「スティーブン (イングランド王)」の版間の差分

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'''スティーブン'''('''Stephen''', [[1096年]]頃 - [[1154年]][[10月25日]])は、[[ブロワ家|ブロワ朝]]唯一の[[イングランド]]王(在位:[[1135年]] - [[1154年]])。その治世は内戦が収まらず、[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]](The Anarchy)と呼ばれた。
'''スティーブン'''('''Stephen''', [[1096年]]頃 - [[1154年]][[10月25日]])は、[[ブロワ家|ブロワ朝]]唯一の[[イングランド]]王(在位:[[1135年]] - [[1154年]])。その治世は内戦が収まらず、[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]](The Anarchy)と呼ばれた。


== 生涯 ==
スティーブは、フランス貴族である[[ブロワ家|ブロワ伯]][[エティエンヌ2世 (ブロワ伯)|エティエンヌ2世]]と、[[イングランド]]王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)の娘アデラの間の息子の一人として生まれた。フランスでの名前は'''エティエンヌ'''('''Etienne''')である。[[1125年]]、ブローニュ伯ウスタシュ3世の娘[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]](英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄ティボー4世([[シャンパーニュ伯]]としては[[ティボー2世 (シャンパーニュ伯)|ティボー2世]])が継承している。
=== 即位前 ===
[[フラス王国|フランス]]貴族である[[ブロワ家|ブロワ伯]][[エティエンヌ2世 (ブロワ伯)|エティエンヌ2世]]と、[[イングランド]]王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)の娘アデラの間の息子の一人として生まれた。フランスでの名前は'''エティエンヌ'''('''Etienne''')である。[[1125年]]、[[ブローニュ]][[ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ3世]]の娘[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]](英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄ティボー4世([[シャンパーニュ伯]]としては[[ティボー2世 (シャンパーニュ伯)|ティボー2世]])が継承している。


母方の叔父であるイングランド王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]](ウィリアム1世の子)は、一人息子ウィリアムを1119年に失い、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]に嫁いでいた[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]](モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを1125年に呼び戻して王位継承者とし、1128年にはノルマンディーに隣接するアンジュー伯の息子[[ジョフロワ4世]]と結婚させていた。
母方の叔父であるイングランド王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]](ウィリアム1世の子)は、一人息子ウィリアムを[[1119年]]に失い、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]に嫁いでいた[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]](モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを[[1125年]]に呼び戻して王位継承者とし、[[1128年]]にはノルマンディーに隣接する[[アンジュー]][[フールク・ダンジュー|フルク5世]]の息子[[ジョフロワ4世]]と結婚させていた。


ところがヘンリー1世が[[1135年]]に死ぬと、スティーブンはヘンリー生前の取り決めや先王の家臣達の意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランスから[[ロンドン]]に入ると、ロンドン市民と自らの弟ウィンチェスター司教ヘンリーに[[カンタベリー大司教]]を説得させ、彼等の推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)。
ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の家臣達の意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランスから[[ロンドン]]に入ると、ロンドン市民と自らの弟ウィンチェスター司教ヘンリーに[[カンタベリー大司教]]を説得させ、彼等の推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)。


=== 無政府時代 ===
はじめ安定するかに見えた治世は、モード派の巻き返しによって次第に混乱していった。[[1141年]]、スティーブンはモード派の[[グロスター伯ロバート]]との戦いに敗れて捕虜となったが、モード派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブンはその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。
はじめ安定するかに見えた治世は、モード派の巻き返しによって次第に混乱していった。[[1141年]]、スティーブンはモード派の[[グロスター伯ロバート]]との戦いに敗れて捕虜となったが、モード派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブンはその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。


スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求し、スティーブンは有力者たちによる推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張すると言う事態の解決は、マティルダの息子ヘンリー2世の登場を待たねばならなかった。
スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求し、スティーブンは有力者たちによる推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張すると言う事態の解決は、マティルダの息子ヘンリー2世の登場を待たねばならなかった。


スティーブンの治世を3期に分けると、1139年頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のために家臣達にばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、家臣達の不審と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。第2期は、マティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。第3期は1140年代末から始まり、1147年のグロスター伯の死去、1148年のマティルダ自身の死去、1151年のアンジュー伯の死去で、マティルダ派が凋落した。
スティーブンの治世を3期に分けると、[[1139年]]頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のために家臣達にばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、家臣達の不審と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。第2期は、マティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。第3期は[[1140年]]代末から始まり、[[1147年]]のグロスター伯の死去、[[1148年]]のマティルダ自身の死去、[[1151年]]のアンジュー伯の死去で、マティルダ派が凋落した。


=== 終結 ===
厭戦気分が漂い始めた[[1153年]]に転機が訪れ、長男ブローニュ伯[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]](英名ユースタス)を失ったスティーブンは、モード派との話し合いに応じた。モードの息子アンジュー伯アンリとの間に[[ウォーリングフォード]]で和平協定を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子にはウスタシュの弟[[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた。
厭戦気分が漂い始めた[[1153年]]に転機が訪れ、長男ブローニュ伯[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]](英名ユースタス)を失ったスティーブンは、モード派との話し合いに応じた。モードの息子アンジュー伯アンリとの間に[[ウォーリングフォード]]で和平協定を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子には次男でウスタシュの弟[[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた。


