「レオ・ライアン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示)
7行目: 7行目:
|国略称 = {{USA}}
|国略称 = {{USA}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1925|5|5|no}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1925|5|5|no}}
|出生地 = {{USA1912}} [[ネブラスカ州]][[リンカーン (ネブラスカ州)|リンカーン]]
|出生地 = {{USA1912}}[[ネブラスカ州]][[リンカーン (ネブラスカ州)|リンカーン]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1925|5|5|1978|11|18}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1925|5|5|1978|11|18}}
|死没地 = {{GUY}} {{ill2|バリマ・ワイニ州|en|Barima-Waini}}{{仮リンク|ポート・カイトゥマ|en|Port Kaituma}}
|死没地 = {{GUY}}{{ill2|バリマ・ワイニ州|en|Barima-Waini}}{{仮リンク|ポート・カイトゥマ|en|Port Kaituma}}
|出身校 = [[ベイツ大学]]({{仮リンク|V-12海軍士官訓練プログラム|label=V-12|en|V-12 Navy College Training Program}})<br>[[クレイトン大学]]([[学士(教養)|BA]]、[[修士(理学)|MS]])
|出身校 = [[クレイトン大学]]大学院修了
|前職 = 高校教師
|前職 = 高校教師
|現職 =
|現職 =
|所属政党 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
|所属政党 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
|称号・勲章 =
|称号・勲章 = [[修士|マスター・オブ・サイエンス]] ([[クレイトン大学]]・[[1951年]])
|親族(政治家) =
|親族(政治家) =
|配偶者 = マーガレット・ライアン
|配偶者 = マーガレット・ライアン
|子女 = 5人
|子女 = 5人
|サイン =
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =

|国旗 =
|国旗 =
|職名 = {{USA}}<br/>[[ファイル:Seal of the United States House of Representatives.svg|20px]] [[アメリカ合衆国下院|下院議員]]
|職名 = {{USA}}<br/>[[ファイル:Seal of the United States House of Representatives.svg|20px]] [[アメリカ合衆国下院|下院議員]]
31行目: 28行目:
|所属委員会 =
|所属委員会 =
|議員会館 =
|議員会館 =
|元首職 =
|元首 =
|国旗2 =
|国旗2 =
|職名2 = {{Flag|California}}<br/>下院議員
|職名2 = {{Flag|California}}<br/>下院議員
43行目: 38行目:
|元首2 = パット・ブラウン<br>[[ロナルド・レーガン]]
|元首2 = パット・ブラウン<br>[[ロナルド・レーガン]]
}}
}}
'''レオ・ジョゼフ・ライアン・ジュニア'''(英語:{{en|'''Leo Joseph Ryan, Jr.'''}}、[[1925年]][[5月5日]] - [[1978年]][[11月18日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]所属[[カリフォルニア州]]第11区選出の[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]を務めたが、1978年に[[ガイアナ]]で[[人民寺院]]の信者に殺害さた。彼は[[サイエトロジー]]や[[世界基督教統一神霊協会|統一教会]]を早くに批判していた。なおラインは職務中に殺害された唯一の連邦議会議員である。その死後、[[1983年]]に[[会名誉黄金勲章]]授与された。
'''レオ・ジョゼフ・ライアン・ジュニア'''(英語:{{en|'''Leo Joseph Ryan, Jr.'''}}、[[1925年]][[5月5日]] - [[1978年]][[11月18日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[教員|教師]]、[[政治家]]。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]所属し、1973年の初当選から1978年に[[ジョーンズタウン#ライアン代表団|ジョーンズタウン事件]]で暗殺されるまで[[カリフォルニア州]]第11選挙区選出の[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]を務めた。そ以前は[[サウスサフランシスコ|サウスサンフランシスコ市長]]や同州第27地区選出の{{仮リンク|カリフォルニ議会下院|label=州会下院員|en|California State Assembly}}歴任した。


ライアンは実地調査を好み、州議会議員時代には、1965年の[[ワッツ暴動]]を受けてロサンゼルス地域の調査・記録のために、わざわざ臨時教員となりこれを行った。また刑務所改革を行う州議会委員会の委員長の座に着くと、1970年に身分を隠して{{仮リンク|フォルサム州立刑務所|en|Folsom State Prison}}に自ら囚人として収監され実態調査を行った。連邦議員時代には、残酷な狩りが行われていると批難されていたアザラシ猟の現地調査のためにカナダの[[ニューファンドランド島|ニューファンドランド]]に自ら訪れた。また、[[中央情報局]](CIA)に対する議会監視が不十分であることを強く指摘したことでも知られ、これは共同提案した1974年の「{{仮リンク|ヒューズ=ライアン修正条項|en|Hughes–Ryan Amendment}}」に繋がり、大統領がCIAの[[秘密作戦]]を議会に報告することを義務付けさせた。
== 生い立ち ==
1925年5月5日に[[ネブラスカ州]][[リンカーン (ネブラスカ州)|リンカーン]]に誕生した。幼少時に[[イリノイ州]]・[[フロリダ州]]・[[ニューヨーク州]]・[[ウィスコンシン州]]・[[マサチューセッツ州]]に住んでいた。[[1943年]]にネブラスカ州の高校を卒業すると、[[ベイツ大学]]で訓練を受け、同年から[[1946年]]まで[[アメリカ海軍|海軍軍人]]として[[潜水艦]]に乗務した。


1978年、ライアンは[[ジム・ジョーンズ]]率いるカルト教団の[[人民寺院]]が、その意志を無視して信者を不当に拘束しているという訴えの調査のため、彼らが[[南アメリカ]]の[[ガイアナ]]に入植して築いた[[ジョーンズタウン]]を訪れた。調査を終え、帰途につこうとした11月18日、ライアンら代表団は入植地から最寄りの飛行場の滑走路でジョーンズの命令を受けた信者らに襲撃され、暗殺された。その後、教団はジョーンズタウンにおいて900人以上に上る集団自殺を決行した。
ネブラスカ州の[[クレイトン大学]]において[[1949年]]に[[学士|学士号]](バチェラー・オブ・アーツ)を、[[1951年]]に[[修士|修士号]](マスター・オブ・サイエンス)を取得した。高校で歴史教師として働いた後、[[1956年]]から[[1962年]]まで[[サウスサンフランシスコ]]市議会議員を務めた。この間、[[1958年]]に25区からカリフォルニア州下院議員に出馬したが、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]のルイス・フランシスに敗れた。

1983年に、職務中に暗殺された唯一の下院議員として[[議会名誉黄金勲章]]が授与された。

== 出自と前半生 ==
[[ネブラスカ州]][[リンカーン (ネブラスカ州)|リンカーン]]の生まれ<ref name="congressbio">{{cite web |last=United States Congress |author-link=Biographical Directory of the United States Congress |title=RYAN, Leo Joseph, (1925–1978) |publisher=United States Congress |url=http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=R000558 |access-date=January 24, 2007}}</ref>。家庭の事情から幼少期より、[[イリノイ州]]、[[フロリダ州]]、[[ニューヨーク州]]、[[ウィスコンシン州]]、[[マサチューセッツ州]]と頻繁に転居を行った。1943年にウィスコンシン州{{仮リンク|プレーリー・ドゥ・シーン|en|Prairie du Chien, Wisconsin}}のキャンピオン・イエズス会高等学校([[:en:Campion High School|Campion Jesuit High School]])を卒業した<ref>{{cite web |last=Campion Jesuit High School |author-link=Campion High School |title=Campion Knights |url=http://www.campion-knights.org/ |access-date=January 24, 2007}}</ref><ref>{{cite web |last=Campion Jesuit High School |author-link=Campion High School |title=Campion Forever |url=http://www.campionforever.org/ |access-date=January 24, 2007}}</ref>。
その後、[[ベイツ大学]]で士官養成の{{仮リンク|V-12海軍士官訓練プログラム|en|V-12 Navy College Training Program}}を受け、1943年から1946年まで[[アメリカ海軍|海軍]]に潜水艦乗りとして勤務した<ref>{{cite web |last=Campion Jesuit High School |author-link=Campion High School |title=Campion Knights Notables |url=http://www.campion-knights.org/notables.html |access-date=January 24, 2007 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20060215201631/http://campion-knights.org/notables.html |archive-date=February 15, 2006 }}</ref>。

1949年にネブラスカ州[[クレイトン大学]]で[[学士|学士号]](B.A.、[[学士(教養)|教養]])を、1951年に[[修士|修士号]](M.S.、[[修士(理学)|理学]])を取得し、卒業した<ref name="congressbio" />。
1956年から1962年まで教師、学校管理者、サウスサンフランシスコ市議会議員を務めた。
1958年には連邦下院議会の第25選挙区に立候補したが、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ルイス・フランシス]]に敗れた<ref name="joincalifornia">{{cite web |last=Vassar |first=Alex |author2=Shane Meyers |title=Leo J. Ryan, Democratic |work=JoinCalifornia.com |year=2007 |url=http://www.joincalifornia.com/candidate/603 |access-date=January 25, 2007}}</ref>。
カプチーノ高校で英語を教える傍らで1961年にマーチングバンドの監督者としてワシントンD.C.に行き、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領の就任式パレードに参加した<ref>{{cite book|author=Michael Newton|author-link=Michael Newton (author)|title=Famous Assassinations in World History: An Encyclopedia &#91;2 volumes&#93;|url=https://books.google.com/books?id=F4-dAwAAQBAJ&pg=PA491|date=April 17, 2014|publisher=[[ABC-CLIO]]|isbn=978-1-61069-286-1|pages=491–492}}</ref>。
この時の公共への奉仕を説いた大統領就任演説に感銘を受けたライアンは、より高い公職に就くことを決意した<ref name="simon1998">{{Cite news |last=Simon |first=Mark |title=A Trip Into The Heart Of Darkness: Always larger than life, Leo Ryan courted danger. |work=[[San Francisco Chronicle]] |page=A17 |date=December 10, 1998}}</ref>。

== 政治家として ==
[[File:1973 Congressional Pictorial Leo Ryan.jpg|thumb|150px|連邦下院議員1期目の公式写真(1973年)|alt=Black and white of a man wearing a suit and a tie. His name is written below.]]

