビューなどで選手が増え、2002年1月に若手選手、中堅選手12名によるリーグ戦「ジャイアント馬場杯争奪リーグ戦」が開催された。1月14日横浜文化体育館大会で各ブロック1位による決勝戦が行われ、長井満也荒谷信孝を破り優勝したが、同大会はこの1回で消滅した。

参加12人
Aブロック
Bブロック

※リーグ戦は各20分1本勝負で行われ、4分59秒まで勝利:5点、9分59秒まで勝利:4点、14分59秒まで勝利:3点、19分59秒まで勝利:2点、時間切れ引き分け:1点、あらゆる負け:0点という得点形式が採用された。

HOLD OUT CUP[編集]

武藤敬司社長就任後の2004年、若手選手、中堅選手6名によるリーグ戦「HOLD OUT CUP」の開催が発表された。優勝選手にはチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられるというものだったが、全6名のうち3名が負傷欠場となり、リーグ戦自体が中止となってしまった。