武内伸

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たけうち しん

武内 伸
生誕 (1960-04-30) 1960年4月30日
福岡県鞍手郡
死没 (2008-07-13) 2008年7月13日(48歳没)
神奈川県相模原市
死因 肝硬変
国籍 日本の旗 日本
出身校 日本大学理工学部
雇用者 新横浜ラーメン博物館
団体 日本ラーメン協会
影響を受けたもの 大門八郎
影響を与えたもの 佐野実北島秀一
肩書き 新横浜ラーメン博物館 広報担当
日本ラーメン協会会長
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武内 伸(たけうち しん、1960年4月30日 - 2008年7月13日)は、日本ラーメン評論家

神奈川県横浜市フードテーマパーク新横浜ラーメン博物館(以下、ラー博と略)の元広報担当、日本ラーメン協会の元副理事長。福岡県鞍手郡(現:宮若市)出身。「ラーメン王」のニックネームを持ち[1]、ラーメンの道を究めるために日本全国で6000食以上ものラーメンを食べ歩いたことで知られる[2]。「ラーメンは鶏ガラ、豚ガラ、(店主の)人柄の3ガラ」の名言を残す[3]

経歴[編集]

学生時代からアマチュア活動時代まで[編集]

4歳まで福岡で過ごした後、親の仕事の都合で東京都へ転居した[1][4]高度経済成長期の東京で、子供にとってラーメンがご馳走といえる環境に育った[4]。小学校へ上がる前からラーメンが大好きで、東京での学生時代には近所のラーメン屋の食べ歩きを楽しんでいた[1]

当初は九州生まれだけあって九州ラーメンを信奉していたが[1]麻布高校2年の時に山本嘉次郎のグルメ本をもとに、東京で名を馳せていた春木屋(東京都杉並区荻窪)のラーメンを食べたところ、東京ラーメンの未知の味に衝撃を受けて、「今後10年で千件のラーメン屋を食べ比べ、その成果を本にして、印税でラーメンの城を発てる[4]」と、ラーメンを極めることを決意し、食べ歩いたラーメンの感想や評価などの記録を始めた[5]

この時期に武内が持ち歩いていたのが、文筆家の大門八郎の著書『ラーメンの本』(1975年)である[6]。これは日本初のラーメンガイドブックとされ[7]、武内自身もこのような本を書くことを夢見るなど、大きな影響を受けていた[8]

高校在学中にすでに3日に一度はラーメン[4]、年間100軒のペースでラーメンを食べ歩くようになっており[8]、1か月の小遣いの内の約6500円をラーメンのために費やしていた[9]。やがて友人たちとラーメン研究の同好会「大日本ラーメン嗜好会」を結成した[8]。その仲間内でも、毎日でもラーメンを食べに行くのは武内のみだったというが[9]、1981年3月には第1回合宿と称して飛騨高山を3泊4日で回り、皆で1日4食から5食のラーメンを食べていた[8]

高校を卒業後はラーメン屋の開業を志したものの、母親の反対に遭い、日本大学理工学部へ進学した[6]。図書館で「ラーメン構造」という本に題名だけで惹かれ、建築用語でのラーメンに関するものだったことがきっかけで、大学では建築学を専攻した[6]。大学3年のときに青春18きっぷを使って東北・北海道を巡る食べ歩きの旅に挑み、6泊の旅で18食[10]、特に札幌では1泊のみで9食のラーメンを食べた[9]

大学を卒業し、ラーメンとは無関係の建設会社に就職した[4][11]。社長もラーメン好きであったことから気が合い、全国の支社を回る仕事を与えられ、出張してはその地のラーメンを食べる生活を続けていた[4]。しかし仕事が多忙な上に結婚もし、この時期は次第にラーメンからは遠ざかりつつあった[4]

ラーメン王選手権[編集]

その後、テレビ東京系列の『TVチャンピオン』で開催されている「ラーメン王選手権」の存在を知り、自ら応募。予選問題で全問正解して番組スタッフを驚かせ[4]1992年に「ラーメン王選手権」の第2代ラーメン王の座に輝いた[9][12]

この選手権で、自分のラーメンへの想いが人並みでないことを初めて自覚すると共に[9]、「戦友」と呼べる出場者たちとの出会いを通じて、一度は弱まっていたラーメンへの情熱が甦ることとなった[12]。折しも当時は「ラーメン80周年」と呼ばれる次期であった[12]。さらに日本で最初のラーメン店開業当初のことを知る人物たちが死去し始めていたこともあって、この選手権の出場者たちとの交流を通じて、ラーメンの歴史を記録する必要性に駆られるようになった[12]

