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「アポロ9号」の版間の差分

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mass = 司令機械船 26,801 kg;<br />月着陸船 14,575 kg
mass = 司令機械船 26,801 kg;<br />月着陸船 14,575 kg
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'''アポロ9号'''は[[アメリカ合衆国]]の[[アポロ計画]]における三度目の[[有人宇宙飛行]]である。[[アポロ司令・機械船]]を[[アポロ月着陸船|月着陸船]]とともにフルセットで打ち上げるのは、これが初めてだった。ジェームズ・マクディビット (James McDivitt) 船長、[[デイヴィッド・スコット]] (David Scott) 司令船操縦士、[[ラッセル・シュウェイカート|ラッセル・シュワイカート]] (Rusty Schweickart) 月着陸船操縦士の三名の[[宇宙飛行士]]は、着陸船の[[ロケットエンジン]]・[[宇宙服]]の[[生命維持装置]]・[[航法]]装置・[[ドッキング]]操作など、月面着陸において重要となるいくつもの要素について試験を行った。また[[サターンV|サターン5型ロケット]]を使用して有人飛行を行うのは、これが二度目であった。
'''アポロ9号'''(あぽろ9ごう、Apollo 9)は、[[アポロ計画]]での3回目の有人ミッションである。[[1969年]][[3月3日]]に打ち上げられ、地球軌道を10日間飛行した。[[サターンV 型ロケット]]で打ち上げられた2回目の有人飛行で、[[月着陸船]] (LM) の最初の有人飛行である。


[[1969年]][[3月3日]]に発射された後、飛行士たちは[[人工衛星の軌道|軌道]]上で10日間を過ごし、その間に月着陸船による初の有人飛行や、二度の[[宇宙遊泳|船外活動]]を行った。またこの間に実行された人間が搭乗した[[宇宙船]] (司令船と月着陸船) 同士の[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]とドッキングは、史上二度目となるものであった (史上初のドッキングはこの2ヶ月前に[[ソビエト連邦]]の[[ソユーズ4号]]と[[ソユーズ5号|5号]]によって行われ、飛行士が船外活動で宇宙船を乗り移った)。この飛行により月着陸船の安全性が証明され、後の[[アポロ10号]]の飛行で、アポロ計画の究極の目的である月面着陸への準備が整うこととなった。
== 乗員 ==
*[[ジェームズ・マクディビット]] (2), 船長
*[[デイヴィッド・スコット]] (2), 司令船操縦士
*[[ラッセル・シュワイガート|ラッセル・シュワイカート]] (1), 月着陸船操縦士
<small>* 括弧内の数字は、それぞれが何回目の宇宙飛行であるか(このミッションを含む)を示している。</small>


=== 予備乗員 ===
==乗員==
{{Spaceflight crew
*[[ピート・コンラッド]] ([[ジェミニ5号]]・[[ジェミニ11号]]・[[アポロ12号]]・[[スカイラブ2号]])、船長
|terminology = 飛行士
*[[リチャード・F・ゴードンJr|リチャード・ゴードン]] ([[ジェミニ11号]]・[[アポロ12号]])、司令船操縦士
|position1 = 船長
*[[アラン・ビーン]] ([[アポロ12号]]・[[スカイラブ3号]])、月着陸船操縦士
|crew1_up = ジェームズ・マクディビット (James McDivitt)
|flights1_up = 二
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = デイヴィッド・スコット (David Scott)
|flights2_up = 二
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = ラッセル・シュワイカート (Rusty Schweickart)
|flights3_up = 一
|notes = [[アポロ8号]]と同様、飛行士は[[ジェミニ計画]]のベテラン飛行士二名と新人一名で構成されていた。
}}


===予備搭乗員===
*予備乗員の月着陸船操縦士は元々[[クリフトン・ウィリアムズ (宇宙飛行士)|クリフトン・ウィリアムズ]]であった。[[1967年]][[10月5日]]に彼が[[T-38 (航空機)|T-38タロン]]で墜落死したため、代わりにアラン・ビーンが加わった。後に予備乗員がアポロ12号に搭乗した時、ミッション・パッチには彼を追悼する4つ目の星が加えられた。
{{Spaceflight crew
|terminology = 飛行士
|position1 = 船長
|crew1_up = [[ピート・コンラッド]] (Charles Pete Conrad, Jr)
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = リチャード・ゴードン (Richard F. Gordon, Jr.)
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[クリフトン・ウィリアムズ (宇宙飛行士)| クリフトン・ウィリアムズ]] (Clifton C. Williams){{efn|当初はウィリアムズが予備搭乗員に指名されていたが、彼が[[1967年]][[10月5日]]に[[T-38 (航空機)|T38練習機]]の事故により死亡したため新たにビーンが任命された。後に予備搭乗員たちが[[アポロ12号]]で飛行した際、飛行の記章にビーンを記念して四つ目の星が加えられた。}}<br>[[アラン・ビーン]] (Alan L. Bean)
|notes = この予備搭乗員たちは、[[アポロ12号]]の本搭乗員となった。
}}


=== 支援乗員 ===
===支援飛行士===
*[[フレッド・ヘイズ]] ([[アポロ13号]])
* [[フレッド・ヘイズ]] (Fred W. Haise, Jr)
*[[ジャック・ルーズマ]] ([[スカイラブ3号]]、[[STS-3]])
* ジャック・ルーズマ (Jack R. Lousma)
*[[エドガー・ミッチェル]] ([[アポロ14号]])
* [[エドガー・ミッチェル]] (Edgar D. Mitchell)
*[[アルフレッド・ウォーデン]] ([[アポロ15号]])
* アルフレッド・ウォーデン (Alfred M. Worden)


=== 飛行主任 ===
===飛行主任===
*[[ジーン・クランツ]]ホワイトチーム
* ジーン・クランツ (Gene Kranz)チーム主任
*ジェラルド・グリフィン、ゴールドチーム
* ジェラルド・グリフィン (Gerald D. Griffin)チーム主任
*ピート・フランク、オレンジチーム
* ピート・フランク (Pete Frank)、オレンジチーム主任


