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「金沢電気軌道ED1形電気機関車」の版間の差分

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{{鉄道車両
[[ファイル:Hokuriku railway ED201 Electric Locomotive.jpg|thumb|right|250px|ED20形、鶴来にて]]
|車両名 = 金沢電気軌道ED1形電気機関車
'''金沢電気軌道ED1形電気機関車'''(かなざわでんききどうED1がたでんききかんしゃ)は金沢電気軌道によって製造された電気機関車の1形式である。
|社色 = #f60
|画像 = Hokuriku railway ED201 Electric Locomotive.jpg
|pxl =
|画像説明 = 北陸鉄道ED20形ED201、鶴来にて
|営業最高速度=
|設計最高速度=
|全長= 11,136
|全幅= 2,540
|全高= 3,950
|車両質量= 29.3[[トン|t]]
|軸配置= Bo - Bo
|軌間= 1,067([[狭軌]])
|電気方式= [[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])
|総出力= 298.4[[ワット (単位)|kW]]
|主電動機= [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] [[ウェスティングハウス・エレクトリック]]WH-558J
|主電動機出力2= 74.6kW
|搭載数= 4
|端子電圧= 600V
|定格速度=
|定格引張力= 2,450[[キログラム|kg]]
|駆動装置= 1段歯車減速[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式]]
|歯車比= 3.45
|台車 = 住友金属工業KS30L
|制御装置= [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]、[[電気車の速度制御#直並列組合せ制御|直並列2段組合せ制御]]<br />[[主制御器#電空単位スイッチ式|電磁空気単位スイッチ式]] HL-846D改
|制動方式= M[[自動空気ブレーキ]]
|保安装置=
|製造メーカー= [[木南車輌製造]]
|備考= 諸元は1962年の改造後のもの
}}


'''金沢電気軌道ED1形電気機関車'''(かなざわでんききどうED1がたでんききかんしゃ)は金沢電気軌道(後の[[北陸鉄道金沢市内線]]の経営母体)が保有した[[電気機関車]]の1形式である。
石川県下の鉄軌道の戦時統合により[[北陸鉄道]]'''ED20形'''となった。


== 概要 ==
== 概要 ==
側窓が多く比較的大型の乗務員室を備える、20t級凸型電気機関車である。
[[北陸鉄道石川線|石川総線]]を運営していた金沢電気軌道によって[[堺市]]の[[木南車輌製造]]に1両が発注され、[[1938年]](昭和13年)4月に'''ED1形'''ED1として完成した<ref>ただし竣工図等の記録ではいかなる理由によるものか、能美電気鉄道デキ1として記載されているものが存在する。</ref>。その後、[[石川県]]下の私鉄各社の戦時統合により北陸鉄道籍となり、[[1949年]](昭和29年)10月の一斉改番で自重が20t級のD型機であったことに由来する'''ED20形'''ED201に改称された。


石川県下の鉄軌道の戦時統合により[[北陸鉄道]]'''ED20形'''となった後、車体延長や[[鉄道車両の台車|台車]]、主[[電動機]]、それに制御器の交換などを経て実質30t級となり、冬期の[[北陸鉄道石川線|石川線]]で使用する除雪用機関車として現存する。
前後に背の低い機器室を置き、中央に側窓の多い運転室を備える、戦前の[[南海電気鉄道|南海鉄道]]に多数在籍した独特な形状の凸型電気機関車の様式を今に伝える希少な存在であり、また木南車輌製造製電気機関車として唯一の現存例でもある<ref>木南車輌製造による同系車は[[住友大阪セメント|大阪窯業セメント]]、[[富岩鉄道]]、それに[[豊橋鉄道|渥美電気鉄道]]へ納入されているが、南海鉄道→南海電気鉄道向けに製造されたものを含め、いずれも既に廃車されている。なお、本形式の他に[[渥美電気鉄道ED1形電気機関車|渥美電気鉄道ED1]]→名古屋鉄道デキ251→豊橋鉄道デキ201は[[1984年]]に[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]の架線電圧昇圧で廃車された後、台車をBrill 27GE1から[[日本車輌製造]]C12へ交換され、前照灯をシールドビーム2灯に改造された廃車時の姿で、[[伊良湖フラワーパーク]]に[[2005年]]の同パーク閉園まで保存されていたがこれも解体されたため、現存例は本形式が最後となっている。なお、南海型としては戦後に製造された南海最後の電気機関車である[[南海ED5201形電気機関車|ED5201形]]ED5202([[東芝]]製)がED30 1として[[三岐鉄道]]に在籍するが、これは戦前のものとは印象を大きく異にする。</ref>。

前後に背の低い機器室(ボンネット)を置き、中央に側窓の多い乗務員室を備える、戦前の[[南海電気鉄道|南海鉄道]]に多数在籍した独特な形状の凸型電気機関車の様式を今に伝える、いわゆる南海型機関車の1例<ref group="出典" name="RP859ー29">[[#rp859-10_32|『鉄道ピクトリアル』第859号 p.29]]</ref>として希少な存在であり、また[[木南車輌製造]]製電気機関車として唯一の現存例<ref group="出典" name="RP701ー89">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.89]]</ref>でもある{{refnest|group="注釈"|木南車輌製造による同系車は[[住友大阪セメント|大阪窯業セメント]]、[[富岩鉄道]]、それに[[豊橋鉄道|渥美電気鉄道]]へ納入されている<ref group="出典" name="ts49-39">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 p.39]]</ref>が、南海鉄道→南海電気鉄道向けに製造されたものを含め、いずれも既に廃車されている。なお、本形式の他に[[渥美電気鉄道ED1形電気機関車|渥美電気鉄道ED1]]→名古屋鉄道デキ151→豊橋鉄道デキ151<ref group="出典" name="rw69-78">[[#rw69-59_105|『世界の鉄道'69』 p.78]]</ref>→デキ201<ref group="出典" name="rw75-162_163">[[#rw75-158_169|『世界の鉄道'75』 pp.162-163]]</ref>が[[1984年]]2月の[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]貨物輸送廃止で廃車された<ref group="出典" name="RP461ー105">[[#rp461-101_108|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.105]]</ref>後、[[伊良湖フラワーパーク]]に保存された<ref group="出典" name="RP461ー105" />が[[2005年]]の同パーク閉園後にこれも解体されたため、現存例は本形式が最後となっている。なお、南海型としては戦後に製造された南海最後の電気機関車である[[南海ED5201形電気機関車|ED5201形]]ED5202([[東芝]]製)がED30 1として[[三岐鉄道]]に在籍する<ref group="出典" name="RP859ー25_26">[[#rp859-10_32|『鉄道ピクトリアル』第859号 pp.25-26]]</ref>が、これは戦前のものとは印象を大きく異にする。}}。

== 製造経緯 ==
元々城下町[[金沢市|金沢]]の市内電気軌道建設を目的として創設され、配電事業も併せて行っていた<ref group="出典" name="RP701ー82">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.82]]</ref>金沢電気軌道は、市内線の第1期線を開業して間もない頃から、その事業規模の拡大に乗り出すようになった。

同社はまず[[1920年]](大正9年)8月1日に自社線と接続する西金沢(後の[[白菊町駅|白菊町]]) - [[野町駅|野町]] - 野々市間を開業していた金野鉄道を合併<ref group="出典" name="RP701ー81">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.81]]</ref>、続いて[[1923年]](大正12年)5月1日に旧金野鉄道線区間と野町で接続する石川鉄道(新野々市(後の[[西金沢駅|新西金沢]]) - [[鶴来駅|鶴来]]間を開業)を合併<ref group="出典" name="RP701ー81" />し、これらを合わせて石川線とした<ref group="出典" name="RP701ー81" />。さらに[[1929年]](昭和4年)6月17日には、不況で運転資金がショートした金名鉄道から同社線の一部(鶴来 - 神社前(後の[[加賀一の宮駅|加賀一の宮]])間。この時点では非電化)を譲受し、その手中に収めた<ref group="出典" name="RP701ー82" />。

こうした相次ぐ合併や路線の譲受、そして1929年9月14日の旧金名鉄道線区間の電化完成<ref group="出典" name="RP701ー82" />などにより、金沢電気軌道は市内線と野町で接続し、[[鶴来町]]の中心地に位置した鶴来を経て神社前に至る、つまり金沢市内と旧[[加賀国]]の[[一宮]]である[[白山比め神社|白山比咩神社]]を直結する典型的な参宮路線を形成するに至った。

だが、後の北陸鉄道時代に石川総線と総称されることとなるこの路線には、石川線自体の貨物需要に加え、神社前で接続する金名鉄道線沿線から全国へ送り出させる木材<ref group="出典" name="RP461ー135">[[#rp461-135_140|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.135]]</ref>をはじめとする産品を輸送する産業鉄道としての性格や、金名鉄道沿線を流れる[[手取川|手取水系]]の電源開発のための資材輸送鉄道<ref group="出典" name="RP461ー135" />としての性格も備わっており、旺盛な貨物需要が存在していた。