1995年の第3回選手権では石神秀幸に敗れて準優勝の座に甘んじるが、このときの悔しさが、逆に「ラーメンで生きていきたい」「ラーメンに人生を賭けたい」という気持ちを強める結果となったという[12][13]。また、この番組出演の影響により、マスコミからの取材が増え、周囲の環境の大きな変化のきっかけとなった[14]

その後は同人誌などで、独自のラーメン評論を開始した。マスコミからもコメントや執筆などを依頼されるようになり、ラーメン評論の草分け的な存在となった[15][16]

新横浜ラーメン博物館での活動[編集]

1995年3月、横浜市にラー博がオープンすると、これに衝撃を受けた武内は一念発起し、同年12月にそれまでの勤務先を退職してラー博に入社した[14]。すでにラーメンの博識さでラー博に知られていることに加えて、前職で広報を担当していたことが幸いし、広報担当の社員として採用された[17]。ラー博では広報担当として各種メディアへの出演に加え、ラーメン業界の発展振興のために全国を食べ歩いた[15][18]。1996年には、1か月に50食、多いときには月に58食のラーメンを食べる生活を送っていた[9]

この1996年頃に、医師である従兄から「肝臓が弱っている」と指摘され、ラーメンを咎められていた[9]。1998年頃にも肝臓を患ったことで、日々の食事がほとんどラーメンであることを医師に咎められると、「私はラーメン評論家でして」と答えて医師を呆れさせ、その後もラーメンを食べ続けた[3]。「ラーメンばかり食べていると栄養が偏る」と指摘されたときには「だから栄養が偏らないよう、色々な店でラーメンを食べ歩いている」と屁理屈を返し、相手を閉口させていたという[13]。これ以降、肝臓の病が持病となった[3]

当時の武内にとって、ラーメンは主食同然であり、年間に500食から600食のラーメンを食べる生活を送っていた[19]。1998年には店の誘致のために日本各地を回り、和歌山県徳島県への出張で10日間で40食、九州出張時は2週間で70食を食べた[18]

武内伸の2002年4月第2週のスケジュール
「🍜」の日時にラーメン店を訪れている
10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
8日(月) 🍜 🍜 🍜 🍜
9日(火) 🍜 🍜 🍜 🍜
10日(水) 🍜 🍜 🍜
11日(木) 🍜 🍜 🍜 🍜
12日(金) 🍜 🍜

1999年には、訪れたラーメン屋は北海道から沖縄まで及び[20]、やがて日本国内を越えてタイ中国にまで足を伸ばすようにもなった[21]。この1999年には蕁麻疹や円形脱毛症が生じ、医師から注意を受けたこともあって食べ歩きの数を減らしたものの、それでも1年に約400食のラーメンを食べていた[22]

武内自身が「最も凄かった」と語る時期は1999年9月の出張時であり、このときは新潟と北海道各地を回り、20日間で93食を食べた[18][22]。これは単純計算で、1日平均4.5食以上のラーメンを食べていた計算になり、移動時間も加味すれば非常に厳しいスケジュールだが、武内はそれでも「ラーメンが食べられる」と喜んでいた[18]

ラー博での活動内容の一例として、2002年4月第2週には、月曜から金曜までの5日間のみで、仕事とプライベート双方で17店を食べ歩き、土曜はラー博で内勤、その間にも新聞のテレビ欄で「ラーメン」と表記のあるテレビ番組をすべて録画しており、日曜の休日にそれらの録画をチェックする、といった生活であった[11]。「死ぬまでに1万食は達成したい」とも語っていた[11]

独立後 - 急逝[編集]

2003年2月、ラー博を退職して独立し[2][23]神奈川県相模原市有限会社ラーメン総合研究所を設立。ラーメン関連のテレビ番組制作、漫画原作、携帯情報サイト「超らーめんナビ」のガイド役など、幅広い活動をこなした[15]

2007年10月、ラーメン産業の振興・発展を目的とする日本ラーメン協会の準備委員会の設立とともに、その会長に就任。それまでに培ったラーメン関連の各団体との繋がりを生かし、日本ラーメン協会設立に尽力した。翌2008年3月の協会設立後は、その副理事長に選任された[15]

この頃にはすでに肝機能障害で入退院を繰り返しており[3]、2008年春にさらに腰痛を併発したことで、第一線の活動を自粛した[15]。入院先の病院には親族のみならず、ラーメン協会理事でラーメン評論家の大崎裕史ら、武内同様にラーメンを愛する多くの同志たちが駆けつけた[24]。その後、体調の好転に合わせて徐々に仕事を再開し始めたものの、同2008年7月13日に肝硬変のため、入院先の神奈川県相模原市内の病院で、満48歳で死去した[15]

