「Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源」の版間の差分

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== こだわりすぎは、良くないです。 ==
== こだわりすぎは、良くないです。 ==


しかし、いつまでもそれにこだわっていると、信号機ファンの人たちから断られ、Wikipediaは、不利になります。なので、少しでも多くの人から見られたいのであれば、個人ブログの情報も、受け入れたほうがWikipediaも結果的に活気であふれよくなると思います。どうですか?--[[利用者:コンテナ好き|コンテナ好き]]([[利用者‐会話:コンテナ好き|会話]]) 2022年3月26日 (土) 08:46 (UTC)
しかし、いつまでもそれにこだわっていると、書かれない記事関係ののファンの人たちから断られ、Wikipediaは、不利になります。なので、少しでも多くの人から見られたいのであれば、個人ブログの情報も、受け入れたほうがWikipediaも結果的に活気であふれよくなると思います。どうですか?--[[利用者:コンテナ好き|コンテナ好き]]([[利用者‐会話:コンテナ好き|会話]]) 2022年3月26日 (土) 08:46 (UTC)

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WP:SELFSOURCEの一部対訳に対する改善提案

WP:SELFSOURCE「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」の項目において、

  • 誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。

という項目があるのですが、英語版Wikipediaを参照にすると

  • There is no reasonable doubt as to its authenticity.

となっており、「誰が書いたのか」ではなく「その書かれた物事について」の方が対訳として正しく、意味合いがかなり変わってくるものではないかと思いました。 遵って、当該項目を

に改訳する事を提案いたします。--禮旺会話2017年8月20日 (日) 09:26 (UTC)[返信]

(ご意見を受け訳案訂正--禮旺会話2017年8月27日 (日) 06:32 (UTC)[返信]
  • 反対 「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。ウィキペディアンが、「書かれた物事について」正しいか正しくないかを判断するのは不可能です。英語版Wikipediaの文言を直訳すると、「その真正性(authenticity)に疑いはないこと」となると思います。「真正性」とは、正当な権限において作成された記録に対し、虚偽入力、書き換え、消去及び混同が防止されており、かつ、第三者から見て作成の責任の所在が明確であることである。なお、混同とは、患者を取り違えた記録がなされたり、記録された情報間での関連性を誤ったりすることをいう。ということです。この場合は、「公表者自身が書いたものという責任の所在が明確であること」を意味していると思いますので、「誰が書いたのか」のままでも大きな問題はありませんが、「その書かれた物事について」にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する方針をつくってしまうことになります。--はるみエリー会話2017年8月20日 (日) 12:04 (UTC)[返信]
  • 反対 内容ではなく「真正性」のほうに力点を置くべきでしょうね。いくら内容が充実していて合理的に疑いのない記述のあるサイトであっても、ファンサイトより公式サイトのほうがwikipediaが参照すべきサイトとしてとうぜん選択されるべきでしょう。--大和屋敷会話2017年8月20日 (日) 18:35 (UTC)[返信]
  • コメント 方針の変更提案にあたり、英語版Wikipediaをと揃えるといった議論の他に、1. 現行の文言が成立した経緯、2. 変更の影響内容(2017年8月21日 (月) 12:26 (UTC)修正)について検討する必要があるかと考えます。
    1. 履歴を確認すると、該当箇所は、この提案の結果、2010年8月16日 (月) 04:19‎版で登場しています。その前の版では旧英語版の "there is no reasonable doubt about who wrote it"の翻訳に由来する「誰が書いたのかについて合理的な疑いがなく」という文言があったので、この文言が再利用されたのだと推測されます。こうした経緯を考慮すると、翻訳の修正は検討した方がよさそうです。
    2. authenticityは、「信ぴょう性、信頼性、真偽、内容の真正、確実、自然度」といった意味であり[1]、ご提案の「その書かれた物事について」は正確な訳ではないように思います。そこで、「信憑性について合理的な疑いがないこと。」くらいの修正でいかがでしょうか。なお、上ではるみエリーさんが提示している真正性の用語解説は、文書情報管理という特定分野に関するものであり、Wikipediaには必ずしもあてはまるものではないと考えます。--j8takagi会話2017年8月21日 (月) 03:30 (UTC)、2017年8月21日 (月) 12:26 (UTC)一部修正[返信]
  • コメント 文言を修正することには賛成。authenticityを正しく評価するには、「誰が」「どんなことを」言っているのか、その両面を評価する必要があります。「誰が」の部分は、そもそもSELFSOURCEを適用できるのかどうかの大前提になりますから、ほとんど議論の余地はなさそうですが、それでもたとえば「ある宗教団体の元信者による団体についての出版物」なんかは、その元信者なのかどうかみたいなところから一定程度のauthenticityを確保しないといけないでしょうし、その中身があまりに荒唐無稽であるとか、全く具体性をもたないものであったりした場合には、authenticityに合理的な疑いがあるというふうになるでしょう。そういうわけで、文言を修正すること自体には賛成です。J8takagiさんが提案されている「信憑性について合理的な疑いがないこと。」に一票。--Caserio会話2017年8月22日 (火) 07:03 (UTC)[返信]
    • さて、ご意見が複数出ておりますが、仰る通り役に対しては信憑性について~の方が原文に忠実であるでしょう。つきましては、この訳を以て変更に合意決裂が無いかどうかを確認したいと思います。週間反対意見が出ないようであれば改訳を行わせていただきたく存じます。--以上の署名のないコメントは、禮旺会話投稿記録)さんが 2017年8月27日 (日) 06:32 (UTC) に投稿したものです(JapaneseA会話)による付記)。[返信]
賛成 「信憑性について合理的な疑いがないこと。」という訳への変更に賛成します。合意確認の文言が「変更に合意が無いかどうか」という、誤植かな?とは思われるものの不安のあるものだったので明示しておきます。--Caserio会話2017年8月28日 (月) 08:18 (UTC)[返信]
(あとさらに、無責任なことを言うようで大変心苦しいのですが)待ちの期間を10日から2週間くらいに延ばす、またはどこでもいいから(コメント依頼かな?)に告知とかしていただけたらなーと思います。その間に虫が沸くかもしれない危険はあるけど、ガイドラインだし、より無難な安全率をとっておいてほしいなと思いました。--Caserio会話) 2017年8月28日 (月) 08:18 (UTC)一部訂正--Caserio会話2017年8月30日 (水) 08:09 (UTC)[返信]
報告ンアー!すみません、誤字の訂正及び機関の変更を行わせていただきました。機関については当初の記入日8/27から2週間とさせていただきたいと思います。また、御訓誡よりコメント依頼にて議題の賛否を募らせていただきたいと思います(このあたり全く未経験な部分で不手際が多く…申し訳ないです)。--禮旺会話2017年8月29日 (火) 04:36 (UTC)[返信]
  • 反対 "authenticity"は「painting's authenticity 絵画の真贋」みたいな感じで「誰が書いたのか」についての"信憑性"を意味する言葉ではないでしょうか。WP:SELFSOURCEでの authenticity は「そのブログなどが公表者本人のもので間違いないこと」と解釈されるべきと考えますので、文言を変更しなくてもよいと思います。--ぽん吉会話2017年8月29日 (火) 07:06 (UTC)[返信]
〈"authenticity"は「painting's authenticity 絵画の真贋」みたいな感じで「誰が書いたのか」についての"信憑性"を意味する言葉ではないでしょうか。〉について、ぽん吉さんの思い込みではないことを示す情報源を示してください。たとえば、authenticityには「誰が」というニュアンスがあるのでしょうか?私は、authenticityは「(絵画の)真贋」の意味にも「信憑性」の意味にも使われる一般的な語であると考えていますし、[2]などの複数の辞書にそのように記載してあるのを確認しています。--j8takagi会話2017年8月29日 (火) 08:23 (UTC)[返信]
こんにちは。例えばオンライン英英辞書のauthenticityによれば "The quality or condition of being authentic, trustworthy, or genuine."です。で同じ辞書で例えばauthentic documentとか調べると"A document bearing a signature or seal attesting that it is genuine and official."(署名や封印などにより本物または公式のものであると証明されている書類)とあります。あと研究社リーダーズ英和辞典には(=genuine)とありました。お示しいただいた英辞郎の例文でも authenticity は「本物であること」という意味で多数例文があると思います。
今回は「自己公表された情報源」なので主にブログやツィッターなどが対象かと思いますが、それらが「本物であること」とはすなわち「本人が書いた(あるいは本人が公式なものと認めた)」の意味ではないかと理解しておりますが、如何でしょうか。--ぽん吉会話2017年8月29日 (火) 09:42 (UTC)[返信]
返信 たしかに"authenticity"は、「本人かどうか」というニュアンスが強いようですね。また、「信憑性」より「誰が書いたのか」の方が文章が明解だと思います。とはいえ、ブログやツィッターなどでも、「本物であること」と「本人が書いた」「公式」が完全に一致するのかという部分で疑問があります。「本人が書いた」「公式」という点には疑いの余地はないけど、他の点からは疑いの余地があるといった場合は問題になりそうです。たとえば、「公式」のブログなどだったら秘書やスタッフが代筆した場合とか、本人のツイッターなどでも酔ったり頭に血が上ったりした状態で書いていた場合などは、「誰が書いたのか」には問題ないけど「信憑性」には問題があるといえると思います。--j8takagi会話2017年8月29日 (火) 10:29 (UTC)[返信]
さて、もともとこの改訳を思い立ったのは、とある方との議論においての内容でした。というのも、「日本科学者会議は日本共産党の関連・友好団体だ」という意見の出典が「日本共産党の機関紙(赤旗)」という所から来ており、セルフソースの出典を頂いたので「それはおかしい、それならなんでもありになってしまう」という所から英語版を参照した、という偶然の流れでありました。さて、本題ですが…"authenticity"は「authentic」+接尾辞「-ity」という単語です。「authentic」はこちらを参照。元々権威、という単語からこのauthenticは発生しており、その上での「本物の、真正な」「正確な、信頼できる」という意味になっています。もし仮に「本物であること」という事だけで充分であるのならば「True」でも構わないはずですが、そうではないという事はこの「Authenticity」でなければいけないという裏付けにもなります。また、単語の利用頻度としては英語圏では「genuine」とは実は微妙に区別化されているようです。というのも、「genuine」が使われるのは「ローカル的に本物であること」、例えば「このブランド品は本物だ」や、「教科書は信頼できるか」などに関しては「Genuine」が使われますが、「絵画の信憑性」や「信頼のおける学術論文」等であれば「Authenticity」が用いられます。則ち、Authenticity自体がある程度「権威があるものに関しての」というニュアンスである事も考えられます。例に挙げて頂いた「painting's authenticity」は、例えば英辞郎では「establish a painting's authenticity = 絵画が本物であることを立証する」と紹介されています。これは則ち研究・推測・調査の上で本物であることを立証するという事になりますから、それなりの権威を持った信頼性であると言えるでしょう。例となる文面をいくつか見るとわかる通り、古物や情報といったたぐいのものは「Authenticity」(言わば世界的に認知された信頼性、等)、「genuine」はより一般的な、例えば人種だとか血統だとか、静的な物ではなく動的な物に用いられる傾向が強いです(アメリカでは、日本ではといった局所的な信頼性等)。ちょっとうまく言えませんが、ここは感性に近い部分になってしまうかと思うので…(英語もそこまでできるわけじゃないので)ご容赦を。 尚、英語版Wikipediaの当該ページにて質問を投げてきました。
 *Self-published and questionable sources as sources on themselves

Although this sentence "there is no reasonable doubt about as to its authenticity", Is this interpretation meaning that "Where the responsibility is clearly stated to be the author itself" ? or, "There is no reasonable doubt about the contents described" ? or both? The difference in interpretation is manifested in the word "authenticity", Opinions are divided on whether this word points to the source or whether it points to the truth of the article.
これに対し返答は下記となっております。
       So the quote, giving the context of what "its" refers to:

[...] so long as:

the material is (...);
it (i.e. the material) does [...];
it (i.e. the material) does [...];
there is no reasonable doubt as to its (i.e. the material's) authenticity;

Material is deemed authentic when it is no spoof, forgery, misinterpretation, faulty translation, or whatever else that may indicate that the material is not what it pretends to be.
「虚偽(というか騙すような内容、または詐称)、偽造、誤訳、またはその資料が偽って主張されている事がわかるものが含まれていない場合は、それは真正であるといえるだろう」との事です。ご参考までに。--禮旺会話2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC)[返信]
コメント 例示の日本共産党の件については、そもそも「第三者に関する主張を含んでいないこと」というルールから逸脱するので、改正の理由としては不適当に思います。--Kanohara会話2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)[返信]
反対 ウィキペディアにおける信憑性とは、信頼できる情報源に書かれていること、すなわち広く信頼されている発行元から出版・公表されているということです。ウィキペディアの編集者個人が情報の信憑性を判断することは独自研究にあたり(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)、やってはいけないことです。……ご提案の一文を加えると、「公式サイトなどを一次情報源として使ってはいけない」という意味のルールになってしまいますし、「聖書にはイエス・キリストは磔にされて死んだ後に蘇ったと書かれているが、合理的に考えて死者が生き返るはずがない。つまりキリスト教自身についての記事内では、キリスト教が自己公表している情報源である聖書を出典にするのは不適当だ」のような超解釈が出てこないとも限りません。もし英語版のauthenticityが「内容の信憑性」という意味だとするないら、英語版のルールはあまり良いルールではないのかも知れません。--Kanohara会話2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)[返信]
コメント Kanoharaさんは、2ちゃんねるでさえ出典として利用することを禁止している「リテラ」[3]を『「リテラ」のようなニュースサイトは、小規模と言えど企業によって運営されるサイトであり、企業として採用したプロの記者に、企業の看板を背負って書かせている記事である。』[4]と主張されている人なので、『信頼できる情報源』という前提については、そのことを押さえておく必要があるかと。以上、補記とさせていただきます。--青鬼よし会話2017年9月2日 (土) 14:46 (UTC)[返信]
返信 (青鬼よしさん宛)ノート:この世界の片隅に (映画)#ネット右翼が信じる朝鮮進駐軍について」で青鬼よしさんが「リテラは信頼できないニュースサイトで、信頼性は掲示板以下。それをソースにするのは独自研究と同じ」って趣旨の主張をしていたのって、2ちゃんねるがソースだったんですか……。コメント依頼で賛同意見を募ったのに、その点に関しては思うように賛同が集まらなかった私怨を、ここで晴らそうとしないでください。まあ私は別に、読まれて恥じるような発言をした覚えはありませんけれど。--Kanohara会話2017年9月2日 (土) 17:27 (UTC)[返信]
返信 リテラやtogeterまとめ[5]信頼できる情報源とされている方が、このような議論に参加をされていたので、懸念として補記をさせていただいました。私怨云々などの議論と関係ない話題を持ち出すいつもの手法につきましては、いつものようにKanoharaさんのノートページに返信しておりますので、そちらに返信をお願いします。--青鬼よし会話2017年9月3日 (日) 00:04 (UTC)[返信]
返信 (青鬼よしさん宛) 私はTogetterまとめに関しては「ウィキペディアの出典として不適切な一次資料」と言ったはずです。他人の発言を捏造しないでください。もちろんTwitterの発言は自己公表された二次情報源ですし、Togetterまとめは自己公表された二次情報源です。そのままでは信頼できる情報源にはなりません。ただし「Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源」にありますように、「匿名の個人による報告や信頼性を評価するための公表に至る履歴がない報告は、評判を得たことが明らかになるまではまったく引用に値しません」「評判を得たことが明らかになった場合は、1つのPOVとして記すことができます」。発言がニュースサイトで取り上げられたことは検証可能ですし、「ニュースサイトの記事の信憑性が疑わしい。そのような発言が存在したこと自体がニュースサイトの捏造だったのではないか」というノートの意見に対して、信憑性を裏付ける根拠としては十分だという意味で引き合いに出しました。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 05:28 (UTC)[返信]
返信 (ちょっと待った宛) Twitterの発言は(本人が発した場合のみ)自己公表された一次情報源です。あとついでに言うならTogetterまとめは自己公表された二次情報源ではなく、Togetterまとめは第三者による信頼性が一切無い情報源(そもそも自己公表ですらない)です。何を言っているんですか?--禮旺会話2017年9月3日 (日) 05:58 (UTC)[返信]
返信 (禮旺さん宛) もちろん「Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」にあるように、「電子匿名掲示板やニュースグループ、ウィキで構築されたサイトへの投稿、あるいはブログ上の記述は、一次資料としても二次資料としても使用されてはなりません」。ただしニュースなどといった信頼できる媒体で「Twitter上のこのような発言が大きな波紋を呼んだ」といった形で取り上げられた場合は、その過程で専門家による精査や、発言を取り上げた専門家の見解を挟むことになるため、自己公表された情報源ではなくなります。そういう話です。
Togetterまとめは、ウィキペディアの定義に従うなら「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものだけれど、学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版されたものではなく、注意深く精査されていないので、信頼できない」二次資料で、いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物ですから、自己公表された情報源でしょう。もちろんこの議題で話し合われている「公表者自身についての」自己公表された情報源という例外には当てはまらないので、ウィキペディアでは情報源として受け入れられませんし、一次資料としても二次資料としても使用されてはなりませんでしょう。ただし例外については自己公表された情報源をご覧くださいとも書かれています。--Kanohara会話) 2017年9月3日 (日) 07:12 (UTC) マークアップ修正--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 07:13 (UTC)[返信]
返信 ようやく内容をかみ砕いて理解できたので返答します。その解釈はそもそも「今何に対して議題しているか」についてまったく理解されてないという事でしょう。貴方の例えは「キリスト教」についての記事に対し、出典が「イエス・キリスト」個人に対する事実を書いた場合の話であって、キリスト教に対して「キリスト教が」自己公表した(宗教としての)事実を書いた場合の話ではありません。また、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」という話の次元ではなく、それすら適用できないような内容での「自己公表した情報に対して、本人に関する記事でそれを出典としてもいいか」というレベルの話です。そもそも論点がずれてます。また、英語版のルールが良い物なのではなく、言語的な解釈問題での話であって英語版の記述が劣っているという発想に至るのはそもそも論外でしょう(日本語版の方針が英語版の方針に準拠し、その記述を網羅できていないという事は逆に日本語版の品質が低いとも言えますが…。いえ、これは初版作成者をDisっている訳では無いので)。--禮旺会話2017年9月2日 (土) 19:46 (UTC)[返信]
返信 (禮旺さん宛) 議題については理解しているつもりですが、仮に議論が終わって「信憑性について合理的な疑いがない」という文がガイドラインに反映された後、ガイドラインの文面が何を意味しているのか理解していない(あるいは、敢えて曲解する)人が出てくる可能性を懸念している、ということを言いたかったのです。ガイドラインを作った当人は理解していても、ガイドラインを運用するのは当人以外ですから、禮旺さんや私がルールの趣旨を理解しているかどうかと、ルールを読んだ人が趣旨を正しく理解できるかどうかは別問題です。
Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源」は、「このガイドラインは主に個人サイトや、小規模な企業のプレスリリースなどを念頭に置いており、信頼できる大手出版社や新聞社による自己公表はこの例外である」などといった例外規定を設けていません。キリスト教を引き合いに出すのはオーバーだったかも知れませんが、例えば朝日新聞や産経新聞のような報道機関が、ある報道内容の信憑性について疑惑を持たれ、それに対して声明を発表したような際に、偏った思想を持ったウィキペディアの編集者個人が「疑惑の当事者による言い訳であり、信憑性について合理的な疑いがある」と主張して、当事者側の言い分を封殺する大義名分にできてしまうような文面は、中立性の維持という面でも問題がありますし、前文の「自己公表された情報源または疑問のある情報源は、特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できますとも矛盾します。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 08:51 (UTC)[返信]

(今さらだけど質問させてください)「誰が書いたのか」っていうところはそもそもSELFSOURCEを適用できるのかどうかの大前提なのではありませんか?そのうえで、書かれてる内容があまりに嘘くさいことだったりしたら、それが公表者自身によって公開されているものだとしてもwikipediaに記載するべきではありませんよねってことだと思っていました。提案されている「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」の項目においての注意書きで、改めてそれが「自身」が公表しているものかどうかをちゃんと確認してねって言わないといけないの?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 01:37 (UTC)[返信]