==飛行の概要==
== ミッション・パラメータ ==
*'''[[質量]]:''' 司令機械船 26,801 kg; 月着陸船 14,575 kg
* '''[[質量]]:''' 司令機械船 26,801&nbsp;kg月着陸船 14,575&nbsp;kg
*'''[[近地点]]:''' 189.5 km
* '''[[近地点]]:''' 189.5&nbsp;km
*'''[[遠地点]]:''' 192.4 km
* '''[[遠地点]]:''' 192.4&nbsp;km
*'''[[軌道傾斜角]]:''' 32.57°
* '''[[軌道傾斜角]]:''' 32.57°
*'''[[公転周期|周期]]:''' 88.64 分
* '''[[軌道周期]]:''' 88.64 分


=== 月着陸船と司令機械船のドッキング ===
===司令機械船と着陸船とのドッキング===
*'''切り離し''': [[1969年]][[3月7日]] - 12:39:36 UTC
* '''ドッキング切り離し'''[[1969年]][[3月7日]] 12:39:36 [[UTC]]
*'''再ドッキング''': [[1969]][[3月7日]] - 19:02:26 UTC
* '''再ドッキング''':1969年3月7日 19:02:26 UTC


=== 船外活動 ===
===船外活動===
* シュワイカート - EVA - 着陸船前ハッチ
* ''シュワイカート'' - [[宇宙遊泳|船外活動]] - 着陸船前ハッチからの船外活動
**'''開始''': [[1969]][[3月6日]] 16:45:00 UTC
** '''開始時間''':1969年[[3月6日]] 16:45:00 UTC
**'''終了''': [[1969]][[3月6日]] 17:52:00 UTC
** '''終了時間''':1969年3月6日 17:52:00 UTC
**'''間''': 1時間07分
** '''活動時間''':1時間07分
* ''スコット'' - ハッチから半身を乗り出しての船外活動 - 司令船側方ハッチから
** '''開始時間''':1969年3月6日 17:01:00 UTC
** '''終了時間''':1969年3月6日 18:02:00 UTC
** '''活動時間''':1時間01分


==当初の計画==
* スコット - EVA - 司令船側面ハッチ
マクディヴィット、スコット、シュワイカートの三名は、当初はAS-204の指定番号が与えられている'''[[アポロ1号]]'''の予備搭乗員に任命されていた。1号には[[ガス・グリソム]] (Gus Grissom)、[[エドワード・ホワイト]] (Edward Higgins White)、[[ロジャー・チャフィー]] (Roger Chaffee) が搭乗し、[[1966年]]後半に司令・機械船による初の地球周回試験飛行を行う予定になっていた。またこの後には、[[ウォルター・シラー]] (Wally Schirra)、[[ウォルター・カニンガム]] (Walter Cunningham)、[[ドン・エイゼル]] (Donn F. Eisele) が搭乗する'''AS-205'''が予定されていた。
**'''開始''': [[1969年]][[3月6日]] 17:01:00 UTC
**'''終了''': [[1969年]][[3月6日]] 18:02:00 UTC
**'''期間''': 1時間01分


だが司令・機械船の開発が遅れたことでAS-204の飛行は[[1967年]]にずれ込んでしまい、これによりAS-205は1966年にキャンセルされた。シラーのチームはグリソムたちの予備搭乗員に任命され、代わってマクディヴィットのチームが新たな飛行の本搭乗員に昇格した。マクディヴィットたちが搭乗する新たな飛行では、司令・機械船および月着陸船の完成形を2機の[[サターンIB|サターンIB型ロケット]]で別々に地球周回軌道に打ち上げ、ランデブーとドッキングをすることになっていた。
=== 関連項目 ===
* [[船外活動|船外活動 (EVA)]]
* [[:en:List of spacewalks|宇宙遊泳の一覧]] (en)
* [[:en:Splashdown (spacecraft landing)|着水]] (en)


彼らは直ちに、新たに'''AS-205/208'''の指定番号が与えられた、1967年後半に発射が予定されているこの飛行の訓練を始めた<ref>{{cite web | title=Apollo Image Gallery: Early Apollo |work=Project Apollo Archive |publisher=Kipp Teague |url=http://www.apolloarchive.com/apollo_gallery.html |accessdate=August 3, 2010}}</ref>。
== ミッションの背景 ==
1967年10月時点の計画では、[[アポロ7号]](Cミッション)で[[司令・機械船]] ([[:en:Apollo Command/Service Module|CSM]]) の初の有人軌道飛行を行った後に、2回目の有人アポロミッション(Dミッション)で有人のCSMを[[サターンロケット|サターンIBロケット]]で打ち上げ、数日後に[[月着陸船]] ([[:en:Lunar Module|LM]]) をもう1基のサターンIBロケットで打ち上げて、初の軌道ランデブーを行う予定であった。このミッションはマクディビットとスコットとシュワイカートが担当し、これとよく似た地球軌道テスト(Eミッション)は[[フランク・ボーマン]]と[[ジム・ラヴェル]]と[[ウィリアム・アンダース]]が担当して[[サターンVロケット]]で CSM と LM の両方を打ち上げる予定であった。


1967年[[1月27日]]、グリソムたちは[[2月21日]]に発射が予定されている1号の飛行の予行演習ともいえる最終調整を、発射台上で行っていた。そのとき突然、電気系統の[[短絡|ショート]]が原因と見られる火花が発生し、司令船内は瞬く間に炎に包まれた。三人の飛行士は逃げる間もなく、アメリカの[[宇宙開発]]史上初めての犠牲者となった。この事故によりアポロ計画は18ヶ月に及ぶ停滞を余儀なくされ、安全上の問題点が数多く指摘された司令船は根本から設計を見直された。
しかし、LMの製造上の問題から、Dミッションは[[1969年]]の春以降にならないと行えなくなり、NASAの職員はCミッションとDミッションの間に、CSMのみ(LMなし)で初の月への有人飛行を行う「C-Prime」ミッションを追加した。このミッションは[[アポロ8号]]となり、ボーマンとラヴェルとアンダースが担当することとなる。順序としてはマクディビットの番だったが、LMに習熟していたため「C-Prime」ミッションから外されたのだと彼は主張している。しかし仮に打診されたとしても、LMを飛ばしたいので彼は断っただろう。元のEミッションは、それ以降に延期された。アポロ9号はアポロ宇宙船全体として唯一の地球軌道テストで、2基のサターンIBロケットの代わりに1基のサターンVロケットで打ち上げられた。アポロ8号と9号の乗員の順序が入れ替わったことから、後々にも影響が残った。予備乗員も入れ替えられ、最初の有人着陸ミッションは[[チャールズ・コンラッド|ピート・コンラッド]]のチームの代わりに、[[ニール・アームストロング]]のチーム(ボーマンとラヴェルとアンダースの予備乗員であった)の順番になった。