そこで石川線向けとして金沢電気軌道によって[[堺市]]の木南車輌製造に電気機関車1両が発注された。

この機関車は[[1938年]](昭和13年)3月24日認可<ref group="出典" name="RP859ー29" />で'''ED1形'''ED1として完成し、金沢電気軌道が所有した唯一の電気機関車<ref group="出典" name="RP701ー165">[[#rp701-152_165|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.165]]</ref>となった{{refnest|group="注釈"|竣工図では能美電気鉄道デキ1として記載されているものが存在するが、これは誤記であったとされる<ref group="出典" name="RP859ー29" />。}}。

その後、この車両は配電事業者でもあった金沢電気軌道が1941年8月1日に[[北陸合同電気]]に吸収合併された際に同社籍となった<ref group="出典" name="RP701ー82" />後、国策による配電事業者の統合と配電事業者の兼業禁止で旧金沢電気軌道の鉄軌道部門が独立して初代北陸鉄道となった<ref group="出典" name="RP701ー82" />ことで同社籍に移行した。

さらに、[[石川県]]下の私鉄各社の戦時統合で1943年10月13日に2代目北陸鉄道が発足し、[[1949年]](昭和29年)10月1日の一斉改番<ref group="出典" name="RP859ー29" />の際に自重が20t級<ref group="出典" name="RP859ー29" />のD型機であったことに由来する'''ED20形'''ED201に改称された<ref group="出典" name="RP701ー89" />。

つまり、この間の車籍の変遷は以下の通りとなる。

:金沢電気軌道ED1形ED1(1938年3月24日~1941年7月31日)→北陸合同電気ED1形ED1(1941年8月1日~1942年1月26日)→北陸鉄道(初代)ED1形ED1(1942年1月27日~1943年10月12日)→北陸鉄道(2代)ED1形ED1(1943年10月13日~1949年9月30日)→北陸鉄道ED20形ED201(1949年10月1日~)


== 車体 ==
== 車体 ==
[[ファイル:NANKAI Rly Type DENKI1 EL No.1001.png|thumb|left|250px|南海鉄道電機第1号形 1001<br/>南海鉄道における一連の凸型電気機関車の基本形態を確立した形式。本形式の車体はこの形式の影響下で設計された。<br />(車体完成時のメーカーカタログ写真)]]
端梁に[[連結器|自動連結器]]を備える長さ9.4[[メートル|m]]の台枠中央に半鋼製の運転室を置き、その前後にリベット組立の機器室を置く凸型車体で、窓配置は3d(d:乗務員扉)である。新造時には妻窓を横引き式で開閉可能な4枚構成としている。


端梁に[[連結器|自動連結器]]を備える長さ9.4[[メートル|m]]<ref group="出典" name="rw69-182_183">[[#rw69-178_185|『世界の鉄道'69』 pp.182-183]]</ref>の台枠中央に半鋼製の運転室を置き、その前後にリベット組立の機器室を置く凸型車体で、窓配置は3d(d:乗務員扉)である。新造時には妻窓を横引き式で開閉可能な4枚構成<ref group="出典" name="RP859ー42">[[#rp859-_32|『鉄道ピクトリアル』第859号 p.42]]</ref>としている。
運転台は車体中央に制御器を置き、乗務員は横向きに座って操作を行う構造であり、側窓は下降式となっていて開閉可能である。


運転台は車体中央に制御器を置き、乗務員は横向きに座って操作を行う構造<ref group="出典" name="RP859ー29" />であり、側窓は下降式となっていて開閉可能である。
前照灯は機器室中央の点検用ハッチの前に台座を組んで灯具が固定されており<ref>これは先行する[[富岩鉄道ロコ1形電気機関車|富岩鉄道ロコ1形]]と同様の構成で、大阪高野鉄道電2形のそれを踏襲したものであった。</ref>、尾灯は台枠端梁に灯具を取り付けて使用する。


前照灯は機器室中央の点検用ハッチの前に台座を組んで灯具が固定されており{{refnest|group="注釈"|これは大阪高野鉄道電2形以来南海鉄道で標準となっていた配置を踏襲したものであった<ref group="出典" name="ts49-33">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 p.33]]</ref>。}}、尾灯は台枠端梁に灯具を取り付けて使用する。
後述するように直接制御式の抵抗制御車として製造された本形式の場合、電気車保守の上で重要な電動機は台車内、制御器は運転室内の設置となり、また抵抗器は放熱の必要もあって床下に装架されるため、竣工当初の各機器室には空気圧縮機と空気溜を設置するのみで、非常にコンパクトにまとめられている。


後述するように直接制御式の抵抗制御車として製造された本形式の場合、電気車保守の上で重要な電動機は台車内、制御器は運転室内の設置となり、また抵抗器は放熱の必要もあって床下に装架されるため、竣工当初の各機器室には空気圧縮機と空気溜を設置するのみで、非常にコンパクトにまとめられている{{refnest|group="注釈"|この機器レイアウトも大阪高野鉄道電2形以来のもので、南海鉄道では間接制御式に変更した後継形式でもこのレイアウトを踏襲し続けた<ref group="出典" name="ts49-35">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 p.35]]</ref>。}}。
この車体は製造当時[[南海電気鉄道|南海鉄道]]が保有していた同級電気機関車、特に当時最新の[[南海EF5形電気機関車|EF5形]]5121・5122<ref>[[1936年]](昭和11年)11月竣工。</ref>などの車体を、南海沿線の新興車両メーカーであった木南車輌製造がスケッチして製作したもの<ref>木南車輌製造はその後、[[1943年]](昭和18年)5月にEF5形5127 - 5129として再度これらの完全なコピー品を製造している。</ref>の一つである。南海鉄道では[[1916年]](大正5年)に大阪高野鉄道が自社工場で製造した[[大阪高野鉄道電弐形電気機関車|電弐形]]に範を採って[[1922年]](大正11年)に[[日本車輌製造]]本店で製造した[[南海電機第壱號形電気機関車|電機第壱號形]]1001 - 1004<ref>後のEF1形5101 - 5104→ED5101形5101 - 5104。</ref>を皮切りに、沿線の[[帝國車輛工業|梅鉢鉄工場]]や[[藤永田造船所]]、木南車輌製造、それに自社天下茶屋工場で貨物列車牽引用として凸型電気機関車を多数製造、大阪高野鉄道からの編入車を含め、本形式製造の時点で25両を運用していた。


この車体は製造当時[[南海電気鉄道|南海鉄道]]が保有していた同級電気機関車、特に当時最新の[[南海EF5形電気機関車|EF5形]]5121・5122{{refnest|group="注釈"|[[1936年]](昭和11年)11月竣工<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />。}}などの車体を、南海沿線の新興車両メーカーであった木南車輌製造がスケッチして製作したもの{{refnest|group="注釈"|木南車輌製造はその後、[[1943年]](昭和18年)5月にEF5形5127 - 5129として再度これらの完全なコピー品を製造している<ref group="出典" name="NANKAI2-150">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 p.150]]</ref>。}}の一つである。南海鉄道では[[1916年]](大正5年)に大阪高野鉄道が自社工場で製造した[[大阪高野鉄道電2形電気機関車|電2形]]に範を採って[[1922年]](大正11年)に[[日本車輌製造]]本店で製造した[[南海電機第1号形電気機関車|電機第1号形]]1001 - 1004<ref group="出典" name="NANKAI2-147">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 p.147]]</ref>{{refnest|group="注釈"|後のEF1形5101 - 5104→ED5101形5101 - 5104<ref group="出典" name="NANKAI2-149">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 p.149]]。</ref>}}を皮切りに、沿線の[[帝國車輛工業|梅鉢鉄工場]]や[[藤永田造船所]]、木南車輌製造、それに自社天下茶屋工場で貨物列車牽引用として凸型電気機関車を多数製造<ref group="出典" name="NANKAI2-147_149">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.147-149]]</ref>、吸収合併した大阪高野鉄道からの編入車(電2形1 - 5→電機第4号形1016 - 1020<ref group="出典" name="NANKAI2-146_148">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.146・148]]</ref>)を含め、本形式製造の時点で25両を運用していた<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />。
なお、本形式については1939年(昭和14年)2月に竣工したEF1形5123・5124<ref>元大阪高野鉄道電弐形3・4→南海鉄道電機第四號形1018・1019→EF4形1018・1019→EF1形5071・5072の車籍を継承して自社天下茶屋工場で製造された、事実上の完全新造車。在来車の改造扱いとすることで戦時統制経済下での車両新製に関する規制を回避する意図があったと見られ、台車や主電動機、制御器などの機器構成や車体寸法の相違から、5071・5072の部品は何一つ使用されなかった可能性が指摘されている。</ref>が製造された際に発生した、旧EF1形5071・5072のいずれかの台枠が流用され、これに5121・5122と同様式で製造した車体を載せた可能性が指摘されている。