公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」、即ちこの項目は「自己公表」であることが大前提であり、「誰が書いたのか」という点は言及する以前にこの項目を適応する情報源に対しての必要条件であるといえます。ですから、必要条件を再度記述の中で言及するというのはそもそもお門違いと言えるでしょう。というか、「誰が書いたのか」分からないものを「自己公表されたもの」とみなせるか、という話がそもそもおかしいのではないか、というレベルになりますよね。--禮旺会話2017年8月30日 (水) 02:33 (UTC)[返信]
コメント 従来の文面の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと」は、「なりすましのアカウントに注意せよ」という意味の注意だと受け取っていました。例えば実在する著名人を名乗るTwitterのアカウントで、本人が言いそうなことがもっともらしく書かれているものの、著名人本人は著書や公式サイトでTwitterのことに触れておらず、著名人のなりすましではない可能性を証明できないような場合などは、「本人が本人だと名乗っていること自体を、公表者自身についての記事内での自己公表された情報によって証明されていると見なして良いかどうか」は迷うところです。もしも「信憑性について合理的な疑いがないこと」という文面を入れるなら、代わりに「なりすましのアカウントではないという合理的な疑いがないこと」というルールが必要になるでしょう。
「書かれてる内容があまりに嘘くさい場合」については「過度に利己的なものではないこと」という文面や、WP:V#OSの「過度に自己を美化するものでなく」という文面で対処できるかと思います。逆に嘘くさい内容でも「本人は自分が○○であると言っているが、評論家の××は△△新聞上で、その点については疑わしいとして批判している」というような文脈では必要になるため、使えないわけではなく取り扱いに注意、といったところであろうと考えます(「Wikipedia:信頼できる情報源#反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト」など)。--Kanohara会話2017年8月30日 (水) 03:19 (UTC)[返信]
情報 英語版で質問した際の回答
Material is deemed authentic when it is no spoof, forgery, misinterpretation, faulty translation, or whatever else that may indicate that the material is not what it pretends to be.
こちらを参照してください。「no spoof」という文言がありますので原版の指す「Authentiity」は成りすましではないことをすでに前提としているという事になります。または、「セルフソース」事態「明確に本人が公表した内容であること」が大前提ともいえるでしょう。おそらく、この点については追記を必要とする部分になる可能性も無きにしも非ず、でしょうかね。--禮旺会話2017年8月30日 (水) 04:01 (UTC)[返信]
ありがとうございます。「信憑性に合理的な疑いがないこと」という文言は、これまでの「誰が」に限定している文言を、「誰が書いたのか」とか「内容が適切に適切か」とか、そういう全てをひっくるめてのものである、と理解しています。(つまり、変更後の文言が、変更前の文言を含み、より広い範囲に言及しているという理解です。)これであれば、ぽん吉さんがおっしゃるような反対理由は消滅するかなーと思いますが、いかがでしょうか?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 04:34 (UTC)[返信]
「全てひっくるめてある」のがまず問題かと思います。つまり「信憑性に合理的な疑いがないこと」の一文を読んで、この「信憑性」が「誰が書いたかの信憑性」か「書いてある内容の信憑性」なのか、このどちらかだけなのか両方なのか、読み手によって解釈が異なるようではガイドラインとして用をなさないのではないでしょうか。
その上で、「誰が書いたか」の信憑性につきまして、Caserioさんにとって簡単に判別がつくものでも他の人にとってはそうではないかもしれません。Twitterの偽アカウントや公式サイトと見間違う出来栄えのファンサイトなどもあるでしょうし、中学生・高校生であればその辺区別がついてない人もいるのでは?「公式かどうかをちゃんと確認してね」って初心者に注意するのがガイドラインの役目だと思いますので現状の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。」の一文は必要と考えます。
追加で例えばなんですけど、ワールドメイト@worldmatemember というtwitterアカウントがありまして「【ワールドメイトあるある】電車では、メルマガか、Wikipediaか、公式ウェブサイトを読んでいる」とwikipediaを公式ウェブサイトと同列の読み物であるかのようにとりあげています。このアカウント、ワールドメイト公式のものでしょうか?私には何とも判断つかないです。
あと「内容について信憑性」につきましては、Kanoharaさんと同じ考えです。書かれている内容に信憑性があるかどうかを各編集者が判断するかのような文言は避けるべきでしょう。
もし、内容の疑わしい自己公表された情報源の扱いについて現状のWikipedia:信頼できる情報源ガイドラインで対応しきれていないような事案が更にあるのであれば、英語authenticity を根拠に文言変更を主張されるよりは、可能な範囲で具体的に問題点をご提示いただくなど別のアプローチをされた方が意見がまとまりやすいかと思います。--ぽん吉会話2017年8月30日 (水) 07:31 (UTC)[返信]
「誰が書いたのか」は、このガイドラインの適用を受けるかどうかの時点で既に確定しているものだと考えています。このガイドライン内の「公表者自身についての記事内に自己公表された情報源を用いる際の注意事項」として改めて「誰が書いたのか」が必要なのか?という疑問点についてはどのようにお考えですか?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 08:09 (UTC)[返信]
たしかに「自己公表された~」の一言で十分とのお考えも、ごもっともとは思います。私が心配性なだけかもしれませんが、例えば特筆性基準をかろうじてクリアするぐらいのマイナー人物がいて、著書などで確認できないが本人と思われるSNSアカウントがあり、そこの記述をもとに記事加筆した。ところが他編集者から「それ本人で間違いないの?」と問われた。私が「他の情報源と矛盾が無い」等、合理的に考えて本人のもので疑いがない旨説明できれば、100%の証明はできないにしても当該自己公表情報源を出典に使うことも可能になる、そんなようなケースもあるのではないかと考えました。当該文言には、"自己公表"が必ずしも万人に明らかでない場合は合理的に疑いがないかどうかを確認し疑いがなければ出典に使える、と、微妙なケースにおいて判断基準を示す役目もあろうかと思います。大きなデメリットがなければ、このまま残してもよいのではないでしょうか。--ぽん吉会話2017年8月30日 (水) 09:10 (UTC)[返信]
なるほど。わたしはその、自己公表であることを直接的に明示できない場合の、他の情報源と矛盾が無い等の説明周辺のことを、「信憑性」と表現しているのだと認識しています。ですので、たぶん私たちはほとんど同じことを言っているんでしょうね。(わたしが雑に「嘘くさい内容」と言ってしまったがためにいくらかの誤解を議論に生じさせてしまって大変申し訳なく思っていますが)他の情報源と矛盾が無いかどうかの検証というのは、だって当然にその中身について検証しているんですものね?--Caserio会話2017年8月30日 (水) 10:05 (UTC)[返信]
そうですね。普通は中身確認していて当然だとは思います。まあ、他のガイドラインも「当然でしょ」というような内容が多々ありますし、ガイドラインとはそもそもそういうものなのかも、ですね。昨今twitter、facebook、instagramなどなど自己公表の手段は多種多様で、中にはヒモ付けが必ずしも明らかではないものもあるでしょうから、それらをwikipediaの出典に持ち込む際に「それ本人のものか、確認してくださいね」と釘刺しておく必要はあると思います。--ぽん吉会話2017年8月31日 (木) 03:00 (UTC)[返信]
(インデントがすごいことに…)ええと、それもうすでにタイトルの「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」って書いてありますし、「 自己公表された情報源または疑問のある情報源は、特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できます。」としつこいほどに繰り返されています。その上でまた項目でクギを指すのは、なんというかやりすぎというか…。--禮旺会話2017年8月31日 (木) 03:25 (UTC)[返信]
ま、それもそうかもしれませんね。今回の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと。」を「信憑性について合理的な疑いがないこと。」に改める旨禮旺さんのご提案につき、他の方の意見ももう少し集まるといいですね。--ぽん吉会話2017年8月31日 (木) 05:32 (UTC)[返信]
(インデント戻す)タイトルに既に書いてある、というのなら「第三者に関する主張を含んでいないこと」や「主題と直接関係のない出来事に関する主張を含んでいないこと」といった他の条文も、「公表者自身についての情報源として利用できます」に含まれているような気がしますが……。「それってWP:BEANSではないのか?」という懸念であることは分かりますけれど、「そんなことは言わなくても伝わる」というのは、我々が今までそのルールでやってきたから常識として染みついているのであって、初心者に伝わるかどうかは疑問に感じます。「匿名掲示板に本人だと自称する書き込みがあった。中には「Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」の例外を適用すれば、出典として使えるはずだ」という主張をする人もいるかも知れませんし、似たような例は見たことがあります。また偽公式サイトやなりすましTwitterを作って著名人の名を騙ろうとするような自己顕示欲の強い人は、ウィキペディアにも乗り込んできて、自分がでっち上げた偽情報を「出典」にしてウィキペディアの記事を書き換えようとしたり、「本人(偽)が本人であると名乗っていることは、自己公表された情報源(実は偽)によって明確である。情報源として問題ない」などと言い張ったりするかも知れません。「これくらいは常識として通じるだろう」という性善説は、あまり当てにならないかも知れず、ルールの精神が伝わるような表現を残しておく必要はあると思います。--Kanohara会話2017年9月2日 (土) 18:23 (UTC)[返信]
タイトルに既に書いてある、というのなら「第三者に関する主張を含んでいないこと」記述A「主題と直接関係のない出来事に関する主張を含んでいないこと」記述Bといった他の条文も、「公表者自身についての情報源として利用できます」記述Cに含まれているような気がしますが」すみませんがちょっと意味不明です。記述ABの内容が記述Cに含まれている、と仰られているのでしょうか?Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿を自己公表された情報源と判断するのはあまりにも無理があります。そのWikiが本人により作成されたと明確に判断できる材料がそもそも個人ブログやTwitterなどと比較して存在しませんし、そもそも「自己公表された情報源(実は偽)」という前提が成り立つ事がありえないのです(数学で例えれば、公理を真っ向から否定するような所業と言えばわかるでしょう)。--禮旺会話2017年9月2日 (土) 19:56 (UTC)[返信]
返信 (禮旺さん宛) 「第三者に関する主張」や「主題と直接関係のない出来事」は「公表者自身について」の情報ではないのだから、明文化しなくても除外されていることは分かるはずです。ですが実のところ(実際に禮旺さんがそうであるように)それでは伝わらない人もいますので、「言わなくても分かるだろう」ということはさほどアテにならないものと考えています。
> 自己公表された情報源と判断するのはあまりにも無理があります。
Wikipedia:信頼できる情報源#掲示板、Wikiで構築されたサイト、Usenetへの投稿」の末尾には、「例外については自己公表された情報源をご覧ください」とあります。ですので、「掲示板やウィキサイトへの投稿でも、それが自主公表された情報源を利用できる例外に当てはまるのなら、ウィキペディアから参照しても構わない」ということになりましょう。
> 数学で例えれば、公理を真っ向から否定するような所業
ウィキペディアの「自己公表された情報源」の定義には「いかなる形式の独立した事実の確認を受けてはいないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物」という定義しかありません。禮旺さんの言う公理を定義している「誰が書いたのかについて合理的な疑いがない」というガイドラインを除外してしまったらまずいだろう、という話です。そもそも、なりすましに騙され、疑いなく本物だと大真面目に信じている人にとっては、なりすましであっても「著者が直接投稿した公表物」の発言に見えているはずですし、更に言えば、騙されている人と騙されているふりをしている人を見分ける術は、我々にはありません。--Kanohara会話2017年9月3日 (日) 09:46 (UTC)[返信]
  • 提案 こんにちは、Moon.riseと申します。「信憑性について合理的な疑いがないこと。」と変更すると、「誰が書いたのか」という部分の意味が見いだせなくなってしまうとは思います。信憑性という表現そのものが、基本的に「○○の信憑性」という表現であるのが望ましく、読み手によって「○○の」という部分の受け取りが異なる可能性が出てくるのは、あまり望ましくないのではないでしょうか。「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと。」という表現を提案してみます。--Moon.rise会話2017年8月31日 (木) 13:59 (UTC)[返信]
記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと。でいかがでしょうか。--禮旺会話2017年9月3日 (日) 06:01 (UTC)[返信]
  • 反対 英語版からも意味が離れてしまいます。記述の信憑性をウィキペディアンが確かめることなどできず、Wikipedia:検証可能性に抵触しかねません。今のままのほうが良いと思います。--はるみエリー会話2017年9月4日 (月) 10:39 (UTC)[返信]
    • なんかもう話にならないですが、その検証可能性を満たさない極特定条件下における出典として利用可能な項目としての一つがセルフソースなのですが…。そもそも、自己公表された情報源自体が検証可能性を満たしていないレベルの情報源なのですから。--禮旺会話2017年9月4日 (月) 11:04 (UTC)[返信]
「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。(再掲)--はるみエリー会話2017年9月4日 (月) 11:06 (UTC)[返信]
わざわざ(再掲)とかしてくれてるけど、もう誰もそんなこと議論してないからね。あなたが議論についてこれていない、ということは皆様に伝わったとは思うけれど。--Caserio会話2017年9月5日 (火) 00:29 (UTC)[返信]
はるみエリーさんが自身が見下している人間の発言は一切取り入れ「られ」ないことはしっかりと理解しました。「検証可能性を満たしていない情報源の特例的案件」であることを再認識ください(再掲)。さらに突っ込んでおくと、セルフソース自体が「誰が書いたのか」を明記している案件なので『誤訳』ではないですが解釈が誤っています。Authenticityを「誰が書いたのか」と訳すとそれは「Authenticity」の意味の一部を切り取った解釈になる、また掲題と重複する為不適切です。(だからこそ最初の改訳提案では書かれた内容の信憑性、という記載だったのですが、提案改訳の方が適切であったたためそちらを支持した次第です。)--禮旺会話2017年9月5日 (火) 00:45 (UTC)[返信]
Moon.riseです。禮旺さんご提案の「記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと」および「信憑性について合理的な疑いがないこと」の両方に 反対 とさせていただきます。特に「記述の信憑性について」という表記をするのは、誤った翻訳になるでしょう。
これまでに禮旺さんさんが、2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC)の投稿で英語版からの回答を得てきてくださいました。its authenticity の意味する所は「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」「誤解ではない(no misinterpretation)」「誤訳ではない(no faulty translation)」ということです。私が2017年8月31日 (木) 13:59 (UTC)で提案したように、「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」という程度に内容(信憑性が何を指すのか)が明確である必要があります。
ここでひとつ例文を挙げてみます。「モフモフ氏は、猫は人類の友達だといっている」という文章があれば、「誰が書いたのか」「何を書いたのか」について変更してしまえば、それは「だまし・偽造」などです。「ホゲホゲ氏は…」という変更も、「…犬は人類の友達だといっている」という変更も、「だまし・偽造」などでありWP:SELFSOURCEの条件を満たさないことになります。
私が禮旺さんのご提案に反対する理由は、ここからです。「記述の信憑性について」または「(注釈なく)信憑性について」という文章に改訳してしまうと、誰かが「猫が人類の友達という、そんなことはあり得ない。よって、この文章はWP:SELFSOURCEの条件を満たさない」などと主張し始める可能性があると思われます。これは、英語版にその意図はありません(「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」以下省略)。また、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にも違反します。
この指摘は私、Moon.riseだけの指摘ではありません。

「誰が書いたのか」は誤訳というほどの誤訳でもないと思いますが、「その書かれた物事について」という対訳にしてしまうと、Wikipedia:検証可能性に抵触する表現になってしまいます。ウィキペディアンが、「書かれた物事について」正しいか正しくないかを判断するのは不可能です。--はるみエリー(会話) 2017年8月20日 (日) 12:04 (UTC)

ウィキペディアにおける信憑性とは、信頼できる情報源に書かれていること、すなわち広く信頼されている発行元から出版・公表されているということです。ウィキペディアの編集者個人が情報の信憑性を判断することは独自研究にあたり(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)、やってはいけないことです。--Kanohara(会話) 2017年8月29日 (火) 16:00 (UTC)

Moon.rise、はるみエリーさん、Kanoharaさんの指摘はおそらく、同じひとつの問題を指摘しています。禮旺さんには、「記述の信憑性について」または「(注釈なく)信憑性について」という翻訳が、英語版の意味(「だましではない(no spoof)」「偽造ではない(no forgery)」以下省略)を離れ、余分な意味を含んでしまう可能性を、どうかよく気にかけていただきたいと思います。
このあたり、「authenticity」と「信憑性」が意味として完全同一ではないことの難しさかなと思います。個人的には「出所の正しさ」という方がよいのかもしれないと思います[6]。さて、ここまでの反対・指摘を含めまして、提案として「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」という翻訳案を出させていただきます(いやもっと安全を考えて「誰が何を書いたのかという、出所の正しさについて合理的な疑いがないこと」の方がよいというくらいでしょうか?)。--Moon.rise会話2017年9月5日 (火) 08:31 (UTC)[返信]
記述と執筆者の信憑性を確かめるという行為は、「モフモフ氏が書いた」か(記述の信憑性)?と「モフモフ氏が」書いたか(執筆者の信憑性)?だと認識しています。(この違いをどうやって文字列で表現するんでしょう?)書いてあることが真実か?をwikipedianが検証できないことは理解していますし、であれば「猫が人類の友達なわけないから削除」というのは本ガイドラインが扱う範囲のロジックに届いていませんから、ご心配は杞憂なのかなーという気がしないでもないです。「「猫が人類の友達」などとモフモフ氏が書くわけない」みたいな理由はありうるかもしれませんが、その場合は証拠出典の量と時系列とかでケースによりけりな対応をするんだろうなあと、ふわっと思います。
さて、少なくとも私には、このガイドラインが望んでいる精神については、禮旺さんの提案されている「記述と執筆者の信憑性について、合理的な疑いがないこと」という文言と、Moon.riseさんの提案されている「誰が何を書いたのかという、信憑性について合理的な疑いがないこと」のどちらも充分に満たしているものに思えますので、両者のどちらでも賛成です。両案のあいだにある本当に微妙な差分については本ガイドラインの目指しているところがどこなのかを想像すれば事足りると考えます。(その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコストは過負荷だと思っている)--Caserio会話2017年9月6日 (水) 05:37 (UTC)[返信]
コメント なんだか伝わっていないようなので。自己公表された情報源とは、なにも個人サイトや個人のTwitterばかりではないはずです。「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト」にありますように、企業や政治団体の公式サイトもまた「自主公表された情報源」と定義されているものです。これには出版社のプレスリリースも含まれるでしょうし、政治団体の機関紙や新聞が自身の出版社について記事で触れるような場合も含まれるでしょう。なぜならこの場合、取材する側と取材対象が同一の組織で、独立した第三者による事実の確認を受けていないからです。禮旺さんは2017年8月29日 (火) 10:56 (UTC) の発言で「しんぶん赤旗は日本共産党のセルフソース」という趣旨の発言をしておられるので、このことには自覚的であるはずです。
もちろん出版社や新聞社は個人のウェブサイトやブログでもなく、検証可能な「信頼できる出版元」でなので、通常は一次資料や二次資料として使うことが可能です。ですが、出版社が出版社自身について触れている記事の内容を、その出版社自身についての記事において出典として利用しようとした場合、「検証可能ではあるけれど、公表者自身についての記事内での自己公表された情報源でもある」という状態が生じます。例えば「朝日新聞の慰安婦報道問題」の記事で、朝日新聞の検証記事を出典にするような場合です。
今までのガイドラインでは、こうした二重性はさほど問題にはなりませんでした。例えばこうした出典が「第三者に関する主張を含んで」いたとしても、それはもはや「公表者自身についての情報源」ではないので、このガイドラインから外れます。ですが新たに「信憑性」が問題になってくると、事情は一変します。前述の例のような、報道機関のスキャンダルを扱う記事の場合、当事者である報道機関のあらゆる言動は疑惑の対象であり、信憑性に疑いを持たれている状態になります。「(朝日新聞と対立している)○○新聞はこの主張に疑念を寄せている[1]」といった出典を一つでも示せば、当事者の主張を記事から除去するような編集が可能となりましょう。これが意図した通りのガイドライン変更だと言うのなら、私はこの改正には中立性の観点から強く反対しますし、意図していないのなら、根本的な文面の改訂が必要でしょう。
> そもそも「自己公表された情報源(実は偽)」という前提が成り立つ事がありえないのです
ちなみに、WP:SELFSOURCEは、「自己公表された情報源または疑問のある情報源」が対象なので、例えば「日本解放第二期工作要綱」のように偽書の疑いがある、あるいは偽書であることが明らかな出典なども関係すると思います。この記事は、そもそも現行のガイドラインと照らし合わせても色々問題がありますけどね……。--Kanohara会話2017年9月5日 (火) 14:15 (UTC)[返信]
返信 (Caserioさん宛) Moon.rise案にも賛成というご評価、ありがとうございます。さてしかし、「両案のあいだにある本当に微妙な差分については本ガイドラインの目指しているところがどこなのかを想像すれば事足りると考えます。(その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコストは過負荷だと思っている)」には、私は異論がございます。方針の文書は、10年後、20年後のウィキペディア編集者もそれを頼りに編集を行なうものです。「その領域を明らかにすることのできる名文言を生み出すまでのコスト」を惜しんではいけません。合意形成までには、じっくりと考えうる問題を消していくように考えるべきです。そうでなければ、10年後の編集者に「変更した時の経緯はどこだ」「以前の英文と以後の英文の差分は何だ」などのログ探しをさせることになりかねません。Caserioさんは「両案のあいだにある本当に微妙な差分」という表現をされましたが、私にとってはもっと明確な差分です。前回「Moon.rise、はるみエリーさん、Kanoharaさんの指摘」と書いたように、その差分に気がつき、指摘している編集者は明らかにいます。「ご心配は杞憂なのかなー」というご意見には、恐縮ですが、Caserioさんにはもっと敏感に考えていただきたいです。--Moon.rise会話2017年9月11日 (月) 20:00 (UTC)[返信]
えー、どうも鈍感なCaserioです。Moon.riseさんが指摘している「猫が人類の友達という、そんなことはあり得ない。よって、この文章はWP:SELFSOURCEの条件を満たさない」などと主張し始める可能性、というものについて、そんな輩はそもそもwikipediaというものを理解していないだけであって、主題の文言どうこうで対処するべき問題ではない、とわたしは考えています。そのため、そんな輩が出ないとも限らん、という心配は杞憂だと申し上げたところです。(杞憂、の使い方が間違ってるか知らないが、ここで心配するべき事柄じゃなかろうってことね)
両案のあいだにある差分についてですが、禮旺さんの案においてのみ「そんな輩」が生まれうるという点で異なる、とMoon.riseさんは考えているのだ、と理解しています。そしてわたしは「そんな輩」はどっちだって生まれうるわい、と思っているがゆえに差分が無いと考えています。--Caserio会話2017年9月11日 (月) 23:52 (UTC)[返信]

コメント あまり伝わっていないようですが、「記述と執筆者の信憑性について」とか「記述の信憑性について」などの文言をいれると、Wikipedia:検証可能性に反する内容になってしまうということはご理解されたのでしょうか。根本的な文面の改訂であればまだしも、これまで提案された文言については、いずれにおいても反対せざるをえません。--はるみエリー会話2017年9月13日 (水) 08:51 (UTC)[返信]

コメント ウィキペディアのガイドラインは訳文の美しさを愛でたり鑑賞したりするためのものではないので、いくら翻訳が文法的に完璧であっても、読む人に誤解を与えるようなものであっては本末転倒と考えます。時には大胆な意訳や注釈も必要でしょうし、そもそも問題のあるガイドラインであるのなら、改良も必要でしょう。Caserioさんは繰り返し「杞憂」と仰いますが(私は大いに誤解を招く表現だと思っていますが)、私は今まで、ルールをおかしな方向に解釈して、自己流の解釈を振りかざす編集者を何人も見てきましたし、そうした人物によってコミュニティが疲弊したり、自分が疲弊させられたりする状況を幾度も見たり体験したりしてきました。目先の「名文言を生み出すまでのコスト」を惜しんで、多くの編集者を疲弊させることは、結局コストを増大させることになると考えます。

さて、そもそも、「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」なのに、「信憑性」が疑わしいので出典として使用できないような状況とは、どのような状況を想定したガイドラインなのでしょうか? 例えばCaserioさんは2017年8月22日 (火) 07:03 (UTC) における発言で、宗教団体の自己公表物についての「あまりに荒唐無稽であるとか、全く具体性をもたないもの」を例示していますけれど、いくら荒唐無稽な内容であっても「本人がそう言っている」こと自体は検証可能な事実ですし、荒唐無稽な内容であっても「本人はこれこれ、このように主張している」という形で掲載することは問題ないように思えます。記事の主題となっている対象自身による公表物であることは明確であるものの、内容の信憑性の疑わしい内容については、あくまで「出典として使えるが、扱いに注意を要する」扱いとし、「Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する」や、該当ガイドラインのすぐ上のセクションにある「Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる」へのリンクを示すだけで十分という気がします。どうでしょうか?--Kanohara会話2017年9月13日 (水) 10:18 (UTC)[返信]

「(明確に)本人が公表した内容であること」の根拠、のところに信憑性が求められているんでしょう?2017年8月30日 (水) 10:05 (UTC)あたりのくだりです。そのうえであれば、「本人がそう言っている」こと自体を載せることは可能だと思いますし、これまでのところで否定したつもりもないです。(あと、繰り返し「杞憂」なんて言ってないからね。2回目に登場するのは、前回その単語を用いた説明だからね。)--Caserio会話2017年9月14日 (木) 00:01 (UTC)[返信]
返信 (Caserioさん宛) だとするなら、現状の「誰が書いたのかについて合理的な疑いがないこと」という訳の方が、的確に意図が伝わると思います。他については、信憑性の定義について論じるより「Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け…だが意見は書くな」と「Wikipedia:信頼できる情報源#用語の定義」へのリンクを示せば十分でしょう。--Kanohara会話2017年9月14日 (木) 12:22 (UTC)[返信]
コメント Kanoharaさんのご意見に賛同させていただきます。--Moon.rise会話2017年9月14日 (木) 20:42 (UTC)[返信]
およそ「ほげほげ」とは言わなそうなAさん(たとえばこれまでガチガチの猫派であることを知ってる人は知ってる)が、「ほげほげ(私は猫がきらい)」と個人ブログなりtwitterなりで発信した。このとき当然に、Is there no reasonable doubt as to its authenticity? と問われると思うんですよね。もちろん人の気持ちは変わるもんだし、とかいろんな話があると思うんだけど、これまでのガチガチの猫派っぷりの根拠がちゃんとあるならば、そこには一定の合理的疑いがあると判断されるような場面てあるんじゃないかな、と思っています。で、このときどこに疑いがあるのか?ってところで、これは「誰が書いたのか」ではなくて、「書かれている物事」のほうに合理的疑いがある、って言うんじゃないかな、と思ったの。本人名義の窓口からの発信であれば、なんでもかんでも載せていいってわけじゃあないことは皆様ご理解しているとは思うんですが、ただでさえ、信頼できる情報源ではない自己公表されたものであるからには、本人であることはもちろん、記述に一定の信憑性が求められるっていうのはリーズナブルだと思うんだけどな。--Caserio会話2017年9月15日 (金) 01:19 (UTC)[返信]

