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「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の版間の差分

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'''ベーラ4世'''([[1206年]][[11月29日]] - [[1270年]][[5月3日]])、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の国王(在位[[1235年]] - 1270年)。[[アンドラシュ2世]](エドレ2世)
'''ベーラ4世'''([[ハンガリー語]]:IV Béla、[[1206年]][[11月29日]] - [[1270年]][[5月3日]])、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の[[国王]](在位[[1235年]] - 1270年)。祖父[[ラ3世]]に倣った王権の強化と、[[1241年]]の[[モゴル帝国|モンゴル]]軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中で有名な人物一人として知られる


== 生涯 ==
1235年、父の死去によって王位を継いだ。即位後は父王の時代に大きく衰えた王権を回復すべく大貴族層と対立した。当初は国民もベーラ4世を支持していたが、ベーラ4世が遊牧民である[[クマン人|クマン族]]を味方につけて大貴族層に対抗しようとすると、クマン族に好意を持っていなかった国民はベーラ4世を見捨て、挙句の果ては味方につけたはずのクマン族までもが大貴族層と内通して裏切り、ベーラ4世は貴族との対立に敗れ、さらに国内の混乱と王権の弱体化を助長させてしまったのである。
=== 幼年期 ===
1206年11月29日に、ハンガリー王[[アンドラーシュ2世]]とゲルトルード[[:en:Gertrude of Merania|ゲルトルード]]の長子として生まれる。[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の希望により、ベーラ4世の誕生前にハンガリー王国の聖職者たちは彼をハンガリー王位の後継者として承認する宣言を行った。


[[1213年]]9月28日に母ゲルトルードが敵対的な貴族によって殺害された時、おそらくベーラもその場に居合わせていた。アンドラーシュ2世はゲルトルードを殺害した一団の首謀者のみを罰して他の貴族を許し、ベーラは父に対する反感を抱いた。
[[1241年]]、[[バトゥ]]率いる[[モンゴル]]軍が[[ハンガリー]]に侵攻して来ると、ベーラ4世はハンガリーの総力を挙げてこれを迎え撃ったが、[[モヒの戦い|モヒ草原の戦い]]で百戦錬磨のモンゴル軍に大敗を喫し、[[ダルマチア]]沿岸の孤島に逃亡した。その結果、ハンガリーはモンゴル軍の占領下に置かれることとなり、国内は壊滅してしまったと言われている。


[[1214年]]初頭に[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]][[皇帝]][[ボリル]]の娘と結婚し、結婚から間も無くハンガリーの若王として戴冠される。[[1217年]]8月、アンドラーシュが[[第5回十字軍]]に参加するため中東に発った時、ベーラは母方のおじであるカロチャ大司教ベルトルトに連れられて[[シュタイアー]]に滞在し、翌年中東から戻ったアンドラーシュに続いてハンガリーに帰国した。
しかし同年、[[モンゴル帝国]]の大ハーンであった[[オゴデイ]]が病死したため、モンゴル軍はハンガリーを放棄して東に退却することとなった。このため、ベーラ4世はハンガリーに帰国し、モンゴル軍によって荒らされた国内の再建に取りかかることとなる。


=== 若王時代 ===
まず、モンゴル軍の再度の侵攻に備えてハンガリーの各地に城塞を築城した。さらに国内再建を優先して大貴族層と和解した。また、破壊された[[オーブダ]]の少し南の[[ブダ]]に、新たな宮殿を築き、今日の[[ブダペスト]]の繁栄の基礎を築き上げた。クマン族とも婚姻関係を結ぶことで和解し、その入植を認めることでハンガリー王国のさらなる繁栄を促進するなど、国内復興政策の多くに成功を収め、『ハンガリー第2の建国者』と呼ばれた。
[[1220年]]にベーラはアンドラーシュから[[スラヴォニア]]の統治を委ねられた。同年に[[ニカイア帝国]]皇帝[[テオドロス1世ラスカリス|テオドロス1世]]の娘[[マリア・ラスカリナ]]と結婚するが、[[1222年]]に2人の縁談を取りまとめたアンドラーシュからマリアと離婚するように説得される。しかしながら教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]は2人の離婚を無効とし、マリアを連れ戻したベーラは父の怒りを避けるために[[オーストリア]]に移動した。結局アンドラーシュは折れてベーラを許し、ベーラはスラヴォニア以外に[[ダルマチア]]、[[クロアチア]]の統治も委任された。


[[1226年]]にベーラは[[トランシルヴァニア]]の統治を任され、[[ドミニコ会]]修道士による[[ドニエストル川]]流域の西に居住する[[クマン人]]への布教を支援した。布教の結果、クマン人の部族長の中に洗礼を受けてベーラの支配を受け入れた者も現れる。
しかし晩年、小領主の権利を認めて都市の自治を促進させる政策を採ったために大貴族層の反発を招いたうえ、[[バーベンベルク家]]断絶後の[[オーストリア]]を巡る争いで[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世]]に[[クレッセンブルンの戦い]]で敗れて[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]を失い、[[皇太子]]であったイシュトヴァーン(後のハンガリー国王[[イシュトヴァーン5世]])にまで背かれて再び国内が混乱する中での1270年、63歳で死去した。


1234年にアンドラーシュが30歳年下の{{仮リンク|ベアトリーチェ・デステ (ハンガリー王妃)|en|Beatrice d'Este, Queen of Hungary|label=ベアトリーチェ}}を妻に迎えると、ベーラとアンドラーシュの関係はより悪化する。1235年9月21日にアンドラーシュが没した後ベーラはハンガリー王位を継ぎ、10月14日に[[セーケシュフェヘールヴァール]]で[[エステルゴム]]大司教ロベルトから戴冠を受けた。即位直後に若い継母と父の側近を告発し、彼らの逮捕を命じた。
モンゴル軍によって荒廃したハンガリーを再建したことは、ハンガリーの歴史上では大いに評価されている。