葬儀では、日本全国のラーメン屋の店主が参列した[24]。通夜では、生前に親交のあったラーメン店「支那そばや」創業者の佐野実がラーメンを作って供えた[24]。通夜会場の外ではテントの仮設の厨房が作られ、ラーメン店主らが参列者に炊き出しのラーメンを配った[23]。告別式でも30人以上の店主が麺を棺に入れ、棺は花でなく麺で敷きつめられた[23][24]。佐野は「こんな葬儀ができるのは世界で1人だけ」と、武内の偉業を称えた[24]

評価[編集]

武内伸の記録(通算)
時期 食べたラーメンの数 訪れた店の数
1996年[9] 3000 2000
1998年[3] 4000
1999年[20] 4073 2375
2000年[1] 4700 2700
2002年[11] 5316
2003年[25] 5700
2006年[2] 6000

アマチュア時代に「ラーメン王選手権」で優勝した頃には、折しも当時は同番組がきっかけでラーメンブームが起き、雑誌やテレビでラーメンが取り上げられることが増え、若者を中心としてラーメンの食べ歩きが流行したことで、武内はその先駆者として注目を集める存在となっていた[4]。従来の多くのグルメライターや研究家は評論家として活動していたのに対し、食べる側としての武内の評価は、斬新な手法として好評を博していた[15][16]

ラーメンに対する知識と情熱は、ラー博の社内でも群を抜いていた。入社時に、学生時代から収集していたラーメン関連の書籍と食べ歩きのメモを社内に持ち込むと、壁一面が資料で埋め尽くされたという逸話がある[11]。ラー博の統括責任者(当時)である小川剛は、武内のラーメンに関する記憶力や圧倒的な情熱を「ラーメンに関しては天才的な男」と評価する一方で、精算方法や領収書の書き方などには疎かったことから、「良くも悪くもラーメンのことしかできない男」とも呼んでいた[11]

大崎裕史は、ラーメンを食べた数なら自身の方が上だが、大崎はインターネットなどの環境が整った頃からラーメン評論をしていたことから、そうした環境のない時代から食べ歩きを続け、その歴史を克明に記録し続けていた武内を指して「武内さんにはかないません。まさに稀代の『ラーメンバカ』だったのです」と語った[24]。佐野実は、武内の死を悼み「ラーメン業界の国宝のような人[3]」「武ちゃんみたいな人間はもう現れない[26]」「今のラーメンブームを作ったのは武ちゃん[26]」と評した。

武内を師と仰ぐラーメン評論家の北島秀一は、ラーメン業界が盛んになった後は、テレビ、雑誌、インターネットといったメディアででラーメンの情報の大部分を入手可能となった一方で、武内はそうした情報が一切ない状態で食べ歩きを始めていたことから、武内を「ラーメン評論家の草分け」とし、佐野と同じく「ラーメン世界があるのは武内さんのおかげ」と語っていた[27]

武内の死因がラーメンの食べすぎと関連付けられることもあるが[28]、北島秀一はそれを否定し、「酒の飲み過ぎで肝臓をぶっ壊して死んだくせに、『ラーメンの食べ過ぎで亡くなった』とデマを残してくれたのが少しだけ迷惑」と語っていた[29](6年後に北島は胆管癌で亡くなった)。武内の母も、武内の死因を酒の飲みすぎと語っており、「ラーメンをたくさん食べたけれど、それ以上に酒を飲んでいた。医者からも『ラーメンか酒かは断言できない』と言われた」と、武内の体調とラーメンの関連を否定していた[26]

著作[編集]

  • 『超凄いラーメン TVチャンピオン』潮出版社、1996年10月。ISBN 978-4-267-01407-9 
  • 『何回もいきたくなるラーメン店100 私が4000杯を食べたわけ』講談社、1999年3月。ISBN 978-4-06-209590-7 
  • 『ラーメン王国の歩き方 読まずに食えるか』光文社〈知恵の森文庫〉、1999年12月。ISBN 978-4-334-72934-9 
  • 『佐野実&武内伸ラーメン見聞録 ラーメン界の最強タッグが魂で選ぶ感動の245店』日本文芸社〈にちぶんMOOK〉、2005年1月。ISBN 978-4-537-11331-0 佐野実との共著)

