コンテンツにスキップ

「フレンチ・インディアン戦争」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
(7人の利用者による、間の12版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2011年12月}}
{{出典の明記|date=2011年12月}}
{{Battlebox
{{Battlebox
| battle_name=フレンチ・インディアン戦争
|battle_name = フレンチ・インディアン戦争
| campaign=
|campaign =
| colour_scheme=
|colour_scheme = background:#ffccaa
| image=[[ファイル:French and Indian War map.png|340px]]
|image = [[File:French and Indian War.png|250px]]
|caption = フレンチ・インディアン戦争の主な戦場と各国勢力の図<br/>(水色がフランス、ピンクがイギリス、オレンジがスペイン。複数の色の地域は、それぞれが所有を巡って争った地域)
| caption=フレンチ・インディアン戦争
| conflict=[[七年戦争]]
|conflict = [[七年戦争]]
| date=1754年-1763年
|date = [[1754年]]-[[1763年]]
| place=[[北アメリカ]]東部
|place = [[北アメリカ]]
| result=[[グレートブテン王国]]の勝利[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]の締結。フランスの北米植民地完全喪失。
|result = [[イギ]]の勝利<br/>(後の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]により、[[サンピエール島・ミクロン島]]以外のフランス領土が他国に割譲)
|combatant1 = {{Flagicon|FRA1589}}[[フランス王国]]
| combatant1=[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]] [[フランス王国]]<br />[[ファイル:Bandera_de_España_1760-1785.svg|25px]] [[スペイン帝国]]<br />[[ファイル:Pavillon LouisXIV.svg|25px]] [[ヌーヴェル・フランス植民地]]<br />[[レナペ]]<br />{{仮リンク|ワイアンドット族|en|Wyandot people|label=ヒューロン族}}<br />[[オジブワ]]<br />[[オタワ]]<br />[[ショーニー]]<br />[[ミクマック]]<br />ほか[[アルゴンキン語族]]
*[[ヌーベルフランス]]
| combatant2=[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]] [[グレートブリテン王国]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]] [[13植民地]]<br />[[ファイル:Flag of the Iroquois Confederacy.svg|25px]] [[イロコイ連邦]]<br />[[:en:Catawba people|カタウバ]]<br />[[チェロキー]]
[[File:Flag of Cross of Burgundy.svg|25px]][[スペイン帝国]]
| commander1=[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|25px]] [[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム|モンカルム侯]]
*[[ヌエバ・エスパーニャ]]
| commander2=[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]] [[ジョージ・ワシントン]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]] [[エドワード・ブラドック]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]] [[ジェームズ・ウルフ]]<br />
*[[アベナキ同盟]]
| strength1=
**[[File:Flag of Western Abenaki.svg|25px]][[アベナキ族]]
| strength2=
**[[File:Mikmaq State Flag.svg|25px]][[ミクマク族]]
| casualties1=
**[[アルゴンキン語族]]
| casualties2=
**[[モホーク族]]
|}}
**[[レナぺ族]]
[[画像:General Wolf at French and Indian war.jpg|250px|right|thumb|アブラハム平原の戦いで倒れる[[ジェームズ・ウルフ|ウルフ]]将軍]]
**[[オブジワ族]]
**[[オタワ族]]
**[[ショウニ―族]]
**[[File:Wyandot Nation.png|25px]][[ワイアンドット族]]
|combatant2 = [[グレートブリテン王国]]
*[[File:Colonial-Red-Ensign.svg|25px]][[13植民地|イギリス領アメリカ植民地]]
**[[File:Flag of the Iroquois Confederacy.svg|25px]] <br/>[[イロコイ連邦]]
**[[カタウバ族]]
**[[File:Cherokeenationalflag.png|25px]]<br/>[[チェロキー族]]
|commander1 =[[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]<br/>[[ピエール・フランソワ・ド・リゴー|ヴォードルイユ]]<br/>[[ディスカウ男爵ジャン・エルドマン]]<br/>[[フランソワ=マリー・ル・マルシャン・ド・リニエリ]]<br/>[[フランソワ=ガストン・ド・レビ]]<br>[[ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ]]<br/>[[ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ]]
| commander2 =[[ジェフリー・アマースト]]<br/>[[エドワード・ブラドック]]<br/>[[ジェームズ・ウルフ]]<br/>[[4代ルゥードゥン伯ジョン・キャンベル]]<br/>[[ジェームズ・アバークロンビー (将軍)|ジェームズ・アバークロンビー]]<br/>[[エドワード・ボスコーエン]]<br/>[[ジョージ・ワシントン]]<br/>[[ジョン・フォーブズ]]
|strength1 = 正規兵1万(陸軍とカナダ防衛軍、1757年の最多時の人数)<ref name="FrenchRegStrength">Brumwell, pp. 24–25.</ref><br/>民兵7900<br/>インディアン兵2200(1759年){{Citation needed|date=December 2008}}
|strength2 = 正規兵と民兵4万2千 (1758年の最多時の人数)<ref name="BritStrength">Brumwell, pp. 26–31, documents the starting sizes of the expeditions against Louisbourg, Carillon, Duquesne, and West Indies.</ref>
|casualties1 =
|casualties2 =
}}
'''フレンチ・インディアン戦争'''(フレンチ・インディアンせんそう、French and Indian War、 [[1755年]] - [[1763年]])は、[[七年戦争]]のうち、[[北アメリカ]]を舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。[[13植民地|イギリス領アメリカ植民地]]と[[ヌーベルフランス]]が主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。[[1756年]]、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。[[カナダ]]では、一部の[[歴史家]]がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、[[フランス人|フランス系]]カナダ人はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。


ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、[[フランス王国]]の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々な[[インディアン]]の部族のことである。しかしイギリスもまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。この戦争は、従来の植民地戦争とは違い、欧州の戦争に先立つ植民地での衝突火ぶたが切られた。
'''フレンチ・インディアン戦争'''(フレンチ・インディアンせんそう、{{lang-en-short|French and Indian War}}, [[1755年]] - [[1763年]])は、[[オハイオ川]]流域の[[インディアン]]の領土を巡って[[グレートブリテン王国|イギリス]]と[[フランス王国|フランス]]がこれを[[植民地]]とするため、争奪戦となったもの。


戦場は主にヌーベルフランスと、[[バージニア植民地]]から[[ノバスコシア]]に至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われた。戦争の発端は、[[アレゲニー川]]と、[[モノンガヘラ川]]が合流する場所(現在の[[ペンスルベニア州]][[ピッツバーグ]])で起きた紛争だった。この紛争は[[1754年]][[5月]]、[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]において、バージニア[[民兵]]隊の指揮官、[[ジョージ・ワシントン]]が、フランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展した。[[1755年]]、[[1756年]]そして[[1757年]]の、ペンスルベニアと[[ニューヨーク植民地]]における作戦はことごとく失敗した。失敗の原因は、同盟を管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン同盟の攻撃が功を奏したためであった。1755年の、ノバスコシアと(フランス人入植地の)アカディアの境界で起きた[[ボーセジュールの戦い]]は、イギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものである。
英仏ともに[[先住民]][[インディアン]]と同盟を結んだが、イギリス側から見てフランスがインディアンと同盟したので、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。


1757年、イギリスにとって惨憺たる敗戦が続いた。ルイブールへの遠征の失敗に続き、[[ウィリアム・ヘンリー砦の戦い]]では、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。イギリス本国政府は評価を落とし、[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]が首相に返り咲いた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスは、ヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりに、ヨーロッパの戦争で、プロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させた。1758年から[[1760年]]の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地[[ケベック・シティー|ケベック]]の陥落に成功し、1760年[[9月]]、ついに[[モントリオール]]を攻略した。
== 概要 ==
欧州の[[七年戦争]]([[1756年]] - [[1763年]])に呼応して起こった植民地アメリカでの戦争であるが、従来の英仏間での戦争が欧州から[[植民地]]へと波及したのとは異なり、この戦争は、欧州の戦争にさきだって植民地で衝突が起こったことで始まった。戦況は一進一退だったが、後半に入って本国から応援部隊が到着したイギリス側が有利となり、[[1760年]]にフランス側が降伏して戦闘は終了した。


この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる[[北米植民地戦争]]の参戦国で、も最も大きな発展を遂げることとなった。フランスは[[ミシシッピ川]]以西の[[ルイジアナ]]を同盟国の[[スペイン]]に割譲した、これは、スペインが敗戦により[[フロリダ]]をイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスに[[フロリダ]]を割譲した見返りに、[[キューバ]]の[[ハバナ]]を手に入れた。[[カリブ海]]から北のフランスの植民地は、[[サンピエール島・ミクロン島|サンピエール島とミクロン島]]<ref group="注釈">現在もフランスの海外領土(海外準県)である。</ref>だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。
この戦争の結果、[[第2次百年戦争]]と呼ばれた英仏間の植民地獲得競争においてイギリスの優位がほぼ固まり、敗れたフランスは[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]の結果、北米大陸からほぼ全面的に撤退することとなった。


==名前の由来==
== 発端と経過 ==
[[File:Battle of Quebec.png|thumb|180px|left|ウィリアム王戦争(ケベックの戦い、1690年)]]
「新大陸」の[[植民地]]で農地を西方に広げようとするイギリス植民勢力と、[[インディアン]]との[[毛皮]]の交易路を拡大しようとするフランス勢力(フランス領[[カナダ]]、[[ヌーベルフランス]])が、[[オハイオ川]]流域で衝突したもの。
植民地同士の戦争は何通りかの呼び名がある。イギリス領のアメリカ植民地では、[[17世紀]]後半から、ヨーロッパの戦争に呼応して起こった植民地戦争が、その時々の君主の名前にちなんで、たとえば[[ウィリアム王戦争]]、[[アン女王戦争]]、[[ジョージ王戦争]]と呼ばれていた。すでに1740年代の戦争に[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ王]]の名が冠せられていたため、やはりジョージ王治世下に起こった[[1750年代]]の戦争は「フレンチ・アンド・インディアン戦争」と呼ばれた<ref name="anderson crucible of war 747"/> 。この呼び名は[[アメリカ合衆国]]で定着しているが、この名前は、インディアンが英仏どちらにも加担していたという事実がぼやけてしまっている<ref>Jennings, p. xv.</ref>。アメリカの歴史家は、この呼び名か、ヨーロッパ式の「七年戦争」を用い、他にも、あまり頻繁ではないが「第四植民地戦争」や「イギリス帝国大戦争」Great War for the Empireという名を使ったりもする<ref name="anderson crucible of war 747">Anderson (2000), p. 747.</ref>。


ヨーロッパでは、北アメリカを戦場とした七年戦争の決まった呼び名はない。ヨーロッパ以外の地域をひっくるめて七年戦争として知られている。この七年というのはヨーロッパの戦争に関するものである、正式な宣戦布告が1756年に行われ、[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]までに7年を要したからである。実際に北アメリカ本土で行われた戦いの年数は、6年で終わっている。[[1754年]]の[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]から[[1760年]]の[[モントリオールの攻略]]までの6年間である<ref name="anderson crucible of war 747"/>。
[[1754年]]夏にフランス勢力と[[バージニア植民地|ヴァージニア]]民兵隊の間で小競り合いがはじまり、[[1755年]]6月北米沖で英艦隊が仏艦隊を拿捕したことにより決定的な争いとなった。同年7月オハイオ川流域の[[デュケーヌ砦]](デュケイン砦、現在の[[ピッツバーグ]])を目指す[[エドワード・ブラドック|ブラドック]][[将軍]]率いる英軍が待ち伏せたフランス軍と[[イロコイ連邦]]などの[[インディアン]]連合軍によって壊滅させられた。これによって当初はフランス軍に有利な展開となった。しかし1756年7月に欧州で七年戦争が起こると、1757年6月に英本国で[[第一大蔵卿]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公]]のもとでチャタム伯[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]](大ピット)が国務大臣に就任して体制を建て直し、反撃に出た。


カナダでは、フランス系住民もイギリス系住民も、ヨーロッパと北アメリカの戦争の双方を七年戦争(英Seven Years War、仏la Guerre des Sept ansゲール・ド・セタン)としている<ref>[http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=A1ARTA0007300 The Canadian Encyclopedia: Seven Years' War].</ref><ref>{{fr icon}} [http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=F1ARTF0007300 L'Encyclopédie canadienne: Guerre de Sept Ans].</ref>。フランス系カナダ人は「征服戦争」(ゲール・ド・ラ・コンケット)という表現をすることもある<ref>[http://www.salic-slmc.ca/showpage.asp?file=histoire_ling/intro_fr_en/guerre_sept_ans&language=fr&updatemenu=true La guerre de la Conquête (1756-1760)]</ref>。
[[1758年]]には[[セントローレンス湾]]の入り口を押さえるフランス領の[[ルイブール要塞]](現在の[[ノヴァスコシア州]]ルイスバーグ)が陥落し、オハイオ川流域のデュケーヌ砦もイギリス軍に占領された。[[ニューヨーク]]から[[ヌーベルフランス]]の首府[[ケベック (ケベック州)|ヴィル・ド・ケベック]]を目指した将軍[[ジェームズ・ウルフ]]率いる英軍は、迎撃したカナダ軍総司令官[[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]率いる仏軍と[[アブラハム平原]]で激突し、両将軍とも戦死したが、三ヶ月におよぶ攻防のすえ[[1759年]]9月13日にはヴィル・ド・ケベックが陥落してフランス側の大敗に決した。[[1760年]]には[[モントリオール]]も陥落してフランスが降伏し、フランス領カナダの拠点はすべて壊滅して全戦闘は終了した。


==1750年代の北アメリカ==
== 戦後処理 ==
[[File:Nouvelle-France map-en.svg|thumb|left|300px|1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。]]
1763年2月10日に調印されたパリ条約で、[[インディアン]]民族に許可なく、フランスはカナダを、スペインは[[スペイン領フロリダ|フロリダ]]を正式にイギリスに割譲し、また、フランスは[[フランス領ルイジアナ|仏領ルイジアナ]]のうち[[ミシシッピ川]]以西を同盟国スペインの労に報いるため割譲、さらに同川以東のルイジアナは戦勝国イギリスに割譲した。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。
ミシシッピ川以東の北アメリカは、イギリスとフランスの所有権争いが激しかった。


フランス系住民の人口は、当時約7万5千人で、[[セントローレンスバレー]]沿いに集中しており、その他には[[アカディア]](現在のノバスコシア)やロワイヤル島(現在の[[ケープブレトン島]])に住んでいた。そしてわずかな人数が[[ニューオーリンズ]]やミシシッピ川流域の入植地にいた。フランス人の[[毛皮貿易|毛皮交易]]者は、セントローレンス川やミシシッピ川の全域の連水経路を通って、地元のインディアンたちと交易をした。インディアン女性と結婚することもしばしばあった<ref>{{cite book |first=John |last=Powell |title=Encyclopedia of North American immigration |year=2005 |location=New York |publisher=Facts On File |page=204 |isbn=0816046581 }}</ref>。
なお、パリ条約締結後、カナダ東部の[[アカディア]]地方を追われたフランス系住民には[[ニューオーリンズ]]一帯に移住した者が多く、独自の[[ケイジャン]]文化を育てた。また、カナダに隣接する[[メイン州]]([[1820年]]に[[マサチューセッツ州]]より分離)北部の[[セント・ジョン渓谷]]に移り住んだ者もいた。こののちカナダはイギリス領となったものの、そこにすむフランス系カナダ人は、民族的自覚を発展させ、イギリス帝国の支配に対する抵抗は続いた。


イギリスの入植地は150万人の人口がいて、南は[[ジョージア植民地]]から、北はノバスコシアや[[ニューファンドランド]]までの、北アメリカ大陸東部に沿って広がっていた<ref>{{cite book |first=Francis D. |last=Cogliano |title=Revolutionary America, 1763–1815: A Political History |year=2008 |location=London |publisher=Routledge |page=32 |isbn=9780415964869 }}</ref> 。
イギリスはパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得したが、1763年、イギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]は新たに英領となったルイジアナを英国の直轄地として、[[アパラチア山脈]]に設けられた[[1763年宣言|国王宣言線]]よりも西側に[[13植民地]]の人々が入植することをインディアン民族に断りなく禁止した。


ヌーベルフランスとニューイングランドの間のかなり広大な土地は、インディアンによって支配されていた。北は[[ミクマク族]]と[[アベナキ族]]が、ノバスコシアやアカディアの一部、ヌーベルフランスの東部や現在の[[メイン]]を支配していた<ref>Jennings, pp. 9, 176</ref> 。[[イロコイ連邦]]は現在の[[ニューヨーク州]]の北部の大部分と[[オハイオ領土]](オハイオカントリー)を支配していたが、オハイオカントリーには[[レナぺ]](デラウェア)、[[ショウニー]]、[[ミンゴ]]の諸族も住んでいた。レナぺ、ショウニー、ミンゴはイロコイ連邦の管理下にあり、合意をする上での権限が制約されていた<ref name=A2K_23>Anderson (2000), p. 23</ref>。内陸のかなり南には[[カタウバ]]、[[クリーク (インディアン)|クリーク]]、[[チョクトー]]、そして[[チェロキー]]の諸族が住んでいた<ref>Jennings, p. 8</ref>。
== 後世への影響 ==
# {{要出典範囲|英領アメリカ13植民地(以下「13植民地」)の人々は国王宣言線(上述)に激しく反発した。さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、[[砂糖法]]を施行し([[1764年]])、さらに[[印紙法]]を施行しようとした([[1765年]])。このため、英本国と13植民地との間には深刻な対立感情が生まれた|date=2011年12月}}。
# {{要出典範囲|北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、イギリス領の植民地が本国からの安全保障を必要としなくなってしまった。それが直後の[[アメリカ独立戦争]]を促した側面がある。イギリスは、13植民地を安全にしたがために、かえってそこを失ってしまうという皮肉な結果をもたらした|date=2011年12月}}。
# {{要出典範囲|[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]統治晩年のフランスでは、[[オーストリア継承戦争]]からこの戦争および七年戦争の戦費と、[[ヴェルサイユ宮殿]]での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の時代に入るとさらにアメリカ独立戦争支援のための出費もあったが、イギリスにくらべフランスは慢性的に戦費調達能力が低かったうえに、この間フランスは新領土を獲得していないため財政赤字は累積した。そして、こうした逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして[[全国三部会]]が招集したことが[[フランス革命]]勃発のきっかけとなっている|date=2011年12月}}。
# {{要出典範囲|この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、[[植民地貿易]]の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス[[産業革命]]を促した、数ある要因のなかのひとつになっている|date=2011年12月}}。