=== 治世の初期 ===
ハンガリー王に即位した直後のベーラは、王権の回復と維持を試みた<ref>エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、86頁</ref>。貴族に土地と特権を付与したアンドラーシュの政策とは逆に、ハンガリーで施行されていた城単位の県制度と王領の復帰を試みた<ref name="satsuma4748">薩摩「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』、47-48頁</ref><ref>鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、87-88頁</ref>。教皇の認可を得て、アンドラーシュが治世の初期に貴族に付与した王領の回収を行い、それまでは一般的ではなかった文書の使用を義務付けた<ref name="suzuki88">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、88頁</ref>。また、王室顧問会議場から貴族たちの椅子を運び出して焼却し、出席者に国王への敬意を強く求める<ref name="el87">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、87頁</ref>。この領地の回収を初めとする強硬な政策に、貴族たちは不満を抱く<ref name="suzuki88"/><ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、173頁</ref>。さらに都市の地位を高めるため、セーケシュフェヘールヴァールの特許状を承認し、[[ペシュト]]、エステルゴム、[[トルナヴァ|ナジソンバト]]、[[バンスカー・シュチャヴニツァ|シェルメツバーニャ]]などの領内の主要な都市に新たな特権を付与した<ref name='juck'>{{cite book | last = Juck | first = Ľubomír | authorlink = | coauthors = | title = Výsady miest a mestečiek na Slovensku (1238–1350) | publisher = Veda | date = 1984 | location = Bratislava | pages = | url = | doi = | id = | isbn = }}</ref>。

時代を遡り、1235年にドミニコ会の修道士{{仮リンク|ユリアヌス (ドミニコ修道会)|en|Friar Julian|label=ユリアヌス}}は、東方に住む[[ハンガリー語]]を話す民族を探す旅に出ていた<ref name="suzuki88"/>。[[1239年]]にユリアヌスは帰国し、[[バシキリア]]([[ヴォルガ川|ヴォルガ]]河])で出会ったマジャール人から伝え聞いた東方の[[モンゴル帝国]]がヨーロッパ遠征を計画している情報をもたらした。そして、[[ガリツィア]]に駐屯するモンゴル軍の総司令官[[バトゥ]]から、降伏を促す書簡が送られる<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、172-173頁</ref>。同年にベーラは族長クタン(ケテニュ)が率いる40,000戸のクマン人を受け入れ、彼らに居住地を与えて大貴族とモンゴルの侵入に対抗する戦力に加えようと試みた。しかし、[[遊牧民]]であるクマン人の生活様式は定住生活を営むハンガリー人と相容れず、両者の対立は深刻化する<ref name="suzuki88"/>。[[1240年]]にクタンを初めとするクマン人の首領とハンガリーの貴族・僧侶を会議に召集し、クマン人の居住区の割り当てと首領たちの洗礼が決定されたが、なおもハンガリー国民が抱くクマン人と彼らを受け入れたベーラに対する憎悪は収まらなかった<ref name="CMD176">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、176頁</ref>。

モンゴルの侵入に備え、1239年末に[[カルパティア山脈]]峡谷部に木の城砦を築き、翌1240年に[[ルーシ]]からモンゴルの脅威を伝える報告が伝えられると[[オーブダ|ブダ]]で僧侶・貴族を招集しての会議の開催を決定する。[[1241年]]のブダの会議ではクタンとクマン人の逮捕、防衛策について協議されたが、会議中に3月12日にバトゥ指揮下のモンゴル軍が国境を突破した報告が届けられる<ref name="CMD176"/>。

=== モンゴル軍の侵入 ===
[[File:Bela menekul.jpg|thumb|200px|モヒの戦いで逃亡するベーラ4世(右から2人目の王冠をかぶった人物)]]
{{See also|モンゴルのポーランド侵攻}}
モンゴル侵入の報告が伝えられると、ベーラは貴族とクマン人に号令をかけ、軍隊の招集を試みた<ref name="CMD177">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、177頁</ref>。モンゴル軍の通過した地域は略奪と虐殺に晒され、ペシュトの城壁の外ではモンゴル騎兵がハンガリー軍を誘い出すために連日挑発を行っていた<ref name="CMD177"/>。ペシュトの市民はクマン人がモンゴルの侵入を招いたとみなし、クタンと部下たちを殺害した。クタン殺害の報告が地方に伝わると、農民たちはベーラの元に向かおうとするクマン人たちを殺害する<ref name="CMD178">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、178頁</ref>。合流したクマン人たちは報復として平原部と国境地帯で収奪を行い、略奪品を携えて[[ブルガリア]]に移動した<ref name="CMD178"/>。

ベーラが実施した王権の回復に不満を持つ大貴族は協力を拒み<ref name="satsuma4748"/><ref name="el87"/>、ハンガリー軍は減少した兵力でモンゴルと戦わなければならなかった。1241年4月11日<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、182頁</ref>の[[モヒの戦い|モヒ(ムヒ)平原の戦い]]でハンガリー軍は大敗、エステルゴムとカロチャの大司教を初めとする聖職者と貴族が戦死し、ベーラの弟{{仮リンク|コロマン王子 (ガリシア・ロドメリア)|en|Coloman of Galicia-Lodomeria|label=コロマン}}も戦闘の負傷によって落命した<ref name="CMD183">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、183頁</ref>。ベーラはプレスブルグ(現在の[[ブラチスラヴァ]])に逃れて、同地を訪れていた[[オーストリア君主一覧#オーストリア公|オーストリア公]][[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]の保護を受ける。しかし、フリードリヒは以前ベーラに支払った賠償金の返済を求め、ベーラは多くの財貨を引き渡し、オーストリアに隣接する3つの州の割譲を余儀なくされた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、190-191頁</ref>。

