「マリ帝国」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
記事が改善されたのに、いつまでも放置されているタグの除去。ついでに、強調の追加、など。
(5人の利用者による、間の23版が非表示)
1行目: 1行目:
[[File:Mosqueetombou 01.JPG|thumb|14世紀に建てられた{{ill2|ジンガレイベル・モスク|fr|Mosquée Djingareyber}}([[トンブクトゥ]])の[[ミナレット]]。マリ帝国においては同モスクのような{{ill2|スーダーン様式|fr|Architecture soudanaise}}と呼ばれる建築様式が発展した<ref name="EAAH73-74" />。]]
{{出典の明記|date=2014年9月4日 (木) 04:29 (UTC)}}
{{参照方法|date=2014年9月4日 (木) 04:29 (UTC)}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = マリ
|日本語国名 = マリ帝国
|公式国名 =
|建国時期 = [[1230年代]]
|亡国時期 = [[1645年]]
|先代1 = ガーナ帝国
|先旗1 =
|先代2 =
|先旗2 =
|先代3 =
|先旗3 =
|先代4 =
|先旗4 =
|先代5 =
|先旗5 =
|次代1 = :en:Bamana Empire
|次旗1 =
|次代2 = ソンガイ帝国
|次旗2 =
|次代3 = ジョロフ王国
|次旗3 =
|次代4 = :en:Kaabu
|次旗4 =
|次代5 = :en:Empire of Great Fulo
|次旗5 =
|国旗画像 =
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
|国旗説明 =
|国旗幅 = <!--初期値125px-->
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない-->
|国章画像 = <!--画像ファイル名を入力-->
|国章リンク =
|国章説明 =
|国章幅 = <!--初期値85px-->
|標語 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 = MALI empire map.PNG
|位置画像説明 = 全盛期のマリ帝国の版図(1350年頃)
|公用語 = [[マンディンカ語]]
|首都 = [[ニアニ]]、後に{{仮リンク|カンガバ|en|Kangaba}}
|元首等肩書 = 皇帝
|元首等年代始1 =
|元首等年代終1 =
|元首等氏名1 =
|元首等年代始2 =
|元首等年代終2 =
|元首等氏名2 =
|元首等年代始3 =
|元首等年代終3 =
|元首等氏名3 =
|元首等年代始4 =
|元首等年代終4 =
|元首等氏名4 =
|元首等年代始5 =
|元首等年代終5 =
|元首等氏名5 =
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|首相等年代始2 =
|首相等年代終2 =
|首相等氏名2 =
|首相等年代始3 =
|首相等年代終3 =
|首相等氏名3 =
|首相等年代始4 =
|首相等年代終4 =
|首相等氏名4 =
|首相等年代始5 =
|首相等年代終5 =
|首相等氏名5 =
|面積測定時期1 = 1380年頃
|面積値1 = 1,100,000
|面積測定時期2 =
|面積値2 =
|面積測定時期3 =
|面積値3 =
|面積測定時期4 =
|面積値4 =
|面積測定時期5 =
|面積値5 =
|人口測定時期1 =1450年頃
|人口値1 =45,000,000
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|人口測定時期3 =
|人口値3 =
|人口測定時期4 =
|人口値4 =
|人口測定時期5 =
|人口値5 =
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = 1230年代
|変遷2 = ニアニからガンガバへの遷都
|変遷年月日2 = 1559年
|変遷3 = 滅亡
|変遷年月日3 = 1645年
|変遷4 =
|変遷年月日4 =
|変遷5 =
|変遷年月日5 =
|通貨 = [[金|砂金]]([[塩]]、[[銅]]、[[タカラガイ]]などもまた通貨として用いられた)
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 = <div class="references-small"><references/></div>
}}
'''マリ帝国'''(まりていこく、[[1230年代]] - [[1645年]])は、現在の[[マリ共和国]]周辺の領域で栄えた[[マンディンカ族]]の王国。歴代の王は早くから[[イスラム教]]を受け入れていたとされる。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない<ref name="akasaka1987" />。首都の所在地として有力な説は、[[ニジェール川]]最上流部、現[[ギニア]]領になる[[ニアニ]]である<ref name="Niane1992" />。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[人類の口承及び無形遺産の傑作]]{{enlink|Masterpieces of the Oral and Intangible Heritage of Humanity|en}}になっている[[マンデン憲章]]{{enlink|Kouroukan Fouga|Charte du Manden}}が憲法として定められていた。


'''マリ帝国'''([[1230年代]] - [[1645年]])又は'''マリ王国'''は、中世[[西アフリカ]]の[[サヘル]]地帯に栄えた王国の1つである<ref name="EAAH66-68" />。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくとも{{ill2|マンデ人|en|Mandé peoples}}だと考えられている。現代の[[マンディンカ族|マンディンカ人]]はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない<ref name="heibon_islam_1982">{{cite book|和書|title=イスラム事典|publisher=平凡社|date=1982-04-10|isbn=4-582-12601-4|ref=平凡社1982}}、「マリ帝国」の項(執筆者:[[川田順造]])。</ref><ref name="akasaka1987" />。13世紀中ごろに英雄[[スンジャタ・ケイタ]]が現れ、支配域の帝国的膨張を見た<ref name="heibon_islam_1982" />。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろに[[マンサ・ムーサ]]王が派手な[[メッカ巡礼]]を行うなど王国は最盛期を迎えた<ref name="heibon_islam_1982" />。イスラームとマリとの関係について、マリが「[[イスラーム国家]]」であったか否か、いつごろからどのような人々が[[イスラーム]]を受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在の[[マリ共和国]]の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた{{ill2|クルカン・フガ|en|Kouroukan Fouga|label=憲章}}が世代を超えて受け継がれ、2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が「[[人類の口承及び無形遺産の傑作]]」宣言をした。
== 歴史 ==
マリ帝国の歴史を知るために利用できる史料としては、アラブ人やベルベル人の著作家や旅行者が書いた文献資料のほかに、「[[グリオ]]」と呼ばれる民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える吟遊詩人による口頭伝承が、口承資料として利用できる<ref name="Niane1992" />。口承資料はマリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる<ref name="Niane1992" />。


