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{{Infobox Artist
'''古賀 春江'''(こが はるえ、[[1895年]][[6月18日]] - [[1933年]][[9月10日]])は大正期に活躍した日本の初期の[[シュルレアリスム]]の代表的な[[洋画家]](男性)である。本名は'''亀雄'''(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名する。「春江」はあくまでも通称である。
| bgcolour = #6495ED
| name = 古賀 春江
| image = KogaHarue-1915-Self-Portrait.png
| imagesize = 220px
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| caption = 自画像(1915-1916年頃)
| birthname = 古賀 亀雄
| birthdate = {{birth date|1895|06|18}}
| location = {{JPN}} [[福岡県]][[久留米市]]
| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1895|6|18|1933|9|10}}
| deathplace = {{JPN}} [[東京]]
| nationality = {{JPN}}
| field = [[洋画家]]
| years active =
| training = [[太平洋画会研究所]]、日本水彩画会研究所
| movement = [[コラージュ]]、[[モダニズム]]、[[シュルレアリスム]]
| works = 『煙火』『素朴な月夜』『海』『窓外の化粧』
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| influenced by = [[竹久夢二]]、[[キュビズム]]、[[パウル・クレー]]、シュルレアリスム
| influenced =
| awards = 二科賞、中展賞
| elected = 二科会員
| website =
}}
'''古賀 春江'''(こが はるえ、[[1895年]][[6月18日]] - [[1933年]][[9月10日]])は大正から昭和初期に活躍した日本の男性[[洋画家]]である。日本の初期の[[シュルレアリスム]]の代表的な画家として知られる。本名は'''亀雄'''(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」はあくまでも通称である。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
===幼少期から絵を志すまで===
[[ファイル:Koga_Harue.jpg|thumb|200px|煙火([[1927年]]、川端康成記念会所蔵)]]
[[1895年]]6月18日<ref name="origin_58">「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、2001年、p.58.</ref>、[[福岡県]][[久留米市]]の善福寺<!--改稿前には、善福寺に出典として以下のリンクが貼られていたが、信頼できる情報源として使えないように見えたのでコメントアウトした。--><!--<ref name="zenpukuji_nsview">[http://wiki.nsview.net/%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA_%E3%80%94%E8%97%A4%E6%9E%97%E5%B1%B1%E3%80%95 善福寺 〔藤林山〕]</ref>-->の住職(古賀正順)の長男として生まれた<ref>講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」講談社、1963年、pp.63. 71.</ref>。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ[[浄土宗]]の寺である。[[1902年]](明治35年)4月に久留米日吉尋常小学校に入学、[[1906年]](明治39年)3月小学校を卒業し、4月には久留米高等小学校へ入学、[[1910年]](明治43年)同高等小学校を卒業、同年4月に中学明善校へ入学、この頃から久留米市の洋画家松田実(諦晶)に絵を習い始めた<ref name="origin_58">講談社版日本近代絵画全集9, p.58.</ref>。[[1912年]](明治45年)、中学3年の時に、両親の反対を押し切って<ref name="modern_63">講談社版日本近代絵画全集9, p.63.</ref>退学<ref name="origin_58"></ref>、洋画研究のために上京し[[太平洋画会研究所]]に通った<ref name="modern_63"></ref>。翌[[1913年]](大正2年)には、日本水彩画会研究所へ入って[[石井柏亭]]に師事した<ref name="modern_63"></ref>。[[1914年]](大正3年)、同居していた友人の藤田謙一が[[猫いらず]]で自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になった<ref name="modern_63"></ref>。このため、心配した父親が古賀を帰郷させた<ref name="modern_63"></ref>。翌[[1915年]](大正4年)1月に[[長崎]]に遊んだ後<ref name="origin_58"></ref>、2月<ref name="origin_58"></ref>に僧籍に入り、良昌と改名、春江を呼び名とした<ref name="modern_63"></ref>。3月には再び長崎に戻った<ref name="origin_58"></ref>が、この年の冬に再度上京した<ref name="modern_63"></ref>。翌年の[[1916年]](大正5年)7月<ref name="origin_58"></ref>に父親を亡くし、父の後を継ぐために宗教大学(後の[[大正大学]])の聴講生になり<ref name="origin_58"></ref>、学業の傍ら絵の制作に励んだ<ref name="modern_63"></ref>。同年には日本水彩画会員に推された<ref name="modern_63"></ref>。
[[福岡県]][[久留米市]]の江戸時代初期からの歴史を持つ[[浄土宗]]の寺・善福寺<ref name="zenpukuji_nsview">[http://wiki.nsview.net/%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA_%E3%80%94%E8%97%A4%E6%9E%97%E5%B1%B1%E3%80%95 善福寺 〔藤林山〕]</ref>の住職(古賀正順)の長男として生まれる。上京後、太平洋画会研究所と日本水彩画研究所とに所属した。[[1922年]]、「埋葬」で二科賞を受賞。同年、美術団体「アクション」を共同で創立した。[[1926年]]から[[1927年]]に[[パウル・クレー]]に傾倒。代表作に「窓外の化粧」([[神奈川県立近代美術館]]蔵)や「海」([[東京国立近代美術館]]蔵)がある。自作の絵に付けたものなど、詩も多く残している。


===画業へ専心===
彼の作品は[[ポール・セザンヌ]]、[[キュビスム]]([[フェルナン・レジェ]]など)、[[シュルレアリスム]]、クレーなど西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風は変転している。
[[File:KogaHarue-1922-Interment.png|left|thumb|200px|『埋葬』(1922年、総本山知恩院蔵)]]1916年11月に岡好江と結婚し、引き続き宗教大学に通ったが翌[[1917年]](大正6年)9月に[[肋膜炎]]を患い神田長谷川病院に入院<ref name="modern_71">講談社版日本近代絵画全集9、p.71.</ref>、11月に全快したものの<ref name="origin_58"></ref>、保養のために帰郷する車中で[[インフルエンザ]]にかかり<ref name="origin_58"></ref>急性[[肺炎]]をおこし入院、一時[[危篤]]状態になった<ref name="modern_71"></ref>。これが原因で大学を休学、翌[[1918年]]には宗教大学を退学し画業に専念する決心をした<ref>講談社版日本近代絵画全集9, pp.64, 71.</ref>。水彩画展や[[光風会展]]に出品し、[[1919年]]の秋、[[二科会|二科展]]に「鳥小屋」が初入選した<ref name="modern_71"></ref>が、翌[[1920年]]9月に体を悪くし<ref name="origin_59">「古賀春江 創作の原点」p.59.</ref>、福岡へ帰郷した<ref name="modern_71"></ref>。この後、1924年4月に上京するまではほとんど福岡にいた<ref name="origin_59"></ref>。[[1921年]]1月、妻の好江が女の子を産んだが死産だった<ref name="origin_59"></ref>。このことがきっかけとなって、「埋葬」に着手した<ref name="origin_59"></ref>。[[1922年]](大正11年)「埋葬」(油彩・キャンヴァス、総本山[[知恩院]]蔵・[[京都国立近代美術館]]寄託)<ref group="注">同タイトル、同じ構図の水彩画が別に存在する。</ref>「二階より」を二科展に出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した<ref name="modern_71"></ref>一方、神原泰、中川紀元、矢部友衛ら二科出身の画家13人で「アクション」を結成した<ref name="modern_64">講談社版日本近代絵画全集9、p.64.</ref>。(この後「アクション」は1924年10月3日に解散する<ref name="origin_59"></ref>。)[[1924年]]8月と10月に信州に旅行した際、当地の女性と親しくなり、この女性が上京してきたので[[下谷]]に家を借りて同棲を始めた<ref name="origin_59"></ref>。しかし、[[1925年]]に女性が病死したことで関係は終わった<ref name="origin_59"></ref>。