オーストリアから[[ザグレブ]]に移動し、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]と教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]のもとに援助を求める使節を送った。フリードリヒ2世に対してはハンガリーに軍隊を送る見返りとして[[神聖ローマ帝国]]の宗主権を認めることさえ提案したが<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、199頁</ref>、いずれの勢力もハンガリーに援助を行わなかった。

その頃モンゴル軍は[[ドナウ川]]西部の領土を略奪し、翌1242年に凍結したドナウ川を渡ってより深く進軍した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、188頁</ref>。ベーラはモンゴルの王族{{仮リンク|カダン|en|Kadan}}の追跡から逃れるため、ダルマチアの海岸部に避難した。ダルマチア海岸の都市にはハンガリーからの亡命者が多く押し寄せ、ベーラは貴族と聖職者を伴って[[スプリト]]、[[トロギル|トラオ]]に移動し、トラオから[[アドリア海]]沖の島に渡った<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、192-193頁</ref>。一方カダンは{{仮リンク|クリス城|en|Klis Fortress}}(クリッサ)にベーラが立て籠もっていると考えて包囲を行うが失敗し、ベーラがクリッサにいないことを聞き知ると包囲を解き<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、193頁</ref>、トラオとスプリトに軍を分けて進軍した。トラオに到着したカダンはベーラが籠る島の向かいに陣を敷くが、1242年3月に[[オゴデイ]]・[[ハーン]]の訃報が届けられると東方に帰還した。

ベーラはモンゴル軍が完全に退却したことを確認して島から出、島に自分の名を冠した「ベーラ島」という名を付けた<ref name="CMD194">ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、194頁</ref>。

=== オーストリアを巡る争い、ガリツィアへの干渉 ===
[[1242年]]に、ハンガリーは再建した軍隊を派兵してオーストリア公フリードリヒ2世と交戦する。ハンガリーはオーストリアに占領された[[ショプロン]]と{{仮リンク|ケーセグ|en|Kőszeg}}を奪還し、ベーラはモンゴルの侵入中にオーストリアに割譲した3州の返還を要求した。

[[1244年]]6月30日にハンガリーと[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の間に協定が結ばれ、ハンガリーは[[ザダル]](ザラ)の主権をヴェネツィアに譲渡、ダルマチアの都市からあがった税収の3分の1を確保した。翌[[1245年]]にベーラは義理の息子{{仮リンク|ロスチスラフ・ミハイロヴィチ|en|Rostislav Mikhailovich}}に軍事的な援助を送り、[[ハールィチ公国|ガリツィア公国]]の公子[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダニーロ]]との争いを助けるが、ロスチスラフはダニーロによって打ち破られる。同年、ハンガリーは王国西側の併合を渇望するオーストリア公フリードリヒから再び攻撃を受ける。[[ライタ川]]の戦いでハンガリー軍は敗北するが、この時に勝利を収めたフリードリヒも戦死した。

[[1249年]]にベーラは[[バン (称号)|バーン]](太守、大貴族)のSzörényが[[聖ヨハネ騎士団]]に入団することを認めるが、この時期にはモンゴル軍が再びヨーロッパに侵攻する噂が広まっていた。同年、再びロスチスラフの元に援軍を送るが、[[サン川]]の戦いでロスチスラフとハンガリーの連合軍は敗北、ガリツィアとの和平の締結に至った。[[1250年]]に[[ズヴォレン]]で両国は会談し、ハンガリーはダニーロとロスチスラフの抗争に介入しないことを約束した。

フリードリヒの落命によって[[バーベンベルク家]]の男子は断絶しており、周辺の国々は彼が統治していたオーストリアと[[シュタイアーマルク州|スティリア]]の統治権を巡って争っていた。バーベンベルク家の領地の争奪戦において、[[1252年]]にハンガリーはオーストリア公フリードリヒの姪ゲルトルード([[:en:Gertrude of Austria|Gertrude of Austria]])とガリツィアのダニーロの息子ロマンとの結婚を取りまとめた<ref name="zoll">エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳, 彩流社, 2000年5月)、149-150頁</ref>。同年にベーラは軍を率いて{{仮リンク|ウィーン盆地|en|Vienna Basin}}を占領するが、フリードリヒの義兄である[[ボヘミア君主一覧#ボヘミア王|ボヘミア王]][[オタカル2世]]もバーベンベルク家の領地を要求した。ベーラはオタカルの支配下にある[[モラヴィア]]を攻撃するが、モラヴィアの主要都市である[[オロモウツ]]の占領には至らなかった。そのためベーラはローマ教会を介してボヘミアとの和平を試み、プレスブルグでのオタカルとの協議の結果、二国の間に講和が成立する。教皇の調停により、1254年のブダの和議でフリードリヒの遺領のうちスティリア公領がハンガリーの支配下に入った<ref name="zoll"/>。