== 研究史 ==
それまで西部[[サヘル]]地方を支配していた[[ガーナ王国]]が[[1076年]]に[[ムラービト朝]]によって首都クンビ=サレーを落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中で{{仮リンク|スースー人|en|Susu people|label=スースー族}}の{{仮リンク|スースー王国|en|Sosso Empire}}が勢力を伸ばし、ニジェール川上流のマンディンゴ族をも支配下に置いていた。
[[歴史学]]は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者[[ヘーゲル]]は『[[歴史哲学講義]]』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた<ref name="camara2005">{{cite journal|title=The Falsity of Hegel's Theses on Africa |first=Babacar |last=Camara |journal=Journal of Black Studies |volume=36 |number=1 |date=2005-09 |pages=82-96 |publisher=Sage Publications, Inc. |URL=http://www.jstor.org/stable/40027323 |accessdate=2018-04-26}}</ref>。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった<ref name="camara2005" />。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた<ref name="camara2005" />。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者は[[モリス・ドゥラフォス]]や[[シャルル・モンテイユ]]など、[[フランス植民地帝国|植民地経営]]のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年に[[イブン・ハルドゥーン]]の『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む<ref name="Levtzion1963" />。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「[[アブバカリ2世]]」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である<ref name="Levtzion1963" />{{rp|345 ff.}}。

[[File:Genealogy kings Mali Empire.svg|thumbnail|upright=1.5|[[イブン・ハルドゥーン]]が示したスンジャタ以後13, 14世紀の王統図(Levtzion (1963) の検証による)<ref name="Levtzion1963" />]]
そんな中、王国の創始者で、伝説的英雄[[スンジャータ・ケイタ]]{{enlink|Sundiata Keita}}は、[[マンディンゴ族]]系の[[マリンケ族]]を統一し、[[1235年]]には{{仮リンク|キリナの戦い|en|Battle of Kirina|label=}}においてスースー王国との戦いに勝利してこの地域の覇権を握った。
*Sundiata Keita([[スンジャタ・ケイタ]]) (1240-1255)
[[ファイル:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|300px|thumb|13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路]]
[[ファイル:Mansamusa.jpg|thumb|300px|[[マンサ・ムーサ]]帝]]
[[ファイル:WestAfrica1625.png|thumb|300px|1625年のマリ帝国と西アフリカ]]
その後、[[サハラ砂漠]]を越えて北アフリカと[[岩塩]]・[[布地]]・[[奴隷]]、そして[[金]]の[[交易]]を行い、[[14世紀]]には西は[[大西洋]]岸まで、東は[[トンブクトゥ]]・[[ガオ (都市)|ガオ]]まで、南は{{仮リンク|ブレ地方|fr|Bouré (région)|label=ブレ}}・{{仮リンク|バンブク|fr|Bambouk|label=}}にある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。14世紀には王の[[マンサ・ムーサ]](マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、{{仮リンク|マンサ・スレイマン|en|Suleyman (mansa)}}(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。当時マリを訪れたアラビア人の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。
なお、マンサ・ムーサは、[[1324年]]に[[ムスリム]](イスラム教徒)として数千人もの従者を引き連れて[[メッカ]]へ[[巡礼]]し(皇帝マンサ・ムーサのメッカ巡礼)、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたために、[[カイロ]]の金の相場が下落したという逸話がある。王はマリに戻ると、イスラム教と[[イスラム文化]]を進んで住民に広めている。

しかし、14世紀の後半からは聡明でない王が続き、そのため従属していた国々が相次いで離反した。また同じ頃、南方の[[モシ族]]・北方の[[トゥアレグ族]]が攻めてきたために大損害を受け、帝国は衰退していった。その後も[[ソンガイ帝国]]庇護のもと地方小国家として続いていたが、[[1645年]]に滅亡した。

== 制度 ==
王国の経済基盤は、[[ニジェール川]]流域の肥沃な土地から取れる[[モロコシ]]・[[米]]と、周辺のサバンナでの[[牧畜]]を中心とした農牧国家だったとされる一方で、交易地を多く持っていたため交易への課税にも拠っていた。とはいえ、諸王の権力と富を最も増大させたのは南部の金鉱からとれる金交易によるものであった。

帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある<ref name="akasaka1987" />。

== 宗教 ==
[[ファイル:Great Mosque of Djenné 1.jpg|thumb|220px|[[ジェンネ]]の大[[モスク]]]]
[[イスラーム教]]を受容したが、[[祖先信仰]]などの土着信仰も残っていた。帝国内のイスラーム神学者は[[マグリブ]]出身の[[アラブ人]]や[[ベルベル人]]が多く、領域内から独自に育った神学者は少なかった。

== マリ帝国のマンサ(王)の一覧 ==
マンサの系譜については不明な点が多い<ref name="akasaka1987" />。

*Sundiata Keita ([[スンジャータ・ケイタ]])(1240-1255)
*Wali Keita (1255-1270)
*Wali Keita (1255-1270)
*Ouati Keita (1270-1274)
*Ouati Keita (1270-1274)
151行目: 14行目:
*Gao (1300-1305)
*Gao (1300-1305)
*Mohammed ibn Gao (1305-1310)
*Mohammed ibn Gao (1305-1310)
*Abubakari II ([[アブバカリ2世]])(1310-1312)
*Abubakari II (1310-1312)
*Kankan Musa I([[マンサ・ムーサ]]) (1312-1337)
*Kankan Musa I ([[マンサ・ムーサ]])(1312-1337)
*Maghan (1337-1341)
*Maghan (1337-1341)
*Suleyman ({{仮リンク|マンサ・スレイマン|en|Suleyman (mansa)}})(1341-1360)
*Suleyman (1341-1360)
*Kassa (1360)
*Kassa (1360)
*Mari Diata II (1360-1374)
*Mari Diata II (1360-1374)
167行目: 30行目:
*Mahmud III (1496-1559)
*Mahmud III (1496-1559)
*Mahmud IV (1590年代-1600年代)
*Mahmud IV (1590年代-1600年代)

例えば{{ill2|バジル・デヴィッドソン|en|Basil Davidson}}や{{ill2|レモン・モニ|fr|Raymond Mauny}}といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、[[植民地主義]]に立脚した[[帝国主義]]国家に崩壊をもたらした[[第二次世界大戦]]の後からである。「[[アフリカの年]]」1960年に始まったユネスコの記念事業、『{{ill2|ユネスコ・アフリカの歴史|fr|Histoire générale de l'Afrique}}』(l’''Histoire générale de l'Afrique'')の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。

== 史資料論 ==
[[サハラ以南のアフリカ]]の諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる[[史料]]は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない<ref name="Niane1992" />。

最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である<ref name="Niane1992" />。まず、[[アブー・ウバイド・バクリー]](1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している<ref name="Levtzion1981" />{{rp|82-83}}<ref>Cuoq, J, ''Recueil des sources arabes concernant l'Afrique occidentale du VIIIe au XVIe siècle'', Paris, Centre national de la recherche scientifique, 1975, 490 p (Pour toutes les sources arabes consulter ce même ouvrage).</ref>。[[イドリースィー]]は12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している<ref name="Levtzion1981" />{{rp|103}}。