[[File:A Battle of the French-Indian War.jpg|thumb|230px|left|森林でイギリス軍にゲリラ戦を仕掛けるインディアン兵]]
== エピソード ==
戦争が勃発した時、ヌーベルフランスはインディアンたちの交易網を利用して<ref>[http://www.encyclopedia.com/topic/French_and_Indian_Wars.aspx French and Indian Wars, Facts, Information, Pictures | Encyclopedia.com articles about French and Indian Wars]</ref>アベナキ、[[二ピシング (インディアン)|二ピシング]]、さらに西の五大湖周辺の[[オジブワ]]、[[フォックス (インディアン)|フォックス]]、チョクトー族などがフランスに与した。いっぽうでイギリスは、イロコイ連邦を味方に引き入れたが<ref>Borneman, p.89</ref>、カタウバ族とチェロキー族、そしてオハイオ領土のデラウェアやショウニー族(オハイオインディアン)とも同盟した<ref>Borneman, p.162</ref>しかし、イギリスは、1758年にチェロキー族と[[アングロ・チェロキー戦争]]を引き起こした<ref>[http://www.fofweb.com/History/MainPrintPage.asp?iPin=EMHI0178&DataType=AmericanHistory&WinType=Free Facts on File History Database Center - Cherokee War]</ref>。同じ1758年の10月、ペンスルベニアの行政府は[[イーストン条約]]の交渉に成功した。これはオハイオカントリーの多くの部族に、フランスとの同盟を破棄して中立を保つのと引き換えに、ペンシルベニア植民地から自分たちの土地を守るというものだった<ref>Borneman, p. 164</ref>。
[[画像:WashingtonFIwar.jpg|250px|right|thumb|フレンチ・インディアン戦争でのジョージ・ワシントン]]

# アメリカ民謡『[[アルプス一万尺|ヤンキードゥードル]]』(日本では『アルプス一万尺』の名で知られる)は、1755年、この戦争で英軍を応援するために集まった13植民地の兵が風変わりで間抜けな格好をしているということで、それを揶揄するためイギリスの軍医がつくった曲だとされている。しかし、植民地白人はこの歌が好きで、のちのアメリカ独立戦争の際にもよく愛唱された。
北アメリカ東部におけるスペインの植民地はフロリダに限定されていた。キューバと他の[[西インド諸島]]の領土も支配していたが、七年戦争ではこういったところも軍事目標となった。フロリダは人口が少なく、[[サンオーガスティン (フロリダ)|サンオーガスティン]]と[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]にわずかな集落があった。
# のちにアメリカ独立軍総司令官となる[[ジョージ・ワシントン]]が初陣を飾ったのが、この戦争である。このときヴァージニア民兵隊を率いた彼は1754年夏に宣戦布告なしに仏側を攻撃し、大敗している。デュケーヌ砦遠征の際にはブラドックの幕僚となるが、ブラドックはインディアン相手に英国流の戦い方にこだわり、ワシントンがいくら「ここはアメリカだからその戦法では負ける」と進言しても聞き入れることなく、[[モノンガヒーラ川]]で不意打ちに遭い敗北を喫している。このときワシントンは[[ダンバー]]とともに残った兵士たちを導いて冷静に基地まで連れ帰った。

# [[ベンジャミン・フランクリン]]はデュケーヌ砦遠征隊の資材の一部を調達している。また、この遠征には[[ダニエル・ブーン]]も加わっていた。
[[File:Troupes de la Marine 2.jpg|thumb|180px|right|トゥループ・ド・ラ・マリン]]
# のちに、イギリスはデュケーヌ砦のあった地をチャタム伯(大ピット)にちなんで、ピッツバーグ(「ピットの砦」を意味する)と改名する。こんにち鉄鋼都市として有名な[[ペンシルベニア州]]の大都市である。
戦争勃発当時は、北アメリカにフランスの正規兵はおらず、イギリスの正規軍もわずかだった。ヌーベルフランスは、一部森林地帯での戦闘経験を摘んだ植民地の正規兵である[[フランス領カナダの防衛軍|トゥループ・ド・ラ・マリン]]で防衛しており<ref>[http://public.gettysburg.edu/~tshannon/hist106web/Canada/_private/military_of_new_france.htm The Military of New France]</ref>必要な時には民兵を召集した。イギリス領アメリカの植民地は、インディアンの襲撃に備えて、あまり訓練を積んでいない民兵を召集したが、いかなる常備軍も持っていなかった。
# 戦争終結後の1764年、スペイン領ルイジアナとなったミシシッピ川西岸に[[セントルイス]]の町がフランス系住民によって建設された。町の名はフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]にちなむ。

# この戦争において世界で初めて[[天然痘]][[ウイルス]]がイギリス軍によって[[生物兵器]]として使用される。ウイルス発見以前で、天然痘も病原性[[細菌]]による[[感染症]]と考えられていた。「天然痘患者が使用していた[[毛布]]をインディアンへ贈る」という方法であったが、効果があったのかは定かではない。
{{要出典|=ヴァージニアはヌーベルフランスとの境界線が長く、イギリス軍正規兵による数個の中隊があった。植民地の行政府は、互いにそれぞれで軍事行動をとることに慣れており、また本国政府は、インディアンの領土が複数の植民地に含まれるような場合の込み入った交渉が行われる場合、また、戦争が始まったのちは、イギリス陸軍の首脳陣が植民地の行政に束縛を掛けたり、命令したりしようとする場合には、イギリス軍正規兵と共に行動するようにさせた。|date=2012年12月}}

==戦争への道==
===セロロンの遠征===
[[File:Wpdms ohio country.png|thumb|180px|right|オハイオ領土、すぐ上の水色の部分がエリー湖]]
[[1747年]][[6月]]、{{仮リンク|ジョージ・クローハン|en|George Croghan}}のような交易者に影響されたイギリス人商人のオハイオ領土への進出、拡張を懸念したヌーベルフランス[[総督]]{{仮リンク|ロラン=ミシェル・バリン・ド・ラ・ギャリソニエール|en|Roland-Michel Barrin de La Galissonière}}は、{{仮リンク|ピエール=ジョゼフ・セロロン・ド・ブランヴィユ|en|Pierre Joseph Céloron de Blainville}}に、この地への軍事遠征をさせた。この遠征の目的は、この土地が元々はフランスのものであったという主張の確認であり、イギリスの影響がどれほどのものかを判断し、またインディアンにフランスの力を見せつけるためでもあった<ref name=A2K_26>Anderson (2000), p. 26.</ref>。

セロロンの遠征軍は約200人のトゥループ・ド・ラ・マリンと30人のインディアン兵で構成されていた。遠征は3000キロにも及ぶもので、[[1749年]]の[[6月]]から[[11月]]の間に行われた。[[セントローレンス川]]を上り、[[オンタリオ湖]]の北岸に沿って進軍を続け、[[ナイアガラ]]で連水経路を横切り、そして[[エリー湖]]の南岸をたどった。[[チョトーカ・ポルタージュ]](現在の[[ニューヨーク州]]バルセロナ)で一行は内陸のアレゲニー川の方向へ進んだ、この川は現在の[[ピッツバーグ]]に通じており、ここにセロロンは、オハイオ領土はフランスの領土であると刻んだ鉛の[[銘板]]を埋めた<ref name=A2K_26/>。そしてイギリス人商人や毛皮交易者と出くわすたびに、セロロンは領土はフランスのものであり、ここから出て行くようにと告げた<ref name=A2K_26/>。

セロロンの遠征軍がログスタウンについた時、地元のインディアンたちが、オハイオ領土を所有しているのは我々であり、フランスがどう言おうと、自分たちはイギリス人との取引をするだろうと告げた<ref name="fowler 14">Fowler, p. 14.</ref>。セロロンはそのまま南へ遠征を続け、[[オハイオ川]]とマイアミ川(Great Maimi Rivers)が合流する地点に出た。ここはピカウィラニの集落のちょうど南に当たっていて、[[マイアミ族]]の本拠地だった。このマイアミ族の族長メメスキアはオールド・ブリトンと呼ばれていた。セロロンは彼に、長老たちがイギリスとの取引を続けるのなら、悲惨な結果になるだろうと告げたが、オールド・ブリトンはこの警告を無視した。セロロンは失望し<ref name="ParkLoram">[http://www.dnr.state.oh.us/parks/magazinehome/magazine/sprsum2006/parkspotlight/tabid/310/Default.aspx Park Spotlight: Lake Loramie] Ohio State Parks Magazine, Spring 2006</ref>、1749年11月にモントリオールへ戻った。

セロロンは遠征を広範囲にわたって述べた報告書で、こう書いている。「私が言えるのは、この地域のインディアンたちはフランスに対してよからぬ印象があり、イギリスにはひたすら尽くしている。彼らがどうすればフランスのもとに戻ってくるかはわからない<ref name="fowler 14"/> 。セロロンがモントリオールに戻るかなり前に、オハイオ領土の状況を綴った報告書はロンドンとパリで評判になり、英仏の実力行使を喚起するものとなっていた。[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]の総督で、領土拡張の提唱者で、人を説得する能力に特に秀でていた[[ウィリアム・シャーリー]]は、イギリス植民地の入植者は、フランスがいる限り安全ではないと明言した<ref name="fowler 15">Fowler, p. 15.</ref>。

===インディアン諸部族との交渉===
[[ファイル:French and Indian War map.png|thumb|250px|left|フレンチ・インディアン戦争の舞台となったニューヨークとペンシルベニア(1905年発行の地図)]]
1749年、イギリス政府は、オハイオ領土での交易や入植を拡大するため、{{仮リンク|バージニア・オハイオカンパニー|en|Ohio Company}}に土地を提供した<ref>Alfred P. James, ''The Ohio Company: Its Inner History'' (1959) pp 26-40</ref>。この下賜には100家族以上の入植と、防御のための砦の建設が求められていた。しかし、[[ペンシルベニア植民地]]もここが自分たちの土地であると主張しており、両植民地は各自の主張を譲らず、互いに行動に移すように要求した<ref>Jennings, p. 15</ref> 。1750年に、バージニア植民地とオハイオカンパニーの代理として、{{仮リンク|クリストファー・ギスト|en|Christopher Gist}}がオハイオ領土を実地調査して、地元のインディアン部族との交渉をログスタウンで切り出した<ref>Jennings, p. 18</ref>。これは1752年の[[ログスタウン条約]]で締結され、「ハーフ・キング」と呼ばれたインディアンの有力者タナチャリゾン(タナギリソン)と、イロコイ族の代表とがモノンガヘラ川(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)に[[ストロングハウス]]を建てることを許可された<ref>Anderson (2000), p. 28</ref>。

[[オーストリア継承戦争]](北アメリカにおける[[ジョージ王戦争]])が、[[アーヘンの和約]]の署名によって[[1848年]]に終了した。この条約は、各領地を戦前の状態に戻すことが決められ、イギリスが奪った[[ルイブール要塞|ルイブール]]がフランスへ返還された。これがニューイングランドの住民を怒らせたため、イギリスは、失業者対策を兼ね、ルイブールに近い[[ハリファックス]]に入植地と軍港を作った<ref>木村、104頁。</ref>。他にも[[ニューイングランド]]との取引のあったアカディア、[[漁業]]権が焦点となったニューファンドランドも、なお英仏の抗争の一因となっていた<ref>木村、94-98頁。</ref>。

===ピカウィラニの攻撃===
[[1752年]][[3月17日]]に、ヌーベルフランス総督の{{仮リンク|ジョンキエール侯爵ジャック=ピエール・ド・ラ・ジョンキエール|en|Jacques-Pierre de Taffanel de la Jonquière, Marquis de la Jonquière}}が亡くなり、臨時の総督にシャルル・ル・モイヌ・ド・ロンゲイユが就任した。その年の[[7月]]には、{{仮リンク|デュケーヌ侯爵ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ|en|Michel-Ange Duquesne de Menneville}}がヌーベルフランスに到着して、正式に総督に就任した<ref>Anderson (2000), p. 27</ref> 。イギリス軍はなおもオハイオで軍事活動を続けており、そのためロンゲイユは、トゥループ・ド・ラ・マリンの士官である{{仮リンク|シャルル・ミシェル・ド・ランラード|en|Charles Michel de Langlade}}を指揮官として、遠征軍をオハイオに派遣した。ランラードが率いた兵は300人で、オタワ族とフランス系カナダ人から成り立っていた。この遠征の目的は、セロロンによるイギリスとの交易中止を無視した、ピカウィラニのマイアミ族への懲罰だった。[[6月21日]]、フランス軍はピカウィラニの交易所を攻撃し、3人の交易者を[[捕虜]]として<ref name="ParkLoram"/>、14人のマイアミ族を殺した。その中にはオールド・ブリトンもいた。彼は、伝えられるところによると、遠征に参加したオタワ族の儀式で、その肉を食べられた。

===フランスの砦建設===
[[File:French British Forts 1753 1758.jpg|thumb|180px|right|1753年から1758年にかけてのオハイオ領土の英仏の砦、中央左デュケーヌ砦より北がフランスのもの]]
[[1753年]]の春、{{仮リンク|ポール・マリン・ド・ラ・マルグ|en|Paul Marin de la Malgue}}が2000人のトゥループ・ド・ラ・マリンとインディアン兵の指揮を任された。マリンの任務は、オハイオバレーのフランス国王領をイギリスから守ることだった。マリンは4年前にセロロンが遠征した経路をなそったが、セロロンがフランス領であることを示すために鉛板を埋めたその場所に、[[砦]]を作って兵を駐屯させた。最初に作ったのは、エリー湖南岸沿いの、[[プレスク島砦]](現在のペンシルベニア州エリー近く)だった。次に[[ルブッフ・クリーク]]の源流に通じる道を建設し、そして2つ目の砦である[[ル・ブッフ砦]]を作った。(現在のペンシルベニア州ウォーターフォード)この砦は、ルブッフ・クリークの源流を囲い込むように建設されていた。そして南へ移動し、イギリス人交易者を追い払いまたは捕囚したため、イギリス人とイロコイ連邦とが、ラ・マルグのやっていることに気付いてしまった。ミンゴ族の族長であるタナチャリゾンは非常にフランス人を嫌っていた。フランスの領土の拡張によって西へ追いやられたイロコイ連邦諸族の生き残りであり、フランス人に父親を殺されて食べられたのを非難していた。タナチャリゾンはル・ブッフ砦に出向き、軍事行動を起こして駐屯兵を脅かしたが、マリンは小ばかにしたようにタナチャリゾンを追い返した<ref name="fowler 31">Fowler, p. 31.</ref>。

[[File:Sir William Johnson.jpg|thumb|150px|left|ウィリアム・ジョンソン]]
イロコイ族はニューヨーク植民地北部の、{{仮リンク|ウィリアム・ジョンソン|en|Sir William Johnson, 1st Baronet}}の屋敷に使者を送った。ジョンソンはイロコイ族から「ワラギゲー」、偉大なことを成し遂げる人物と呼ばれており、ニューヨークでは、イロコイ連邦の賞賛すべき構成員とされていた。[[1746年]]に、ジョンソンはイロコイ軍の大佐となり、その後はニューヨーク西部民兵隊の大佐となった。この民兵隊は[[オールバニ]]で{{仮リンク|ジョージ・クリントン|en|George Clinton (Royal Navy officer)}}総督や、他の植民地から来た高官と会った。[[ヘンドリック・テヤノギン|ヘンドリック]]族長は、イギリスは義務を守って、フランスの侵入を阻むべきだと主張した。クリントンから不満げな返答が返って来た時、ヘンドリックは「コーヴナント・チェーン」、長きにわたって続いてきたイロコイ連邦とイギリスの友好関係はこわれたと宣言した<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=N4ER-N1xqjQC&pg=PT49&dq=Albany+conference+Clinton+Hendrick+William+Johnson+Warraghiggey&hl=ja&sa=X&ei=GLm1UPS9LJGZmQXin4FA&ved=0CDUQ6AEwAA:From Colonial America to the New Century. Presidents of the United States, Maps, Constitutional Documents and More (Google eブックス)]</ref>。