=== 息子イシュトヴァーンとの争い ===
[[File:Battle of Kressenbrunn Thuróczy.JPG|thumb|200px|クレッセンブルンの戦い]]
[[1246年]]、ベーラは長子[[イシュトヴァーン5世|イシュトヴァーン]]にクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治を任せるが、息子と共同統治を行う意思は無かった。しかし、[[1258年]]にイシュトヴァーンはベーラに対抗するための軍勢を集め、トランシルヴァニアの統治権を譲渡するようベーラに迫る。同年、ボヘミアの統治を望むスティリアの貴族たちが反乱を起こし、鎮圧の軍を送らなければならなかった。反乱の鎮圧後、ベーラはイシュトヴァーンに{{仮リンク|スティリア公|en|Duchy of Styria}}領を与える。しかし、オタカル2世の支援を受けたスティリアは再び反乱を起こした。ベーラはイシュトヴァーンとともにボヘミアを攻撃するが、[[1260年]]7月12日の{{仮リンク|クレッセンブルンの戦い|en|Battle of Kressenbrunn}}(グロイセンブルン)でハンガリー軍は敗北する。戦後1261年のウィーンの和議で、ベーラはやむなくスティリア公領を手放した<ref name="zoll"/>。

スティリアの放棄後、イシュトヴァーンはスティリアに代わる領地を要求するようになる<ref name="suzuki92">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、92頁</ref>。[[1261年]]にベーラはイシュトヴァーンと[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]への共同出兵を行った。ベーラはイシュトヴァーンの弟であるスラヴォニアのベーラとボヘミアに嫁いだ娘アンナを寵愛しており、イシュトヴァーンとの関係は次第に悪化していく。

イシュトヴァーンはベーラと対立する貴族を集め、対抗する意思を見せた<ref name="suzuki92"/>。[[1262年]]の夏にエステルゴム大司教とカロチャ大司教の仲介によって2人はポジョニ(現在のブラチスラヴァ)で和議を結び、合意に基づいてイシュトヴァーンは若王の称号を与えられ[[ドナウ川]]以東の地域を支配した<ref name="suzuki92"/>。しかし、双方の支持者は互いの領地を攻撃しあい、ベーラとイシュトヴァーンは支持者を増やすために王領の下賜を乱発、王国は内戦状態に陥った<ref name="suzuki92"/>。

[[1267年]]に現状に不満を抱く各地の中小貴族層はエステルゴムで集会を開き、2人の王に要求を突き付けた。国内の秩序を回復するために2人の王は請願を受諾し、ベーラ、イシュトヴァーン、スラヴォニア若公のベーラ3名の名前で「1267年法令」が発布される。請願には中小貴族の権利を守る条文が記され、ベーラが実施した植民政策や文書主義に反対する条文も盛り込まれていた<ref name="suzuki92">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、93頁</ref>。

=== 晩年 ===
1269年に寵愛していたスラヴォニアの若公ベーラが亡くなると、アンナの影響力はより強くなった。最期までベーラはイシュトヴァーンに心を許さず、ボヘミアのオタカルにアンナと彼女の取り巻きの保護を委ねて没した。

== 王国の復興事業 ==
[[File:Visegrad01.jpg|thumb|180px|ヴィシェグラードのシャラモン塔]]
モンゴル軍が通過した地域は破壊と略奪、虐殺によって荒廃しており、さらにモンゴル軍が去った1242年には疫病と飢饉がハンガリーを襲った<ref name="CMD194"/>。モンゴルの侵入によって山岳地帯では25%から30%、平原部では50%から80%もの居住区が破壊され、人口は半減したと言われている<ref>井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11, 中央公論社, 1998年2月)、372頁</ref>。荒廃した王国の復興のため、ベーラは軍事を中心とした改革を実施した。

=== 建設事業 ===
エステルゴムやセーケシュフェヘールヴァールなどの、モンゴル軍の攻撃に耐えた都市や城砦が石造りの城壁を備えていたことを踏まえ、1240年代末から石造りの城の建設に取り掛かった<ref name="suzuki89">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、89頁</ref>。モンゴル襲来以前の施政を転換して貴族からの王領の回収を中止し、新たな領土を与えた上で城の建設と守備隊の設置を呼びかける<ref name="suzuki89"/>。{{仮リンク|シャーロシュパタク|en|Sárospatak}}、[[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]]などにはこの時代の建設物が今も残る。

モンゴル侵入以前に王宮を置いていたエステルゴムは大司教に委ねられ、ブダに新たな王宮の建築が計画される。モンゴルの虐殺から逃れたブダ・ペシュト近郊の村落の人々と移民を丘陵地に住まわせ、新しい城壁と王宮を建設した<ref name="el92">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、92頁</ref>。新しい王宮を中心とした地域は[[ブダ]]、再建された本来のブダは[[オーブダ]](古いブダ)と呼ばれ、[[ペシュト]]とともに今日の[[ブダペスト]]の原型となる<ref name="el92"/>。

=== 軍事、行政 ===
国王軍を弓を武器とする軽騎兵と重武装の兵士で構成しようという試みがなされ、騎兵隊はモンゴルの撤退後に再びハンガリーが受け入れたクマン人や従前から辺境防衛を担当していた[[セーケイ人]]などで編成された<ref name="suzuki89"/>。西欧の騎士をモデルとした重武装の兵士を生み出すため、王国北部の王領に新興の小領主層を創設し、彼らに兵力の供給を求めた<ref>鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、89-90</ref>。

同時に植民政策も進められ、都市の自治特権の承認や農村地帯の入植者への付与が行われる。空白地ではドイツ人、ルーマニア人、ルテニア人の入植が進められ<ref name="satsuma4748"/>、彼らには「客人」としての特権が付与された。分散した所領を一つにまとめようとする大貴族たちも植民に熱心であり、広大化した領地に移住した領民に一定の権利と自由を付与した<ref name="suzuki91">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、91頁</ref>。中小貴族のもとで悪条件に置かれていた領民たちは王領や大貴族の領地に移り、農民の地位の向上につながった<ref name="suzuki91"/>。