最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した<ref name="Niane1992" />。また、マリ人も[[ハッジ|巡礼]]等の目的で北アフリカや[[ヒジャーズ地方]]を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている<ref name="Niane1992" />。このようなアラビア語文献としては、{{仮リンク|イブン・ファドルッラー・ウマリー|en|Chihab_al-Umari}}、[[イブン・バットゥータ]]、[[イブン・ハルドゥーン]]、[[マクリーズィー]]らが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13~15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる<ref name="Niane1992" /><ref name="Levtzion1963" /><ref name="akasaka2010" />。[[イブン・バットゥータ]](1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月まで[[サヘル|サーヘル地帯]]を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある<ref> voir les articles de Meillassoux, Delafosse, et Hunwick signalés dans l'historiographie</ref>。[[イブン・ハルドゥーン]](1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。

マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている<ref name="Niane1992" />。{{ill2|アブドゥッラフマーン・サアーディー|fr|Abderrahmane Es Saâdi}}が書いた16世紀の『{{ill2|ターリーフ・スーダーン|fr|Tarikh es-Soudan}}』と{{ill2|マフムード・カアティ|fr|Mahmud Kati}}が書いた17世紀の『{{ill2|ターリーフ・ファッターシュ|fr|Tarikh el-fettach}}』が利用できる。ただし、どちらも[[ソンガイ帝国]]の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。

さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「[[グリオ]]」と呼ばれる吟遊詩人による[[口承|口承伝統]]({{lang|en|oral tradition}})が存在する点が特徴である<ref name="Niane1992" />。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる<ref name="Niane1992" />。

さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている<ref name="takezawa2014" />。

== 首都探し ==
{{see also|ニアニ|カンガバ}}
[[File:Senegal River according to al-Bakri.jpg|thumb|バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。]]
[[File:Senegal River according to al-Idrisi.jpg|thumb|イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。]]
欧米諸語で国号として認識されている "Mali"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が "{{rtl-lang|ar|مالّي}}" と記載されていることに基づく<ref group="前近代の文献" name="b.battuta" />。その200年前に書かれたバクリーの『{{ill2|諸道と諸国の書 (バクリー)|en|Book of Roads and Kingdoms (al-Bakrī)|label=諸道と諸国の書}}』にも[[ガーナ王国|ガーナ]]のみやこの近くに "{{rtl-lang|ar|ملل}}"({{ill2|ウィリアム・マグキン・ド・スラーヌ|en|William McGuckin de Slane|label=ド・スラーヌ}}は "{{transl|ar|Melil}}" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。

=== 初期の仮説 (1841-1912) ===
近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、[[大英帝国]]の地理学者{{ill2|ウィリアム・デズボラ・クーリー|en|William Desborough Cooley}}である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した<ref>William Cooley, The Negroland of the Arabs, London, Frank Casse and Co, 1966 (2e édition) (1re édition 1841), 143 p</ref>。[[ハインリヒ・バルト]]は、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚の{{ill2|ルイ=ギュスターヴ・バンジェ|fr|Louis-Gustave Binger}}は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。

これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった<ref>C'est-à-dire toutes les études parues après cette première hypothèse, voire les références dans la bibliographie</ref>。初めてこれらの説に理由付けを与えたのが[[モリス・ドゥラフォス]]である。ドゥラフォスは ''Haut-Sénégal-Niger'' (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。

=== 「ニアニこそがマリの首都である」 (1923-1958) ===
この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、{{ill2|サンカラニ川|en|Sankarani}}のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた<ref>J. Vidal, « Le véritable emplacement de Mali », Bulletin du comité d'Études historiques et scientifiques de l'AOF, octobre-décembre 1923, no 4, p. 606-619.</ref><ref>M. Gaillard, « Niani ancienne capitale de l'Empire mandingue », Bulletin du comité d'études historiques et scientifiques de l'Afrique Occidentale Française, Tome VIII, 1923, p. 620-636.</ref>。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。

=== ニアニにおける考古学的調査 (1965-1973) ===
ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。{{ill2|ヴワディスワフ・フィリポヴィアク|pl|Władysław Filipowiak}}教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちは[[ジブリル・タムシル・ニアヌ|D. T. ニアヌ]]の協力も得、{{ill2|レモン・モニ|fr|Raymond Mauny}}{{efn|中世スーダーン史の専門家、ソルボンヌ大学教授}}から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。''Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali'' と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。

ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った[[放射性炭素年代測定]]法に関する記述に矛盾があることを指摘した<ref>Hirsch, Fauvelle-Aymar, « La correspondance entre Raymond Mauny et Wladislaw Filipowiak au sujet de la fouille de Niani (Guinée), capitale supposée de l'empire médiéval du Mali », in ''Mélange offert à [[Jean Boulègue]]'', 2009 à paraître</ref>。

=== 「ニアニ遺跡=首都」説の検証をめぐって・新しい仮説 ===
全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した<ref>On peut citer notamment Conrad et Green, voir les références pour leurs articles dans la bibliographie</ref>。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。

==歴史==
=== 建国 ===
[[ファイル:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|thumb|upright=1.5|14世紀半ば、最盛期のマリが支配権を及ぼした領域と[[サハラ交易|サハラ交易路]]。]]
[[Image:Palolus river (Senegal-Niger) in 1413 Mecia de Viladestes map.jpg|thumb|400px|right|15世紀のセネガル川河口から上流を示す図、金の川と記される。]]
それまで西部[[サヘル]]地方を支配していた[[ガーナ王国]]が[[1076年]]に[[ムラービト朝]]によって首都{{ill2|クンビー・サーリフ|en|Koumbi-Saleh}}を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中で{{仮リンク|ソソ人|en|Susu people}}の{{仮リンク|ソソ王国|en|Sosso Empire}}が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流の{{ill2|マンデ人|en|Mandé people}}をも支配下に置いていた。

この状況下で、伝説的英雄[[スンジャタ・ケイタ]]が現れ、マンデの各クランを糾合した<ref name="EAAH66-68" />。スンジャタは1235年に{{仮リンク|キリナの戦い|en|Battle of Kirina}}でソソの王[[スマングル・カンテ|スマングル]]をやぶり、さらにその後、[[セネガル川]]流域の地方にまで勢力を伸ばした<ref name="EAAH66-68" />。

=== 最盛期 ===
その後、[[14世紀]]には西は[[大西洋]]岸まで、東は[[トンブクトゥ]]・[[ガオ (都市)|ガオ]]まで、南は{{仮リンク|ブレ地方|fr|Bouré (région)|label=ブレ}}・{{仮リンク|バンブク|fr|Bambouk|label=}}にある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。