=== カリフォルニア州時代 ===
1962年にサウスフランシスコ市長に当選した。その後、1年足らずでカリフォルニア州下院議会の第27選挙区から立候補し、次点に2万票の差をつけて当選を果たした<ref name="simon1998" /><ref name="joincalifornia" />。1964年と1968年には民主党全国大会の代表を務めるなど<ref name="congressbio" />、1972年に連邦下院議会に当選するまで3回の再選を果たし、州議会の議席を守った<ref name="congressbio" />。

ライアンの事務所スタッフで、後にカリフォルニア州上院議員及び連邦下院議員を務める{{仮リンク|ジャッキー・スピアー|en|Jackie Speier}}は、彼の調査スタイルを「実経験に基づく法制化」と表現している<ref name="simon1998" />。
1965年に起きた[[ワッツ暴動]]に対しては、ライアンは現地に赴くと臨時教員の職を得て、現地の状況の調査・記録を行った。1970年には刑務所改革を担当する議会委員会の委員長を務める一環として、州内の刑務所の実態調査のために、身分を隠してわざと逮捕され、勾留や全裸にされての身体検査を経験、{{仮リンク|フォルサム州立刑務所|en|Folsom State Prison}}に10日間収監された<ref>{{Cite book |last=Wright |first=Erik Olin |title=The Politics of Punishment: A Critical Analysis of Prisons in America |url=https://archive.org/details/politicspunishme00wrig |url-access=limited |publisher=Harper & Row |year=1973 |page=[https://archive.org/details/politicspunishme00wrig/page/n143 266] |isbn=9780060903183 }}</ref><ref name="haddock2003">{{Cite news |last=Haddock |first=Vicki |title=Jackie Speier – moving on, moving up; Survivor of Jonestown ambush plans run for lieutenant governor. |work=[[San Francisco Chronicle]] |page=D1 |date=November 16, 2003}}</ref>。

また州議会議員としては立法小委員会の公聴会の議長を務め、後にライアンの後継者となった[[トム・ラントス]]が関与する公聴会も主催した<ref>{{Cite book |last=Schwartzman |first=Edward |title=Political Campaign Craftsmanship: A Professional's Guide to Campaigning for Public Office |publisher=Transaction Publishers |year=1989 |page=209 |isbn=0-88738-742-X}}</ref>。
ライアンは重要な教育政策を推し進め、後に「ライアン法」として知られる、カリフォルニア州の教育資格を監視するための独立委員会を設置する法案を作成した<ref>{{Cite book |last=Gideonse |first=Hendrik D. |title=Teacher Education Policy: narratives, stories, and cases |publisher=SUNY Press |year=1992 |pages=[https://archive.org/details/teachereducation0000unse_v8a4/page/49 49, 50, 65] |isbn=0-7914-1055-2 |url=https://archive.org/details/teachereducation0000unse_v8a4/page/49 }}</ref>。

=== アメリカ連邦議会時代 ===
中央政界に転身することを決め、1973年に連邦下院議会のカリフォルニア州第11選挙区から立候補して当選した。

連邦下院議員としては、{{仮リンク|ジム・ジェフォーズ|label=ジェームズ・ジェフォーズ|en|Jim Jeffords}}と共に[[カナダ]]の[[ニューファンドランド島]]に赴き、残酷な狩りだと批難されていたアザラシ猟の実態調査を行った<ref>{{Cite book |last=Wenzel |first=George W. |title=Animal Rights, Human Rights: Ecology, Economy and Ideology in the Canadian Arctic |publisher=University of Toronto Press |year=1991 |page=48 |isbn=0-8020-6890-1}}</ref><ref>{{Cite book |last=Hunter |first=Robert |title=Warriors of the Rainbow: A Chronicle of the Greenpeace Movement |publisher=Holt, Rinehart and Winston |year=1979 |pages=439, 441 |isbn=0-03-043741-5}}</ref>。また、[[中央情報局]](CIA)に対する議会の監視が不十分であることを強く指摘し、{{仮リンク|ハロルド・ヒューズ|en|Harold Hughes}}上院議員と共同で、広く[[秘密作戦]]についてCIAが議会への報告義務を課す<ref>{{Cite book |last=Ellis |first=W. Philip |author2=Barry M. Blechman |title=The Politics of National Security: Congress and U.S. Defense Policy |publisher=Oxford University Press |year=1992 |page=146 |isbn=0-19-507705-9}}</ref><ref>{{Cite book |last=Knott |first=Stephen F. |title=Secret and Sanctioned: covert operations and the American presidency |year=1996 |publisher=[[Oxford University Press]] |page=176 |isbn=0-19-510098-0}}</ref>、「{{仮リンク|ヒューズ=ライアン修正条項|en|Hughes–Ryan Amendment}}」の制定で有名になった<ref>{{Cite book |last=Olmsted |first=Kathryn S. |title=Challenging the Secret Government: The Post-Watergate Investigations of the CIA and FBI |publisher=UNC Press |year=1996 |page=45 |isbn=0-8078-4562-0}}</ref><ref>{{Cite book |last=[[Johns Hopkins University]]. School of Advanced International Studies |title=SAIS Review |year=1989 |location=Original from the University of California |page=112 }}</ref>。ライアンは[[ディック・チェイニー]]に、「思いつきの作戦」を防止するために、国家機密を漏らすことは、議員が行う適切な方法だと語ったことがある<ref>{{Cite book |last=Rozell |first=Mark J. |title=Executive Privilege: The Dilemma of Secrecy and Democratic Accountability |publisher=Johns Hopkins University Press |year=1994 |page=[https://archive.org/details/executiveprivile0000roze/page/52 52] |isbn=0-8018-4900-4 |url=https://archive.org/details/executiveprivile0000roze/page/52 }}</ref>。
また、1974年に起きた[[パトリシア・ハースト]]の一件では、[[サミュエル・I・ハヤカワ]]と共に彼女の支援に動き、大統領減刑申請書を恩赦長官(Pardon Attorney)に提出した<ref>{{Cite book |last=Hearst |first=Patricia C. |author-link=Patricia Hearst |author2=Alvin Moscow |title=Every Secret Thing|publisher=Doubleday Publishing |year=1980 |pages=440, 441 |isbn=0-385-17056-4}}</ref>。

== 人民寺院調査と暗殺 ==
{{Further|人民寺院|{{仮リンク|ティモシー・ストウン|en|Timothy Stoen}}|サンフランシスコにおける人民寺院}}

1955年に[[ジム・ジョーンズ]]によって設立され、70年代に[[サンフランシスコ]]に本部を置いて活動していた社会主義キリスト教系の新興宗教団体・[[人民寺院]](Peoples Temple)は、1977年頃から[[南アメリカ]]の[[ガイアナ|ガイアナ共和国]]に広大な土地を借りて開拓団を送り、通称「[[ジョーンズタウン]]」と呼ばれる集落([[共同体|コミューン]])に入植を始めていた。しかし1978年にはジョーンズタウンで信者たちに対する教団の広範な虐待と人権侵害に関する事例が現地から漏れ始めた。

これに先立つ1976年10月5日、教団の信者であったボブ・ヒューストンが線路脇で切断された遺体として発見された。これは彼が教団を去ることを元妻と電話で話しあってから3日後のことであった<ref name="reiterman299">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|pp=299–300, 457}}</ref>。ヒューストンの父親と友人関係にあったライアンは人民寺院の問題に興味を持ち、さらに教団と敵対する「憂慮する親族(Concerned Relatives)」のリーダーであったティモシー・ストウンとジョーンズとの間の親権争いを知って関心は高まり、ストウンによる事件の詳細を記した議会議事録を入手するに至った<ref name="hall227">{{Cite book |author=Hall, John R. |title=Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History |publisher=[[Transaction Publishers]] |location=New Brunswick, New Jersey |year=1987 |isbn=0-88738-124-3}} p. 227</ref><ref name="reiterman458">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|p=458}}</ref>。
ライアンは、ストウンの件に関して、ガイアナのフォーブス・バーナム首相に書簡を送った91人からなる下院議員団の一人であった<ref name="reiterman299" /><ref name="hall227" />。

[[サンフランシスコ・エグザミナー]]紙の記事を読んだ後、ライアンは、ジョーンズと約1,000人の信者たちが入植したジョーンズタウンに行く意志を表明した。この決意は、カリフォルニア人を中心とした憂慮する親族会と、社会的不公正に対する彼自身の嫌悪感の両方によって後押しされた<ref>{{Cite book |last=McConnell |first=Malcolm |title=Stepping Over: personal encounters with young extremists |publisher=[[Reader's Digest Press]]|year=1984 |page=[https://archive.org/details/steppingoverpers00mcco/page/67 67] |isbn=0-88349-166-4 |url=https://archive.org/details/steppingoverpers00mcco/page/67 }}</ref>。
[[サンフランシスコ・クロニクル]]紙によれば、ライアンの調査中に、[[アメリカ合衆国国務省|米国国務省]]は「ジョーンズタウンで何が起きているかを知ろうとするライアンの調査を何度も妨害し」、「何もかも上手くいっている」と彼に報告していたという<ref name="simon1998" />。

国務省は、ジョーンズタウンに対するアメリカ政府の行動が、ガイアナとの潜在的な「法的論争」に繋がると危惧したが、ライアンは少なくともこの見解の一部には否定を示した<ref>{{Cite book |last=Dawson |first=Lorne L. |author-link=Lorne L. Dawson |title=Cults and New Religious Movements: A Reader |publisher=[[Blackwell Publishing]] |year=2003 |pages=[https://archive.org/details/cultsnewreligiou0000unse/page/186 186, 200, 205] |isbn=1-4051-0181-4 |url=https://archive.org/details/cultsnewreligiou0000unse/page/186 }}</ref>。
後にクロニクル紙に掲載された記事では、ライアンは「地元の民主党組織と[[ジミー・カーター]]政権下の国務省に逆らい」、独自に調査の準備を進めたと書かれている<ref name="haddock2003" />。

=== ジョーンズタウン訪問の発表と準備 ===
1978年11月1日、ライアンはジョーンズタウンを訪問すると発表した<ref>Rebecca Moore, [http://jonestown.sdsu.edu/?page_id=16581 ''American as Cherry Pie''], 2000, Jonestown Institute, San Diego State University</ref>。
これは政府の許可と共に資金提供も受けたもので、政府調査の一環であり、国外に居住するアメリカ国民を管轄する議会小委員会の委員長としてのものであった<ref name="Chidester" />。ライアンは、[[サンフランシスコ・ベイエリア|サンフランシスコ湾岸地域]]選出の議会代表団の仲間にもジョーンズタウンへの訪問に同行して欲しいと頼んだが、全員に断られた<ref name="simon1998" />。
また、政府運営委員会の同僚かつ友人でもあり、後に副大統領となった[[ダン・クエール]]にも誘いの声をかけたが、彼は行くことができなかった<ref>{{Cite book |last=Quayle |first=Dan |author-link=Dan Quayle |title=Standing Firm: A Vice-Presidential Memoir |publisher=[[HarperCollins]]|year=1995 |page=176 |isbn=0-06-109390-4}}</ref>。

