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[[1940年]]に日劇を退団。翌年、東が設立した「東勇作バレエ団」に入団し、プリマバレリーナとして活躍した。終戦直後の[[1946年]]、舞踊評論家・[[蘆原英了]]の呼び掛けに応じて東、[[島田廣]]、[[貝谷八百子]]らが合同で設立した[[東京バレエ団 (第1期)|東京バレエ団]]に参加し、同年8月には日本初公演となる『[[白鳥の湖]]』全幕版において、同じ東門下生の半沢かほるとともに[[パ・ド・ドゥ]]を演じた。また、第2回公演、『[[ジゼル]]』ではミルタ役を演じた。
[[1940年]]に日劇を退団。翌年、東が設立した「東勇作バレエ団」に入団し、プリマバレリーナとして活躍した。終戦直後の[[1946年]]、舞踊評論家・[[蘆原英了]]の呼び掛けに応じて東、[[島田廣]]、[[貝谷八百子]]らが合同で設立した[[東京バレエ団 (第1期)|東京バレエ団]]に参加し、同年8月には日本初公演となる『[[白鳥の湖]]』全幕版において、同じ東門下生の半沢かほるとともに[[パ・ド・ドゥ]]を演じた。また、第2回公演、『[[ジゼル]]』ではミルタ役を演じた。


東京バレエ団が間もなく、所属団員による内紛から四分五裂すると、[[1947年]]に以前からバレエ鑑賞が趣味で交友があった[[内務省 (日本)|内務省]]国土局技官、清水正夫と結婚<ref>{{Cite web|url=http://www.acc-arakawa.jp/person/1996/05/No.89.html|title=No.89 清水 正夫(しみずまさお)|newspaper=荒川区芸術文化振興財団 HP|accessdate=2021-06-20}}</ref>。翌[[1948年]]に自身の団体である松山バレエ団を設立。退職した清水が団長、松山が芸術監督に就任した。以来、『白狐の湯』 ([[1953年]]) 、『[[白毛女]]』 ([[1955年]]) 、『[[バフチサライの泉]]』 ([[1957年]]) ,『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』 ([[1961年]]) 、『祇園祭』 ([[1963年]]) などを発表。特に1955年、中国民話を基にした[[革命歌劇]]をバレエ化した『白毛女』は中国国内でも高い評価を受け、[[1958年]]には[[周恩来]]主席の招きで中国公演を実現。以降、日中の文化交流事業に尽くした。
東京バレエ団が間もなく、所属団員による内紛から四分五裂すると、[[1947年]]に以前からバレエ鑑賞が趣味で交友があった[[内務省 (日本)|内務省]]国土局技官、清水正夫と結婚<ref>{{Cite web|url=http://www.acc-arakawa.jp/person/1996/05/No.89.html|title=No.89 清水 正夫(しみずまさお)|newspaper=荒川区芸術文化振興財団 HP|accessdate=2021-06-20}}</ref>。翌[[1948年]]に自身の団体である松山バレエ団を設立。退職した清水が団長、松山が芸術監督に就任した。以来、『白狐の湯』 ([[1953年]]) 、『[[白毛女]]』 ([[1955年]]) 、『[[バフチサライの泉]]』 ([[1957年]]) ,『[[オセロ|オセロ]]』 ([[1961年]]) 、『祇園祭』 ([[1963年]]) などを発表。特に1955年、中国民話を基にした[[革命歌劇]]をバレエ化した『白毛女』は中国国内でも高い評価を受け、[[1958年]]には[[周恩来]]主席の招きで中国公演を実現。以降、日中の文化交流事業に尽くした。


[[昭和53年]]([[1978年]])に引退し、以降は松山バレエ学校校長、[[日本バレエ協会]]専務理事など後進の指導にあたる他、[[ローザンヌ国際バレエコンクール]]の審査員なども勤めた。[[1980年]]に[[芸術祭賞]]大賞。[[1985年]]に[[紫綬褒章]]。[[1994年]]には勲四等[[宝冠章]]を受賞した。
[[昭和53年]]([[1978年]])に引退し、以降は松山バレエ学校校長、[[日本バレエ協会]]専務理事など後進の指導にあたる他、[[ローザンヌ国際バレエコンクール]]の審査員なども勤めた。[[1980年]]に[[芸術祭賞]]大賞。[[1985年]]に[[紫綬褒章]]。[[1994年]]には勲四等[[宝冠章]]を受賞した。