14世紀には王の[[マンサ・ムーサ]](マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、{{仮リンク|マンサ・スレイマン|en|Suleyman (mansa)}}(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、1324年に[[ムスリム]]として数千人もの従者を引き連れて[[メッカ]]へ[[巡礼]]し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによると[[カイロ]]の金の価値が長期にわたって下落した<ref>{{cite book|url={{google books|F_DfBgAAQBAJ|An Economic History of West Africa|page=47|plainurl=yes}}|title=An Economic History of West Africa|author=A. G. Hopkins|publisher=Routledge |date=2014-09-19|isbn=9781317868941}} p.47</ref>。王はマリに戻ると、イスラム教と[[イスラム文化]]を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。

マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。[[1352年]]にマリを訪れたベルベル人の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している<ref group="前近代の文献" name="b.battuta" />。

=== 覇権の喪失と領土の西遷 ===
[[File:WestAfrica1530.png|thumb|1530年ごろのマリ領土]]
しかし、[[1387年]]にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのため[[ソンガイ王国]]などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方の[[モシ族]]や北方の[[トゥアレグ族]]の侵攻が激化し、[[1433年]]にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p256 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であった[[ニジェール川内陸デルタ]]を失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯は保持し続け、さらに大西洋に面した[[ガンビア川]]流域なども依然として保持していた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p257 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。[[1468年]]にはソンガイ王国の[[スンニ・アリ]]がトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p268 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。

=== 滅亡 ===
[[File:WestAfrica1625.png|thumb|1625年ごろのマリ領土]]
[[1591年]]に[[モロッコ]]の[[サアド朝]]の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は[[1599年]]にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p269 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。その後マリは地方小国家として細々と存続し、[[18世紀]]に滅亡した<ref>「マリを知るための58章」内収録「マリ帝国)」p60 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。

== 制度 ==
=== 交易 ===
[[File:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Western Sahara.jpg|thumb|upright=1.5|1375年に[[マヨルカ島]]で製作された『{{ill2|カタルーニャ地図|ca|Atles Català}}』には、[[ベルベル人]]が[[ラクダ]]に乗って、[[サハラ]]を越えたところにあるマリの黒人王のところへ交易に向かう様子が描かれている。]]

西アフリカ内陸部に広域帝国が成立したのはそもそも[[サハラ交易]]の利益によるものであり、最初の広域帝国であるガーナ王国の覇権を引き継いだマリも同じくサハラ交易を主な経済基盤とする国家であったが、その交易の様相はガーナ時代とは幾分異なったものとなっていた。

マリはサハラ砂漠の中央部にある{{仮リンク|タガザ岩塩鉱山|en|Taghaza}}にまで交易圏を広げたため、それまで[[塩]]の交易を握っていたベルベル人からその主導権を奪い<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p50 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>、塩金交易は北アフリカのベルベル人とサヘル地帯との間のものではなく、[[サヘル]]地帯を制したマリとその南にある産金地帯との間で行われるようになった。またマリの領土内においても金は産出されており、これらの多量の金はマリ帝国の主力商品として北アフリカへと輸出され、マンサ・ムーサ王の逸話に代表されるようなマリの繁栄を支えた。

またマリ帝国治下においては、同じくサハラの北からもたらされる主要商品であった銅鉱石の輸入が停止し、逆に[[銅]]を北アフリカへと輸出するようになった<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p51 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。これはマリ領内またはその交易圏において銅鉱山が開発され、さらにマリ国内において精錬まで行われるようになったことを示している。この時期、ガオの東に位置する[[タケッダ]]は銅生産の中心地となっていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。またこの時期、ガーナ時代にはほぼ存在しなかった[[綿]]がマリ国内に普及し、織物の生産が盛んとなった<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p53 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。こうしてマリは銅や綿を自給できるようになったものの、それを加工した銅製品や衣服・織物については輸入が続いており、むしろこの時期には北アフリカからの主力の輸出品となっていた。このほか、[[馬]]や[[タカラガイ]]なども北アフリカから主に輸入されていた<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p63-64 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。

一方、マリは南方の森林地帯とも活発に交易を行っていた。マリからの輸出品は塩や銅、綿布が中心であり、南方からは金のほか、[[コーラ (植物)|コーラの実]]が主に輸入された<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p240-241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。

また、サハラ交易のメインルートも以前に比べて変化していた。ガーナ王国期にはモロッコからアウダゴストを通ってサヘルへと向かうサハラ西側ルートが主流であったのに対し、マリ帝国期にはトンブクトゥから中央サハラを通って北アフリカへと向かうルートが主流となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中流域の交易都市の繁栄を生んだ<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p192</ref>。

=== 経済 ===
上記のような盛んな交易がおこなわれた一方で、国民の多くは[[農業]]に従事していた。国内では主に[[ソルガム]]や[[トウジンビエ]]、[[フォニオ]]といった[[雑穀]]や[[稲]]が主に栽培され、食料は豊富に供給されていた。ニジェール川ではボゾ人やソモノ人などの漁業民族が内陸デルタを中心に、盛んに漁業を行っていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p234-235 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。

こうして経済が成長する一方で、[[貨幣]]の鋳造は行われなかった。金が大量に輸出されたのも、マリ国内においては装飾品以外の用途がなく、本来国内で貨幣として流通する分の金も輸出用に回されていたためでもある。[[通貨]]としては布地、[[タカラガイ]]、塩などが用いられた<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p60 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。

こうした交易の活況によって、マリ帝国内に存在する[[ジェンネ]]・[[トンブクトゥ]]・[[ガオ]]といった都市もまた繁栄した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠を越えてきた[[キャラバン]]が商品を積み下ろして川船へと乗せ換え、[[ニジェール内陸デルタ]]の中央部に位置するジェンネまで運ばれた。ジェンネには南の森林地帯から積み出された金などもやはり船に乗せられて運ばれてきており、交易拠点として繁栄した<ref>「マリを知るための58章」内収録「ジェンネ」p140 伊東未来 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。トンブクトゥはこの時期からソンガイ王国期にかけて最盛期を迎えた。メッカ巡礼帰路のマンサ・ムーサによって[[1324年]]にジンガリベリ・モスクが建設され<ref>http://www.afpbb.com/articles/-/2887349 「伝説の黄金都市トンブクトゥ、破壊の危機にある世界遺産」AFPBB 2012年7月2日 2018年6月22日閲覧</ref>、同時期にサンコーレ・モスクが建設されることで、トンブクトゥは学問の都としても名声を高めていった<ref>「マリを知るための58章」内収録「トンブクトゥ」p145 坂井信三 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。ガオは交易の要衝として7世紀ごろから独立王国が存在していたが、13世紀ごろにマリに服属した<ref>「マリを知るための58章」内収録「ガオ王国(ソンガイ王国・ガオ帝国)」p64 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。しかし国内の混乱から一時期サハラ交易を断念していたエジプトが14世紀半ばからサハラ交易を復活させると、交易ルートの東漸が起こり<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p66 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>、ニジェール川交易の東端にあたるガオが繁栄して、14世紀末には再独立を果たし、やがてマリに代わり西アフリカ内陸部の覇権を握るようになった。

帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある<ref name="EAAH66-68" /><ref name="akasaka1987" />。

== 宗教 ==
[[ファイル:Great Mosque of Djenné 1.jpg|thumb|[[ジェンネ]]の[[泥のモスク]]。登録世界遺産。ただし写真の建築はフランスの植民地統治が良好であることをアピールするため1907年に建てられたものである<ref name="naitou2013" />。]]
マリは[[イスラーム教]]を受容したが、[[祖先信仰]]などの土着信仰も残っていた<ref name="EAAH66-68" />。イスラームの受容がいつごろから、どのように広まっていったのかについては議論がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考えているが、異論もある。赤阪賢は「14世紀にはイスラーム国家の外見を整えた」という表現をしている。1325年のマンサ・ムーサの巡礼の際、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁した現地のウラマーは、ムーサが[[マーリク派]]の儀礼をよく知っていたと証言している。ムーサをはじめとした最盛期のマリのマンサは、帝国内の安寧と社会の秩序を保ち、[[マドラサ]]を各所に建てた<ref name="ishikawakohama2018" />。マリのマドラサには、[[マグリブ]]や[[アンダルス]]からイスラーム学徒が多く集まり「知」のセンターになった<ref name="ishikawakohama2018" />。また、マリのマドラサからも[[ウラマー]]が多く育った<ref name="ishikawakohama2018">{{cite book|title=「未解」のアフリカ|last=石川|first=薫|last2=小浜|first2=裕久|publisher=勁草書房|date=2018-01|isbn=978-4-326-24847-6}} pp66-71</ref>。

イスラームがこの地で受容されていくに従い、マリから[[メッカ]]への巡礼者も増加していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼は非常に著名であるが、彼以前の王も、また彼以後の王も、メッカへの巡礼は行っていた。この王による巡礼は、サハラ越え交易ルートの開発という目的も持っていた<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p192</ref>。

==注釈==
{{notelist}}

==古い文献からの出典==
{{reflist|group="前近代の文献"|refs=
<ref name="b.battuta">[[イブン・バットゥータ]]の『[[リフラ]]』よりビラード・スーダーンへの旅を記載した章。例えば、以下のような翻訳がある。
*[http://www.fordham.edu/halsall/source/1354-ibnbattuta.html Ibn Battuta: Travels in Asia and Africa 1325–1354] [[ハミルトン・ギブ|H. A. R. ギブ]]の英語翻訳(1929年)。
*{{cite book |和書|author=[[イブン・バットゥータ]]|title=[[三大陸周遊記]]抄|series=[[中公文庫]]|translator=[[前嶋信次]]|publisher=[[中央公論新社]]|date=2004-03-25|isbn=412204345X|ref=harv}}</ref>
}}


==出典==
==出典==
{{reflist|refs=
{{reflist|2|refs=
<ref name="Niane1992">{{cite journal |和書|title=第6章マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張|journal=一二世紀から一六世紀までのアフリカ|author=D.T.ニアヌ|authorlink=ジブリル・タムシル・ニアヌ|editor=D.T.ニアヌ|series=ユネスコ「アフリカの歴史」日本語版|translator=元木淳子|date=1992-09-20|publisher=[[同朋舎出版]]|ISBN=4-8104-1096-X|pages=188-193}}</ref>
<ref name="Niane1992">{{cite journal |和書|title=第6章マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張|journal=一二世紀から一六世紀までのアフリカ|author=D.T.ニアヌ|authorlink=ジブリル・タムシル・ニアヌ|editor=D.T.ニアヌ|series=ユネスコ「アフリカの歴史」日本語版|translator=元木淳子|date=1992-09-20|publisher=[[同朋舎出版]]|ISBN=4-8104-1096-X|pages=188-193}}</ref>
<ref name="akasaka1987">{{cite journal |和書|title=マンデ、王国形成の先駆者たち|author=[[赤阪賢]]|editor=[[川田順造]]|journal=民族の世界史12(黒人アフリカの歴史世界)|date=1987-02-28|publisher=[[山川出版社]]|ISBN=4-634-44120-9|ref=harv}}</ref>
<ref name="akasaka1987">{{cite journal |和書|title=マンデ、王国形成の先駆者たち|author=[[赤阪賢]]|editor=[[川田順造]]|journal=民族の世界史12(黒人アフリカの歴史世界)|date=1987-02-28|publisher=[[山川出版社]]|ISBN=4-634-44120-9|ref=harv}}</ref>
<ref name="akasaka2010">{{cite book |和書|date=2010-02|author=[[福井勝義]]|author2=[[大塚和夫]]|author3=[[赤阪賢]]|title=世界の歴史24(アフリカの民族と社会)|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|ISBN=978-4122052895|ref=harv}}(主に第二章、執筆担当:赤阪賢)</ref>
<ref name="Levtzion1963">{{cite journal | last=Levtzion | first=N. | year=1963 | title=The thirteenth- and fourteenth-century kings of Mali | journal=Journal of African History | volume=4 | issue=3 | pages=341–353 | jstor=180027 | doi=10.1017/S002185370000428X | ref=harv }}</ref>
<ref name="Levtzion1981">{{cite book | editor1-last=Levtzion | editor1-first=Nehemia | editor2-last=Hopkins | editor2-first=John F.P. |title=Corpus of Early Arabic Sources for West Africa | publisher=Marcus Weiner Press | place=New York | year=2000 | isbn=1-55876-241-8}} First published in 1981 by Cambridge University Press, {{ISBN|0-521-22422-5}}</ref>
<ref name="naitou2013">{{cite book |和書|title=マリ近現代史|author=[[内藤陽介]]|date=2013-05-05|publisher=[[彩流社]]|ISBN=978-4-7791-1888-3|ref=harv}} pp.11-15</ref>
<ref name="EAAH73-74">{{cite encyclopedia|last=Terdiman|first=Moshe|editor=Alexander, Leslie|title=Mansa Musa|encyclopedia=Encyclopedia of African American History|date=2010|publisher=ABC-CLIO|isbn=1851097694|pages=73–74|edition=American Ethnic Experience|url= https://books.google.com/books?id=Uhh7GggNxQoC&pg=PA73&dq=mali+musa+maghrib&hl=id&sa=X&ved=0CD4Q6AEwBWoVChMIpMCFzZb0yAIVQZ-UCh0GrQWg#v=onepage&q=mali%20musa%20maghrib&f=false}}</ref>
<ref name="EAAH66-68">{{cite encyclopedia|last=Terdiman|first=Moshe|editor=Alexander, Leslie|title=Mali|encyclopedia=Encyclopedia of African American History|date=2010|publisher=ABC-CLIO|isbn=1851097694|pages=66–68|edition=American Ethnic Experience|url= https://books.google.com/books?id=Uhh7GggNxQoC&pg=PA73&dq=mali+musa+maghrib&hl=id&sa=X&ved=0CD4Q6AEwBWoVChMIpMCFzZb0yAIVQZ-UCh0GrQWg#v=onepage&q=mali%20musa%20maghrib&f=false}}</ref>
<ref name="takezawa2014">{{cite book|和書|aothor=[[竹沢尚一郎]]|title=西アフリカの王国を掘る--文化人類学から考古学へ |publisher=[[臨川書店]] |date=2014-08}}</ref>
}}
}}