調査団は当初、報道関係者とライアンのスタッフ数名のみで構成される予定であったが、メディアで訪問が報じられると、人民寺院の信者の関係者を含んで膨れ上がった。結果、訪問団は、サンフランシスコ港湾地域に在住する信者の親戚17名、新聞記者数名、[[NBC]]テレビチームが含まれることとなった<ref name="zane1998">{{Cite news |last=Zane |first=Maitland |title=Surviving the Heart of Darkness: Twenty years later, Jackie Speier remembers how her companions and rum helped her endure the night of the Jonestown massacre. |work=[[San Francisco Chronicle]] |page=1 |date=November 13, 1998}}</ref>。
ジョーンズの法律顧問は、訪問に制限をかけるような条件を課そうとしたが、ライアンはジョーンズの許可の有無にかかわらず、ジョーンズタウンに行くつもりだと回答した。ライアンの主張は、「鬱蒼と生い茂る森の奥にある開拓地では、権威主義的な運営の方が合理的なのかもしれないが、それでもその住民たちが自由に行き来きすることを許されなければならい」というものであった<ref name="zane1998" />。続けて彼は、その場所が「強制収容所([[グラーグ]])」{{refn|group="注釈"|[[グラーグ]](gulag)は、ソ連が運営していた矯正労働収容所のこと。}}になっているのであれば、「捕虜の解放」のために私はできる限りのことをするであろうと主張した<ref name="zane1998" />。

=== ライアン暗殺と集団自殺の決行 ===
{{Main|ジョーンズタウン}}
{{Location map many |Guyana
| label=ジョーンズタウン
| label_size=100
|pos=bottom |bg=yellow
|lat=7.66 |long=-60.187
|marksize=8
| label2=[[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]]
| label2_size=70
|lat2=6.807 |long2=-58.159
|mark2size=7
| label3=カイトゥマ
| label3_size=70
|pos3=right
|lat3=7.84 |long3=-60.01
|mark3size=7
| width=150 | float=right
| background=#FFFFDD
| caption=ガイアナ共和国の地図及びジョーンズタウンの位置。
}}

[[アメリカ合衆国上院外交委員会|外交委員会]]による報告書によれば、11月14日にライアンはワシントンを出発し<ref name="affairsreport">{{Cite conference |last=United States House of Representatives |author-link=United States House of Representatives |author2=Foreign Affairs Committee |title=Congressional Foreign Affairs Committee report on Ryan's assassination |conference=Report of a Staff Investigative Group to the Committee on Foreign Affairs |publisher=United States Congress |date=May 15, 1979 }}</ref>、政府高官、メディア代表、「憂慮する親族」のメンバー数人からなる議会代表団と共にジョーンズタウンから約240km離れたガイアナの首都[[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]]に到着した<ref name="reiterman481">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|p=481}}</ref>。

その夜、代表団は地元のホテルに宿泊する予定であったが、予約は確認されていたにもかかわらず、ほとんどの部屋がキャンセルされて既に別の客が入っており、ライアン達はロビーで寝泊まりする事態となった<ref name="reiterman482">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|p=482}}</ref>。
それから3日間、ジョーンズの法律顧問と交渉を続け、大使館員やガイアナ政府関係者と形式的な会談を行った<ref name="reiterman482-4">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|pp=482–84}}</ref>。

ジョージタウンに滞在中、ライアンは郊外のラマハ・ガーデンズにあった教団のジョージタウン本部を訪ねた<ref name="reiterman484">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|p=484}}</ref>。
彼はジョーンズと無線で話すことを求めた。その場にいた教団の最高幹部シャロン・エイモスは、突然のことでそれは無理だと答えた<ref name="reiterman481" />。
11月17日、ライアンは補佐官のジャッキー・スピアーや在ガイアナ大使館副公使のリチャード・ドワイヤー、ガイアナ情報省職員、ジャーナリスト9人、「憂慮する親族」代表4人らと共に小型飛行機に乗り込み、ジョーンズタウンから数マイル離れたポート・カイトゥマの飛行場に到着した<ref name="affairsreport" />。

最初は教団の法律顧問だけが飛行機から降りることを許されたが、最終的にはNBCのレポーターであったゴードン・リンゼイを含む一行全員に許可が与えられた。当初、一行が暖かく迎え入れられる中で、信者の一人バーノン・ゴズニーはNBC特派員の{{仮リンク|ダン・ハリス|en|Don Harris (journalist)}}に(彼をライアンと間違えて)「バーノン・ゴズニーと(別の信者である)モニカ・バグビー:ジョーンズタウンから出ることを助けてください」というメモを渡した<ref name="Chidester">{{Cite book |last=Chidester |first=David |title=Salvation and Suicide: Jim Jones, the Peoples Temple, and Jonestown |publisher=[[Indiana University Press]] |year=2003 |pages=xvii, 11, 139, 151, 167, 168, 186 |isbn=0-253-21632-X |no-pp=true}}</ref>。ゴスニーはライアンら代表団が今極めて危険な状態にあることを印象付けようとしたが、このメモはジョーンズに知られ、ゴスニーの目的は失敗した<ref name="zane1998" />。

その夜、代表団とマスコミはジョーンズに宿泊を断られ、飛行場に戻って寝泊まりした。一部はその場に留まった<ref name="affairsreport" />。
翌朝、ライアン、スピアー、ドワイヤーは住民に対するインタビューを続け、家族や別の家族と共にジョーンズタウンから出たいと密かに願う女性と出会った。午前11時頃、メディアと代表団も町に戻り、教団メンバーへのインタビューに加わった。午後3時頃、14人の脱退希望者と脱退者を装ったラリー・レイトンがトラックに乗り込み、カイトゥマの飛行場に向かった。ライアンは他の希望者も募るため、もう一晩滞在することを望んでいたが、帰ることを望む者の家族間の争いの仲裁中にナイフで襲われ、諦めざるを得なくなった<ref>{{Cite book |last=Milhorn |first=H. Thomas |title=Crime: Computer Viruses to Twin Towers |publisher=Universal-Publishers.com |year=2004 |page=392 |isbn=1-58112-489-9}}</ref>。
ライアンの抗議に対してドワイヤーはここから離脱するよう命令したが、同時に後で戻ってこの問題に対応することを約束した<ref name="affairsreport" />。

ジョーンズタウンを出発した一行は午後4時45分にはカイトゥマの滑走路に到着していた。帰り用の輸送機(双発のオッターとセスナ)が到着したのは午後5時10分だった。6人乗りの小さなセスナが滑走路の端まで地上走行している時、突如、乗客の一人であったラリー・レイトンが他の乗客に向かって発砲し、数人が負傷した。

同じ頃、一行を護衛していた教団のメンバー数名も輸送機に対して発砲をし始め、ライアン、ジャーナリスト3名、脱退者1名が死亡し、スピアーを含む9名が負傷した<ref name="reiterman299" /><ref>{{Cite book |last=Singer, Ph.D. |first=Margaret Thaler |author-link=Margaret Singer |author2=Janja Lalich|author2-link=Janja Lalich |title=[[Cults in our Midst (book)|Cults in Our Midst: The Hidden Menace in Our Everyday Lives]] |publisher=Jossey Bass |year=1995 |pages=28, 237 }}</ref>。
ライアンの胴には20発以上の銃弾が撃ち込まれ、さらに顔面も撃たれた<ref>{{Cite book |last=Snow |first=Robert L. |title=[[Deadly Cults]]: The Crimes of True Believers |publisher=Praeger/Greenwood |year=2003 |pages=[https://archive.org/details/deadlycultscrime00snow/page/36 36, 38, 166, 168] |isbn=0-275-98052-9 }}</ref>。
セスナ機の乗客がレイトンを取り押さえ、両機の生存者たちは攻撃中やその後に近くの原野に逃げ込んだ<ref name="affairsreport" />。

その日の午後、まだニュースとして事件が公になる前に、ライアンの補佐官であったウィリアム・ホルジンガーの妻は3回の脅迫電話を受けた。電話の相手は「お前の夫に、雇い主(meal ticket)の脳を吹き飛ばした、今後はよく注意することだと伝えろ」と言ったといわれている。これを受けてホルジンガー夫妻はタホ湖、さらにヒューストンへと避難した。

セスナ機は離陸後、無線で襲撃を受けたことを報告し、ジョン・R・バーク米国大使はバーナム首相官邸に向かった<ref name="affairsreport" />。
ガイアナ軍がジャングルを切り抜けてジョーンズタウンに到着できたのは翌朝のことであり、そこでジョーンズを含む住民909人が死んでいるのを発見した。後に連邦下院議会が「集団自殺あるいは殺人の儀式」と表現したものであった<ref name="affairsreport" />。

== 埋葬と追悼 ==
[[File:Leo J. Ryan headstone.JPG|thumb|ライアンの墓石|alt=A white-colored tombstone stands in the middle of a cemetery. "Leo J. Ryan Jr" is engraved on it.]]

ライアンの遺体はアメリカに送られ、カリフォルニア州[[サンブルーノ]]にある{{仮リンク|ゴールデンゲート国立墓地|en|Golden Gate National Cemetery}}に埋葬された。連邦議会でも追悼式が行われ、これは『Leo J. Ryan - Memorial Services - Held In The House Of Representatives & Senate Of The U.S., Together With Remarks.(レオ・J・ライアン -追悼式典- 連邦議会両院、追悼の辞と共に)』という書籍にまとめられた<ref>{{Cite book |last=Joint Committee On Printing |author2=United States Government Printing |title=Leo J. Ryan – Memorial Services – Held In The House Of Representatives & Senate Of The U.S., Together With Remarks |publisher=[[United States Congress]] |year=1979 |location=Washington, D.C. |page=89 }}</ref>。
ライアンの妹シャノンは、葬儀に多くの支持者が出席したこと、彼らの「本当の、正直な悲しみの発露」の両方に驚いたと語った<ref name="sudol">{{Cite news |last=Sudol |first=Karen |title=Keeping her brother's memory alive : Rep. Ryan's sister won't let people forget him or Jonestown |newspaper=[[Asbury Park Press]] |date=November 24, 2004 |quote=Ryan is the only member of Congress to have been killed in the line of duty and was posthumously recognized in the 1980s with a congressional award presented by then-President Ronald Reagan. }}</ref>。