===クレーから超現実主義へ===
なお「海」([[1929年]]、二科会16会展出品)に続く数年間の彼の作品は一般に日本におけるシュルレアリスム絵画のはじまりとされており、以降の日本の美術に大きな影響を与えている。しかし例えば「海」などはモンタージュ技法を積極的に用いた[[モダニズム]]の絵画であるともいうことができ、必ずしもフランスのシュルレアリスムと共通した思想的な根拠([[ジークムント・フロイト|フロイト]]流の無意識の重視など)がないことから古賀独自の(日本的な)超現実主義との評価がある一方で、シュルレアリスムであるとの評価に疑問を呈する者もいる。現在の研究では、「海」などのモチーフは絵葉書や画集などから切り取った[[コラージュ]]であることが判明している<ref>[http://www.magictrain.biz/wp/?p=1783 古賀春江「海」]</ref>。
[[ファイル:Koga_Harue.jpg|thumb|200px|『煙火』(1927年、川端康成記念会蔵)]]
[[1926年]](大正15年)に入ってからは[[東京]]に定住するようになり<ref name="modern_64"></ref>、二科会会友に推され<ref name="modern_71"></ref>、また、[[パウル・クレー|クレー]]風の絵をかきだすようになった<ref name="modern_64"></ref>。翌[[1927年]]の8月に母を亡くし帰郷、9月には東京に戻ったが、11月になって[[神経衰弱]]を患い再び帰郷した<ref name="modern_71"></ref>。翌[[1928年]]5月には長崎へ転地し、そこで「生花」などを制作した<ref name="modern_71"></ref>。この年、中川紀元の紹介で[[東郷青児]]を知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年初めに[[阿部金剛]]を知った<ref name="origin_60">「古賀春江 創作の原点」、p.60.</ref>。この時期を代表する絵として「煙火」(1927年、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)があげられる<ref group="注">1927年制作の同名油彩(三重県立美術館蔵)が別に存在する。</ref>。「素朴な月夜」(1929年、油彩・キャンヴァス、117.0×91.0cm、[[ブリヂストン美術館]]蔵)もこの時期の作である。この頃はクレー風の絵を描いていたが、[[1929年]](昭和4年)になると画風が変わり、構成的なシュルレアリスムの絵が現れだす。古賀の代表作の1枚「海」(1929年、油彩・キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品、[[東京国立近代美術館]]蔵)が描かれたのはこの年である。1929年11月、一九三〇年協会に加入したが、12月には二科会会員に推挙された<ref group="注">講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」(講談社、1963年)の年譜では、1930年(昭和5年)に二科の会友に推された、と書かれている。</ref>ので協会を脱退した<ref name="origin_60"></ref>。[[File:KogaHarue_Make-up_on_the_outside_of_Window.png|left|thumb|200px|『窓外の化粧』(1930年、神奈川県立近代美術館蔵)]][[1930年]](昭和5年)からは舞台装置の制作や[[装丁]]・挿絵の仕事を始めるようになった<ref name="origin_60"></ref>一方、この頃から病気がちになる<ref name="modern_71"></ref>。この年には「窓外の化粧」(1930年、油彩・キャンヴァス、161.0×129.0cm、[[神奈川県立近代美術館]]蔵)他4点が二科展に出品され、短い画論「超現実主義私感」<ref group="注">講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」では「超現実派私観」と書かれている。</ref>が「アトリエ」誌1月号に掲載された<ref name="modern_71"></ref>。[[1931年]]、日本水彩画会委員(鑑査)になり、[[川端康成]]と知り合いになった<ref name="origin_60"></ref>。また、生前唯一の画集「古賀春江画集」を第一書房から刊行した<ref name="origin_60"></ref>。その他、「[[コドモノクニ]]」にイラストを発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。しかし、[[1932年]]3月に強度の[[神経痛]]に冒され体が衰え出し、次第に厭人的になり代わって犬や小鳥を熱愛するようになり出した<ref name="origin_60"></ref>。[[1933年]]4月から二科展出品のために「文化は人間を妨害する」と「深海の情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作を開始し<ref name="modern_71"></ref>、5月には阿部金剛、東郷青児、峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設の話し合いをしていたが<ref name="origin_60"></ref>、7月、義兄が重病との知らせを受けて帰郷した際、同月14日に帰京の途中で発病、病身をおして「サアカスの景」を完成させねばならなかった<ref name="origin_58"></ref>。川端康成が書いた文章によると、手の震えで[[ローマ字]]は整った書体が書けず、署名は高田力蔵に入れてもらった<ref name="matsugo">川端康成「[[末期の眼]]」([[文藝]] 1933年12月号に掲載)</ref><ref>講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」p.59.</ref>。


[[File:KogaHarue_Landscape_of_Circus.png|thumb|200px|『サアカスの景』(1933年、神奈川県立近代美術館蔵)]]
1927年からは[[神経衰弱]]に苦しみ、次第に心身ともに衰弱していく。
8月1日に東京帝国大学島薗内科<ref group="注">講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」講談社、1963年、p.71では慶大病院と書かれている。</ref>に入院、入院中も詩作や作画をしていたが、9月10日危篤におちいり、同日亡くなった<ref name="modern_71"></ref>。享年39歳。[[1944年]]5月になって善福寺境内に古賀春江の[[供養塔]]が作られた<ref>「古賀春江 創作の原点」p.61.</ref>。生地の善福寺はその作品を寺宝に有しており、境内には石井柏亭の碑銘による墓碑がある。<!--墓碑に関して、改稿以前に出典として次のリンクが貼られていたが、個人のblogだったため、信頼できる情報源として使えないのでコメントアウトした。どなたか別の適切な出典を探して改めて出典にして下さい。--><!--<ref name="zenpukuji_nsview"/><ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~h-kawa/kurumegeijyutuka.html 明治時代、久留米市の2キロメートル四方に生まれた4人の芸術家]</ref>-->[[安井曽太郎]]が古賀の死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。


{{quotation|古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた。古賀君の理智的で近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明るい色調は美しいものであったが、それ等に底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。|安井曽太郎|「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)}}
1933年9月、[[阿部金剛]]、[[東郷青児]]、[[峰岸義一]]らと「[[アヴァンガルド洋画研究所]]」を設立するが、古賀は直後に逝去する。


==作風==
生地の善福寺はその作品を寺宝に有しており、境内には[[石井柏亭]]の碑銘による墓碑がある<ref name="zenpukuji_nsview"/><ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~h-kawa/kurumegeijyutuka.html 明治時代、久留米市の2キロメートル四方に生まれた4人の芸術家]</ref>。
古賀は西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風を変転させている。<!--改稿前の文章は次のように書かれていた。内容は基本的に正しいが、フェルナン・レジェをあげて影響を指摘する書籍を見つけられなかったのでコメントアウトした。セザンヌ、シュルレアリスム、クレーについては信頼できる情報源として使える出典が見つかるので、その部分は残して出典をつけた。--><!--彼の作品は[[ポール・セザンヌ]]、[[キュビスム]]([[フェルナン・レジェ]]など)、[[シュルレアリスム]]、クレーなど西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風は変転している。-->若い頃の古賀は[[竹久夢二]]の絵にあこがれていて<ref name="origin_23">「古賀春江 創作の原点」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、p.23.</ref>、1919年に松田諦晶宛ての葉書でも竹久夢二を賞賛しており<ref name="origin_23"></ref>、その影響はかなり長かったと見られる。その後も[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]から影響を受けたり<ref name="origin_24">「古賀春江 創作の原点」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、p.24.</ref>、未来派や[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[マリー・ローランサン|ローランサン]]にも関心を持っていたことが残されたスケッチブックの模写からうかがえる<ref name="origin_24"></ref>。特に[[パウル・クレー]]からの影響は大きく<ref name="origin_24"></ref>、1926年から1927年にかけてクレー風の作品が描かれた。その後「海」や「鳥籠」によって再び作風を転換させた。発表当時、「海」はシュルレアリスムの日本絵画への初めての表れだとみなされた<ref>速水豊著「シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造」日本放送出版協会、2009年、ISBN 978-4-14-091135-8、p.55.</ref>。<!--以下の文章は改稿以前に書かれていた文章だが、出典がついていない・適切な出典が見つからないことからコメントアウトした。使える部分は残し、出典をつけた上で流用した。--><!--なお「海」([[1929年]]、二科会16会展出品)に続く数年間の彼の作品は一般に日本におけるシュルレアリスム絵画のはじまりとされており、以降の日本の美術に大きな影響を与えている。しかし例えば「海」などはモンタージュ技法を積極的に用いた[[モダニズム]]の絵画であるともいうことができ、必ずしもフランスのシュルレアリスムと共通した思想的な根拠([[ジークムント・フロイト|フロイト]]流の無意識の重視など)がないことから古賀独自の(日本的な)超現実主義との評価がある一方で、シュルレアリスムであるとの評価に疑問を呈する者もいる。--->油彩・水彩画の他に、自作の絵に付けた詩も多く残している。