181行目: 150行目:
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[サハラ交易]]
*[[サハラ交易]]
*[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]] - マリ帝国の王家の末裔
*[[モディボ・ケイタ]] - マリ帝国の王家の子孫とされる
*[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]] - マリ帝国の王家の子孫とされる。
*[[ソンガイ帝国]]
*[[ソンガイ帝国]]
*[[植民地化以前のアフリカ諸国]]


==外部リンク==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Mali Empire}}
{{commonscat|Mali Empire}}
*[http://www.africankingdoms.com African Kingdoms Mali]
*[http://www.africankingdoms.com African Kingdoms Mali]
*[http://www.metmuseum.org/toah/hd/mali/hd_mali.htm Metropolitan Museum – Empires of the Western Sudan: Mali Empire]
*[http://www.metmuseum.org/toah/hd/mali/hd_mali.htm Metropolitan Museum – Empires of the Western Sudan: Mali Empire]
*[http://www.bbc.co.uk/worldservice/africa/features/storyofafrica/4chapter3.shtml The Story of Africa: Mali] — BBC World Service
*[http://www.bbc.co.uk/worldservice/africa/features/storyofafrica/4chapter3.shtml The Story of Africa: Mali] — BBC World Service
*[http://www.fordham.edu/halsall/source/1354-ibnbattuta.html Ibn Battuta: Travels in Asia and Africa 1325–1354] — excerpts from H. A. R. Gibb's translation



{{DEFAULTSORT:まりていこく}}
{{DEFAULTSORT:まりていこく}}

2018年8月6日 (月) 17:50時点における版

14世紀に建てられたジンガレイベル・モスクフランス語版トンブクトゥ)のミナレット。マリ帝国においては同モスクのようなスーダーン様式フランス語版と呼ばれる建築様式が発展した[1]

マリ帝国1230年代 - 1645年)又はマリ王国は、中世西アフリカサヘル地帯に栄えた王国の1つである[2]。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくともマンデ人英語版だと考えられている。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない[3][4]。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た[3]。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた[3]。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた憲章英語版が世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。

研究史

歴史学は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた[5]。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった[5]。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた[5]。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者はモリス・ドゥラフォスシャルル・モンテイユなど、植民地経営のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年にイブン・ハルドゥーンの『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む[6]。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「アブバカリ2世」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である[6]:345 ff.

イブン・ハルドゥーンが示したスンジャタ以後13, 14世紀の王統図(Levtzion (1963) の検証による)[6]
  • Sundiata Keita(スンジャタ・ケイタ) (1240-1255)
  • Wali Keita (1255-1270)
  • Ouati Keita (1270-1274)
  • Khalifa Keita (1274-1275)
  • Abu Bakr (1275-1285)
  • Sakura (1285-1300)
  • Gao (1300-1305)
  • Mohammed ibn Gao (1305-1310)
  • Abubakari II (1310-1312)
  • Kankan Musa I (マンサ・ムーサ)(1312-1337)
  • Maghan (1337-1341)
  • Suleyman (1341-1360)
  • Kassa (1360)
  • Mari Diata II (1360-1374)
  • Musa II (1374-1387)
  • Maghan II (1387-1389)
  • Sandaki (1389-1390)
  • Madhan III (Mahmud I) (1390-1400)
  • Unknown Mansas (1400-1441)
  • Musa III (1440年代)
  • Ouali II (1460年代)
  • Mahmud II (1481-1496)
  • Mahmud III (1496-1559)
  • Mahmud IV (1590年代-1600年代)

例えばバジル・デヴィッドソン英語版レモン・モニフランス語版といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、植民地主義に立脚した帝国主義国家に崩壊をもたらした第二次世界大戦の後からである。「アフリカの年」1960年に始まったユネスコの記念事業、『ユネスコ・アフリカの歴史フランス語版』(l’Histoire générale de l'Afrique)の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。

史資料論

サハラ以南のアフリカの諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる史料は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない[7]

最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である[7]。まず、アブー・ウバイド・バクリー(1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している[8]:82-83[9]イドリースィーは12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している[8]:103

最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した[7]。また、マリ人も巡礼等の目的で北アフリカやヒジャーズ地方を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている[7]。このようなアラビア語文献としては、イブン・ファドルッラー・ウマリー英語版イブン・バットゥータイブン・ハルドゥーンマクリーズィーらが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13~15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる[7][6][10]イブン・バットゥータ(1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月までサーヘル地帯を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある[11]イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。

マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている[7]アブドゥッラフマーン・サアーディーフランス語版が書いた16世紀の『ターリーフ・スーダーンフランス語版』とマフムード・カアティフランス語版が書いた17世紀の『ターリーフ・ファッターシュフランス語版』が利用できる。ただし、どちらもソンガイ帝国の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。

さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人による口承伝統oral tradition)が存在する点が特徴である[7]。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる[7]

さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている[12]

首都探し

バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。
イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。

欧米諸語で国号として認識されている "Mali"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が "مالّي‎" と記載されていることに基づく[前近代の文献 1]。その200年前に書かれたバクリーの『諸道と諸国の書英語版』にもガーナのみやこの近くに "ملل‎"(ド・スラーヌ英語版は "Melil" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。

初期の仮説 (1841-1912)

近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、大英帝国の地理学者ウィリアム・デズボラ・クーリー英語版である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した[13]ハインリヒ・バルトは、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚のルイ=ギュスターヴ・バンジェフランス語版は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。

これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった[14]。初めてこれらの説に理由付けを与えたのがモリス・ドゥラフォスである。ドゥラフォスは Haut-Sénégal-Niger (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。