== 死後 ==
* 1983年、連邦議会は職務中に殺害された唯一の議員{{refn|group="注釈"|下院議員としての職務中に限らないのであれば1868年に暗殺された{{仮リンク|ジェームズ・M・ハインズ|en|James M. Hinds}}などの例があり<ref>Other members of the House of Representatives have been killed while in office, although not as [[assassination]] attempts; others have been the target of deliberate assassination attempts, albeit without success to date. See [[List of United States Congress members killed or wounded in office]] for details.</ref><ref>{{cite web |last1=Peters |first1=Justin |title=The Forgotten, Non-Kool-Aid-Drinking Victims of the Jonestown Massacre |url=http://www.slate.com/blogs/crime/2013/11/18/leo_ryan_jonestown_the_forgotten_non_kool_aid_drinking_victims_of_the_jonestown.html |website=[[Slate.com]]|date=November 18, 2013 |access-date=October 1, 2014}} "Thirty-five years later, Ryan remains the only U.S. representative to be killed in the line of duty."</ref>、上院議員であれば[[ヒューイ・ロング]]や[[ロバート・ケネディ]]がいる。}}としてライアンに[[議会名誉黄金勲章]]を授与することを決定し、[[ロナルド・レーガン|レーガン大統領]]が署名した<ref name="reaganstatement">{{Cite press release |title=Statement on Signing the Bill Authorizing a Congressional Gold Medal Honoring the Late Representative Leo J. Ryan |publisher=[[Ronald Reagan]] |date=November 18, 1983 |url=http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=40789 |access-date=January 24, 2007}}</ref><ref>{{Cite news |last=Trescott |first=Jacqueline |title=Leo Ryan honored (with Medal of Honor) |newspaper=[[The Washington Post]] |page=v107 pC4 col 5 (10 col in) |date=November 30, 1984}}</ref>。レーガンはこの授与について「レオ・ライアンが、自身の選挙区の多くの人達が影響を受けたとされるジョーンズタウンでの虐待の噂について個人的に調査に乗り出したことは、彼が有権者のために活動する典型的な例であった」と述べている<ref name="reaganstatement" />。ライアンの娘たちであるパトリシアとエレンは、勲章の授与が父の没後5周年に間に合うように奔走した<ref>{{Cite news |last=Herald Staff |title=PEOPLE UPDATE: PAT AND ERIN RYAN |newspaper=[[The Miami Herald]] |page=2A |date=July 11, 1983 }}</ref>。
* 1984年、カリフォルニア州サンブルーノにある国立公文書館は、ライアンに敬意を表して「{{仮リンク|レオ・J・ライアン連邦ビル|en|Leo J. Ryan Federal Building}}」と命名されることが連邦議会による全会一致と大統領署名により行われた<ref>''[[The Washington Post]]'', November 30, 1984 v107 pC4 col 5 (10 col in), "Leo Ryan honored. (with Medal of Honor)" Jacqueline Trescott.</ref>。
* ライアンの補佐官で自身もジョーンズタウンに同行し、負傷した{{仮リンク|ジャッキー・スピアー|en|Jackie Speier}}は、1998年にカリフォルニア州上院議員に当選した。また2008年にはライアンの選挙区であったカリフォルニア州第12選挙区から出馬し、連邦下院議員となった<ref name="SFC 4-9-08">[http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2008/04/08/BAC11025NU.DTL&tsp=1 '''SFGATE:''' Voters send Jackie Speier to Washington]</ref>。

=== 実行犯に対する裁判 ===
元教団メンバーで『Seductive Poison(蠱惑的な毒)』の著者デボラ・レイトンの弟であるラリー・レイトン(1946年1月11日生まれ)は、1986年にライアン殺害の共謀者として有罪判決を受けた<ref>{{Cite news |agency=[[Associated Press]] |title=Ex-Cult Member Convicted In Death of Rep. Leo Ryan : '78 Shooting Led to Jonestown Mass Suicide |newspaper=[[The Washington Post]] |page=A5 |date=December 2, 1986 }}</ref>。事件当時、共にカイトゥマに向かうトラックに乗っていた脱退希望者は「彼が脱退者であるわけがない。彼はジョーンズに近すぎる」と話していた<ref name="reiterman520">{{Harvnb|Reiterman|Jacobs|1982|p=520}}</ref>。
レイトンはジョーンズタウンの殺人事件に関する犯罪行為に対して、アメリカ国内で裁判にかけられた唯一の教団員であった<ref>{{Cite news |last=Drew |first=Bettina |title=Indiana Jones's Temple of Doom |newspaper=[[The Nation]] |date=February 1, 1999 }}</ref><ref>{{Cite news |agency=[[Associated Press]] |title=LAYTON CONVICTED FOR ROLE IN 1978 JONESTOWN KILLING |newspaper=[[Boston Globe]] |date=December 2, 1986 }}</ref>。
彼は4つの異なる殺人に関連する罪で有罪判決を受けた<ref>{{Cite news |last=Staff |title=LAYTON GUILTY IN GUYANA SHOOTINGS |newspaper=[[Sacramento Bee]] |page=A1 |date=December 2, 1986 }}</ref>。

1987年3月3日にレイトンは「レオ・ライアン下院議員の殺害幇助」「国際法上保護義務のある在ガイアナ大使館副公使リチャード・ドワイヤーに対する殺害計画」および他の関連する罪状で禁固15年の刑を言い渡され、同時に
1987年3月3日、レイトンは、「レオ・ライアン下院議員の殺害を幇助した罪」、「国際的に保護されている人物、ガイアナ共和国の米国代表部次長リチャード・ドワイヤーを殺害する陰謀」、および他の関連する罪状で15年の禁固刑を含む累積で、終身刑の判決が下された<ref>{{Cite book |last=Bassiouni |first=M. Cherif |title=Legal Responses to International Terrorism: U.S. procedural aspects |publisher=Martinus Nijhoff Publishers |year=1998 |pages=169, 170 |isbn=0-89838-931-3}}</ref>。
ただ彼は5年で仮釈放される可能性があった<ref name="laytonmotion">{{Cite court |litigants=United States of America v. Laurence John LAYTON |vol=666 F.Supp. 1369, No. CR-80-416 RFP. |reporter=U.S. |opinion= |pinpoint= |court=United States District Court, N.D. California. |date=June 3, 1987 |url=}}</ref>。
1987年6月3日、カリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所は「二審で、効果的な弁護士の擁護を受けられなかったことを理由とする」有罪判決を向こうとする申し立てを却下した<ref name="laytonmotion" />。
刑務所で18年間過ごした後、レイトンは2002年4月に釈放された<ref>[http://jonestown.sdsu.edu//?page_id=32946 Larry Layton released]</ref>。

=== 追悼記念式典 ===
[[File:Leo J. Ryan Park.jpg|thumb|{{仮リンク|レオ・J・ライアン記念公園|en|Leo J. Ryan Memorial Park}}の看板。|alt=A blue sign stands in the middle of a park. "Leo J. Ryan Park" is written on it.]]
[[File:Leo J Ryan Post Office.jpg|thumb|right|レオ・J・ライアン郵便局ビル|alt=The entrance of a post office. There are several cars in front of it.]]

ライアンの没後25年の命日には、カリフォルニア州フォスターシティで彼を偲ぶ特別な追悼式が行われた。ライアンの3人の娘たちやジャッキー・スピアーといった彼の家族や友人たちも参列した。サンフランシスコ・クロニクル紙は、「今日は、何度も何度も人々が彼は有権者の期待を常に上回る偉大な人物だったと語った」と報じた<ref name="tributetocongressman" />。

式典の終わり頃には、ジョーンズタウンで亡くなった者たちの親が立ち、子供たちを救おうとして命を捧げたライアンを称え、感謝した。式典後、騎馬警官が遺族と友人を[[フォスターシティ]]の{{仮リンク|レオ・J・ライアン記念公園|en|Leo J. Ryan Memorial Park}}に案内した。ライアンを称える記念碑の横には花輪が置かれた<ref name="tributetocongressman">{{Cite news |last=Bay City News Report |title=Tribute to congressman Leo Ryan held in Foster City. |work=[[San Francisco Chronicle]] |date=November 18, 2003 |url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/gate/archive/2003/11/18/ryan18.DTL |access-date=January 24, 2007}}</ref>。

同年、ライアンの三女でスピアーの補佐官となったエリンがオークランドのエバーグリーン墓地で行われたジョーンズタウンの被害者たちの追悼式に出席した<ref>{{Cite news |last=Delevett |first=Peter |title=Two children remember fathers' legacies 25 years after Jonestown. |newspaper=[[San Jose Mercury News]] |date=November 15, 2003 }}</ref>。また、レオ・ライアンの命日には、次女パトリシアとスピアーがゴールデンゲート国立墓地にある彼の墓を訪れている<ref name="zane1998" />。

スピアーは没後30年記念として、カリフォルニア州サンマテオの南エルズワース通り210番地にあるアメリカ合衆国郵便公社施設を「レオ・J・ライアン郵便局ビル」と命名する法案を支援した<ref>{{cite web |last=Govtrack.us |title=H.R. 6982: To designate the facility of the United States Postal Service located at 210 South ...|url=http://www.govtrack.us/congress/bill.xpd?bill=h110-6982 |access-date=November 18, 2008}}</ref>。これは2008年10月21日に、当時の大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]の署名により発行した<ref>{{cite web |last=The White House |title=President Bush Signs H.R. 3511, H.R. 4010, H.R. 4131, H.R. 6558, H.R. 6681, H.R. 6834, H.R. 6847, H.R. 6902, and H.R. 6982 Into Law |url=https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/10/20081021-7.html |access-date=November 18, 2008}}</ref>。同年11月17日の郵便局での献辞式ではスピアーが演説を行い、以下のようにライアンを偲んだ。
{{Quotation|
彼の死から30年経った今も、その動機や行動の適切さに疑問を持つ者たちがいます。しかし、レオに対する批判はまったく問題がなさそうです。レオ・ライアンは自分の人気取りのために、何かするということはありませんでした。彼は自分が正しいと思うことを成すことに関心があったのです<ref>{{cite web |last=Congresswoman Jackie Speier |title=Leo J. Ryan Post Office Dedication |url=http://www.house.gov/htbin/blog_inc?BLOG,ca12_speier,blog,999,All,Item%20not%20found,ID=081117_2533,TEMPLATE=postingdetail.shtml |access-date=2008-11-18}}</ref>。
}}


== 娘たち ==
1962年にサウスサンフランシスコ市長に、次いで27区のカリフォルニア州下院議員に選出された。[[1972年]]に連邦下院議員に当選した。
[[File:Shannon Jo Ryan, Rajneesh movement member, cropped.jpg|thumb|upright|シャノン・ジョー・ライアン(1981年)]]