本形式については、同時期に同じ木南車輌製造で製作された姉妹車である[[富岩鉄道ロコ1形電気機関車|富岩鉄道ロコ1形]]や渥美電気鉄道ED1と共に、同様の構成の車体を備えて1939年(昭和14年)2月に竣工した南海鉄道EF1形5123・5124{{refnest|group="注釈"|元大阪高野鉄道電2形3・4→南海鉄道電機第4号形1018・1019→EF4形1018・1019→EF1形5071・5072の車籍を継承して自社天下茶屋工場で製造された、事実上の完全新造車
<ref group="出典" name="NANKAI2-149_150">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.149-150]]</ref>。5071・5072と5123・5124の台車や主電動機、制御器などの機器構成や車体寸法の相違から、5123・5124の製作に当たっては5071・5072の部品は何一つ使用されなかった可能性が指摘<ref group="出典" name="ts49-39" />されている。}}が製造された際に発生した、旧EF1形5071・5072のいずれかの台枠が流用され、これに5121・5122と同様式で製造した車体を載せた可能性<ref group="出典" name="ts49-39" />が存在する。


== 主要機器 ==
== 主要機器 ==
=== 制御器 ===
=== 制御器 ===
[[ゼネラル・エレクトリック]](GE)社製K-38直接制御器搭載されていた。GE K-38は大阪高野鉄道電形に採用され、[[大阪市電]]など各社で大量に採用実績のある、初期の路面電車用直接制御器を代表するベストセラーの一つである。
[[ゼネラル・エレクトリック]](GE)社製K-38直接制御器搭載する<ref group="出典" name="RP701ー88">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.88]]</ref>。GE K-38は大阪高野鉄道電2形に採用され<ref group="出典" name="ts49-33" />、[[大阪市電|大阪市電気局]]など各社で大量に採用実績のある、初期の路面電車用直接制御器を代表するベストセラーの一つである。


もっとも、許容電流量の問題から電動機を4基装架する電気機関車で使用するにはやや荷が重かったらしく、に大出力電動機このK-38組み合わせ場合に故障が頻発した<ref>このため、本形式でも後年になってより出力の大きな電動機へ換装が実施された際に、制御器も併せて交換されている</ref>といい、本形式の竣工当時、南海では車用HL系制御器を2両分搭載して車内で総括制御動作させるHL-N電磁単位スイッチ式手動加速制御器への換装<ref>南海ではこれに併せてHL制御器を前後の機器室へ振り分け搭載し、また主電動機を強化し両抱き式ブレーキを備える大きな台車を装着するため、9m級の台枠を中央で分割、部材を挿入して11m級に延長する工事を自社天下茶屋工場で実施している</ref>で徐々に淘汰が進みつつあった。
もっとも、許容電流量の問題から、これは特に100馬力以上の定格出力の電動機を4基装架する電気機関車で使用するにはやや荷が重かったらしく<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />{{refnest|group="注釈"|なお新造時の本形式装着されたWH-101-Hを直接式制御器で4基制御する構成としていた南海鉄道電1形は、容量WH社製WH-403-Dを制御器して搭載している<ref group="出典" name="NANKAI1-92">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.92]]</ref>。}}、南海鉄道でこれ搭載し電気機関車では故障が頻発したといい<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />{{refnest|group="注釈"|本形式でも後述するように、後年になってより出力の大きな電動機へ換装が実施された際に、制御器も併せて交換されている<ref group="出典" name="RP701ー88" />。}}、本形式の竣工当時、電5形電車の制御器を電空カム軸式のPC-14Aへ換装した際<ref group="出典" name="NANKAI1-119">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.119]]</ref>に発生した[[ウェスティングハウス・エレクトリック]](WH)社製HL151-D-2制御器<ref group="出典" name="NANKAI1-92">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.92]]</ref>を2両分(2組)運転台に搭載して並列で総括制御動作させるように自社で改造した{{refnest|group="注釈"|この改造そのものは、1936年のEF4形5117 - 5119<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />での施工以来、必要に応じて実施されていたものである。}}、HL-N電磁単位スイッチ式手動加速制御器への換装<ref group="出典" name="NANKAI2-149" />{{refnest|group="注釈"|南海では主電動機を強化し両抱き式ブレーキを備える大きな台車を装着するため、9m級の台枠を中央で分割、部材を挿入して11m級に延長する工事を自社天下茶屋工場で実施している<ref group="出典" name="ts49-35_38">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 pp.35-38]]</ref>。}}で徐々に淘汰が進みつつあった。


=== 主電動機 ===
=== 主電動機 ===
本形式製作当時の南海鉄道で余剰を来していたものを流用したと考えられる、WH社製WH-101-H{{refnest|group="注釈"|端子電圧500[[ボルト (単位)|V]]時1時間定格出力37.3[[ワット|kW]]<ref group="出典" name="RP859ー26_27">[[#rp859-10_32|『鉄道ピクトリアル』第859号 pp.26-27]]</ref>。}}を各台車2基ずつ吊り掛け式で装架している。歯数比は69:15である<ref group="出典" name="RP859ー26_27" />。この電動機は元々南海鉄道が電化時に新造した[[南海電第壱號形電車|電第壱號形]]1 - 24{{refnest|group="注釈"|電1形とも。後のモハ1形モハ1 - モハ10・電附第弐號形(電付2形)205 - 207→クハユニ505形クハユニ505 - クハユニ507・電附第参號形(電付3形)208-210→クハユニ505形クハユニ508 - クハユニ510・電附四號形(電付4形)221-226→クハ716形クハ716 - クハ721など<ref group="出典" name="NANKAI1-87_108">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.87-88・95-96・104-108]]</ref>。}}や[[南海電第弐號形電車|電第弐號形]]101 - 112{{refnest|group="注釈"|電2形とも。後の電附第八號形(電付8形)704 - 715→クハ704形クハ704 - クハ715<ref group="出典" name="NANKAI1-88_125">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.88-89・99・107-108・122-125]]</ref>。}}などに装着されていたもので、本形式が製造された時期の南海鉄道では、より強力な電動機への新製交換と併せて、老朽化等で処分する車両にこれより強力な電動機が付いていた場合に今後も継続使用する車両に装架されているWH-101-Hとこれを交換する、譲渡車に装着の電動機をこれと振り替えて送り出す、あるいは単純にWH-101-H搭載車を電装解除して制御車化する、といった手法で社内的な淘汰が順次進められていた<ref group="出典" name="NANKAI1-132">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.132]]</ref>{{refnest|group="注釈"|本形式に装架されたものは、時期的にモハ501形501 - 512の電装解除などによる発生品であったと考えられる<ref group="出典" name="NANKAI1-130_131">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.130-131]]</ref>。}}。そのため木南車輌製造が本形式と前後して製作した同系凸型電気機関車は、全て入手の容易なこの電動機を装架して出荷され<ref group="出典" name="ts49-39" />、同様に南海鉄道で廃車手続き後、木南車輌製造で鋼体化改造を施した上で[[1934年]](昭和9年)に[[住友大阪セメント|大阪窯業セメント]]へ譲渡した電機第4号形1020{{refnest|group="注釈"|大阪窯業セメント→大阪セメント三重工場1。元大阪髙野鉄道電弐形5。<ref group="出典" name="NANKAI2-148">[[#NANKAI2|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 p.148]]</ref>}}についても、大阪高野鉄道電2形時代以来のGE社製GE-218-B(端子電圧600V時一時間定格出力52.0kW<ref group="出典" name="RP859ー30_31">[[#rp859-_32|『鉄道ピクトリアル』第859号 pp.30-31]]</ref>)からこのWH-101-Hへ主電動機を振り替えた後で送り出されている<ref group="出典" name="NANKAI2-148" /><ref group="出典" name="rw69-184_185">[[#rw69-178_185|『世界の鉄道'69』 pp.184-185]]</ref>。
南海鉄道で余剰を来していたものを流用したと見られる、アメリカ・[[ウェスティングハウス・エレクトリック]](WH)社製WH-101-H<ref>端子電圧600[[ボルト (単位)|V]]時1時間定格出力37.3[[ワット|kW]]。</ref>を各台車2基ずつ吊り掛け式で装架していた。この電動機は元々は[[南海電気鉄道|南海鉄道]]が電化時に新造した[[南海電第壱號形電車|電第壱號形]]1 - 24<ref>電1形とも。後のモハ1形モハ1 - 10・
電附第弐號形(電付2形)205 - 207→クハユニ505形505 - 507・電附第参號形(電付3形)208-210→クハユニ505形508 - 510・電附四號形(電付4形)221-226→クハ716形716 - 721など。</ref>や[[南海電第弐號形電車|電第弐號形]]101 - 112<ref>電2形とも。後の電附第八號形(電付8形)704 - 715→クハ704形704 - 715。</ref>などに装着されていたもので、本形式が製造された時期の南海では、電動機の新製交換と併せて、老朽化等で処分する車両にこれより強力な電動機が付いていた場合に、今後も継続使用する車両に装架されているWH-101-Hとこれを交換する、といった手法で淘汰が順次進められていた<ref>本形式に装架されたものは、時期的にモハ501形501 - 512の電装解除などによる発生品であったと考えられる。</ref>。