===バージニアの対応===
[[File:Robert Dinwiddie from NPG.jpg|thumb|150px|right|バージニア総督ディンウィディー]]
バージニアの総督{{仮リンク|ロバート・ディンウィディー|en|Robert Dinwiddie}}は、自分が苦境にあることに気付いた。ディンウィディーはオハイオカンパニーへの投資者のひとりであり、フランスがオハイオを自己の領土と主張すれば、オハイオカンパニーは資金を失いかねなかった<ref>O'Meara, p. 48</ref>。1753年[[10月]]、オハイオに駐留しているフランス軍に対抗するために、ディンウィディーは21歳のヴァージニア民兵隊[[少佐]]である、[[ジョージ・ワシントン]]に、フランス軍にバージニアからの立ち退きを警告するように命令した<ref name=A2K_42_3>Anderson (2000), pp. 42–43</ref>。ワシントンはわずかな兵を連れて出発し、行く道すがらで通訳として[[ジェイコブ・ヴァン・ブルーム]]を、そしてヴァージニアの中隊の測量士であるクリストファー・ギストを、またタナチャリゾンに率いられた数人の[[ミンゴ族]]を仲間に加えた。[[12月12日]]、ワシントンと兵士たちはル・ブッフ砦に到着した<ref>Anderson (2000), p. 43</ref><ref>Jennings, p. 63</ref>。

フランス軍は、指揮官のマリンが[[10月29日]]に亡くなっており、{{仮リンク|ジャック・レガルデュール・ド・サン=ピエール|en|Jacques Legardeur de Saint-Pierre}}が新たに指揮官となっていた。サン=ピエールはその夜、ワシントンを食事に招いた。食事中、ワシントンはサン=ピエールに、ディンウィディーの手紙を差し出した。それには、オハイオカントリーからの、フランスの即時撤退を要求するとしたためられていた。サン=ピエールはこれに対して、丁重にこう言った。「貴殿が私に撤退せよと言われたことに関しては、それに従う義務があるとは思わない」<ref name="fowler 35">Fowler, p. 35.</ref>サン=ピエールは、フランスがオハイオを自国領と主張するのは、イギリスよりも歴史の点でまさっているからだと説明した。それというのも、それよりほぼ100年前に、[[ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール|ラ・サール]]がオハイオを探検していたからだった<ref name="ellis 5">Ellis, ''His Excellency George Washington'', p. 5.</ref>。

[[File:Monon MonongahelaRiver.png|thumb|180px|right|モノンガヘラ、アレゲニー両川とオハイオ川の合流点(現在のピッツバーグ)]]
ワシントン一行は[[12月16日]]の早朝にル・ブッフ砦を出発して、[[1754年]]の[[1月16日]]に[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]に戻った。報告書にワシントンはこう記している。「フランスは南部に押し入った」<ref name="fowler 36">Fowler, p. 36.</ref>そして、この地域に砦を建築して行く段階を詳細に記し、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流点に砦を築こうとするフランスの意図について伝えている<ref>O'Meara, pp. 37–38.</ref>。

==戦争の経緯==
ディンウィディーは、ワシントンが戻るかなり前に、{{仮リンク|ウィリアム・トレント|en|William Trent}}をオハイオに派遣した。1754年が開けて間もないころで、フランス軍は倉庫のある、規模の小さな砦の建設を始めたところだった<ref>O'Meara, p. 41</ref> 。デュケーヌ総督は、同じ時期に、サン=ピエールを解任し、{{仮リンク|クロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクール|en|Claude-Pierre Pécaudy de Contrecœur}}の指揮のもと500人の兵が、1754年の[[4月5日]]に南にあるヴェナンゴ砦を出発した<ref>O'Meara, pp. 43–45</ref>。[[4月16日]]にコントルクール一行はル・ブッフ砦に着いた。トレントの小規模な軍勢の撤退を気前よく許し、建築道具を購入して、後にデュケーヌ砦となる砦の建設を続けた<ref>Jennings, p. 65</ref>。

[[File:Assassinat de Jumonville-2.png|thumb|180px|right|ジュモンヴィユの戦死]]
ワシントンが報告書を携えて[[ウィリアムズバーグ]]に戻ったのち、ディンウィディーはワシントンに、より大きな軍をトレントの援軍として指揮するように命じた。ル・ブッフ砦に向かう途中で、ワシントンは、トレントが退却したことを知った<ref>Anderson (2000), p. 50</ref>。タナチャリゾンがワシントンへの支援を約束していたため、ワシントンはそのままデュケーヌ砦に向かい、このミンゴ族の族長と会った。この周辺にはフランスの[[偵察]]兵がいることを聞かされて、ワシントンは兵のうち何人か、そしてタナチャリゾンと彼の手下のインディアン兵たちを連れて行って、[[3月28日]]にフランス軍を不意打ちした。フランス軍の多くが戦死し、その中には指揮官の{{仮リンク|ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ|en|Joseph Coulon de Jumonville}}もいた。ジュモンヴィユの首は、伝えられるところによると、タナチャリゾンから[[トマホーク]]で2つに裂かれたと言われている。歴史家のフレッド・アンダーソンは、タナチャリゾンがなぜそうしたのかについて、ミンゴ族の間での権威を取り戻すためにはイギリスの支援を得る必要があると考え、この行為に及んだのではないかと示唆している。ミンゴ族の多くは、長い間の交易相手であるフランスを支持しようとしていたからである。タナチャリゾンの兵は、コントルクールに、ジュモンヴィユはイギリス兵の銃により殺されたと言っている<ref name="AndersonCrucible51_9">Anderson (2000), pp. 51–59.</ref>。この[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]は、歴史家の間でフレンチ・インディアン戦争の最初の戦闘であり、オハイオ領土での交戦の始まりとされている。

この戦闘の後、ワシントンは数マイル後退して[[ネセシティ砦]]を建てた。はその年の[[7月3日]]、この砦はフランス軍の襲撃を受けることになり、ワシントンはこの戦いで降伏した。この時、ワシントンは武装しての撤退ができるよう交渉している。この時のワシントン軍の兵士によると、フランス軍はショーニー、デラウエア、そしてミンゴ諸族の者を連れていた。そのミンゴ族こそ、タナギリソンがイギリスの味方をするようにつとめていた者達だった<ref name="AndersonCrucible59_65">Anderson (2000), pp. 59–65.</ref>。

[[File:WashingtonFIwar.jpg|thumb|200px|left|フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753,54年頃)]]
この2つの戦いの知らせが8月になってイギリスに伝わり、[[初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホルズ]]政権は数か月の交渉の後、フランス撃退のため翌年に遠征軍を送ることを決めた<ref name="Fowler52">Fowler, p. 52.</ref>。[[陸軍少将]][[エドワード・ブラドック]]がその指揮官に選ばれた<ref>Lengel p. 52.</ref>。このイギリスの軍事計画については、ブラドックが北アメリカに発つ前にフランスに細かい情報が洩らされ、国王ルイ15世は、1755年、[[ディスカウ男爵ジャン・エルドマン]]指揮下の、6つの連隊をヌーベルフランスに派遣した<ref>O'Meara, p. 113.</ref>。イギリス軍は、フランスの港の封鎖をもくろんで、1755年に艦隊を送り込んだが、フランスの艦隊もすでに北アメリカに向かっていた。[[提督]]の[[エドワード・ホーク]]は、速戦隊(fast squadron)を北アメリカに送り、フランスを阻止しようとした。次なるイギリスの攻めの手として、提督[[エドワード・ボスコーエン]]は、[[1755年6月8日の海戦]]で、フランス艦のアルシドと、2隻の輸送艦に砲撃を加えた<ref name="Fowler74_5">Fowler, pp. 74–75.</ref>。1755年を通して、イギリスはフランス艦隊の艦を奪い、水夫を捕囚するなどして嫌がらせを続けた。このことは、最終的に1756年の正式な宣戦布告へ貢献した<ref name="Fowler98">Fowler, p. 98.</ref>。

===イギリスの作戦 (1755年)===
[[File:Acadie 1754.png|thumb|230px|left|1754年当時のアカディア。ピンクがイギリス領、緑がフランス領である。]]
イギリスは[[1755年]]の攻撃計画を立てた。[[エドワード・ブラドック]][[将軍]]は遠征軍を[[デュケーヌ砦]]まで率いる予定だった、その一方でマサチューセッツ植民地の総督であるウィリアム・シャーリーは、[[オスウィーゴ砦]]の守りを固め、[[ナイアガラ砦]]を攻撃する任務を与えられた。サー・ウィリアム・ジョンソンはセントフレデリック砦(現在のニューヨーク州[[クラウンポイント]])を攻略し<ref>O'Meara, pp. 110–111.</ref>、[[ロバート・モンクトン]][[中佐]]は、イギリス領ノバスコシアとアカディアの境界にある[[ボーセジュール砦]]を攻略予定だった<ref>O'Meara, p. 163.</ref>。

{{main|エドワード・ブラドック|}}
[[File:Braddock's death at the Battle of Monongahela 9-July-1755.jpg|thumb|150px|right|ブラドック将軍の戦死]]
1755年6月、ブラドックは正規兵2000人と植民地民兵を率いてデュケーヌ砦攻略の遠征に出た。この遠征は大惨事に終わった。[[モノンガヘラの戦い]]で、フランス軍とインディアン兵はイギリス軍を待ち伏せし、ブラドックは致命傷を負った。この時の敗因として、ブラドックの戦法はヨーロッパのそれであり、アメリカの広大な境界地帯にはふさわしくなかったとする説がある<ref>Borneman, pp. 48-55</ref>。
ブラドックの戦死により、ウィリアム・シャーリーが北アメリカのイギリス軍の指揮をまかされた。1755年12月、シャーリーは翌[[1756年]]に向けた作戦計画の段取りを示した。ナイアガラ砦、[[クラウンポイント砦]]、そしてデュケーヌ砦の攻略計画を刷新し、また、オンタリオ湖北岸の[[フロンテナック砦]]を攻撃し、メインの手つかずの森林を抜けて、[[ショーディエール川]]を渡り、[[ケベック・シティー|ケベック]]を攻撃するというものだった。ウィリアム・ジョンソンや、ニューヨーク総督の{{仮リンク|チャールズ・ハーディ|en|Charles Hardy}}をはじめとする士官からは不賛成の声が出、口論になって、この計画は難航し、わずかな支持しか得られなかった。また、ニューカッスル公が1756年1月に、マサチューセッツ総督をシャーリーからルードゥーン卿ジョン・キャンベルに替え、次席指揮官には[[ジェームズ・アバークロンビー (将軍)|ジェームズ・アバークロンビー]]が就任した。両者とも、フランスが北アメリカに送り込んだ3人の士官ほどには遠征経験がなかった<ref name="Fowler98" />。

{{main|オスウィーゴ砦の戦い (1756年)}}
ブラドックの死後に指揮官となったシャーリーは、オンタリオ湖畔のオスウィーゴに着き、行軍してくるフランス軍に対抗すべくそこの防御を強化したき<ref>Borneman, pp. 56</ref>。その後イギリス本国から北アメリカの最高指揮官として赴任した{{仮リンク|ルードゥーン伯ジョン・キャンベル|en|Earl of Loudoun}}が、シャーリーに代わって指揮を執った。オスウィーゴ砦は指揮官の後退と物資の少なさに悩まされた。そして[[1756年]][[8月12日]]、[[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]率いるフランス軍がオスウィーゴ砦に攻め入ってこの砦を攻略した。イギリス軍はこれで多大な損失を出した<ref>Borneman, pp.67-69</ref>。後にシャーリーから罷免され、上官の命令に従わなかったとして、本国で査問にかけられた<ref>Borneman, p.84</ref>。一方モンカルムはこの作戦で弾みをつけた<ref>Borneman, p.86</ref>

{{main|ジョージ湖の戦い}}
ウィリアム・ジョンソンは、[[ハドソン川]]とジョージ湖南端の間の連携水路にエドワード砦を作ろうとした。他方、ディスカウは、ヌーベルフランスの総督である[[ピエール・フランソワ・ド・リゴー|ヴォードルイユ]]の命を受け、シャンプラン湖に向かう敵軍をはぐらかすのが先だた。フランス軍とカナダの民兵とは、カリヨン砦の建設を着々と進めていた。そのフランス軍は、野営していたイギリス軍を驚かすべく砲撃を開始した。イギリスは最終的に反撃に出たて、ディスコ-はその時に負傷し、捕虜となった。フランスはなおもカリヨン砦の工事に取り掛かっており、ジョンソンは2つ目の砦を建設するべく、ジョージ湖の南に新しく[[ウィリアム・ヘンリー砦]]を作った。(1759年の攻略後、タイコンデロガ砦と改名)<ref>Borneman, pp.46-59</ref><ref>Borneman, pp.56-57</ref>

モンクトンは、この1755年の軍事計画では唯一成功した人物だった。6月のボーセジュールの戦いで、フランスのルイブール砦への陸上の援軍を断ったのである。補給路を断つために、[[ノバスコシア]]総督の[[チャールズ・ローレンス]]は、フランス語を話すアカディア人に、この地からの追放を命令した。植民地のレンジャー部隊[[ロジャーズ・レンジャーズ]]を含むモンクトンの軍勢は、何千人もの{{仮リンク|アカディア人を強制的に退去|en|Expulsion of the Acadians}}させ、抵抗するものを突き止め、残虐行為を行った。それ以上の他の要素もあって、ルイブールへの補給路の断絶はルイブールを活動停止へと導いた<ref>{{cite book |last=Patterson |first=Stephen E. |chapter=1744-1763: Colonial Wars and Aboriginal Peoples |editor1-first=Phillip |editor1-last=Buckner |editor2-first=John |editor2-last=Reid |title=The Atlantic Region to Confederation: A History |location=Toronto |publisher=University of Toronto Press |year=1994 |page=152 |isbn=0802005535 }}</ref>。

[[File:Marquis de Boishébert - Charles Deschamps de Boishébert et de Raffetot (1753) McCord Museum McGill.jpg|thumb|150px|right|アカディア人の抵抗を手助けしたカナダの軍人[[シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール]]]]
しかしアカディア人は、ボワシェベール率いる部隊やインディアンの同盟と共に抵抗し、勝利もしたが、最終的にはイギリス軍の手に落ちた<ref>大矢・ロングフェロー、230-231頁。</ref>。この時のイギリスの作戦、アカディア側の抵抗には以下のようなものがある。<br/>
'''イギリスの作戦'''
*[[ファンディ湾方面作戦]]
*[[プティクーディアク川方面作戦]]
*[[セントジョン川方面作戦]]
*[[サンジャン島方面作戦]]
'''アカディア人の抵抗'''
*[[プティクーディアクの戦い]]
*[[ブラッディクリークの戦い (1757年)]]
*[[ルーネンバーグ奇襲 (1756年)]]

===フランスの勝利 (1756年-1757年)===
フランス陸軍が1756年5月に北アメリカに送り込んだのは、オーストリア継承戦争で経験を積んだルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム少佐、そして[[フランソワ=ガストン・ド・レビ|シュール・ド・レビ]]と、{{仮リンク|フランソワ=シャルル・ド・ブールラマク|en|François-Charles de Bourlamaque}}大佐だった<ref>Borneman, pp. 82</ref>。モンカルムはすでにオーストリア継承戦争で経験を積んでいた。この1756年[[5月18日]]、イギリスはフランスに正式に宣戦布告し、ヨーロッパにも戦火が拡大した。ヨーロッパでの戦いは七年戦争と呼ばれた<ref>Borneman, pp. 67-68</ref>。

{{main|ウィリアム・ヘンリー砦の戦い}}
[[File:Portrait of Montcalm.JPG|thumb|180px|right|ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]
ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1756年の春にモンカルムの到着を決して喜んではいなかった。ヴォードルイユは行政も軍事も自身の一手に収めたがっており、モンカルムと役割分担をすることで、この両者の間に不信感がくすぶるようになった。モンカルムもそれを感じ取っていた。また、インディアンとの同盟にもとまどっていた。特に、相手がだれであろうが、殺し方が残忍で[[頭皮]]を剥ぐやり方について、自身の母親に手紙を書き送っている<ref>Borneman, pp. 82-83</ref>。しかしその後、フランス軍はカリヨン砦から南に異動して、ウィリアム・ヘンリー砦を4日間にわたって攻撃し、ここを攻め落とした。フランスの非正規兵(カナダ人偵察兵とインディアン兵)は、[[1757年]]の前半一杯ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃した<ref>Nester, pp. 53–61</ref>。

[[File:Montcalm trying to stop the massacre.jpg|thumb|180px|left|ウィリアム・ヘンリー砦の戦いの後、降伏したイギリス軍に乱暴するインディアンを止めるモンカルム]]
精力的に攻め続けるフランス軍とは対照的に、ルードゥーンは官僚的でなかなか腰を上げなかったが<ref>Borneman,p.84</ref>同じ1757年、ルードゥーンは、植民地担当の[[国務長官|国務卿]][[チャタム伯ウィリアム・ピット|ウィリアム・ピット]]に指示されるまま、次席指揮官のジェームズ・アバークロンビーとフランス軍との交戦のためにまずルイブールを目指した。しかし準備の遅れが災いして、遠征軍がハリファックスからの出航準備ができたのは8月の始めだった。その間にフランス艦は、フランス本国沿岸のイギリスの封鎖を逃れ、北アメリカのイギリス艦隊に数で勝るフランス艦隊が、ルイブールでルードゥーンを待ち受けていた。この戦力を目の当たりにしたルードゥーンは[[ボストン]]へ引き返したが、すでにウィリアム・ヘンリー砦は崩壊していた<ref>Borneman, pp. 86-95</ref>。