コメント 「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」なのに、出典として信頼できる情報源として利用できるケースが非常に限られる例として、アラン・ソーカルの疑似論文事件(ソーカル事件)が思い当たります。この疑似論文[1]は、著者であるアラン・ソーカルの所属するニューヨーク大学のドメイン名にあるソーカル氏のプロフィールページ配下のディレクトリに設置されております。よって、「明確に本人が公表した内容であること」が明らかな「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」は満たしますが、当該疑似論文そのものは、ポストモダンへの批判に関する記事や考察のみでしか使えません(ポストモダン系の論文誌における無批判的な論文掲載、ひいては当時の哲学系ポストモダニズムへの揶揄に関する記事など)。閑話休題。私は、今の訳文は改善提案された禮旺さんと同じくあまり好ましくない(英語版からの英訳の正確性という意味と、この日本語版の文が曖昧≒曲解する編集者が都合よく解釈する虞があること(内容と書かれているものの、その真正性(これは、原文のauthenticityに近いと思います)、その内容が開示されたプラットフォーム(紙媒体なのかオンラインなのか、それらが社会的に信頼できる媒体・プラットフォームと受け入れられているか、又はそこまでは達していないのか)、さらに字義通り内容自体の疑義の程度など、種々の観点からの悪用・曲解)と考えています。一方で、どういう訳文がいいかというと、今のところ対案を出せるほどの見解を持ち合わせていないというのも実情です。単につらつらと雑感を述べただけになってしまい申し訳ありません。件の"authenticity"について、私が最も信頼しているMerriam-Webster[2]の解説を再掲(形容詞であるauthenticの解説ですが、名詞形も記載されています)させて、一先ず私見表明とさせていただきます。いくつかの定義が解説されていますが、最も関連するのは、「3 :true to one's own personality, spirit, or character」、次に関連しそうなのは、「1a :worthy of acceptance or belief as conforming to or based on fact」と考えます。「2 :not false or imitation」も該当すると思いますが、当たり前過ぎて、本件で議論する定義(解説)ではないと考えます。3または1aの定義から、訳文改定で「信憑性」にするのに同意するのは難しいというのが心情です。--Okiifstation会話2017年9月13日 (水) 13:39 (UTC)[返信]

  1. ^ :Alan Sokal (1996). “Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity”
  2. ^ Merriam-Webster: authenticity
脚注処理をしました。--大和屋敷会話2018年7月27日 (金) 06:37 (UTC)[返信]

偽の権威に注意より一文除去を提案

Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。」ですが、「修士以上の学位、もしくは」を除去するか「博士以上の学位、もしくは」に変更することを提案します。百科事典の情報源として「修士卒業」は力不足に感じます。英語版よりの翻訳「postgraduate degrees」のようですが、現在の英語版には記載がないようです。--JapaneseA会話2018年7月26日 (木) 13:03 (UTC)[返信]

Wikipedia:方針とガイドライン
現在行われている議論における自身の主張を裏付けるために方針を修正しようと試みることは、ルールの悪用とみなされかねません。その編集者が議論に参加していることを公表することなく方針を修正しようとする場合は特にそうです。
JapaneseAさんが、ノート:疑似科学に関した自身の主張を通すために方針修正を試みているのでそのことを公表します。--163.49.211.92 2018年7月26日 (木) 14:27 (UTC)[返信]
コメント JapaneseAさん、「百科事典の情報源として「修士卒業」は力不足に感じます。」と考える理由を提示してください。--郊外生活会話2018年7月26日 (木) 14:57 (UTC)[返信]
コメント 私も郊外生活さんに同意見です。修正するに足りる理由がなければ、修正すべきではないでしょう。--煙捲浄土会話2018年7月27日 (金) 01:38 (UTC)[返信]
  • 日本の(とりわけ文科系の)学位は認定が極端に厳しく、大学の教授職にあり専門書を複数執筆している研究者であっても博士号を授与されていない人物が相当に居るという事情も考慮すれば、アメリカの標準をそのまま採用するのはためらいを感じます。疑似科学のような個別の記事については記事毎のローカルルールとしてハードルを引き上げるなり対処したほうが良いように思います。ローカルルールの設定についてはいくつかの過去の議論があります([7])。逆に修士号をもつ人物がトンデモ説を高言しているような事例などは百科事典的には採録しておいても面白いのではないかと思ってみたり(採録の筆法は重要ですが)。--大和屋敷会話2018年7月26日 (木) 16:35 (UTC)[返信]
コメント 相手にする価値のないコメントは無視します。郊外生活様へ(大和屋敷様もですが)、逆に伺いますが、修士卒業で十二分だと御考えでしょうか?私は修士卒業の方の専門書を見た事はありません。文系は知りませんが理系分野で専門書を書いている人は、博士の肩書きがつきます。--JapaneseA会話2018年7月27日 (金) 00:03 (UTC)[返信]
コメント 修士卒業の方の専門書を見た事がないからという理由、肩書だけに着目している状況だけではおそらく修正は難しいと思います。--煙捲浄土会話2018年7月27日 (金) 01:38 (UTC)[返信]
コメント 修士はMasterが付く位ですので、「その分野」に対しての専門であると考えて間違いなく、「権威としては」信頼に値する学術位だと考えられると思います。その一方で、JapaneseAさんが主張する通り大抵の専門書は博士学の方が執筆され、同Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意においては「もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です」との記載がある通り十二分に信頼できるのは教科書またはその類を執筆する人物であることという記載もあります。ただし、博士も博士で論文と課程の博士がいます。後者は比較的(根も葉もない言い方をすれば)"とんちき"が多いので、「博士」だからといって信頼性に値する、という訳ではないと考えています。従って米版から除去されたのは単純に「肩書が信頼性に直結する」訳ではないからと考えられるのではないでしょうか?除去に反対はしませんが、単純にそれだけで問題が解決する内容でもないと思うので、除去するに当たりよりそのあたりを考慮できるような文章表現に置換するという方法がベストだと考え、現時点での単純除去には反対します。--禮旺会話2018年7月27日 (金) 01:49 (UTC)[返信]
  • 学位は原則ですので機械的に処置しないのがよいです。ガイドラインはあらゆる記事に影響してきますので、特定記事の編集方針を有利に運ぶために改変すれば他の全てのに重大な影響を及ぼすことを理解して頂きたいです。たとえば著名な竹田恒泰氏は大学の講師をされており多数の書籍を執筆されていますが学位は学士です。またやはり著名な山本七平は高等商業学校が最終学歴ですので(おそらく)学位と呼べるものは無いはずです。すこしイジワルに事例を挙げるだけでこの有り様ですので、やはり採録基準については慎重に扱うべきなのです。ほとんどの場合は個別記事の性質によって誰にでも容易に判断が付くものであり、疑似科学の場合は学位のない者がトンデモを執筆し学位あるものが批判する場合は適切に採録し、博士号を持つ者がトンデモを執筆し学位の劣るものがそれを批判している場合は慎重に採録を検討しなければいけません。むろん批判している者が学士程度の単なる科学ジャーナリストであれば、より慎重に扱うべきでしょう。--大和屋敷会話2018年7月27日 (金) 06:45 (UTC)[返信]
コメント 特定記事の編集方針を有利に運ぶために提起したわけではありません。あくまで一般論です。なるほど、最近の人ばかり頭に思い浮かべておりました。山本七平をはじめ歴史上の偉大な学者が修士以上とは限りませんね。必要条件としては、不適切ですね(現状の方針では、十分条件なので問題はありませんが)。さて、禮旺様も修士で十二分と御考えなのですね。他のノートで修士がOKというルールを提示され、「なんじゃそのおかしなルールは?修士の書いた専門書など売ってないぞ」と思い、ここで提起したのですが、意外に皆さん、修士でOKという認識なのですね。--JapaneseA会話2018年7月27日 (金) 10:42 (UTC)[返信]
  • コメント 私からもコメントを。博士号があるに越したことはないとは思いますし、私自身の専門分野(地球科学)に関しては博士に限定してよいとは思います。少なくとも地球科学では、Wikipedia:信頼できる情報源#偽の権威に注意での「その分野の書き下ろし教科書」の著者は基本的に「博士」あるいはそれに準ずる方とは思います。しかし、だからといって修士号では全記事一律に不可とする積極的な理由が思いつきません(既出の指摘にも関連しますが人文科学・社会科学の分野では「博士」に限定することの弊害もあるかもしれません)。--郊外生活会話2018年7月27日 (金) 17:04 (UTC)[返信]
    • JapaneseAさんの提案は、修士なら一律に信頼できるとしている現行のガイドラインを問題視しているだけで、「修士号では全記事一律に不可」のようなことは一切言っていません。このあたりのことを混同していたのでは、ちょっと話にならないと思います。
    • 私の感覚では、情報源の信頼性を判断する基準として、学位の有無はほとんど当てにならないと感じます。博士号を持っている人の言うことが正しいとは限らないし、ましてや修士号の有無などを問題にするのは全くのナンセンスだと感じます。現行の記述から「修士以上の学位」を除去し、「彼らが議論している分野において…実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるもの」という基準に一本化する提案に賛成します。
    • 1つ付け加えると、理学博士とか工学博士とかの学位で示される専門分野の範囲はかなり広いので、例えば、理学博士であっても、数学のことは分かるが生物学のことはさっぱり分からないというようなことがありえます。情報源の信頼性を学位の有無だけで判断するのは、そもそも無理だと思います。--Dwy会話2018年7月28日 (土) 00:06 (UTC)[返信]
コメント ちょっといじわるでここに書くのですが。「修士卒業の方の専門書を見たことはありません。」「修士の書いた専門書など売ってないぞ」とのこと。たとえば、そうですね、この方は「大学中退」が最終学歴で「学士」すら持っていないはずですが、今年出た小学館の図鑑『日本魚類館』でも執筆者として名を連ねていて・・・p406-409を担当しています。この書籍は「売ってない」どころかニュースになるぐらい売れましたよ(私も買った)。ま、これは「実証可能な形で公表された専門知識を有する人」に該当するのでしょうね。「実証可能な形で公表された」とかいう言い回しが私にはどうもピンとこないですけどね。もっと平易に「(その分野について)専門的知識を有する人物であると認められていることが、複数の情報源で確認できる」みたいにすればいいのに、とは感じます。
ま、「修士だから必ずダメ」とか「博士だから必ずオッケー」とかの話ではないし、Dwyさんのおっしゃるように大きな「分野」でもそのなかの領域にはまた専門性があり、生物学の博士だからといって菌類から家畜まで全てに精通しているということもないでしょう。ときには中学校を卒業してからずっと厩務員としてキャリアを積んできた人のほうが生物学の博士よりもウマに詳しい、なんてこともあるでしょうね。
その学問分野の基礎的な事柄、定説を取り扱う場合には「修士」でも大丈夫ということもあるでしょうし、先端的な部分では1人の「博士」が主張していても取扱注意(帰属化が望ましい)ということもあるでしょう。議論がある場合には、「ほにゃららである[1]。」とするかわりに、「A氏はほにゃららと主張している[1]」みたいに帰属化しつつ一歩引いた表現にすれば、合意に近づけるのではないでしょうか。-柒月例祭会話2018年7月28日 (土) 19:21 (UTC)[返信]
コメント 真面目に話されているところで肩身が狭いのですが、感触的なコメントを残しておきます。「学位がないこと」にどれだけの重みがあるか、「学位」「職位」を持っていることがどれだけ信頼性につながるかは分野・個人に左右される部分が多く、機械的に「博士」だからあり、「学士以下」だからなしとするのは無理だと考えています。私の執筆分野ですと、職歴・学歴ともに十分な方が、「在籍組織、出資企業、出身母体、政治家や官庁との関係性」などで専門分野でも「誰でも判る」レベルで変なことを公言することはあります。また、専門分野が思ったよりも狭く、隣接分野だと上手く行かない事もあります。また現場やジャーナリスト出身ですと、学士ですらないこともありますが、それで信頼性が左右されることはありません。つまり、この提案のうち「博士号」を要求するのは適用可能な領域が狭く、適用できない分野では悪影響しか考えられません。一方の学位への言及そのものを除去するのは応急措置としてはよいのですが、これはこれで「専門知識を持っているのにおかしな人」ってのをどうするかという問題がありますね。--Open-box会話2018年8月7日 (火) 13:26 (UTC)[返信]

コメント 極端な例ですが最近でも「さかなクン」のように学位がなくとも専門家として認められるケースもありますし、バイオインフォマティクスなどの融合分野では学位から専門分野が判断しづらい場合もあるでしょう。学位関連の記述はばっさり削って「著者にその分野の専門知識があるのか確認してください。専門知識を有することが検証可能な人物の著作を情報源としてください。」などと書きかえてしまってもよいのではないでしょうか。--SilverSpeech会話2018年8月9日 (木) 03:58 (UTC)[返信]

議論が止まっているのですが、「博士」に限定する案は分野による違い、文化による違いで一般化が難しい一方、「学位」を外して対処する方向性に明確な反対は見受けられません。このままでよいとする意見はなかったので、ここまでの議論を踏まえ以下の変更を提案します。いくつか文案がありましたが、平易と思われたSilverSpeechさんの文面を元にしました。

現行
権威の詐称に注意してください。高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます。脚注が多数あるウェブサイトでも全く信頼できないかもしれません。まず自問すべきなのは「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ワールド・ワイド・ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。

彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。
改訂(打ち消し線が除去、『』が追加)
権威の詐称に注意してください。『議論している分野の専門知識があるのか確認してください。』高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます。脚注が多数あるウェブサイトでも全く信頼できないかもしれません。まず自問すべきなのは「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ワールド・ワイド・ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。

『専門知識を有することが検証可能な人物によるものを情報源としてください。』彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。

変更点は2点です。まず、後段先頭を置き換えます。そして、置き換えた文章の前半部分を先頭に移動します。これは、「高い学位」以降とセットでも考慮されるべきであるからです。音声・映像による公開講義も想定して、「著者」「著作」という言い回しは回避しました。ついでに英語版を見てきましたが、情報源によって性質が異なるからかScholarshipの節に言及があり、学位については「修士論文」の形で否定的に存在しますが、あくまで論文に対するものとしています。学術以外の世界で活動したら適用基準が変わるため、必須の限定でしょう。金銭、文化、時間等の環境の差異があるので詳細レベルだとそのままってのは難しいのは仕方ないですが、基本的な情報源別に再編する手法は応用できそうです。ついでにこの文章は大学以上を想定しているので、日本語なら高校以下を想起させる教科書ではなく概説書とか総論ってした方が適切かもしれません。--Open-box会話2018年9月12日 (水) 01:09 (UTC)[返信]

  • 反対 やはり個人的に学位は参照する際に重要な判断材料だと思いますので反対とさせていただきます。仮に司馬遼太郎と文学博士の論文が内容において矛盾している場合は文学博士を優先し、司馬遼太郎はその著名さによって「紹介される」という体裁を百科事典は採用すべきです。--大和屋敷会話2018年9月12日 (水) 04:16 (UTC)[返信]
  • 賛成 前述で述べた通り、博士は博士でも修士に劣る方はそれこそ居るので、学位だけで選別するのは判断材料としては否定しませんが出典の選び方として不適と考えられます。逆に言えば修士の評論が一般的に評価され、博士取得者の主張が突飛なものであった場合、「紹介される」という体裁になっていると記述に不整合が生じるという可能性も考慮する点を考えるとなると、学位で優先を付けるというのは中立的な観点を考えた際に違和感が残ります。--禮旺会話2018年10月2日 (火) 01:12 (UTC)[返信]
  • 賛成 御提案の文案のように一文丸ごと除去が良いと思います。--JapaneseA会話2018年10月9日 (火) 08:27 (UTC)[返信]

ギリギリまで待ちましたが、大和屋敷さん以外の反対はありません。一旦適用しますが、大和屋敷さんの仮想ケースの場合、文学博士の専門領域であれば改訂案の前半でカバーされますし、専門知識がない領域であれば弱くなり、文学を離れればそもそも「文学博士」であることが根拠にはなりえません。つまり、大和屋敷さんの想定は、学位が持つ専門性で対象を区分すれば問題なく解決されるのです。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 14:02 (UTC)[返信]

  • すみません。何をおっしゃりたいのか意味が理解できかねます。しかし「編集方針」については三大方針以外についてはwikipedianコミュニティで検討することが承認されておりますので多数決で宜しいのではないでしょうか。将来この改定に問題があればまた改定されることでしょう。--大和屋敷会話2018年11月7日 (水) 14:31 (UTC)[返信]
    • 学位の専門性は、その専門性を離れたところでは意味を持たないのです。想定しているケースは、自然に学位が尊重される部分(専門性がある部分)と、考慮されないもの(専門性とは無関係の「偽の権威」)に区分されるということです。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 15:20 (UTC)[返信]
    • なお「司馬遼太郎」というよりも「司馬史観」に代表される「非専門家の影響力」を気にしているのであれば、それは「信奉者」や「俗説・巷説」というこの文書にはまだ存在しない対象であって「偽の権威」とは別の問題なので、別途文案を考えて下さい。--Open-box会話2018年11月7日 (水) 15:30 (UTC)[返信]

外国語で書かれた情報源について

Wikipedia(WP)英語版の記事を翻訳して作成された項目に関わっています。その出典には多数の‎外国語の情報源が含まれています。

「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきで(中略)相当する記事が日本語の新聞にないような場合以外は、外国語の新聞を情報源として使ってはいけません」という記述について質問いたします。

1. 外国語の情報源を元に記述されたWP外国語版の記述を翻訳する場合、その情報源を確認する必要はありますか。また、その内容に応じて手直しする必要はありますか。

2. 1の場合、外国語の情報源と類似した内容を述べている日本語の情報源(相当する記事)を探す努力義務を負いますか。

3. 翻訳された記事に外国語の情報源が残されている場合、その部分を編集する人は日本語の情報源に差し替える努力義務を負いますか。

4. 3において日本語の情報源を発見し採用する場合、元の外国語の情報源に基づく記述は除去されなければなりませんか。

5. WP外国語版で信頼できると見なされている情報源は、WP日本語版でも一律に信頼できると見なすことはできますか。また、WP日本語版で信頼できないとする情報源(もしあれば)に基づく記述は除去されなければなりませんか。

質問事項が多くご面倒をおかけしますが、見解を教えていただきたく思います。--メリース会話2018年11月9日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

  • 返信 ガイドラインの引用し、一つの解釈・意見ということで書かせていただきます(あとはあなたが引用したあたりを読めば良いかと思います)。まず参考までにガイドラインを略して引用します。
翻訳に値する記事とは 自分が読みたい記事を翻訳する、というのが普通でしょう。翻訳しなくとも読んで理解できる記事でも、翻訳してみると案外わかっていなかったり、追加で調べ物が発生したり、自分自身の勉強にもなります。しかし、ちょっと待ってください。その翻訳元の記事は、本当に翻訳に値する記事でしょうか。正確な翻訳は大切ですが、元記事を無批判に翻訳するべきではありません書かれていることが信用に足るか、内部で矛盾を起こしていないか、確認した上で翻訳記事として投稿しましょう。内容希薄な項目については、関係する項目を集めて翻訳し一つの記事とする方法もあります — 翻訳のガイドライン、翻訳に値する記事とは
1、 必須であるか?なら必須ではありませんが、たいへん望まれることです。査読のない編集は検証性を担保しません。「WPに記述してあるから査読されているはずである」という仮定は望ましくありません。これを良しとすると「誰かが出典を貼ってるから正しいはずだ。そのまま使っていいだろう」ということになってしまいます。
2、 あります。しかし1のように完全に補完しなくてはいけないという義務ではなく努力義務にすぎません。程度にも依るでしょう。
3、 あります。日本語WPにおいてはなるべく情報源は日本語で提供されるべきです。 しかし2同様です。
4、 義務ではありませんが、同様の記述について日本の出典がついたのならばそちらだけでも十分でしょう。個人的には検証性において複数の出典がつくことは歓迎します。検証性をより担保したいならそのまま残すことも問題ではないと思います。
5、 一律には無理でしょう。国内と国外では言葉はもちろん文化も異なります。彼らの文化の中で信頼されているものが、私達の文化の中で信頼できるという保証はありません。そういったものが示してくれるのは信頼性ではなく「どの人がどのようにいっているか」の検証性になり、検証性の出典となります。それが引用された文の一要素であるかと思います。これは国内でも「ある特定の思想にとらわれた集団の発言は信頼性に欠ける恐れが強い」といったものに近いです。ある特定の文化に対して特筆性・中立性があるものが、その他においてもそうであるということはありません。
総論として翻訳というのは原文を忠実に機械的翻訳するだけではなくバックグラウンドまで含めた翻訳・意訳である必要性が高いです。質問内容から、例えばある記事が、機械的翻訳も目立ち、すなわち内容の査読(検証性中立性など)をしているのかも疑わしく、日本語の出典にほとんど代えられていないと仮定した場合は、査読をしたのか大変疑義があり、しかも検証性しか満たさない記事となります。少し語弊があると言うか大まかな話で例外はありますが、質問に引用されたように日本での特筆性があるなら、日本の新聞などのメディアにそのような記事が生まれます。それがないということ、更に私が引用した太線部も考慮されてないとなれば、記事立項の基準を満たしていませんので削除や統合に値すると思います(重ねて書きますが例外はあります)。もちろんスタブとしての価値はありますが、場合によってはそういった中途半端なものが存在することは、日本WPでその主題記事の成長を阻害する恐れもあります。以上ほぼ私論はない解釈と思いますが意見として述べました。--鶏のから揚げ会話2018年11月9日 (金) 17:01 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。すなわち、翻訳することはそう簡単ではないということですね。そして、そのように作られた記事を(質の良さを追求するために)編集することも簡単ではないのでしょう。件の記事は質量ともに充実しているように見えるので編集したいところ、出典が英語ばかりであることが編集のハードルを上げていると感じています。編集するからにはさらに質良くしたいのですが、そのために各出典を確認するとなると大変な労力を要します。せっかく翻訳するのですから、後の編集者のことを考えれば翻訳の時点で配慮するのが良いと学びました。

なお件の記事においては、査読については英語版の時点で(私の拙い英語読解力をもってしても)疑問を呈するものがありまして…… ランダムに一つ出典を覗いてみたのですが、その記事の言いたいことをしっかり書かず出典の言いたいことを記事にしっかり書かず(打ち消し線部を斜線部に修正、誤解を招く表現でした)、欲しい数値情報だけを抜き取っているような有様でした。査読というのは、そのようなミスを是正することを含むのでしょう。特定の記事の話題を持ち出し、大変失礼しました。--メリース会話) 2018年11月9日 (金) 18:32 (UTC)--メリース会話2018年11月9日 (金) 19:09 (UTC)[返信]

コメント 鶏のから揚げさんのコメントが詳しいのであまり多くを述べませんが、「単なる日本語化」と「翻訳」は異なるということです。分野の知識がないまま・英和辞書だけで・無批判にやるのは「単なる日本語化」です。下調べをしたり、出典元や周辺分野の日本語文献を確認したりする・分野の日本語文献にあたってその文脈での適切な訳語を求める、原文に書かれていることでもヘンだと思ったら調べて注釈をいれるなど、等々の手間をかけるのが翻訳というものでしょう。善意で知の探究者たるウィキペディアンとしては後者を行うべきです。前者がまったく無価値ということもないですが、ときにはひどい誤りを広めてしまうこともあるでしょう。--柒月例祭会話2018年11月9日 (金) 22:36 (UTC)[返信]

ありがとうございます。そうですね、日本語版で普段の編集をする時にも出典についてはしっかり調べます。外国語を翻訳するからといって、訳しただけで満足してはいけませんね。外国語版由来の記事を扱う時は、辞書的な訳にとどまらないローカライズを心がけたいと思います。--メリース会話2018年11月10日 (土) 12:55 (UTC)[返信]

コメント メリースさんが今回提起された問題意識は、私もかねて薄々感じてきた事でした(参照: Special:PermaLink/69916332#翻訳について)。私は出典を自分の目で全て確認した場合や、他の利用者による翻訳中の音写に違和感を覚えた場合あるいは明らかな誤りが含まれる場合でもない限り、他言語版からの翻訳には手を出さない事に決めております。自分の目で確かめた資料のみで記事を作ります。2.の論点ですが、日本語による資料を探した上で内容が誤っていると考えられるものしか見つからない場合は、海外の文献を出典に正しいと思う内容を記します。たとえばエウフォルビア・カンデラブルムという植物が存在しますが、和名がつけられていないという点から窺える様に日本では生育しておらず、日本語による主要な植物図鑑には載っていません(『植物レファレンス事典』日外アソシエーツ、2004年を調べても掲載されていません)。それでもこの種の場合は一応『A-Z 園芸植物百科事典』(クリストファー・ブリッケル 編集責任、横井政人 監訳、誠文堂新光社、2003年、428頁)に詳しい記述はあるのですが、「杯状花序は赤紫」とあり、これはコモンズに挙がっている画像から誤りである(恐らく果実を誤って花と見做してしまった)と考えられ、英語文献である Kenya Trees, Shrubs and Lianas (H.J. Beentje, Nairobi, Kenya: National Museum of Kenya, 1994) の "Flowers yellow-green" という記述を訳して記しました。--Eryk Kij会話2018年11月11日 (日) 06:32 (UTC)[返信]

ありがとうございます。多くの外国語文献に接されてきたEryk Kijさんの苦悩の一端をお察しいたします。むしろ日本語文献が間違っていることもありますね。翻訳の場合、質の担保・追求のためには両言語の文献を比較することも大切と思いました。もちろん翻訳でなくとも外国語文献が参考になることがあります。--メリース会話2018年11月11日 (日) 08:17 (UTC)[返信]

博物館や美術館の資料について

Wikipedia:出典を明記するに現地案内板とありますが、次のようなものは信頼できる情報源でしょうか?