=== 台車 ===
=== 台車 ===
竣工時には、軸距1,372mmの軸ばね台車である[[ブリル|J.G.ブリル]]社製<ref>大阪高野鉄道2・4・5からの流用の場合は、J.G.ブリル社純正品ではなくそれをデッドコピーした[[帝國車輛工業|梅鉢鉄工場]]製となるが、いずれであったかは判明していない。</ref>Brill 27GE1を南海鉄道天下茶屋工場で改造して後継のBrill 27E1相当とていたものが装着されている。
竣工時には、軸距1,372mmの軸ばね台車である[[ブリル|J.G.ブリル]]社製{{refnest|group="注釈"|大阪高野鉄道2・4・5からの流用の場合は、J.G.ブリル社純正品ではなくそれをデッドコピーした[[帝國車輛工業|梅鉢鉄工場]]製となる<ref group="出典" name="rail34-68_69">[[#rail34-65_72|『レイル』第34号 pp.68-69]]</ref>が、いずれであったかは判明していない。}}Brill 27GE1を動揺防止を目的として改造<ref group="出典" name="ts49-34">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 p.34]]</ref>したものが装着されている。


これは具体的には本来の27GE1で線路方向に沿って置かれた重ね板ばねによる枕ばねを、前後端に接続された釣り合いばねによって懸架していたものを、後継の27Eと同様、新製した鍛造品の梁を線路方向に沿って置き、これを釣り合いばねで懸架した上で、これら左右の梁を下揺れ枕と結合してH字状に組み立てたものの上に、まくら木方向に重ね板ばね(楕円ばね)を配することで車体の左右方向の揺動特性の改善を図っている。つまりこの改造は実質的には27GE1の27E化と言えるが、鍛造側枠そのものは無改造のため、短軸距かつ主電動機を外掛けという路面電車並仕様には相違はない。
具体的には本来の27GE1で線路方向に沿って置かれた重ね板ばねによる枕ばねを、前後端に接続された釣り合いばねによって懸架していたこれを後継の27Eと同様、新製した鍛造品の梁を線路方向に沿って置き、これを釣り合いばねで懸架した上で、これら左右の梁を下揺れ枕と結合してH字状に組み立てたものの上に、まくら木方向に重ね板ばね(楕円ばね)を配することで車体の左右方向の揺動特性の改善を図っている<ref group="出典" name="ts49-39" />。つまりこの改造は実質的には27GE1の27E化<ref group="出典" name="rail31-47">[[#rail31-42_52|『レイル』第31号 p.47]]</ref>と言えるが、鍛造側枠そのものは無改造のため、短軸距かつ主電動機を外掛けという路面電車向け台車並の構造・基本寸法には変化はない<ref group="出典" name="ts49-38_39">[[#ts49-33_39|『鉄道史料』第49号 pp.38-39]]</ref>


このBrill 27GE1は南海鉄道電第壱號形と大阪高野鉄道電第壱號形に採用された台車であり、改造後も長く南海線で使用されていたが、本形式製造当時には装着車の鋼体化などに伴う相次ぐ大型化と重量増に対応しきれなかった。そのため、南海鉄道では代替用台車の新造と複雑な振り替えを経て、順次淘汰・他社への放出が始まっていたものであった。
このBrill 27GE1は南海鉄道電1形と大阪高野鉄道電第1<ref group="出典" name="NANKAI1-87_97">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.87・97]]</ref>、それ大阪髙野鉄道電2形<ref group="出典" name="NANKAI2-146">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 p.146]]</ref>に装着された台車であり、改造後も長く南海線で使用されていた<ref group="出典" name="ts49-39" />が、本形式製造当時には装着車の鋼体化などに伴う相次ぐ大型化と重量増に対応しきれなかった。そのため、上述のWH-101-H電動機と同様、南海鉄道では電気機関車を含めて<ref group="出典" name="NANKAI2-149_150">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.149-150]]</ref>代替用台車の新造と複雑な振り替えを経て、順次淘汰・他社への放出が始まっていたもの<ref group="出典" name="NANKAI1-130">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.130]]</ref>であった。


=== ブレーキ ===
=== ブレーキ ===
M三動弁によるAMM[[自動空気ブレーキ]]を搭載する。<!--運転台の弁の型番が不明なため、とりあえずこれだけで。M23弁であれば自動空気ブレーキのみ、M24系の弁であれば自動空気ブレーキに加えて直通ブレーキ動作も可能なはずです。-->
M三動弁によるAMM[[自動空気ブレーキ]](Mブレーキ)を搭載する<ref group="出典" name="RP701ー90" />。<!--運転台の弁の型番が不明なため、とりあえずこれだけで。M23弁であれば自動空気ブレーキのみ、M24系の弁であれば自動空気ブレーキに加えて直通ブレーキ動作も可能なはずです。-->


=== 集電装置 ===
=== 集電装置 ===
新造時の石川総線の規格に従い、竣工の時点ではトロリーポールが前後各1基で合計2基、屋根上に設置されている。
新造時の石川総線の規格に従い、竣工の時点ではトロリーポール<ref group="出典" name="RP701ー88" />が前後各1基で合計2基、屋根上に設置されている。


== 運用 ==
== 運用 ==
竣工後、北陸合同電気時代の[[1941年]]11月28日に発生した[[北陸鉄道加南線|温泉電軌]]山代車庫の全焼に伴う車両不足に対する応援として、約2年にわたって同社に貸し出されて使用された。[[1943年]]に実施された石川県下に所在する私鉄各社の北陸鉄道への統合の後は専ら[[北陸鉄道石川線|石川総線]]に配置され続けている。
竣工後、北陸合同電気時代の[[1941年]](昭和16年)11月28日に発生した<ref group="出典" name="RP701ー152">[[#rp701-152_165|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.152]]</ref>[[北陸鉄道加南線|温泉電軌]]山代車庫の全焼に伴う車両不足に対する応援として、約2年にわたって同社に貸し出されて使用された<ref group="出典" name="RP701ー165" />。[[1943年]](昭和18年)に実施された石川県下に所在する私鉄各社の北陸鉄道への統合後、1949年(昭和24年)10月1日付で実施された一斉改番の際にはED20形ED201へ改番され<ref group="出典" name="RP701ー88" />、その後は他線区へ転出することも無く、専ら[[北陸鉄道石川線|石川総線]]に配置され続けている。


