「カルロス2世 (スペイン王)」の版間の差分
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1679年に[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]](フランス王ルイ14世の弟)の娘[[マリー・ルイーズ・ドルレアン|マリア・ルイサ]]と結婚したが、虚弱なカルロス2世は性的にも不能だったと推測され、子供を持つことが出来なかった。マリア・ルイサは[[1689年]]に27歳で死去、カルロス2世は後添いとして[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]][[ライン宮中伯|選帝侯]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の娘[[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アナ]]を娶ったが、この結婚も成功ではなかった。やがてカルロス2世の[[精神障害]]の症状は悪化し、先妻の遺骸を掘り起こして手元に置くなどの奇行が始まる。こうした奇行を自殺願望の現れ(ただし[[カトリック教会|カトリック教徒]]として自殺は出来なかった)と見る歴史家も居る。 |
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後継者を迎える必要から、[[1698年]]に[[続柄#大甥・大姪|又甥]]に当たる[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ヨーゼフ・フェルディナント]](母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)を[[アストゥリアス公]]に叙爵したが、翌[[1699年]]に夭折した。他の継承者候補にはヨーゼフ・フェルディナントと同じく又甥に当たるアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世、ルイ14世と異母姉マリア・テレサの孫)と、母方の従弟に当たるカール大公(後の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、レオポルト1世の次男)がいた。 |
後継者を迎える必要から、[[1698年]]に[[続柄#大甥・大姪|又甥]]に当たる[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ヨーゼフ・フェルディナント]](母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)を[[アストゥリアス公]]に叙爵したが、翌[[1699年]]に夭折した。他の継承者候補にはヨーゼフ・フェルディナントと同じく又甥に当たるアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世、ルイ14世と異母姉マリア・テレサの孫)と、母方の従弟に当たるカール大公(後の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、レオポルト1世の次男)がいた。 |
2015年7月8日 (水) 04:44時点における版
カルロス2世 Carlos II | |
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スペイン王 | |
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在位 | 1665年9月17日 - 1700年11月1日 |
別号 | ナポリ王・シチリア王 |
出生 |
1661年11月6日 スペイン、マドリ-ド王宮 (en) |
死去 |
1700年11月1日(38歳没) スペイン、エル・エスコリアル修道院 |
配偶者 | マリア・ルイサ・デ・オルレアンス(1679年 - 1689年) |
マリア・アナ・デル・パラティナド=ニオブルゴ(1689年 - 1700年) | |
家名 | アブスブルゴ家 |
王朝 | アブスブルゴ朝 |
父親 | フェリペ4世 |
母親 | マリアナ・デ・アウストリア |
サイン |
カルロス2世(Carlos II, 1661年11月6日 - 1700年11月1日)は、ハプスブルク(アブスブルゴ)家最後のスペイン国王(在位:1665年 - 1700年)。フェリペ4世とマリアナ王妃の息子である。フランス王ルイ14世妃マリア・テレサは異母姉、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后マルガリータ・テレサは同母姉に当たる。庶出の異母兄にオニャテ伯フアン・ホセ・デ・アウストリアがいる。
生涯
先天性疾患
カルロス2世はスペイン王であると共に、ナポリ王国、シチリア王国などの南イタリアのほぼ全土の王であった。スペインの海外領土であるフィリピンやメキシコにも勢力を及ぼした。スペイン・ハプスブルク家最後の男子であり、彼の出生をスペイン国民は喜んだ。しかし、出生時から病弱な人物であり、当時その理由は「呪いをかけられたため」と一般に考えられており、カルロス2世自身もそう思っていた。現在では、彼が病弱だった理由はおそらくハプスブルク家の何重もの近親婚[1]であろうと考えられている。
カルロス2世は先端巨大症のため、咀嚼に影響があり、常によだれをたらしていた。他にもてんかん等いくつかの病気を患っていたと推測されている。また知的障害もあったらしく、特に幼少期には衣服を身につけた動物のようであり、教育らしい教育をすることも困難であったという。
支配
当時のスペイン経済は停滞しており、土地も痩せていたために飢饉もあった。スペインの地方領主の力も非常に弱くなっていた。カルロス2世の不適当なスペイン支配はしばしば諸外国(特にフランス)に影響した。