1月にはタイコンデロガ(カリヨン砦)の近くで[[かんじきの戦い (1757年)|第一次かんじきの戦い]]が起こった。2月には、フランスの非正規兵は、結氷したジョージ湖を挟んでの対岸に襲撃を仕掛け、倉庫と砦の外にある建物を壊した。8月の始めには、モンカルムと7000人の軍勢が砦を包囲し、イギリス軍は、条件付きの撤退を認めるのに合意して降伏した。撤退が始まった時、モンカルムのインディアン同盟兵が、虐殺の機会が失われたことに怒り、イギリス軍の縦隊を攻撃して、数百人の男女、子供、そして奴隷を殺し、また捕囚した。この包囲戦の余波として、おそらくは遠くへのインディアンへの[[天然痘]]の伝染もあった。インディアン兵の一部は、この作戦に参加するため、[[ミシシッピ川]]のかなたから来たものもいたと言われている<ref>Nester, pp. 53–61</ref>。

===イギリスの制覇 (1758年-1760年)===
[[File:William Pitt, 1st Earl of Chatham by William Hoare.jpg|thumb|180px|right|ウィリアム・ピット]]
ヴォードルイユとモンカルムは、[[1758年]]は最小限の補給を受けただけだった、イギリスの、フランス沿岸の封鎖が、フランス艦の出航を制限していたからだ。1757年の不作で、ヌーベルフランスの状況は一層悪化し、厳しい冬となった。伝えられるところでは、ヌーベルフランスの[[アンタンダン]]のフランシス・ビゴが、邪悪なことをたくらんでいた。ビゴの物価を高騰させる手段は、モンカルムとその仲間の私腹を肥やすためのものと信じられていた。また、西部に住むインディアン部族の天然痘の大流行で、ここに住むものが減少した。戦闘に参加した多くの部族が他の部族を非難し、また、フランス人が悪い薬を持ち込んだとも言った。天然痘は、戦闘後の人々が込み合った中で恐らく広まったのだった<ref name="Fowler138">Fowler, p. 138.</ref>。この状況からみると、モンカルムは、セントローレンス川の防御、そしてカリヨン、ケベック、ルイブールの主な防御に関してのわずかな方法に集中していた。一方ヴォードルイユは、襲撃による戦術の継続を主張したが失敗した。このやり方は、何年か前には非常に効を奏したのであった<ref name="Fowler139">Fowler, p. 139.</ref>。

北アメリカでのイギリスの作戦失敗は、ヨーロッパにおける失敗とも結びついていた。これにより主な軍事顧問でもあった[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公爵)|カンバーランド公]]も第一線を退いて、ピットが軍事作戦を仕切ることになった。ピットは当初、[[第一大蔵卿]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公]]のもとで、{{仮リンク|サザン・デパートメントの国務大臣|en|Secretary of State for the Southern Department}}<ref group="注釈" name="ex02">サザン・デパートメントは、イングランド南部、ウェールズ、アイルランド、ヨーロッパーのカトリック国やイスラム諸国を担当する部署として、18世紀末までイギリスの内閣に置かれていた。</ref>として就任したが、ヨーロッパ戦線を重んじるジョージ2世と対立し、一旦辞任を余儀なくされた<ref>Borneman, pp.72-74</ref>その後国民の支持を得て返り咲いたピットは、北アメリカを主眼に置き、ルイブール、カリヨン砦とデュケーヌ砦を奪う作戦をたて、大人数の正規部隊と、それを支援する民兵隊とによる攻撃作戦を展開した<ref>Borneman, pp. 96-99</ref>。

====1758年====
[[File:FortDuquesne.jpg|thumb|180px|left|デュケーヌ砦に進軍するフォーブス指揮下のイギリス軍]]
{{main|デュケーヌ砦の戦い}}
1758年9月から10月にかけて、イギリス軍の作戦である[[フォーブズ遠征]]が行われた。[[ジョン・フォーブズ]]将軍率いる6000人規模の部隊は、抗争の絶えないオハイオ領土から、フランス軍を追い出すのが目的だった。[[9月14日]]にデュケーヌ砦に向かったイギリス軍は撃退されたが、その後フランス軍は、オハイオ領土をイギリスの支配下に置いたまま砦から退却した<ref>{{cite book |first=Fred |last=Anderson |title=Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754–1766 |year=2000 |location=New York |publisher=Alfred A. Knopf |pages=267–285 |isbn=0375406425 }}</ref>イギリス軍がデュケーヌ砦に入り、この砦を再建して、ウィリアム・ピットにちなんで、ピット砦と命名した。これが今の[[ピッツバーグ]]である<ref>[http://pittsburgh.about.com/od/history/a/Three-Centuries-Of-Pittsburgh-History.htm Three Centuries of Pittsburgh History]</ref>。ノバスコシア、ルイブールのフランスの大々的な砦は、包囲戦の末イギリスの手に落ちた<ref>William, Wood, ''The Great Fortress: A Chronicle of Louisbourg 1720–1760'' ([http://www.gutenberg.org/etext/6026 online from [[Project Gutenberg]]])</ref>。

[[File:The Victory of Montcalms Troops at Carillon by Henry Alexander Ogden.JPG|thumb|200px|right|カリヨン砦での勝利を喜ぶモンカルムとフランス軍]]
{{main|カリヨンの戦い}}
3度目の侵攻作戦は、[[カリヨンの戦い]]でのフランス軍の勝利で阻止された。この戦いでは、3600人のフランス兵が見事に、そして意を決して、アバークロンビー率いる1万8千人のイギリス軍正規兵、民兵、そしてインディアンの同盟軍を、砦の外で完敗させた<ref>[http://militaryhistory.about.com/od/frenchindianwar/p/battle-of-carillon.htm Battle of Carillon French & Indian War Battle of Carillon]</ref>。アバークロンビーは戦いの後ジョージ湖の南まで敗走したが、その後[[8月26日]]から27日にかけて、フロンテナック砦を[[ジョン・ブラッドストリート]]大佐に襲撃させて物資を奪い、ケベックと、他の砦との連絡を絶った。後にアバークロンビーは、ルイブールの戦いの勝者である[[ジェフリー・アマースト]]にその地位を譲った<ref name=militaryh-2>[http://militaryhistory.about.com/od/frenchindianwar/a/French-Indian-Seven-Years-War-1759.htm French and Indian War - French & Indian War Seven Years' War]</ref>。

====1759年-1760年====
[[File:Jeffreyamherst.jpg|thumb|150px|left|ジェフリー・アマースト]]
「幸運の年1759年」に<ref>[http://www.cliomusings.com/2011/06/seven-years-war-britains-annus.html Clio's Lessons: The Seven Years' War - Britain's Annus Mirabilis]</ref>、イギリス軍はすべての戦場で快進撃を続けた。[[ナイアガラ砦の戦い]]で、その前年のフロンテナック砦の戦い共々、オハイオ領土におけるフランスの影響を封じ込め、カリヨン砦を奪い、[[エイブラハム平原]]の戦いで、[[ジェームズ・ウルフ]]がモンカルムを破った(この戦いで両名とも戦死した)<ref name=militaryh-2/>また、イギリス領アメリカのレンジャー部隊[[ロジャーズ・レンジャーズ]]による、フランスに味方したアベナキ族への襲撃もあった<ref>Borneman, pp. 228-230</ref>フランスはイギリス本土進攻に焦点を合わせることを決定した。これは、ピットによる海外植民地作戦を阻止するものだったが、この目論見は失敗した、イギリスの諸艦隊が自国近海に張り付いており、{{仮リンク|ジャン=フランソワ・ド・ラ・クルー=サブラン|en|Jean-François de La Clue-Sabran}}率いる[[トゥーロン艦隊]]がボスカーエンの戦隊に発見され、交戦の後フランス軍は逃走した。これが[[ラゴスの海戦]]である。また、[[ブレスト]]封鎖中のホーク艦隊が一旦[[トーベイ]]に撤退した隙を狙って、フランスのコンフラン提督のブレスト艦隊が、ブルターニュ半島南部のキブロン湾に向かったため、荒天の中、しかも浅瀬の多い[[キブロン湾]]で両者は相まみえた。フランス軍はまたも多大な損失を出して敗北を喫した。この海戦は「七年戦争における[[トラファルガーの海戦]]と呼ばれ、ホークの名を一躍たからしめた<ref>小林、334-338頁。</ref>

[[File:Capitulation Montreal.jpg|thumb|250px|right|モントリオールに入るイギリス軍]]
[[1760年]]、イギリス軍は[[サントフォワの戦い]]で負けたにも関わらず<ref>[http://www.pc.gc.ca/lhn-nhs/qc/ristigouche/natcul/natcul2.aspx Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada - History]</ref>、[[レスティガッチの海戦]]でフランスの救援部隊の上陸を阻止することができ<ref>[http://www.pc.gc.ca/eng/lhn-nhs/qc/ristigouche/index.aspx - Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada]</ref>一方で陸軍は、ケベック、シャンプラン湖、そしてセントローレンス川上流の三方向からモントリオールへと進軍した<ref>[http://grandquebec.com/histoire/conquete-canada/ La chute de la Nouvelle-France - Québec]</ref>。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。

1760年9月、ヴォ-ドルイユ総督が降伏文書に調印した後<ref>木村、180頁。</ref>、初代総督となった[[ジェームズ・マレー]]は、植民地にとどまることを選んだフランス人入植者には、[[カトリック]]を信仰し続ける自由、財産を所有する自由、平穏な生活を送る権利を与えた<ref>木村、114頁。</ref>

===戦争の終結===
[[File:Vue de la descente a Terre Neuve par le chevalier de Ternay en 1762.jpg|200px|thumb|left|シグナルヒルの戦い]]
北アメリカ大陸における英仏の戦いの大部分は、1760年に幕を閉じた。一方ヨーロッパでの戦闘はまだ続いていた。主だった例外はフランスによる[[ニューファンドランド]]の[[セントジョンズ (ニューファンドランド・ラブラドール州)|セント・ジョンズ]]の包囲であった。アマーストはこの予期せぬ戦闘を知って、直ちに、甥の[[ウィリアム・アマースト]]と部隊とを派遣して、[[1762年]]9月の[[シグナルヒルの戦い]]で、ニューファンドランドの支配を取り戻させた<ref>Anderson (2000), p. 498</ref>。

北アメリカのイギリス軍の多くが、西インド諸島で続いていたイギリス軍の作戦への参戦のため、配置しなおされた。その中には[[ハバナの戦い]]もあった。スペインは遅まきながらフランスの同盟国として参戦したのである。また、マルティニークへのイギリス軍の遠征もあった<ref name=Cave21>Cave, p. 21</ref>。

将軍アマーストはまた、西部に広がっていたフランスの砦をイギリスの支配下に収める指揮を執った。アマーストがこの地に対して持ち込んだ方針は、多くのインディアンを混乱させ、[[1763年]]に、[[ポンティアック戦争]]として知られる戦闘の一因となった<ref>Jennings, p. 439</ref>。この時の、辺境地帯の砦や集落への一連の攻撃で、イギリス軍はその後も部隊を駐留させる必要が生じ、この問題は[[1766年]]まで解決されなかった<ref>Anderson (2000), pp. 617–632</ref>。

この北アメリカの戦争は、1763年[[2月10日]]のパリ条約署名で正式に終止符が打たれ、ヨーロッパを舞台にした七年戦争も、[[2月15日]]の[[フベルトゥスブルク条約]]で終結した。イギリスはフランスに、ミシシッピ川以東の北アメリカか、[[グアダルーペ]]と[[マルティニーク]]の[[カリブ海]]の諸島かのいずれを取るかを提案した。当時、この両者はイギリスの支配下にあった。フランスは、カナダを割譲したが、サンピエール・ミクロンの所有の交渉は可能だった。サンピエール・ミクロンはセントローレンス湾の小さな島で、そこでの漁業権がほしかったのである。フランスにとっては、カナダより、カリブ海の島の方が経済的価値が大きかった。[[砂糖]]の収穫量が大きく、防御もしやすかったからだ。しかしイギリスにとって、ヌーベルフランスを得たことは満足であった。この際防御は問題点ではなかったし、イギリスにとって砂糖の供給源はいくらでもあったからだった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲し、代わりに[[キューバ]]を得た。またフランスから敗戦の埋め合わせとして、ニューオーリンズを含めた[[ルイジアナ]]を得た。ミシシッピ川流域の割譲については、すべての参戦国にゆだねられた<ref>Anderson (2000), pp. 505–506</ref>。

==その後の北米植民地==
[[File:NorthAmerica1762-83.png|thumb|left|250px|1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。]]
この戦争はヨーロッパの大国(イギリス、フランス、スペイン)の経済、政治、そして行政面と社会面での関係を変えた。これらの国の植民地や入植者、そして原住の人々は、彼らが領有した土地に住んだ。フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後々長期にわたり重大な問題となった。

イギリスはヌーベルフランスとアカディアを支配下に置いた。約8万人の人口があり、その大部分はフランス語を話すカトリック信者だった。1755年に始まった[[アカディア人の追放]]は、最終的にはヨーロッパや南の方の植民地からの入植者を受け入れ可能にした。イギリスは、北アメリカの植民地のあちこちに彼らを入植させたが、多くはヨーロッパに戻り、また一部はニューオーリンズに行った、そこではフランス語が使えると期待したからだ。また一部の者は、[[フランス領ギアナ]]や[[フォークランド諸島]]など、さまざまな地域に入植者として送られた。後者の方はうまく行かなかった。また、[[サントドミンゴ]]のような場所へ移住した者、[[ハイチ革命]]の後でニューオーリンズへ入植した者もいて、独自の[[ケイジャン]]文化をはぐくんだ。ルイジアナの人口は、現在のケイジャンの人口の入植によるところが大きい。ケイジャンとは、フランス語のアカディアンがカディアンとなり、そしてケイジャンとなったものである<ref name="Calloway161_164">Calloway, pp. 161–164</ref>。
[[File:053107-crayfishetouffee.jpg|thumb|180px|right|現在のニューオーリンズに伝わるケイジャン料理]]

和平条約の後、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が国王宣言を10月7日に行った。これは新しくイギリス領となった土地の区分と行政の概略で、このうちの一部は、現在のカナダの行政とインディアンの関係に引き継がれている。インディアンには[[アパラチア山脈]]の西部を居住地とするといった条項があり、西の境界の入植者の勢いが高まっていたこともあり<ref>Anderson (2000), pp. 565–566</ref>、この境界線はどう見ても一時的な足枷であった<ref>Anderson (2000), pp. 636–637</ref> 。この声明には、カトリック信者のカナダ人の、公民としての参加を妨げる条項もあった<ref>Anderson (2000), p. 568</ref> 。[[1774年]]の[[ケベック法]]による和解で、これらの諸問題は処理されたが、宗教に関しては、13植民地の多数のプロテスタントが、カトリックを大きく上回っていた。

[[File:1765 BostoniansReadingStampAct.png|thumb|230px|left|印紙条例に目を通すボストンの人々]]
この戦争には経費が掛かった。特にピットの在任時には出費が多く1億4千万ポンドにも上り、その半分はアメリカ植民地の防御に費やされた。七年戦争により、イギリスの[[国債]]はほぼ2倍となった。国王は債務を支払うための財源として、植民地に新しい税をかけることにした。イギリス人は、この負担は植民地も引きいけるべきだと考えた。このため、13植民地に対し、[[1764年]]に[[砂糖法]]が施行された。これは砂糖のみならず、[[コーヒー]]や[[ワイン]]も対象となり、その後対個人の税である印紙条例も施行された。<ref>Borneman, pp. 296-297</ref><ref name=CTP>[http://www.collegetermpapers.com/TermPapers/History_Other/The_French_and_Indian_War_As_a_Cause_Of_the_American_Revolution.html The French and Indian War As a Cause Of the American Revolution, History, Other - CollegeTermPapers.com]</ref>この新税の導入に対して、大規模かつ徹底した抗議行動が起こり、このため軍が出動し、総督府は何とか無事に仕事を遂行できた。これらの課税条例は最終的にアメリカ独立戦争の発端となった<ref>Anderson, Fred. "[http://americanheritage.com/articles/magazine/ah/2005/6/2005_6_75.shtml The Real First World War and the Making of America]" ''American Heritage'', November/December 2005.</ref>
一方で、この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、[[植民地貿易]]の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス[[産業革命]]を促した、数ある要因のなかのひとつになっている<ref>[http://satoshi-nitta.com/kokumin/kokumin-109.htm 第百九章 文明の第二の波=産業革命]</ref>。

多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることであった<ref name=Cavexii /> 。オハイオ領土は特に、法的、あるいは非合法いずれの入植地も攻撃されやすかった。ブラドックとフォーブズが、この地へ軍事用の道路を作ったからだった<ref>Anderson (2000), p. 525</ref>。スペインはルイジアナの領土を手に入れたが([[1769年]]まで正式な領土ではなかった)、戦争の反響が穏やかなのはここだけだった。イギリスがフロリダを手に入れると、ここの部族は西へと移動した。彼らはイギリス人と仕事をしたくなかったのだ。また、チョクトー族とクリーク族の、長い間の仇敵同士の反目を当時イギリスが利用したのである<ref name="Calloway133_138">Calloway, pp. 133–138</ref>。フロリダの支配が変わることで、この地の、カトリックのスペイン人入植者もまた移動した。大部分はキューバへ行った。彼らはサン・オーガスティンの行政のすべての記録を携えていた、しかし洗礼を受けた[[ヤマシー族]]は[[メキシコ]]の湾岸に入植しなおした<ref name="Calloway152_156">Calloway, pp. 152–156</ref>。