だが仮に1号の事故がなかったとしても、AS-205/208の発射は不可能だった。着陸船の開発は遅れていて、ようやく初の無人飛行が行われたのは1968年1月のことであった。この18ヶ月間を、[[NASA]]は遅れていた着陸船とサターン5型ロケットの開発と無人試験に充てることができた。
== ミッションのハイライト ==
アポロ9号は初めて宇宙で行われたアポロ宇宙船全体のテストであり、宇宙船を構成する3つ目の重要な部分である「[[月着陸船]]」のテストも含まれていた。10日間かけて、地球軌道上で3台の宇宙船を操作し、月軌道上で行うのと同じように司令船と月着陸船を切り離して再ドッキングさせた。アポロ宇宙船による軌道上でのランデブーとドッキングが可能であることが、アポロ9号で証明された。


有人飛行計画の進行は1967年10月までには再開され、翌1968年10月にはシラーのチームが[[アポロ7号]]として、「C計画」と呼ばれるアポロ宇宙船による初の地球周回飛行を行った。またこの年の12月にはマクディヴィットのチームが2機のサターンIBではなく1機のサターン5型を使用する「D計画」と呼ばれる飛行を行い、さらに1969年初頭には[[フランク・ボーマン]] (Frank Borman)、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]] (Michael Collins)、[[ウィリアム・アンダース]] (William Anders) が搭乗して地球をより高い軌道で周回する「E計画」が行われることになっていた。
このミッション以降のアポロの飛行では、乗員はその宇宙船に名前を付けてもよいことになった(最後に名前を付けられたのは[[ジェミニ計画|ジェミニ3号]]であった)。細長い月着陸船は「スパイダー(クモ)」と名付けられ、[[青]]い[[セロファン]]に包まれて KSC へ届けられた司令船は「ガムドロップ(飴玉)」と名付けられた。


だが相続く着陸船の開発トラブルによりD計画は1969年の春まで実行することが不可能になったため、NASAは8号をサターン5型を使って司令・着陸船のみを月を周回させる飛行に変更し、E計画は不要であるとしてキャンセルされた。一方でマクディヴィットのチームはこの間ずっと着陸船初飛行のための訓練を続けており、彼も着陸船の飛行をしたいという希望を個人的に表明していたため、ボーマンとマクディヴィットのチームが交代し、D計画がアポロ9号となった。
[[ファイル:Gumdrop Meets Spider - GPN-2000-001100.jpg|left|thumb|200px|シュワイカートが撮影したスコットのEVA]]
シュワイカートとスコットによる EVA が行われた。シュワイカートは新しいアポロ宇宙服(命綱で宇宙船へ接続するのではなく宇宙服自体に生命維持装置を持っている)をチェックし、スコットは司令船のハッチから彼を撮影した。シュワイカートは宇宙服をテストするためにより大規模な活動を行って、緊急時には月着陸船から司令船まで宇宙飛行士が EVA できることを証明することになっていた。しかし、彼が[[宇宙酔い]]に苦しんでいたため、月着陸船のハッチからポーチに出るだけに制限された。


この搭乗員のシフトの交代は、誰が最初に月面に降り立つかということにも影響を与えた。8号と9号の飛行士が交代されたとき、その予備搭乗員もまたシフトチェンジされたのである。搭乗員シフトのルールでは、予備搭乗員に任命された飛行士たちはその三つ後の飛行での本搭乗員となるのが原則だった。そのためボーマンたちの予備だった[[ニール・アームストロング]] (Neil Armstrong) のグループが史上初の月面着陸をする[[アポロ11号]]の本搭乗員となり、また本来は11号に搭乗する予定だった[[ピート・コンラッド]] (Charles Pete Conrad, Jr) のグループは、史上二度目の着陸となる[[アポロ12号]]で飛行することになったのである。
マクディビットとシュワイカートは、地球軌道でのLMのテスト飛行と切り離しとドッキングを行った。初めに下降ステージのエンジンを使って「ガムドロップ」から111マイルまでLMを飛ばし、その後下降ステージを放棄して上昇ステージで戻った。


==計画の焦点==
着水点は、バハマから東に180マイル(290km)の北緯23度15分、西経67度56分の[[北大西洋]]上であり、回収のために待機していた[[アメリカ海軍]]の[[強襲揚陸艦]][[ガダルカナル (強襲揚陸艦)|ガダルカナル(LPH-7)]]からも見えるほど近い位置に降下した。
[[File:Apollo-9-Lancering.jpg|thumb|left|[[ケネディ宇宙センター]]から発射されるアポロ9号。1969年[[3月3日]]]]


アポロ9号は、司令・機械船およびサターン5型ロケットの他に、月着陸船というアポロ計画の遂行においてきわめて重要となる第三の機器を搭載した、いわば「アポロ宇宙船」を初めてフルセットで装備して打ち上げられた飛行であった。
[[File:Apollo 9 Command Module.jpg|right|thumb|235px|サンディエゴ航空宇宙博物館に展示されているアポロ9号司令船]]
司令船は、[[ミシガン州]][[ジャクソン (ミシガン州)|ジャクソン]]にあるミシガン宇宙科学センターに展示されていたが、2004年4月に同センターが閉鎖され、2004年5月に[[サンディエゴ航空宇宙博物館]] ([[:en:San Diego Aerospace Museum|en]]) に移された。LM上昇ステージは[[1981年]][[10月23日]]に軌道減衰し、LM下降ステージ(1969-018D)は[[1969年]][[3月22日]]に軌道減衰した。月着陸船を取り出した後、S-IVBステージ(サターンVの3段目)のJ-2エンジンが再点火され、燃え尽きるまで噴射して太陽軌道に乗せられた。