長女シャノン・ジョー・ライアン(Shannon Jo Ryan、1952年生まれ)は、ラジニーシ運動([[オショウ・コミューン]])に加わり、1981年に[[Osho|ラジニーシ(Osho)]]がオレゴンに移住すると、{{仮リンク|ラジニーシプーラム|en|Rajneeshpuram}}として知られる共同体に所属した<ref name="Chidester" /><ref>{{Cite news |last=Endicott |first=William |title=Leo Ryan's Daughter Joins Cult : Shannon Jo Ryan Follows Religious Guru |newspaper=[[The Washington Post]] |page=C1 |date=January 12, 1981 }}</ref><ref name="staff">{{Cite news |last=Staff. |title=Leo Ryan's Daughter Weds Guru Disciple |newspaper=[[The Washington Post]] |page=D12 |date=December 22, 1982 }}</ref>。1982年12月にマ・アムリタ・プリタム(Ma Amrita Pritam)と名乗り、共同体に住む別のメンバーと結婚した<ref name="ap">{{Cite news |agency=[[Associated Press]] |title=Dad 'would understand' why she lives with cult group. |newspaper=The Chronicle-Telegram, [[Elyria, Ohio]] |page=A6 |date=November 20, 1984 }}</ref>。
[[L・ロン・ハバード]]の[[サイエントロジー]]や[[文鮮明|ムン・ソンミョン]]の[[世界基督教統一神霊協会|統一教会]]といったカルト宗教団体を批判し、1973年11月3日には[[:en:John_Gordon_Clark|ジョン・ゴードン・クラーク]]に破壊的カルトに関する健康被害について証言させた。このスピーチに先立って「カルト宗教によって改宗させられた若者やそのために子を失う被害に遭ったその親たち」が彼の最大の懸念であると述べた。


パトリシア・ライアン(Patricia Ryan、1953年生まれ)は、ワシントンD.C.の[[ジョージ・ワシントン大学]]で[[行政学]]の修士号を取得し、2001年から2012年までカリフォルニア州精神保健局長協会(現カリフォルニア州郡行動保健局長協会)の事務局長を務めた。1980年代から{{仮リンク|全米カルト啓発ネットワーク|en|Cult Awareness Network}}にボランティアとして関わり、最終的に同ネットワークの理事長を務めた<ref name="erinryan">{{Cite news |last=Dearen |first=Jason |title=Erin Ryan wants father to be appreciated |newspaper=[[Oakland Tribune]] |date=November 18, 2003 |url=http://www.culteducation.com/group/1005-jonestown/10892-erin-ryan-wants-father-to-be-appreciated.html }}</ref><ref>{{Cite book |last=Tuman |first=Myron C. |title=A Guide to Deep Thinking in a Shallow Age |publisher=Xlibris Corporation |year=2002 |page=82 |isbn=1-4010-5229-0}}{{self-published source|date=December 2017}}</ref>{{Self-published inline|certain=yes|date=December 2017}}。
[[サミュエル・I・ハヤカワ]]上院議員と共に[[パトリシア・ハースト]]を擁護し、大統領恩赦を働きかけた。


エリン・ライアン(Erin Ryan、1958年生まれ)は、[[カリフォルニア大学ヘイスティングス・ロー・スクール]]を卒業後、1992年まで[[中央情報局]](CIA)で情報分析官として働く。その後、ニューヨークで8年間、パティシエとして働いた後、2000年に父の補佐官であったジャッキー・スピアー州上院議員の補佐官となった<ref name="erinryan" />。
== 人民寺院 ==
[[ジム・ジョーンズ]]率いる[[人民寺院]]が建設した町[[ジョーンズタウン]]において信者に対する虐待や人権侵害があるという疑惑が浮上し、元信者の父親であるボブ・ヒューストンと親しかったライアンは調査に乗り出すこととなった。彼は自らのスタッフ・信者の家族・報道関係者を引き連れ、ジョーンズタウンを視察に訪れた。


== 大衆文化 ==
4日後、ライアン一行は帰国希望者を連れてジョーンズタウンを去った。しかし、人民寺院の信者たちが一行を襲撃し、ライアンら5人を殺害した。
ライアンはジョーンズタウンの集団自殺(ないし殺人)を扱った映画に登場する。1979年の映画『{{仮リンク|ガイアナ人民寺院の悲劇|en|Guyana: Crime of the Century}}』では[[ジーン・バリー]]が<ref>{{Cite AV media |people=René Cardona Jr. |title=Guyana: Crime of the Century |medium=Film |publisher=[[Universal Pictures]] |date=1979}}</ref>、1980年のテレビ用ミニシリーズ『Guyana Tragedy: The Story of Jim Jones(ガイアナの悲劇:ジム・ジョーンズの物語)』では、[[ネッド・ビーティ]]が演じた<ref>{{Cite AV media |people=[[William A. Graham (director)|William A. Graham]] |title=[[Guyana Tragedy: The Story of Jim Jones]] |medium=Film |publisher=CBS Television |date=1980}}</ref>。


ライアン暗殺は、『Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple(ジョーンズタウン:人民寺院の生と死)』(2006年)<ref>{{Cite AV media |people=Stanley Nelson |title=[[Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple]] |medium=Documentary |publisher=Firelight Media |date=October 20, 2006}}</ref>や、ヒステリーチャンネルの『Cults: Dangerous Devotion(カルト:危険な献身)』<ref>{{Cite AV media |people=The History Channel |title=Decoding the Past: Cults: Dangerous Devotion: Scholars and survivors discuss the mystery of cults. |medium=Documentary |publisher=A&E Television Networks |date=2006}}</ref>、『Jonestown: Paradise Lost(ジョーンズタウン:失われた楽園)』<ref>{{Cite AV media |people=The History Channel |title=Jonestown Paradise Lost: Congressman Leo Ryan's fatal journey into "Jonestown," a community carved out of the jungles of Guyana by followers of pastor Jim Jones. |medium=Documentary |publisher=A&E Television Networks |date=2006}}</ref>などのドキュメンタリー作品で取り上げられ、また2008年にはライアン暗殺と集団自殺から30周年記念として、MSNBCで『Witness to Jonestown(ジョーンズタウンの証言)』が制作された<ref>{{Cite AV media |people=[[MSNBC]] |title=Witness to Jonestown |medium=Documentary |publisher=[[NBC]] |date=2008}}</ref>。
ライアンの遺体はカリフォルニア州[[サンブルーノ]]の{{ill2|ゴールデン・ゲート国立墓地|en|Golden Gate National Cemetery}}に埋葬された。
2012年に[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]の『[[衝撃の瞬間]]』ではライアンの暗殺を再現した第6シーズンのエピソード「集団自殺とカルト教団集団」を放映した<ref>{{cite web |url=http://natgeotv.com.au/tv/seconds-from-disaster/episodes.aspx?series=6 |title=Seconds From Disaster: Series 6 |work=[[National Geographic Australia]] |year=2012 |access-date=February 22, 2018}}</ref>。


== 脚注 ==
また、[[フォスターシティ]]には彼を記念したレオ・J・ライアン・メモリアル・パークという公園がある。
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|40em}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2022年6月7日 (火) 15:26時点における版

レオ・ライアン
Leo Ryan
生年月日 (1925-05-05) 1925年5月5日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーン
没年月日 (1978-11-18) 1978年11月18日(53歳没)
死没地 ガイアナの旗 ガイアナバリマ・ワイニ州ポート・カイトゥマ英語版
出身校 ベイツ大学V-12英語版
クレイトン大学BAMS
前職 高校教師
所属政党 民主党
配偶者 マーガレット・ライアン
子女 5人

選挙区 カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州第11区
当選回数 3回
在任期間 1973年1月3日 - 1978年11月18日

選挙区 27区
在任期間 1963年1月7日 - 1973年1月3日
州知事 パット・ブラウン
ロナルド・レーガン
テンプレートを表示

レオ・ジョゼフ・ライアン・ジュニア(英語:Leo Joseph Ryan, Jr.1925年5月5日 - 1978年11月18日)は、アメリカ教師政治家民主党に所属し、1973年の初当選から1978年にジョーンズタウン事件で暗殺されるまでカリフォルニア州第11選挙区選出の連邦下院議員を務めた。それ以前はサウスサンフランシスコ市長や同州第27地区選出の州議会下院議員英語版を歴任した。

ライアンは実地調査を好み、州議会議員時代には、1965年のワッツ暴動を受けてロサンゼルス地域の調査・記録のために、わざわざ臨時教員となりこれを行った。また刑務所改革を行う州議会委員会の委員長の座に着くと、1970年に身分を隠してフォルサム州立刑務所英語版に自ら囚人として収監され実態調査を行った。連邦議員時代には、残酷な狩りが行われていると批難されていたアザラシ猟の現地調査のためにカナダのニューファンドランドに自ら訪れた。また、中央情報局(CIA)に対する議会監視が不十分であることを強く指摘したことでも知られ、これは共同提案した1974年の「ヒューズ=ライアン修正条項英語版」に繋がり、大統領がCIAの秘密作戦を議会に報告することを義務付けさせた。

1978年、ライアンはジム・ジョーンズ率いるカルト教団の人民寺院が、その意志を無視して信者を不当に拘束しているという訴えの調査のため、彼らが南アメリカガイアナに入植して築いたジョーンズタウンを訪れた。調査を終え、帰途につこうとした11月18日、ライアンら代表団は入植地から最寄りの飛行場の滑走路でジョーンズの命令を受けた信者らに襲撃され、暗殺された。その後、教団はジョーンズタウンにおいて900人以上に上る集団自殺を決行した。

1983年に、職務中に暗殺された唯一の下院議員として議会名誉黄金勲章が授与された。

出自と前半生

ネブラスカ州リンカーンの生まれ[1]。家庭の事情から幼少期より、イリノイ州フロリダ州ニューヨーク州ウィスコンシン州マサチューセッツ州と頻繁に転居を行った。1943年にウィスコンシン州プレーリー・ドゥ・シーン英語版のキャンピオン・イエズス会高等学校(Campion Jesuit High School)を卒業した[2][3]。 その後、ベイツ大学で士官養成のV-12海軍士官訓練プログラム英語版を受け、1943年から1946年まで海軍に潜水艦乗りとして勤務した[4]

1949年にネブラスカ州クレイトン大学学士号(B.A.、教養)を、1951年に修士号(M.S.、理学)を取得し、卒業した[1]。 1956年から1962年まで教師、学校管理者、サウスサンフランシスコ市議会議員を務めた。 1958年には連邦下院議会の第25選挙区に立候補したが、共和党ルイス・フランシスに敗れた[5]。 カプチーノ高校で英語を教える傍らで1961年にマーチングバンドの監督者としてワシントンD.C.に行き、ジョン・F・ケネディ大統領の就任式パレードに参加した[6]。 この時の公共への奉仕を説いた大統領就任演説に感銘を受けたライアンは、より高い公職に就くことを決意した[7]