都市民の自治とともに、大貴族への対抗策として小領主の権利が認められ、モンゴル侵入に際してハンガリー国外に移動したクマン人が再び呼び戻された。ドナウ・ティサ川間の地域がクマン人の居住区に定められ、王室とクマン人の結びつきを強化するために王子イシュトヴァーンとクマン人族長の娘との婚姻が成立した<ref>エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、95頁</ref>。

改革の結果、県の統治は貴族に委ねられ、各県から中央の立法議会に代表が送られるようになった<ref name="satsuma4748"/>。改革は荒廃した国土の復興においては一定の成功を収めたが、従来の[[家産制]]的支配に代わる新しい支配体制の導入には至らなかった<ref>鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、90-91頁</ref>。また、貴族の政界への進出、ハンガリー人とクマン人の対立といった問題も残る<ref name="satsuma4748"/>。


==家族==
==家族==
[[File:Budapest Heroes square Béla IV.jpg|thumb|200px|ブダペストの[[英雄広場]]に建てられたベーラ4世の像]]
1218年に皇女[[マリア・ラスカリナ]]([[ニカエア帝国]]皇帝[[テオドロス1世ラスカリス]]と皇后[[アンナ・アンゲリナ]]の次女)と結婚し、9子が生まれた。
1218年に皇女[[マリア・ラスカリナ]]([[ニカエア帝国]]皇帝[[テオドロス1世ラスカリス]]と皇后[[アンナ・アンゲリナ]]の次女)と結婚し、9子が生まれた。
* [[キンガ (ポーランド王妃)|キンガ]](またはクネグンダなど、1224年 - 1292年) - [[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]][[ボレスワフ5世]]妃。1999年[[カトリック教会]]より[[列聖]]。
* [[キンガ (ポーランド王妃)|キンガ]](またはクネグンダなど、1224年 - 1292年) - [[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]][[ボレスワフ5世]]妃。1999年[[カトリック教会]]より[[列聖]]。
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[[アールパード朝]]の断絶後にハンガリー王位を争い、相次いで即位したヴェンツェル([[ヴァーツラフ3世]])、[[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]、[[カーロイ1世]](イシュトヴァーン5世の曾孫)の3人の王は、いずれもベーラ4世の子孫である。
[[アールパード朝]]の断絶後にハンガリー王位を争い、相次いで即位したヴェンツェル([[ヴァーツラフ3世]])、[[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]、[[カーロイ1世]](イシュトヴァーン5世の曾孫)の3人の王は、いずれもベーラ4世の子孫である。


== 脚注 ==
{{commons|Category:Béla IV of Hungary}}
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
{{先代次代|[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]]|1235年 - 1270年|[[アンドラーシュ2世]]|[[イシュトヴァーン5世]]}}
* 薩摩秀登「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(南塚信吾編, 新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
* 鈴木広和「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』収録(岩波講座世界歴史8, 岩波書店, 1998年3月)
* [[アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|C.M.ドーソン]]『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注,東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1968年12月)
* パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳, 恒文社, 1990年2月)


== 関連項目 ==
{{commonscat|Béla IV of Hungary}}
* [[ハンガリー国王一覧]]
{{先代次代|[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー国王]]|1235年 - 1270年|[[アンドラーシュ2世]]|[[イシュトヴァーン5世]]}}
{{Normdaten|TYP=p|GND=137409265|VIAF=67881990|LCCN=n/84/234610}}
{{DEFAULTSORT:へら4}}
{{DEFAULTSORT:へら4}}
[[Category:ハンガリーの国王]]
[[Category:ハンガリーの国王]]

2012年8月12日 (日) 14:56時点における版

ベーラ4世
Béla IV
ハンガリー王
在位 1235年 - 1270年

出生 1206年11月29日
死去 1270年5月3日
埋葬 セーケシュフェヘールヴァール
配偶者 マリア・ラスカリナ
子女 キンガ
アンナ
ヨラーン
エルジェーベト
イシュトヴァーン5世
コンスタンツィア
マルギト
ベーラ
家名 アールパード家
王朝 アールパード朝
父親 アンドラーシュ2世
母親 ゲルトルード・ディ・メラニア
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ベーラ4世ハンガリー語:IV Béla、1206年11月29日 - 1270年5月3日)、ハンガリー王国アールパード朝国王(在位1235年 - 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年モンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中で有名な人物の一人として知られる。

生涯

幼年期

1206年11月29日に、ハンガリー王アンドラーシュ2世とゲルトルードゲルトルードの長子として生まれる。ローマ教皇インノケンティウス3世の希望により、ベーラ4世の誕生前にハンガリー王国の聖職者たちは彼をハンガリー王位の後継者として承認する宣言を行った。

1213年9月28日に母ゲルトルードが敵対的な貴族によって殺害された時、おそらくベーラもその場に居合わせていた。アンドラーシュ2世はゲルトルードを殺害した一団の首謀者のみを罰して他の貴族を許し、ベーラは父に対する反感を抱いた。

1214年初頭にブルガリア皇帝ボリルの娘と結婚し、結婚から間も無くハンガリーの若王として戴冠される。1217年8月、アンドラーシュが第5回十字軍に参加するため中東に発った時、ベーラは母方のおじであるカロチャ大司教ベルトルトに連れられてシュタイアーに滞在し、翌年中東から戻ったアンドラーシュに続いてハンガリーに帰国した。