[[File:Prise de la Bastille.jpg|thumb|180px|right|フランス革命におけるバスチーユ牢獄の襲撃]]
フランスは北アメリカの所有に関しては比較的わずかな価値しか認めず、砂糖を多く産出して利益が上がる[[アンティル諸島]]に関しては特に価値を見出しており、ここをどうにかして保持しようとした。条約締結代表のセザール・ガブリエル・ド・ショワゾーは、パリ条約ではかなりのことをしたと考えており、哲学者の[[ヴォルテール]]は、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]はたかだか[[数エーカーの雪]]を失っただけだと書いた<ref name=Cave52>Cave, p. 52</ref>。しかしフランスにとって、戦争での財政負担は王国の力を弱め、これが[[1789年]]の[[フランス革命]]の遠因となった<ref name=Cavexii>Cave, p. xii</ref>。この当時の啓蒙主義により、[[絶対王政]]への不信感が民衆の間に広まって行き、晩年のルイ15世統治下のフランスでは、[[オーストリア継承戦争]]からこの戦争および七年戦争の戦費と、[[ヴェルサイユ宮殿]]での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の時代に入ると、アメリカ独立戦争支援のための出費があり、フランスの尽力で、アメリカは[[ヨークタウンの戦い]]で独立をかちとった<ref name=research>[http://www.123helpme.com/view.asp?id=66442 French Revolution :: essays research papers]</ref><ref name=FR>[http://www.123helpme.com/view.asp?id=22896 The French Revolution :: European Europe History]</ref><ref name=rob>[http://robwrite.hubpages.com/hub/The-French-Revolution The French Revolution]</ref>。しかしイギリスにくらべフランスは慢性的に戦費調達能力が低かったうえに、この間フランスは新領土を獲得していないため財政赤字は累積した>{{要出典|date=2012年12月}}。このため財政は継続して逼迫し、これを打開するため新税を導入しようとして[[全国三部会]]が招集されたことが[[フランス革命]]勃発のきっかけとなっている<ref name=research/><ref name=FR/><ref name=rob/>。

[[File:Brooklyn Museum - George Washington - Charles Willson Peale - overall.jpg|thumb|150px|right|ジョージ・ワシントン(1776年) [[チャールズ・ウィルソン・ピール]]作]]
北部にあったフランスの脅威が去り、イギリスは沿岸部の防衛をアメリカ植民地の民兵に委託した、そうすうることで、カリブ海に軍を送れたからだ。また、イギリスの軍事力はカナダのフランス植民地への抑止力であり、それがなくなったため、逆にアメリカ植民地の独立を招いたのだった。また、フランス系カナダ人の権限をかなり認めた[[1774年]]の[[ケベック法]]施行も、イギリス系アメリカ人にとっては脅威となり、これも独立戦争の一因と考えられている<ref name=CTP/><ref>[http://www.thecanadianencyclopedia.com/articles/conquest Conquest - The Canadian Encyclopedia]</ref><ref>木村、117-118頁。</ref>。

[[1778年]]のアメリカ独立戦争時、フランスはイギリスに対してアメリカと同盟を結び、北アメリカに戻ってきた。この時フランスはイギリスに勝利し、これを歴史家の[[アルフレッド・ケイヴ]]は「フランスは…モンカルムの仇討ちを果たしたのだ」と述べている<ref name=Cave82>Cave, p. 82</ref>。

==フレンチ・インディアン戦争の逸話==
[[File:Sprit of '76.2.jpeg|thumb|150px|left|ヤンキー・ドゥードルのイラスト。歌詞の通りに太鼓や笛といった楽器を持っている<ref>http://14.studio-web.net/~yamahisa/yankee_doodle.html Yankee Doodle ヤンキー ドゥードル アルプス一万尺元歌 (MIDI付)</ref>。]]
アメリカ[[民謡]]『[[アルプス一万尺|ヤンキードゥードル]]』(日本では『アルプス一万尺』の名で知られる)は、1755年、イギリス軍支援に集まった13植民地の兵が、洗練されたイギリス軍の兵士に対し、[[裏皮]]あり毛皮ありの種々雑多な服をまとった兵たちで、それを揶揄するためイギリスの軍医シャックバーグが1755年に作詞した。歌詞は様々で、ジョージ・ワシントンを歌ったものもある<ref>[http://www.contemplator.com/america/ydoodle.html Yankee Doodle]</ref>。しかし、植民地白人はこの歌が好きで、のちのアメリカ独立戦争の際にもよく愛唱された<ref>[http://folkmusic.about.com/od/folksongs/qt/YankeeDoodle.htm Yankee Doodle - Background Information and History of the Song Yankee Doodle]</ref>。

[[ベンジャミン・フランクリン]]はデュケーヌ砦遠征隊に物資を調達している。また、この遠征には[[ダニエル・ブーン]]も加わっていた<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=d_Hg3WqNQJ8C&hl=ja The French & Indian War Googleブックス p.43]</ref>。

戦争終結後の1764年、スペイン領ルイジアナとなったミシシッピ川西岸に毛皮の交易所がフランス系住民によって建設された。これが[[セントルイス]]である。町の名はフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]にちなむ<ref>[http://www.infoplease.com/ipa/A0108593.html St. Louis, Mo.:Population, Weather, Demographics, Facts, History, Mayor, Landmarks - Infoplease.com]</ref>。

この戦争において [[天然痘]][[ウイルス]]がイギリス軍によって[[生物兵器]]的な使われ方をしたと言われる。インディアンに、天然痘のウイルスが付着した毛布を送ったのである<ref>[http://www.bookrags.com/research/smallpox-eradication-storage-and-po-wmi/ Research Smallpox: Eradication, Storage, and Potential Use as a Bacteriological Weapon]</ref>。
しかしこれには賛否両論があり、仮に贈ったとしても、意図的なものかどうかわからないともいわれている<ref>[http://www.nativeweb.org/pages/legal/amherst/lord_jeff.html Amherst and Smallpox]</ref>。後に、[[1780年代]]の初めに、インディアン、特に[[チプワイアン族]]とスー族の間に天然痘が蔓延した。探検家のデビッド・トンプソンは、インディアンたちが患者である白人の家を襲撃して、その衣服を身に着けたために感染したのではないかと語っている<ref>木村、毛皮、77-78頁。</ref>。


== フレンチ・インディアン戦争に関する作品 ==
== フレンチ・インディアン戦争に関する作品 ==
*[[映画]]
**[[征服されざる人々]]
**[[ラスト・オブ・モヒカン]]
**[[北西への道]]
**Evangeline
**The War That Made America
<ref>[http://www.screenjunkies.com/movies/genres-movies/war-movies/5-best-french-and-indian-war-movies/ 5 Best French and Indian war Movies | Screen Junkies]</ref>

*[[TVドラマ]]
**[[ホークアイ (Hawkeye)]]

* [[ウォー・シミュレーションゲーム|ボードゲーム]]
* [[ウォー・シミュレーションゲーム|ボードゲーム]]
** Volko Ruhnke, "Wilderness war", GMT Games,2001
** Joseph Miranda "The French & Indian War",Strategy & Tactics No.231,Decision Games,2005
** Joseph Miranda "The French & Indian War",Strategy & Tactics No.231,Decision Games,2005
** Martin Wallace "A Few Acres of Snow", Treefrog Games, 2011
** Martin Wallace "A Few Acres of Snow", Treefrog Games, 2011
** E. Harvey, W. Nester "Ticonderoga", Strategy & Tactics No.277,Decision Games,2012


== 関連項目 ==
==注釈==
<references group="注釈" />

== 脚注 ==
{{Reflist}}

==参考文献==
{{Refbegin}}
*{{Cite book|title=Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754-1766 |last=Anderson |first=Fred |authorlink=Fred Anderson |coauthors= |year=2000 |publisher=Knopf |location=New York |isbn=0-375-40642-5 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=-vMxLslZopgC&lpg=PR1&dq=Crucible%20of%20War%3A%20The%20Seven%20Years'%20War%20and%20the%20Fate%20of%20Empire%20in%20British%20North%20America%2C%201754-1766&pg=PR1#v=onepage&q&f=true |ref=Anderson2000}}
*{{Cite book|title=The War that Made America: A Short History of the French and Indian War |last=Anderson |first=Fred |authorlink= |coauthors= |year=2005 |publisher=Viking |location=New York |isbn=0-670-03454-1 |page= |pages= |url=http://www.wqed.org/tv/specials/the-war-that-made-america/ |ref=Anderson2005}} - Released in conjunction with the 2006 [[Public Broadcasting Service|PBS]] miniseries ''[[The War that Made America]]''.
*{{Cite book|title=Redcoats: The British Soldier and War in the Americas, 1755-1763|first=Stephen|last=Brumwell|ref=Brumwell|year=2006|publisher=Cambridge University Press|url=http://books.google.ca/books?id=qEZfYRuZLJQC&lpg=PP1&dq=%3DRedcoats%3A%20The%20British%20Soldier%20and%20War%20in%20the%20Americas%2C%201755-1763&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|isbn=978-0-521-67538-3}}
*{{Cite book|title=The Scratch of a Pen: 1763 and the Transformation of North America|first=Colin G|last=Calloway|ref=Calloway|publisher=Oxford University Press|year=2006|url=http://books.google.ca/books?id=XtxG369-VHQC&lpg=PP1&dq=The%20Scratch%20of%20a%20Pen%3A%201763%20and%20the%20Transformation%20of%20North%20America&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|isbn=978-0-19-530071-0}}
*{{Cite book|title=The French and Indian War|last=Cave |first=Alfred A.|authorlink= |coauthors= |year=2004 |publisher=Greenwood Press|location=Westport, Connecticut - London|isbn=0-313-32168-X |url=http://books.google.ca/books?id=iiZoWyv77qQC&lpg=PP1&dq=French%20and%20Indian%20Wars&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Cave}}
*{{Cite book|title=His Excellency George Washington |last=Ellis |first=Joseph J. |authorlink=Joseph Ellis |coauthors= |year=2004 |publisher=Vintage Books |location=New York |isbn=1-4000-3253-9 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=jdrjRMhV5PcC&lpg=PP1&dq=His%20Excellency%20George%20Washington&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Ellis}}
*{{Cite book|title=Empires at War: The French and Indian War and the Struggle for North America, 1754-1763 |last=Fowler |first=William M. |authorlink=William M. Fowler |coauthors= |year=2005 |publisher=Walker |location=New York |isbn=0-8027-1411-0 |page= |pages= |url= |ref=Fowler}}
*{{Cite book|title=Empire of Fortune: Crowns, Colonies, and Tribes in the Seven Years' War in America |last=Jennings |first=Francis |authorlink=Francis Jennings |coauthors= |year=1988 |publisher=Norton |location=New York |isbn=0-393-30640-2 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=VsBPyRfdHEAC&lpg=PP1&dq=Empire%20of%20Fortune%3A%20Crowns%2C%20Colonies%2C%20and%20Tribes%20in%20the%20Seven%20Years%20War%20in%20America&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Jennings}}
*{{cite book|last=Nester|first=William R|title=The first global war: Britain, France, and the fate of North America, 1756–1775|location=Westport, CT|publisher=Praeger|year=2000|isbn=978-0-275-96771-0|oclc=41468552}}
* {{cite book|last=O'Meara|first=Walter|title=Guns at the Forks|publisher=Prentice Hall|location=Englewood Cliffs, NJ|year=1965|url=http://books.google.com/?id=1UpMrXR3rvwC&lpg=PP1&dq=Guns%20at%20the%20Forks&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|oclc=21999143|isbn=978-0-8229-5309-8}}
*[http://www.collectionscanada.gc.ca/virtual-vault/ Virtual Vault Chambre forte virtuelle]
*Walter R. Borneman, ''The French and Indian War'' New York: Harper Collins Publushers, 2006
*木村和男編 『世界各国史 23 カナダ史』 山川出版社、1999年
*小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年
*大矢タカヤス・ヘンリー=ワズワース・ロングフェロー著 『地図から消えた国、アカディの記憶』 書肆心水、2008年
{{Refend}}

==関連書籍==
{{Refbegin}}
*[[Allan W. Eckert|Eckert, Allan W]]. ''Wilderness Empire''. Bantam Books, 1994, originally published 1969. ISBN 0-553-26488-5. Second volume in a series of historical narratives, with emphasis on Sir William Johnson. Academic historians often regard Eckert's books, which are written in the style of novels, to be unreliable, as they contain things like dialogue that is clearly fictional.
*[[Francis Parkman|Parkman, Francis]]. ''[http://books.google.ca/books?id=Z48-AAAAYAAJ&dq=Montcalm%20and%20Wolfe%3A%20The%20French%20and%20Indian%20War&pg=PP1#v=onepage&q&f=true Montcalm and Wolfe: The French and Indian War]''. Originally published 1884. New York: Da Capo, 1984. ISBN 0-306-81077-8.
{{Refend}}

==外部リンク==
{{Commons category|French and Indian War}}
*[http://www.militaryheritage.com/7yrswar.htm The French and Indian War Website]
*[http://www.historicalpreservation.org Historical Preservation Archive: Transcribed Articles & Documents]
*[http://www.pbs.org/thewarthatmadeamerica/ The War That Made America] from [[Public Broadcasting Service|PBS]]
*[http://www.forgottenwaronline.org/ FORGOTTEN WAR: Struggle for North America] from [[Public Broadcasting Service|PBS]]
*[http://www.shmoop.com/intro/history/us/the-french-indian-war.html French and Indian War] study guide, analysis, primary sources, teacher resources
*[http://www.history.army.mil/reference/colon/ficol.htm Select Bibliography of the French and Indian Wars] compiled by the [[United States Army Center of Military History]]
*[http://ns1763.ca/remem/7yw-timeline-w.html Seven Years' War timeline]
*[http://ns1758.ca/parkman/14517_montcalm_and_wolfe.html Montcalm and Wolfe, by Francis Parkman] online ebook
*[http://www.youtube.com/results?search_query=French+and+Indian+War+reenactments&oq=French+and+Indian+War+reenactments&aq=f&aqi=&aql=&gs_l=youtube.12...293235.307220.0.310655.27.24.3.0.0.1.140.1411.23j1.24.0...0.0.4ES8o69wri8 French and Indian War Living History Reenactments (videos)]
* [http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-eng-5.htm 1758-1958 フォート・デュケーヌ(ピッツバーグ200年記念)(『スタンプ・メイツ』 (V)イギリス人の探検大航海 )]
* [http://ns1763.ca/remem/7yw-timeline-w.html French and Indian War Timeline(英語)]

==関連項目==
* [[北米植民地戦争]]
* [[北米植民地戦争]]
* [[第2次百年戦争]]
* [[第2次百年戦争]]
* [[七年戦争]]
* [[七年戦争]]
* [[世界の一体化]]
* [[世界の一体化]]
* [[パリ条約 (1763年)]]
* [[ジョージ・ワシントン]]
* [[インディアン戦争]]
* [[インディアン戦争]]
* [[民族浄化]]
* [[民族浄化]]
* [[1760年の征服]]

* [[アメリカ独立戦争]]
== 外部リンク ==
* [[フランス革命]]
{{commons|Category:French and Indian War}}
* [http://www.law.kobegakuin.ac.jp/~hogakubu/siryositu/hogakkai/oshima2.htm ルイジアナ法におけるフランス語の地位(神戸学院) ]
* [http://karins14.hp.infoseek.co.jp/toride.htm その他の有名な砦(かりんのウェスタンサイト~大西部開拓史劇場~WestWard Ho!)]
* [http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-eng-5.htm “1758-1958 フォート・デュケーヌ(ピッツバーグ200年記念)”(『スタンプ・メイツ』 (V)イギリス人の探検大航海 )]
* [http://members.aol.com/tyoshik/america/fewar.htm フレンチインディアン戦争~AmericanJourney]
* [http://dic.mobatch.net/detail/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89 mobatch雑学辞書]
{{War-stub}}


{{DEFAULTSORT:ふれんちいんていあんせんそう}}
{{DEFAULTSORT:ふれんちいんていあんせんそう}}
91行目: 312行目:
[[Category:イギリスの戦争]]
[[Category:イギリスの戦争]]
[[Category:フランスの戦争]]
[[Category:フランスの戦争]]
[[Category:インディアン戦争]]
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]
[[Category:カナダの歴史]]
[[Category:フランスブルボン朝]]
[[Category:フランスブルボン朝]]
[[Category:ケベック州]]
[[Category:ケベック州]]
[[Category:インディン戦争]]
[[Category:ノバスコシ]]


{{Link GA|es}}
{{Link GA|es}}


[[ar:الحرب الفرنسية والهندية]]
[[bg:Френска и индианска война]]
[[bg:Френска и индианска война]]
[[ca:Guerra Franco-Índia]]
[[ca:Guerra Franco-Índia]]

2012年12月11日 (火) 13:17時点における版

フレンチ・インディアン戦争

フレンチ・インディアン戦争の主な戦場と各国勢力の図
(水色がフランス、ピンクがイギリス、オレンジがスペイン。複数の色の地域は、それぞれが所有を巡って争った地域)
戦争七年戦争
年月日1754年1763年
場所北アメリカ
結果イギリスの勝利
(後のパリ条約により、サンピエール島・ミクロン島以外のフランス領土が他国に割譲)
交戦勢力
フランス王国の旗フランス王国

スペイン帝国

グレートブリテン王国
指導者・指揮官
ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム
ヴォードルイユ
ディスカウ男爵ジャン・エルドマン
フランソワ=マリー・ル・マルシャン・ド・リニエリ
フランソワ=ガストン・ド・レビ
ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ
ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ
ジェフリー・アマースト
エドワード・ブラドック
ジェームズ・ウルフ
4代ルゥードゥン伯ジョン・キャンベル
ジェームズ・アバークロンビー
エドワード・ボスコーエン
ジョージ・ワシントン
ジョン・フォーブズ
戦力
正規兵1万(陸軍とカナダ防衛軍、1757年の最多時の人数)[1]
民兵7900
インディアン兵2200(1759年)[要出典]
正規兵と民兵4万2千 (1758年の最多時の人数)[2]

フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・インディアンせんそう、French and Indian War、 1755年 - 1763年)は、七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。イギリス領アメリカ植民地ヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。カナダでは、一部の歴史家がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、フランス系カナダ人はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。

ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、フランス王国の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々なインディアンの部族のことである。しかしイギリスもまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。この戦争は、従来の植民地戦争とは違い、欧州の戦争に先立つ植民地での衝突火ぶたが切られた。

戦場は主にヌーベルフランスと、バージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われた。戦争の発端は、アレゲニー川と、モノンガヘラ川が合流する場所(現在のペンスルベニア州ピッツバーグ)で起きた紛争だった。この紛争は1754年5月ジュモンヴィルグレンの戦いにおいて、バージニア民兵隊の指揮官、ジョージ・ワシントンが、フランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展した。1755年1756年そして1757年の、ペンスルベニアとニューヨーク植民地における作戦はことごとく失敗した。失敗の原因は、同盟を管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン同盟の攻撃が功を奏したためであった。1755年の、ノバスコシアと(フランス人入植地の)アカディアの境界で起きたボーセジュールの戦いは、イギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものである。

1757年、イギリスにとって惨憺たる敗戦が続いた。ルイブールへの遠征の失敗に続き、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いでは、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。イギリス本国政府は評価を落とし、ウィリアム・ピットが首相に返り咲いた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスは、ヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりに、ヨーロッパの戦争で、プロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させた。1758年から1760年の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地ケベックの陥落に成功し、1760年9月、ついにモントリオールを攻略した。

この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる北米植民地戦争の参戦国で、も最も大きな発展を遂げることとなった。フランスはミシシッピ川以西のルイジアナを同盟国のスペインに割譲した、これは、スペインが敗戦によりフロリダをイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲した見返りに、キューバハバナを手に入れた。カリブ海から北のフランスの植民地は、サンピエール島とミクロン島[注釈 1]だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。

名前の由来

ウィリアム王戦争(ケベックの戦い、1690年)

植民地同士の戦争は何通りかの呼び名がある。イギリス領のアメリカ植民地では、17世紀後半から、ヨーロッパの戦争に呼応して起こった植民地戦争が、その時々の君主の名前にちなんで、たとえばウィリアム王戦争アン女王戦争ジョージ王戦争と呼ばれていた。すでに1740年代の戦争にジョージ王の名が冠せられていたため、やはりジョージ王治世下に起こった1750年代の戦争は「フレンチ・アンド・インディアン戦争」と呼ばれた[3] 。この呼び名はアメリカ合衆国で定着しているが、この名前は、インディアンが英仏どちらにも加担していたという事実がぼやけてしまっている[4]。アメリカの歴史家は、この呼び名か、ヨーロッパ式の「七年戦争」を用い、他にも、あまり頻繁ではないが「第四植民地戦争」や「イギリス帝国大戦争」Great War for the Empireという名を使ったりもする[3]

ヨーロッパでは、北アメリカを戦場とした七年戦争の決まった呼び名はない。ヨーロッパ以外の地域をひっくるめて七年戦争として知られている。この七年というのはヨーロッパの戦争に関するものである、正式な宣戦布告が1756年に行われ、1763年パリ条約までに7年を要したからである。実際に北アメリカ本土で行われた戦いの年数は、6年で終わっている。1754年ジュモンヴィルグレンの戦いから1760年モントリオールの攻略までの6年間である[3]

カナダでは、フランス系住民もイギリス系住民も、ヨーロッパと北アメリカの戦争の双方を七年戦争(英Seven Years War、仏la Guerre des Sept ansゲール・ド・セタン)としている[5][6]。フランス系カナダ人は「征服戦争」(ゲール・ド・ラ・コンケット)という表現をすることもある[7]

1750年代の北アメリカ

1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。

ミシシッピ川以東の北アメリカは、イギリスとフランスの所有権争いが激しかった。

フランス系住民の人口は、当時約7万5千人で、セントローレンスバレー沿いに集中しており、その他にはアカディア(現在のノバスコシア)やロワイヤル島(現在のケープブレトン島)に住んでいた。そしてわずかな人数がニューオーリンズやミシシッピ川流域の入植地にいた。フランス人の毛皮交易者は、セントローレンス川やミシシッピ川の全域の連水経路を通って、地元のインディアンたちと交易をした。インディアン女性と結婚することもしばしばあった[8]

イギリスの入植地は150万人の人口がいて、南はジョージア植民地から、北はノバスコシアやニューファンドランドまでの、北アメリカ大陸東部に沿って広がっていた[9]

ヌーベルフランスとニューイングランドの間のかなり広大な土地は、インディアンによって支配されていた。北はミクマク族アベナキ族が、ノバスコシアやアカディアの一部、ヌーベルフランスの東部や現在のメインを支配していた[10]イロコイ連邦は現在のニューヨーク州の北部の大部分とオハイオ領土(オハイオカントリー)を支配していたが、オハイオカントリーにはレナぺ(デラウェア)、ショウニーミンゴの諸族も住んでいた。レナぺ、ショウニー、ミンゴはイロコイ連邦の管理下にあり、合意をする上での権限が制約されていた[11]。内陸のかなり南にはカタウバクリークチョクトー、そしてチェロキーの諸族が住んでいた[12]

ファイル:A Battle of the French-Indian War.jpg
森林でイギリス軍にゲリラ戦を仕掛けるインディアン兵

戦争が勃発した時、ヌーベルフランスはインディアンたちの交易網を利用して[13]アベナキ、二ピシング、さらに西の五大湖周辺のオジブワフォックス、チョクトー族などがフランスに与した。いっぽうでイギリスは、イロコイ連邦を味方に引き入れたが[14]、カタウバ族とチェロキー族、そしてオハイオ領土のデラウェアやショウニー族(オハイオインディアン)とも同盟した[15]しかし、イギリスは、1758年にチェロキー族とアングロ・チェロキー戦争を引き起こした[16]。同じ1758年の10月、ペンスルベニアの行政府はイーストン条約の交渉に成功した。これはオハイオカントリーの多くの部族に、フランスとの同盟を破棄して中立を保つのと引き換えに、ペンシルベニア植民地から自分たちの土地を守るというものだった[17]

北アメリカ東部におけるスペインの植民地はフロリダに限定されていた。キューバと他の西インド諸島の領土も支配していたが、七年戦争ではこういったところも軍事目標となった。フロリダは人口が少なく、サンオーガスティンペンサコーラにわずかな集落があった。

トゥループ・ド・ラ・マリン

戦争勃発当時は、北アメリカにフランスの正規兵はおらず、イギリスの正規軍もわずかだった。ヌーベルフランスは、一部森林地帯での戦闘経験を摘んだ植民地の正規兵であるトゥループ・ド・ラ・マリンで防衛しており[18]必要な時には民兵を召集した。イギリス領アメリカの植民地は、インディアンの襲撃に備えて、あまり訓練を積んでいない民兵を召集したが、いかなる常備軍も持っていなかった。

ヴァージニアはヌーベルフランスとの境界線が長く、イギリス軍正規兵による数個の中隊があった。植民地の行政府は、互いにそれぞれで軍事行動をとることに慣れており、また本国政府は、インディアンの領土が複数の植民地に含まれるような場合の込み入った交渉が行われる場合、また、戦争が始まったのちは、イギリス陸軍の首脳陣が植民地の行政に束縛を掛けたり、命令したりしようとする場合には、イギリス軍正規兵と共に行動するようにさせた。[要出典]

戦争への道

セロロンの遠征

オハイオ領土、すぐ上の水色の部分がエリー湖

1747年6月ジョージ・クローハン英語版のような交易者に影響されたイギリス人商人のオハイオ領土への進出、拡張を懸念したヌーベルフランス総督ロラン=ミシェル・バリン・ド・ラ・ギャリソニエール英語版は、ピエール=ジョゼフ・セロロン・ド・ブランヴィユ英語版に、この地への軍事遠征をさせた。この遠征の目的は、この土地が元々はフランスのものであったという主張の確認であり、イギリスの影響がどれほどのものかを判断し、またインディアンにフランスの力を見せつけるためでもあった[19]

セロロンの遠征軍は約200人のトゥループ・ド・ラ・マリンと30人のインディアン兵で構成されていた。遠征は3000キロにも及ぶもので、1749年6月から11月の間に行われた。セントローレンス川を上り、オンタリオ湖の北岸に沿って進軍を続け、ナイアガラで連水経路を横切り、そしてエリー湖の南岸をたどった。チョトーカ・ポルタージュ(現在のニューヨーク州バルセロナ)で一行は内陸のアレゲニー川の方向へ進んだ、この川は現在のピッツバーグに通じており、ここにセロロンは、オハイオ領土はフランスの領土であると刻んだ鉛の銘板を埋めた[19]。そしてイギリス人商人や毛皮交易者と出くわすたびに、セロロンは領土はフランスのものであり、ここから出て行くようにと告げた[19]

セロロンの遠征軍がログスタウンについた時、地元のインディアンたちが、オハイオ領土を所有しているのは我々であり、フランスがどう言おうと、自分たちはイギリス人との取引をするだろうと告げた[20]。セロロンはそのまま南へ遠征を続け、オハイオ川とマイアミ川(Great Maimi Rivers)が合流する地点に出た。ここはピカウィラニの集落のちょうど南に当たっていて、マイアミ族の本拠地だった。このマイアミ族の族長メメスキアはオールド・ブリトンと呼ばれていた。セロロンは彼に、長老たちがイギリスとの取引を続けるのなら、悲惨な結果になるだろうと告げたが、オールド・ブリトンはこの警告を無視した。セロロンは失望し[21]、1749年11月にモントリオールへ戻った。

セロロンは遠征を広範囲にわたって述べた報告書で、こう書いている。「私が言えるのは、この地域のインディアンたちはフランスに対してよからぬ印象があり、イギリスにはひたすら尽くしている。彼らがどうすればフランスのもとに戻ってくるかはわからない[20] 。セロロンがモントリオールに戻るかなり前に、オハイオ領土の状況を綴った報告書はロンドンとパリで評判になり、英仏の実力行使を喚起するものとなっていた。マサチューセッツ湾直轄植民地の総督で、領土拡張の提唱者で、人を説得する能力に特に秀でていたウィリアム・シャーリーは、イギリス植民地の入植者は、フランスがいる限り安全ではないと明言した[22]

インディアン諸部族との交渉

フレンチ・インディアン戦争の舞台となったニューヨークとペンシルベニア(1905年発行の地図)

1749年、イギリス政府は、オハイオ領土での交易や入植を拡大するため、バージニア・オハイオカンパニー英語版に土地を提供した[23]。この下賜には100家族以上の入植と、防御のための砦の建設が求められていた。しかし、ペンシルベニア植民地もここが自分たちの土地であると主張しており、両植民地は各自の主張を譲らず、互いに行動に移すように要求した[24] 。1750年に、バージニア植民地とオハイオカンパニーの代理として、クリストファー・ギスト英語版がオハイオ領土を実地調査して、地元のインディアン部族との交渉をログスタウンで切り出した[25]。これは1752年のログスタウン条約で締結され、「ハーフ・キング」と呼ばれたインディアンの有力者タナチャリゾン(タナギリソン)と、イロコイ族の代表とがモノンガヘラ川(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)にストロングハウスを建てることを許可された[26]

オーストリア継承戦争(北アメリカにおけるジョージ王戦争)が、アーヘンの和約の署名によって1848年に終了した。この条約は、各領地を戦前の状態に戻すことが決められ、イギリスが奪ったルイブールがフランスへ返還された。これがニューイングランドの住民を怒らせたため、イギリスは、失業者対策を兼ね、ルイブールに近いハリファックスに入植地と軍港を作った[27]。他にもニューイングランドとの取引のあったアカディア、漁業権が焦点となったニューファンドランドも、なお英仏の抗争の一因となっていた[28]

ピカウィラニの攻撃

1752年3月17日に、ヌーベルフランス総督のジョンキエール侯爵ジャック=ピエール・ド・ラ・ジョンキエール英語版が亡くなり、臨時の総督にシャルル・ル・モイヌ・ド・ロンゲイユが就任した。その年の7月には、デュケーヌ侯爵ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ英語版がヌーベルフランスに到着して、正式に総督に就任した[29] 。イギリス軍はなおもオハイオで軍事活動を続けており、そのためロンゲイユは、トゥループ・ド・ラ・マリンの士官であるシャルル・ミシェル・ド・ランラード英語版を指揮官として、遠征軍をオハイオに派遣した。ランラードが率いた兵は300人で、オタワ族とフランス系カナダ人から成り立っていた。この遠征の目的は、セロロンによるイギリスとの交易中止を無視した、ピカウィラニのマイアミ族への懲罰だった。6月21日、フランス軍はピカウィラニの交易所を攻撃し、3人の交易者を捕虜として[21]、14人のマイアミ族を殺した。その中にはオールド・ブリトンもいた。彼は、伝えられるところによると、遠征に参加したオタワ族の儀式で、その肉を食べられた。

フランスの砦建設

1753年から1758年にかけてのオハイオ領土の英仏の砦、中央左デュケーヌ砦より北がフランスのもの

1753年の春、ポール・マリン・ド・ラ・マルグ英語版が2000人のトゥループ・ド・ラ・マリンとインディアン兵の指揮を任された。マリンの任務は、オハイオバレーのフランス国王領をイギリスから守ることだった。マリンは4年前にセロロンが遠征した経路をなそったが、セロロンがフランス領であることを示すために鉛板を埋めたその場所に、を作って兵を駐屯させた。最初に作ったのは、エリー湖南岸沿いの、プレスク島砦(現在のペンシルベニア州エリー近く)だった。次にルブッフ・クリークの源流に通じる道を建設し、そして2つ目の砦であるル・ブッフ砦を作った。(現在のペンシルベニア州ウォーターフォード)この砦は、ルブッフ・クリークの源流を囲い込むように建設されていた。そして南へ移動し、イギリス人交易者を追い払いまたは捕囚したため、イギリス人とイロコイ連邦とが、ラ・マルグのやっていることに気付いてしまった。ミンゴ族の族長であるタナチャリゾンは非常にフランス人を嫌っていた。フランスの領土の拡張によって西へ追いやられたイロコイ連邦諸族の生き残りであり、フランス人に父親を殺されて食べられたのを非難していた。タナチャリゾンはル・ブッフ砦に出向き、軍事行動を起こして駐屯兵を脅かしたが、マリンは小ばかにしたようにタナチャリゾンを追い返した[30]

ウィリアム・ジョンソン

イロコイ族はニューヨーク植民地北部の、ウィリアム・ジョンソンの屋敷に使者を送った。ジョンソンはイロコイ族から「ワラギゲー」、偉大なことを成し遂げる人物と呼ばれており、ニューヨークでは、イロコイ連邦の賞賛すべき構成員とされていた。1746年に、ジョンソンはイロコイ軍の大佐となり、その後はニューヨーク西部民兵隊の大佐となった。この民兵隊はオールバニジョージ・クリントン総督や、他の植民地から来た高官と会った。ヘンドリック族長は、イギリスは義務を守って、フランスの侵入を阻むべきだと主張した。クリントンから不満げな返答が返って来た時、ヘンドリックは「コーヴナント・チェーン」、長きにわたって続いてきたイロコイ連邦とイギリスの友好関係はこわれたと宣言した[31]

バージニアの対応

バージニア総督ディンウィディー

バージニアの総督ロバート・ディンウィディー英語版は、自分が苦境にあることに気付いた。ディンウィディーはオハイオカンパニーへの投資者のひとりであり、フランスがオハイオを自己の領土と主張すれば、オハイオカンパニーは資金を失いかねなかった[32]。1753年10月、オハイオに駐留しているフランス軍に対抗するために、ディンウィディーは21歳のヴァージニア民兵隊少佐である、ジョージ・ワシントンに、フランス軍にバージニアからの立ち退きを警告するように命令した[33]。ワシントンはわずかな兵を連れて出発し、行く道すがらで通訳としてジェイコブ・ヴァン・ブルームを、そしてヴァージニアの中隊の測量士であるクリストファー・ギストを、またタナチャリゾンに率いられた数人のミンゴ族を仲間に加えた。12月12日、ワシントンと兵士たちはル・ブッフ砦に到着した[34][35]

フランス軍は、指揮官のマリンが10月29日に亡くなっており、ジャック・レガルデュール・ド・サン=ピエール英語版が新たに指揮官となっていた。サン=ピエールはその夜、ワシントンを食事に招いた。食事中、ワシントンはサン=ピエールに、ディンウィディーの手紙を差し出した。それには、オハイオカントリーからの、フランスの即時撤退を要求するとしたためられていた。サン=ピエールはこれに対して、丁重にこう言った。「貴殿が私に撤退せよと言われたことに関しては、それに従う義務があるとは思わない」[36]サン=ピエールは、フランスがオハイオを自国領と主張するのは、イギリスよりも歴史の点でまさっているからだと説明した。それというのも、それよりほぼ100年前に、ラ・サールがオハイオを探検していたからだった[37]

モノンガヘラ、アレゲニー両川とオハイオ川の合流点(現在のピッツバーグ)

ワシントン一行は12月16日の早朝にル・ブッフ砦を出発して、1754年1月16日ウィリアムズバーグに戻った。報告書にワシントンはこう記している。「フランスは南部に押し入った」[38]そして、この地域に砦を建築して行く段階を詳細に記し、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流点に砦を築こうとするフランスの意図について伝えている[39]