関連書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 26–27
  2. ^ a b c ラーメン総合研究所 武内 伸さん ラーメン東へ西へ”. 力の源通信 (2006年1月). 2023年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e f あの“ラーメン王”武内伸さん急死…48歳、肝硬変”. ZAKZAK. 産業経済新聞社 (2008年7月15日). 2014年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 武田 1999, pp. 174–175
  5. ^ とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 28–29
  6. ^ a b c 石塚 2000, pp. 102–103
  7. ^ 原達郎「ラーメン人模様 ガイド本でスポットライト」『読売新聞読売新聞社、2005年9月22日、西部夕刊、5面。
  8. ^ a b c d とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 30–31
  9. ^ a b c d e f g h プレイボーイ 1996, pp. 134–135
  10. ^ とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 32–33
  11. ^ a b c d e f 箱田 2002, pp. 148–149
  12. ^ a b c d e とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 36–37
  13. ^ a b 武内 1996, pp. 183–186
  14. ^ a b とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 38–39
  15. ^ a b c d e f g 日本ラーメン協会 武内伸副理事長逝去のお知らせ』(プレスリリース)日本ラーメン協会、2008年7月14日https://www.value-press.com/pressrelease/270282024年5月13日閲覧 
  16. ^ a b 佐野他 2005, p. 3
  17. ^ 安藤篤人「私の人生 こう変わった! 250回迎える人気番組 テレ東・「TVチャンピオン」アマからプロに転身した人たち ラーメン博物館の広報担当職員に 魚通は熱帯魚店長にキャリアアップ」『中日新聞中日新聞社、1997年4月10日、朝刊、15面。
  18. ^ a b c d とことんラーメン倶楽部 2000, pp. 40–41
  19. ^ 武内 1999a, p. 1
  20. ^ a b 「ラーメン博物館の武内さんが100店選んで本出版 食べ方や見方紹介」『読売新聞読売新聞社、1999年3月10日、東京朝刊、32面。
  21. ^ 武内 1999b, p. 4
  22. ^ a b 杉山 2000, p. 135
  23. ^ a b c 香月均史 (2008年8月). “ラーメン今昔物語 〜ラーメン王逝く〜”. 大砲ラーメン. 大砲. 2024年5月13日閲覧。
  24. ^ a b c d e f アサヒ芸能 2008, pp. 34–35
  25. ^ 野村雅俊「武内伸さん ラーメン王が研究所を設立」『朝日新聞朝日新聞社、2003年8月19日、東京夕刊、2面。
  26. ^ a b c アサヒ芸能 2008, p. 36
  27. ^ 「ニュース・ファイル 鶏ガラ、豚ガラ、人柄。誰よりも"一杯"を愛したラーメン王・武内伸さんが急死」『プレイボーイ』第43巻第29号、集英社、2008年8月4日、192頁、大宅壮一文庫所蔵:200068983 
  28. ^ 「ラーメン食べ過ぎると早死に」は本当なのか? 阿藤快さん死去でネット再浮上のラーメン好き「物故者」”. J-CASTニュース. ジェイ・キャスト. p. 1 (2015年11月19日). 2021年8月21日閲覧。
  29. ^ 人気ラーメン評論家、北島秀一さんの「遺言」「僕の病気とラーメンはまったく関係無い」”. J-CASTニュース. p. 1 (2014年9月3日). 2021年8月21日閲覧。

参考文献[編集]

  • 石塚隆「みんな17歳だった 武内伸(『TVチャンピオン』第2回ラーメン・チャンピオン)好きなことは突き抜けるまでやれ!」『プレイボーイ』第35巻第38号、集英社、2000年10月17日、102-103頁、大宅壮一文庫所蔵:200068605 
  • 杉山大樹「トーキングエクスプロージョン エッジな人々 130回 武内伸 ラーメンのために死にたい! 20年間で4500食を食べつくした元祖ラーメンカリスマ。」『SPA!』第49巻第7号、扶桑社、2000年2月16日、132-135頁、大宅壮一文庫所蔵:100053177 
  • 武田徹「ザ・キーマン 現代を仕掛ける影の主役たち 2回 武内伸 ラーメンブーム」『日経トレンディ』第156号、日経BP、1999年9月、174-177頁、大宅壮一文庫所蔵:200053327 
  • 箱田高樹「キレ者ビジネスマンの週間日誌(株)新横浜ラーメン博物館・武内伸さん(42)建設会社社員からラーメンプロデューサーへの道」『ビッグ・トゥモロウ』第23巻第1号、青春出版社、2002年7月1日、148-149頁、大宅壮一文庫所蔵:200147145 
  • 「元祖読々健脳堂本舗 ラーメンを食べ続ける執念の男 食べたラーメンが3000杯! この人の胃袋どうなってるの」『プレイボーイ』第31巻第41号、1996年11月5日、134-135頁、大宅壮一文庫所蔵:200068415 
  • 「ラーメン王肝硬変死に見る武内伸氏「麺バカ人生」の壮絶! 1日3食ラーメン漬け生活30年」『アサヒ芸能』第63巻第30号、徳間書店、2008年8月7日、34-36頁、大宅壮一文庫所蔵:000009310