若王時代

1220年にベーラはアンドラーシュからスラヴォニアの統治を委ねられた。同年にニカイア帝国皇帝テオドロス1世の娘マリア・ラスカリナと結婚するが、1222年に2人の縁談を取りまとめたアンドラーシュからマリアと離婚するように説得される。しかしながら教皇ホノリウス3世は2人の離婚を無効とし、マリアを連れ戻したベーラは父の怒りを避けるためにオーストリアに移動した。結局アンドラーシュは折れてベーラを許し、ベーラはスラヴォニア以外にダルマチアクロアチアの統治も委任された。

1226年にベーラはトランシルヴァニアの統治を任され、ドミニコ会修道士によるドニエストル川流域の西に居住するクマン人への布教を支援した。布教の結果、クマン人の部族長の中に洗礼を受けてベーラの支配を受け入れた者も現れる。

1234年にアンドラーシュが30歳年下のベアトリーチェを妻に迎えると、ベーラとアンドラーシュの関係はより悪化する。1235年9月21日にアンドラーシュが没した後ベーラはハンガリー王位を継ぎ、10月14日にセーケシュフェヘールヴァールエステルゴム大司教ロベルトから戴冠を受けた。即位直後に若い継母と父の側近を告発し、彼らの逮捕を命じた。

治世の初期

ハンガリー王に即位した直後のベーラは、王権の回復と維持を試みた[1]。貴族に土地と特権を付与したアンドラーシュの政策とは逆に、ハンガリーで施行されていた城単位の県制度と王領の復帰を試みた[2][3]。教皇の認可を得て、アンドラーシュが治世の初期に貴族に付与した王領の回収を行い、それまでは一般的ではなかった文書の使用を義務付けた[4]。また、王室顧問会議場から貴族たちの椅子を運び出して焼却し、出席者に国王への敬意を強く求める[5]。この領地の回収を初めとする強硬な政策に、貴族たちは不満を抱く[4][6]。さらに都市の地位を高めるため、セーケシュフェヘールヴァールの特許状を承認し、ペシュト、エステルゴム、ナジソンバトシェルメツバーニャなどの領内の主要な都市に新たな特権を付与した[7]

時代を遡り、1235年にドミニコ会の修道士ユリアヌス英語版は、東方に住むハンガリー語を話す民族を探す旅に出ていた[4]1239年にユリアヌスは帰国し、バシキリアヴォルガ河])で出会ったマジャール人から伝え聞いた東方のモンゴル帝国がヨーロッパ遠征を計画している情報をもたらした。そして、ガリツィアに駐屯するモンゴル軍の総司令官バトゥから、降伏を促す書簡が送られる[8]。同年にベーラは族長クタン(ケテニュ)が率いる40,000戸のクマン人を受け入れ、彼らに居住地を与えて大貴族とモンゴルの侵入に対抗する戦力に加えようと試みた。しかし、遊牧民であるクマン人の生活様式は定住生活を営むハンガリー人と相容れず、両者の対立は深刻化する[4]1240年にクタンを初めとするクマン人の首領とハンガリーの貴族・僧侶を会議に召集し、クマン人の居住区の割り当てと首領たちの洗礼が決定されたが、なおもハンガリー国民が抱くクマン人と彼らを受け入れたベーラに対する憎悪は収まらなかった[9]

モンゴルの侵入に備え、1239年末にカルパティア山脈峡谷部に木の城砦を築き、翌1240年にルーシからモンゴルの脅威を伝える報告が伝えられるとブダで僧侶・貴族を招集しての会議の開催を決定する。1241年のブダの会議ではクタンとクマン人の逮捕、防衛策について協議されたが、会議中に3月12日にバトゥ指揮下のモンゴル軍が国境を突破した報告が届けられる[9]

モンゴル軍の侵入

モヒの戦いで逃亡するベーラ4世(右から2人目の王冠をかぶった人物)

モンゴル侵入の報告が伝えられると、ベーラは貴族とクマン人に号令をかけ、軍隊の招集を試みた[10]。モンゴル軍の通過した地域は略奪と虐殺に晒され、ペシュトの城壁の外ではモンゴル騎兵がハンガリー軍を誘い出すために連日挑発を行っていた[10]。ペシュトの市民はクマン人がモンゴルの侵入を招いたとみなし、クタンと部下たちを殺害した。クタン殺害の報告が地方に伝わると、農民たちはベーラの元に向かおうとするクマン人たちを殺害する[11]。合流したクマン人たちは報復として平原部と国境地帯で収奪を行い、略奪品を携えてブルガリアに移動した[11]

ベーラが実施した王権の回復に不満を持つ大貴族は協力を拒み[2][5]、ハンガリー軍は減少した兵力でモンゴルと戦わなければならなかった。1241年4月11日[12]モヒ(ムヒ)平原の戦いでハンガリー軍は大敗、エステルゴムとカロチャの大司教を初めとする聖職者と貴族が戦死し、ベーラの弟コロマン英語版も戦闘の負傷によって落命した[13]。ベーラはプレスブルグ(現在のブラチスラヴァ)に逃れて、同地を訪れていたオーストリア公フリードリヒ2世の保護を受ける。しかし、フリードリヒは以前ベーラに支払った賠償金の返済を求め、ベーラは多くの財貨を引き渡し、オーストリアに隣接する3つの州の割譲を余儀なくされた[14]

オーストリアからザグレブに移動し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世のもとに援助を求める使節を送った。フリードリヒ2世に対してはハンガリーに軍隊を送る見返りとして神聖ローマ帝国の宗主権を認めることさえ提案したが[15]、いずれの勢力もハンガリーに援助を行わなかった。