===コラージュによる作画===
古賀春江の代表的な作品である「海」は、[[コラージュ]]技法による作品であることがわかっている。コラージュ技法自体は、古賀以前の大正期の画家が既に実践しており<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.56.</ref>、それ自体は何ら新しい試みではない。しかし「海」においては、絵画におけるモンタージュではなく、むしろ写真における[[フォトモンタージュ|モンタージュ]]技法に近い点が従来と異なる<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.58.</ref>。

[[仲田定之助]]が「写真技術の新傾向―ホモリ・ナギーの近著から」(「[[アサヒカメラ]]」二巻、1926年10月号)という論文内でホモイ=ナジの「形成写真(Foto-plastick)」(写真によるコラージュ技法)の紹介を行っており<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.59, 300.</ref>、この頃、古賀はコラージュ技法に興味を持っていた。坂宗一(古賀と親交のあった画家)によると、{{quotation|これから始まる超現実主義の仕事に、私も脇役で手伝った。と云っても、ただ子供の科学という薄っぺらな雑誌を古本屋の店先で買い集めるのだが、その仕事が彼の仕事にどう役立つかは知らなかったが、古賀さんはこの中から関連なく写真や絵図を切り取って組み合わせることで、一枚の主張を持った作品を創った。これをモンタージュというのだと後になって教えてくれた。無関連を関連して別な意味を創りだすというむずかしい話だった。|坂宗一|「サーカスの景」「古賀春江回顧展」福岡県文化会館、1975年、p.105}}という<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.61.</ref>。


== 年表 ==
[[File:Sea - Koga Harue 1929.tiff|thumb|250px|『海』(1929年)[[東京国立近代美術館]]蔵]]
[[File:Sea - Koga Harue 1929.tiff|thumb|250px|『海』(1929年)[[東京国立近代美術館]]蔵]]
このような、科学雑誌からのコラージュによる作画法は、[[マックス・エルンスト]]や、その手法を参考にして描いた一時期の[[福沢一郎]]と同様の手法である<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」Ⅴ福沢一郎―シュルレアリスムの衝撃と葛藤、pp.141-211.</ref>。
*[[1895年]] 出生
以下のように、1929年の「海」以降の多くの作品も「[[科学画報]]」「[[アサヒグラフ]]」「[[キング (雑誌)|キング]]」といった一般雑誌に掲載されていた写真のコラージュによって構成されていたことが明らかにされている。
*[[1912年]] 上京、石井柏亭に師事

*[[1915年]] 一時帰郷、僧籍に入る
*「海」の画面中央からやや左上に見える飛行船は、一般向け科学雑誌「科学画報」1928年12月号p.846の中の一枚の写真を参考にした可能性がある<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.63-64.</ref>。また、飛行船のすぐ下に見える鉄塔は「科学画報」の同じページの別の写真から<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.64-65.</ref>、画面下側に見える潜水艦は「科学画報」1928年5月号900頁掲載の挿図<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.66.</ref>から採られた可能性がある。その他、画面右の女性は「原色写真新刊西洋美人スタイル第9集」(青海堂)という絵葉書セットの一枚からとられたことがわかっている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.74</ref>。
*[[1916年]] 宗教大学(現・[[大正大学]])の聴講生となる。父死去。結婚する。
*「鳥籠」の画面左、鳥篭に閉じ込められた女性というデザインは、この絵が発表された春に公開された映画「妖花アラウネ」のスチール写真をもとにしているのではないかと指摘されている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.80-81.</ref>。また、画面左下の階段は、「科学画報」1928年5月号p.809に掲載された「高架式最新設備の大荷物駅竣工」に描かれた挿図からとられたものとみられる<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.82.</ref>。その他、画面中央下と右上にそれぞれ見られる円盤状の物体は「科学画報」1927年1月号p.36掲載の方解石の顕微鏡写真をもとにしている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.82-83.</ref>。
*[[1920年]] 妻が死産し、精神的にショックを受ける。
*「窓外の化粧」の画面右上の高層ビルの上で女性が踊っている部分は、「アサヒグラフ」1925年9月30日号p.6掲載の写真「エッフェル塔上ダンスの一幕」から着想された<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.92-94.</ref>。この事実は、残っている「窓外の化粧」のためのスケッチ数枚から推定されている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.91-92.</ref>。絵の女性のポーズは、大衆娯楽雑誌「キング」1927年4月号の写真「世界写真画報(瑞典の巻其のニ)」から採られた<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.94.</ref>。なお、速水「シュルレアリスム絵画と日本」では写真のダンサーはスウェーデン人であると書かれているが、「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」p.46ではスイス人だと書かれている。
*[[1922年]] 「埋葬」で二科賞受賞。「アクション」創立
*「単純な哀話」の画面右下に見える植物は「科学画報」1928年5月号p.860に載っている挿図のコラージュである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.101-102.</ref>。
*[[1927年]] 神経衰弱の症状が現れる
*「黄色のレンズ」の画面左に見える抽象的なデザインは「科学画報」1928年4月号p.734に載っている挿図からのコラージュ<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.102-104.</ref>である。
*[[1929年]] 「素朴な月夜」発表
*「音のない昼の夢」の画面右下に置かれた花は「科学画報」1928年5月号p.861「植物の感覚」の挿図を抽象化して使ったものらしい<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.103-104.</ref>。
*[[1930年]] 二科会に入会
*「女のまはり」の画面左に見えるボールを上に投げ上げた人物は、「アサヒグラフ」1929年8月14日号の「コドモグラフ」と題した子供向けページに載っていた「まりつき」という題の写真のコラージュである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.116-117.</ref>。
*[[1931年]] [[川端康成]]と親交を持つ。「[[コドモノクニ]]」にイラストを発表(12月号から翌32年6月号まで)。
*「春来る」の画面中央のポーズをとった女性は、「アサヒグラフ」1930年5月7日号p.17の「マーガレット・モリス舞踊団の練習」と題された写真からとられたものである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.117.</ref>。
*[[1932年]] [[神経痛]]が高じ、[[強迫観念]]に襲われるようになる
*「仮説の定理」の画面左側中央の奇妙な乗り物に乗った人物は「アサヒグラフ」1927年12月14日号p.23の「帆かけ車」の写真を利用したもの<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.118.</ref>、画面中央右上の犬は「アサヒグラフ」1930年11月12日号p.18.の「たかとび」と題した写真の中の犬を利用したものである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.118.</ref>。
*[[1933年]] 8月に[[東京大学医学部附属病院|東京帝国大学医学部附属医院]]に入院、翌9月に死去
*「朧ろなる時代の直線」の画面右上の描かれた飛行機とモーターボートは、「アサヒグラフ」1930年6月4日号p.11の「モーター・ボートからの離陸」の写真を利用したものである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.119.</ref>。
*「現実線を切る主智的表情」画面左の射撃手は「アサヒグラフ」1926年2月24日号pp.8-9の「湖上佳人の射撃練習」を利用したものと推測されている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.121-122.</ref>。また、スケッチ段階で射撃手が持っていたのは[[ライフル]]銃であったのに対し、最終的な絵ではライオット・ガンに変更されている<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.123-125.</ref>。このライオット・ガンは、「アサヒグラフ」1928年2月22日号p.11の写真「新型自動ライフル銃」を用いたものとみられる<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.124-125.</ref>。画面右の馬と柵は「アサヒグラフ」1926年6月2日号p.14の「かろがろと飛び越えて」の馬を利用したものである<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.122-123.</ref>。馬に乗っているロボットは、当時の日本で1931年を頂点としてロボット・ブームがあり<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.126.</ref>、その影響によるものとみられる。
*最晩年の作「深海の情景」の画面中央下の白い動物は、「アサヒグラフ」1931年4月15日号掲載の写真「最先端をゆく舞踏の」の中のポーズをそのまま利用している<ref>「古賀春江 創作の原点」p.46.</ref>。
*「サアカスの景」は、[[カール・ハーゲンベック|ハーゲンベック]]曲馬団をイメージして描かれた絶筆だが、松田諦晶の残した資料の中に「独逸ハーゲンベック動物園・世界最大の猛獣大サーカス図実景」の絵葉書10枚が含まれていて<ref name="origin_48">「古賀春江 創作の原点」p.48.</ref>、うち6枚に絵の具がついている<ref name="origin_48"></ref>ことから、これらの葉書の絵を利用したと見られる。