またこの飛行では、史上初めてランデブーとドッキングのあとに飛行士が船内を移動して宇宙船を乗り移った (ソユーズ4号と5号では、飛行士は宇宙遊泳をして移動した)。飛行士たちは10日間にわたり司令・機械船と着陸船を操縦し、月飛行で予定されているような軌道上での両船のドッキングや切り離しの試験を続けた。9号はアポロ宇宙船がこのような重要な任務を十分にやりこなせ、月面着陸をする飛行士たちの生命を預けるに足りるものであることを証明した。
乗員は、[[1969年]][[3月8日]]に "[[Happy Birthday]]" を歌った。


アポロ計画ではこの9号から最後の[[アポロ17号|17号]]に至るまで、飛行士たちは自らが乗る宇宙船に名称を与えることが許された (最後に宇宙船に命名されたのは[[ジェミニ3号]]だった)。ちなみに9号では着陸船はそのひょろ長い形態から「蜘蛛 (Spider)」、司令・機械船は「ガムドロップ (Gumdrop)」と命名された。由来はその[[円錐]]形の形態と、[[ケネディ宇宙センター]]に運ばれてきたとき青色の保護膜で包装されていたことによる。またこの名称は、それぞれが独立して飛行するときの無線でのコールサイン (呼び名) としても使用された。
== ミッション徽章 ==

[[ファイル:Apollo-9-patch.jpg|thumb|right|150px|徽章パッチ]]
シュワイカートとスコットは船外活動を実行した。シュワイカートが実施したのは「Apollo/Skylab A7L」という新型宇宙服の性能試験で、これは従来のように宇宙船からホースで[[酸素]]を供給されるのではなく、独自の生命維持装置を持っているものである。またその間、スコットは司令船のハッチから身を乗り出してシュワイカートの姿をフィルムに収めていた。シュワイカートは宇宙服の性能試験のためにさらに広範囲な活動を行い、また緊急時に着陸船から司令船に船外活動で乗り移るのが可能であることを実証しようとしたが、[[宇宙酔い]]を患ったためにそれ以上の試験は中止された。
円形のパッチには、USAの文字が書かれたサターンVロケットの図が描かれている。その右にはCSMとLMがあり、CSMの先端はドッキングポートではなくLMの「前部ドア」を向いている。CSMからのロケット炎が環状にたなびいている。円の上端沿いには乗員の名前があり、下にはAPOLLO [[9|IX]]と書かれている。マクディビット (McDivitt) の名前の「D」の文字は赤く塗り潰されていて、このミッションが月着陸前に行われるアルファベット順の「Dミッション」であることを表している。

[[File:Apollo 9 approaches splashdown.jpg|thumb|right|[[大西洋]]に着水する直前の9号。1969年[[3月13日]]。]]

マクディヴィットとシュワイカートはその後着陸船の試験飛行を行い、地球周回軌道上で分離とドッキングの操作をした。このとき着陸船は下降段の[[ロケット]]エンジンを噴射して「ガムドロップ」から最大で111[[マイル]] (179km) 離れ、その後下降段を分離し、上昇段のエンジンを噴射して再び司令・機械船に接近した。またこのときの飛行は、地球帰還のための装備を一切持たない宇宙船で軌道上を周回した初の実例となった。

着水点は[[バハマ]]諸島の東方[[北緯]]23度15分、[[西経]]67度56分で、回収船[[ガダルカナル (強襲揚陸艦)|ガダルカナル]]から肉眼で確認できるほど正確な帰還だった。またアポロ計画で大西洋に帰還したのは9号が最後であった。

司令船はその後[[ミシガン州]][[ジャクソン (ミシガン州)|ジャクソン]]の科学センターに、同所が[[2004年]]4月に閉鎖されるまで展示され{{Citation needed|date=June 2013}}、同年5月に[[サンディエゴ航空宇宙博物館]]に移転された。着陸船上昇段は[[1981年]][[10月23日]]に、下降段 ([[国際衛星識別符号]]1969-018D) は[[1969年]][[3月22日]]に[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]して分解した。サターン5型ロケット第三段[[S-IVB]]は着陸船の抽出が終わった後に[[J-2ロケットエンジン]]が再点火され、燃料が枯渇するまでエンジンを噴射して[[太陽周回軌道|太陽を周回する軌道]]に乗せられた。

S-IVBはその後[[スペースデブリ|宇宙ごみ]]となり、永遠に[[太陽]]を周り続けることとなった。[[2014年]]3月現在、軌道上に存在していることが確認されている<ref name=ha20130923>{{cite web |title=Saturn S-IVB-504N - Satellite Information |url=http://www.heavens-above.com/SatInfo.aspx?satid=3770&lat=0&lng=0&loc=Unspecified&alt=0&tz=UCT |work=Satellite database |publisher=Heavens-Above |accessdate=2013-09-23 }}</ref>。

==計画の記章と宇宙船の名称==
計画の記章では、円形の生地の中にUSAの文字が書かれたサターン5型ロケットが描かれている。その右側には司令・機械船と着陸船が描かれているが、司令船のドッキング装置は着陸船のドッキング受け入れ用のポートではなく、船外活動で出入りするための前方ハッチに向けられている。また司令・機械船のエンジンからは、周回する軌跡が描かれている。外周の上部にはふち取りに沿って飛行士の名前が、下部には[[ローマ数字]]とともに「APOLLO IX」の計画番号が書かれている。マクディヴィットの名前の「D」の中は赤い色で満たされているが、これは8号がアポロ計画における「D計画」と呼ばれる飛行であることを表している。この記章は、[[ロックウェル・インターナショナル|ロックウェル・インターナショナル社]]のアレン・スティーブンス (Allen Stevens) がデザインした<ref>{{cite web|first=Ed |last=Hengeveld |url=http://www.collectspace.com/news/news-052008a.html |title=The man behind the Moon mission patches |publisher=collectSPACE |date=May 20, 2008 |accessdate=July 18, 2009}} "A version of this article was published concurrently in the [[British Interplanetary Society]]'s ''[[Spaceflight (magazine)|Spaceflight]]'' magazine."</ref>。

