大道寺為久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
大道寺為久
時代 江戸時代前期
生誕 寛永2年(1625年
死没 延宝2年2月23日1674年3月30日
別名 宇左衛門、次郎市、隼人
墓所 弘前市耕春山宗徳寺
氏族 津軽氏大道寺氏
父母 父:津軽信枚、養父:大道寺直英
兄弟 信義信英信隆佐田信光為盛、男子、為久、男子、為節乾安俊
富(乳井建定室)、子々(杉山吉成室)、
松(富岡武兵衛室)、古故(森岡信安室)
養兄弟:直秀
大道寺直秀娘・喜久
繁清 

大道寺 為久(だいどうじ ためひさ)は、江戸時代前期の武士陸奥国弘前藩2代藩主・津軽信枚の七男(または十一男)。

生涯[編集]

重臣・大道寺直英の養子・直秀が急死したため、寛永17年(1640年)11月に直秀の娘の喜久を娶り、直英の婿養子となる。同時に弘前藩家老となり、家督1000石を継いだ。のち1300石。

正保4年(1647年)、藩主・津軽信義の排斥事件(正保の騒動)に関わり、長兄・信義を排除し次兄・信英を擁立しようとした咎で、家禄没収の上で大俵村に蟄居させられた。万治3年(1660年)、許されて大道寺氏に復姓。城番となり、寛文10年(1670年)には城代となる。

延宝2年(1674年)、城内の宴会で中毒死した。

嫡男・繁清が家禄と家老職を継いだ。

参考文献[編集]

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
  • 「青森県史」第1巻