戦争の経緯

ディンウィディーは、ワシントンが戻るかなり前に、ウィリアム・トレント英語版をオハイオに派遣した。1754年が開けて間もないころで、フランス軍は倉庫のある、規模の小さな砦の建設を始めたところだった[40] 。デュケーヌ総督は、同じ時期に、サン=ピエールを解任し、クロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクール英語版の指揮のもと500人の兵が、1754年の4月5日に南にあるヴェナンゴ砦を出発した[41]4月16日にコントルクール一行はル・ブッフ砦に着いた。トレントの小規模な軍勢の撤退を気前よく許し、建築道具を購入して、後にデュケーヌ砦となる砦の建設を続けた[42]

ジュモンヴィユの戦死

ワシントンが報告書を携えてウィリアムズバーグに戻ったのち、ディンウィディーはワシントンに、より大きな軍をトレントの援軍として指揮するように命じた。ル・ブッフ砦に向かう途中で、ワシントンは、トレントが退却したことを知った[43]。タナチャリゾンがワシントンへの支援を約束していたため、ワシントンはそのままデュケーヌ砦に向かい、このミンゴ族の族長と会った。この周辺にはフランスの偵察兵がいることを聞かされて、ワシントンは兵のうち何人か、そしてタナチャリゾンと彼の手下のインディアン兵たちを連れて行って、3月28日にフランス軍を不意打ちした。フランス軍の多くが戦死し、その中には指揮官のジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ英語版もいた。ジュモンヴィユの首は、伝えられるところによると、タナチャリゾンからトマホークで2つに裂かれたと言われている。歴史家のフレッド・アンダーソンは、タナチャリゾンがなぜそうしたのかについて、ミンゴ族の間での権威を取り戻すためにはイギリスの支援を得る必要があると考え、この行為に及んだのではないかと示唆している。ミンゴ族の多くは、長い間の交易相手であるフランスを支持しようとしていたからである。タナチャリゾンの兵は、コントルクールに、ジュモンヴィユはイギリス兵の銃により殺されたと言っている[44]。このジュモンヴィルグレンの戦いは、歴史家の間でフレンチ・インディアン戦争の最初の戦闘であり、オハイオ領土での交戦の始まりとされている。

この戦闘の後、ワシントンは数マイル後退してネセシティ砦を建てた。はその年の7月3日、この砦はフランス軍の襲撃を受けることになり、ワシントンはこの戦いで降伏した。この時、ワシントンは武装しての撤退ができるよう交渉している。この時のワシントン軍の兵士によると、フランス軍はショーニー、デラウエア、そしてミンゴ諸族の者を連れていた。そのミンゴ族こそ、タナギリソンがイギリスの味方をするようにつとめていた者達だった[45]

フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753,54年頃)

この2つの戦いの知らせが8月になってイギリスに伝わり、初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホルズ政権は数か月の交渉の後、フランス撃退のため翌年に遠征軍を送ることを決めた[46]陸軍少将エドワード・ブラドックがその指揮官に選ばれた[47]。このイギリスの軍事計画については、ブラドックが北アメリカに発つ前にフランスに細かい情報が洩らされ、国王ルイ15世は、1755年、ディスカウ男爵ジャン・エルドマン指揮下の、6つの連隊をヌーベルフランスに派遣した[48]。イギリス軍は、フランスの港の封鎖をもくろんで、1755年に艦隊を送り込んだが、フランスの艦隊もすでに北アメリカに向かっていた。提督エドワード・ホークは、速戦隊(fast squadron)を北アメリカに送り、フランスを阻止しようとした。次なるイギリスの攻めの手として、提督エドワード・ボスコーエンは、1755年6月8日の海戦で、フランス艦のアルシドと、2隻の輸送艦に砲撃を加えた[49]。1755年を通して、イギリスはフランス艦隊の艦を奪い、水夫を捕囚するなどして嫌がらせを続けた。このことは、最終的に1756年の正式な宣戦布告へ貢献した[50]

イギリスの作戦 (1755年)

1754年当時のアカディア。ピンクがイギリス領、緑がフランス領である。

イギリスは1755年の攻撃計画を立てた。エドワード・ブラドック将軍は遠征軍をデュケーヌ砦まで率いる予定だった、その一方でマサチューセッツ植民地の総督であるウィリアム・シャーリーは、オスウィーゴ砦の守りを固め、ナイアガラ砦を攻撃する任務を与えられた。サー・ウィリアム・ジョンソンはセントフレデリック砦(現在のニューヨーク州クラウンポイント)を攻略し[51]ロバート・モンクトン中佐は、イギリス領ノバスコシアとアカディアの境界にあるボーセジュール砦を攻略予定だった[52]

ブラドック将軍の戦死

1755年6月、ブラドックは正規兵2000人と植民地民兵を率いてデュケーヌ砦攻略の遠征に出た。この遠征は大惨事に終わった。モノンガヘラの戦いで、フランス軍とインディアン兵はイギリス軍を待ち伏せし、ブラドックは致命傷を負った。この時の敗因として、ブラドックの戦法はヨーロッパのそれであり、アメリカの広大な境界地帯にはふさわしくなかったとする説がある[53]。 ブラドックの戦死により、ウィリアム・シャーリーが北アメリカのイギリス軍の指揮をまかされた。1755年12月、シャーリーは翌1756年に向けた作戦計画の段取りを示した。ナイアガラ砦、クラウンポイント砦、そしてデュケーヌ砦の攻略計画を刷新し、また、オンタリオ湖北岸のフロンテナック砦を攻撃し、メインの手つかずの森林を抜けて、ショーディエール川を渡り、ケベックを攻撃するというものだった。ウィリアム・ジョンソンや、ニューヨーク総督のチャールズ・ハーディ英語版をはじめとする士官からは不賛成の声が出、口論になって、この計画は難航し、わずかな支持しか得られなかった。また、ニューカッスル公が1756年1月に、マサチューセッツ総督をシャーリーからルードゥーン卿ジョン・キャンベルに替え、次席指揮官にはジェームズ・アバークロンビーが就任した。両者とも、フランスが北アメリカに送り込んだ3人の士官ほどには遠征経験がなかった[50]

ブラドックの死後に指揮官となったシャーリーは、オンタリオ湖畔のオスウィーゴに着き、行軍してくるフランス軍に対抗すべくそこの防御を強化したき[54]。その後イギリス本国から北アメリカの最高指揮官として赴任したルードゥーン伯ジョン・キャンベル英語版が、シャーリーに代わって指揮を執った。オスウィーゴ砦は指揮官の後退と物資の少なさに悩まされた。そして1756年8月12日ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム率いるフランス軍がオスウィーゴ砦に攻め入ってこの砦を攻略した。イギリス軍はこれで多大な損失を出した[55]。後にシャーリーから罷免され、上官の命令に従わなかったとして、本国で査問にかけられた[56]。一方モンカルムはこの作戦で弾みをつけた[57]

ウィリアム・ジョンソンは、ハドソン川とジョージ湖南端の間の連携水路にエドワード砦を作ろうとした。他方、ディスカウは、ヌーベルフランスの総督であるヴォードルイユの命を受け、シャンプラン湖に向かう敵軍をはぐらかすのが先だた。フランス軍とカナダの民兵とは、カリヨン砦の建設を着々と進めていた。そのフランス軍は、野営していたイギリス軍を驚かすべく砲撃を開始した。イギリスは最終的に反撃に出たて、ディスコ-はその時に負傷し、捕虜となった。フランスはなおもカリヨン砦の工事に取り掛かっており、ジョンソンは2つ目の砦を建設するべく、ジョージ湖の南に新しくウィリアム・ヘンリー砦を作った。(1759年の攻略後、タイコンデロガ砦と改名)[58][59]

モンクトンは、この1755年の軍事計画では唯一成功した人物だった。6月のボーセジュールの戦いで、フランスのルイブール砦への陸上の援軍を断ったのである。補給路を断つために、ノバスコシア総督のチャールズ・ローレンスは、フランス語を話すアカディア人に、この地からの追放を命令した。植民地のレンジャー部隊ロジャーズ・レンジャーズを含むモンクトンの軍勢は、何千人ものアカディア人を強制的に退去英語版させ、抵抗するものを突き止め、残虐行為を行った。それ以上の他の要素もあって、ルイブールへの補給路の断絶はルイブールを活動停止へと導いた[60]

アカディア人の抵抗を手助けしたカナダの軍人シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール

しかしアカディア人は、ボワシェベール率いる部隊やインディアンの同盟と共に抵抗し、勝利もしたが、最終的にはイギリス軍の手に落ちた[61]。この時のイギリスの作戦、アカディア側の抵抗には以下のようなものがある。
イギリスの作戦

アカディア人の抵抗

フランスの勝利 (1756年-1757年)

フランス陸軍が1756年5月に北アメリカに送り込んだのは、オーストリア継承戦争で経験を積んだルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム少佐、そしてシュール・ド・レビと、フランソワ=シャルル・ド・ブールラマク英語版大佐だった[62]。モンカルムはすでにオーストリア継承戦争で経験を積んでいた。この1756年5月18日、イギリスはフランスに正式に宣戦布告し、ヨーロッパにも戦火が拡大した。ヨーロッパでの戦いは七年戦争と呼ばれた[63]

ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム

ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1756年の春にモンカルムの到着を決して喜んではいなかった。ヴォードルイユは行政も軍事も自身の一手に収めたがっており、モンカルムと役割分担をすることで、この両者の間に不信感がくすぶるようになった。モンカルムもそれを感じ取っていた。また、インディアンとの同盟にもとまどっていた。特に、相手がだれであろうが、殺し方が残忍で頭皮を剥ぐやり方について、自身の母親に手紙を書き送っている[64]。しかしその後、フランス軍はカリヨン砦から南に異動して、ウィリアム・ヘンリー砦を4日間にわたって攻撃し、ここを攻め落とした。フランスの非正規兵(カナダ人偵察兵とインディアン兵)は、1757年の前半一杯ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃した[65]

ウィリアム・ヘンリー砦の戦いの後、降伏したイギリス軍に乱暴するインディアンを止めるモンカルム

精力的に攻め続けるフランス軍とは対照的に、ルードゥーンは官僚的でなかなか腰を上げなかったが[66]同じ1757年、ルードゥーンは、植民地担当の国務卿ウィリアム・ピットに指示されるまま、次席指揮官のジェームズ・アバークロンビーとフランス軍との交戦のためにまずルイブールを目指した。しかし準備の遅れが災いして、遠征軍がハリファックスからの出航準備ができたのは8月の始めだった。その間にフランス艦は、フランス本国沿岸のイギリスの封鎖を逃れ、北アメリカのイギリス艦隊に数で勝るフランス艦隊が、ルイブールでルードゥーンを待ち受けていた。この戦力を目の当たりにしたルードゥーンはボストンへ引き返したが、すでにウィリアム・ヘンリー砦は崩壊していた[67]

1月にはタイコンデロガ(カリヨン砦)の近くで第一次かんじきの戦いが起こった。2月には、フランスの非正規兵は、結氷したジョージ湖を挟んでの対岸に襲撃を仕掛け、倉庫と砦の外にある建物を壊した。8月の始めには、モンカルムと7000人の軍勢が砦を包囲し、イギリス軍は、条件付きの撤退を認めるのに合意して降伏した。撤退が始まった時、モンカルムのインディアン同盟兵が、虐殺の機会が失われたことに怒り、イギリス軍の縦隊を攻撃して、数百人の男女、子供、そして奴隷を殺し、また捕囚した。この包囲戦の余波として、おそらくは遠くへのインディアンへの天然痘の伝染もあった。インディアン兵の一部は、この作戦に参加するため、ミシシッピ川のかなたから来たものもいたと言われている[68]

イギリスの制覇 (1758年-1760年)

ウィリアム・ピット

ヴォードルイユとモンカルムは、1758年は最小限の補給を受けただけだった、イギリスの、フランス沿岸の封鎖が、フランス艦の出航を制限していたからだ。1757年の不作で、ヌーベルフランスの状況は一層悪化し、厳しい冬となった。伝えられるところでは、ヌーベルフランスのアンタンダンのフランシス・ビゴが、邪悪なことをたくらんでいた。ビゴの物価を高騰させる手段は、モンカルムとその仲間の私腹を肥やすためのものと信じられていた。また、西部に住むインディアン部族の天然痘の大流行で、ここに住むものが減少した。戦闘に参加した多くの部族が他の部族を非難し、また、フランス人が悪い薬を持ち込んだとも言った。天然痘は、戦闘後の人々が込み合った中で恐らく広まったのだった[69]。この状況からみると、モンカルムは、セントローレンス川の防御、そしてカリヨン、ケベック、ルイブールの主な防御に関してのわずかな方法に集中していた。一方ヴォードルイユは、襲撃による戦術の継続を主張したが失敗した。このやり方は、何年か前には非常に効を奏したのであった[70]

北アメリカでのイギリスの作戦失敗は、ヨーロッパにおける失敗とも結びついていた。これにより主な軍事顧問でもあったカンバーランド公も第一線を退いて、ピットが軍事作戦を仕切ることになった。ピットは当初、第一大蔵卿デヴォンシャー公のもとで、サザン・デパートメントの国務大臣英語版[注釈 2]として就任したが、ヨーロッパ戦線を重んじるジョージ2世と対立し、一旦辞任を余儀なくされた[71]その後国民の支持を得て返り咲いたピットは、北アメリカを主眼に置き、ルイブール、カリヨン砦とデュケーヌ砦を奪う作戦をたて、大人数の正規部隊と、それを支援する民兵隊とによる攻撃作戦を展開した[72]

1758年

デュケーヌ砦に進軍するフォーブス指揮下のイギリス軍

1758年9月から10月にかけて、イギリス軍の作戦であるフォーブズ遠征が行われた。ジョン・フォーブズ将軍率いる6000人規模の部隊は、抗争の絶えないオハイオ領土から、フランス軍を追い出すのが目的だった。9月14日にデュケーヌ砦に向かったイギリス軍は撃退されたが、その後フランス軍は、オハイオ領土をイギリスの支配下に置いたまま砦から退却した[73]イギリス軍がデュケーヌ砦に入り、この砦を再建して、ウィリアム・ピットにちなんで、ピット砦と命名した。これが今のピッツバーグである[74]。ノバスコシア、ルイブールのフランスの大々的な砦は、包囲戦の末イギリスの手に落ちた[75]

カリヨン砦での勝利を喜ぶモンカルムとフランス軍

3度目の侵攻作戦は、カリヨンの戦いでのフランス軍の勝利で阻止された。この戦いでは、3600人のフランス兵が見事に、そして意を決して、アバークロンビー率いる1万8千人のイギリス軍正規兵、民兵、そしてインディアンの同盟軍を、砦の外で完敗させた[76]。アバークロンビーは戦いの後ジョージ湖の南まで敗走したが、その後8月26日から27日にかけて、フロンテナック砦をジョン・ブラッドストリート大佐に襲撃させて物資を奪い、ケベックと、他の砦との連絡を絶った。後にアバークロンビーは、ルイブールの戦いの勝者であるジェフリー・アマーストにその地位を譲った[77]

1759年-1760年

ジェフリー・アマースト

「幸運の年1759年」に[78]、イギリス軍はすべての戦場で快進撃を続けた。ナイアガラ砦の戦いで、その前年のフロンテナック砦の戦い共々、オハイオ領土におけるフランスの影響を封じ込め、カリヨン砦を奪い、エイブラハム平原の戦いで、ジェームズ・ウルフがモンカルムを破った(この戦いで両名とも戦死した)[77]また、イギリス領アメリカのレンジャー部隊ロジャーズ・レンジャーズによる、フランスに味方したアベナキ族への襲撃もあった[79]フランスはイギリス本土進攻に焦点を合わせることを決定した。これは、ピットによる海外植民地作戦を阻止するものだったが、この目論見は失敗した、イギリスの諸艦隊が自国近海に張り付いており、ジャン=フランソワ・ド・ラ・クルー=サブラン英語版率いるトゥーロン艦隊がボスカーエンの戦隊に発見され、交戦の後フランス軍は逃走した。これがラゴスの海戦である。また、ブレスト封鎖中のホーク艦隊が一旦トーベイに撤退した隙を狙って、フランスのコンフラン提督のブレスト艦隊が、ブルターニュ半島南部のキブロン湾に向かったため、荒天の中、しかも浅瀬の多いキブロン湾で両者は相まみえた。フランス軍はまたも多大な損失を出して敗北を喫した。この海戦は「七年戦争におけるトラファルガーの海戦と呼ばれ、ホークの名を一躍たからしめた[80]

モントリオールに入るイギリス軍

1760年、イギリス軍はサントフォワの戦いで負けたにも関わらず[81]レスティガッチの海戦でフランスの救援部隊の上陸を阻止することができ[82]一方で陸軍は、ケベック、シャンプラン湖、そしてセントローレンス川上流の三方向からモントリオールへと進軍した[83]。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。

1760年9月、ヴォ-ドルイユ総督が降伏文書に調印した後[84]、初代総督となったジェームズ・マレーは、植民地にとどまることを選んだフランス人入植者には、カトリックを信仰し続ける自由、財産を所有する自由、平穏な生活を送る権利を与えた[85]