その間、[[1953年]]に非力であった主電動機を他形式の主電動機交換で発生した[[三菱電機]]MB-64C<ref>端子電圧600V時1時間定格出力48.5kW/685[[rpm (単位)|rpm]]。歯数比は3.55。</ref>へ換装、さらに[[1962年]]には自社工場台枠を中央で切断し部材を挿入することで全長を1.7m延長、これにより前後の機器室を拡大<ref>機器室は元々あった部分を両端に置き、運転室との間に延長用部材を挿入する形で延長されている。当該挿入部分はケーシングが溶接組み立て構造となっているため、外観でもリベット組み立ての既存部分との判別が容易である。またこの改造の際には、機器室に制御を搭載し、機器を冷却する必要が生じたことから、延伸部付近の側面に鎧戸状の換気口が設置されている。</ref>、制御器を直接式のGE K-38からWH社製単位スイッチ式手動加速制御器であるHL-846Dを改造したものに交換し、台車と主電動機についてもモハ852の廃車発生品である[[住友金属工業]]KS-30L鋳鋼製釣合梁式台車と、それに装架されていたWH社製WH-558-J6<ref>端子電圧600V時1時間定格出力74.6kW/985rpm。歯数比は3.45</ref>に交換された<ref>この車体延伸改造HL制御器を前後の機器室に格納す際に容積不足したとから実施された、同系車を多数擁した本家である南海でも前述の通り直接制御からHL系間接制御器への交換時に同種の改造が実施されている。また後述の妻窓の改造も南海で先行して同様に実施されていたことから、この改造メニューは南海での事例に倣って実施された可能性が高い。</ref>。こにより自重は23.5[[トン|t]]から29.3tに増加し、ワンランク上の[[北陸鉄道ED30形電気機関車|ED301]]に迫る粘着力が確保されるようになっている<ref>もっとも主電動機定格出力はカルダン駆動へ改造される以前のED301と同格の74.6kW級となったが、本来は急行電車用の高速モーター(WH-558-J6は設計当時の吊り掛け駆動を行う電車用直流直巻整流子電動機としては異例の高回転仕様である)を歯数比を落とさないまま流用したこともあり、牽引力はED30形の3,060kgに対して2,450kgと大きく見劣りした。</ref>
その間、[[1953年]](昭和28年)に非力であった主電動機を他形式の主電動機交換で発生した[[三菱電機]]MB-64C{{refnest|group="注釈"|端子電圧600V時1時間定格出力48.5kW/685[[rpm (単位)|rpm]]。歯数比は3.55で、定格引張力は2,360kg、定格速度30.5km/hであった<ref group="出典" name="rw69-182_183" />。}}へ換装、さらに[[1962年]]<ref group="出典" name="RP701ー88" />{{refnest|group="注釈"|1960年(昭和35年)6月30日認可で改造が実施されたとする文献も存在する<ref group="出典" name="RP859ー29" />が、後述するモハ852の台車交換よる本形式への台車供出が1962年(昭和37年)に実施されていることから、少なくとも台車交換同年に実施された可能性が高い。}}に自社工場において台枠を中央で切断し部材を挿入することで全長を1.7m延長<ref group="出典" name="RP701ー88" />、これにより前後の機器室を拡大{{refnest|group="注釈"|機器室は元々あった部分を両端に置き、運転室との間に延長用部材を挿入する形で延長されている。当該挿入部分はケーシングが溶接組み立て構造となっているため、外観でもリベット組み立ての既存部分との判別が容易である。またこの改造の際には、抵抗器を鶴来側ボンネットに搭載し<ref group="出典" name="RP859ー29" />これを冷却する必要が生じたことから、延伸部付近の側面に鎧戸状の換気口が設置されている。}}、制御器を直接式のGE K-38からWH社製単位スイッチ式手動加速制御器であるHL-846Dを改造したものに交換<ref group="出典" name="RP701ー88" />し、台車と主電動機についてもモハ852の廃車発生品である[[住友金属工業]]KS30L鋳鋼製釣合梁式台車<ref group="出典" name="RP701ー88" />{{refnest|group="注釈"|伊那電気鉄道でKS-30Lを装着していたのはデハ110形とデハ120形の2形式で、モハ852は伊那電気鉄道デハ110に由来する。同車は元来芝浦SE-102を主電動機として装架していて、1962年に台車振り替えを実施している<ref group="出典" name="rp2000_4-86">[[#rp2000_4-65_95|『釣り掛け電車の響き 鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊号』 p.86]]</ref>。}}と、それに装架されていたとされるWH社製WH-558-J6{{refnest|group="注釈"|端子電圧600V時1時間定格出力74.6kW/985rpm<ref group="出典" name="rw69-178_179">[[#rw69-178_185|『世界の鉄道'69』 pp.178-179]]</ref>。歯数比は3.45<ref group="出典" name="RP701ー90">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.90]]</ref>。なお、モハ852をデハ110形デハ110として新造し伊那電気鉄道<ref group="出典" name="rp2000_4-86" />ではこのWH-558-J6デハ110形ではなく、増備形式であデハ200形デハ201 - デハ204装架ていたとされ<ref group="出典" name="rp2000_4-92_93">[[#rp2000_4-65_95|『釣り掛け電車の響き 鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊号』 pp.92-93]]</ref>、この電動機がどのような経緯で北陸鉄道へ譲渡されたのは明かになっていない。}}に交換された。こ車体延伸改造は前述の通り同系車を多数擁した本家である南海鉄道→南海電気鉄道でも同種の改造が実施されていたものである。また後述の妻窓の改造も南海で先行して同様に実施されていたことから、この改造メニューは南海での事例に倣って実施された可能性が高い。この改造により自重は23.5[[トン|t]]<ref group="出典" name="rw69-182_183" />から29.3tに増加<ref group="出典" name="RP701ー90" />し、ワンランク上の[[北陸鉄道ED30形電気機関車|ED301]]に迫る粘着力が確保されるようになっている{{refnest|group="注釈"|もっとも主電動機定格出力はカルダン駆動へ改造される以前のED301と同格の74.6kW級となったが、本来は急行電車用の高速モーター(WH-558-J6は南海鉄道で急行用の電7形に搭載された<ref group="出典" name="NANKAI1-92">[[#NANKAI1|『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 p.92]]</ref>、設計当時の吊り掛け駆動を行う電車用直流直巻整流子電動機としては異例の高回転仕様<ref group="出典" name="rp771-174-175">[[#rp771-174_175|『鉄道ピクトリアル』通巻771号 pp.174-175]]</ref>のモデルである)を歯数比を落とさないまま流用したこともあり、牽引力はED30形の3,060kg<ref group="出典" name="rw69-182_183" />に対して2,450kg<ref group="出典" name="RP461ー140">[[#rp461-135_140|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.140]]</ref>と大きく見劣りした。}}


また、[[集電装置]]もポールからZ型パンタグラフを経て通常の菱枠型パンタグラフに交換<ref>急曲線通過対策の必要から偏倚を考慮して屋根上の一端、ひさしぎりぎりの位置にパンタ台を設置し、パンタグラフが機器室上に突き出すように搭載されている。なお、この位置はZ型パンタグラフへの交換時以来のもので、Z型パンタグラフを取り付けた場合に、集電用のスライダーシューが台車心皿直上に位置するように定められたものであった。なお、Z型パンタグラフへの交換直後には、トロリーポール1基を中央部に残して使用されていた。</ref>、車体についても運転中に窓を開けてポール操作を行う必要が無くなったことから、4枚窓構成で開閉可能であった妻窓を2枚ずつまとめてHゴム支持方式の固定窓に改造、これにより運転中の前面からの雪や雨の浸入を防ぎ、さらに降雪時の視界確保のため旋回窓を追加している。
また、[[集電装置]]もポールからZ型パンタグラフを経て<ref group="出典" name="RP701ー88" />、北鉄式と称する<ref group="出典" name="RP701ー90" />通常の菱枠型パンタグラフに交換<ref group="出典" name="RP701ー88" />{{refnest|group="注釈"|急曲線通過対策の必要から偏倚を考慮して屋根上の一端、ひさしぎりぎりの位置にパンタ台を設置し、パンタグラフが機器室上に突き出すように搭載されている<ref group="出典" name="RP701ー88" />。なお、この位置はZ型パンタグラフへの交換時以来のもので、Z型パンタグラフを取り付けた場合に、集電用のスライダーシューが台車心皿直上に位置するように定められたものであった。なお、Z型パンタグラフへの交換直後には、トロリーポール1基を中央部に残して使用されていた。}}、車体についても運転中に窓を開けてポール操作を行う必要が無くなったことから、4枚窓構成で開閉可能であった妻窓を2枚ずつまとめてHゴム支持方式の固定窓に改造<ref group="出典" name="RP701ー88" />、これにより運転中の前面からの雪や雨の浸入を防ぎ、さらに降雪時の視界確保のため旋回窓を追加している。


[[1976年]]4月の貨物営業廃止までは貨物列車牽引の主力としてED301や[[温泉電軌デワ18形電車|ED311]]と共に重用された<ref>ただし、本形式は通常、小運転や構内入れ替え用を主体に運用された。なお、[[大日川ダム (石川県)|大日川ダム]]および大日川第1・第2発電所建設建設工事完了後間もない1968年3月の石川総線では、これら3両の他にEB12形2両、ED23形1両と合計3両の入替用小型電気機関車が在籍し沿線の主要駅に配置されており、ダム工事以外でも同線の貨物需要が旺盛なものであったことを示している。</ref>が、以後は貨車牽引運用が無くなったため、除雪車として前後に大型スノープロウを装着したまま<ref>以前より降雪期には大型スノープロウを装着して除雪用に使用されていた</ref>年中待機状態に置かれることとなった。
[[1976年]](昭和51年)4月の貨物営業廃止<ref group="出典" name="RP461ー138">[[#rp461-135_140|『鉄道ピクトリアル』第461号 p.138]]</ref>までは貨物列車牽引の主力としてED301や[[温泉電軌デワ18形電車|ED311]]と共に重用された{{refnest|group="注釈"|ただし、本形式は通常、小運転や構内入れ替え用を主体に運用されたとされる<ref group="出典" name="rw69-86">[[#rw69-59_105|『世界の鉄道'69』 p.86]]</ref>。なお、[[大日川ダム (石川県)|大日川ダム]]および大日川第1・第2発電所建設建設工事完了後間もない1968年(昭和43年)3月の石川総線では、これら3両の他にEB12形2両、ED23形1両と合計3両の入替用小型電気機関車が在籍<ref group="出典" name="rw69-182_183" />沿線の主要駅に配置されており、ダム工事以外でも同線の貨物需要が旺盛なものであったことを示している。}}が、以後は貨車牽引運用が無くなったため、除雪車として前後に大型スノープロウを装着したまま{{refnest|group="注釈"|以前より降雪期には大型スノープロウを装着して除雪用に使用されていた<ref group="出典" name="RP701ー133">[[#rp701-132_135|『鉄道ピクトリアル』第701号 p.133]]</ref>。}}年中待機状態に置かれることとなった<ref group="出典" name="RP701ー88" />


[[1986年]]には両端の自動連結器を撤去して運転台からスノープロウの高さを調節する機構を搭載、[[1990年]]には前照灯をシールドビームに交換、併せて除雪作業中の視認性向上を図って尾灯を妻面窓上部に移設する工事も実施されている。
[[1986年]](昭和61年)には台枠両端の自動連結器を撤去して運転台からスノープロウの高さを調節する機構を搭載<ref group="出典" name="RP701ー88" />、[[1990年]]には前照灯をシールドビームに交換<ref group="出典" name="RP701ー88" />、併せて除雪作業中の視認性向上を図って尾灯を妻面窓上部に移設する工事も実施されている<ref group="出典" name="RP701ー88" />