[[File:KogaHarue-1931-Intellectual_Expression_Traversing_a_Real_Line.png|left|thumb|200px|『現実線を切る主智的表情』(1931年、西日本新聞社蔵)]]
===精神障害者の絵===
ヨーロッパのシュルレアリストの1部が精神障害者の描いた絵に興味を持ったのと同じく古賀もそれらに興味を持った。例えば、1930年の二科展に出品された「涯しなき逃避」は、アウグスト・ネターの「驚異の牧人」がヒントになって生まれた<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.107.</ref>。「涯しなき逃避」に描かれている人物のポーズは「驚異の牧人」と全く同じである<ref name="hayami_107-108">速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.107-108.</ref>。

[[File:KogaHarue-1930-Endless_Flight.png|thumb|200px|『涯しなき逃避』(1930年、ブリヂストン美術館蔵)]]
この「驚異の牧人」は、ドイツの医師ハンス・プリンツホルンの「精神病者の造型」という本の中に収録された図の1枚で、古賀はこの本に収録された他の図版を何点も模写している<ref name="hayami_107-108"></ref><ref group="注">模写したデッサンは石橋美術館が所蔵している。</ref>。また、この「精神病者の造型」はヨーロッパのシュルレアリストにも影響を与えていたと考える研究者が複数いる<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.109.</ref>。[[アンドレ・ブルトン|ブルトン]]、[[マックス・エルンスト|エルンスト]]などのヨーロッパのシュルレアリストも精神障害者の絵に興味を持ちそれらをヒントにして創作したが、古賀が精神障害者の絵に興味を持ったのは彼らの著作物に影響されたのか独自のものなのかははっきりとはわからない<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.108-111.</ref>。

===古賀春江の「超現実主義」===
シュルレアリスム移行後の古賀の絵にはしばしば近代的な建築物やロボット、機械が描きこまれており、残されているデッサンにもしばしば登場する。また、画面は構成的であり<ref name="hayami_90">速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.90.</ref>、ヨーロッパのシュルレアリスムが科学や合理主義への懐疑・反発・否定を出発点としたのとは矛盾する態度を示した<ref name="hayami_90"></ref>。その他、1930年1月に発表した「超現実主義私観」に見られる古賀の超現実主義の理解は、ヨーロッパのシュルレアリスムとはまったく
異なったものだった<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.132.</ref>。この小論の中で古賀は以下のように書き、夢や無意識の世界を描くことを否定的に見ている<ref name="hayami_137">速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.137.</ref>。

{{quotation|超現実主義を以って夢に等しき無目的の意識状態であるといふ説は首肯出来ないものである。}}

そして、画面の構成を強調し、超現実主義とは主智主義である、と主張している<ref name="hayami_137"></ref>。
{{quotation|超現実主義は純粋性へ憧憬する意識的構成である。故に超現実主義は主智主義である。}}

事物の純粋性が強調され、そのためには、描かれた対象から現実感を消し、更には、絵から感じられる作者の感情も消し去る必要があると主張する<ref>速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.137-138.</ref>。

{{quotation|この場合の対象は何処まで精神を通して計算されるものであって現実的意味を持たなくなる。現実的形式ではなくして芸術的形式である。例へば描かれたる机は机自身の形ではない。具象的現実の机ではなくなるのである。斯く対象としての現実的表象がその意味を持たなくなった所から芸術は始まる。作者の影も同様に薄くなる。こに作者が居ると思はせる作品はまだ純粋ではないのである。純粋の境地―情熱もなく感傷もない。一切が無表情に居る真空の世界。発展もなければ重量もない。全然運動のない永遠の静寂の世界!
超現実主義は斯くの如き方向に向つていくものであると思ふ。}}