飛行士が宇宙船に命名することを許されたのは、ジェミニ計画で最初の有人飛行が行われて以来のことであった。これは8号が、別々の宇宙船が同時に飛行するという性格のものであるため、両者の混同を避ける必要があったからである。着陸船の「スパイダー (クモ)」はその虫のような形態から、また司令船の「ガムドロップ」は飴玉のような形態から名付けられた。

==飛行過程==
{| class="wikitable" border="1"
! T + Time (経過時間)
! 事象
! 燃焼時間
! 速度増減
! 軌道
|-
| T + 00:00:00 ||発射|| || ||
|-
| T + 00:02:14.34 ||第一段[[S-IC]]中央エンジン燃焼終了||141秒|| ||
|-
| T + 00:02:42.76 ||第一段燃焼終了||169秒|| ||
|-
| T + 00:02:45.16 ||第二段[[S-II]]点火|| || ||
|-
| T + 00:03:13.5 ||第二段接合リング分離|| || ||
|-
| T + 00:03:18.3 ||[[打ち上げ脱出システム|緊急脱出用ロケット]]分離|| || ||
|-
| T + 00:08:56.22 ||第二段燃焼終了|| || ||
|-
| T + 00:08:57 ||第二段燃焼終了および分離、第三段S-IVB点火|| || ||
|-
| T + 00:11:04.66 ||第三段燃焼終了、軌道投入 ||127.4秒|| ||191.3 × 189.5&nbsp;km
|-
| T + 02:41:16 ||司令・機械船と第三段分離|| || ||
|-
| T + 03:01:59.3 ||司令・機械船と着陸船ドッキング|| || ||
|-
| T + 04:08:09 ||第三段分離|| || ||
|-
| T + 05:59:01.07 ||機械船主エンジン (Service Propulsion System, SPS) 第一回燃焼試験||5.1秒|| +10.4&nbsp;m/s || 234.1 × 200.7&nbsp;km
|-
| T + 22:13:04.07 ||第二回SPS燃焼試験||110秒|| +259.2&nbsp;m/s || 351.5 × 199.5&nbsp;km
|-
| T + 25:17:39.27 ||第三回SPS燃焼試験||281.6秒|| +782.6&nbsp;m/s || 503.4 × 202.6&nbsp;km
|-
| T + 28:24:41.37 ||第四回SPS燃焼試験||28.2秒|| -91.45&nbsp;m/s || 502.8 × 202.4&nbsp;km
|-
| T + 49:41:34.46 ||着陸船降下用エンジン (Descent Propulsion System, DPS) 燃焼試験||369.7秒 || -530.1&nbsp;m/s || 499.3 × 202.2&nbsp;km
|-
| T + 54:26:12.27 ||第五回SPS燃焼試験||43.3秒|| -175.6&nbsp;m/s || 239.3 × 229.3&nbsp;km
|-
| T + 92:39:36 ||司令・機械船と着陸船のドッキング切り離し|| || ||
|-
| T + 93:02:54 ||司令・機械船の着陸船との分離操作||10.9秒|| -1.5&nbsp;m/s ||
|-
| T + 93:47:35.4 ||着陸船DPS段階操作||18.6秒|| +27.6&nbsp;m/s || 253.5 × 207&nbsp;km
|-
| T + 95:39:08.6 ||着陸船DPS軌道投入操作||22.2秒|| +13.1&nbsp;m/s || 257.2 × 248.2&nbsp;km
|-
| T + 96:16:06.54 ||着陸船同心同期開始操作、降下段分離||30.3秒|| -12.2&nbsp;m/s || 255.2 × 208.9&nbsp;km
|-
| T + 96:58:15 || 着陸船上昇用エンジン (Ascent Propulsion System, APS) 微噴射||2.9秒|| -12.6&nbsp;m/s || 215.6 × 207.2&nbsp;km
|-
| T + 97:57:59 ||再ドッキングのための着陸船エンジン噴射||34.7秒|| +6.8&nbsp;m/s || 232.8 × 208.5&nbsp;km
|-
| T + 99:02:26 ||再ドッキング|| || ||
|-
| T + 101:22:45 ||着陸船上昇段分離|| || ||
|-
| T + 101:32:44 ||着陸船上昇段との分離操作||7.2秒|| +0.9&nbsp;m/s || 235.7 × 224.6&nbsp;km
|-
| T + 101:53:15.4 ||着陸船上昇段大気圏再突入、分解||350秒|| +1,643.2&nbsp;m/s || 6,934.4 × 230.6&nbsp;km
|-
| T + 123:25:06.97 ||第六回SPS燃焼試験||1.29秒|| -11.5&nbsp;m/s || 222.6 × 195.2&nbsp;km
|-
| T + 169:39:00.36 ||第七回SPS燃焼試験||25秒|| +199.6&nbsp;m/s || 463.4 × 181.1&nbsp;km
|-
| T + 240:31:14.84 ||帰還のための逆噴射||11.6秒|| -99.1&nbsp;m/s || 442.2 × -7.8&nbsp;km
|-
| T + 240:36:03.8 ||司令船と機械船分離|| || ||
|-
| T + 241:00:54 ||着水|| || ||
|}

<br style="clear: left"/>

==写真==
<center><gallery>
File:AS09-19-2919 The lunar module awaits extraction from Apollo 9's S-IVB stage.jpg|第三段S-IVBから取り出される前の月着陸船
Image:Gumdrop Meets Spider - GPN-2000-001100.jpg|司令船のハッチで作業をするスコット飛行士
File:Schweickart spacer kosmiczny GPN-2000-001108.jpg|飛行4日目、船外活動で着陸船「スパイダー」の出入り口に立つシュワイカート船長
Image:Spider_in_Earth_Orbit_-_GPN-2000-001106.jpg|着陸船「スパイダー (クモ)」
Image:Spider_Over_The_Ocean_-_GPN-2000-001109.jpg|海を背景にするスパイダー
File:Lunar Module Ascent Stage - GPN-2000-001110.jpg|飛行5日目、スパイダーの上昇段
</gallery></center>

==宇宙船の現在==
<!-- Deleted image removed: [[File:Apollo 9 on display.png|thumb|Apollo 9 on display at the [[San Diego Air & Space Museum]].]] -->
<!-- Deleted image removed: [[File:Apollo 9 capsule.jpg|thumb|Apollo 9 Command Module on display in Spring 2004]] -->9号の司令船 (国際衛星識別符号1969-018A) は、現在は[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]の[[サンディエゴ航空宇宙博物館]]に展示されている。機械船は[[逆噴射]]直後に切り離され、大気圏突入時の高温で分解し消滅した。