石川線では降雪時の除雪用として、本形式の他により強力なED301も長く在籍していた<ref>2010年廃車。</ref>が、能美線および金名線の廃止で路線長が短縮された後は、運転台を移動せずとも前後進可能な本形式が除雪用として使用されている。
石川線では降雪時の除雪用として、本形式の他により強力なED301も機器更新を受けつつ長く在籍していた<ref group="出典" name="RP701ー89" />が、能美線および金名線の廃止で路線長が短縮された後は、本形式1両で事足りるようにったため、本形式が除雪用として用されている<ref group="出典" name="RP701ー88_89">[[#rp701-81_90|『鉄道ピクトリアル』第701号 pp.88-89]]</ref>


ED301が[[2010年]](平成22年)に除籍されて若桜鉄道隼駅へ保存のため輸送された<ref group="出典" name="RP845ー96">[[#rp845-96_97|『鉄道ピクトリアル』第845号 p.96]]</ref>後は、北陸鉄道唯一の電気機関車となっている。
== 主要諸元==
*全長:11,136mm
*全幅:2,540mm
*全高:3,950mm
*運転整備重量:29.3t
*電気方式:直流600V(架空電車線方式)
*軸配置:B-B
*台車形式:KS-30L
*主電動機:WH-558-J6形(74.6kW)×4基
**歯車比:1:3.45
**1時間定格出力:298.4kW
*動力伝達方式:歯車1段減速、[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式]]
*制御方式:抵抗制御、2段組み合わせ制御
*制御装置:HL-846D改形電磁空気単位スイッチ式
*ブレーキ方式:AMM自動空気ブレーキ、手ブレーキ


== 注 ==
== 注 ==
{{Reflist|group="注釈"}}

== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
書籍
*『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年
* {{Cite book|和書|author = 日本車輛製造|authorlink = |coauthors = |year = 1929|title = 日本車輛製品案内 昭和4年(電気機関車)|publisher = 日本車輛製造|ref = catalog-s4|id = |isbn = }}
*『世界の鉄道'74』、朝日新聞社、1973年
* {{Cite book|和書|author = 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会|authorlink = |coauthors = |year = 1996|title = 日車の車輌史 図面集-戦前私鉄編 下|publisher = 鉄道史資料保存会|ref = NS-BW2|id = |isbn = 978-4885400971}}
*西敏夫「Brill台車とその特色」『鉄道史料 第28号』、鉄道史資料保存会、1982年 pp.17-24
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== 関連項目 ==
* [[富岩鉄道ロコ1形電気機関車]]


雑誌
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* {{Cite journal|和書|author=構成:服部朗宏 監修:澤内一晃|title=私鉄の現有凸型電気機関車|journal=鉄道ピクトリアル2012年2月号|volume=859|year=2012|month=2|pages=38 - 43|publisher=電気車研究会|ref = rp859-38_43}}
* {{Cite journal|和書|author=吉雄永春|title=ファンの目で見た台車の話 IX 私鉄編 ボギー台車 その1|journal=レイル|volume=31|year=1996|month=1|pages=42 - 52|publisher=[[エリエイ]]出版部プレス・アイゼンバーン|ref = rail31-42_52}}
* {{Cite journal|和書|author=吉雄永春|title=ファンの目で見た台車の話 X 私鉄編 ボギー台車 その2|journal=レイル|volume=34|year=1996|month=10|pages=65 - 72|publisher=[[エリエイ]]出版部プレス・アイゼンバーン|ref = rail34-65_72}}


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2013年3月29日 (金) 21:28時点における版

金沢電気軌道ED1形電気機関車
北陸鉄道ED20形ED201、鶴来にて
基本情報
製造所 木南車輌製造
主要諸元
軸配置 Bo - Bo
軌間 1,067(狭軌
電気方式 直流600V架空電車線方式
自重 29.3t
全長 11,136
全幅 2,540
全高 3,950
台車 住友金属工業KS30L
主電動機 直流直巻電動機 ウェスティングハウス・エレクトリックWH-558J
主電動機出力 74.6kW
搭載数 4
端子電圧 600V
駆動方式 1段歯車減速吊り掛け式
歯車比 3.45
定格引張力 2,450kg
制御装置 抵抗制御直並列2段組合せ制御
電磁空気単位スイッチ式 HL-846D改
制動装置 M自動空気ブレーキ
備考 諸元は1962年の改造後のもの
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金沢電気軌道ED1形電気機関車(かなざわでんききどうED1がたでんききかんしゃ)は金沢電気軌道(後の北陸鉄道金沢市内線の経営母体)が保有した電気機関車の1形式である。

概要

側窓が多く比較的大型の乗務員室を備える、20t級凸型電気機関車である。

石川県下の鉄軌道の戦時統合により北陸鉄道ED20形となった後、車体延長や台車、主電動機、それに制御器の交換などを経て実質30t級となり、冬期の石川線で使用する除雪用機関車として現存する。

前後に背の低い機器室(ボンネット)を置き、中央に側窓の多い乗務員室を備える、戦前の南海鉄道に多数在籍した独特な形状の凸型電気機関車の様式を今に伝える、いわゆる南海型機関車の1例[出典 1]として希少な存在であり、また木南車輌製造製電気機関車として唯一の現存例[出典 2]でもある[注釈 1]

製造経緯

元々城下町金沢の市内電気軌道建設を目的として創設され、配電事業も併せて行っていた[出典 8]金沢電気軌道は、市内線の第1期線を開業して間もない頃から、その事業規模の拡大に乗り出すようになった。

同社はまず1920年(大正9年)8月1日に自社線と接続する西金沢(後の白菊町) - 野町 - 野々市間を開業していた金野鉄道を合併[出典 9]、続いて1923年(大正12年)5月1日に旧金野鉄道線区間と野町で接続する石川鉄道(新野々市(後の新西金沢) - 鶴来間を開業)を合併[出典 9]し、これらを合わせて石川線とした[出典 9]。さらに1929年(昭和4年)6月17日には、不況で運転資金がショートした金名鉄道から同社線の一部(鶴来 - 神社前(後の加賀一の宮)間。この時点では非電化)を譲受し、その手中に収めた[出典 8]

こうした相次ぐ合併や路線の譲受、そして1929年9月14日の旧金名鉄道線区間の電化完成[出典 8]などにより、金沢電気軌道は市内線と野町で接続し、鶴来町の中心地に位置した鶴来を経て神社前に至る、つまり金沢市内と旧加賀国一宮である白山比咩神社を直結する典型的な参宮路線を形成するに至った。

だが、後の北陸鉄道時代に石川総線と総称されることとなるこの路線には、石川線自体の貨物需要に加え、神社前で接続する金名鉄道線沿線から全国へ送り出させる木材[出典 10]をはじめとする産品を輸送する産業鉄道としての性格や、金名鉄道沿線を流れる手取水系の電源開発のための資材輸送鉄道[出典 10]としての性格も備わっており、旺盛な貨物需要が存在していた。

そこで石川線向けとして金沢電気軌道によって堺市の木南車輌製造に電気機関車1両が発注された。

この機関車は1938年(昭和13年)3月24日認可[出典 1]ED1形ED1として完成し、金沢電気軌道が所有した唯一の電気機関車[出典 11]となった[注釈 2]

その後、この車両は配電事業者でもあった金沢電気軌道が1941年8月1日に北陸合同電気に吸収合併された際に同社籍となった[出典 8]後、国策による配電事業者の統合と配電事業者の兼業禁止で旧金沢電気軌道の鉄軌道部門が独立して初代北陸鉄道となった[出典 8]ことで同社籍に移行した。

さらに、石川県下の私鉄各社の戦時統合で1943年10月13日に2代目北陸鉄道が発足し、1949年(昭和29年)10月1日の一斉改番[出典 1]の際に自重が20t級[出典 1]のD型機であったことに由来するED20形ED201に改称された[出典 2]

つまり、この間の車籍の変遷は以下の通りとなる。

金沢電気軌道ED1形ED1(1938年3月24日~1941年7月31日)→北陸合同電気ED1形ED1(1941年8月1日~1942年1月26日)→北陸鉄道(初代)ED1形ED1(1942年1月27日~1943年10月12日)→北陸鉄道(2代)ED1形ED1(1943年10月13日~1949年9月30日)→北陸鉄道ED20形ED201(1949年10月1日~)

車体

南海鉄道電機第1号形 1001
南海鉄道における一連の凸型電気機関車の基本形態を確立した形式。本形式の車体はこの形式の影響下で設計された。
(車体完成時のメーカーカタログ写真)

端梁に自動連結器を備える長さ9.4m[出典 12]の台枠中央に半鋼製の運転室を置き、その前後にリベット組立の機器室を置く凸型車体で、窓配置は3d(d:乗務員扉)である。新造時には妻窓を横引き式で開閉可能な4枚構成[出典 13]としている。

運転台は車体中央に制御器を置き、乗務員は横向きに座って操作を行う構造[出典 1]であり、側窓は下降式となっていて開閉可能である。

前照灯は機器室中央の点検用ハッチの前に台座を組んで灯具が固定されており[注釈 3]、尾灯は台枠端梁に灯具を取り付けて使用する。

後述するように直接制御式の抵抗制御車として製造された本形式の場合、電気車保守の上で重要な電動機は台車内、制御器は運転室内の設置となり、また抵抗器は放熱の必要もあって床下に装架されるため、竣工当初の各機器室には空気圧縮機と空気溜を設置するのみで、非常にコンパクトにまとめられている[注釈 4]