  1. 博物館や美術館の公刊資料
  2. 博物館や美術館の館内で提供されてるガイドブック、パンフレット、リーフレット
  3. 博物館や美術館の館内にある案内板(常設展の場合)
  4. 博物館や美術館の館内にある案内板(特別展の場合)
  5. 博物館や美術館の館内で用いられている音声ガイド(常設展の場合)
  6. 博物館や美術館の館内で用いられている音声ガイド(特別展の場合)
  7. 博物館や美術館の館内で放映されている映像資料(常設展の場合)
  8. 博物館や美術館の館内で放映されている映像資料(特別展の場合)
  9. 博物館や美術館の館内で開催されたイベントでの配布資料

現地案内板との比較で質問致します。--Nansyrsyr会話2019年4月2日 (火) 21:19 (UTC)[返信]

コメント 情報源の検証可能性が、一つの目安になるのではないかと思います。案内板が常設板であれば検証可能性が高いと言えますが、特別展では案内板が展示終了後に撤去されると検証可能性が担保されなくなってしまいますよね。また、案内板が「誰によって」書かれた(または設置された)ものであるか明示されていなければ、信頼できる情報源とは言えないと思います。--小石川人晃会話2019年4月2日 (火) 21:58 (UTC)[返信]
  • コメント 実際問題であれば、これらを使わずとも別の資料が提示できないのか?となりますが、あくまで方針の話として。Wikipediaで言うところの「信頼できる情報源」とは「検証可能な信頼できる情報源」を指します。全てpublisherは問題ないと判断しますし、著者も大抵の場合問題ないでしょう。一方、検証可能かと言われれば、判断つきかねます。1は図書館等に収録されるはずなので問題ないと思います。2と9は公式サイトより通信販売で購入できる/できない10年前の映画のパンフレット、3と5と7は石碑に刻まれた碑文自体、4と6と8は期間限定のWEBサイトと同じ問題でしょうか。--JapaneseA会話2019年4月3日 (水) 03:50 (UTC)[返信]
  • コメント JapaneseAさんのおっしゃっているとおり、1は問題なく、一方でほかは検証可能性(入手困難)や信頼性の問題がありそうです。あえて案内板や音声ガイド等を用いなくても、たいていそれらの内容は(より詳細に)博物館・美術館刊行の特別展・常設展の図録、あるいは専門書等に含まれているでしょう。映像資料は図録等に含まれない内容が含まれているかもしれませんが、貴重・重要な資料であれば、国立歴史民俗博物館のように貸出・視聴サービスがあるでしょうし、そうであれば検証可能性の問題はクリアできそうです。--伊佐坂安物会話/履歴2019年4月3日 (水) 11:17 (UTC)[返信]
  • コメント きちんとした図書館、博物館、美術館であれば、紀要、年報などが公刊

されるでしょうが、そうでなくても、こちらから問い合わせたら、自館の展示資料のことであれば典拠となる資料などを教えてくれる可能性がそれなりにありそうです。とはいえ、地方自治体の自治体史・地誌と同じで、検証可能性はともかく信頼性という面では不安が残りますが。--Rasalghul会話2019年4月14日 (日) 20:51 (UTC)[返信]

  • コメント 現地案内板は製作された年代が古いものがあり、必ずしも現在の見解を反映したものではないありません。また、製作された日付が記されていないものもあり、刊行日が書かれた1,2,9に比べると、資料としての信頼性は劣ると思われます。残りのものは、刊行された展示の図録や解説が存在するのでしたら、そちらを出典として使われるほうがよろしいかと思います。大学所属の研究者の著書や論文と比較して、自治体や関連施設の刊行物が信頼性で劣るかと言われれば、籍を置いている身としては一言申し上げたい気持ちになります。地域に密着しているからこそ分かっていることも多々あり、より広範な視点で研究されている方と比べて、必ずしも研究の質が劣っているわけではありません。--Days for archaeology会話2019年4月21日 (日) 04:44 (UTC)[返信]

「公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」への追記提案

以上2点の内容を追記してもよろしいでしょうか。言及している内容がそれぞれ近しい事柄であり、また人物に関連する記事において、当該人物が自主公表している経歴などを参照する場合などに出典として扱うかなどの判断指針として目を通すべき事柄であると思いましたので。 --Animataru会話2019年9月11日 (水) 23:46 (UTC)[返信]

コメント 私もリンクはあった方がよいと思いますが、{{See}}は説明を他の項目に丸投げする時に用いるテンプレートなので(詳細は「Template‐ノート:See」を参照)、{{See}}よりは{{See also}}の方が良いと思います。
あと、ウィキペディアを編集しようとしている本人自身が自主公表した情報源を用いる場合の指針として、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」「Wikipedia:自著作物の持ち込み」「Wikipedia:有償の寄稿の開示」といったガイドラインもあります。個人的にはセクションの末尾に「なお、あなた自身がその情報源の公表者である場合、併せて……のガイドラインもご覧ください」のような一文もあってもいいかな、と思います。--Kanohara会話2019年9月12日 (木) 07:09 (UTC)[返信]
上記提案を受けまして、以下のような構成(現在の文面の最下部に加筆する形)での追記を提案します。
自己公表された情報源または...(中略)
  • 記事が、自己公表されたじょうほうげんを最重要な情報源としていないこと。
なお、あなた自身がその情報源の公表者である場合、併せて「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」「Wikipedia:自著作物の持ち込み」「Wikipedia:有償の寄稿の開示」のガイドラインもご覧ください。
この文面について追加案などがありましたらご意見よろしくお願いいたします。ページの編集は反対意見がなければ最後の議論から1週間以上経過した頃合いに実施しようかと思います。 --Animataru会話2019年10月22日 (火) 15:58 (UTC)[返信]
報告 提案から1週間以上経過したので加筆しました。 --Animataru会話2019年10月31日 (木) 04:57 (UTC)[返信]

「存命人物の伝記」節の改訂を提案します

「存命人物の伝記」のセクションにおける「存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報が掲載された場合にはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。」との一文に関してですが、誘導先ページであるWikipedia:存命人物の伝記に記された指針と相当の齟齬があります(この点が元で実際にトラブルも生じています)。編集者にそれ相応の注意を促す意図はあろうとはいえこの書き方ではあまりに大雑把ですし、元は黎明期の英語版からの移入された条文のようですが今となっては英語版の方も既に改訂されており、ウィキメディア全体からしても一般的とは言えないようです。またこの箇所において否定的な記述同様にプライバシーに関する記述に関しても注意を促す必要はあると考えますし、同時に「実在の人物が、あなたの言葉で傷付く」といった曖昧な言葉選びから、もう少し具体的に実在の人物の名誉や権利、加えてウィキメディア財団全体にとってのリスク等等の観点も盛り込んだ方が良いかと存じます。以上の点を踏まえ、掲載の内容を以下のように改訂する事を提案させて頂きます。

  • (改訂前)存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報が掲載された場合にはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。他の記事の、存命の人物に関する記述を含んだ節についても同じです。実在の人物が巻き込まれ、あなたの言葉で傷つく可能性があります。私達は雑誌の記述活動をしているのではありません。私達は百科事典を作っているのです。
  • (改訂後)存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報の掲載には強い注意を払って下さい。特に信頼できる情報源に基づかない否定的な情報やプライバシーに関わる情報の掲載は絶対に行ってはいけませんし、そうした性質の情報のうち参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しか存在しないものはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。他の記事やページの、存命の人物に関する記述を含んだ箇所についても同じです。実在の人物の名誉や権利が侵害され、加えて掲載したユーザーのみならずウィキメディア財団全体にまで法的なリスクが波及する可能性があります。私達は雑誌の記述活動をしているのではありません。私達は百科事典を作っているのです。

--Miraburu会話 / 投稿記録 2020年9月15日 (火) 14:38 (UTC)[返信]

チェック 実施いたしました。--Miraburu会話 / 投稿記録 2020年9月26日 (土) 02:21 (UTC)[返信]

用語の定義の改定を提案します

事実と意見の箇所の本文について、以下のような方向での改定を提案します。二段落目からの変更を念頭に置いていて、火星よりは地球の方が具体的であり事実らしさを有していること、その論旨であれば原文の起草者が著名であり、事実らしさが高いこと、先人に対する配慮があった方が良いこと、それにより現状の文を活かせることなどの理由により適当だと判断しています。以下の三段落目は、意見の二段落目を予定したものですが、事実には書かれているのに意見には書かれていないこと、明示した方が誤解を招く危険性も第三者を騙す危険性も低いことなどの理由により、改定が適当だと判断しています。そして、自由の意味が不適当かつ不明瞭なことから言い換えてあります。それから、読点についても、伝統的な日本語の慣行に従うべきであり、そのような方向での変更を加えてあります。更に、太字の部分の意図が不鮮明なことから、省略してあります。また、火星文については、「という」が冗長かつ不要なことから削除してあります。

  • (改訂前 f-2) 事実や、意見についての事実は主張してください。しかし、意見そのものを主張しないでください。ある調査により結果が公刊されたということは事実です。火星と呼ばれる天体が存在する、ということは事実です。プラトンは哲学者であったということも事実です。これらのうちいずれかに真剣に異議を唱える人はいませんから、私たちはそれらを自由に主張できます。
  • (改訂前 o) 意見とは、誰かが抱いている見解であり、その内容は検証できる場合もできない場合もあります。しかし、ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます。
  • (改訂後 f-2) 事実や、意見についての事実は主張してください。しかし、意見そのものを主張しないでください。ある調査により結果が公刊されたということは事実です。地球と呼ばれる天体が存在することは事実です。ジョージ・エドワード・ムーアはイギリス人であったということも、プラトンは哲学者であったということも事実です。これらのうちいずれかに真剣に異議を唱える人はいませんから、私たちはそれらを主体的かつ任意に主張できます。
  • (改訂後 o-1) 意見とは、誰かが抱いている見解であり、その内容は検証できる場合もできない場合もあります。しかし、ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(つまり、その人がその意見を表明したのは真である)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます。
  • (改訂後 o-2) 適切な情報源がないのに、「世界は事実の総体である」とか、「ウィトゲンシュタインは、世界は物の総体ではないと述べるべきでなかった」と投稿してはいけません。適切な情報源がある場合には、「クレタ人は分離型GCだ」とか、「思想は実在しない」といった投稿も許容される余地があります。

以上について、ご検討をお願いします。--Textural会話2021年2月9日 (火) 23:42 (UTC)[返信]

アキバblogやマンガペディア、Amazonについて

私は、漫画やライトノベル作品のWikipediaを閲覧することが多いのですが、そこでアキバblogマンガペディアAmazonを出典として利用している記事を見かけたことがあります。これらはWikipediaの出典として使用できる「信頼できる情報源」と言えるのか皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです。--PMmgwwmgmtwp'g会話2021年3月17日 (水) 04:12 (UTC)[返信]

  • コメント マンガペディア平凡社小学館によって設立された一般社団法人による運営サイトのため、信頼できる情報源(三次資料)として出典が可能なようです。--柏尾菓子会話2021年3月17日 (水) 07:50 (UTC)[返信]
    • 返信 コメントありがとうございます。マンガペディアは三次資料でありながらも、ブリタニカやWikipediaとは違い運営元が大手で適切な執筆者に依頼して執筆されているということで、Wikipediaのルールにのっとれば使用できるのではと思っておりましたが、マンガペディアを出典として使用する編集者の方が殆どおらず、私自身迷っていた次第です。今後マンガペディアが有効に使える機会もあると思うので活用していきたいと思います。ご教示いただきありがとうございました。--PMmgwwmgmtwp'g会話2021年3月23日 (火) 07:35 (UTC)[返信]
  • コメント 基礎的なこととして、「Aという情報源は信頼できる情報源かどうか、Yes or No」のように単純二元論では考えないでください。情報源の信頼性は「スペクトルのように幅がある」ものです。すなわち、Yes or Noではなくて、信頼性がすごく高い・高い・まあまあ高い・わりと低い・すごく低い・・・と言う具合に考えてください。
  • 信頼性の高低を求める基本的な考え方は、「専門家による入念な査読を経て公開されたもの」は信頼性が高いということです。逆に言うと、発売元が小学館だろうが山川出版社だろうが東京大学だろうが、「専門家による」「入念な」査読を経ないで公開されていそうなものは、信頼性は低いです。通常、信頼性が高い情報源は、その執筆者も公表されています。たとえば市販の百科事典では、記事毎に執筆者が明記されているようなものと、そうでないものがあります。この場合、一般的には、署名記事のほうが信頼性を上にみるべきでしょう。たとえば百科事典では、「(天文学の権威として有名な)T大学名誉教授(天文学)のS博士が監修した」というようなことが明記されているものであり、それが権威として「信頼性」を担保するカタチになっています。
  • そして、「Aという情報源は」という大雑把な条件ではなく、「こういう記述を書く場合には」というように、ひとつひとつケースバイケースです。たとえばグラビアモデルについて書こうと思ったら『週刊プレイボーイ』は情報源足り得るでしょうけど、最先端の物理学について書こうと思ったら『週刊プレイボーイ』はダメということです。
  • こうした原則に照らすと、たとえばAmazonは、マンガやDVDの作者・監督の名前や出版社、収録時間や総ページ数、ISBNなどの情報源としては信頼してよいでしょう。一方、ユーザーレビューは「信頼できる」に値しませんし、商品説明・あらすじ・評価などは、商品を売るための宣伝的内容になっているでしょうから、使用しないべきです。
  • アキバBlogは個人サイトですから、基本的には情報源としての利用は極力慎重であるべきです。(いまちょっと眺めましたが)多くは商品の宣伝の様相を呈していますから、情報源としても不適切です。正直私は不得意分野なので深いことは言えませんが、ときには、この分野の個人ブログとしては高い知名度があるということで、分析的な記述をする際に、明確に帰属化したうえで使用することは許容されうるでしょう。つまり「Xという作品をアキバブログは『歴史的な名作』と評した[1]」のように書くことは、ありうるでしょう。(「ありうる」というのは、常にオッケーという意味ではないです。こういう分析的な記述をするときは、「アキバブログによる評価」が世界の代表的な評価であるようになってはダメで、ほかにも「メディアBはこう評した。メディアCはこう評した。」のようにいろいろ並べるのが肝要です。いずれにせよ、そうした評価・分析的記述は、宣伝のためのウリ文句のような場合には使えません。たとえばXという作品単独の紹介ページでの評価は、使用を避けるべきです。「2020年のトップ5」みたいな総評ページでの言及は、情報源として使うことがありうるでしょう。
  • マンガペディアは、確かに大手出版社が出資した媒体ではあります。ただし実際の執筆者は執筆者一覧をみると、(私はよくわかりませんが)明らかにペンネームの人物(?)もいます。各々が「専門家」や「権威ある」のかどうか私にはわかりません。もしかするとその分野の有名人などもいるでしょうし、無名の人もいるでしょう。どういう権威でどういう査読が行われているのかよくわかりませんから、無批判に「信頼できる」として取り扱うことはできません。
  • たとえば黒子のバスケをみると、おそらく無署名記事です。「比較的かんたんな事実」のような記述の情報源としては、ダメではないと思います。ですが「社会に与えた影響」のように、突っ込んだ分析的記述をするには上等な情報源ではありません(この作品に起因して現実社会で色々騒動があったことは事実でしょうけど、それは他のもっと信頼性の高い情報源でも確認できるはずです。)。アキバブログと違うのは「アキバブログはこう評した」と書くと責任者は1人に帰属できるのに対し、「マンガペディアはこう評した」では責任者が特定できません。もし署名記事があれば「マンガペディアのMはこう評した」のように帰属化して使用するなら、「絶対ダメではない」という感じでしょう。
  • いずれの場合でも、それらの記述が、多くの人から見て「まあふつうだな」と思えるような、ほかのメディアでも大筋で似たようなことが書かれているような、常識的な文脈にある限りは、大きな問題ではないでしょう。
  • 逆に「驚くべき記述」「他の情報源では見当たらないような記述」を書く場合には、これらの情報源の使用は慎重にするべきです。
  • また、WP:NOTの観点からも、「他の情報源では見当たらないような情報」については、そもそも書くようなことではないと判断することも必要です。
  • いずれの情報源も、ネットでイージーにアクセスできるという利点はありますが、ネット情報源というのはイージーに発信されるという面もあります。また、注目を集めて読者を誘引するためにトンガッたことを書いたり、商業主義のために宣伝的なことを書いたりしやすい面もあります。トンガッたことを書いているがゆえに飛びつきたくなる誘惑は常にあると思いますが、百科事典に相応しい記述かどうか、よく吟味してできるだけ慎重に取り扱うべきです。
  • 結局のところ、他の情報源も広くあたり、似たようなことが書かれているのかどうかというのも、信頼性の評価には必要な視点です。ひと手間ふた手間かけて、紙で刊行された情報源もきちんと調べるというのが基本です。検証可能性・信頼性の観点からも、それは書くに値するようなことかどうかを判断するためにも。--柒月例祭会話2021年3月23日 (火) 11:41 (UTC)[返信]

中国発の情報源について

Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源には、「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきです(同じ品質と信頼性だと仮定しています)。・・・」とありますので、日本語の情報源が優先されることは言うまでもないのですが、中国をはじめ、学問の自由が保証されていない地域で発行れたものの妥当性について考える必要があるかと思われます。

例えば日中戦争に関して最も懸念される問題は習近平の「十四年抗戦」史観であると考えられます。秦郁彦は「一昨年の政治局会議で習近平主席が提議し、今年一月発行の国定教科書の記述で、戦争の呼称をそれまでの『八年抗戦』から『十四年抗戦』に改めたのです。」「つまり、抗日戦争の起点を、三七年ではなく、教科書ではほとんど無視してきた三一年の満洲事変に変えたわけです。中国共産党が国民党史観の継承から脱し、自前の国定史観を確立しようとしていることが読み取れます。」と述べています。 (秦郁彦『実証史学への道 — 一歴史家の回想』中央公論新社、2018年7月25日 初版発行、ISBN 978-4-12-005099-2、132頁。) 習近平の「十四年抗戦」史観は、政治的・イデオロギー的な見解であり実証歴史学とは見なせません。この史観を紹介するのは可能ですが、この史観をあたかも事実であるかのように断定的に記述することや、この史観でメインストーリーを執筆することは、特定の観点の推進にあたります。

習近平のそれのみならず、より一般的な問題として、中国共産党と学問の自由の欠如の指摘には枚挙のいとまがありませんが、いくつかのものを紹介しておきます。

  • 大沼保昭:「南京事件については三〇万人が虐殺されたという中国共産党の公式見解から中国の学者は一歩も動くことができません。日中の歴史認識を共有する上で、そうした中国共産党政権の言論統制の問題は、今後克服すべき課題として残っています。」 (東京大学名誉教授大沼保昭「東京裁判―歴史と法と政治の狭間で―」『外交史料館報』第31号、平成30年3月。)
  • 朝日新聞の社説:「中国で問題なのは、ひとたび政権が見解を出せば、その歴史観に社会全体が縛られる点だ。すでに教科書の改訂が進み、異論を唱えた歴史学者の文章はネットから削除されている。自由であるべき歴史研究が妨げられているのは憂うべき事態だ。」 ((社説)中国の歴史観 政治利用の不毛な動き朝日新聞』2017年10月9日)
  • 譚璐美:「『学問の自由』がない中国では、国家の政治方針に異議を唱えるような発言や研究テーマは速やかに潰される危険が満ちている。とくに近現代史や政治を扱う分野では、往々にして研究者は学者生命を断ち切られ、断罪される危険もある。」(「封じられた「真実の声」はやがて実証される 日本とちがう「学問の自由」と三峡ダム─建設に反対した水利学者」『COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン)』講談社、2020.11.7.)
  • 川島真:「大学の中に限定しても、個々の大学教員の海外での研究報告などがチェックされるだけでなく、授業内容が録画されたり、学生に教員の授業内容がチェックされたりする制度もできている。つまり、「学問の自由」は保証されていない。」(川島真中国「教授拘束事件」の意味…内外の研究者に及ぶ管理・統制) 「中国は日本との歴史認識問題や、台湾との歴史観をめぐる相違もあって、対外的に自らの歴史観が正しいということを広める歴史戦を展開していることは指摘しておきたい。」 (。)

こうした事情から、中国発の情報源には注意を要し、少なくとも歴史分野においては、それを使用してメインストーリーを書くのはルール上、アウトであると考えています。Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源あたりで明文化しておく必要はありますでしょうか?-- Takabeg会話2021年4月24日 (土) 22:50 (UTC)[返信]

コメント 「日本語以外の言語で書かれた情報源」は、単純に、翻訳の問題・JAWPの主要な利用者である日本語話者にとって誤読が生じにくいかどうか、の問題を述べているにすぎません。

Takabegさんがおっしゃっているのは専らWikipedia:中立的な観点に属するもので、Wikipedia:中立的な観点#情報源が内包する偏向で説明されています。何語であるとかの問題ではありません。「中国発だから」とか「歴史分野」とかではなく、何語で誰が何を書いたとしても、「意見を事実として記さない」「深刻な論争がある主張を事実として記さない」などのWP:YESPOVを入念に実現する必要があります。

近現代史というものは、どの国の何を書こうとしても常に「中立性」の確保は難しものです。あなたが示したような例、南京事件だとか台湾問題とか東京裁判だとかのようなテーマでは、中国発だろうと、日本発だろうと、たいていの情報源には何かしらのバイアスがかかっているのは、大人ならば判断できることです。そうしたテーマ(Wikipedia:論争のある記事)を取り扱うときには入念に中立性に配慮が必要です。「中国発だから禁止な」みたいな主張は、すでにあなたがある種のバイアスに囚われていることを間接的に示唆しているでしょう。--柒月例祭会話2021年4月25日 (日) 00:10 (UTC)[返信]