政治家として

Black and white of a man wearing a suit and a tie. His name is written below.
連邦下院議員1期目の公式写真(1973年)

カリフォルニア州時代

1962年にサウスフランシスコ市長に当選した。その後、1年足らずでカリフォルニア州下院議会の第27選挙区から立候補し、次点に2万票の差をつけて当選を果たした[7][5]。1964年と1968年には民主党全国大会の代表を務めるなど[1]、1972年に連邦下院議会に当選するまで3回の再選を果たし、州議会の議席を守った[1]

ライアンの事務所スタッフで、後にカリフォルニア州上院議員及び連邦下院議員を務めるジャッキー・スピアー英語版は、彼の調査スタイルを「実経験に基づく法制化」と表現している[7]。 1965年に起きたワッツ暴動に対しては、ライアンは現地に赴くと臨時教員の職を得て、現地の状況の調査・記録を行った。1970年には刑務所改革を担当する議会委員会の委員長を務める一環として、州内の刑務所の実態調査のために、身分を隠してわざと逮捕され、勾留や全裸にされての身体検査を経験、フォルサム州立刑務所英語版に10日間収監された[8][9]

また州議会議員としては立法小委員会の公聴会の議長を務め、後にライアンの後継者となったトム・ラントスが関与する公聴会も主催した[10]。 ライアンは重要な教育政策を推し進め、後に「ライアン法」として知られる、カリフォルニア州の教育資格を監視するための独立委員会を設置する法案を作成した[11]

アメリカ連邦議会時代

中央政界に転身することを決め、1973年に連邦下院議会のカリフォルニア州第11選挙区から立候補して当選した。

連邦下院議員としては、ジェームズ・ジェフォーズ英語版と共にカナダニューファンドランド島に赴き、残酷な狩りだと批難されていたアザラシ猟の実態調査を行った[12][13]。また、中央情報局(CIA)に対する議会の監視が不十分であることを強く指摘し、ハロルド・ヒューズ英語版上院議員と共同で、広く秘密作戦についてCIAが議会への報告義務を課す[14][15]、「ヒューズ=ライアン修正条項英語版」の制定で有名になった[16][17]。ライアンはディック・チェイニーに、「思いつきの作戦」を防止するために、国家機密を漏らすことは、議員が行う適切な方法だと語ったことがある[18]。 また、1974年に起きたパトリシア・ハーストの一件では、サミュエル・I・ハヤカワと共に彼女の支援に動き、大統領減刑申請書を恩赦長官(Pardon Attorney)に提出した[19]

人民寺院調査と暗殺

1955年にジム・ジョーンズによって設立され、70年代にサンフランシスコに本部を置いて活動していた社会主義キリスト教系の新興宗教団体・人民寺院(Peoples Temple)は、1977年頃から南アメリカガイアナ共和国に広大な土地を借りて開拓団を送り、通称「ジョーンズタウン」と呼ばれる集落(コミューン)に入植を始めていた。しかし1978年にはジョーンズタウンで信者たちに対する教団の広範な虐待と人権侵害に関する事例が現地から漏れ始めた。

これに先立つ1976年10月5日、教団の信者であったボブ・ヒューストンが線路脇で切断された遺体として発見された。これは彼が教団を去ることを元妻と電話で話しあってから3日後のことであった[20]。ヒューストンの父親と友人関係にあったライアンは人民寺院の問題に興味を持ち、さらに教団と敵対する「憂慮する親族(Concerned Relatives)」のリーダーであったティモシー・ストウンとジョーンズとの間の親権争いを知って関心は高まり、ストウンによる事件の詳細を記した議会議事録を入手するに至った[21][22]。 ライアンは、ストウンの件に関して、ガイアナのフォーブス・バーナム首相に書簡を送った91人からなる下院議員団の一人であった[20][21]

サンフランシスコ・エグザミナー紙の記事を読んだ後、ライアンは、ジョーンズと約1,000人の信者たちが入植したジョーンズタウンに行く意志を表明した。この決意は、カリフォルニア人を中心とした憂慮する親族会と、社会的不公正に対する彼自身の嫌悪感の両方によって後押しされた[23]サンフランシスコ・クロニクル紙によれば、ライアンの調査中に、米国国務省は「ジョーンズタウンで何が起きているかを知ろうとするライアンの調査を何度も妨害し」、「何もかも上手くいっている」と彼に報告していたという[7]

国務省は、ジョーンズタウンに対するアメリカ政府の行動が、ガイアナとの潜在的な「法的論争」に繋がると危惧したが、ライアンは少なくともこの見解の一部には否定を示した[24]。 後にクロニクル紙に掲載された記事では、ライアンは「地元の民主党組織とジミー・カーター政権下の国務省に逆らい」、独自に調査の準備を進めたと書かれている[9]

ジョーンズタウン訪問の発表と準備

1978年11月1日、ライアンはジョーンズタウンを訪問すると発表した[25]。 これは政府の許可と共に資金提供も受けたもので、政府調査の一環であり、国外に居住するアメリカ国民を管轄する議会小委員会の委員長としてのものであった[26]。ライアンは、サンフランシスコ湾岸地域選出の議会代表団の仲間にもジョーンズタウンへの訪問に同行して欲しいと頼んだが、全員に断られた[7]。 また、政府運営委員会の同僚かつ友人でもあり、後に副大統領となったダン・クエールにも誘いの声をかけたが、彼は行くことができなかった[27]

調査団は当初、報道関係者とライアンのスタッフ数名のみで構成される予定であったが、メディアで訪問が報じられると、人民寺院の信者の関係者を含んで膨れ上がった。結果、訪問団は、サンフランシスコ港湾地域に在住する信者の親戚17名、新聞記者数名、NBCテレビチームが含まれることとなった[28]。 ジョーンズの法律顧問は、訪問に制限をかけるような条件を課そうとしたが、ライアンはジョーンズの許可の有無にかかわらず、ジョーンズタウンに行くつもりだと回答した。ライアンの主張は、「鬱蒼と生い茂る森の奥にある開拓地では、権威主義的な運営の方が合理的なのかもしれないが、それでもその住民たちが自由に行き来きすることを許されなければならい」というものであった[28]。続けて彼は、その場所が「強制収容所(グラーグ)」[注釈 1]になっているのであれば、「捕虜の解放」のために私はできる限りのことをするであろうと主張した[28]

ライアン暗殺と集団自殺の決行

レオ・ライアンの位置(ガイアナ内)
ジョーンズタウン
ジョーンズタウン
カイトゥマ
カイトゥマ
ガイアナ共和国の地図及びジョーンズタウンの位置。

外交委員会による報告書によれば、11月14日にライアンはワシントンを出発し[29]、政府高官、メディア代表、「憂慮する親族」のメンバー数人からなる議会代表団と共にジョーンズタウンから約240km離れたガイアナの首都ジョージタウンに到着した[30]

その夜、代表団は地元のホテルに宿泊する予定であったが、予約は確認されていたにもかかわらず、ほとんどの部屋がキャンセルされて既に別の客が入っており、ライアン達はロビーで寝泊まりする事態となった[31]。 それから3日間、ジョーンズの法律顧問と交渉を続け、大使館員やガイアナ政府関係者と形式的な会談を行った[32]

ジョージタウンに滞在中、ライアンは郊外のラマハ・ガーデンズにあった教団のジョージタウン本部を訪ねた[33]。 彼はジョーンズと無線で話すことを求めた。その場にいた教団の最高幹部シャロン・エイモスは、突然のことでそれは無理だと答えた[30]。 11月17日、ライアンは補佐官のジャッキー・スピアーや在ガイアナ大使館副公使のリチャード・ドワイヤー、ガイアナ情報省職員、ジャーナリスト9人、「憂慮する親族」代表4人らと共に小型飛行機に乗り込み、ジョーンズタウンから数マイル離れたポート・カイトゥマの飛行場に到着した[29]

最初は教団の法律顧問だけが飛行機から降りることを許されたが、最終的にはNBCのレポーターであったゴードン・リンゼイを含む一行全員に許可が与えられた。当初、一行が暖かく迎え入れられる中で、信者の一人バーノン・ゴズニーはNBC特派員のダン・ハリス英語版に(彼をライアンと間違えて)「バーノン・ゴズニーと(別の信者である)モニカ・バグビー:ジョーンズタウンから出ることを助けてください」というメモを渡した[26]。ゴスニーはライアンら代表団が今極めて危険な状態にあることを印象付けようとしたが、このメモはジョーンズに知られ、ゴスニーの目的は失敗した[28]

その夜、代表団とマスコミはジョーンズに宿泊を断られ、飛行場に戻って寝泊まりした。一部はその場に留まった[29]。 翌朝、ライアン、スピアー、ドワイヤーは住民に対するインタビューを続け、家族や別の家族と共にジョーンズタウンから出たいと密かに願う女性と出会った。午前11時頃、メディアと代表団も町に戻り、教団メンバーへのインタビューに加わった。午後3時頃、14人の脱退希望者と脱退者を装ったラリー・レイトンがトラックに乗り込み、カイトゥマの飛行場に向かった。ライアンは他の希望者も募るため、もう一晩滞在することを望んでいたが、帰ることを望む者の家族間の争いの仲裁中にナイフで襲われ、諦めざるを得なくなった[34]。 ライアンの抗議に対してドワイヤーはここから離脱するよう命令したが、同時に後で戻ってこの問題に対応することを約束した[29]

ジョーンズタウンを出発した一行は午後4時45分にはカイトゥマの滑走路に到着していた。帰り用の輸送機(双発のオッターとセスナ)が到着したのは午後5時10分だった。6人乗りの小さなセスナが滑走路の端まで地上走行している時、突如、乗客の一人であったラリー・レイトンが他の乗客に向かって発砲し、数人が負傷した。

同じ頃、一行を護衛していた教団のメンバー数名も輸送機に対して発砲をし始め、ライアン、ジャーナリスト3名、脱退者1名が死亡し、スピアーを含む9名が負傷した[20][35]。 ライアンの胴には20発以上の銃弾が撃ち込まれ、さらに顔面も撃たれた[36]。 セスナ機の乗客がレイトンを取り押さえ、両機の生存者たちは攻撃中やその後に近くの原野に逃げ込んだ[29]