この車体は製造当時南海鉄道が保有していた同級電気機関車、特に当時最新のEF5形5121・5122[注釈 5]などの車体を、南海沿線の新興車両メーカーであった木南車輌製造がスケッチして製作したもの[注釈 6]の一つである。南海鉄道では1916年(大正5年)に大阪高野鉄道が自社工場で製造した電2形に範を採って1922年(大正11年)に日本車輌製造本店で製造した電機第1号形1001 - 1004[出典 18][注釈 7]を皮切りに、沿線の梅鉢鉄工場藤永田造船所、木南車輌製造、それに自社天下茶屋工場で貨物列車牽引用として凸型電気機関車を多数製造[出典 19]、吸収合併した大阪高野鉄道からの編入車(電2形1 - 5→電機第4号形1016 - 1020[出典 20])を含め、本形式製造の時点で25両を運用していた[出典 16]

本形式については、同時期に同じ木南車輌製造で製作された姉妹車である富岩鉄道ロコ1形や渥美電気鉄道ED1と共に、同様の構成の車体を備えて1939年(昭和14年)2月に竣工した南海鉄道EF1形5123・5124[注釈 8]が製造された際に発生した、旧EF1形5071・5072のいずれかの台枠が流用され、これに5121・5122と同様式で製造した車体を載せた可能性[出典 3]が存在する。

主要機器

制御器

ゼネラル・エレクトリック(GE)社製K-38直接制御器を搭載する[出典 22]。GE K-38は大阪高野鉄道電2形に採用され[出典 14]大阪市電気局など各社局で大量に採用実績のある、初期の路面電車用直接制御器を代表するベストセラーの一つである。

もっとも、許容電流量の問題から、これは特に100馬力以上の定格出力の電動機を4基装架する電気機関車で使用するにはやや荷が重かったらしく[出典 16][注釈 9]、南海鉄道でこれを搭載した電気機関車では故障が頻発したといい[出典 16][注釈 10]、本形式の竣工当時、電5形電車の制御器を電空カム軸式のPC-14Aへ換装した際[出典 24]に発生したウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製HL151-D-2制御器[出典 23]を2両分(2組)運転台に搭載して並列で総括制御動作させるように自社で改造した[注釈 11]、HL-N電磁単位スイッチ式手動加速制御器への換装[出典 16][注釈 12]で徐々に淘汰が進みつつあった。

主電動機

本形式製作当時の南海鉄道で余剰を来していたものを流用したと考えられる、WH社製WH-101-H[注釈 13]を各台車2基ずつ吊り掛け式で装架している。歯数比は69:15である[出典 26]。この電動機は元々南海鉄道が電化時に新造した電第壱號形1 - 24[注釈 14]電第弐號形101 - 112[注釈 15]などに装着されていたもので、本形式が製造された時期の南海鉄道では、より強力な電動機への新製交換と併せて、老朽化等で処分する車両にこれより強力な電動機が付いていた場合に今後も継続使用する車両に装架されているWH-101-Hとこれを交換する、譲渡車に装着の電動機をこれと振り替えて送り出す、あるいは単純にWH-101-H搭載車を電装解除して制御車化する、といった手法で社内的な淘汰が順次進められていた[出典 29][注釈 16]。そのため木南車輌製造が本形式と前後して製作した同系凸型電気機関車は、全て入手の容易なこの電動機を装架して出荷され[出典 3]、同様に南海鉄道で廃車手続き後、木南車輌製造で鋼体化改造を施した上で1934年(昭和9年)に大阪窯業セメントへ譲渡した電機第4号形1020[注釈 17]についても、大阪高野鉄道電2形時代以来のGE社製GE-218-B(端子電圧600V時一時間定格出力52.0kW[出典 32])からこのWH-101-Hへ主電動機を振り替えた後で送り出されている[出典 31][出典 33]

台車

竣工時には、軸距1,372mmの軸ばね台車であるJ.G.ブリル社製[注釈 18]Brill 27GE1を動揺防止を目的として改造[出典 35]したものが装着されている。

具体的には、本来の27GE1では線路方向に沿って置かれた重ね板ばねによる枕ばねを、前後端に接続された釣り合いばねによって懸架していたが、これを後継の27Eと同様、新製した鍛造品の梁を線路方向に沿って置き、これを釣り合いばねで懸架した上で、これら左右の梁を下揺れ枕と結合してH字状に組み立てたものの上に、まくら木方向に重ね板ばね(楕円ばね)を配することで車体の左右方向の揺動特性の改善を図っている[出典 3]。つまりこの改造は実質的には27GE1の27E化[出典 36]と言えるが、鍛造側枠そのものは無改造のため、短軸距かつ主電動機を外掛けという路面電車向け台車並の構造・基本寸法には変化はない[出典 37]

このBrill 27GE1は南海鉄道電1形と大阪高野鉄道電第1形[出典 38]、それに大阪髙野鉄道電2形[出典 39]に装着された台車であり、改造後も長く南海線で使用されていた[出典 3]が、本形式製造当時には装着車の鋼体化などに伴う相次ぐ大型化と重量増に対応しきれなかった。そのため、上述のWH-101-H電動機と同様、南海鉄道では電気機関車を含めて[出典 21]代替用台車の新造と複雑な振り替えを経て、順次淘汰・他社への放出が始まっていたもの[出典 40]であった。

ブレーキ

M三動弁によるAMM自動空気ブレーキ(Mブレーキ)を搭載する[出典 41]

集電装置

新造時の石川総線の規格に従い、竣工の時点ではトロリーポール[出典 22]が前後各1基で合計2基、屋根上に設置されている。

運用

竣工後、北陸合同電気時代の1941年(昭和16年)11月28日に発生した[出典 42]温泉電軌山代車庫の全焼に伴う車両不足に対する応援として、約2年にわたって同社に貸し出されて使用された[出典 11]1943年(昭和18年)に実施された石川県下に所在する私鉄各社の北陸鉄道への統合後、1949年(昭和24年)10月1日付で実施された一斉改番の際にはED20形ED201へ改番され[出典 22]、その後は他線区へ転出することも無く、専ら石川総線に配置され続けている。

その間、1953年(昭和28年)に非力であった主電動機を他形式の主電動機交換で発生した三菱電機MB-64C[注釈 19]へ換装、さらに1962年[出典 22][注釈 20]に自社工場において台枠を中央で切断し部材を挿入することで全長を1.7m延長[出典 22]、これにより前後の機器室を拡大[注釈 21]、制御器を直接式のGE K-38からWH社製単位スイッチ式手動加速制御器であるHL-846Dを改造したものに交換[出典 22]し、台車と主電動機についてもモハ852の廃車発生品である住友金属工業KS30L鋳鋼製釣合梁式台車[出典 22][注釈 22]と、それに装架されていたとされるWH社製WH-558-J6[注釈 23]に交換された。この車体延伸改造は、前述の通り同系車を多数擁した本家である南海鉄道→南海電気鉄道でも同種の改造が実施されていたものである。また後述の妻窓の改造も南海で先行して同様に実施されていたことから、この改造メニューは南海での事例に倣って実施された可能性が高い。この改造により、自重は23.5t[出典 12]から29.3tに増加[出典 41]し、ワンランク上のED301に迫る粘着力が確保されるようになっている[注釈 24]

また、集電装置もポールからZ型パンタグラフを経て[出典 22]、北鉄式と称する[出典 41]通常の菱枠型パンタグラフに交換[出典 22][注釈 25]、車体についても運転中に窓を開けてポール操作を行う必要が無くなったことから、4枚窓構成で開閉可能であった妻窓を2枚ずつまとめてHゴム支持方式の固定窓に改造[出典 22]、これにより運転中の前面からの雪や雨の浸入を防ぎ、さらに降雪時の視界確保のため旋回窓を追加している。

1976年(昭和51年)4月の貨物営業廃止[出典 48]までは貨物列車牽引の主力としてED301やED311と共に重用された[注釈 26]が、以後は貨車牽引運用が無くなったため、除雪車として前後に大型スノープロウを装着したまま[注釈 27]年中待機状態に置かれることとなった[出典 22]

1986年(昭和61年)には台枠両端梁の自動連結器を撤去して運転台からスノープロウの高さを調節する機構を搭載[出典 22]1990年には前照灯をシールドビームに交換[出典 22]、併せて除雪作業中の視認性向上を図って尾灯を妻面窓上部に移設する工事も実施されている[出典 22]

石川線では降雪時の除雪用として、本形式の他により強力なED301も機器更新を受けつつ長く在籍していた[出典 2]が、能美線および金名線の廃止で路線長が短縮された後は、本形式1両で事足りるようになったため、本形式が除雪用として常用されている[出典 51]