柒月例祭さんへ:「中国発の情報源について」というタイトルがザックリし過ぎていたのかもしれません。「中国発だから禁止な」みたいな主張はしていません。私も人間ですので、様々なバイアスに曝されているのは自覚しつつ、WP:CENSORに反対し、多様性を認める立場から、常に是々非々で臨んでいるつもりです。それが、「『中国発だから禁止な』みたいな主張は、すでにあなたがある種のバイアスに囚われていることを間接的に示唆しているでしょう。」というのが結論部分に書かれているのはとても残念です。残念に思う理由は、柒月例祭さんが書かれた当該箇所などが、(日本語版のWikipedia:個人攻撃はしないでは何故か明示されていないませんが、)en:Wikipedia:No personal attacksの冒頭にある"Comment on content, not on the contributor." という極めて基本的なウィキペディアの精神から逸脱している、からというだけではありませんが、それはそれとして、ノート:南京事件#南京事件_(1937年)から南京事件への改名提案でも提示したように、非日本語文献だけでなく日本語文献も含めてのことですが、極端な論者による典拠でもって「メインストーリー」を執筆すべきではないというのは、「意見を事実として記さない」「深刻な論争がある主張を事実として記さない」に適合していると思います。ここで申し上げたいのは、「禁止すること」ではなくて「メインストーリを書くのに使用しない」ということであり、ある程度の明文化をするべきか否かの意見をつのっているだけです。もちろん、どの論者も同意する「最大公約数」的な内容についてはその限りではありません。これもまた「バイアス」と言われるかもしれませんが、中華人民共和国の公定史観を信奉する人々が増加して、人海戦術で浸食し始めた場合、「中立性」が確保できなくなるのではないかと思われます。それと、私は、政府が決めた史観から外れることができないことで、一番悔しい思いをしているのは、実証研究を目指している中国 (含む香港) の研究者たちなのだと思っています。それでは。-- Takabeg会話2021年4月25日 (日) 06:01 (UTC)[返信]

コメント Takabegさんの懸念点はごもっともで、中国に限らず全体主義国家だったり、韓国みたいに国民情緒優先で国際社会の通史を無視して公定史観を信奉してしまう人が増えた際、そこに歯止めを掛ける必要はあると思います。併記する場合も、「中国共産党によれば」等枕詞は必要だと思います。--S.S.E.H.Talk/Contribs 2021年7月5日 (月) 02:14 (UTC)[返信]

労働組合の資料は信頼できる情報源として使用できるか

誰でもパソコンやスマートフォン等から閲覧が可能な労働組合の資料は信頼できる情報源として使用は可能でしょうか?例えばJR東日本の駅のページにおいては、みどりの窓口及びびゅうプラザの閉鎖や日本の鉄道駅#業務委託駅になる際に出典として扱われております。私個人の意見として、労働組合はその会社員(労働者)等で結成されているものですし、加盟者の労働条件の改善に向けて、加盟者に対して正確な情報を提供しているものであると思い、Wikipedia:信頼できる情報源としても扱っても良いと思うのですが…--Tokyo-Good会話2021年8月21日 (土) 12:57 (UTC)[返信]

  • 反対 私は労働組合の資料は情報源として信頼できないと思います。JRの労働組合のウェブサイトを見ると反戦運動や改憲反対の運動など明らかな政治主張なども行っているものもあり、政党や宗教団体のウェブサイトと同等に扱うべきだと考えます。特に一部のページで出典となっているいわゆる過激派と呼ばれる国鉄千葉動力車労働組合などのホームページは尚更です。自分たちに都合の良い情報を多く載せており、必ずしもと加盟者の労働条件の改善に向けて、加盟者に対して正確な情報を提供しているわけではないと私自身としては思います。また、労働組合などのホームページで労働組合が提案を受けたと発表しているのはあくまで会社側から打診があったと言っているだけで決して信用できるわけではないと思いますし、会社としてまだ決まっていないことなのかもしれませんし、予定が本当にあるかも不明です。自治体のホームページや会社のホームページ、報道機関などWikipedia:信頼できる情報源を出典にするべきだと思います。

 以上のことから労働組合の資料はWikipedia:信頼できる情報源ではないと思います。--名無し1124会話2021年8月21日 (土) 13:59 (UTC)[返信]

  • コメント - Tokyo-Goodさんが例示された使い方と名無し1124さんが懸念される使い方が噛み合ってないように見えます。「○月×日に○駅のみどりの窓口が閉鎖された」といった、政治主張など中立性を欠く問題が入る余地がない記述なら使っても問題ないのではないでしょうか。ただし、成田駅のびゅうプラザ営業終了日、みどりの窓口営業終了日については提案・予定であり、特に前者はすでに期日が過ぎた出来事であるもかかわらず実施後の出典に差し替えられていないことから、「労働組合だから」ではなく「予定だから」問題だという指摘はできます。これは本節の議題から外れますが、予定は予定であって実行されたか否かまで検証できておらず、信頼できる情報源であっても適切ではありません。
本題に戻ると、情報源の属性で直ちに判断するのではなく、使い方次第と言ったところではないでしょうか。会社との闘争などの記述に使う場合は組合側、会社側双方の資料を見比べて中立的な記述を心掛けるべきであり、一方の主張を鵜呑みにはできないものです。しかし、例えば資料編に載っている統計や年表など、客観的事実が淡々と並べられた情報であれば使えないことはないでしょう。今のところ私は労働組合関係の資料を用いたことはありませんが、例えば名鉄の労働組合は三十年史や五十年史を発行しているようで、他で見当たらない中でその中に同種の記録を発見した場合は普通に使うと思います。--ButuCC+Mtp 2021年8月21日 (土) 15:58 (UTC)[返信]
  • コメント - 確かに使い方次第だと思いますが、「提案を受ける」という記事では私は客観的事実かは不明だと思いますし、会社や自治体、報道機関など確実に[[[Wikipedia:信頼できる情報源]]となる機関が発表していない時点ではまだ予定が本当に立っているかも不明です。

 また、[[[Wikipedia:信頼できる情報源]]には「政党や宗教団体のウェブサイトや出版物は、政治的主張や宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります。とりわけ、よく知られた過激派さらにはテロリスト集団などは、それらが政治的、宗教的、人種的あるいはほかの特徴を持つもののどれであっても、けっしてウィキペディアの情報源として使われてはなりません。一次資料、つまりそうした組織の意見を論ずる記事に含まれるというのは例外です。ただしそのような場合でも、非常に注意して使うべきであり、他の情報源で裏付けすべきです。」と記載されています。よく記事の出典とされているJR東労組などは改憲反対など政治主張も行っており、また国鉄千葉動力車労働組合に至ってはよく知られた過激派です。会社との闘争や政治主張と関係のない資料でも組合の資料だけを出典として記事にするのはそれに反すると思います。--名無し1124会話2021年8月22日 (日) 07:36 (UTC)[返信]

3点ほど。
1点目。「「提案を受ける」という記事では私は客観的事実かは不明」というのは私が述べた『「予定だから」問題だ』と全く同じ論点であり、信頼できる情報源であっても問題になりますので、本件の議題とは関係ないです。会社のプレスリリース等でも予定事項を確定事項として使うのは駄目です。これは出典の素性が信頼できる情報源か否か、とは別の問題です。
2点目。JR東労組など特定の団体(の資料)に絞った議論がしたいのか、一般論として「労働組合資料」全般について議論したいのか、はっきりしていただきたい。コメント依頼の文面や方針文書のノートという場所の性質上、後者の議論と私は認識していますが、前者なら(私がその団体の資料を参照することはこの先もないと思うので)特にいう事はないです。
3点目。後者、すなわち特定の組合ではなく労働組合全般に対しての議論とする場合、JR東労組等の過激な存在一つをもって世に存在するあらゆる労働組合もそうだとは言えません。WP:BIASEDに労働組合というカテゴリは列挙されておらず、結局はケースバイケースであって、機械的にダメと言えるものではないでしょう。むしろ、Wikipedia:信頼できる情報源#企業や組織のウェブサイトが抱える企業ソースの贔屓を補完する視点を提供することが期待されます。--ButuCC+Mtp 2021年8月22日 (日) 12:35 (UTC)[返信]
  • コメント - ここに議論を設けた利用者:Tokyo-Goodさんのコメントや私の会話ページに利用者:Tokyo-Goodさんが書かれた内容からJR東労組や動労千葉などの鉄道会社の労働組合の資料に絞った議論をするためにこの節が作られたのだと思います。

 また、労働組合の資料はWikipedia:信頼できる情報源#企業や組織のウェブサイトが抱える企業ソースの贔屓を補完する視点を提供することが期待されるので、鉄道会社などのホームページと労働組合の資料を併せて出典とすることなら望ましいと思います。--名無し1124会話2021年8月22日 (日) 14:23 (UTC)[返信]

  • コメント 中立三者三様のご意見でしょうが、どこの企業か問わず、会社やメディアの情報源を優先すべきと考えますが、Wikipedia:信頼できる情報源として利用する場合もあるのではないのでしょうか。残念ながら、メディアも一つの企業で、スポンサー等で利害関係が発生しないとは言い切れない部分があります。ただ、政治的主張や公開前の内部情報があるので、会社やメディアに比べて情報源として利用するには注意が必要かと思います。--MK-950131会話2021年8月22日 (日) 16:27 (UTC)[返信]

出所の不確かな素材 の文章について

この節の文章について、全体的にわかりにく、意味不明になっている箇所もある文章だと感じております。大幅な改善が必要ではないかと認識しております。 現状は、文章での説明になっていますが、 読み手側が文章の中のどの部分を参考すればよいのか明確ではないと思います。 文章の中に登場している事象をケース分けし、個々のケースでの対応方針、方法を明確に記載すべきと思います。 説明のメインとして、以下のような表で表現する形に変更することを提案します。 表に対する補足として文章を用意することで、簡潔でかつ充実した説明になるのではないかと思っております。

以下、表の内容については、元の文章を元に作成しましたが、ご意見いただければと思います。 よろしくお願いいたします。

ケース 出典(A) 記事内容(編集者にとって)(B) 奨励される編集方針(C) 記事への編集対応(D) ノートへの編集対応(E)
1-1 なし 真実かつ常識である 除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
1-2 なし 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去してよいが、ノートで情報源を要求 WP:ES 除去 除去した記事内容は、ノートページに転記し、それについての出典を要求する
1-3 なし 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
1-4 なし 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 未検証/要出典/出典の明記 タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-1 あるが不確か 真実かつ常識である 除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-2 あるが不確か 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去してよいが、ノートで情報源を要求 WP:ES 除去 除去した記事内容は、ノートページに転記し、それについての信頼できる出典を要求する
2-3 あるが不確か 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
2-4 あるが不確か 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない 信頼性要検証/信頼性要検証範囲タグの追加 タグを付けた記事内容についての質問を行う
3-1 確かな情報 真実かつ常識である 編集不要 編集不要 編集不要
3-2 確かな情報 真実とは言えない
もしくは記述が不適切、不条理、有害である
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論
3-3 確かな情報 真実かどうかはわからないが、少なくとも一般的な常識とは思えない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論
3-4 確かな情報 真実かどうかはわからないし、一般的な常識かどうかもわからない
記述が不適切または、不条理、有害かどうか、わからない
除去しない。出典を検証する 編集不要 出典と記事内容に相違があると思うなら、ノートで議論

--ひできち東京会話) 2021年12月21日 (火) 17:31 (UTC) --ひできち東京会話) 2021年12月21日 (火) 17:46 (UTC) --ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:35 (UTC)[返信]

  • コメント 出典があるからといって永遠に残さなければならない(記述を除去するのが常に不適切)とは限らないので(出典があろうと些末とみなされる情報はいくらでもあります。出典自体はあろうとケースEで削除される主題もあるわけですから)、「確かな情報」かつ「真実かつ常識である」だとしても除去が非推奨という書き方だと混乱を招くおそれがあるように思います(もちろん特段の理由なく除去するような行為は問題ではありますが)。しかし、そのよう場面があればノートで事前提案を経たうえで編集する、出典の原典を確認する、などを提示しておくのはあるとは思います。あと、Wikipedia:存命人物の伝記関連では無出典の否定的な記述の即時除去({{要出典}}付与対応も不適切、ノート転記も不適切)となっているので、その点も考慮いただければと思います。--郊外生活会話2021年12月21日 (火) 18:20 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。表形式を採用することについては賛同していただいた上でのご意見ということで解釈いたしました。
とりあえず、表の行列に番号を振って、各項目についての議論をしやすくする必要性があると認識いたしましたので、まず、その点だけ表を修正いたします。--ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:30 (UTC)[返信]

--ひできち東京会話2021年12月22日 (水) 00:35 (UTC)[返信]

出典についてのガイドラインとしては、こちらの他に、出典を明記する#出典なき記載の扱いがあります。既に表形式での表現方法を採用されていて、文章も簡潔な内容ですので、基本的には、出典がないケースについてはそちらを参照させるように変更するのがよいと考えております。

ただ、現状、既に、両者の記述内容に、大きな違いがあると認識しております。具体的には、 出典を明記する#出典なき記載の扱いには、以下の文章で、明確に、即時の除去ではなくタグ付けを要求しています。 「{{出典の明記}}テンプレートを使って出典の提示を求めることができます。十分な期間を経てもなお、出典が見つからない記述は除去してください。」

それに対して、こちら(信頼できる情報源#出所の不確かな素材)では、「~~が奨励されます。」という文体で終わっており、編集者の裁量の範囲のように解釈され、結果として即時削除の編集行為、それを発端とする編集合戦のトラブルに陥ることを予防できていないと思います。

まずは、このケース(出典がないケース)について、統一された「記事の内容についてのガイドライン」を示す必要があると思います。 ご意見いただきたくお願い申し上げます。 --ひできち東京会話2021年12月23日 (木) 00:49 (UTC)[返信]

  • コメント 強く反対するというわけでもないのですが、「状況にあわせて適切に判断してください」的なシンプルなことを表にした結果としてボリュームがだいぶ大きくはなりますね。そこは自力で考えられるかどうかということであり、いくらかヒント的な示唆があるのは親切であるとは思いますが、行き過ぎればWP:CREEP(指示の肥大化)となります。加減は必要ですが、それは相手次第なので、悩ましいですね。(細部に渡り指示すると長くなり、読まない人が増える。)
  • たとえば、本文中でしっかりと出典が示されている場合には、その本文の要約である概要節や冒頭文ではわざわざ出典を示さなくても許容されるケースがあります。一方、名称が「概要」というだけで実際には本文の要約になっていないケースでは、概要節でも出典は不可欠でしょう。またBLP等では、記述の正確によって出典提示が厳格になったり、出典があってもダメ、というケースがあります。そういう様々なケースを全部網羅して場合分けして表に収める・・・というのは難しい。
  • 仮に「統一」したとして、一見「この場合はこうしろ」とすべてのケースを網羅しているように見えますが、じゃあ「確かなのかどうか、その度合」「真実・常識なのかどうか、その度合」はどうやって判断するんですかってところは結局各利用者の判断に委ねられています。なので、結局は個々の事例でもめるときに争点がシフトするだけという感じはします。
  • 結局、情報源の信頼性は「スペクトルのように幅があり、それぞれの背景を考慮する必要」があり、本文の記述も同様です。「スペクトルのように幅があるもの」はつまり、信頼性は有無ではなく大小の問題だということで「確かだ・確かでない」と明確な一本線があるわけではないです。
  • WP:RSWP:CSもガイドライン(推奨)ですから、その文書の中で「必ずこうしろ(必須)」「できればこうしろ(推奨)」と表現に差異があったとして、実際上の効力はそう大きくは変わらないような感じもします。これらの文書は、「三大方針」を実現するための手段なので、三大方針が上位文書です。たとえばWikipedia:検証可能性には「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」「(BLPでは)直ちに除去」となっています。同文書中では、出典の明記などのタグ付けは、どちらかというと礼儀の問題(方針)としていますね。
  • たとえばひできち東京さんは、現在の説明文を「全体的にわかりにく」「意味不明になっている箇所もある」「どの部分を参考すればよいのか明確ではない」とお感じとのことですが、私は「全体的にわかりにくい」とは感じません。各種の方針文書類の全体を読んだ時に、Wikipediaの基本原理は根本原理たる五本の柱で示されていて、そのうち一本のWP:5P5から「ウィキペディアは規則主義ではありません」が導かれています。その都度誠実に振る舞って下さいというだけです。過度に細かい指示を増やしてルールの字面に拘泥するのは誤りということになります。そこは明確なのです。
  • お示しのような表を参考としてどこかに(私論とかに)掲載するのはダメではないとは思いますが、あくまで参考程度という扱いを超えないのでは。--柒月例祭会話2021年12月23日 (木) 01:59 (UTC)[返信]
    おそらく拡大解釈されてしまっているのかと思いますが、
    私は、現状の文章が想定している基本的な範囲を拡張して、全網羅するような意図はありません。
    最初からそのような意見をしている認識は全くなく、現時点で、私の意図していることは以下となります。
    • 表による表現方法をメインとして、文章は簡潔な表現とする。
    →内容を変更する意図はなく、わかりやすさ、読み手側による解釈のブレが生じない簡潔さ、の観点で改善したいです。
    出典を明記する#出典なき記載の扱い をお手本としたい。
    この他にもないことはないですが、まずは上記の点について合意形成ができることを主目標と考えております。
    そして、次のステップの可能性が見いだせるならば、次の目標として、さらなる議論と合意形成によって達成したいという考えです。
    柒月例祭さんにコメントいただいような内容の大部分は、次のステップの目標と分類させていただきたいと思います。--ひできち東京会話2021年12月23日 (木) 03:15 (UTC)[返信]

歴史セクションについて

Wikipedia:信頼できる情報源#歴史ですが、ガイドライン文章としては例示が多いエッセイ的になっていて、「できる限り簡潔に書く。まとまりのない例示より、直接的で簡潔な書き方の方がより明快かもしれません」にいささか欠けると思いました。その一方でWikipedia:信頼できる情報源#自然科学、数学と医学のほうは、冒頭で明確に「査読された科学出版物を使う」と指示しており、分かりやすいガイドラインです。こうなっている事を不思議に感じたので、歴史セクションのオリジナルとなった文章を探したところ、英語版では冒頭部に、

Briefly: published scholarly sources from academic presses should be used.
一言でいうならば、学術出版社から出版された学術的な情報源を使用する必要があります。

と、はっきりと結論が先に述べられており、分かりやすい指示となっておりました。こちらをさらに踏み込んだエッセイのほうでも、冒頭部は

  1. Historical articles on Wikipedia should use scholarly works where possible.
  2. Where scholarly works are unavailable, the highest quality commercial or popular works should be used.
  1. 歴史についてのウィキペディア記事は、可能な限り学術的な出版物を使用すべきです。
  2. 学術的出版物が入手できない場合は、最高品質の、商業的もしくは一般的な出版物を使用すべきです。

と、明快に基準を指示されています。そのため日本語版ガイドラインでも、前者の「一言でいうならば…」の一文を組み込みたいと思うのですが、いかがでしょうか。--Yuasan会話2022年1月16日 (日) 13:00 (UTC)[返信]

  • 賛成  ご提案のとおり、前者の「一言でいうならば、学術出版社から出版された学術的な情報源を使用する必要があります。」を組み込むことに賛成です。なお、後者については「最高品質の、商業的もしくは一般的な出版物」が何を指すか不明確なので、こちらは入れなくて良いと思います。--伊佐坂安物会話/履歴2022年1月17日 (月) 09:44 (UTC)[返信]
  • コメント コメント依頼から来ました。冒頭に簡潔で明快な基準を示すというご提案に賛同します。ただ、学術出版社の出版物に限定されると、だいぶ敷居が高くなるという印象を持っています。私が興味を持っている古代史ですと、雄山閣や吉川弘文館あたりの出版物に限定されてしまうイメージです。こうした書籍はもちろん信頼できますし、執筆にあたり中心に据えるべき参考図書と思いますが、お値段(笑)含めてアクセスしにくく、また専門書であるゆえに中立的というより著者が主張する説が中心で、なかには角度の付いた内容である場合もあります。対して一般書でも(むしろ一般書であるがゆえに?)複数の学説を挙げて論点・争点をわかりやすく客観的に記述している場合もあり、ウィキペディアのルールである中立性を鑑みて参考になることが少なくありません。もっと踏み込めば出版社でカテゴライズしてよいのかとも思います。極端な喩えですが、歴史分野の一般書で講談社(Portal:歴史学/日本史#講談社)の評価は高いと思いますが、だからといって『学習まんが日本の歴史』を参考にされては困ります。個人的には中公新書あたりまでは十分参考になると思いますし、より具体的には学術出版社の書籍で参考文献に挙げられる出版物までは許容されるべきと思います。そうした考えを元に以下の文章を提案します。一言で言うならば、学術的な信頼性が最優先されます。具体的には、学術出版社の出版物を中心とし、これに参照されている書籍や学術的成果を挙げている著者の出版物を含みます。:以上です。--あずきごはん会話) 2022年1月19日 (水) 13:51 (UTC)コメントを削除--あずきごはん会話2022年1月21日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
  • コメント 冒頭に要約を付け加えることに異論はありませんが、それよりも本文を日本語版の執筆者向けに改稿すべきではないでしょうか。本文では英語圏のコンテンツが多く例示されていますが、日本語版執筆者にとって、(アメリカ史の記事を書くとかでなければ)分かりにくく参考にならない内容と感じます。例えばですが、英語版私論のen:Wikipedia:Identifying reliable sources (history)が「歴史家とは」「歴史研究とは」などについて整理されており、これを翻訳導入することも検討したらどうかなと思います。--Iso10970会話2022年1月20日 (木) 08:22 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。「やむを得ず学術出版社から出版されたものが入手できないときは…」という部分を含めるならば、後者案が近いです。英語版オリジナルでは「最高品質の、商業的もしくは一般的な出版物」の指すところは、具体的には以下の記載がありました。

Historical scholarship may include:
歴史に関する研究には、以下を含めてもよいでしょう。

  • 大学レベルの教科書で、学術的文献を要約したもの。
  • 上記に相当する人気のあるもので、通常は学術的出版として発行している歴史家が出版したもの。
  • 上記のような出版物で、非歴史家が執筆し、歴史家が学術的な基準で監修したもの。
  • 非歴史家による一般向け出版物で、学術的な査読付き雑誌に掲載された歴史家による明確な書評やレビュー記事にて、好意的に評価されたもの。(以降略)

こちらの基準であると見なしてはいかがでしょうか。さらに例示が多くなるようですと、単なる歴史セクションの要約ではなくなってくるので、ガイドライン文章というよりはプロジェクト:歴史で整備いただきたいかなとも思います。--Yuasan会話2022年1月20日 (木) 12:05 (UTC)[返信]

強く反対 反対意見で申し訳ありません。こちらは、あくまでガイドラインであり、強制力のない奨励事項を提示するという趣旨であるので、「必要がある」「最優先される」などの強いキーワードを入れることには強く反対します。 ご存知の通り、歴史カテゴリーの記事(特に近代日本史)では、多様な歴史観をもつ編集者さん同士の主張の議論から論争に発展することが少なくなく、何かを盾として非常に激しく主張するケースが目に付きます。

ガイドライン(奨励事項)でありながら、強い言葉でルールのような規定事項を提示するのは、 それを根拠として、合意形成の手順を踏まない一方的強行的な編集(除去)が行われたり、また、論争において強者側の一方的勝利というような合意形成とは言えない結果を導いてしまうことを懸念します。

歴史セクションにおいては、歴史観は多様であるという前提に立ち、記事が中立的に掲載され、それらが検証可能な出典であれば、基準はクリア。 よいよい記事としての奨励としては、うんぬんかんぬんと、エッセイ的な文章でやんわりと提示するほうが、 論争の中で盾として使いにくい内容となると思われ、 例えば、現状のようなあまり参考にならないと思われる英語版記事のための説明であったりするほうがむしろ良いのではと思います。 --ひできち東京会話2022年1月20日 (木) 14:55 (UTC)[返信]