「ニアニこそがマリの首都である」 (1923-1958)

この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、サンカラニ川英語版のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた[15][16]。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。

ニアニにおける考古学的調査 (1965-1973)

ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアクポーランド語版教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちはD. T. ニアヌの協力も得、レモン・モニフランス語版[注釈 1]から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。

ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った放射性炭素年代測定法に関する記述に矛盾があることを指摘した[17]

「ニアニ遺跡=首都」説の検証をめぐって・新しい仮説

全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した[18]。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。

歴史

建国

14世紀半ば、最盛期のマリが支配権を及ぼした領域とサハラ交易路
15世紀のセネガル川河口から上流を示す図、金の川と記される。

それまで西部サヘル地方を支配していたガーナ王国1076年ムラービト朝によって首都クンビー・サーリフ英語版を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中でソソ人英語版ソソ王国英語版が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流のマンデ人英語版をも支配下に置いていた。

この状況下で、伝説的英雄スンジャタ・ケイタが現れ、マンデの各クランを糾合した[2]。スンジャタは1235年にキリナの戦い英語版でソソの王スマングルをやぶり、さらにその後、セネガル川流域の地方にまで勢力を伸ばした[2]

最盛期

その後、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥガオまで、南はブレフランス語版バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。

14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン英語版(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、1324年にムスリムとして数千人もの従者を引き連れてメッカ巡礼し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによるとカイロの金の価値が長期にわたって下落した[19]。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。

マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。1352年にマリを訪れたベルベル人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している[前近代の文献 1]

覇権の喪失と領土の西遷

1530年ごろのマリ領土

しかし、1387年にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのためソンガイ王国などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方のモシ族や北方のトゥアレグ族の侵攻が激化し、1433年にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された[20]。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であったニジェール川内陸デルタを失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯は保持し続け、さらに大西洋に面したガンビア川流域なども依然として保持していた[21]1468年にはソンガイ王国のスンニ・アリがトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた[22]

滅亡

1625年ごろのマリ領土

1591年モロッコサアド朝の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は1599年にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった[23]。その後マリは地方小国家として細々と存続し、18世紀に滅亡した[24]

制度

交易

1375年にマヨルカ島で製作された『カタルーニャ地図カタルーニャ語版』には、ベルベル人ラクダに乗って、サハラを越えたところにあるマリの黒人王のところへ交易に向かう様子が描かれている。

西アフリカ内陸部に広域帝国が成立したのはそもそもサハラ交易の利益によるものであり、最初の広域帝国であるガーナ王国の覇権を引き継いだマリも同じくサハラ交易を主な経済基盤とする国家であったが、その交易の様相はガーナ時代とは幾分異なったものとなっていた。

マリはサハラ砂漠の中央部にあるタガザ岩塩鉱山英語版にまで交易圏を広げたため、それまでの交易を握っていたベルベル人からその主導権を奪い[25]、塩金交易は北アフリカのベルベル人とサヘル地帯との間のものではなく、サヘル地帯を制したマリとその南にある産金地帯との間で行われるようになった。またマリの領土内においても金は産出されており、これらの多量の金はマリ帝国の主力商品として北アフリカへと輸出され、マンサ・ムーサ王の逸話に代表されるようなマリの繁栄を支えた。

またマリ帝国治下においては、同じくサハラの北からもたらされる主要商品であった銅鉱石の輸入が停止し、逆にを北アフリカへと輸出するようになった[26]。これはマリ領内またはその交易圏において銅鉱山が開発され、さらにマリ国内において精錬まで行われるようになったことを示している。この時期、ガオの東に位置するタケッダは銅生産の中心地となっていた[27]。またこの時期、ガーナ時代にはほぼ存在しなかった綿がマリ国内に普及し、織物の生産が盛んとなった[28]。こうしてマリは銅や綿を自給できるようになったものの、それを加工した銅製品や衣服・織物については輸入が続いており、むしろこの時期には北アフリカからの主力の輸出品となっていた。このほか、タカラガイなども北アフリカから主に輸入されていた[29]

一方、マリは南方の森林地帯とも活発に交易を行っていた。マリからの輸出品は塩や銅、綿布が中心であり、南方からは金のほか、コーラの実が主に輸入された[30]

また、サハラ交易のメインルートも以前に比べて変化していた。ガーナ王国期にはモロッコからアウダゴストを通ってサヘルへと向かうサハラ西側ルートが主流であったのに対し、マリ帝国期にはトンブクトゥから中央サハラを通って北アフリカへと向かうルートが主流となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中流域の交易都市の繁栄を生んだ[31]

経済

上記のような盛んな交易がおこなわれた一方で、国民の多くは農業に従事していた。国内では主にソルガムトウジンビエフォニオといった雑穀が主に栽培され、食料は豊富に供給されていた。ニジェール川ではボゾ人やソモノ人などの漁業民族が内陸デルタを中心に、盛んに漁業を行っていた[32]

こうして経済が成長する一方で、貨幣の鋳造は行われなかった。金が大量に輸出されたのも、マリ国内においては装飾品以外の用途がなく、本来国内で貨幣として流通する分の金も輸出用に回されていたためでもある。通貨としては布地、タカラガイ、塩などが用いられた[33]

こうした交易の活況によって、マリ帝国内に存在するジェンネトンブクトゥガオといった都市もまた繁栄した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠を越えてきたキャラバンが商品を積み下ろして川船へと乗せ換え、ニジェール内陸デルタの中央部に位置するジェンネまで運ばれた。ジェンネには南の森林地帯から積み出された金などもやはり船に乗せられて運ばれてきており、交易拠点として繁栄した[34]。トンブクトゥはこの時期からソンガイ王国期にかけて最盛期を迎えた。メッカ巡礼帰路のマンサ・ムーサによって1324年にジンガリベリ・モスクが建設され[35]、同時期にサンコーレ・モスクが建設されることで、トンブクトゥは学問の都としても名声を高めていった[36]。ガオは交易の要衝として7世紀ごろから独立王国が存在していたが、13世紀ごろにマリに服属した[37]。しかし国内の混乱から一時期サハラ交易を断念していたエジプトが14世紀半ばからサハラ交易を復活させると、交易ルートの東漸が起こり[38]、ニジェール川交易の東端にあたるガオが繁栄して、14世紀末には再独立を果たし、やがてマリに代わり西アフリカ内陸部の覇権を握るようになった。

帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある[2][4]

宗教

ジェンネ泥のモスク。登録世界遺産。ただし写真の建築はフランスの植民地統治が良好であることをアピールするため1907年に建てられたものである[39]