== 要文献 ==
==主な作品==
*桧(1917、水彩、水彩展出品)
*古賀春江・前衛画家の歩み展/石橋美術館・ブリヂストン美術館/[[1986年]]
*芍薬(1918、水彩、水彩画展出品)
*日本のシュールレアリスム 1925~1945/名古屋市美術館/[[1990年]]
*鉢(1919、光風会展出品)
*古賀春江・創作のプロセス/東京国立近代美術館/[[1991年]]
*地蔵尊(1919、水彩、水彩画展出品、[[石橋美術館]]蔵)
*古賀春江・創作の原点/ブリヂストン美術館/[[2001年]]
*鳥小屋(1919、二科展出品・初入選)
*新しい神話がはじまる 古賀春江の全貌/神奈川県立近代美術館葉山/[[2010年]]
*無題(1921年頃、油彩、72.5cm×72.5cm、石橋美術館蔵)
*埋葬(1922、油彩、水彩が各1点ずつ、油彩画は二科展出品・総本山[[知恩院]]蔵・[[京都国立近代美術館]]寄託、水彩画は[[福岡県立美術館]]蔵)
*二階より(1922、二科展出品、2001年現在個人蔵)
*収穫(1923、第1回アクション展出品)
*曲彔につく(1923、第1回アクション展出品、2001年現在個人蔵)
*涅槃(1923、油彩、二科展出品、2001年現在所在不明)
*海女(1923、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
*海水浴の女(1923、油彩、89.7cm×115.1cm、石橋美術館蔵)
*静物(1923)
*公園の松(1923、水彩)
*風景(1923、水彩、同名で4枚制作)
*梅(1924、水彩、水彩展出品)
*編物をする女(1924、水彩、水彩展出品)
*グループ(1924、アクション展出品、2001年現在所在不明)
*魚市場(1924、油彩、中央美術展出品、中展賞受賞作、2001年現在所在不明)
*窓際の女(1924、油彩、二科展出品)
*誕生(1924、油彩、91.0cm×116.8cm、石橋美術館蔵)
*生誕(1924、油彩、[[福岡市美術館]]蔵)
*肩掛けの女(1925、二科展出品)
*静物(1925年頃、水彩、石橋美術館蔵)
*美しき博覧会(1926、水彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
*蝦夷菊(1926、二科展出品)
*月花(1926、油彩、[[東京国立近代美術館]]蔵)
*遊園地(1926、水彩、[[ブリヂストン美術館]]蔵)
*花(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
*風景(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
*無題(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
*風景A(1926、中央美術展出品)
*風景B(1926、中央美術展出品)
*花と果実(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
*海辺風景(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
*花(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
*肖像(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
*船着場(1926、水彩、二科展出品)
*煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)
*煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.9x60.6cm、[[三重県立美術館]]蔵)
*窓(1927、油彩、福岡県立美術館蔵)
*牛を焚く(1927、水彩)
*静物(1927、水彩、日本水彩画会展出品)
*裸婦(1927、油彩、来目会展出品)
*動物(1927、油彩、二科展出品)
*窓(1927、油彩、二科展出品)
*雪景(1927、油彩、来目会展出品)
*林檎(1927、油彩、来目会展出品)
*花(1927、油彩、来目会展出品)
*渓の残雪(1927、油彩、来目会展出品)
*三国峠遠望(1927、油彩、来目会展出品)
*生花(1928、二科展出品)
*蝸牛のある風景(1928)
*ダリア(1928、油彩、来目会展出品)
*読書(1928、油彩、来目会展出品)
*汽車の通る風景(1928、水彩、来目会展出品)
*山ノ手風景(1928、油彩、二科展出品)
*蝸牛のゐる田舎(1928、油彩、二科展出品)
*バラ(1928、油彩、来目会展出品)
*コスモス(1928、油彩、来目会展出品)
*樹下三人(1929、油彩、中央美術展出品)
*無題(1929、油彩、中央美術展出品)
*バラ(1929、油彩、来目会展出品)
*題のない絵(1929、油彩、二科展出品)
*漁夫(1929、油彩、二科展出品、福岡県立美術館蔵)
*海(1929、油彩、二科展出品、東京国立近代美術館蔵)
*素朴な月夜(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
*鳥籠(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
*優美なる遠景(1929、水彩・鉛筆・紙、東京国立近代美術館蔵)
*彎曲せる眼鏡(1929)
*窓外の化粧(1930、油彩、[[神奈川県立近代美術館]]蔵)
*単純な哀話(1930、油彩、116.7cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
*黄色のレンズ(二科展出品)
*涯しなき逃避(1930年、油彩、二科展出品、ブリヂストン美術館蔵)
*女のまはり(1930年、二科展出品、2009年現在所在不明)
*厳しき伝統(1931、油彩、アンデパンダン展出品、石橋美術館蔵)
*感傷の静脈(1931、油彩、116.9cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
*朧ろなる時代の直線(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
*現実線を切る主知的表情(1931、油彩、二科展出品、[[西日本新聞社]]蔵)
*感傷の生理に就いて(1931、油彩、二科展出品、所在不明)
*春来る(1931、水彩、「東京パック」1931年3月号裏表紙原稿、東京国立近代美術館蔵)
*仮説の定理(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
*麗しき伝統(1931、油彩、石橋美術館蔵)
*ロボットも微笑む(1931、「東京パック」裏表紙のための素描、石橋美術館蔵)
*金魚(1931、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
*失題(1932、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
*花野原(1932、水彩、日本水彩画会展出品)
*孔雀(1932、油彩、二科展出品)
*白い貝殻(1932、油彩、二科展出品、[[ポーラ美術館]]蔵)
*音のない昼の夢(1932、油彩、二科展出品)
*文化は人間を妨害する(1933、油彩、二科展出品、所在不明)
*深海の情景(1933、油彩、二科展出品、[[大原美術館]]蔵)
*サアカスの景(1933、油彩、二科展出品、神奈川県立近代美術館蔵)


== 資料 ==
== 主な文献 ==
*速水豊著「シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造」[[日本放送出版協会]]、2009年、ISBN 978-4-14-091135-8.
<references/>
*「古賀春江・前衛画家の歩み展」石橋美術館・ブリヂストン美術館、1986年
*「日本のシュールレアリスム 1925~1945」[[名古屋市美術館]]、1990年
*「古賀春江・創作のプロセス」東京国立近代美術館、1991年
*「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館、2001年
*「新しい神話がはじまる 古賀春江の全貌」神奈川県立近代美術館葉山、2010年
==注==
<references group="注"/>
==出典==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Koga Harue}}
*[http://kogaharue.blog22.fc2.com/ 古賀春江資料室]
*[http://kogaharue.blog22.fc2.com/ 古賀春江資料室]
*[http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=4596&edaban=1 海] - [[国立博物館]]
*[http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=4596&edaban=1 海] - [[国立博物館]]
*[http://www.urban.ne.jp/home/festa/koga.htm 略歴と詩]
*[http://www.urban.ne.jp/home/festa/koga.htm 略歴と詩]


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2015年5月30日 (土) 15:31時点における版

古賀 春江
自画像(1915-1916年頃)
本名 古賀 亀雄
誕生日 (1895-06-18) 1895年6月18日
出生地 日本の旗 日本 福岡県久留米市
死没年 (1933-09-10) 1933年9月10日(38歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京
国籍 日本の旗 日本
運動・動向 コラージュモダニズムシュルレアリスム
芸術分野 洋画家
教育 太平洋画会研究所、日本水彩画会研究所
代表作 『煙火』『素朴な月夜』『海』『窓外の化粧』
受賞 二科賞、中展賞
会員選出組織 二科会員
影響を受けた
芸術家
竹久夢二キュビズムパウル・クレー、シュルレアリスム
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古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正から昭和初期に活躍した日本の男性洋画家である。日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家として知られる。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。「春江」はあくまでも通称である。

生涯

幼少期から絵を志すまで

1895年6月18日[1]福岡県久留米市の善福寺の住職(古賀正順)の長男として生まれた[2]。善福寺は江戸時代初期からの歴史を持つ浄土宗の寺である。1902年(明治35年)4月に久留米日吉尋常小学校に入学、1906年(明治39年)3月小学校を卒業し、4月には久留米高等小学校へ入学、1910年(明治43年)同高等小学校を卒業、同年4月に中学明善校へ入学、この頃から久留米市の洋画家松田実(諦晶)に絵を習い始めた[1]1912年(明治45年)、中学3年の時に、両親の反対を押し切って[3]退学[1]、洋画研究のために上京し太平洋画会研究所に通った[3]。翌1913年(大正2年)には、日本水彩画会研究所へ入って石井柏亭に師事した[3]1914年(大正3年)、同居していた友人の藤田謙一が猫いらずで自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になった[3]。このため、心配した父親が古賀を帰郷させた[3]。翌1915年(大正4年)1月に長崎に遊んだ後[1]、2月[1]に僧籍に入り、良昌と改名、春江を呼び名とした[3]。3月には再び長崎に戻った[1]が、この年の冬に再度上京した[3]。翌年の1916年(大正5年)7月[1]に父親を亡くし、父の後を継ぐために宗教大学(後の大正大学)の聴講生になり[1]、学業の傍ら絵の制作に励んだ[3]。同年には日本水彩画会員に推された[3]

画業へ専心

『埋葬』(1922年、総本山知恩院蔵)

1916年11月に岡好江と結婚し、引き続き宗教大学に通ったが翌1917年(大正6年)9月に肋膜炎を患い神田長谷川病院に入院[4]、11月に全快したものの[1]、保養のために帰郷する車中でインフルエンザにかかり[1]急性肺炎をおこし入院、一時危篤状態になった[4]。これが原因で大学を休学、翌1918年には宗教大学を退学し画業に専念する決心をした[5]。水彩画展や光風会展に出品し、1919年の秋、二科展に「鳥小屋」が初入選した[4]が、翌1920年9月に体を悪くし[6]、福岡へ帰郷した[4]。この後、1924年4月に上京するまではほとんど福岡にいた[6]1921年1月、妻の好江が女の子を産んだが死産だった[6]。このことがきっかけとなって、「埋葬」に着手した[6]1922年(大正11年)「埋葬」(油彩・キャンヴァス、総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託)[注 1]「二階より」を二科展に出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した[4]一方、神原泰、中川紀元、矢部友衛ら二科出身の画家13人で「アクション」を結成した[7]。(この後「アクション」は1924年10月3日に解散する[6]。)1924年8月と10月に信州に旅行した際、当地の女性と親しくなり、この女性が上京してきたので下谷に家を借りて同棲を始めた[6]。しかし、1925年に女性が病死したことで関係は終わった[6]