着陸船スパイダーの上昇段1969-018Aは[[1981年]][[10月23日]]に<ref name=1969-018A>{{cite web |title=Apollo 9 |url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-018A |work=National Space Science Data Center |publisher=NASA |accessdate=April 7, 2014}}</ref>、下降段1969-018Dは[[1969年]][[3月22日]]に<ref name=1969-018A/>、それぞれ大気圏に再突入して消滅した。

サターン5型ロケット第三段1969-018Bは、2014年現在[[太陽周回軌道]]上に存在していることが確認されている<ref name=ha20130923/>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}


== 参照 ==
== 参照 ==

2014年8月23日 (土) 19:35時点における版

Apollo 9
徽章
ミッションの情報
ミッション名 Apollo 9
司令船 CM-104
機械船 SM-104
月着陸船 LM-3
質量 司令機械船 26,801 kg;
月着陸船 14,575 kg
乗員数 3
コールサイン 司令機械船: ガムドロップ
月着陸船: スパイダー
打上げ機 Saturn V SA-504
発射台 フロリダ州ケネディー宇宙センター
39A発射台
打上げ日時 1969年3月3日
16:00:00 UTC
着陸または着水日時 1969年3月13日
17:00:54 UTC
北緯23度15分 西経67度56分 / 北緯23.250度 西経67.933度 / 23.250; -67.933
ミッション期間 10日1時間0分54秒
乗員写真
左から:マクディビット、スコット、シュワイカート
年表
前回 次回
アポロ8号 アポロ10号

アポロ9号アメリカ合衆国アポロ計画における三度目の有人宇宙飛行である。アポロ司令・機械船月着陸船とともにフルセットで打ち上げるのは、これが初めてだった。ジェームズ・マクディビット (James McDivitt) 船長、デイヴィッド・スコット (David Scott) 司令船操縦士、ラッセル・シュワイカート (Rusty Schweickart) 月着陸船操縦士の三名の宇宙飛行士は、着陸船のロケットエンジン宇宙服生命維持装置航法装置・ドッキング操作など、月面着陸において重要となるいくつもの要素について試験を行った。またサターン5型ロケットを使用して有人飛行を行うのは、これが二度目であった。

1969年3月3日に発射された後、飛行士たちは軌道上で10日間を過ごし、その間に月着陸船による初の有人飛行や、二度の船外活動を行った。またこの間に実行された人間が搭乗した宇宙船 (司令船と月着陸船) 同士のランデブーとドッキングは、史上二度目となるものであった (史上初のドッキングはこの2ヶ月前にソビエト連邦ソユーズ4号5号によって行われ、飛行士が船外活動で宇宙船を乗り移った)。この飛行により月着陸船の安全性が証明され、後のアポロ10号の飛行で、アポロ計画の究極の目的である月面着陸への準備が整うこととなった。

搭乗員

地位 飛行士
船長 ジェームズ・マクディビット (James McDivitt)
二回目の宇宙飛行
司令船操縦士 デイヴィッド・スコット (David Scott)
二回目の宇宙飛行
月着陸船操縦士 ラッセル・シュワイカート (Rusty Schweickart)
一回目の宇宙飛行
アポロ8号と同様、飛行士はジェミニ計画のベテラン飛行士二名と新人一名で構成されていた。

予備搭乗員

地位 飛行士
船長 ピート・コンラッド (Charles Pete Conrad, Jr)
司令船操縦士 リチャード・ゴードン (Richard F. Gordon, Jr.)
月着陸船操縦士 クリフトン・ウィリアムズ (Clifton C. Williams)[注釈 1]
アラン・ビーン (Alan L. Bean)
この予備搭乗員たちは、アポロ12号の本搭乗員となった。

支援飛行士

飛行主任

  • ジーン・クランツ (Gene Kranz)、白チーム主任
  • ジェラルド・グリフィン (Gerald D. Griffin)、金チーム主任
  • ピート・フランク (Pete Frank)、オレンジチーム主任

飛行の概要

司令・機械船と着陸船とのドッキング

  • ドッキング切り離し1969年3月7日 12:39:36 UTC
  • 再ドッキング:1969年3月7日 19:02:26 UTC

船外活動

  • シュワイカート - 船外活動 - 着陸船前方ハッチからの船外活動
    • 開始時間:1969年3月6日 16:45:00 UTC
    • 終了時間:1969年3月6日 17:52:00 UTC
    • 活動時間:1時間07分
  • スコット - ハッチから半身を乗り出しての船外活動 - 司令船側方ハッチから
    • 開始時間:1969年3月6日 17:01:00 UTC
    • 終了時間:1969年3月6日 18:02:00 UTC
    • 活動時間:1時間01分

当初の計画

マクディヴィット、スコット、シュワイカートの三名は、当初はAS-204の指定番号が与えられているアポロ1号の予備搭乗員に任命されていた。1号にはガス・グリソム (Gus Grissom)、エドワード・ホワイト (Edward Higgins White)、ロジャー・チャフィー (Roger Chaffee) が搭乗し、1966年後半に司令・機械船による初の地球周回試験飛行を行う予定になっていた。またこの後には、ウォルター・シラー (Wally Schirra)、ウォルター・カニンガム (Walter Cunningham)、ドン・エイゼル (Donn F. Eisele) が搭乗するAS-205が予定されていた。

だが司令・機械船の開発が遅れたことでAS-204の飛行は1967年にずれ込んでしまい、これによりAS-205は1966年にキャンセルされた。シラーのチームはグリソムたちの予備搭乗員に任命され、代わってマクディヴィットのチームが新たな飛行の本搭乗員に昇格した。マクディヴィットたちが搭乗する新たな飛行では、司令・機械船および月着陸船の完成形を2機のサターンIB型ロケットで別々に地球周回軌道に打ち上げ、ランデブーとドッキングをすることになっていた。

彼らは直ちに、新たにAS-205/208の指定番号が与えられた、1967年後半に発射が予定されているこの飛行の訓練を始めた[1]