その頃モンゴル軍はドナウ川西部の領土を略奪し、翌1242年に凍結したドナウ川を渡ってより深く進軍した[16]。ベーラはモンゴルの王族カダン英語版の追跡から逃れるため、ダルマチアの海岸部に避難した。ダルマチア海岸の都市にはハンガリーからの亡命者が多く押し寄せ、ベーラは貴族と聖職者を伴ってスプリトトラオに移動し、トラオからアドリア海沖の島に渡った[17]。一方カダンはクリス城英語版(クリッサ)にベーラが立て籠もっていると考えて包囲を行うが失敗し、ベーラがクリッサにいないことを聞き知ると包囲を解き[18]、トラオとスプリトに軍を分けて進軍した。トラオに到着したカダンはベーラが籠る島の向かいに陣を敷くが、1242年3月にオゴデイハーンの訃報が届けられると東方に帰還した。

ベーラはモンゴル軍が完全に退却したことを確認して島から出、島に自分の名を冠した「ベーラ島」という名を付けた[19]

オーストリアを巡る争い、ガリツィアへの干渉

1242年に、ハンガリーは再建した軍隊を派兵してオーストリア公フリードリヒ2世と交戦する。ハンガリーはオーストリアに占領されたショプロンケーセグ英語版を奪還し、ベーラはモンゴルの侵入中にオーストリアに割譲した3州の返還を要求した。

1244年6月30日にハンガリーとヴェネツィアの間に協定が結ばれ、ハンガリーはザダル(ザラ)の主権をヴェネツィアに譲渡、ダルマチアの都市からあがった税収の3分の1を確保した。翌1245年にベーラは義理の息子ロスチスラフ・ミハイロヴィチに軍事的な援助を送り、ガリツィア公国の公子ダニーロとの争いを助けるが、ロスチスラフはダニーロによって打ち破られる。同年、ハンガリーは王国西側の併合を渇望するオーストリア公フリードリヒから再び攻撃を受ける。ライタ川の戦いでハンガリー軍は敗北するが、この時に勝利を収めたフリードリヒも戦死した。

1249年にベーラはバーン(太守、大貴族)のSzörényが聖ヨハネ騎士団に入団することを認めるが、この時期にはモンゴル軍が再びヨーロッパに侵攻する噂が広まっていた。同年、再びロスチスラフの元に援軍を送るが、サン川の戦いでロスチスラフとハンガリーの連合軍は敗北、ガリツィアとの和平の締結に至った。1250年ズヴォレンで両国は会談し、ハンガリーはダニーロとロスチスラフの抗争に介入しないことを約束した。

フリードリヒの落命によってバーベンベルク家の男子は断絶しており、周辺の国々は彼が統治していたオーストリアとスティリアの統治権を巡って争っていた。バーベンベルク家の領地の争奪戦において、1252年にハンガリーはオーストリア公フリードリヒの姪ゲルトルード(Gertrude of Austria)とガリツィアのダニーロの息子ロマンとの結婚を取りまとめた[20]。同年にベーラは軍を率いてウィーン盆地を占領するが、フリードリヒの義兄であるボヘミア王オタカル2世もバーベンベルク家の領地を要求した。ベーラはオタカルの支配下にあるモラヴィアを攻撃するが、モラヴィアの主要都市であるオロモウツの占領には至らなかった。そのためベーラはローマ教会を介してボヘミアとの和平を試み、プレスブルグでのオタカルとの協議の結果、二国の間に講和が成立する。教皇の調停により、1254年のブダの和議でフリードリヒの遺領のうちスティリア公領がハンガリーの支配下に入った[20]

息子イシュトヴァーンとの争い

クレッセンブルンの戦い

1246年、ベーラは長子イシュトヴァーンにクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治を任せるが、息子と共同統治を行う意思は無かった。しかし、1258年にイシュトヴァーンはベーラに対抗するための軍勢を集め、トランシルヴァニアの統治権を譲渡するようベーラに迫る。同年、ボヘミアの統治を望むスティリアの貴族たちが反乱を起こし、鎮圧の軍を送らなければならなかった。反乱の鎮圧後、ベーラはイシュトヴァーンにスティリア公英語版領を与える。しかし、オタカル2世の支援を受けたスティリアは再び反乱を起こした。ベーラはイシュトヴァーンとともにボヘミアを攻撃するが、1260年7月12日のクレッセンブルンの戦い(グロイセンブルン)でハンガリー軍は敗北する。戦後1261年のウィーンの和議で、ベーラはやむなくスティリア公領を手放した[20]

スティリアの放棄後、イシュトヴァーンはスティリアに代わる領地を要求するようになる[21]1261年にベーラはイシュトヴァーンとブルガリアへの共同出兵を行った。ベーラはイシュトヴァーンの弟であるスラヴォニアのベーラとボヘミアに嫁いだ娘アンナを寵愛しており、イシュトヴァーンとの関係は次第に悪化していく。

イシュトヴァーンはベーラと対立する貴族を集め、対抗する意思を見せた[21]1262年の夏にエステルゴム大司教とカロチャ大司教の仲介によって2人はポジョニ(現在のブラチスラヴァ)で和議を結び、合意に基づいてイシュトヴァーンは若王の称号を与えられドナウ川以東の地域を支配した[21]。しかし、双方の支持者は互いの領地を攻撃しあい、ベーラとイシュトヴァーンは支持者を増やすために王領の下賜を乱発、王国は内戦状態に陥った[21]

1267年に現状に不満を抱く各地の中小貴族層はエステルゴムで集会を開き、2人の王に要求を突き付けた。国内の秩序を回復するために2人の王は請願を受諾し、ベーラ、イシュトヴァーン、スラヴォニア若公のベーラ3名の名前で「1267年法令」が発布される。請願には中小貴族の権利を守る条文が記され、ベーラが実施した植民政策や文書主義に反対する条文も盛り込まれていた[21]