ED301が2010年(平成22年)に除籍されて若桜鉄道隼駅へ保存のため輸送された[出典 52]後は、北陸鉄道唯一の電気機関車となっている。

注釈

  1. ^ 木南車輌製造による同系車は大阪窯業セメント富岩鉄道、それに渥美電気鉄道へ納入されている[出典 3]が、南海鉄道→南海電気鉄道向けに製造されたものを含め、いずれも既に廃車されている。なお、本形式の他に渥美電気鉄道ED1→名古屋鉄道デキ151→豊橋鉄道デキ151[出典 4]→デキ201[出典 5]1984年2月の渥美線貨物輸送廃止で廃車された[出典 6]後、伊良湖フラワーパークに保存された[出典 6]2005年の同パーク閉園後にこれも解体されたため、現存例は本形式が最後となっている。なお、南海型としては戦後に製造された南海最後の電気機関車であるED5201形ED5202(東芝製)がED30 1として三岐鉄道に在籍する[出典 7]が、これは戦前のものとは印象を大きく異にする。
  2. ^ 竣工図では能美電気鉄道デキ1として記載されているものが存在するが、これは誤記であったとされる[出典 1]
  3. ^ これは大阪高野鉄道電2形以来南海鉄道で標準となっていた配置を踏襲したものであった[出典 14]
  4. ^ この機器レイアウトも大阪高野鉄道電2形以来のもので、南海鉄道では間接制御式に変更した後継形式でもこのレイアウトを踏襲し続けた[出典 15]
  5. ^ 1936年(昭和11年)11月竣工[出典 16]
  6. ^ 木南車輌製造はその後、1943年(昭和18年)5月にEF5形5127 - 5129として再度これらの完全なコピー品を製造している[出典 17]
  7. ^ 後のEF1形5101 - 5104→ED5101形5101 - 5104[出典 16]
  8. ^ 元大阪高野鉄道電2形3・4→南海鉄道電機第4号形1018・1019→EF4形1018・1019→EF1形5071・5072の車籍を継承して自社天下茶屋工場で製造された、事実上の完全新造車 [出典 21]。5071・5072と5123・5124の台車や主電動機、制御器などの機器構成や車体寸法の相違から、5123・5124の製作に当たっては5071・5072の部品は何一つ使用されなかった可能性が指摘[出典 3]されている。
  9. ^ なお、新造時の本形式に装着されたWH-101-Hを直接式制御器で4基制御する構成としていた南海鉄道電1形は、大容量のWH社製WH-403-Dを制御器として搭載している[出典 23]
  10. ^ 本形式でも後述するように、後年になってより出力の大きな電動機へ換装が実施された際に、制御器も併せて交換されている[出典 22]
  11. ^ この改造そのものは、1936年のEF4形5117 - 5119[出典 16]での施工以来、必要に応じて実施されていたものである。
  12. ^ 南海では主電動機を強化し両抱き式ブレーキを備える大きな台車を装着するため、9m級の台枠を中央で分割、部材を挿入して11m級に延長する工事を自社天下茶屋工場で実施している[出典 25]
  13. ^ 端子電圧500V時1時間定格出力37.3kW[出典 26]
  14. ^ 電1形とも。後のモハ1形モハ1 - モハ10・電附第弐號形(電付2形)205 - 207→クハユニ505形クハユニ505 - クハユニ507・電附第参號形(電付3形)208-210→クハユニ505形クハユニ508 - クハユニ510・電附四號形(電付4形)221-226→クハ716形クハ716 - クハ721など[出典 27]
  15. ^ 電2形とも。後の電附第八號形(電付8形)704 - 715→クハ704形クハ704 - クハ715[出典 28]
  16. ^ 本形式に装架されたものは、時期的にモハ501形501 - 512の電装解除などによる発生品であったと考えられる[出典 30]
  17. ^ 大阪窯業セメント→大阪セメント三重工場1。元大阪髙野鉄道電弐形5。[出典 31]
  18. ^ 大阪高野鉄道2・4・5からの流用の場合は、J.G.ブリル社純正品ではなくそれをデッドコピーした梅鉢鉄工場製となる[出典 34]が、いずれであったかは判明していない。
  19. ^ 端子電圧600V時1時間定格出力48.5kW/685rpm。歯数比は3.55で、定格引張力は2,360kg、定格速度30.5km/hであった[出典 12]
  20. ^ 1960年(昭和35年)6月30日認可で改造が実施されたとする文献も存在する[出典 1]が、後述するモハ852の台車交換による本形式への台車供出が1962年(昭和37年)に実施されていることから、少なくとも台車交換は同年に実施された可能性が高い。
  21. ^ 機器室は元々あった部分を両端に置き、運転室との間に延長用部材を挿入する形で延長されている。当該挿入部分はケーシングが溶接組み立て構造となっているため、外観でもリベット組み立ての既存部分との判別が容易である。またこの改造の際には、抵抗器を鶴来側ボンネットに搭載し[出典 1]これを冷却する必要が生じたことから、延伸部付近の側面に鎧戸状の換気口が設置されている。
  22. ^ 伊那電気鉄道でKS-30Lを装着していたのはデハ110形とデハ120形の2形式で、モハ852は伊那電気鉄道デハ110に由来する。同車は元来芝浦SE-102を主電動機として装架していて、1962年に台車振り替えを実施している[出典 43]
  23. ^ 端子電圧600V時1時間定格出力74.6kW/985rpm[出典 44]。歯数比は3.45[出典 41]。なお、モハ852をデハ110形デハ110として新造した伊那電気鉄道[出典 43]ではこのWH-558-J6はデハ110形ではなく、増備形式であるデハ200形デハ201 - デハ204が装架していたとされ[出典 45]、この電動機がどのような経緯で北陸鉄道へ譲渡されたのかは明らかになっていない。
  24. ^ もっとも主電動機定格出力はカルダン駆動へ改造される以前のED301と同格の74.6kW級となったが、本来は急行電車用の高速モーター(WH-558-J6は南海鉄道で急行用の電7形に搭載された[出典 23]、設計当時の吊り掛け駆動を行う電車用直流直巻整流子電動機としては異例の高回転仕様[出典 46]のモデルである)を歯数比を落とさないまま流用したこともあり、牽引力はED30形の3,060kg[出典 12]に対して2,450kg[出典 47]と大きく見劣りした。
  25. ^ 急曲線通過対策の必要から偏倚を考慮して屋根上の一端、ひさしぎりぎりの位置にパンタ台を設置し、パンタグラフが機器室上に突き出すように搭載されている[出典 22]。なお、この位置はZ型パンタグラフへの交換時以来のもので、Z型パンタグラフを取り付けた場合に、集電用のスライダーシューが台車心皿直上に位置するように定められたものであった。なお、Z型パンタグラフへの交換直後には、トロリーポール1基を中央部に残して使用されていた。
  26. ^ ただし、本形式は通常、小運転や構内入れ替え用を主体に運用されたとされる[出典 49]。なお、大日川ダムおよび大日川第1・第2発電所建設建設工事完了後間もない1968年(昭和43年)3月の石川総線では、これら3両の他にEB12形2両、ED23形1両と合計3両の入替用小型電気機関車が在籍[出典 12]して沿線の主要駅に配置されており、ダム工事以外でも同線の貨物需要が旺盛なものであったことを示している。
  27. ^ 以前より降雪期には大型スノープロウを装着して除雪用に使用されていた[出典 50]

出典

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  14. ^ a b 『鉄道史料』第49号 p.33
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  19. ^ 『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.147-149
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  21. ^ a b 『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』 pp.149-150 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "NANKAI2-149_150"が異なる内容で複数回定義されています
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『鉄道ピクトリアル』第701号 p.88
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  27. ^ 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.87-88・95-96・104-108
  28. ^ 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.88-89・99・107-108・122-125
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  30. ^ 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 pp.130-131
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参考文献

書籍

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  • 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車輌史 図面集-戦前私鉄編 下』鉄道史資料保存会、1996年。ISBN 978-4885400971 
  • 日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車輌史 写真集-創業から昭和20年代まで』鉄道史資料保存会、1996年。ISBN 978-4885400988 
  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』関西鉄道研究会、1996年。 
  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ6 南海電気鉄道 下巻』関西鉄道研究会、1998年。 

雑誌

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  • 「特集・日本のローカル私鉄 北陸鉄道」『世界の鉄道'74』、朝日新聞社、1973年10月、72 - 77頁。 
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  • 斎藤彰久「「南海型電機」とそのルーツを考える」『鉄道ピクトリアル2011年12月臨時増刊号』、電気車研究会、2011年12月、131 - 137頁。 
  • 澤内一晃「凸型電気機関車の系譜」『鉄道ピクトリアル2012年2月号』第859巻、電気車研究会、2012年2月、10 - 32頁。 
  • 構成:服部朗宏 監修:澤内一晃「私鉄の現有凸型電気機関車」『鉄道ピクトリアル2012年2月号』第859巻、電気車研究会、2012年2月、38 - 43頁。 
  • 吉雄永春「ファンの目で見た台車の話 IX 私鉄編 ボギー台車 その1」『レイル』第31巻、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1996年1月、42 - 52頁。 
  • 吉雄永春「ファンの目で見た台車の話 X 私鉄編 ボギー台車 その2」『レイル』第34巻、エリエイ出版部プレス・アイゼンバーン、1996年10月、65 - 72頁。