マリはイスラーム教を受容したが、祖先信仰などの土着信仰も残っていた[2]。イスラームの受容がいつごろから、どのように広まっていったのかについては議論がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考えているが、異論もある。赤阪賢は「14世紀にはイスラーム国家の外見を整えた」という表現をしている。1325年のマンサ・ムーサの巡礼の際、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁した現地のウラマーは、ムーサがマーリク派の儀礼をよく知っていたと証言している。ムーサをはじめとした最盛期のマリのマンサは、帝国内の安寧と社会の秩序を保ち、マドラサを各所に建てた[40]。マリのマドラサには、マグリブアンダルスからイスラーム学徒が多く集まり「知」のセンターになった[40]。また、マリのマドラサからもウラマーが多く育った[40]

イスラームがこの地で受容されていくに従い、マリからメッカへの巡礼者も増加していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼は非常に著名であるが、彼以前の王も、また彼以後の王も、メッカへの巡礼は行っていた。この王による巡礼は、サハラ越え交易ルートの開発という目的も持っていた[41]

注釈

  1. ^ 中世スーダーン史の専門家、ソルボンヌ大学教授

古い文献からの出典

  1. ^ a b イブン・バットゥータの『リフラ』よりビラード・スーダーンへの旅を記載した章。例えば、以下のような翻訳がある。
    • Ibn Battuta: Travels in Asia and Africa 1325–1354 H. A. R. ギブの英語翻訳(1929年)。
    • イブン・バットゥータ 著、前嶋信次 訳『三大陸周遊記抄』中央公論新社中公文庫〉、2004年3月25日。ISBN 412204345X 

出典

  1. ^ Terdiman, Moshe (2010). "Mansa Musa". In Alexander, Leslie (ed.). Encyclopedia of African American History (American Ethnic Experience ed.). ABC-CLIO. pp. 73–74. ISBN 1851097694
  2. ^ a b c d e Terdiman, Moshe (2010). "Mali". In Alexander, Leslie (ed.). Encyclopedia of African American History (American Ethnic Experience ed.). ABC-CLIO. pp. 66–68. ISBN 1851097694
  3. ^ a b c 『イスラム事典』平凡社、1982年4月10日。ISBN 4-582-12601-4 、「マリ帝国」の項(執筆者:川田順造)。
  4. ^ a b 赤阪賢(著)、川田順造(編)「マンデ、王国形成の先駆者たち」『民族の世界史12(黒人アフリカの歴史世界)』、山川出版社、1987年2月28日、ISBN 4-634-44120-9 
  5. ^ a b c Camara, Babacar (2005-09). “The Falsity of Hegel's Theses on Africa”. Journal of Black Studies (Sage Publications, Inc.) 36 (1): 82-96. 
  6. ^ a b c d Levtzion, N. (1963). “The thirteenth- and fourteenth-century kings of Mali”. Journal of African History 4 (3): 341–353. doi:10.1017/S002185370000428X. JSTOR 180027. 
  7. ^ a b c d e f g h D.T.ニアヌ(著)、D.T.ニアヌ(編)「第6章マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」『一二世紀から一六世紀までのアフリカ』、同朋舎出版、1992年9月20日、188-193頁、ISBN 4-8104-1096-X 
  8. ^ a b Levtzion, Nehemia; Hopkins, John F.P., eds (2000). Corpus of Early Arabic Sources for West Africa. New York: Marcus Weiner Press. ISBN 1-55876-241-8  First published in 1981 by Cambridge University Press, ISBN 0-521-22422-5
  9. ^ Cuoq, J, Recueil des sources arabes concernant l'Afrique occidentale du VIIIe au XVIe siècle, Paris, Centre national de la recherche scientifique, 1975, 490 p (Pour toutes les sources arabes consulter ce même ouvrage).
  10. ^ 福井勝義大塚和夫赤阪賢『世界の歴史24(アフリカの民族と社会)』中央公論新社中公文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4122052895 (主に第二章、執筆担当:赤阪賢)
  11. ^ voir les articles de Meillassoux, Delafosse, et Hunwick signalés dans l'historiographie
  12. ^ 『西アフリカの王国を掘る--文化人類学から考古学へ』臨川書店、2014年8月。 
  13. ^ William Cooley, The Negroland of the Arabs, London, Frank Casse and Co, 1966 (2e édition) (1re édition 1841), 143 p
  14. ^ C'est-à-dire toutes les études parues après cette première hypothèse, voire les références dans la bibliographie
  15. ^ J. Vidal, « Le véritable emplacement de Mali », Bulletin du comité d'Études historiques et scientifiques de l'AOF, octobre-décembre 1923, no 4, p. 606-619.
  16. ^ M. Gaillard, « Niani ancienne capitale de l'Empire mandingue », Bulletin du comité d'études historiques et scientifiques de l'Afrique Occidentale Française, Tome VIII, 1923, p. 620-636.
  17. ^ Hirsch, Fauvelle-Aymar, « La correspondance entre Raymond Mauny et Wladislaw Filipowiak au sujet de la fouille de Niani (Guinée), capitale supposée de l'empire médiéval du Mali », in Mélange offert à Jean Boulègue, 2009 à paraître
  18. ^ On peut citer notamment Conrad et Green, voir les références pour leurs articles dans la bibliographie
  19. ^ A. G. Hopkins (2014-09-19). An Economic History of West Africa. Routledge. ISBN 9781317868941. https://books.google.com/books?id=F_DfBgAAQBAJ&pg=PA47  p.47
  20. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p256 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  21. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p257 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  22. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p268 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  23. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p269 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  24. ^ 「マリを知るための58章」内収録「マリ帝国)」p60 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行
  25. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p50 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  26. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p51 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  27. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  28. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p53 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  29. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p63-64 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  30. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p240-241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  31. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p192
  32. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p234-235 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版
  33. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p60 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  34. ^ 「マリを知るための58章」内収録「ジェンネ」p140 伊東未来 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行
  35. ^ http://www.afpbb.com/articles/-/2887349 「伝説の黄金都市トンブクトゥ、破壊の危機にある世界遺産」AFPBB 2012年7月2日 2018年6月22日閲覧
  36. ^ 「マリを知るための58章」内収録「トンブクトゥ」p145 坂井信三 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行
  37. ^ 「マリを知るための58章」内収録「ガオ王国(ソンガイ王国・ガオ帝国)」p64 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行
  38. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p66 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  39. ^ 内藤陽介『マリ近現代史』彩流社、2013年5月5日。ISBN 978-4-7791-1888-3  pp.11-15
  40. ^ a b c 石川, 薫; 小浜, 裕久 (2018-01). 「未解」のアフリカ. 勁草書房. ISBN 978-4-326-24847-6  pp66-71
  41. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p192

参考文献

関連項目

外部リンク