1967年1月27日、グリソムたちは2月21日に発射が予定されている1号の飛行の予行演習ともいえる最終調整を、発射台上で行っていた。そのとき突然、電気系統のショートが原因と見られる火花が発生し、司令船内は瞬く間に炎に包まれた。三人の飛行士は逃げる間もなく、アメリカの宇宙開発史上初めての犠牲者となった。この事故によりアポロ計画は18ヶ月に及ぶ停滞を余儀なくされ、安全上の問題点が数多く指摘された司令船は根本から設計を見直された。

だが仮に1号の事故がなかったとしても、AS-205/208の発射は不可能だった。着陸船の開発は遅れていて、ようやく初の無人飛行が行われたのは1968年1月のことであった。この18ヶ月間を、NASAは遅れていた着陸船とサターン5型ロケットの開発と無人試験に充てることができた。

有人飛行計画の進行は1967年10月までには再開され、翌1968年10月にはシラーのチームがアポロ7号として、「C計画」と呼ばれるアポロ宇宙船による初の地球周回飛行を行った。またこの年の12月にはマクディヴィットのチームが2機のサターンIBではなく1機のサターン5型を使用する「D計画」と呼ばれる飛行を行い、さらに1969年初頭にはフランク・ボーマン (Frank Borman)、マイケル・コリンズ (Michael Collins)、ウィリアム・アンダース (William Anders) が搭乗して地球をより高い軌道で周回する「E計画」が行われることになっていた。

だが相続く着陸船の開発トラブルによりD計画は1969年の春まで実行することが不可能になったため、NASAは8号をサターン5型を使って司令・着陸船のみを月を周回させる飛行に変更し、E計画は不要であるとしてキャンセルされた。一方でマクディヴィットのチームはこの間ずっと着陸船初飛行のための訓練を続けており、彼も着陸船の飛行をしたいという希望を個人的に表明していたため、ボーマンとマクディヴィットのチームが交代し、D計画がアポロ9号となった。

この搭乗員のシフトの交代は、誰が最初に月面に降り立つかということにも影響を与えた。8号と9号の飛行士が交代されたとき、その予備搭乗員もまたシフトチェンジされたのである。搭乗員シフトのルールでは、予備搭乗員に任命された飛行士たちはその三つ後の飛行での本搭乗員となるのが原則だった。そのためボーマンたちの予備だったニール・アームストロング (Neil Armstrong) のグループが史上初の月面着陸をするアポロ11号の本搭乗員となり、また本来は11号に搭乗する予定だったピート・コンラッド (Charles Pete Conrad, Jr) のグループは、史上二度目の着陸となるアポロ12号で飛行することになったのである。

計画の焦点

ケネディ宇宙センターから発射されるアポロ9号。1969年3月3日

アポロ9号は、司令・機械船およびサターン5型ロケットの他に、月着陸船というアポロ計画の遂行においてきわめて重要となる第三の機器を搭載した、いわば「アポロ宇宙船」を初めてフルセットで装備して打ち上げられた飛行であった。

またこの飛行では、史上初めてランデブーとドッキングのあとに飛行士が船内を移動して宇宙船を乗り移った (ソユーズ4号と5号では、飛行士は宇宙遊泳をして移動した)。飛行士たちは10日間にわたり司令・機械船と着陸船を操縦し、月飛行で予定されているような軌道上での両船のドッキングや切り離しの試験を続けた。9号はアポロ宇宙船がこのような重要な任務を十分にやりこなせ、月面着陸をする飛行士たちの生命を預けるに足りるものであることを証明した。

アポロ計画ではこの9号から最後の17号に至るまで、飛行士たちは自らが乗る宇宙船に名称を与えることが許された (最後に宇宙船に命名されたのはジェミニ3号だった)。ちなみに9号では着陸船はそのひょろ長い形態から「蜘蛛 (Spider)」、司令・機械船は「ガムドロップ (Gumdrop)」と命名された。由来はその円錐形の形態と、ケネディ宇宙センターに運ばれてきたとき青色の保護膜で包装されていたことによる。またこの名称は、それぞれが独立して飛行するときの無線でのコールサイン (呼び名) としても使用された。

シュワイカートとスコットは船外活動を実行した。シュワイカートが実施したのは「Apollo/Skylab A7L」という新型宇宙服の性能試験で、これは従来のように宇宙船からホースで酸素を供給されるのではなく、独自の生命維持装置を持っているものである。またその間、スコットは司令船のハッチから身を乗り出してシュワイカートの姿をフィルムに収めていた。シュワイカートは宇宙服の性能試験のためにさらに広範囲な活動を行い、また緊急時に着陸船から司令船に船外活動で乗り移るのが可能であることを実証しようとしたが、宇宙酔いを患ったためにそれ以上の試験は中止された。

大西洋に着水する直前の9号。1969年3月13日

マクディヴィットとシュワイカートはその後着陸船の試験飛行を行い、地球周回軌道上で分離とドッキングの操作をした。このとき着陸船は下降段のロケットエンジンを噴射して「ガムドロップ」から最大で111マイル (179km) 離れ、その後下降段を分離し、上昇段のエンジンを噴射して再び司令・機械船に接近した。またこのときの飛行は、地球帰還のための装備を一切持たない宇宙船で軌道上を周回した初の実例となった。

着水点はバハマ諸島の東方北緯23度15分、西経67度56分で、回収船ガダルカナルから肉眼で確認できるほど正確な帰還だった。またアポロ計画で大西洋に帰還したのは9号が最後であった。

司令船はその後ミシガン州ジャクソンの科学センターに、同所が2004年4月に閉鎖されるまで展示され[要出典]、同年5月にサンディエゴ航空宇宙博物館に移転された。着陸船上昇段は1981年10月23日に、下降段 (国際衛星識別符号1969-018D) は1969年3月22日大気圏に再突入して分解した。サターン5型ロケット第三段S-IVBは着陸船の抽出が終わった後にJ-2ロケットエンジンが再点火され、燃料が枯渇するまでエンジンを噴射して太陽を周回する軌道に乗せられた。

S-IVBはその後宇宙ごみとなり、永遠に太陽を周り続けることとなった。2014年3月現在、軌道上に存在していることが確認されている[2]