「あまり参考にならないと思われる文章をめざす」ではWikipedia:方針とガイドラインの方針と合致しないので、簡潔に書けないというのならば、ガイドラインからエッセイに格下げの案もあるかと思います。ガイドラインにするならば「文章が明快、簡潔に、直接的で簡潔な書き方」でお願いしたいです。英語版の記載を見ると、これを満たさないと B-Class criteriaにならない(GAは取れない)という基準であるようです。--Yuasan会話2022年1月20日 (木) 15:13 (UTC)[返信]
「あまり参考にならないと思われる文章をめざす」ほうがよいという主旨の意見ではありません。そのような意見をしたつもりはありません。現状のガイドラインの文章が、他の方も言っているように、(日本の)歴史記事の編集においては直接的にはあまり参考にならない内容であるということについて、私も賛同していること、強いルールのような文体が採用されるのは反対であって、現状のような文章にも一理あるという理解を示しただけのことです。もし、私が非常識な意見を言っているというような、悪意をもって解釈されているということであれば、それはそれで別にかまいませんが、そのような提案者の提案には、完全に反対です。--ひできち東京会話2022年1月20日 (木) 15:34 (UTC)[返信]
なるほど、「強いキーワード」のところが強く反対であり、要約を作ることには反対ではないということですね。すみません。--Yuasan会話2022年1月20日 (木) 16:12 (UTC)[返信]
はい。主旨をご理解いただけているなら、引き続き参加させていただきます。近代日本史の記事において参考になるガイドラインとは、多様な歴史観の編集者さんらが、記事を編集する過程において、他編集者と合意形成するためのマナーや善意をもった姿勢、編集行為かと思います。そういった観点がないがしろにならないような文体であれば、要約を設けることには別に反対ではありません。
マナーや合意形成への姿勢をもって編集するには、一般的には慎重さが求められるわけですが、強いキーワードでの規定事項を提示することは、それを根拠に短絡的な編集をしてしまうというデメリットが生じるのではないか?ということを危惧いたします。--ひできち東京会話2022年1月20日 (木) 16:39 (UTC)[返信]
具体的な表記については検討となるのでしょうけれど、「信頼できる文献の間でもランク付けがある」という認識についてはよろしいでしょうか(これは歴史トピックに限定されない前提ですが)。どのような言葉でその優先度を表現するか、という話になるかと思います。--Yuasan会話2022年1月20日 (木) 16:51 (UTC)[返信]
はい。認識していますが、それについては他の方も指摘しているように、出典は、最高ランクのものでなければならない、というようなガイドラインは、敷居が高すぎて検証可能性という点で現実的ではないでしょう。
ランクの順序をつけて出典例を示す、ということには反対はしませんが、やはり、
「ランク1の出典とランク3の出典の並記はガイドライン違反だ、ランク3の出典は除去する」、というような、
編集者の主観的な都合のよい解釈がされてしまうことでの、一方的な記事の除去、
論争が収束しない、合意に至らない、というようなデメリットが生じないことを考慮した文体、文章が望ましいと考えます。
また、現状のガイドラインの文章にあるような明らかなNGライン(ガイドブック)を出典するような編集者さんはかなりレアなケースと思ます。そこに文面を多く割く必要はない思います。
例えばですが、論争が合意形成に至る場合は、多数派(ランク1)少数派(OKランクぎりぎりのライン)の両記事を並記することになることが多いと思いますので、そういう過程に導くようなガイドラインであってほしいと思います。特に多様な歴史観をもつ編集者さんが混在する歴史カテゴリにおいては。--ひできち東京会話2022年1月20日 (木) 17:46 (UTC)[返信]
  • 返信 残念ですが、ひできち東京さんと私は、目指すWikipediaのありようが違うようですね。表現が強いとおっしゃるのならば、そこは私の論旨ではありませんので緩めの表現に変更しても全然かまいません。しかし、ひできち東京さんの仰る「多様な歴史観をもつ編集者さん」が好きに書けるのであれば、その行く先は百科事典ではなくまとめサイトになると私は考えます。また、ルールが争いを産むような捉え方をされているように思うのも残念です。ここで議論すべきルールは良い記事を書くための指針であり、争いを防ぐための指針であれば、別のところで議論すればよいと思います。また、争いを望みはしませんが、争いを避けることに配慮するあまり、百科事典の構築という一番大切な目的が損なわれるようならば、本末転倒ではないかと考えます。ともあれ合議には従いますが、私とひできち東京さんの認識に大きな隔たりがあることが分かり、この先の議論には加わりたくないなと思いましたので、提案を取り下げて議論から降ります。--あずきごはん会話2022年1月21日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
    要約を追加することのメリットとデメリットの両面を検討していただきたいという主旨です。デメリット部分の議論がない状況でしたので、私はその観点で意見させていただいております。メリット部分を完全否定しているわけではありませんので、区別して議論していただければ、特に問題ではないと思っておりますが。
    Wikipedia コミュニティへの貢献するガイドラインであれば、記事の発展やWikipediaの運営に寄与すると私は思っていて、そのようなガイドラインであることを希望します。強いルールを用いて理想の記事を具現化したいという考えとは、確かに若干ですが、方向性が異なるかもしれませんね。--ひできち東京会話2022年1月21日 (金) 16:17 (UTC)[返信]
  • 強く賛成 研究されているのであれば、研究書を優先すべきでしょう。基本的に査読を受けた研究を採用していけば、ウィキペディアの信頼性が高まると思います。是非ご提案を進めて欲しいと思います。独頭会話2022年1月21日 (金) 13:21 (UTC)[返信]

3つ目として「ガイドラインはベストプラクティス(最善策)を示すもの」という理念を反映させる形ですと、以下の案を考えましたが、いかがでしょうか。

  1. 歴史についてのウィキペディア記事では、学術的な出版物が最善の出典です。
  2. 前者が入手できない場合は、商業的もしくは一般的な出版物で、通常は学術出版を行っている歴史家が執筆・監修・高評価を与えたものがそれに次ぎます。

「最善」の語の代わりに、「最も重視される」「最も中心となる」などと記載してもいいかもしれません。上位の方針Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料のほうでは「一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。」とあるので、「最も信頼できる資料」もよいかと思います。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 02:48 (UTC)[返信]

この番号はランクを付けたものということでよいでしょうか?
2番について、「前者が入手できない場合は、」という条件つけることは反対です。入手できるか出来ないかは、究極を言ってしまえば経済的事情でしかないわけで、
「ランク1は神田古本街で入手可能である。ランク1以下の出典は、そもそも条件を満たしていないで記事は除去する。」ということになりませんか?--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 03:29 (UTC)[返信]
はい、ランクになります。「入手可能」というのは、検証可能性における「アクセス可能である 」という意味で、WP:PAYWALL「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません」とされています。医師免許試験となっている教科書ですと3万円ぐらいになりますし(ISBN 978-4895928731)。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 04:03 (UTC)[返信]
その原則にしたがえば、入手できるできないには原則には関係ないことになりますから、「前者が入手できない場合は」の条件付けは、そもそも不要でしょう。
あと、私の指摘が理解されていないような気もするので補足しておくと、2番のランクの出典を使ってよいのかどうか?が、その条件付けによって、1番のランクの出典が入手できない場合に限定されてしまっているのが問題だということを指摘しております。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 04:18 (UTC)[返信]
「1)の文献の存在を知りながら、敢えて2)の文献を使うケース」というのは、「アクセシビリティが悪い」以外ですと、どのような場面を想定しておりますでしょうか。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 04:30 (UTC)[返信]
その仮定をもうけた質問を、私に投げかける意図が理解できません。なにを期待しているですか?提案者には主体的に、はっきりとした意見をしていただきたいです。意図がわかりませんので、回答は控えます。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 07:39 (UTC)[返信]
(ひできち東京さんへ)ひできち東京さんの物言いは、Yuasanに対して失礼ではないでしょうか。WP:CIVにご留意いただき、「記事の発展やWikipediaの運営に寄与する」ような建設的な議論をなさってほしいと思います。--伊佐坂安物会話/履歴2022年1月22日 (土) 09:59 (UTC)[返信]
提案者様、こちらの質問にも、ご回答をいただいておりません。提案者様自身が議論の流れを放置するのはおやめください。発言を撤回するならばはっきりと示してください。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 13:25 (UTC)[返信]
1)の文献が存在する場合、2)は「最も重視される」「最も中心となる」とはみなされないのではと考えます。「入手可能」のところを「購入可能」と解釈されるのであれば、そこは変えたほうがいいかもしれません。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 14:07 (UTC)[返信]
提案者様は、別の議論の流れの方では「前者が入手できない場合は」は、なくても構わないとは思います」と発言されておりますが、こちらでは依然として、条件付けが必要ということですか?矛盾していませんか?--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 14:26 (UTC)[返信]
こちらの質問の意図は、そのような話になります。懸念点が「経済的事情が気になる」という事でしたら、そのような案もなりえます。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 14:37 (UTC)[返信]
複数の発言の内容が矛盾していませんか?と指摘しているのですが・・・整合性が取れるように補足なり、間違いながら撤回なり、はっきりとしていただけますか?
「前者が入手できない場合は」は、なくても構わないとは思います」2022年1月22日 (土) 13:51 (UTC)
「入手可能」のところを「購入可能」と解釈されるのであれば、そこは変えたほうがいいかもしれません 2022年1月22日 (土) 14:07 (UTC)--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 14:46 (UTC)[返信]
「購入可能と解釈されないように」という案であれば、合意可能ですか?という提案をしております。「なくても構わないとは思います、しかしながら、1)の文献の存在を知りながら、敢えて2)の文献を使う」のはベストプラクティスではないので、GAは取れないでしょうと。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 14:50 (UTC)[返信]
いいえ。どのような形に変更されたとしても、ランク付けの定義の部分に、出典の内容と関係のない要素(入手可能、購入可能、アクセス可能など)を条件に加えることには反対です。その根拠は、既に何度も説明しておりますし、他の方のコメントでも同様の意見が出されていると認識しております。以下、もう一度繰り返しますので、ご理解お願いいたします。
「入手できない場合」「存在しない場合」どちらも同じです。意味が完全に変わってしまいます。
ランクに対して、出典の内容と関係のない要素を条件に加えることは、出典内容にランク順位を付ける以上の評価になります。
ランク2について「存在しない場合」の条件をつけてしまうと、
ランク1が存在していれば、条件を満たさないため、ランク2ですらない、出典として認められないということになります。
それはもはや、ランク順位付けではなく、ただのランク1限定指定です。 2022年1月22日 (土) 07:55 (UTC)--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 15:12 (UTC)[返信]
「1)の文献の存在を知りながら、敢えて2)の文献を使う」のはベストプラクティスではない、という部分には反対されていないようです。つまり「出典として認められない」というケースを回避できさえすればよい、というお話と取ってよろしいでしょうか。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 03:01 (UTC)[返信]
  • 強く賛成 私も強く賛成します。これまで、信頼できる百科事典を作成するのが目的であるはずなのに、自分の主張を記載するために中立的な観点を無視し、信頼性の劣る出典を悪用して掲載しようとするケースに度々遭遇してきました。その対応の際に英語版の内容を調べてこれらの記述を確認し、これが日本語版に定着してくれればと切望していました。また「前者が入手できない場合……」の内容では、国会図書館に寄贈されていない絶版の書籍や、題材によっては最善とされるものがそもそも出版されていない状況に対応するフォローもなされており、必要な表現だと思われます。--Sikemoku会話2022年1月22日 (土) 03:54 (UTC)[返信]
  • コメント 理念としては正しいと思いますが、実践の面ではいろいろあるでしょうね。
    • 「前者が入手できない場合は」は不要では。入手できるかどうかは、その人次第でしょう。そもそも存在しないのかとか、あるいは存在するけど外国語文献しかないとか。今はアマゾンとかで外国語文献も1週間もしないで入手できたりしますし。入手できるできないに関わらず、「最良」「次善」は変わらないと思います。
    • 「○○するな」的なことを述べる一方で、どうすれば適切な情報源にアクセスできるかを具体的に示すと生産的だなとも思います。あまりにもガチに寄せすぎて、執筆する人がいなくなってしまうのもどうかなーとも思います。「学術的な文献」によって書かれていない場合に「要改善」とかなんかのタグを表示するとか、落とし所を用意するとかね。
    • 記事の文脈との兼ね合いもあるでしょう。学術的には未評価だったり否定されていても、通俗的に人口に膾炙した有名な話、みたいなものには、それなりの情報源でも可でしょう。要は書き方次第(帰属化など)です。断定的な事実・広く認められた通説のように書くのか、ある人の考え(解釈・一説)として書くのか、誤伝や俗伝として書くのか、文脈によるでしょう。「古典的で有名な学説」と「最新の(古典的通説を覆すような)有名でない学説」の取り扱いも慎重にすべきです。
    • あとは現実問題として「歴史」とは何かってところもあって、極論すれば今日の出来事だって歴史といえば歴史なので、過度に原理主義に走り過ぎなければ。--柒月例祭会話2022年1月22日 (土) 04:39 (UTC)[返信]
「入手できない場合」は「存在しない場合」でもいいかもしれません。ただ、地方の小さな集落の歴史ですと、研究家がそもそもいなかったりと、1)も2)も確保できないことがあるかなとは思います。その場合でも、検証可能な情報のみで記事を作ることは可能ですが、GAは取れないでしょう。「もともとの権威・信頼性が無いのにあるふりをしない」ことも、大事なのかなと思います。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 06:10 (UTC)[返信]
「入手できない場合」「存在しない場合」どちらも同じです。意味が完全に変わってしまいます。
ランクに対して、出典の内容と関係のない要素を条件に加えることは、出典内容にランク順位を付ける以上の評価になります。
ランク2について「存在しない場合」の条件をつけてしまうと、
ランク1が存在していれば、条件を満たさないため、ランク2ですらない、出典として認められないということになります。
それはもはや、ランク順位付けではなく、ただのランク1限定指定です。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 07:55 (UTC)[返信]
ランク1の十分に信頼できる情報源があれば、信頼性の劣るランク2の資料を利用しなくて何も不都合ないと思うのですが(これは方針のWP:Vにも述べられていることと思いますが)、ランク2の資料が「出典として認められない」ことがひできち東京さんにとってなにか不都合があるということでしょうか?--伊佐坂安物会話/履歴2022年1月22日 (土) 09:59 (UTC)[返信]
まず、ランクについての提案者の発言をご確認ください。
「信頼できる文献の間でもランク付けがある」という認識についてはよろしいでしょうか?
として議論を始めていますので、ここで対象としている出典は、すべて、信頼できる文献であることが大前提です。
よって、たとえガイドラインが最善を示しているとしても、次善のランクの文献を使っても問題なく
信頼できる文献であれば、どのランクであろうが、それは編集者が選択した結果として善意に受け取るべきことであるはずです。
提案者が提案していることが「文献のランク付け」についてという大前提で私は提案に応じていますので、
文献内容以外の点について条件付けを前提としてきているところには、指摘を加えるのは当然と考えています。
条件つけによって、実質的な意味が、出典をランク付けするという主旨からかけはなれてしまって
ランク1限定になってしまっていることを指摘しています。
そのような議論の進行をされては、参加している側としては、費やしている時間が無駄になってしまいますので。
決して、私にとってというような個人的な立場からの意見ではありません。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 10:19 (UTC)[返信]
[WP:V]を提示されましたので、改めて、内容確認しましたが「とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です。しかしこれらの分野でも、それだけが信頼できる情報源ではありません。学術的でない情報源であっても、それが特に主流の権威的出版物だと信頼されている場合は使用することができます。」とありますので、ガイドラインが提示する最善のランク1と次善のランクも信頼できる情報源であるなら、どちらも出典として利用してよいことになります。
[WP:V]はウィキペディア記事の内容の「方針(ルール)」であり、その位置づけは、「ガイドラインが方針と衝突する場合には、通常は方針を優先します。」ということですので、ご認識ください。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 11:20 (UTC)[返信]
そこは「出典として認められない」のではなく、「ランクボーナスが加点されない」というお話ではないですか。1)や2)に該当しなくても出典として利用してよいのですが、しかしWP:Vの通り「最も信頼できる」という加点は得られないと思います。GA推薦プロセスでも「1)の文献を使用すべきでは」という声が挙がると思うのです。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 11:49 (UTC)[返信]
[WP:P]のどこに、加点、ボーナスといった話の説明があるのでしょうか? [WP:P]に表れない概念を組み合わせて議論されているのでしょうか?ウィキペディアンとして、基本的なルールを順守することをモットーとしておりますので、ルールの個人的な解釈にお付き合いすることはできません。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 12:15 (UTC)[返信]
ご指摘の、WP:Vの「とくに歴史・医学・科学分野のときは・・」を厳密にこちらのガイドラインに反映させるならば、ある程度「強いキーワード」を使うのが素直な形になるのかとも思います。それは望まれていないようなので、このような形で満足できないかなと思います。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 12:22 (UTC)[返信]
[WP:P]に絡めて、加点、ボーナスといった追加の話の説明がありましたので、その根本的な意味について質問しております。提案者様は議長的な立ち位置で主体的に1つずつ議論をまとめながら、進行させていただきたいです。質問に回答いただけないのですか?--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
加点されない、ボーナスがつかないというのは「記事の信頼性向上にあまり寄与しない(検証可能ではある)」、ひいてはGAにならない、という点を意味です。ご主張の中心は「多様な歴史観をもつ」という部分だと思うのですが、一方でWP:Vでは「医学・科学分野と同じ手法を使って、歴史を扱う」ことを方針としているので、ここが矛盾した記載となることは回避したいです。WP:Vでは「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」という、強いキーワードを使っていることはご留意ください。ガイドラインなので、その代わりに「最善です」にはなりえると思います。--Yuasan会話
この流れの議論では提案者様が提示した「信頼できる文献の間でもランク付けがある」が前提です。突然、私の発言の1つである「多様な歴史観をもつ」を持ち出されても、意味が通りません。私の主張は、限定的になってしまう、強いキーワードをつかってほしくないということを、何度かはっきりとお伝えしております。ランク付けに、条件付けをした場合も、強いキーワードを使用しなくても、単なるランクの提示ではなくなってしまって、ランクを限定することになっていることを問題として指摘しております。強いキーワードを用いることと同様に、条件付けすることは、ランク2の出典を無効とする解釈につながるということをご認識ください。--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 13:48 (UTC)[返信]
その場合はより全般的な指示となる、Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。」を引用することになるかと思います。ランク3となるのでしょうけれど。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 14:25 (UTC)[返信]
Wikipedia:独自研究は載せないは、方針(ルール)です。方針はガイドラインより優先されますんもで、ランク3という、それよりも優先される事項が2つもあるような位置づけとするガイドラインを追加することは、運用に混乱をきた可能性が想定されるので、反対です--ひできち東京会話2022年1月22日 (土) 15:08 (UTC)[返信]
これはより全般的な指示ですから、ランク3についての追記は考えておりません。今回の提案は「現状を要約すること」ですので、要約なし現状ママとすることとしても、「Wikipedia:信頼できる情報源#歴史で言及されない資料の扱いはどうなのか」という話は必ず起こります。その場合は、方針を使って解決することになるでしょう。懸念点の中心は「1)にも2)にも該当しないケースの扱い」なのでしょうが、それはランク3になるという認識についてはよろしいでしょうか。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 02:52 (UTC)[返信]
そもそも、提案者様は、「現状を要約」だと、要約の内容を限定して提案されたとは認識していおりません。提案内容の変更されるならば、この議論は取り下げ、終了してください。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 02:59 (UTC)[返信]
「トピックの要約文を加筆する提案」としてコメント依頼を提出しております。ひできち東京さんとは「要約を設けることには別に反対ではありません」で合意したと認識して、これまでの議論を進めてきました。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 03:08 (UTC)[返信]
提案者様が新たに持ち出した「現状の要約」の意味をはっきりさせてください。、現状のガイドラインの意味は維持したまま要約という意味に解釈するのが常識的とおもわれますが、そうではないのですか?
そもそも、要約とはあくまで現状のガイドラインの文章の意味、定義と完全に対応する、簡潔な文章のことであるはずです。ですが、実際には、提案者様は、ノートでは、タイトルは「歴史セクションについて」とだけ記しており、これが「要約」についての議論の提案であるという説明は合理性がありません。ノートの中での提案でも、「前者の「一言でいうならば…」の一文を組み込みたいと」とだけ提案し、現状のガイドラインの意味は維持したまま要約するという内容に符号する部分はない認識です。その認識でこれまで議論に途中から参加しています。実際のノート上の議論内容が、既に、現状のガイドラインの意味は維持したまま要約とはかけ離れているので、「現状の要約」という言葉を使われている意味が理解できません。どのような意味でそれを使っているのでしょうか?--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 03:34 (UTC)[返信]
現状ガイドラインでは、「#歴史に該当しない場合はどうなるのか(ランク3)」については踏み込んで記載していないので、その要約においても記載するつもりはないというお話です。現状で起こっている点について、踏み込んで賛否は示しません。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 04:20 (UTC)[返信]
これまでの議論で、歴史に該当しない場合 という点についての議論は一度も登場していない認識です。提案者様がこれまでに使用されているランク3の意味は、一貫して、歴史に該当しない場合ということなのでしょうか?提案者様がランク3を使用されたのは、「、Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。」を引用することになるかと思います。ランク3となるのでしょうけれど 2022年1月22日 (土) 14:25 (UTC)
」だと認識しております。これが、歴史に該当しない場合 であるとは全く考えてもいないことです。ランク3の定義を明確にしてください。提案者様が想定している提案内容が現状そのようになっているのか?提案内容が非常に分かりにくなっております。一度、私を含め他の参加様の意見を組み入れた上で、提案内容を整理していただけないでしょうか?--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 04:52 (UTC)[返信]
  • コメント 「信頼性はスペクトルのように幅があ」る(Wikipedia:信頼できる情報源#信頼性の評価)とあるように、現実には「この出典はランク1、あの出典はランク2」のようにイージーにランク分けすることは不可能でしょう。どちらかといえば相対的な問題でしょう。
  • 個別の場面では「そっちの情報源はランク2だ」「いや、そっちこそランク2だ」みたいな争いにシフトするだけ、という感じもします。
  • 「ランク1の出典がついている記事にランク8の出典は不要」みたいなレベルでは話になると思いますけど。
  • 考え方の方向性としては賛同できるのですが、「これはランク1じゃない」といって既存の記事から情報を除去しまくるだけの記事破壊行為の方便にもなりそうな予感もしますよね。だからこの文章になにか無制限の排他性を与えるような感じにはしてほしくないですね。そもそも英語の原文の「should」の受け取り方によるんじゃないでしょうか。「○○がベターである/望ましい」ぐらいのニュアンスに留めておくのが無難ではないかと。極論に走ると、既存の・20年近くかけて積み重ねてきた多くの成果の大半を失う結果になりかねない。そういう犠牲を払ってリセットしてでも、厳格な記事づくりにシフトすべきだ、という話ならば、そうですか、という感じですけど。--柒月例祭会話2022年1月22日 (土) 13:13 (UTC)[返信]
記事の除去を目的とするならば、Wikipedia:検証可能性#方針Wikipedia:検証可能性#何を信頼できる情報源とするかだけで十分達成できるので(WP:Vでの「特に主流の権威的出版物」という基準も、争点となりえるでしょう)、こちらではあくまでも目安になるかと感じます。「前者が入手できない場合は」は、なくても構わないとは思いますが、もし前者が存在する場合、GA推薦プロセスで指摘事項にはなってくると思います。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 13:51 (UTC)[返信]
  •  追記 私は「理系」分野はわからないのでノーコメントなのですが、「文系」分野では、「その文献/論文が学術出版である」かどうかよりは、「その文献/論文が、他の文献/論文から引用・参照されている」ことによって、「その文献/論文」の価値が変動すると理解しています。「学術論文だけど見向きもされていない」ものと、「市販の文献だけど多数参照されている」ものとを較べれば、後者のほうが広く支持されているとみなすべきでしょう。反面、この理屈だと、古い情報ほど多く参照され、最新の情報はほとんど参照実績がない、ということにもなります。そこに難しさ・悩ましさがあり、イージーに即断できないところがあると思います。
  • たとえばYuasanさんは、ノート:楼蘭で、ある文献の記述の価値・信頼性・採否について利用者:TENさんと意見が分かれています。この一件からも、実際には「この情報源はランク1だ」「いや違う」というところに論点がシフトするだけだという感じはします。--柒月例祭会話2022年1月22日 (土) 13:45 (UTC)[返信]
実際のところその通りで、世間において学術研究の多い分野ほど、GAを取りやすいのだと思います。書いた記事が記事がGAを取れるかどうかは、調査する以前の、「どの記事を選ぶか」という所に大きく左右されるのが現実なのでしょう。--Yuasan会話2022年1月22日 (土) 14:37 (UTC)[返信]