1154年10月25日にスティーブンが[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]で死去したことから、協定の通りアンリが[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]としてイングランド王位を継承し、[[プランタジネット朝]]が成立した。
1154年10月25日にスティーブンが[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]で死去したことから、協定の通りアンリが[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]としてイングランド王位を継承し、[[プランタジネット朝]]が成立した。

=== 子孫 ===
ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が[[1159年]]に亡くなると娘の[[マリー・ド・ブローニュ|マリー]]が相続、[[フランドル伯]][[ティエリ・ダルザス (フランドル伯)|ティエリ・ダルザス]]の次男[[マシュー (ブローニュ伯)|マシュー]]と結婚するが、[[1170年]]に離婚、ブローニュはマシューに奪われる形となってしまった。所領は失ったが、娘が[[ブラバント公]][[アンリ1世 (ブラバント公)|アンリ1世]]に嫁ぎ、その子孫は[[ホラント伯]]、[[エノー伯]]となった。イングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の王妃[[フィリッパ・オブ・エノー]]はエノー伯家の出身である。


== 家族 ==
== 家族 ==
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* ボードゥアン(ボルドウィン、? - 1135年)
* ボードゥアン(ボルドウィン、? - 1135年)
* マオー(? - 1135年)
* マオー(? - 1135年)
* [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]](ユースタス、1130 - 1153年) - ブローニュ伯
* [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]](ユースタス、1127年 - 1153年) - ブローニュ伯
* [[マリー・ド・ブローニュ|マリー]](メアリー、1131年 - 1180年) - [[フランドル伯]][[ティエリ・ダルザス (フランドル伯)|ティエリ・ダルザス]]の次男マシューと結婚。
* [[マリー・ド・ブローニュ|マリー]](メアリー、1136年 - 1182年) - ブローニュ女伯、[[フランドル伯]][[ティエリ・ダルザス (フランドル伯)|ティエリ・ダルザス]]の次男[[マシュー (ブローニュ伯)|マシュー]]と結婚。
* [[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム、1137年頃 - 1159年) - ブローニュ伯、[[サリー (イングランド)|サリー]]伯
* [[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム、1137年頃 - 1159年) - ブローニュ伯、[[サリー (イングランド)|サリー]]伯



2010年3月9日 (火) 15:49時点における版

スティーブン

スティーブンStephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。

生涯

即位前

フランス貴族であるブロワ伯エティエンヌ2世と、イングランドウィリアム1世(征服王)の娘アデラの間の息子の一人として生まれた。フランスでの名前はエティエンヌEtienne)である。1125年ブローニュウスタシュ3世の娘マティルド(英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄・ティボー4世(シャンパーニュ伯としてはティボー2世)が継承している。

母方の叔父であるイングランド王ヘンリー1世(ウィリアム1世の子)は、一人息子ウィリアムを1119年に失い、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁いでいたマティルダ(モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを1125年に呼び戻して王位継承者とし、1128年にはノルマンディーに隣接するアンジューフルク5世の息子ジョフロワ4世と結婚させていた。

ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の家臣達の意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランスからロンドンに入ると、ロンドン市民と自らの弟・ウィンチェスター司教ヘンリーにカンタベリー大司教を説得させ、彼等の推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)。

無政府時代

はじめ安定するかに見えた治世は、モード派の巻き返しによって次第に混乱していった。1141年、スティーブンはモード派のグロスター伯ロバートとの戦いに敗れて捕虜となったが、モード派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブンはその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。

スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求し、スティーブンは有力者たちによる推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張すると言う事態の解決は、マティルダの息子ヘンリー2世の登場を待たねばならなかった。

スティーブンの治世を3期に分けると、1139年頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のために家臣達にばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、家臣達の不審と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。第2期は、マティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。第3期は1140年代末から始まり、1147年のグロスター伯の死去、1148年のマティルダ自身の死去、1151年のアンジュー伯の死去で、マティルダ派が凋落した。

終結

厭戦気分が漂い始めた1153年に転機が訪れ、長男のブローニュ伯ウスタシュ4世(英名ユースタス)を失ったスティーブンは、モード派との話し合いに応じた。モードの息子アンジュー伯アンリとの間にウォーリングフォードで和平協定を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子には次男でウスタシュの弟・ギヨーム(ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた。

1154年10月25日にスティーブンがドーバーで死去したことから、協定の通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。

子孫

ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が1159年に亡くなると娘のマリーが相続、フランドル伯ティエリ・ダルザスの次男マシューと結婚するが、1170年に離婚、ブローニュはマシューに奪われる形となってしまった。所領は失ったが、娘がブラバント公アンリ1世に嫁ぎ、その子孫はホラント伯エノー伯となった。イングランド王エドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノーはエノー伯家の出身である。

家族

マティルド(マティルダ、1103年? - 1152年)との間に3男2女をもうけた。

先代
ウスタシュ3世
ブローニュ伯
1128年 - 1151年
マティルド1世と共同統治
次代
ウスタシュ4世