クレーから超現実主義へ

『煙火』(1927年、川端康成記念会蔵)

1926年(大正15年)に入ってからは東京に定住するようになり[7]、二科会会友に推され[4]、また、クレー風の絵をかきだすようになった[7]。翌1927年の8月に母を亡くし帰郷、9月には東京に戻ったが、11月になって神経衰弱を患い再び帰郷した[4]。翌1928年5月には長崎へ転地し、そこで「生花」などを制作した[4]。この年、中川紀元の紹介で東郷青児を知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年初めに阿部金剛を知った[8]。この時期を代表する絵として「煙火」(1927年、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)があげられる[注 2]。「素朴な月夜」(1929年、油彩・キャンヴァス、117.0×91.0cm、ブリヂストン美術館蔵)もこの時期の作である。この頃はクレー風の絵を描いていたが、1929年(昭和4年)になると画風が変わり、構成的なシュルレアリスムの絵が現れだす。古賀の代表作の1枚「海」(1929年、油彩・キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品、東京国立近代美術館蔵)が描かれたのはこの年である。1929年11月、一九三〇年協会に加入したが、12月には二科会会員に推挙された[注 3]ので協会を脱退した[8]

『窓外の化粧』(1930年、神奈川県立近代美術館蔵)

1930年(昭和5年)からは舞台装置の制作や装丁・挿絵の仕事を始めるようになった[8]一方、この頃から病気がちになる[4]。この年には「窓外の化粧」(1930年、油彩・キャンヴァス、161.0×129.0cm、神奈川県立近代美術館蔵)他4点が二科展に出品され、短い画論「超現実主義私感」[注 4]が「アトリエ」誌1月号に掲載された[4]1931年、日本水彩画会委員(鑑査)になり、川端康成と知り合いになった[8]。また、生前唯一の画集「古賀春江画集」を第一書房から刊行した[8]。その他、「コドモノクニ」にイラストを発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。しかし、1932年3月に強度の神経痛に冒され体が衰え出し、次第に厭人的になり代わって犬や小鳥を熱愛するようになり出した[8]1933年4月から二科展出品のために「文化は人間を妨害する」と「深海の情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作を開始し[4]、5月には阿部金剛、東郷青児、峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設の話し合いをしていたが[8]、7月、義兄が重病との知らせを受けて帰郷した際、同月14日に帰京の途中で発病、病身をおして「サアカスの景」を完成させねばならなかった[1]。川端康成が書いた文章によると、手の震えでローマ字は整った書体が書けず、署名は高田力蔵に入れてもらった[9][10]

『サアカスの景』(1933年、神奈川県立近代美術館蔵)

8月1日に東京帝国大学島薗内科[注 5]に入院、入院中も詩作や作画をしていたが、9月10日危篤におちいり、同日亡くなった[4]。享年39歳。1944年5月になって善福寺境内に古賀春江の供養塔が作られた[11]。生地の善福寺はその作品を寺宝に有しており、境内には石井柏亭の碑銘による墓碑がある。安井曽太郎が古賀の死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。

古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた。古賀君の理智的で近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明るい色調は美しいものであったが、それ等に底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。 — 安井曽太郎、「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)

作風

古賀は西洋の多くの美術動向や画家の影響を受け、短期間のうちにその作風を変転させている。若い頃の古賀は竹久夢二の絵にあこがれていて[12]、1919年に松田諦晶宛ての葉書でも竹久夢二を賞賛しており[12]、その影響はかなり長かったと見られる。その後もセザンヌから影響を受けたり[13]、未来派やピカソローランサンにも関心を持っていたことが残されたスケッチブックの模写からうかがえる[13]。特にパウル・クレーからの影響は大きく[13]、1926年から1927年にかけてクレー風の作品が描かれた。その後「海」や「鳥籠」によって再び作風を転換させた。発表当時、「海」はシュルレアリスムの日本絵画への初めての表れだとみなされた[14]。油彩・水彩画の他に、自作の絵に付けた詩も多く残している。

コラージュによる作画

古賀春江の代表的な作品である「海」は、コラージュ技法による作品であることがわかっている。コラージュ技法自体は、古賀以前の大正期の画家が既に実践しており[15]、それ自体は何ら新しい試みではない。しかし「海」においては、絵画におけるモンタージュではなく、むしろ写真におけるモンタージュ技法に近い点が従来と異なる[16]

仲田定之助が「写真技術の新傾向―ホモリ・ナギーの近著から」(「アサヒカメラ」二巻、1926年10月号)という論文内でホモイ=ナジの「形成写真(Foto-plastick)」(写真によるコラージュ技法)の紹介を行っており[17]、この頃、古賀はコラージュ技法に興味を持っていた。坂宗一(古賀と親交のあった画家)によると、

これから始まる超現実主義の仕事に、私も脇役で手伝った。と云っても、ただ子供の科学という薄っぺらな雑誌を古本屋の店先で買い集めるのだが、その仕事が彼の仕事にどう役立つかは知らなかったが、古賀さんはこの中から関連なく写真や絵図を切り取って組み合わせることで、一枚の主張を持った作品を創った。これをモンタージュというのだと後になって教えてくれた。無関連を関連して別な意味を創りだすというむずかしい話だった。 — 坂宗一、「サーカスの景」「古賀春江回顧展」福岡県文化会館、1975年、p.105

という[18]

『海』(1929年)東京国立近代美術館

このような、科学雑誌からのコラージュによる作画法は、マックス・エルンストや、その手法を参考にして描いた一時期の福沢一郎と同様の手法である[19]。 以下のように、1929年の「海」以降の多くの作品も「科学画報」「アサヒグラフ」「キング」といった一般雑誌に掲載されていた写真のコラージュによって構成されていたことが明らかにされている。