残された論点を整理いたします。

  • a) 「入手できない場合は」という部分を、購入可能であると取られ、たとえば金銭的な基準とならないか
  • b) これらにマッチしない出典について「出典として認められない」として、削除とはならないか

a) は、経済的なものと取られないような表現が必要でしょう。非売品として配布される書籍もあるかと思います。

b)については、現状ガイドラインのままでもWikipedia:信頼できる情報源#歴史にマッチしない出典をどうするか、という話が残っています。現実として、「地方の小さな集落の歴史で、研究家がそもそもいない」というケースもあると思います。これらにマッチしない文献で記事を書かざる得ない場合もあるでしょう。その場合は「分野ごとのアドバイス」ではなく、さらに上位の文章、たとえばWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。」などを使用することになるかと思います。歴史ジャンルに限らず、大多数の編集者は「常識的な判断」を使っていると思います。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 06:04 (UTC)[返信]

全体を整理してください。提案者様が論点となっていないと認識している部分について明確にしてください。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 06:35 (UTC)[返信]
整理したという論点についてもかなり疑問を感じる内容なので、全体を整理してくださいとお願いいたしましたが、先にa) について指摘しておきます。
「~できない場合は」というは不要だとする意見を無視しないでください。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 10:38 (UTC)[返信]
残された論点がありましたら挙げてください。それが不要だとする理由は「出典として認められないことになってしまう」であると確認しましたが、そこはb)で対応しています。その他の理由がありましたでしょうか。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 11:38 (UTC)[返信]
わかりにくくなっているため、全体を整理してくださいとお願いしましたが、言葉を省略せずに記述していただけますか? 例えば
b)は、削除とならないか?ではなく、記事の除去とならないか?が適切です。
また、提案者様は繰り返しGAが取れない GAにならない を主張していましたが、それを今回の整理した内容に含めていないのは、つまり議論の要素とすることを取り下げたという理解でよいのですか?--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 13:05 (UTC)[返信]
なお、提案者様の認識する論点ということでa)b)整理いただきましたが、それらについては繰り返し指摘していますが、a) もb) もその懸念があり、悪意に解釈される恐れがあるため、「入手できない場合は」は不要だと、繰り返し、意見しております。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 13:11 (UTC)[返信]
GA関係については本筋ではないので考慮から外していただいて構いません。論点は「記事の除去」です。「懸念があるために反対」という話は理解しています。しかし繰り返し述べたように、現状ガイドラインのままでもWikipedia:信頼できる情報源#歴史にマッチしない出典をどうするか、これによって記事の除去がなされないかという懸念、すなわち「悪意に解釈される恐れ」があります。それは、さらに上位の文章で判断を仰ぐことになるかと思います。そうなっている今のガイドラインについて、今回の提案では、何か付け加えるつもりも引くつもりもありません。これは足しても引いても、大きな議論へと拡大するでしょうから。
なお、「1)の文献の存在を知りながら、敢えて2)の文献を使うのはベストプラクティスではない」という論に反対する方は皆無でしたので、この点は合意形成とみなしてよろしいでしょうか。 --Yuasan会話2022年1月23日 (日) 13:40 (UTC)[返信]
いいえ。「記事の除去」の提案者様の説明には同意できません。現状ガイドライン(Wikipedia:信頼できる情報源#歴史)ではNG判定となる文献の例を指定してはいますが、最善、次善のような例を示してはいませんので、悪意に解釈される懸念はなさそうな内容であり、実際、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史を理由にして出典付き記事を除去する編集行為は、私は遭遇したことはありません。
繰り返しになりますが、強いキーワードを使って最善、次善を提示することで、最善がルールであるかのような解釈ができてしまう状況が、新たに作り出されることを懸念しています。強いキーワードの他、次善ランクが条件付き適用となるような内容には、反対です。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 14:36 (UTC)[返信]
いいえ、提案者者の「記事の除去」についての理解内容の説明には同意できません。
現在のガイドラインの信頼できる情報源#歴史には、最善次善ランクの提示はなく、例示における排他性もないため、悪用される懸念はありません。
Wikipedia:信頼できる情報源#歴史を根拠として出典付き記事の除去という編集行為は、私は見たことがありません。
現状ガイドラインには懸念はないが、今回の提案の中に、強いキーワード」や「条件付きランクの提示」が採用されることによって、
最善ではなく次善の出典が提示されている記事がルール(方針)に違反しているかのような解釈をされる懸念が生じることが問題だと指摘しています--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 15:15 (UTC)[返信]

たとえば「入手できない場合は」といった表現を回避した文章とするならば、以下の記載などはいかがでしょうか。--Yuasan会話2022年1月23日 (日) 14:08 (UTC)[返信]

3の「対抗できません」とは具体的に、記事の編集行為における、「何を否定」しているのですか?提案者様は、新たな言葉を持ち出す場合には、丁寧に説明いただくようお願いいたします。なお特に意味がないならば、そのような要約は不要です。削除してください。--ひできち東京会話2022年1月23日 (日) 20:32 (UTC)[返信]
今回3の文章を「入手できない場合は」といった表現の代替え(回避)として追加されたわけですが、
繰り返し「入手できない場合は」のような条件付けは不要だと意見しております。その根拠も何度も提示しております。
提案者様が「入手できない場合は」が必要と考えている理由について説明いただきましたが、それについては、現状ガイドライン内容の認識不足、および提案内容を追加することによる影響の考慮不足ではないか?という問題提起をさせていただいております。さらに他の参加者様からのコメントもあります。
これらの意見を組みこんでいただき、その上で、提案者様が、「入手できない場合は」のような条件付けが必要と考える理由を説明いただけますか?撤回するのであればはっきりとその旨明示ください。--ひできち東京会話2022年1月24日 (月) 02:23 (UTC)[返信]
なるほど、現状を「強いキーワードさえなければ、悪用される懸念はありません」とみなしているのですね。ただ、対抗しない限り削除とならないのですから、対抗されるようなケースが思いつかないです。「最善の出典がありながら、次善の出典を使う」ことはベストではない、という部分に反論はないため、ここを書き下すと「第一項の出典が利用可能な際に、敢えて第二項の出典を用いることはベストプラクティスではありません。」となりますが、それでいかがでしょうか。それを記載しなくても他の文章で担保されている、という話であるのならば、それは撤去でよいと思います。--Yuasan会話2022年1月24日 (月) 03:47 (UTC)[返信]
再考いただきまして感謝いたします。出典ランク付け定義から、出典内容以外の条件がなくなり、強いキーワードも使用されていないので、反対するところはございません。敢えて言うならば、提案者様が感じられているように、「それを記載しなくても・・・」という印象は確かにありますが、こちらの提案に賛成されている方々は恐らく「最善の出典を希望」の意見であろうと感じるところもありますので、「撤去」が必要であるとは申しません。冗長であるかどうかについては他の参加者様の意見を拝見させていただいてから、判断させていただく程度の立場です。--ひできち東京会話2022年1月24日 (月) 11:33 (UTC)[返信]
  1. 歴史についてのウィキペディア記事では、学術的な出版物が最善の出典です。
  2. 商業的もしくは一般的な出版物で、通常は学術出版を行っている歴史家が執筆・監修・高評価を与えたものがそれに次ぎます。
  3. 第二項の出典は、第一項の出典に対して対抗できません。
コメント 3つめを含めるのであれば明確に反対します。
抽象的な議論としてはわかるのですが、じゃあ具体的にどの文献が「学術的な出版物」で、どの文献が「商業的もしくは一般的な出版物」なのでしょう。少なくとも1円でも対価をとれば「商業的」な性格を帯びます。「通常は学術出版を行っている歴史家」とはどうやって判定するのでしょう。「高評価」は?「学術的な出版物」とは、どこかの教育機関が出したPDFは該当するのでしょうか。近代東洋史の専門家が古代西洋についてちょっと語ったものは?江戸時代の寺子屋で配られた文書は令和に刊行された叢書に優越するのですか?
前にも述べたように、現実の情報源には「スペクトルのような」連続性があり、機械的に区別できるものではありません。また、1冊の「学術的な出版物」の中にも、信頼性の高い論述とそうでない論述が混在しているでしょう。他も同様です。理念として、学術的な情報源がベターであるのは確かですが、画一的・排他的な優越性を有するとするのはやりすぎ・非現実的です。
意図的かどうか判りませんが、スルーされてしまったのでもう一度。Yuasanさんはノート:楼蘭#シルクロード検定の公式テキストについてで、『読む事典シルクロードの世界』(NHK出版)が、「専門家が雄山閣や中央公論新社から出した書籍」(TENさん)に優越するものだ、との主張を展開しているように見えます。本件を実施するならば、NHK出版の『読む事典シルクロードの世界』は真っ先に排除されることになると私は思いますが、それでよいのですか??
「信頼できる情報源」は記事執筆に関する重要な文書であり、他の重要な指針との兼ね合いもあります。前にも書いたとおり、実際の記事の書き方次第のところもあり、帰属化する、事実と評価を適切に区別する、というところに気を配りながら情報源を利用すればよいでしょう。--柒月例祭会話2022年1月23日 (日) 18:21 (UTC)[返信]
「画一的・排他的」と解釈されないようにという点であれば、「ベストプラクティスではない」という表記ではいかがですか。楼蘭の議論は雄山閣に対抗する意図は当方にありません。en:Wikipedia:Fringe_theoriesに当たってしまったのかなと考えています。--Yuasan会話2022年1月24日 (月) 03:47 (UTC)[返信]

その他からの指摘がありませんでしたので、それでは以下の案にてコメントを募集しようと思います。--Yuasan会話2022年1月27日 (木) 14:21 (UTC)[返信]

  1. 歴史についてのウィキペディア記事では、学術的な出版物が最善の出典です。
  2. 商業的もしくは一般的な出版物で、通常は学術出版を行っている歴史家が執筆・監修・高評価を与えたものがそれに次ぎます。
  3. 第一項の出典が利用可能な際に、敢えて第二項の出典を用いることはベストプラクティスではありません。
3番ですが、これ自体には賛成の立場ですが、私の感覚では具体的にどのような編集行為を規定しているのか?明確に提示したほうがいいのではないかと思います。
1番2番は利用可能な出典のランクだけを提示したものであり、編集行為としては「どちらの出典を使っても問題はなく、どちらも出典として奨励する」、という意味であると考えるのが常識的かと思いますが、3番の提示は、編集行為の何を奨励(ガイドライン)しているのか?ということが明確ではないと思います。
私の解釈では、3番は「出典として提示した部分の内容が1番2番どちらも同じ内容であることが検証できた場合は、出典2番は出典1番で置き換えることを奨励する」、ということかと思います。このような具体的に奨励する編集行為内容を提示するほうが、要約としてより参考にできる内容になるのではないかと思います。いかがでしょうか?
なお、あくまで私の解釈を1つの事例として挙げただけですので、提示する編集行為は別途検討いただければと思います。--ひできち東京会話2022年1月28日 (金) 04:01 (UTC)[返信]
第3項はひできち東京さんの主張が発端となり盛り込んだものなので、「置き換えることを奨励する」と解釈してあなたが反対しないということであれば、私もその解釈を行うことに反対しません。他の方はいかがでしょうか。--Yuasan会話2022年1月28日 (金) 04:22 (UTC)[返信]
  • 反対 余計な内容を盛り込みすぎで安易な排他性を伴っているため。提案者は他所での論争のために本提案を行っているのでは?
  • 「Briefly: published scholarly sources from academic presses should be used.」の和訳を追加するだけならば反対しません。ただし、意図的かどうかわかりませんが、提案者はshouldの和訳を使い分けしています。「必要があります」対「すべきです」。この2種の訳のもつ強制度・排他性・優先度には、日本語のニュアンスとして差異があるでしょう。Wikipedia:信頼できる情報源en:Wikipedia:Reliable sources)の冒頭部では「Wikipedia articles should be based on reliable, published sources」を「ウィキペディアの記事の出典には、信頼できる公刊された情報源を使用するべきです。」と和訳しており、これと同様に「べき」として訳出するのがよいでしょう。(日本語のニュアンスとして「べき」は、「必要があります」「ねばならない」よりは排他性が低いと私は感じます。)
  • 依頼者が用いようとしているen:Wikipedia:Identifying reliable sources (history)は私論どまりの文書です。問題点は既に指摘しましたとおりですが、要は極論に走りすぎであると同時に、抽象的すぎて非現実的です。要は「適切な情報源が望ましい」ということなのですが、その適切さを単純な外形で断定しようとして失敗している感じ。--柒月例祭会話2022年1月28日 (金) 05:50 (UTC)[返信]
当初の提案は第一項しかありませんでした。「必要があります」か「すべきです」という部分には当方のこだわりはありませんので、他の方の反対が無いのであれば、第一項のみとする案でもよいです。--Yuasan会話2022年1月28日 (金) 12:38 (UTC)[返信]

現時点では第二項について合意が難しいようですので、当初あった第一項のみの提案に切り替えたいと思います。

一言でいうならば、学術出版社から出版された学術的な情報源を使用すべきです。

こちらは方針文章「とくに歴史・医学・科学分野のときは…」が直接の根拠になっています。--Yuasan会話2022年1月31日 (月) 13:28 (UTC)[返信]

反対 現状のガイドラインの文章に追加する要約として、一文、一言でいう的な文章は不適切。
Wikipedia:信頼できる情報源#自然科学、数学と医学のスタイルは、段落ごとにタイトル的な1文を段落先頭に配置しているだけあって、タイトル≠要約でしょう。現状の「歴史」ガイドラインの文章には6つの段落がありますが、タイトル的な1文を、「自然科学、数学と医学」と同様のスタイルで追加するならば、現状の「歴史」ガイドラインの文章に沿った形での改善提案となると受け取れますが、提案者様の最終?提案は、たった1文で要約するということでありますから、これはさすがに無理がありすぎるでしょう。
単純な話、「歴史」ガイドラインの文章は一言で纏めらないでしょう?、ということです。
また、提案者様が根拠として提示した、方針も一言で完結した内容ではありません。方針の一部分のみを切り取って、それをガイドラインで「要約」として新しく追加するということは、方針全体が意味していることとは違う印象を与えることになってしまいますし、
実際、「歴史」ガイドラインの文章を要約しているとは言えません。要約ではない文章を冒頭に追加することは、文章全体としての一貫性が失われてしまうことになります。
提案者様は、今回、英語版の私論から切り取ってガイドラインに追加するなどといった、大胆とも思える提案をされておりますが、
私論とガイドラインでは、当然、チェックされる頻度もレベルが違うでしょう、同列に扱うことには疑問を感じます。また、提案内容が、日本語文章としての品質を確保しているかについて考慮されていますでしょうか?要約を追加することに固執するあまり、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史の文章全体としての一貫性が疎かになっていないでしょうか?さらに言えば、すべての方針とWikipedia:信頼できる情報源の節1~5がまず前提にあって、その上での分野ごとのアドバイスとして、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史が提示されているという大前提があって、そこへ整合性が取れる形で、要約は追加されなければなりません。それが、一言で言い切れる内容であるのか?ということです。
また、提案者様は、提案内容に(私を含めた)参加者の一部から異議が出たら、都度、そこだけを取り下げれば、議論は継続できると考えておられるようですが、当初の提案内容から大きく形が変更してしまっております。今回の提案は、実質的には、要約ではなく、要約的な文章を冒頭に追加、という非常に大きな変更の提案ですので、当然、提案内容全体として議論するべきものであると考えています。
今回の提案内容の変更は、そもそも、議論のやり直しが必要となるレベルではないかと思います。
さらにもう一言、Briefly を「一言で言えば」と訳しておられますが、「簡単に言えば」のほうが正しいニュアンスと思います。両者の日本語の意味合いには違いがありますし、繰り返しになりますが、そもそも、「歴史」ガイドラインの文章は一言で言える内容ではないはずです。--ひできち東京会話2022年1月31日 (月) 21:35 (UTC)[返信]
現状のWikipedia:信頼できる情報源#歴史も、私論から切り取られたものです。当初の主張は「結論を先に述べる」でありますし、ひできち東京さんがこれまで「要約を設けることには別に反対ではありません」と主張していたため、議論を継続しております。「一言で言えば」か「簡単に言えば」という部分には、特に当方のこだわりがありませんので意見を反映して対応します。いま募集しているのは議論活性化のためのコメントであり、合意形成のためのコメントではないので、上の案も変化するものとして意見を募集しております。今となって「議論のやり直しが必要」と主張し始めるとなると、既に3票の賛成がある点を無効にしたいたがためではないかなと疑われかねないので、建設的な意見をお願いいたします。
なお、ひできち東京さんが「要約にとどまらず、セクション全体の見直しがしたい」というのであれば私はそれを否定しないですが、それは今回の提案とは異なる、私の器量を超える作業となりますので、新規にひできち東京さんが提案者となってトピックを建てて議論を主導してくださることを望みます。 --Yuasan会話2022年2月1日 (火) 03:20 (UTC)[返信]
先の返信内容の繰り返しになりますが、現状のガイドラインの文章に追加する要約として、一文だけしか提示しない内容は、要約、結論になっておらず不適切、全体文章との一貫性に欠けます。
方針Wikipedia:検証可能性#何を信頼できる情報源とするかの一部分のみを切り取って、それをガイドラインで「要約」として新しく追加するということは、方針全体が意味していることとは違う印象を与えることになってしまいます。
方針全体(といってもわずか4つの文章です)を要約するのであれば反対はしません。
これまで議論に参加していたのはそういう前提で参加していて、提案内容が大きく変化しており、明確に反対です。
提案者様は、既に3票の賛成があると主張されていますが、それら賛成コメントの表明の後に、他の参加者の意見によって提案内容が大きく変化しているため、それ以前に投じられた賛成票にこだわる姿勢は、途中の議論を無視しているように見えますので、冷静な姿勢をお願いいたします。
また、そもそも、まだ議論活性化の段階であるならば、賛成反対の票の数よりも、議論内容のほうを重視すべきですので、その意味でも、賛成票にこだわる姿勢は改善を求めます。--ひできち東京会話2022年2月1日 (火) 04:14 (UTC)[返信]
なお、追記されたコメント部分の「セクション全体の見直しがしたい」というのであれば、うんぬんのご提案について、そのような予定はありません。--ひできち東京会話2022年2月1日 (火) 04:21 (UTC)[返信]
現状でひできち東京さんしか反対が無い状況ですので、あなたの希望する要約案を作る予定はありますでしょうか。英語版から2案を作りましたが、それらに対していくつか賛成票をいただいており、またそれに代案を出さずに反対しているのはあなたのみになっています。英語版を叩き台としないのであれば、それを主張する人が代案を出すべきでしょう。建設的な意見をお願いいたします。--Yuasan会話2022年2月1日 (火) 09:58 (UTC)[返信]
要約すると、代案を出さないなら反対意見は無視するということでしょうか?
こちらは問題点を指摘しているわけですが、それを完全に無視している返信でしたので繰り返し問題点を指摘しております。
議論当初から提案者様は、意図的なのかわかりませんが、指摘点を無視する姿勢がたびたび見受けられますので、繰り返し指摘することは必要だろうと認識した上で参加しておりますが、ご本人様は自覚はありますでしょうか?
また提案者様の言う建設的とは、代案を出せということだと判明しましたが、そもそもコメントをする側にはそのような前提はありませんので、それ(建設的な意見)を繰り返し要求する提案者様には、困惑しかありません。
繰り返しますが私は代案を出すような予定はありませんが、提案内容には反対です。根拠は提示しています。--ひできち東京会話2022年2月1日 (火) 19:09 (UTC)[返信]
問題点が「方針全体が意味していることとは違う印象を与える」との主張でですので、ひできち東京さんにとって「方針全体が意味していること」は何かということを伺っています。あなたの頭の中にあります要約案は、あなたが言語化しなければ理解できず、他人がそれを読み取って文章化することは困難です。それは議論ではなく、一発あてゲームです。建設的な意見をお願いします--Yuasan会話2022年2月2日 (水) 11:19 (UTC)[返信]
Brieflyの訳について修正した案を提示します。--Yuasan会話2022年2月2日 (水) 11:29 (UTC) [返信]
簡単に言えば、学術出版社から出版された学術的な情報源を使用すべきです。
提案者様は、ご自身が 2022年1月31日 (月) 13:28 (UTC)のコメントで、「直接の根拠」として提示した、
方針文章「とくに歴史・医学・科学分野のときは…」の省略部分について、ご自身の都合のよい解釈をしているのではないでしょうか?
上記のように示された場合、当然、以下の全ての部分だと受け取るのが一般的です。
Wikipedia:検証可能性#何を信頼できる情報源とするかの中の、「とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です。しかしこれらの分野でも、それだけが信頼できる情報源ではありません。学術的でない情報源であっても、それが特に主流の権威的出版物だと信頼されている場合は使用することができます。
それ以外でも、大学レベルの教科書・権威のある出版社からの書籍・雑誌・論文・主流の新聞などは、信頼できる情報源です。 電磁的な出版物でも、同等の基準を満たしていれば使用できます。」
提示の方針文章の提示について、省略しなければ、上記の全文になるはずです。これを1文で要約できるわけがありませんので、そのような要約案には問題があると繰り返し指摘しています。--ひできち東京会話2022年2月2日 (水) 11:52 (UTC)[返信]
なるほど、主張が急変したので困惑していましたが、つまるところ第一項に反対しているのではないけれど、加えて第二項なども必要となってくるというところが要点なのですね。結論を先に話していただけると分かりやすいです。--Yuasan会話2022年2月3日 (木) 11:46 (UTC)[返信]
いいえ。反対している理由は、最終提案?第一項に反対賛成ということとは次元の違う話です。
繰り返し説明しますが、提案者様は、最終?の提案の直接の根拠として、Wikipedia:方針文章「とくに歴史・医学・科学分野のときは…」を示しました。これはそれまでの提案者様が提示していた英語版私論とは全く違う文章ですので、つまり、提案内容も変更、根拠も変更したことになります。その前提で、提案者様の最終?提案内容を確認する必要があり、最終提案?第一項も問題があります。
方針文章は、「とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です」となっていて、出版社を指定していません。提案者様の提案では、学術出版社から出版されたと指定している点に相違があり、要約ではなくなってしまっていることが問題です。
提案者様の根拠づけとして引き出した方針文章に対して、提案内容は要約になっていない、日本語として両者の整合性が取れてないものであり、そのような文章をガイドラインに採用してしまうのは、方針とガイドラインの一貫性が取れない内容になってしまうと、と繰り返し指摘しています。
なお、当初の賛成意見に未だに大きな優位性があると主張されているようですが、上記の通り、提案内容、根拠を変更する前の提案内容に対する賛成意見であり、最終?提案に対する賛成意見ではありません。--ひできち東京会話2022年2月3日 (木) 21:59 (UTC)[返信]
抽象的な話の繰り返しではなく、「方針とガイドラインの一貫性が取れない」という所の具体的な例が出てきました。ご指摘の通り、方針文章はたった数行しかないため、こちらを利用するとこれ以上の発展は難しいと思います。方針ではなく、当初通り英語版私論に基づいての「Briefly: published scholarly sources from academic presses should be used.」についてのコメントはいかがでしょうか。--Yuasan会話2022年2月4日 (金) 03:35 (UTC)[返信]
提案者様は英語版私論に基づいての提案を一度、取り下げております。それに対して、また議論することは、許容できません。それを許容してしまうと、同じやり方(取り下げ⇒復活)を今後も行って議論を永遠に続けることの口実になってしまいますので。意図的にしろそうでないにしろ、議論を延々と必要以上に引き延ばす行為は、wikipedia コミュニティを疲弊させる行為となる恐れがありますので、そういった論法ははお控えくださるよう、考慮お願いいたします。指摘した問題に対して、提案者様が代案をだせないなら、提案者様自身で廃案としていただきたくのが、議論の1つのまとめ方となるだろうということをアドバイスさせていただきます。--ひできち東京会話2022年2月4日 (金) 11:42 (UTC)[返信]

