津軽信英

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津軽 信英
Tsugaru Nobuhusa.jpg
時代 江戸時代
生誕 元和6年10月5日1620年10月30日
死没 寛文2年9月22日1662年11月2日
改名 万吉(幼名)、信英
別名 信逸・信秀(別名)、十郎左衛門(通称)
戒名 直指院殿一鑑了無大居士(弘前長勝寺)
常光院殿素月円心大居士(上野津梁院)
墓所 黒石神社
氏族 津軽氏
父母 父:津軽信枚、母:満天姫(別説あり)
兄弟 津軽信義津軽信英津軽信隆佐田信光津軽為盛大道寺為久
乾安俊津軽為節
山口直堅山口直友子)の娘
信敏信純

津軽 信英(つがる のぶふさ)は、江戸時代旗本陸奥黒石領5,000石の初代当主。陸奥弘前藩2代藩主・信枚の次男。母は徳川家康の養女満天姫(実父は家康の異父弟、松平康元)。

ただし生母は別の女性で、なかなか子に恵まれなかった満天姫が手元に引き取って育てた、という説もある。[1]江戸神田の津軽藩藩邸にて生まれた。兄に弘前藩3代藩主・信義(生母は石田三成の娘、辰姫)がいる。

青年期から黒石支藩成立まで[編集]

家康の孫[編集]

寛永8年(1631年)、13歳の信英は兄と同時に将軍・徳川家光に拝謁。寛永19年(1642年)、23歳。幕府小姓組として出仕、旗本となる。この際に兄・信義から1,000石を与えられた。外様大名出身の津軽信英が小姓組や後述の書院番などにたやすくなれたのは、やはり「神君家康公の義理の孫」という部分が大きかったのであろうと推測される。正保2年(1645年)には幕府より蔵米300俵を支給され、西の丸書院番に任じられた。また駿府出張を命じられるなど、幕府旗本として着実に経歴を重ねていった。

津軽家の相続問題[編集]

正保4年(1647年)、"じょっぱり殿様"などと言われて、領内でも評判の悪かった当主・信義(石田三成の孫)と前年に生まれた信義の子(のちの信政)に対し、一門(主に信義の異母弟ら)や家臣ら多数による信英(徳川血統)擁立の動きが起こる(「正保の変」)。これに信英自身や周辺の直接間接の関与があったかは定かではないが、藩内に多数の処罰者を出したが、信英には一切の咎はなかった(もはや幕府旗本でもあるので手が出せない、という事情もあった)。

明暦元年(1655年)、津軽本家の兄・信義が死去すると、その子信政はしかし当年13歳であり、藩主若輩を理由に幕府は弘前藩襲封に条件をつけた。

  • 信政は当面、信英の補佐を受けること
  • 信英に対し、5,000石を分知すべし

こうして翌年2月に信政の相続が許されると、信英に津軽黒石周辺で2,000石、平内周辺に1,000石、津軽家の上州飛び地領2千石、合計5,000石が与えられ、交代寄合格の大身旗本となる。(この際、元の1,000石は津軽本家へ、蔵米300俵は幕府へそれぞれ返納)当年36歳。信英の母親が家康の養女(つまりは神君の義理の孫)であるのに対し、本家は石田三成の家系であることが、この信英への厚待遇に全く関係していない、とは言い切れない。

ともあれ、これがのちの津軽黒石藩の基となる。

弘前藩後見人として、黒石の領主として[編集]

黒石分家の成立[編集]

明暦2年(1656年)春、津軽に入った藩政後見人・信英は津軽藩政を見る傍ら、本藩の重臣(実弟・津軽(百助)信隆ら)らと自領5,000石の用地選定を行う。当初信英は、黒石ではない別の領地を望んだとも伝えられている(港がある青森や、津軽氏の祖の地・大浦城周辺[2])。

黒石藩は信英から数えて8代目に加増されて1万石を超えて以降、正式な格式として大名になったのは確かである。表向きはそうであれ黒石藩領は、信英の時代に既に“実高”で1万石を超えていたとも言われている。

黒石の内政[編集]

黒石に入ったのちは、家臣団を雇用するのと同時に、黒石にもとあった集落を改編し、黒石陣屋(黒石城)を再構築した。町並みにこみせ(小見世)と呼ばれるアーケードを作り(弘前に倣ったとも伝えられる)、店舗の外面に規制を布いたり、業種別の町割り、商人を呼び込むなど、街造りや殖産振興に努めた。

交代寄合旗本として[編集]

国入りしたその秋には再度江戸へ上り、将軍家に熊皮などを献上、また慌しく弘前・黒石へ戻っている。「交代寄合格の幕府旗本」「弘前藩の後見人」「黒石領主」の三役を慌しくこなしていたらしい。この後も頻繁に、幼い本家藩主が居住しており(幼年ゆえに国入りは未だ一度もしていない)かつ幕府政庁のある江戸と、本家弘前・自領黒石を往復している。

弘前藩後見人として[編集]

寛文元年(1661年6月3日、弘前藩は日記をつけ始める。信英の発案によるといわれ、以降幕末まで毎日欠かさず記録されたこの『弘前藩庁日記』は、現代においては大変貴重な資料となっている。

明暦3年(1657年)には弘前藩の頭役以上に「津軽家家訓」を配布した。さらに寛文元年(1661年)には諸家臣・領民に対し「諸法度」を制定した。これは領民の自治(五人組)のことや、学問・武芸・質素倹約の奨励、訴訟の手続き、さらには親孝行な子供の顕彰など、いわゆる法律というより生活規範とマニュアルが一緒になったような、極めて「道徳的」「儒教的」内容であった。

大役を終えて[編集]

同じ寛文元年には藩主信政は16歳になり、初めて国許入りした。二人の師に当たる、山鹿素行を1万石(弘前藩は合計4万数千石)で家臣として招こうとしたのは、この国許入りの際である。翌寛文2年(1662年)2月、国許に帰り、黒石自領を巡察した信英は病に倒れた。弘前城へ移され治療を受けたが、快方へは向かわず、9月22日死去。享年43。

葬儀は儒教式で執り行われ、僧侶は入れなかったと伝えられている。遺骸は陣屋の一角に霊屋を建てて祀られた。現在の黒石神社である。

人物[編集]

「彼をぜひとも藩の後継に」とお家騒動が起こる。つまりそれほどの人物である。信英自身の人物、および知識・学識は幕府や諸大名間でも評判であったらしい。兵学と儒学を山鹿素行に師事し(寛文元年(1661年)、津軽藩に1万石で登用しようとするが実現せず。素行の子息二人(津軽政実など)が登用されている)、また若い藩主・信政とその兄弟にも学ばせた。武術は刀の一刀流の他、槍、弓、馬術をかなり修練していた。文学やその他諸芸にも通じていたと伝わる。兄の"じょっぱり殿様"がなにかと暴れた原因には、出来過ぎる弟へのコンプレックスもあったと伝えられている(しかし兄は信英を信頼していたらしい)。

その後[編集]

  • 明治12年(1879年)、元陣屋内の信英霊廟を移し黒石神社として祀られた。
  • 2005年、信英の黒石知行350周年を祝い、黒石神社で記念行事が催された。

脚注[編集]

  1. ^ 黒石津軽氏の『法号寄』には信英の母は実名不詳・法号法蓮院といい江戸で信英を産んだとある。
  2. ^ 青森港は津軽藩の収益に影響があり、後者は先祖の地であるため、それぞれ津軽藩閣僚の反対により不採用となった、とされる。

参考文献[編集]