その日の午後、まだニュースとして事件が公になる前に、ライアンの補佐官であったウィリアム・ホルジンガーの妻は3回の脅迫電話を受けた。電話の相手は「お前の夫に、雇い主(meal ticket)の脳を吹き飛ばした、今後はよく注意することだと伝えろ」と言ったといわれている。これを受けてホルジンガー夫妻はタホ湖、さらにヒューストンへと避難した。

セスナ機は離陸後、無線で襲撃を受けたことを報告し、ジョン・R・バーク米国大使はバーナム首相官邸に向かった[29]。 ガイアナ軍がジャングルを切り抜けてジョーンズタウンに到着できたのは翌朝のことであり、そこでジョーンズを含む住民909人が死んでいるのを発見した。後に連邦下院議会が「集団自殺あるいは殺人の儀式」と表現したものであった[29]

埋葬と追悼

A white-colored tombstone stands in the middle of a cemetery. "Leo J. Ryan Jr" is engraved on it.
ライアンの墓石

ライアンの遺体はアメリカに送られ、カリフォルニア州サンブルーノにあるゴールデンゲート国立墓地英語版に埋葬された。連邦議会でも追悼式が行われ、これは『Leo J. Ryan - Memorial Services - Held In The House Of Representatives & Senate Of The U.S., Together With Remarks.(レオ・J・ライアン -追悼式典- 連邦議会両院、追悼の辞と共に)』という書籍にまとめられた[37]。 ライアンの妹シャノンは、葬儀に多くの支持者が出席したこと、彼らの「本当の、正直な悲しみの発露」の両方に驚いたと語った[38]

死後

  • 1983年、連邦議会は職務中に殺害された唯一の議員[注釈 2]としてライアンに議会名誉黄金勲章を授与することを決定し、レーガン大統領が署名した[41][42]。レーガンはこの授与について「レオ・ライアンが、自身の選挙区の多くの人達が影響を受けたとされるジョーンズタウンでの虐待の噂について個人的に調査に乗り出したことは、彼が有権者のために活動する典型的な例であった」と述べている[41]。ライアンの娘たちであるパトリシアとエレンは、勲章の授与が父の没後5周年に間に合うように奔走した[43]
  • 1984年、カリフォルニア州サンブルーノにある国立公文書館は、ライアンに敬意を表して「レオ・J・ライアン連邦ビル英語版」と命名されることが連邦議会による全会一致と大統領署名により行われた[44]
  • ライアンの補佐官で自身もジョーンズタウンに同行し、負傷したジャッキー・スピアー英語版は、1998年にカリフォルニア州上院議員に当選した。また2008年にはライアンの選挙区であったカリフォルニア州第12選挙区から出馬し、連邦下院議員となった[45]

実行犯に対する裁判

元教団メンバーで『Seductive Poison(蠱惑的な毒)』の著者デボラ・レイトンの弟であるラリー・レイトン(1946年1月11日生まれ)は、1986年にライアン殺害の共謀者として有罪判決を受けた[46]。事件当時、共にカイトゥマに向かうトラックに乗っていた脱退希望者は「彼が脱退者であるわけがない。彼はジョーンズに近すぎる」と話していた[47]。 レイトンはジョーンズタウンの殺人事件に関する犯罪行為に対して、アメリカ国内で裁判にかけられた唯一の教団員であった[48][49]。 彼は4つの異なる殺人に関連する罪で有罪判決を受けた[50]

1987年3月3日にレイトンは「レオ・ライアン下院議員の殺害幇助」「国際法上保護義務のある在ガイアナ大使館副公使リチャード・ドワイヤーに対する殺害計画」および他の関連する罪状で禁固15年の刑を言い渡され、同時に 1987年3月3日、レイトンは、「レオ・ライアン下院議員の殺害を幇助した罪」、「国際的に保護されている人物、ガイアナ共和国の米国代表部次長リチャード・ドワイヤーを殺害する陰謀」、および他の関連する罪状で15年の禁固刑を含む累積で、終身刑の判決が下された[51]。 ただ彼は5年で仮釈放される可能性があった[52]。 1987年6月3日、カリフォルニア州北部地区連邦地方裁判所は「二審で、効果的な弁護士の擁護を受けられなかったことを理由とする」有罪判決を向こうとする申し立てを却下した[52]。 刑務所で18年間過ごした後、レイトンは2002年4月に釈放された[53]

追悼記念式典

A blue sign stands in the middle of a park. "Leo J. Ryan Park" is written on it.
レオ・J・ライアン記念公園英語版の看板。
The entrance of a post office. There are several cars in front of it.
レオ・J・ライアン郵便局ビル

ライアンの没後25年の命日には、カリフォルニア州フォスターシティで彼を偲ぶ特別な追悼式が行われた。ライアンの3人の娘たちやジャッキー・スピアーといった彼の家族や友人たちも参列した。サンフランシスコ・クロニクル紙は、「今日は、何度も何度も人々が彼は有権者の期待を常に上回る偉大な人物だったと語った」と報じた[54]

式典の終わり頃には、ジョーンズタウンで亡くなった者たちの親が立ち、子供たちを救おうとして命を捧げたライアンを称え、感謝した。式典後、騎馬警官が遺族と友人をフォスターシティレオ・J・ライアン記念公園英語版に案内した。ライアンを称える記念碑の横には花輪が置かれた[54]

同年、ライアンの三女でスピアーの補佐官となったエリンがオークランドのエバーグリーン墓地で行われたジョーンズタウンの被害者たちの追悼式に出席した[55]。また、レオ・ライアンの命日には、次女パトリシアとスピアーがゴールデンゲート国立墓地にある彼の墓を訪れている[28]

スピアーは没後30年記念として、カリフォルニア州サンマテオの南エルズワース通り210番地にあるアメリカ合衆国郵便公社施設を「レオ・J・ライアン郵便局ビル」と命名する法案を支援した[56]。これは2008年10月21日に、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュの署名により発行した[57]。同年11月17日の郵便局での献辞式ではスピアーが演説を行い、以下のようにライアンを偲んだ。

彼の死から30年経った今も、その動機や行動の適切さに疑問を持つ者たちがいます。しかし、レオに対する批判はまったく問題がなさそうです。レオ・ライアンは自分の人気取りのために、何かするということはありませんでした。彼は自分が正しいと思うことを成すことに関心があったのです[58]

娘たち

シャノン・ジョー・ライアン(1981年)

長女シャノン・ジョー・ライアン(Shannon Jo Ryan、1952年生まれ)は、ラジニーシ運動(オショウ・コミューン)に加わり、1981年にラジニーシ(Osho)がオレゴンに移住すると、ラジニーシプーラム英語版として知られる共同体に所属した[26][59][60]。1982年12月にマ・アムリタ・プリタム(Ma Amrita Pritam)と名乗り、共同体に住む別のメンバーと結婚した[61]

パトリシア・ライアン(Patricia Ryan、1953年生まれ)は、ワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学行政学の修士号を取得し、2001年から2012年までカリフォルニア州精神保健局長協会(現カリフォルニア州郡行動保健局長協会)の事務局長を務めた。1980年代から全米カルト啓発ネットワーク英語版にボランティアとして関わり、最終的に同ネットワークの理事長を務めた[62][63][自主公表]

エリン・ライアン(Erin Ryan、1958年生まれ)は、カリフォルニア大学ヘイスティングス・ロー・スクールを卒業後、1992年まで中央情報局(CIA)で情報分析官として働く。その後、ニューヨークで8年間、パティシエとして働いた後、2000年に父の補佐官であったジャッキー・スピアー州上院議員の補佐官となった[62]

大衆文化

ライアンはジョーンズタウンの集団自殺(ないし殺人)を扱った映画に登場する。1979年の映画『ガイアナ人民寺院の悲劇英語版』ではジーン・バリー[64]、1980年のテレビ用ミニシリーズ『Guyana Tragedy: The Story of Jim Jones(ガイアナの悲劇:ジム・ジョーンズの物語)』では、ネッド・ビーティが演じた[65]

ライアン暗殺は、『Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple(ジョーンズタウン:人民寺院の生と死)』(2006年)[66]や、ヒステリーチャンネルの『Cults: Dangerous Devotion(カルト:危険な献身)』[67]、『Jonestown: Paradise Lost(ジョーンズタウン:失われた楽園)』[68]などのドキュメンタリー作品で取り上げられ、また2008年にはライアン暗殺と集団自殺から30周年記念として、MSNBCで『Witness to Jonestown(ジョーンズタウンの証言)』が制作された[69]。 2012年にナショナルジオグラフィックチャンネルの『衝撃の瞬間』ではライアンの暗殺を再現した第6シーズンのエピソード「集団自殺とカルト教団集団」を放映した[70]

脚注

注釈

  1. ^ グラーグ(gulag)は、ソ連が運営していた矯正労働収容所のこと。
  2. ^ 下院議員としての職務中に限らないのであれば1868年に暗殺されたジェームズ・M・ハインズ英語版などの例があり[39][40]、上院議員であればヒューイ・ロングロバート・ケネディがいる。