2023年11月18日 (土) 05:00時点における版

まつやま みきこ
松山 樹子
松山 樹子
東京発行所『エスエス』第4巻第11号(1939)より
本名 清水 樹子 (しみず みきこ)
生年月日 (1923-01-10) 1923年1月10日
没年月日 (2021-05-22) 2021年5月22日(98歳没)
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市隼人町)
職業 バレリーナ振付家芸術監督
ジャンル 現代舞踊バレエ
活動期間 1936年 - 2021年
配偶者 清水正夫
著名な家族 清水哲太郎 (長男)
所属劇団 日劇ダンシングチーム
東京バレエ団
東勇作バレエ団
松山バレエ団
公式サイト www.matsuyama-ballet.com
主な作品
『白狐の湯』
白毛女
バフチサライの泉
『祇園祭』
 
受賞
芸術祭奨励賞(1957年1963年
紫綬褒章1985年
勲四等宝冠章1994年
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松山 樹子(まつやま みきこ、1923年1月10日 - 2021年5月22日[1]日本バレリーナ振付師。夫の清水正夫とともに松山バレエ団を設立した日本のバレエ界のパイオニアである[2]。長男、清水哲太郎もバレエダンサーであり、松山バレエ団代表を引き継いでいる。兄・松山吉三郎および甥(兄の次男)・松山康久日本中央競馬会(JRA)所属の元調教師

人物・来歴

大正12年1月10日、鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市隼人町)に生まれる。日本女子経済専門学校(現かえつ有明中学校・高等学校)在学時、アメリカ人教師からメヌエットマズルカなどのダンスを教わり、バレエに興味を持つ。そこで、在学1年時に日劇ダンシングチームクラシックバレエ科1期生に選ばれて入団。秦豊吉オリガ・サファイア、そして東勇作に師事。その後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学。昭和18年に同校卒[1][3]

1940年に日劇を退団。翌年、東が設立した「東勇作バレエ団」に入団し、プリマバレリーナとして活躍した。終戦直後の1946年、舞踊評論家・蘆原英了の呼び掛けに応じて東、島田廣貝谷八百子らが合同で設立した東京バレエ団に参加し、同年8月には日本初公演となる『白鳥の湖』全幕版において、同じ東門下生の半沢かほるとともにパ・ド・ドゥを演じた。また、第2回公演、『ジゼル』ではミルタ役を演じた。

東京バレエ団が間もなく、所属団員による内紛から四分五裂すると、1947年に以前からバレエ鑑賞が趣味で交友があった内務省国土局技官、清水正夫と結婚[4]。翌1948年に自身の団体である松山バレエ団を設立。退職した清水が団長、松山が芸術監督に就任した。以来、『白狐の湯』 (1953年) 、『白毛女』 (1955年) 、『バフチサライの泉』 (1957年) ,『オセロ』 (1961年) 、『祇園祭』 (1963年) などを発表。特に1955年、中国民話を基にした革命歌劇をバレエ化した『白毛女』は中国国内でも高い評価を受け、1958年には周恩来主席の招きで中国公演を実現。以降、日中の文化交流事業に尽くした。

昭和53年1978年)に引退し、以降は松山バレエ学校校長、日本バレエ協会専務理事など後進の指導にあたる他、ローザンヌ国際バレエコンクールの審査員なども勤めた。1980年芸術祭賞大賞。1985年紫綬褒章1994年には勲四等宝冠章を受賞した。

2021年5月22日、急性心不全のため死去。98歳没[5][6]

主な受賞歴

著作

  • バレエ―技法と鑑賞(社会思想研究会出版部、1961年)
  • バレエの魅力(講談社、1978年)

脚注

  1. ^ a b 『新訂現代日本人名録2002』日外アソシエーツ(2002)ISBN 978-4-8169-1695-3 694p
  2. ^ デブラ・クレイン 、ジュディス・マックレル 著鈴木晶 日本語版監訳『オックスフォード バレエ ダンス事典』平凡社(2010年) ISBN 9784582125221
  3. ^ 河本晃、内閣府 編『時の動き』第30巻第5号(1986年) インタビューより
  4. ^ No.89 清水 正夫(しみずまさお)”. 2021年6月20日閲覧。
  5. ^ “松山樹子さん死去 松山バレエ団創立者、98歳”. 時事通信. (2021年5月22日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052200471 2021年6月20日閲覧。 
  6. ^ “日本バレリーナの草分け松山樹子さん死去 松山バレエ団”. 朝日新聞. (2021年5月22日). https://www.asahi.com/articles/ASP5Q61NWP5QUCLV00B.html 2021年6月20日閲覧。