横から失礼 横から失礼 はたから見ていると、提案にあれこれと反対し、代案も出さない。残念ながらひできち東京さんの2022年2月4日 11:42 (UTC)の発言で、この変更を廃案に追い込むことが目的だったのかとようやく納得しました。まさしくひできち東京さんの議論の在り方はいつまでも納得しないに該当するのではないかと考えています。ひできち東京さんは「余計な内容を盛り込みすぎで安易な排他性を伴っているため。提案者は他所での論争のために本提案を行っているのでは?」とおっしゃられていますが、ここまで見ている人にとってはそっくりそのままひできち東京さんご自身に返ってくる言葉になっていることに気づかれていらっしゃらないようで、残念です。別の人の発言による誤った見解を取り消し--VZP10224会話) 2022年2月5日 (土) 02:07 (UTC)--VZP10224会話2022年2月4日 (金) 12:40 (UTC)[返信]

私のコメントではない他の方の発言を持ち出して、私を批判する軽率な行為はお控えください--ひできち東京会話2022年2月4日 (金) 12:58 (UTC)[返信]
こちらの方はwikipedia 管理者さんということですので、こういった軽率な言動したことについては、それなりのご対応をお願いいたしますね。横から失礼で、無理筋な批判を受けた側としては看過できません。横から失礼ではなく、この議論のやり取りをしっかりと読み込んでいただき、「自分の主張や観点が否定された後もぐだぐだと固執し、いつまでも言い続け、他者の言葉を受け入れたり自らの過ちを認めたりすることを拒否し、いつまでも論争を続けようとします」これに該当する参加者がこのノートにいるのかどうか、貴方の発言を見直していただきたいですね。--ひできち東京会話2022年2月4日 (金) 13:40 (UTC)[返信]
  • コメント VZP10224さんが引用なさった発言は、実際にはひできち東京さんではなく私(㭍月例祭)の発言です。
  • ただまあ、ひできち東京さんとYuasanさんは両者ともに発言しすぎで、結果として第三者が流れを追えなくなっていたり発言しにくくなっている面はあるでしょう。1/16のYuasanさんの提議以降の発言回数は(ざっくり数えて)
    • 40回 Yuasannさん
    • 41回 ひできち東京さん
    • 05回 㭍月例祭
    • 02回 伊佐坂安物さん
    • 02回 あずきごはんさん
    • 01回 Iso10790さん
    • 01回 Dokutouさん
    • 01回 Sikemokuさん
  • (手動で数えたので若干の誤差はあるかもしれませんが)お二人が度を越えて「レスバトル」の様を呈しています。--柒月例祭会話2022年2月4日 (金) 14:53 (UTC)[返信]
    集計ご苦労様です。1/16から今日まで28日ありました。平均すると1日2件に満たない議論の頻度となっておりますので、適切な範囲の認識です。参加の意を表明した以上、提案者様のご提案にはそれなりに義務感をもって対応させていただいている次第です。ご提案に内容をしっかりと確認に精査させていただき、根拠をしっかりとしてして意見を申し述べております。回答したことの意味が伝わっていないことが多いように感じることが多く、同じことの繰り返しの発言になっている分、回数が多くなっているかもしれませんが、提案者様に繰り返ししっかりと意見をお伝え説明することを継続した結果、提案者様にご理解いただきつつ、議論が進行している認識です。--ひできち東京会話2022年2月4日 (金) 15:20 (UTC)[返信]
    すみません、日数計算間違えました、21日でした。平均すると1日2件程度となります。--ひできち東京会話2022年2月4日 (金) 15:22 (UTC)[返信]

  • コメント 本論に戻します。
  • もっとも基礎的なことは、別に「歴史」分野に限らず、「適切な情報源を選び、適切に使え」ということです。特に後段部分についてはWikipedia:中立的な観点なども密接に関わっており、情報源自体は「信頼できる情報源」だったとしても使い方に問題があるという場合も出てきます。
  • 「適切な情報源」については、通俗的情報源(例:娯楽書)や速報的情報源(例:新聞)よりは、学術的情報源のほうが「信頼性の高さ」の期待値は高いでしょう。ただしそれはあくまで一般的傾向に留まるもので、新聞記事は100%ダメ、論文は100%オッケー、というような単純なものではないです。
  • この意味においては、「学術出版」と排他的に限定してしまうのは難があるのではないか、という指摘自体は肯首できます。でもまあ、だったらどうすればいいのかというのを具体的に案を出すのが生産的だ、という面もあるでしょう。私だったら「学術的な情報源など」ぐらいにぼやかした表現をしますかね。こうすれば、出版「社」ではないところの論文集、営利企業が刊行した手堅い図書などを広く包括できます。もちろんこれだとガチガチに定義していないので、人によって意見や解釈が分かれる余地はあります。その場合には個別に議論や合意形成が必要です。(個別の議論を要しないほどに誰が見ても信頼性の高い学術的な情報源だという場合もあるでしょう)学術界でも意見が分かれている・論争が起きているとか、逆に研究者が少なすぎて相互査読や批判的査読が不十分であるという場合には、単に学術論文であるというだけで盲目的に信頼性を与えることもおかしい。そういういろいろなことを包括した上での一文まとめです。逆に言えば、今回の一文を追加したからと言って、それだけを根拠として議論を省略して片端から情報源を除去できるようなものでもないぞ、ってことですね。
  • 「学術的」というのは、適切な著者が、適切な過程を踏み、適切な根拠を示しながら論述したもので、適切な監督や査読がなされている、という期待値が高いということです。しかしその「適切」って何なのさって話を始めるならば、それはもう一件一件個別具体的に合意形成するほかないでしょう。
  • そもそも、長い説明があるところに「Briefly」として一文を加える行為というのは、端的なまとめとして便利でキャッチーである一方で、詳しい説明を読まずに誤解を招くという弊害もりうるものです。そこらへんの一長一短を呑み込んだ上で基本的な方向性や大まかな指針を示すものであり、その一文だけで実用的で完全な定義というのは非現実的では?
  • 「歴史」に関して言うと、史料検証をしている(一次史料をなんでもかんでも真に受けない)、単純な事実と解釈・論考・推論を明瞭適切に区別して叙述している、思考の過程や証拠を詳らかに述べている、他の説についてもきちんと言及検証もする、第三者による査読を受けている、等が望ましい情報源であり、これらを満たす可能性が高いのが「学術的な」情報源ということでしょう。記事もこれらを意識しつつ適切に帰属化するのが理想的でしょう。
  • 個人的にはあとは、明瞭にこれは通俗的な話だよと断った上でなら、通俗的情報源を使って通俗的な事を書くのもあり、とは思っています。ウィキペディアは学術論文ではないので。だから「上杉謙信女性説」みたいなことも、ちゃんとやれば書ける、ということ。
  • 私が眺めていての感想としては、Yuasanさんの提案文面には、どうも「外形的なことだけで判断し、具体的な内容に踏み込んだ議論をせずに、信頼できる情報源ではないと即断する」ような印象を受けます。それはなんかやだな、というところです。--柒月例祭会話2022年2月4日 (金) 15:40 (UTC)[返信]
    • 上記の通り、ひできち東京さんの発言でないものをひできち東京さんの発言として扱った意見があり、そちらについては取り消します。申し訳ありませんでした。
    • 一方で「いつまでも納得しない」の点については、いまでもそれに該当しうると考えているため、取り消すことはしません。しばしばいわれることですが、Wikipediaは規則主義ではありませんので、方針文書の字面に該当するような行動している人がいるのかどうか、という問いに回答することはある面では無意味です。ひできち東京さんがここまで示している、「Yuasanさんの提案に対してとにかく反対する」「反対する理由は示すが代案は出さない(提案者に丸投げ)」「最終的に提案の撤回をするよう示唆する」という行動を、Wikipedia:信頼できる情報源という方針文書のノートで展開されているのが、ほかの執筆者からどのようにみられているか、という点も考えられたほうがよいと考えております。要は意見や記述が正しいからといって、その意見や記述をする方法に問題があると、利用者に対して参加の制限がかけられる場合もあるということです(過去にそのような形で参加を制限されている人が多数います)。
    • で、柒月例祭さんが整理されてようやく意見できそうになったので、意見を述べると、確かに学術論文と通俗的な文書との間で明確な優劣をつけるのは「好ましくない」ことは確かです。下手をすると、「数十年前に発表されて、その後の研究で否定された学説に基づく記述を、『小学生向け学習漫画が出典だから』という一言で書き換えてしまう」ことになりかねません(おそらくひできち東京さんが懸念されているのがこのようなシチュエーションであると思われます)。
    • 一方で、sikemokuさんなどが「強く賛成」の意見を表明し、いまだ取り下げされていません。それには、現実問題として全く逆に「歴史の専門家でない人物が書き記したトンデモ説を除去しようとするのを、『信頼できる出版社から刊行された書物にあるじゃないか』といって執拗に記述の除去を拒否する」ことも十分想定されるからと考えています。このようにこういう方針文書の改訂については現実にウィキペディアの活動の中で起きている/起きうる問題点を想定し、それに基づいた議論を行わないと、机上の空論を振りかざしているように見えて誰からも支持されないということすら発生します。
    • 一方で資料の検討をやりすぎると独自研究に陥ることも多々あるので、執筆者による資料の比較検討を行うのも限度があるなぁ、とは思います。--VZP10224会話2022年2月5日 (土) 02:07 (UTC)[返信]
WP:DR#3としてコメント、ありがとうございます。ご指摘の通り、学術的で査読を経た出版物というのが、ウィキペディア的な中立的な観点を持っているとは限らないのは事実であると思います。少数意見はWP:WEIGHTで表記するのが方針なのですが、WP:RSにはそれらに関する記載がないので、「除去」となってしまうケースがあると。それについて英語版ガイドラインでは、導入部一行目がそれを考慮した記載になっていました。
Wikipedia articles should be based on reliable, published sources, making sure that all majority and significant minority views that have appeared in those sources are covered
記事は信頼でき、公刊された、「全ての多数意見と重要な少数意見」を取り上げていることが確認された情報源を使用するべきです(Wikipedia:中立的な観点)...
しかしこれは歴史セクションに限らないルールであるので、導入部追記の提案とするか、あるいはそれを考慮して歴史セクションの第2項以降に組み込むか、という議論になってくるかもしれません。--Yuasan会話2022年2月5日 (土) 03:23 (UTC)[返信]
なお既に「方針とガイドラインの一貫性が取れない」というのが、具体的には「学術出版社の指定」であることは理解しており、そちらの部分にはこだわりがないです。しかしながら「単にそれをを直せばいい」という発言であるようには、とても思えませんでしたので、「いつまでも納得しない」という指摘に私も同意します。--Yuasan会話2022年2月6日 (日) 02:41 (UTC)[返信]
失礼ながら提案者様が、ご自分の(たった1行の)提案内容とその根拠に整合性、一貫性がとれてないことに自覚できていなかったことが根本的に問題ではないかと指摘させていただきます。それゆえに私が数回の繰り返しの説明をしてやっと理解されたのですから、そのやり取りを、私がいつまでも納得しないと、あなたの都合のよい解釈をされるのは、非常に残念です。私の反対意見は他の方にも同意見が出たことで、客観的な意見であることが証明されています。その意見を、貴方が理解されていないので繰り返し説明したことをもって、「いつまでも納得・・・」と言われたのでは、あなたとはもはや議論できません。
まぁただ、やっと理解されたということですし、柒月例祭さんは「発言しすぎ」と指摘されていますし、VZP10224さんからは私の意見は正しいが方法に問題があると指摘されておりますので、まさか指摘だけして議論には参加しないという非生産的な態度ではないだろうと思います。今後は柒月例祭さんVZP10224さんが、私より適切な方法で議論していただけるのだろう思います。--ひできち東京会話2022年2月6日 (日) 03:31 (UTC)[返信]
提案者様が自身の主張点「学術出版社の指定」の部分に複数の反対意見があり、柒月例祭さんが代替え案を提示しているもかかわらず、いまだに主張点を変更しようとしない固執した態度は以前から継続して見受けられます。
さらには議論内容を無視して賛成票の数を主張するようになったため、強行的に多数決での結論に持ち込むのではないか?という懸念が生じましたので、他の発言者が私だけになっている状況であっても、しっかりと根拠だてて問題点を指摘する必要がありました。
提案者様の主張への固執の様を見るに、当人にとっては直接的な利益となり得るような至上命題なのだろうと感じます。しかしそのような主観的な態度は、Wikipedia コミュニティのごく一部には貢献するかもしれませんが、全体への貢献とはなりません
貴方の言うとおり、提案内容が採用されてしまった場合に、「このようにこういう方針文書の改訂については現実にウィキペディアの活動の中で起きている/起きうる問題点を想定し、それに基づいた議論を行わないと、机上の空論を振りかざしているように見えて誰からも支持されない」という恐ろしい状況になることを非常に懸念しています。管理者権限をもつ、柒月例祭さんと貴方が、この提案者の提案内容についてしっかりと議論してくれるのあれば、私は発言をする義務感から解放されますので、どうぞよろしくお願いいたします。--ひできち東京会話2022年2月5日 (土) 05:43 (UTC)[返信]

コメント複数の方が仰っている通り、「学術出版社」の部分を外して、「学術的な情報源を使用する」「学術的な信頼性を求める」という方向で文章を追加するのは方向性としては賛成です(専門家の書いた中公新書などは場合によっては学術論文でも参照されることがある性質のものですし、それがまったく使用できないということでは困りますので)。同時に、「分野ごとのアドバイス」というものなので、利用者:Iso10970さんがすでに仰っている通り「本文を日本語版の執筆者向けに改稿」することの方が大事な気はします。例えば現状の「American History Review(歴史の全分野)やJournal of American History(アメリカ史)は、それぞれ100以上完全な長さのレビューを公表しています」という記載のみではなく、「『史学雑誌』の特集号「回顧と展望」は歴史の全文野において、1年ごとに歴史学界の学術論文から新書などの一般的な刊行物まで広く評価しており、信頼できる情報源を探すことに役立ちます」を加えるなど。すぐに全面的な改稿案は提案できないので恐縮ですが、方向性としてはこんな感じで、「何を信頼できる情報源とするか」という具体的な評価により役立つ内容にしていくことが必要かと思っています。--伊佐坂安物会話/履歴2022年2月6日 (日) 04:42 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。要約のところはここまでの話を反映しますと「簡単に言えば、学術的な情報源を使用すべきです。しかし三大方針の一つは中立的観点であることにも留意してください。」でどうかなと思いました。当初にコメントのありました「多様な歴史観」という所は、NPOVにおける「全ての多数意見と重要な少数意見」に収まる範囲でということであって、それを超えるトンデモは「ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません」となるかと思います。
また本文のほうになってくると、日本語版の執筆者向けに改稿というのは必要だとは思うのですが、先に述べております通り私の器量を超える作業となりますので、可能な方が提案者となってトピックを建てていただきたいです。--Yuasan会話2022年2月7日 (月) 12:05 (UTC)[返信]
文案を提案。
基本的な考え方
歴史分野においても各国・各時代・ジャンルごと(政治史・経済史・文化史etc)に専門家による様々な研究が行われています(ここでいう専門家とはいわゆる歴史学の専門教育を受けて、継続的に学術雑誌等に寄稿している人々を指します。)
これらの研究は査読を経て学術雑誌あるいは各大学の紀要などに掲載されます。これを学術論文と呼びます。これら学術論文はある程度の分量が溜まった所で当該研究の執筆者の名前でまとめられて出版される場合があります。これを専門書と呼びます。またこれとは別に専門家によっては書き下ろしという形で専門書を執筆し、出版されることもあります。これら学術論文・専門書はその他の専門家によって追試が行われ、その内容に矛盾が無いか・論証の過程に問題が無いかなどが検証され、その末に学界として取り扱いが決まります。査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。
これに対して一般書と呼ばれる分類があります。これは専門家ではない一般の読者向けに著された本です。
一般書であっても専門家によって著された本はほとんどの場合「信頼できる情報源」と認められると考えられます。ただし学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考えなければならないでしょう。専門書と違って、一般書では著者には厳密な論証の義務が課されておらず、その内容の妥当性を保証するのは著者のみであるからです。
一般書の中でも非専門家の手によるものは「信頼できる情報源」として認められたとしても基本的にウィキペディアの出典としては相応しくないと見做されるでしょう。非専門家はほとんどの場合いわゆる「歴史学上の手続き」を心得ておらず、論証過程の逸脱・自己の主張に合わせた史料の選択などをやってしまいがちです。
以上が基本的な目安となりますが、あくまで目安に過ぎません。れっきとした専門家の手による学術論文であっても学界から全く顧みられずに消えていく場合もあれば、非専門家の手によって為された研究が専門家から評価されて学界の中での地位を獲得する場合もあります。
信頼できる情報源の発見・アクセス方法
歴史に限りませんが、日本の研究ならばCiniiに数多くの研究が登録されており、調べたい主題について検索をかければ多数の研究が表示されます。同時にその研究が収録されている本を所蔵している図書館も表示されますので、まずはここで調べてみることをお勧めします。その他にもKAKENなどもあり、また各大学のHPで研究成果をまとめて発表している場合もあります。中にはオンラインで閲覧できることもあります。
歴史学術雑誌「史学雑誌」が毎年4月に発表している「回顧と展望」は各国史・各年代・各分野ごとにその前年に発表された研究のうちで注目に値するものをピックアップしており、参照するべき研究をある程度絞ることができます。
以上は主に日本の歴史学界を対象にしたものですが、Google Scholarであれば日本の研究も含めた世界中の研究を調べることが出来、かつオンラインで参照できる場合はそれに対するリンクも表示されます。その他にもJSTOR(英語)・AHR(英語)などに多数の学術雑誌の論文が保存されています。
またその分野の専門家が著した(できれば複数の手による)概説書を参照することも良い方法です。概説書の記述は出版時点での学界の動向を反映していると考えられるので、概説書自身が「信頼できる情報源」と看做せ、かつその参考文献に挙げられている文献はそれも参照すべき文献であると考えられます。
Wikipedia:中立的な観点との兼ね合い
ある研究Aが「〇〇は××である」と述べているとします。それをウィキペディア上で「〇〇は××である」と書くことは正しいでしょうか?それは正しくありません。「〇〇は××であると研究Aは述べている」と書くことは可です。しかしそれはWikipedia:中立的な観点に反する恐れがあります。その研究Aが以前に述べたような「全く顧みられずに消えて」いった研究かもしれないからです。
では研究Aに対して、同じ分野の研究B・C・Dと並べていくことは正しいでしょうか?これも不可ではありません。しかしこれもまたWikipedia:中立的な観点に反する可能性があります。例えば研究Aが定説として評価されており、他のB・C・Dはそれに比べれば学界での地位が低いとした場合、A・B・C・Dを並列に並べることはAの価値を過少に、B・C・Dの価値を過大に書いていることになるからです。
研究史・史学史という観点
ではどうすれば良いのでしょうか?これに対しては研究史・史学史という観点を導入する必要があります。それまで積み重ねられてきた研究の中で専門家たちによる研究の取捨選択、その歴史的変遷を忠実に写し取ることで中立的な観点を守ることが出来ます。
とはいえ、非専門家がこれを忠実に写し取るということは至難の業であり、かつその歴史的変遷をウィキペディアン自身が自身の知見でまとめた場合はそれは独自の研究に他なりません。であれば、研究史のまとめにおいてもまた専門家による「信頼できる情報源」を用いるべきです。
先に挙げた「回顧と展望」は少なくともその発表年に注目に値すると専門家が考えていたということを保証しており、研究史をまとめるのに役立ちます。専門家が論文をまとめるにあたり、その序説などにおいて先行研究を概略でまとめることも多いのでこれも参照に値します。またそもそも研究史をまとめることに主眼を置いた論文・専門書なども存在しますので、こちらも参照するべきでしょう。
以上が文案です。--らりた会話2022年2月9日 (水) 13:19 (UTC)[返信]
賛成 丁寧な文案ありがとうございます。情報源を探す際にとても有用な内容で、議論で上がった懸念点も回避されていますし、らりたさんの文案に全面的に賛成です。--伊佐坂安物会話/履歴2022年2月10日 (木) 11:31 (UTC)[返信]
賛成 今のところ、らりたさんの文案がとても良いんじゃないかなと思われます。ただ一応、二重鉤括弧 『』 は著作物名を括るのが本来の用法とされていますので、学術論文・専門書は信頼できる情報源として、または、学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として、のように書くほうがよろしいかと思います。--33メルメル会話2022年2月10日 (木) 13:38 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。ご指摘の部分とそれとは別に一ヶ所軽微な修正をしました。とりあえずお二方に賛意を頂きましたが、これまで議論に参加されてきた方々にも参照頂けているでしょうか。現在から2週間くらい(3月初め)を目途に私の文案を反映したいと思います。--らりた会話2022年2月12日 (土) 10:59 (UTC)[返信]
賛成 文案に賛成します。これに準拠することによりウィキペディアの記事の信頼性が高まっていくことを願っています。独頭会話2022年2月12日 (土) 11:56 (UTC)[返信]
賛成 らりたさんの案を支持します。基本的な考え方と具体的なことの両方が示されていて良案と思います。「(ただし2022年現在…)」部は、枠外の注記かなにかでもいいと思います。が、このままでダメというものでもないです。--柒月例祭会話2022年2月13日 (日) 04:21 (UTC)[返信]
コメント 文案を何度か読み返しましたが、大変まとまっていると同時に、有用度も高いものだと思いました。私は自然科学や技術分野を中心に活動していますが、他分野の執筆者から見てもこの文案に記載されている内容は非常に参考になるもので、歴史セクションに留めておくには勿体ないとすら感じました。私は歴史分野での活動はないため、コメントに留めます。 --紅い目の女の子(会話/履歴) 2022年2月16日 (水) 04:32 (UTC)[返信]
㭍月例祭さんのご指摘の部分を削除、他軽微な部分修正を行いました。--らりた会話2022年2月22日 (火) 11:07 (UTC)[返信]
文案を反映しました。--らりた会話2022年3月2日 (水) 11:32 (UTC)[返信]

こだわりすぎは、良くないです。

しかし、いつまでもそれにこだわっていると、書かれない記事関係ののファンの人たちから断られ、Wikipediaは、不利になります。なので、少しでも多くの人から見られたいのであれば、個人ブログの情報も、受け入れたほうがWikipediaも結果的に活気であふれよくなると思います。どうですか?--コンテナ好き会話2022年3月26日 (土) 08:46 (UTC)[返信]