戦争の終結

シグナルヒルの戦い

北アメリカ大陸における英仏の戦いの大部分は、1760年に幕を閉じた。一方ヨーロッパでの戦闘はまだ続いていた。主だった例外はフランスによるニューファンドランドセント・ジョンズの包囲であった。アマーストはこの予期せぬ戦闘を知って、直ちに、甥のウィリアム・アマーストと部隊とを派遣して、1762年9月のシグナルヒルの戦いで、ニューファンドランドの支配を取り戻させた[86]

北アメリカのイギリス軍の多くが、西インド諸島で続いていたイギリス軍の作戦への参戦のため、配置しなおされた。その中にはハバナの戦いもあった。スペインは遅まきながらフランスの同盟国として参戦したのである。また、マルティニークへのイギリス軍の遠征もあった[87]

将軍アマーストはまた、西部に広がっていたフランスの砦をイギリスの支配下に収める指揮を執った。アマーストがこの地に対して持ち込んだ方針は、多くのインディアンを混乱させ、1763年に、ポンティアック戦争として知られる戦闘の一因となった[88]。この時の、辺境地帯の砦や集落への一連の攻撃で、イギリス軍はその後も部隊を駐留させる必要が生じ、この問題は1766年まで解決されなかった[89]

この北アメリカの戦争は、1763年2月10日のパリ条約署名で正式に終止符が打たれ、ヨーロッパを舞台にした七年戦争も、2月15日フベルトゥスブルク条約で終結した。イギリスはフランスに、ミシシッピ川以東の北アメリカか、グアダルーペマルティニークカリブ海の諸島かのいずれを取るかを提案した。当時、この両者はイギリスの支配下にあった。フランスは、カナダを割譲したが、サンピエール・ミクロンの所有の交渉は可能だった。サンピエール・ミクロンはセントローレンス湾の小さな島で、そこでの漁業権がほしかったのである。フランスにとっては、カナダより、カリブ海の島の方が経済的価値が大きかった。砂糖の収穫量が大きく、防御もしやすかったからだ。しかしイギリスにとって、ヌーベルフランスを得たことは満足であった。この際防御は問題点ではなかったし、イギリスにとって砂糖の供給源はいくらでもあったからだった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲し、代わりにキューバを得た。またフランスから敗戦の埋め合わせとして、ニューオーリンズを含めたルイジアナを得た。ミシシッピ川流域の割譲については、すべての参戦国にゆだねられた[90]

その後の北米植民地

1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。

この戦争はヨーロッパの大国(イギリス、フランス、スペイン)の経済、政治、そして行政面と社会面での関係を変えた。これらの国の植民地や入植者、そして原住の人々は、彼らが領有した土地に住んだ。フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後々長期にわたり重大な問題となった。

イギリスはヌーベルフランスとアカディアを支配下に置いた。約8万人の人口があり、その大部分はフランス語を話すカトリック信者だった。1755年に始まったアカディア人の追放は、最終的にはヨーロッパや南の方の植民地からの入植者を受け入れ可能にした。イギリスは、北アメリカの植民地のあちこちに彼らを入植させたが、多くはヨーロッパに戻り、また一部はニューオーリンズに行った、そこではフランス語が使えると期待したからだ。また一部の者は、フランス領ギアナフォークランド諸島など、さまざまな地域に入植者として送られた。後者の方はうまく行かなかった。また、サントドミンゴのような場所へ移住した者、ハイチ革命の後でニューオーリンズへ入植した者もいて、独自のケイジャン文化をはぐくんだ。ルイジアナの人口は、現在のケイジャンの人口の入植によるところが大きい。ケイジャンとは、フランス語のアカディアンがカディアンとなり、そしてケイジャンとなったものである[91]

現在のニューオーリンズに伝わるケイジャン料理

和平条約の後、ジョージ3世が国王宣言を10月7日に行った。これは新しくイギリス領となった土地の区分と行政の概略で、このうちの一部は、現在のカナダの行政とインディアンの関係に引き継がれている。インディアンにはアパラチア山脈の西部を居住地とするといった条項があり、西の境界の入植者の勢いが高まっていたこともあり[92]、この境界線はどう見ても一時的な足枷であった[93] 。この声明には、カトリック信者のカナダ人の、公民としての参加を妨げる条項もあった[94]1774年ケベック法による和解で、これらの諸問題は処理されたが、宗教に関しては、13植民地の多数のプロテスタントが、カトリックを大きく上回っていた。

印紙条例に目を通すボストンの人々

この戦争には経費が掛かった。特にピットの在任時には出費が多く1億4千万ポンドにも上り、その半分はアメリカ植民地の防御に費やされた。七年戦争により、イギリスの国債はほぼ2倍となった。国王は債務を支払うための財源として、植民地に新しい税をかけることにした。イギリス人は、この負担は植民地も引きいけるべきだと考えた。このため、13植民地に対し、1764年砂糖法が施行された。これは砂糖のみならず、コーヒーワインも対象となり、その後対個人の税である印紙条例も施行された。[95][96]この新税の導入に対して、大規模かつ徹底した抗議行動が起こり、このため軍が出動し、総督府は何とか無事に仕事を遂行できた。これらの課税条例は最終的にアメリカ独立戦争の発端となった[97] 一方で、この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス産業革命を促した、数ある要因のなかのひとつになっている[98]

多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることであった[99] 。オハイオ領土は特に、法的、あるいは非合法いずれの入植地も攻撃されやすかった。ブラドックとフォーブズが、この地へ軍事用の道路を作ったからだった[100]。スペインはルイジアナの領土を手に入れたが(1769年まで正式な領土ではなかった)、戦争の反響が穏やかなのはここだけだった。イギリスがフロリダを手に入れると、ここの部族は西へと移動した。彼らはイギリス人と仕事をしたくなかったのだ。また、チョクトー族とクリーク族の、長い間の仇敵同士の反目を当時イギリスが利用したのである[101]。フロリダの支配が変わることで、この地の、カトリックのスペイン人入植者もまた移動した。大部分はキューバへ行った。彼らはサン・オーガスティンの行政のすべての記録を携えていた、しかし洗礼を受けたヤマシー族メキシコの湾岸に入植しなおした[102]

フランス革命におけるバスチーユ牢獄の襲撃

フランスは北アメリカの所有に関しては比較的わずかな価値しか認めず、砂糖を多く産出して利益が上がるアンティル諸島に関しては特に価値を見出しており、ここをどうにかして保持しようとした。条約締結代表のセザール・ガブリエル・ド・ショワゾーは、パリ条約ではかなりのことをしたと考えており、哲学者のヴォルテールは、ルイ15世はたかだか数エーカーの雪を失っただけだと書いた[103]。しかしフランスにとって、戦争での財政負担は王国の力を弱め、これが1789年フランス革命の遠因となった[99]。この当時の啓蒙主義により、絶対王政への不信感が民衆の間に広まって行き、晩年のルイ15世統治下のフランスでは、オーストリア継承戦争からこの戦争および七年戦争の戦費と、ヴェルサイユ宮殿での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。ルイ16世の時代に入ると、アメリカ独立戦争支援のための出費があり、フランスの尽力で、アメリカはヨークタウンの戦いで独立をかちとった[104][105][106]。しかしイギリスにくらべフランスは慢性的に戦費調達能力が低かったうえに、この間フランスは新領土を獲得していないため財政赤字は累積した>[要出典]。このため財政は継続して逼迫し、これを打開するため新税を導入しようとして全国三部会が招集されたことがフランス革命勃発のきっかけとなっている[104][105][106]

ジョージ・ワシントン(1776年) チャールズ・ウィルソン・ピール

北部にあったフランスの脅威が去り、イギリスは沿岸部の防衛をアメリカ植民地の民兵に委託した、そうすうることで、カリブ海に軍を送れたからだ。また、イギリスの軍事力はカナダのフランス植民地への抑止力であり、それがなくなったため、逆にアメリカ植民地の独立を招いたのだった。また、フランス系カナダ人の権限をかなり認めた1774年ケベック法施行も、イギリス系アメリカ人にとっては脅威となり、これも独立戦争の一因と考えられている[96][107][108]

1778年のアメリカ独立戦争時、フランスはイギリスに対してアメリカと同盟を結び、北アメリカに戻ってきた。この時フランスはイギリスに勝利し、これを歴史家のアルフレッド・ケイヴは「フランスは…モンカルムの仇討ちを果たしたのだ」と述べている[109]

フレンチ・インディアン戦争の逸話

ヤンキー・ドゥードルのイラスト。歌詞の通りに太鼓や笛といった楽器を持っている[110]

アメリカ民謡ヤンキードゥードル』(日本では『アルプス一万尺』の名で知られる)は、1755年、イギリス軍支援に集まった13植民地の兵が、洗練されたイギリス軍の兵士に対し、裏皮あり毛皮ありの種々雑多な服をまとった兵たちで、それを揶揄するためイギリスの軍医シャックバーグが1755年に作詞した。歌詞は様々で、ジョージ・ワシントンを歌ったものもある[111]。しかし、植民地白人はこの歌が好きで、のちのアメリカ独立戦争の際にもよく愛唱された[112]

ベンジャミン・フランクリンはデュケーヌ砦遠征隊に物資を調達している。また、この遠征にはダニエル・ブーンも加わっていた[113]

戦争終結後の1764年、スペイン領ルイジアナとなったミシシッピ川西岸に毛皮の交易所がフランス系住民によって建設された。これがセントルイスである。町の名はフランス王ルイ9世にちなむ[114]

この戦争において 天然痘ウイルスがイギリス軍によって生物兵器的な使われ方をしたと言われる。インディアンに、天然痘のウイルスが付着した毛布を送ったのである[115]。 しかしこれには賛否両論があり、仮に贈ったとしても、意図的なものかどうかわからないともいわれている[116]。後に、1780年代の初めに、インディアン、特にチプワイアン族とスー族の間に天然痘が蔓延した。探検家のデビッド・トンプソンは、インディアンたちが患者である白人の家を襲撃して、その衣服を身に着けたために感染したのではないかと語っている[117]

フレンチ・インディアン戦争に関する作品

[118]

  • ボードゲーム
    • Volko Ruhnke, "Wilderness war", GMT Games,2001
    • Joseph Miranda "The French & Indian War",Strategy & Tactics No.231,Decision Games,2005
    • Martin Wallace "A Few Acres of Snow", Treefrog Games, 2011
    • E. Harvey, W. Nester "Ticonderoga", Strategy & Tactics No.277,Decision Games,2012

注釈

  1. ^ 現在もフランスの海外領土(海外準県)である。
  2. ^ サザン・デパートメントは、イングランド南部、ウェールズ、アイルランド、ヨーロッパーのカトリック国やイスラム諸国を担当する部署として、18世紀末までイギリスの内閣に置かれていた。

脚注

  1. ^ Brumwell, pp. 24–25.
  2. ^ Brumwell, pp. 26–31, documents the starting sizes of the expeditions against Louisbourg, Carillon, Duquesne, and West Indies.
  3. ^ a b c Anderson (2000), p. 747.
  4. ^ Jennings, p. xv.
  5. ^ The Canadian Encyclopedia: Seven Years' War.
  6. ^ (フランス語) L'Encyclopédie canadienne: Guerre de Sept Ans.
  7. ^ La guerre de la Conquête (1756-1760)
  8. ^ Powell, John (2005). Encyclopedia of North American immigration. New York: Facts On File. p. 204. ISBN 0816046581 
  9. ^ Cogliano, Francis D. (2008). Revolutionary America, 1763–1815: A Political History. London: Routledge. p. 32. ISBN 9780415964869 
  10. ^ Jennings, pp. 9, 176
  11. ^ Anderson (2000), p. 23
  12. ^ Jennings, p. 8
  13. ^ French and Indian Wars, Facts, Information, Pictures | Encyclopedia.com articles about French and Indian Wars
  14. ^ Borneman, p.89
  15. ^ Borneman, p.162
  16. ^ Facts on File History Database Center - Cherokee War
  17. ^ Borneman, p. 164
  18. ^ The Military of New France
  19. ^ a b c Anderson (2000), p. 26.
  20. ^ a b Fowler, p. 14.
  21. ^ a b Park Spotlight: Lake Loramie Ohio State Parks Magazine, Spring 2006
  22. ^ Fowler, p. 15.
  23. ^ Alfred P. James, The Ohio Company: Its Inner History (1959) pp 26-40
  24. ^ Jennings, p. 15
  25. ^ Jennings, p. 18
  26. ^ Anderson (2000), p. 28
  27. ^ 木村、104頁。
  28. ^ 木村、94-98頁。
  29. ^ Anderson (2000), p. 27
  30. ^ Fowler, p. 31.
  31. ^ Colonial America to the New Century. Presidents of the United States, Maps, Constitutional Documents and More (Google eブックス)
  32. ^ O'Meara, p. 48
  33. ^ Anderson (2000), pp. 42–43
  34. ^ Anderson (2000), p. 43
  35. ^ Jennings, p. 63
  36. ^ Fowler, p. 35.
  37. ^ Ellis, His Excellency George Washington, p. 5.
  38. ^ Fowler, p. 36.
  39. ^ O'Meara, pp. 37–38.
  40. ^ O'Meara, p. 41
  41. ^ O'Meara, pp. 43–45
  42. ^ Jennings, p. 65
  43. ^ Anderson (2000), p. 50
  44. ^ Anderson (2000), pp. 51–59.
  45. ^ Anderson (2000), pp. 59–65.
  46. ^ Fowler, p. 52.
  47. ^ Lengel p. 52.
  48. ^ O'Meara, p. 113.
  49. ^ Fowler, pp. 74–75.
  50. ^ a b Fowler, p. 98.
  51. ^ O'Meara, pp. 110–111.
  52. ^ O'Meara, p. 163.
  53. ^ Borneman, pp. 48-55
  54. ^ Borneman, pp. 56
  55. ^ Borneman, pp.67-69
  56. ^ Borneman, p.84
  57. ^ Borneman, p.86
  58. ^ Borneman, pp.46-59
  59. ^ Borneman, pp.56-57
  60. ^ Patterson, Stephen E. (1994). “1744-1763: Colonial Wars and Aboriginal Peoples”. In Buckner, Phillip; Reid, John. The Atlantic Region to Confederation: A History. Toronto: University of Toronto Press. p. 152. ISBN 0802005535 
  61. ^ 大矢・ロングフェロー、230-231頁。
  62. ^ Borneman, pp. 82
  63. ^ Borneman, pp. 67-68
  64. ^ Borneman, pp. 82-83
  65. ^ Nester, pp. 53–61
  66. ^ Borneman,p.84
  67. ^ Borneman, pp. 86-95
  68. ^ Nester, pp. 53–61
  69. ^ Fowler, p. 138.
  70. ^ Fowler, p. 139.
  71. ^ Borneman, pp.72-74
  72. ^ Borneman, pp. 96-99
  73. ^ Anderson, Fred (2000). Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754–1766. New York: Alfred A. Knopf. pp. 267–285. ISBN 0375406425 
  74. ^ Three Centuries of Pittsburgh History
  75. ^ William, Wood, The Great Fortress: A Chronicle of Louisbourg 1720–1760 (online from Project Gutenberg)
  76. ^ Battle of Carillon French & Indian War Battle of Carillon
  77. ^ a b French and Indian War - French & Indian War Seven Years' War
  78. ^ Clio's Lessons: The Seven Years' War - Britain's Annus Mirabilis
  79. ^ Borneman, pp. 228-230
  80. ^ 小林、334-338頁。
  81. ^ Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada - History
  82. ^ - Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada
  83. ^ La chute de la Nouvelle-France - Québec
  84. ^ 木村、180頁。
  85. ^ 木村、114頁。
  86. ^ Anderson (2000), p. 498
  87. ^ Cave, p. 21
  88. ^ Jennings, p. 439
  89. ^ Anderson (2000), pp. 617–632
  90. ^ Anderson (2000), pp. 505–506
  91. ^ Calloway, pp. 161–164
  92. ^ Anderson (2000), pp. 565–566
  93. ^ Anderson (2000), pp. 636–637
  94. ^ Anderson (2000), p. 568
  95. ^ Borneman, pp. 296-297
  96. ^ a b The French and Indian War As a Cause Of the American Revolution, History, Other - CollegeTermPapers.com
  97. ^ Anderson, Fred. "The Real First World War and the Making of America" American Heritage, November/December 2005.
  98. ^ 第百九章 文明の第二の波=産業革命
  99. ^ a b Cave, p. xii
  100. ^ Anderson (2000), p. 525
  101. ^ Calloway, pp. 133–138
  102. ^ Calloway, pp. 152–156
  103. ^ Cave, p. 52
  104. ^ a b French Revolution :: essays research papers
  105. ^ a b The French Revolution :: European Europe History
  106. ^ a b The French Revolution
  107. ^ Conquest - The Canadian Encyclopedia
  108. ^ 木村、117-118頁。
  109. ^ Cave, p. 82
  110. ^ http://14.studio-web.net/~yamahisa/yankee_doodle.html Yankee Doodle ヤンキー ドゥードル アルプス一万尺元歌 (MIDI付)
  111. ^ Yankee Doodle
  112. ^ Yankee Doodle - Background Information and History of the Song Yankee Doodle
  113. ^ The French & Indian War Googleブックス p.43
  114. ^ St. Louis, Mo.:Population, Weather, Demographics, Facts, History, Mayor, Landmarks - Infoplease.com
  115. ^ Research Smallpox: Eradication, Storage, and Potential Use as a Bacteriological Weapon
  116. ^ Amherst and Smallpox
  117. ^ 木村、毛皮、77-78頁。
  118. ^ 5 Best French and Indian war Movies | Screen Junkies

参考文献

関連書籍

外部リンク

関連項目

Template:Link GA