出典

  1. ^ a b c d United States Congress. “RYAN, Leo Joseph, (1925–1978)”. United States Congress. 2007年1月24日閲覧。
  2. ^ Campion Jesuit High School. “Campion Knights”. 2007年1月24日閲覧。
  3. ^ Campion Jesuit High School. “Campion Forever”. 2007年1月24日閲覧。
  4. ^ Campion Jesuit High School. “Campion Knights Notables”. 2006年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年1月24日閲覧。
  5. ^ a b Vassar, Alex (2007年). “Leo J. Ryan, Democratic”. JoinCalifornia.com. 2007年1月25日閲覧。
  6. ^ Michael Newton (April 17, 2014). Famous Assassinations in World History: An Encyclopedia [2 volumes]. ABC-CLIO. pp. 491–492. ISBN 978-1-61069-286-1. https://books.google.com/books?id=F4-dAwAAQBAJ&pg=PA491 
  7. ^ a b c d e Simon, Mark (1998年12月10日). “A Trip Into The Heart Of Darkness: Always larger than life, Leo Ryan courted danger.”. San Francisco Chronicle: p. A17 
  8. ^ Wright, Erik Olin (1973). The Politics of Punishment: A Critical Analysis of Prisons in America. Harper & Row. p. 266. ISBN 9780060903183. https://archive.org/details/politicspunishme00wrig 
  9. ^ a b Haddock, Vicki (2003年11月16日). “Jackie Speier – moving on, moving up; Survivor of Jonestown ambush plans run for lieutenant governor.”. San Francisco Chronicle: p. D1 
  10. ^ Schwartzman, Edward (1989). Political Campaign Craftsmanship: A Professional's Guide to Campaigning for Public Office. Transaction Publishers. p. 209. ISBN 0-88738-742-X 
  11. ^ Gideonse, Hendrik D. (1992). Teacher Education Policy: narratives, stories, and cases. SUNY Press. pp. 49, 50, 65. ISBN 0-7914-1055-2. https://archive.org/details/teachereducation0000unse_v8a4/page/49 
  12. ^ Wenzel, George W. (1991). Animal Rights, Human Rights: Ecology, Economy and Ideology in the Canadian Arctic. University of Toronto Press. p. 48. ISBN 0-8020-6890-1 
  13. ^ Hunter, Robert (1979). Warriors of the Rainbow: A Chronicle of the Greenpeace Movement. Holt, Rinehart and Winston. pp. 439, 441. ISBN 0-03-043741-5 
  14. ^ Ellis, W. Philip; Barry M. Blechman (1992). The Politics of National Security: Congress and U.S. Defense Policy. Oxford University Press. p. 146. ISBN 0-19-507705-9 
  15. ^ Knott, Stephen F. (1996). Secret and Sanctioned: covert operations and the American presidency. Oxford University Press. p. 176. ISBN 0-19-510098-0 
  16. ^ Olmsted, Kathryn S. (1996). Challenging the Secret Government: The Post-Watergate Investigations of the CIA and FBI. UNC Press. p. 45. ISBN 0-8078-4562-0 
  17. ^ Johns Hopkins University. School of Advanced International Studies (1989). SAIS Review. Original from the University of California. p. 112 
  18. ^ Rozell, Mark J. (1994). Executive Privilege: The Dilemma of Secrecy and Democratic Accountability. Johns Hopkins University Press. p. 52. ISBN 0-8018-4900-4. https://archive.org/details/executiveprivile0000roze/page/52 
  19. ^ Hearst, Patricia C.; Alvin Moscow (1980). Every Secret Thing. Doubleday Publishing. pp. 440, 441. ISBN 0-385-17056-4 
  20. ^ a b c Reiterman & Jacobs 1982, pp. 299–300, 457
  21. ^ a b Hall, John R. (1987). Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 0-88738-124-3  p. 227
  22. ^ Reiterman & Jacobs 1982, p. 458
  23. ^ McConnell, Malcolm (1984). Stepping Over: personal encounters with young extremists. Reader's Digest Press. p. 67. ISBN 0-88349-166-4. https://archive.org/details/steppingoverpers00mcco/page/67 
  24. ^ Dawson, Lorne L. (2003). Cults and New Religious Movements: A Reader. Blackwell Publishing. pp. 186, 200, 205. ISBN 1-4051-0181-4. https://archive.org/details/cultsnewreligiou0000unse/page/186 
  25. ^ Rebecca Moore, American as Cherry Pie, 2000, Jonestown Institute, San Diego State University
  26. ^ a b c Chidester, David (2003). Salvation and Suicide: Jim Jones, the Peoples Temple, and Jonestown. Indiana University Press. pp. xvii, 11, 139, 151, 167, 168, 186. ISBN 0-253-21632-X 
  27. ^ Quayle, Dan (1995). Standing Firm: A Vice-Presidential Memoir. HarperCollins. p. 176. ISBN 0-06-109390-4 
  28. ^ a b c d e Zane, Maitland (1998年11月13日). “Surviving the Heart of Darkness: Twenty years later, Jackie Speier remembers how her companions and rum helped her endure the night of the Jonestown massacre.”. San Francisco Chronicle: p. 1 
  29. ^ a b c d e f g United States House of Representatives; Foreign Affairs Committee (15 May 1979). Congressional Foreign Affairs Committee report on Ryan's assassination. Report of a Staff Investigative Group to the Committee on Foreign Affairs. United States Congress.
  30. ^ a b Reiterman & Jacobs 1982, p. 481
  31. ^ Reiterman & Jacobs 1982, p. 482
  32. ^ Reiterman & Jacobs 1982, pp. 482–84
  33. ^ Reiterman & Jacobs 1982, p. 484
  34. ^ Milhorn, H. Thomas (2004). Crime: Computer Viruses to Twin Towers. Universal-Publishers.com. p. 392. ISBN 1-58112-489-9 
  35. ^ Singer, Ph.D., Margaret Thaler; Janja Lalich (1995). Cults in Our Midst: The Hidden Menace in Our Everyday Lives. Jossey Bass. pp. 28, 237 
  36. ^ Snow, Robert L. (2003). Deadly Cults: The Crimes of True Believers. Praeger/Greenwood. pp. 36, 38, 166, 168. ISBN 0-275-98052-9 
  37. ^ Joint Committee On Printing; United States Government Printing (1979). Leo J. Ryan – Memorial Services – Held In The House Of Representatives & Senate Of The U.S., Together With Remarks. Washington, D.C.: United States Congress. p. 89 
  38. ^ Sudol, Karen (2004年11月24日). “Keeping her brother's memory alive : Rep. Ryan's sister won't let people forget him or Jonestown”. Asbury Park Press. "Ryan is the only member of Congress to have been killed in the line of duty and was posthumously recognized in the 1980s with a congressional award presented by then-President Ronald Reagan." 
  39. ^ Other members of the House of Representatives have been killed while in office, although not as assassination attempts; others have been the target of deliberate assassination attempts, albeit without success to date. See List of United States Congress members killed or wounded in office for details.
  40. ^ The Forgotten, Non-Kool-Aid-Drinking Victims of the Jonestown Massacre”. Slate.com (2013年11月18日). 2014年10月1日閲覧。 "Thirty-five years later, Ryan remains the only U.S. representative to be killed in the line of duty."
  41. ^ a b "Statement on Signing the Bill Authorizing a Congressional Gold Medal Honoring the Late Representative Leo J. Ryan" (Press release). Ronald Reagan. 18 November 1983. 2007年1月24日閲覧
  42. ^ Trescott, Jacqueline (1984年11月30日). “Leo Ryan honored (with Medal of Honor)”. The Washington Post: p. v107 pC4 col 5 (10 col in) 
  43. ^ Herald Staff (1983年7月11日). “PEOPLE UPDATE: PAT AND ERIN RYAN”. The Miami Herald: p. 2A 
  44. ^ The Washington Post, November 30, 1984 v107 pC4 col 5 (10 col in), "Leo Ryan honored. (with Medal of Honor)" Jacqueline Trescott.
  45. ^ SFGATE: Voters send Jackie Speier to Washington
  46. ^ “Ex-Cult Member Convicted In Death of Rep. Leo Ryan : '78 Shooting Led to Jonestown Mass Suicide”. The Washington Post. Associated Press: p. A5. (1986年12月2日) 
  47. ^ Reiterman & Jacobs 1982, p. 520
  48. ^ Drew, Bettina (1999年2月1日). “Indiana Jones's Temple of Doom”. The Nation 
  49. ^ “LAYTON CONVICTED FOR ROLE IN 1978 JONESTOWN KILLING”. Boston Globe. Associated Press. (1986年12月2日) 
  50. ^ Staff (1986年12月2日). “LAYTON GUILTY IN GUYANA SHOOTINGS”. Sacramento Bee: p. A1 
  51. ^ Bassiouni, M. Cherif (1998). Legal Responses to International Terrorism: U.S. procedural aspects. Martinus Nijhoff Publishers. pp. 169, 170. ISBN 0-89838-931-3 
  52. ^ a b United States of America v. Laurence John LAYTON, 666 F.Supp. 1369, No. CR-80-416 RFP. U.S. (United States District Court, N.D. California. June 3, 1987).
  53. ^ Larry Layton released
  54. ^ a b Bay City News Report (2003年11月18日). “Tribute to congressman Leo Ryan held in Foster City.”. San Francisco Chronicle. http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/gate/archive/2003/11/18/ryan18.DTL 2007年1月24日閲覧。 
  55. ^ Delevett, Peter (2003年11月15日). “Two children remember fathers' legacies 25 years after Jonestown.”. San Jose Mercury News 
  56. ^ Govtrack.us. “H.R. 6982: To designate the facility of the United States Postal Service located at 210 South ...”. 2008年11月18日閲覧。
  57. ^ The White House. “President Bush Signs H.R. 3511, H.R. 4010, H.R. 4131, H.R. 6558, H.R. 6681, H.R. 6834, H.R. 6847, H.R. 6902, and H.R. 6982 Into Law”. 2008年11月18日閲覧。
  58. ^ Congresswoman Jackie Speier. “Leo J. Ryan Post Office Dedication”. 2008年11月18日閲覧。
  59. ^ Endicott, William (1981年1月12日). “Leo Ryan's Daughter Joins Cult : Shannon Jo Ryan Follows Religious Guru”. The Washington Post: p. C1 
  60. ^ Staff. (1982年12月22日). “Leo Ryan's Daughter Weds Guru Disciple”. The Washington Post: p. D12 
  61. ^ “Dad 'would understand' why she lives with cult group.”. The Chronicle-Telegram, Elyria, Ohio. Associated Press: p. A6. (1984年11月20日) 
  62. ^ a b Dearen, Jason (2003年11月18日). “Erin Ryan wants father to be appreciated”. Oakland Tribune. http://www.culteducation.com/group/1005-jonestown/10892-erin-ryan-wants-father-to-be-appreciated.html 
  63. ^ Tuman, Myron C. (2002). A Guide to Deep Thinking in a Shallow Age. Xlibris Corporation. p. 82. ISBN 1-4010-5229-0 Template:Self-published source
  64. ^ René Cardona Jr. (1979). Guyana: Crime of the Century (Film). Universal Pictures.
  65. ^ William A. Graham (1980). Guyana Tragedy: The Story of Jim Jones (Film). CBS Television.
  66. ^ Stanley Nelson (20 October 2006). Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple (Documentary). Firelight Media.
  67. ^ The History Channel (2006). Decoding the Past: Cults: Dangerous Devotion: Scholars and survivors discuss the mystery of cults (Documentary). A&E Television Networks.
  68. ^ The History Channel (2006). Jonestown Paradise Lost: Congressman Leo Ryan's fatal journey into "Jonestown," a community carved out of the jungles of Guyana by followers of pastor Jim Jones (Documentary). A&E Television Networks.
  69. ^ MSNBC (2008). Witness to Jonestown (Documentary). NBC.
  70. ^ Seconds From Disaster: Series 6”. National Geographic Australia (2012年). 2018年2月22日閲覧。

関連項目

外部リンク

先代
グレン・E・クーリッジ
カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州下院議員
1963年1月7日 - 1973年1月3日
次代
ルー・パパン
先代
ポール・N・マックロスキー・ジュニア英語版
カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州連邦下院議員
1973年1月3日 - 1978年11月18日
次代
ウィリアム・H・ホイヤー英語版