  • 「海」の画面中央からやや左上に見える飛行船は、一般向け科学雑誌「科学画報」1928年12月号p.846の中の一枚の写真を参考にした可能性がある[20]。また、飛行船のすぐ下に見える鉄塔は「科学画報」の同じページの別の写真から[21]、画面下側に見える潜水艦は「科学画報」1928年5月号900頁掲載の挿図[22]から採られた可能性がある。その他、画面右の女性は「原色写真新刊西洋美人スタイル第9集」(青海堂)という絵葉書セットの一枚からとられたことがわかっている[23]
  • 「鳥籠」の画面左、鳥篭に閉じ込められた女性というデザインは、この絵が発表された春に公開された映画「妖花アラウネ」のスチール写真をもとにしているのではないかと指摘されている[24]。また、画面左下の階段は、「科学画報」1928年5月号p.809に掲載された「高架式最新設備の大荷物駅竣工」に描かれた挿図からとられたものとみられる[25]。その他、画面中央下と右上にそれぞれ見られる円盤状の物体は「科学画報」1927年1月号p.36掲載の方解石の顕微鏡写真をもとにしている[26]
  • 「窓外の化粧」の画面右上の高層ビルの上で女性が踊っている部分は、「アサヒグラフ」1925年9月30日号p.6掲載の写真「エッフェル塔上ダンスの一幕」から着想された[27]。この事実は、残っている「窓外の化粧」のためのスケッチ数枚から推定されている[28]。絵の女性のポーズは、大衆娯楽雑誌「キング」1927年4月号の写真「世界写真画報(瑞典の巻其のニ)」から採られた[29]。なお、速水「シュルレアリスム絵画と日本」では写真のダンサーはスウェーデン人であると書かれているが、「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」p.46ではスイス人だと書かれている。
  • 「単純な哀話」の画面右下に見える植物は「科学画報」1928年5月号p.860に載っている挿図のコラージュである[30]
  • 「黄色のレンズ」の画面左に見える抽象的なデザインは「科学画報」1928年4月号p.734に載っている挿図からのコラージュ[31]である。
  • 「音のない昼の夢」の画面右下に置かれた花は「科学画報」1928年5月号p.861「植物の感覚」の挿図を抽象化して使ったものらしい[32]
  • 「女のまはり」の画面左に見えるボールを上に投げ上げた人物は、「アサヒグラフ」1929年8月14日号の「コドモグラフ」と題した子供向けページに載っていた「まりつき」という題の写真のコラージュである[33]
  • 「春来る」の画面中央のポーズをとった女性は、「アサヒグラフ」1930年5月7日号p.17の「マーガレット・モリス舞踊団の練習」と題された写真からとられたものである[34]
  • 「仮説の定理」の画面左側中央の奇妙な乗り物に乗った人物は「アサヒグラフ」1927年12月14日号p.23の「帆かけ車」の写真を利用したもの[35]、画面中央右上の犬は「アサヒグラフ」1930年11月12日号p.18.の「たかとび」と題した写真の中の犬を利用したものである[36]
  • 「朧ろなる時代の直線」の画面右上の描かれた飛行機とモーターボートは、「アサヒグラフ」1930年6月4日号p.11の「モーター・ボートからの離陸」の写真を利用したものである[37]
  • 「現実線を切る主智的表情」画面左の射撃手は「アサヒグラフ」1926年2月24日号pp.8-9の「湖上佳人の射撃練習」を利用したものと推測されている[38]。また、スケッチ段階で射撃手が持っていたのはライフル銃であったのに対し、最終的な絵ではライオット・ガンに変更されている[39]。このライオット・ガンは、「アサヒグラフ」1928年2月22日号p.11の写真「新型自動ライフル銃」を用いたものとみられる[40]。画面右の馬と柵は「アサヒグラフ」1926年6月2日号p.14の「かろがろと飛び越えて」の馬を利用したものである[41]。馬に乗っているロボットは、当時の日本で1931年を頂点としてロボット・ブームがあり[42]、その影響によるものとみられる。
  • 最晩年の作「深海の情景」の画面中央下の白い動物は、「アサヒグラフ」1931年4月15日号掲載の写真「最先端をゆく舞踏の」の中のポーズをそのまま利用している[43]
  • 「サアカスの景」は、ハーゲンベック曲馬団をイメージして描かれた絶筆だが、松田諦晶の残した資料の中に「独逸ハーゲンベック動物園・世界最大の猛獣大サーカス図実景」の絵葉書10枚が含まれていて[44]、うち6枚に絵の具がついている[44]ことから、これらの葉書の絵を利用したと見られる。
『現実線を切る主智的表情』(1931年、西日本新聞社蔵)

精神障害者の絵

ヨーロッパのシュルレアリストの1部が精神障害者の描いた絵に興味を持ったのと同じく古賀もそれらに興味を持った。例えば、1930年の二科展に出品された「涯しなき逃避」は、アウグスト・ネターの「驚異の牧人」がヒントになって生まれた[45]。「涯しなき逃避」に描かれている人物のポーズは「驚異の牧人」と全く同じである[46]

『涯しなき逃避』(1930年、ブリヂストン美術館蔵)

この「驚異の牧人」は、ドイツの医師ハンス・プリンツホルンの「精神病者の造型」という本の中に収録された図の1枚で、古賀はこの本に収録された他の図版を何点も模写している[46][注 6]。また、この「精神病者の造型」はヨーロッパのシュルレアリストにも影響を与えていたと考える研究者が複数いる[47]ブルトンエルンストなどのヨーロッパのシュルレアリストも精神障害者の絵に興味を持ちそれらをヒントにして創作したが、古賀が精神障害者の絵に興味を持ったのは彼らの著作物に影響されたのか独自のものなのかははっきりとはわからない[48]

古賀春江の「超現実主義」

シュルレアリスム移行後の古賀の絵にはしばしば近代的な建築物やロボット、機械が描きこまれており、残されているデッサンにもしばしば登場する。また、画面は構成的であり[49]、ヨーロッパのシュルレアリスムが科学や合理主義への懐疑・反発・否定を出発点としたのとは矛盾する態度を示した[49]。その他、1930年1月に発表した「超現実主義私観」に見られる古賀の超現実主義の理解は、ヨーロッパのシュルレアリスムとはまったく 異なったものだった[50]。この小論の中で古賀は以下のように書き、夢や無意識の世界を描くことを否定的に見ている[51]

超現実主義を以って夢に等しき無目的の意識状態であるといふ説は首肯出来ないものである。

そして、画面の構成を強調し、超現実主義とは主智主義である、と主張している[51]

超現実主義は純粋性へ憧憬する意識的構成である。故に超現実主義は主智主義である。

事物の純粋性が強調され、そのためには、描かれた対象から現実感を消し、更には、絵から感じられる作者の感情も消し去る必要があると主張する[52]

この場合の対象は何処まで精神を通して計算されるものであって現実的意味を持たなくなる。現実的形式ではなくして芸術的形式である。例へば描かれたる机は机自身の形ではない。具象的現実の机ではなくなるのである。斯く対象としての現実的表象がその意味を持たなくなった所から芸術は始まる。作者の影も同様に薄くなる。こに作者が居ると思はせる作品はまだ純粋ではないのである。純粋の境地―情熱もなく感傷もない。一切が無表情に居る真空の世界。発展もなければ重量もない。全然運動のない永遠の静寂の世界! 超現実主義は斯くの如き方向に向つていくものであると思ふ。