晩年

1269年に寵愛していたスラヴォニアの若公ベーラが亡くなると、アンナの影響力はより強くなった。最期までベーラはイシュトヴァーンに心を許さず、ボヘミアのオタカルにアンナと彼女の取り巻きの保護を委ねて没した。

王国の復興事業

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ヴィシェグラードのシャラモン塔

モンゴル軍が通過した地域は破壊と略奪、虐殺によって荒廃しており、さらにモンゴル軍が去った1242年には疫病と飢饉がハンガリーを襲った[19]。モンゴルの侵入によって山岳地帯では25%から30%、平原部では50%から80%もの居住区が破壊され、人口は半減したと言われている[22]。荒廃した王国の復興のため、ベーラは軍事を中心とした改革を実施した。

建設事業

エステルゴムやセーケシュフェヘールヴァールなどの、モンゴル軍の攻撃に耐えた都市や城砦が石造りの城壁を備えていたことを踏まえ、1240年代末から石造りの城の建設に取り掛かった[23]。モンゴル襲来以前の施政を転換して貴族からの王領の回収を中止し、新たな領土を与えた上で城の建設と守備隊の設置を呼びかける[23]シャーロシュパタク英語版ヴィシェグラードなどにはこの時代の建設物が今も残る。

モンゴル侵入以前に王宮を置いていたエステルゴムは大司教に委ねられ、ブダに新たな王宮の建築が計画される。モンゴルの虐殺から逃れたブダ・ペシュト近郊の村落の人々と移民を丘陵地に住まわせ、新しい城壁と王宮を建設した[24]。新しい王宮を中心とした地域はブダ、再建された本来のブダはオーブダ(古いブダ)と呼ばれ、ペシュトとともに今日のブダペストの原型となる[24]

軍事、行政

国王軍を弓を武器とする軽騎兵と重武装の兵士で構成しようという試みがなされ、騎兵隊はモンゴルの撤退後に再びハンガリーが受け入れたクマン人や従前から辺境防衛を担当していたセーケイ人などで編成された[23]。西欧の騎士をモデルとした重武装の兵士を生み出すため、王国北部の王領に新興の小領主層を創設し、彼らに兵力の供給を求めた[25]

同時に植民政策も進められ、都市の自治特権の承認や農村地帯の入植者への付与が行われる。空白地ではドイツ人、ルーマニア人、ルテニア人の入植が進められ[2]、彼らには「客人」としての特権が付与された。分散した所領を一つにまとめようとする大貴族たちも植民に熱心であり、広大化した領地に移住した領民に一定の権利と自由を付与した[26]。中小貴族のもとで悪条件に置かれていた領民たちは王領や大貴族の領地に移り、農民の地位の向上につながった[26]

都市民の自治とともに、大貴族への対抗策として小領主の権利が認められ、モンゴル侵入に際してハンガリー国外に移動したクマン人が再び呼び戻された。ドナウ・ティサ川間の地域がクマン人の居住区に定められ、王室とクマン人の結びつきを強化するために王子イシュトヴァーンとクマン人族長の娘との婚姻が成立した[27]

改革の結果、県の統治は貴族に委ねられ、各県から中央の立法議会に代表が送られるようになった[2]。改革は荒廃した国土の復興においては一定の成功を収めたが、従来の家産制的支配に代わる新しい支配体制の導入には至らなかった[28]。また、貴族の政界への進出、ハンガリー人とクマン人の対立といった問題も残る[2]

家族

ブダペストの英雄広場に建てられたベーラ4世の像

1218年に皇女マリア・ラスカリナニカエア帝国皇帝テオドロス1世ラスカリスと皇后アンナ・アンゲリナの次女)と結婚し、9子が生まれた。

アールパード朝の断絶後にハンガリー王位を争い、相次いで即位したヴェンツェル(ヴァーツラフ3世)、オットー3世カーロイ1世(イシュトヴァーン5世の曾孫)の3人の王は、いずれもベーラ4世の子孫である。

脚注

  1. ^ エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、86頁
  2. ^ a b c d e 薩摩「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』、47-48頁
  3. ^ 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、87-88頁
  4. ^ a b c d 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、88頁
  5. ^ a b エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、87頁
  6. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、173頁
  7. ^ Juck, Ľubomír (1984). Výsady miest a mestečiek na Slovensku (1238–1350). Bratislava: Veda 
  8. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、172-173頁
  9. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、176頁
  10. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、177頁
  11. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、178頁
  12. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、182頁
  13. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、183頁
  14. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、190-191頁
  15. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、199頁
  16. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、188頁
  17. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、192-193頁
  18. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、193頁
  19. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、194頁
  20. ^ a b c エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳, 彩流社, 2000年5月)、149-150頁
  21. ^ a b c d e 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、92頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "suzuki92"が異なる内容で複数回定義されています
  22. ^ 井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11, 中央公論社, 1998年2月)、372頁
  23. ^ a b c 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、89頁
  24. ^ a b エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、92頁
  25. ^ 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、89-90
  26. ^ a b 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、91頁
  27. ^ エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、95頁
  28. ^ 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、90-91頁

参考文献

  • 薩摩秀登「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(南塚信吾編, 新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
  • 鈴木広和「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』収録(岩波講座世界歴史8, 岩波書店, 1998年3月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注,東洋文庫 (平凡社), 平凡社, 1968年12月)
  • パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳, 恒文社, 1990年2月)

関連項目

先代
アンドラーシュ2世
ハンガリー国王
1235年 - 1270年
次代
イシュトヴァーン5世