計画の記章と宇宙船の名称

計画の記章では、円形の生地の中にUSAの文字が書かれたサターン5型ロケットが描かれている。その右側には司令・機械船と着陸船が描かれているが、司令船のドッキング装置は着陸船のドッキング受け入れ用のポートではなく、船外活動で出入りするための前方ハッチに向けられている。また司令・機械船のエンジンからは、周回する軌跡が描かれている。外周の上部にはふち取りに沿って飛行士の名前が、下部にはローマ数字とともに「APOLLO IX」の計画番号が書かれている。マクディヴィットの名前の「D」の中は赤い色で満たされているが、これは8号がアポロ計画における「D計画」と呼ばれる飛行であることを表している。この記章は、ロックウェル・インターナショナル社のアレン・スティーブンス (Allen Stevens) がデザインした[3]

飛行士が宇宙船に命名することを許されたのは、ジェミニ計画で最初の有人飛行が行われて以来のことであった。これは8号が、別々の宇宙船が同時に飛行するという性格のものであるため、両者の混同を避ける必要があったからである。着陸船の「スパイダー (クモ)」はその虫のような形態から、また司令船の「ガムドロップ」は飴玉のような形態から名付けられた。

飛行過程

T + Time (経過時間) 事象 燃焼時間 速度増減 軌道
T + 00:00:00 発射
T + 00:02:14.34 第一段S-IC中央エンジン燃焼終了 141秒
T + 00:02:42.76 第一段燃焼終了 169秒
T + 00:02:45.16 第二段S-II点火
T + 00:03:13.5 第二段接合リング分離
T + 00:03:18.3 緊急脱出用ロケット分離
T + 00:08:56.22 第二段燃焼終了
T + 00:08:57 第二段燃焼終了および分離、第三段S-IVB点火
T + 00:11:04.66 第三段燃焼終了、軌道投入 127.4秒 191.3 × 189.5 km
T + 02:41:16 司令・機械船と第三段分離
T + 03:01:59.3 司令・機械船と着陸船ドッキング
T + 04:08:09 第三段分離
T + 05:59:01.07 機械船主エンジン (Service Propulsion System, SPS) 第一回燃焼試験 5.1秒 +10.4 m/s 234.1 × 200.7 km
T + 22:13:04.07 第二回SPS燃焼試験 110秒 +259.2 m/s 351.5 × 199.5 km
T + 25:17:39.27 第三回SPS燃焼試験 281.6秒 +782.6 m/s 503.4 × 202.6 km
T + 28:24:41.37 第四回SPS燃焼試験 28.2秒 -91.45 m/s 502.8 × 202.4 km
T + 49:41:34.46 着陸船降下用エンジン (Descent Propulsion System, DPS) 燃焼試験 369.7秒 -530.1 m/s 499.3 × 202.2 km
T + 54:26:12.27 第五回SPS燃焼試験 43.3秒 -175.6 m/s 239.3 × 229.3 km
T + 92:39:36 司令・機械船と着陸船のドッキング切り離し
T + 93:02:54 司令・機械船の着陸船との分離操作 10.9秒 -1.5 m/s
T + 93:47:35.4 着陸船DPS段階操作 18.6秒 +27.6 m/s 253.5 × 207 km
T + 95:39:08.6 着陸船DPS軌道投入操作 22.2秒 +13.1 m/s 257.2 × 248.2 km
T + 96:16:06.54 着陸船同心同期開始操作、降下段分離 30.3秒 -12.2 m/s 255.2 × 208.9 km
T + 96:58:15 着陸船上昇用エンジン (Ascent Propulsion System, APS) 微噴射 2.9秒 -12.6 m/s 215.6 × 207.2 km
T + 97:57:59 再ドッキングのための着陸船エンジン噴射 34.7秒 +6.8 m/s 232.8 × 208.5 km
T + 99:02:26 再ドッキング
T + 101:22:45 着陸船上昇段分離
T + 101:32:44 着陸船上昇段との分離操作 7.2秒 +0.9 m/s 235.7 × 224.6 km
T + 101:53:15.4 着陸船上昇段大気圏再突入、分解 350秒 +1,643.2 m/s 6,934.4 × 230.6 km
T + 123:25:06.97 第六回SPS燃焼試験 1.29秒 -11.5 m/s 222.6 × 195.2 km
T + 169:39:00.36 第七回SPS燃焼試験 25秒 +199.6 m/s 463.4 × 181.1 km
T + 240:31:14.84 帰還のための逆噴射 11.6秒 -99.1 m/s 442.2 × -7.8 km
T + 240:36:03.8 司令船と機械船分離
T + 241:00:54 着水


写真

宇宙船の現在

9号の司令船 (国際衛星識別符号1969-018A) は、現在はカリフォルニア州サンディエゴサンディエゴ航空宇宙博物館に展示されている。機械船は逆噴射直後に切り離され、大気圏突入時の高温で分解し消滅した。

着陸船スパイダーの上昇段1969-018Aは1981年10月23日[4]、下降段1969-018Dは1969年3月22日[4]、それぞれ大気圏に再突入して消滅した。

サターン5型ロケット第三段1969-018Bは、2014年現在太陽周回軌道上に存在していることが確認されている[2]

脚注

注釈

  1. ^ 当初はウィリアムズが予備搭乗員に指名されていたが、彼が1967年10月5日T38練習機の事故により死亡したため新たにビーンが任命された。後に予備搭乗員たちがアポロ12号で飛行した際、飛行の記章にビーンを記念して四つ目の星が加えられた。

出典

  1. ^ Apollo Image Gallery: Early Apollo”. Project Apollo Archive. Kipp Teague. 2010年8月3日閲覧。
  2. ^ a b Saturn S-IVB-504N - Satellite Information”. Satellite database. Heavens-Above. 2013年9月23日閲覧。
  3. ^ Hengeveld, Ed (2008年5月20日). “The man behind the Moon mission patches”. collectSPACE. 2009年7月18日閲覧。 "A version of this article was published concurrently in the British Interplanetary Society's Spaceflight magazine."
  4. ^ a b Apollo 9”. National Space Science Data Center. NASA. 2014年4月7日閲覧。

参照

外部リンク