カルロス2世の母マリアナが長い間摂政を行ったが、母が追放されると異母兄のオニャテ伯フアン・デ・アウストリア(1677年から1679年まで宰相を務めた)が実権を握り、1679年には母が宮廷に戻り、再び摂政となった。ガスパール・デ・グスマンの権力が大きくなると、スペインの国力は次第に衰弱していった。1668年にポルトガルが北アフリカの飛び地(セウタ)をスペインに割譲したが、それはかつて60年以上ハプスブルク家の支配が続いたポルトガルにとっては小さな出来事であった。一方、フランス王ルイ14世が領土拡大を目論み起こしたネーデルラント継承戦争・オランダ侵略戦争・大同盟戦争でスペインはフランスと戦ったが、アーヘンの和約、ナイメーヘンの和約、レイスウェイク条約で南ネーデルラントの領地を失っていった。
スペイン異端審問では1680年に160人が宗教裁判所で裁かれ、21人が火刑されている。カルロス2世の数少ない政治活動として、スペインの宗教裁判所を調べ、調査のためにJunta Magna(大きな会議)を作ったとされている。しかし、フェリペ5世が王位に就いた際に記録を差し出すよう要求したにもかかわらず、記録は何故か見つからなかった。
結婚・一族
1679年にオルレアン公フィリップ1世(フランス王ルイ14世の弟)の娘マリア・ルイサと結婚したが、虚弱なカルロス2世は性的にも不能だったと推測され、子供を持つことが出来なかった。マリア・ルイサは1689年に27歳で死去、カルロス2世は後添いとしてプファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘マリア・アナを娶ったが、この結婚も成功ではなかった。やがてカルロス2世の精神障害の症状は悪化し、先妻の遺骸を掘り起こして手元に置くなどの奇行が始まる。こうした奇行を自殺願望の現れ(ただしカトリック教徒として自殺は出来なかった)と見る歴史家も居る。
後継者を迎える必要から、1698年に又甥に当たるヨーゼフ・フェルディナント(母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)をアストゥリアス公に叙爵したが、翌1699年に夭折した。他の継承者候補にはヨーゼフ・フェルディナントと同じく又甥に当たるアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世、ルイ14世と異母姉マリア・テレサの孫)と、母方の従弟に当たるカール大公(後のカール6世、レオポルト1世の次男)がいた。
1700年、カルロス2世はスペイン王位をアンジュー公フィリップに譲ると表明して死亡し、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。1701年2月にルイ14世はパリ高等法院にスペイン王位継承権執行を命令する。以後、スペイン・ブルボン家は現代のフェリペ6世まで続くスペイン王家となった。
しかしこの王位継承を巡ってスペイン継承戦争が勃発する。この戦争は1714年に終結するが、スペイン領であった南ネーデルラントを巡ってはルイ14世の曾孫ルイ15世の時代まで紛糾が続くことになる。
血統
カルロス2世の血統 | (血統表の出典) | |||
父系 | ハプスブルク家 |
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父 スペイン王フェリペ4世 |
父の父 スペイン王フェリペ3世
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スペイン王フェリペ2世 | 神聖ローマ皇帝カール5世(カルロス1世) | |
イサベル・デ・ポルトゥガル | ||||
アナ・デ・アウストリア | 神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世 | |||
マリア・デ・アブスブルゴ | ||||
父の母 マルガリータ・デ・アウストリア
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オーストリア大公カール2世 | 神聖ローマ皇帝フェルディナント1世 | ||
アンナ・ヤギエロ | ||||
マリア・アンナ・フォン・バイエルン(叔母) | バイエルン公アルブレヒト5世 | |||
アンナ・フォン・エスターライヒ | ||||
母 マリアナ・デ・アウストリア |
神聖ローマ皇帝フェルディナント3世 | 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世 | オーストリア大公カール2世 | |
マリア・アンナ・フォン・バイエルン(叔母) | ||||
マリア・アンナ・フォン・バイエルン(姪) | バイエルン公ヴィルヘルム5世 | |||
レナータ・フォン・ロートリンゲン | ||||
母の母 マリア・アナ・デ・アウストリア
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スペイン王フェリペ3世 | スペイン王フェリペ2世 | ||
アナ・デ・アウストリア | ||||
マルガリータ・デ・アウストリア | オーストリア大公カール2世 | |||
マリア・アンナ・フォン・バイエルン(叔母) | ||||
5代内の近親交配 | スペイン王フェリペ4世(全妹 マリア・アナ・デ・アウストリア) 1×2=75.0% マルガリータ・デ・アウストリア(全兄 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世) 2×3・3=50.0% |
- 詳細な家系図はen:Image:Carlos segundo80.pngを参照。
脚注
関連項目
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