主な作品

  • 桧(1917、水彩、水彩展出品)
  • 芍薬(1918、水彩、水彩画展出品)
  • 鉢(1919、光風会展出品)
  • 地蔵尊(1919、水彩、水彩画展出品、石橋美術館蔵)
  • 鳥小屋(1919、二科展出品・初入選)
  • 無題(1921年頃、油彩、72.5cm×72.5cm、石橋美術館蔵)
  • 埋葬(1922、油彩、水彩が各1点ずつ、油彩画は二科展出品・総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託、水彩画は福岡県立美術館蔵)
  • 二階より(1922、二科展出品、2001年現在個人蔵)
  • 収穫(1923、第1回アクション展出品)
  • 曲彔につく(1923、第1回アクション展出品、2001年現在個人蔵)
  • 涅槃(1923、油彩、二科展出品、2001年現在所在不明)
  • 海女(1923、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
  • 海水浴の女(1923、油彩、89.7cm×115.1cm、石橋美術館蔵)
  • 静物(1923)
  • 公園の松(1923、水彩)
  • 風景(1923、水彩、同名で4枚制作)
  • 梅(1924、水彩、水彩展出品)
  • 編物をする女(1924、水彩、水彩展出品)
  • グループ(1924、アクション展出品、2001年現在所在不明)
  • 魚市場(1924、油彩、中央美術展出品、中展賞受賞作、2001年現在所在不明)
  • 窓際の女(1924、油彩、二科展出品)
  • 誕生(1924、油彩、91.0cm×116.8cm、石橋美術館蔵)
  • 生誕(1924、油彩、福岡市美術館蔵)
  • 肩掛けの女(1925、二科展出品)
  • 静物(1925年頃、水彩、石橋美術館蔵)
  • 美しき博覧会(1926、水彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
  • 蝦夷菊(1926、二科展出品)
  • 月花(1926、油彩、東京国立近代美術館蔵)
  • 遊園地(1926、水彩、ブリヂストン美術館蔵)
  • 花(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
  • 風景(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
  • 無題(1926、水彩、日本水彩画会展出品)
  • 風景A(1926、中央美術展出品)
  • 風景B(1926、中央美術展出品)
  • 花と果実(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
  • 海辺風景(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
  • 花(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
  • 肖像(1926、油彩、聖徳太子奉賛美術展出品)
  • 船着場(1926、水彩、二科展出品)
  • 煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)
  • 煙火(1927、油彩・キャンヴァス、90.9x60.6cm、三重県立美術館蔵)
  • 窓(1927、油彩、福岡県立美術館蔵)
  • 牛を焚く(1927、水彩)
  • 静物(1927、水彩、日本水彩画会展出品)
  • 裸婦(1927、油彩、来目会展出品)
  • 動物(1927、油彩、二科展出品)
  • 窓(1927、油彩、二科展出品)
  • 雪景(1927、油彩、来目会展出品)
  • 林檎(1927、油彩、来目会展出品)
  • 花(1927、油彩、来目会展出品)
  • 渓の残雪(1927、油彩、来目会展出品)
  • 三国峠遠望(1927、油彩、来目会展出品)
  • 生花(1928、二科展出品)
  • 蝸牛のある風景(1928)
  • ダリア(1928、油彩、来目会展出品)
  • 読書(1928、油彩、来目会展出品)
  • 汽車の通る風景(1928、水彩、来目会展出品)
  • 山ノ手風景(1928、油彩、二科展出品)
  • 蝸牛のゐる田舎(1928、油彩、二科展出品)
  • バラ(1928、油彩、来目会展出品)
  • コスモス(1928、油彩、来目会展出品)
  • 樹下三人(1929、油彩、中央美術展出品)
  • 無題(1929、油彩、中央美術展出品)
  • バラ(1929、油彩、来目会展出品)
  • 題のない絵(1929、油彩、二科展出品)
  • 漁夫(1929、油彩、二科展出品、福岡県立美術館蔵)
  • 海(1929、油彩、二科展出品、東京国立近代美術館蔵)
  • 素朴な月夜(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
  • 鳥籠(1929、油彩、二科展出品、石橋美術館蔵)
  • 優美なる遠景(1929、水彩・鉛筆・紙、東京国立近代美術館蔵)
  • 彎曲せる眼鏡(1929)
  • 窓外の化粧(1930、油彩、神奈川県立近代美術館蔵)
  • 単純な哀話(1930、油彩、116.7cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
  • 黄色のレンズ(二科展出品)
  • 涯しなき逃避(1930年、油彩、二科展出品、ブリヂストン美術館蔵)
  • 女のまはり(1930年、二科展出品、2009年現在所在不明)
  • 厳しき伝統(1931、油彩、アンデパンダン展出品、石橋美術館蔵)
  • 感傷の静脈(1931、油彩、116.9cm×91.4cm、石橋美術館蔵)
  • 朧ろなる時代の直線(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
  • 現実線を切る主知的表情(1931、油彩、二科展出品、西日本新聞社蔵)
  • 感傷の生理に就いて(1931、油彩、二科展出品、所在不明)
  • 春来る(1931、水彩、「東京パック」1931年3月号裏表紙原稿、東京国立近代美術館蔵)
  • 仮説の定理(1931、油彩、二科展出品、2009年現在所在不明)
  • 麗しき伝統(1931、油彩、石橋美術館蔵)
  • ロボットも微笑む(1931、「東京パック」裏表紙のための素描、石橋美術館蔵)
  • 金魚(1931、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
  • 失題(1932、油彩、津田清楓洋画塾展出品)
  • 花野原(1932、水彩、日本水彩画会展出品)
  • 孔雀(1932、油彩、二科展出品)
  • 白い貝殻(1932、油彩、二科展出品、ポーラ美術館蔵)
  • 音のない昼の夢(1932、油彩、二科展出品)
  • 文化は人間を妨害する(1933、油彩、二科展出品、所在不明)
  • 深海の情景(1933、油彩、二科展出品、大原美術館蔵)
  • サアカスの景(1933、油彩、二科展出品、神奈川県立近代美術館蔵)

主な文献

  • 速水豊著「シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造」日本放送出版協会、2009年、ISBN 978-4-14-091135-8.
  • 「古賀春江・前衛画家の歩み展」石橋美術館・ブリヂストン美術館、1986年
  • 「日本のシュールレアリスム 1925~1945」名古屋市美術館、1990年
  • 「古賀春江・創作のプロセス」東京国立近代美術館、1991年
  • 「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館、2001年
  • 「新しい神話がはじまる 古賀春江の全貌」神奈川県立近代美術館葉山、2010年

  1. ^ 同タイトル、同じ構図の水彩画が別に存在する。
  2. ^ 1927年制作の同名油彩(三重県立美術館蔵)が別に存在する。
  3. ^ 講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」(講談社、1963年)の年譜では、1930年(昭和5年)に二科の会友に推された、と書かれている。
  4. ^ 講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」では「超現実派私観」と書かれている。
  5. ^ 講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」講談社、1963年、p.71では慶大病院と書かれている。
  6. ^ 模写したデッサンは石橋美術館が所蔵している。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「古賀春江 創作の原点 作品と資料でさぐる」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、2001年、p.58. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "origin_58"が異なる内容で複数回定義されています
  2. ^ 講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」講談社、1963年、pp.63. 71.
  3. ^ a b c d e f g h i 講談社版日本近代絵画全集9, p.63.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 講談社版日本近代絵画全集9、p.71.
  5. ^ 講談社版日本近代絵画全集9, pp.64, 71.
  6. ^ a b c d e f g 「古賀春江 創作の原点」p.59.
  7. ^ a b c 講談社版日本近代絵画全集9、p.64.
  8. ^ a b c d e f g 「古賀春江 創作の原点」、p.60.
  9. ^ 川端康成「末期の眼」(文藝 1933年12月号に掲載)
  10. ^ 講談社版日本近代絵画全集9「萬鉄五郎・小出楢重・古賀春江」p.59.
  11. ^ 「古賀春江 創作の原点」p.61.
  12. ^ a b 「古賀春江 創作の原点」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、p.23.
  13. ^ a b c 「古賀春江 創作の原点」石橋財団ブリジストン美術館・石橋美術館、p.24.
  14. ^ 速水豊著「シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造」日本放送出版協会、2009年、ISBN 978-4-14-091135-8、p.55.
  15. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.56.
  16. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.58.
  17. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.59, 300.
  18. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.61.
  19. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」Ⅴ福沢一郎―シュルレアリスムの衝撃と葛藤、pp.141-211.
  20. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.63-64.
  21. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.64-65.
  22. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.66.
  23. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.74
  24. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.80-81.
  25. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.82.
  26. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.82-83.
  27. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.92-94.
  28. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.91-92.
  29. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.94.
  30. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.101-102.
  31. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.102-104.
  32. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.103-104.
  33. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.116-117.
  34. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.117.
  35. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.118.
  36. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.118.
  37. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.119.
  38. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.121-122.
  39. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.123-125.
  40. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.124-125.
  41. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.122-123.
  42. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.126.
  43. ^ 「古賀春江 創作の原点」p.46.
  44. ^ a b 「古賀春江 創作の原点」p.48.
  45. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.107.
  46. ^ a b 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.107-108.
  47. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.109.
  48. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.108-111.
  49. ^ a b 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.90.
  50. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.132.
  51. ^ a b 速水「シュルレアリスム絵画と日本」p.137.
  52. ^ 速水「シュルレアリスム絵画と日本」pp.137-138.

外部リンク